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第一話 宵闇~祇園祭の夜に恋して乱れて~

 私は窓に填った障子戸をほんの少し開け、通りをゆく賑やかな行列をぼんやりと見送っていた。
 チントンシャン、チントンシャン。本来なら心が浮き立つはずの祭囃子の音やかしましい人声にかえって心が沈み込んでゆくのは何故だろう。ふと顔を上げると、紺碧の空には銀砂子を播いたよう星々が燦めき、銀の皿のような大きな月が迫って見える。
 そう、今すぐに手を伸ばせば届きそうなほど近くに。
 けれど、あの男はけして手に入れることはできないひとだ。それは判っていた。この恋が始まった瞬間から、あの男は私のものになることはないと。それは何も私が現代という、この時代から百五十年近くも未来から来たから、ただそれだけが理由ではない。あの男と私の恋を隔てるもの、障害であれば何とでも並べ立てることはできる。
 例えば「生きる時代が違う」、「身分違い」。私が太夫という島原遊郭では最高の地位にある遊女だとしても、その身分の壁は越えられない。確かに建前上、太夫は将軍や帝にも拝謁できる。けれど、それはあくまでも身をひさぐ遊女であるからこそだ。
 私が島原を出て、ただの娘に戻れば、天下人たる公方様にお会いすることなど所詮、夢のまた夢だ。
 だからこそ、私は太夫になった。ただ一人の、たった一人の私のあの男に誰でも邪魔されずに堂々と逢うために、廓では最高位とされる花魁にまで上り詰めたのだ。
 彼と出会った時、私はまだ、彼が何者であるかを知らなかった。だが、心のどこかで、この男はけして私の手に入るひとではないと女の勘のようなものが告げていた。
 彼が実は「将軍後見職」という高い身分を持ち、幕府のために奔走していること、まだ若い将軍の後ろ盾となりつつ、彼自身も次期将軍と見なされていること、それを知ってから、私は彼にふさわしい女になるために修練を積み「太夫」になることを目指したのだ。
 コトリ、と、背後で音がして、私は現実に引き戻された。視線の先に、彼がひっそりと佇んでいる。行灯の光が紅色を基調とする、いかにも女郎屋らしい艶めかしい部屋のしつらえを照らし出す。
 彼は真っすぐに私に向かって歩いてくる。まるで、この世に私しかいない、彼の目には私しか映じてはいないかのように、ひたむきな瞳で私だけを見つめて。
「ゆう」
 彼が私の名を呼ぶ。深い、深い声。彼の声は京の町を包み込む夏の夜よりも深く、この廓に満ちた、どこか淫靡な雰囲気よりも官能的で艶がある。この声が耳朶を掠めただけで、私は身体が熱くなる。
 彼が手を伸ばし、私は引き寄せられるままに彼の逞しい胸に身体を預ける。私の鼓動がいつになく速くなっているのと同様に、私の耳を通して伝わってくる彼の心ノ臓の音も速かった。


「町に出てみないか?」
 彼のいざないにも、私はゆるりと首を振った。
「祭りを見るより、あなたといたい」
 彼の胸板になおも頬を押し当てている格好の私は自然、くぐもる声になってしまう。クスリと彼の含み笑う声が落ちてきた。
「ゆうは男心を蕩かすすべを心得ているようだな」
 私は彼から身体を離し、つと視線を彼に向けた。
「それは私が女郎だから? 廓で生きる女だから、男の心を掴む手練手管には長けていると?」
「まさか」
 彼が小さく笑い、どこか遠いまなざしを窓に向けた。
 チントンシャン、チントンシャン。
 祭囃子が遠ざかってゆく。彼は窓辺にゆき、私が細く開けたままの窓から祇園祭りで賑わう町並みを眺めるともなしに眺めた。
「ゆうが綺麗な身体だということは、お前の旦那である俺がいちばんよく知っている」
 そう、「花魁」とその世話をする「旦那」の関係になった夜も、彼は私を抱かなかった。あの夜、初めての体験に震える私を彼はそっと抱き上げ、幾重にも重なった豪奢な紅の褥に堕ろしたのだけれど―、そこまでだった。
 彼は戦慄く私に優しく微笑み、私は朝まで彼の腕に抱かれて眠っただけだった。
―つまり有り体にいえば、私たちはまだ本当に意味で初夜を迎えてはいない。
 あの「初夜」のことは、むろん私と彼だけの秘密だ。旦那と過ごす初めての夜は廓では水揚げとも呼ばれる。新造であり客を一度も取ったことのない私が一人前の「女」として目覚める儀式のようなものだ。
 私を抱える置屋の主人である藍屋秋成さんも私がまだ生娘だとは知らない。いや、勘の鋭い秋成さんのことだから、もしかしたら薄々感づいているのかもしれないけれど、少なくとも表立って知っているふりはしない。
 あの「初夜」のことを思い出して思わず頬を染めた私を、彼はあの夜と同じ優しい瞳で見つめる。
「良いね、ゆうのその無垢なところ、花ならばまだ誰にも手折られていない真白な百合というころか」
 いつしか彼が再び間近に来ていて、私は愕いて顔を上げた。まるで、しなやかな獣が物音一つ立てず獲物を捕らえにきた―そんな気がした。もっとも、彼が私に害をなすはずがない。私が無心に彼を見上げると、彼の美麗な面に苦笑がのぼった。
「そういう汚れのない眼で見つめられるとだな、俺は男として困ってしまう。お前をこのままいっそ手折らないでいた方が、見守っていた方が良いのかと」
 だが、と、彼がスと手を伸ばした。その大きな手のひらが私の頬をつうっと撫で、紅を刷いた唇で止まる。
「俺も男だ、美しく咲き誇る花を手折りたいという欲望は人並みにある。ましてや、その花がひとめで惚れた女であればなおのこと」



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