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一、二つのタイムカプセル

 ロゴスとパトス、存在の合理性と非合理性の関係について思索しつづけ、最終的には治安維持法違反の嫌疑で拘留され、戦争終結後の昭和二〇年九月二六日、豊多摩拘置所にて四八歳の若さで獄死するに至った哲学者がいた。『人生論ノート』や『構想力の論理』などの著作で有名な京都学派の一人、三木清である。彼の「幼き者の為に」の冒頭は次のように始まる。

「洋子よ、お前にはまだこの文章が読めないだらう。併しやがて、お前はきつとこれを読んでくれるに違ひない。その時のために父は今この文章を書いておかうと思ふ。/母がなくなつたのは、お前の七歳の時だ。幼くして母と別れるといふことがどんなに不幸なことであるかは、私の想像に余ることだ。私の母、つまりお前の見たことのないお前の父方の祖母が亡くなつたのは大正十五年六月三十日であつて、私の三十歳の時であつた」(「幼き者の為に」)

 三木の小文「幼き者の為に」は、昭和一一年八月に亡くなった貴美子夫人の一周忌の記念として編まれた私家版の文集『影なき影』(昭和一二・七)に収められた。一般に公開されたのは、戦後、『婦人公論』(昭和二一・四)誌上においてのことだ。

 これは亡き妻のための一種の追悼文である。ただし、冒頭部から既に推察されるように、それは単に故人への追慕をしたためたというよりも、夫人との間に生まれた一人娘の洋子に自身の個人史や夫婦生活を伝えるための私信の体裁で書かれている。

 幼くして母を失った我が子に対して手紙を送るという状況性、〈~よ〉という呼びかけ表現、またタイトルの類似から、このテクストは、大正七(一九一八)年一月、『新潮』に発表された有島武郎の短篇小説『小さき者へ』を容易に想起させる。『小さき者へ』は、妻――モデルは有島の妻である安子、大正五年に逝去、享年二七歳――が結核で死に、三人の遺児を抱えた父が、やはり自身の家庭生活を振り返り、その思い出を「お前たちにあてゝ書く」という二人称を用いて綴っていく書簡体のテクストであり、しばしば有島の代表作として紹介される名短篇だ。

 『小さき者へ』の末尾は「行け。勇んで。小さき者よ」と締めくくられる。三人称に比べ、対象との距離の近さを感じさせる「お前たち」という二人称の度重なる使用は、〈~よ〉という呼びかけ表現と呼応して、テクスト全体に独特な調子を与える。本多秋五が的確に述べるように「この作品全体は、最後にこの結びの句がきて不自然でないような調子で書かれている」(註一)。そして、その独特な「調子」に通底するものは、三木の「幼き者の為に」にも見出せる。

 たとえば、『小さき者へ』の冒頭部では、「お前たちが大きくなつて、一人前の人間に育ち上つた時〔中略〕父の書き残したものを繰拡げて見る機会があるだらうと思ふ」と、表現(書くこと)と受容(読まれること)の間にラグがあることに自覚的な書き手が登場する。書かれたものはすぐに読まれ反応されるのではない、ということが前提となったテクストが『小さき者へ』である。内田満はこの特徴を「タイムカプセル」と形容した(註二)。そして、それは「お前にはまだこの文章が読めないだらう」ことが前提となって執筆される「幼き者の為に」の態度と同一のものである。二つのカプセルが埋められている。

 或いは、『小さき者へ』の第二段落では、ある雑誌社の原稿として「私の母」という題で感想文を寄せたという挿話がある。「私」(父=夫=書き手)にとって「自分の幸福は母が始めから一人で今も生きてゐる事だ」ったが、その感想はすぐさま「去年一人の、たつた一人のマヽを永久に失つてしまつた」我が子への憐憫へと転化し、「私はその点で幸福だつた。お前たちは不幸だ」という不平等な〈幸/不幸〉の分断を帰結させる。このような〈自分の母/子供の母〉という比較の観点は、当然、三〇のときに母を亡くした自分と比べ、より早くにそのときをむかえた娘に「不幸」を見出す「幼き者の為に」の第二段落に踏襲されている。これもまた『小さき者へ』の書き手の態度と同じものだ。


二、有島武郎と三木清

 

 以上のような比較の試みは決して牽強付会ではない。勿論、大正期に活躍した白樺派の小説家と昭和期に非業の最期を遂げた京都学派の仕事との明示的かつ実証的な関連性を指摘することは困難である。実際、それを証拠づけるかのように、有島と三木というテーマの先行研究は存在しない。

 しかし、そもそも、学生時代の三木清には、友人の谷川徹三に感化されて、「その頃彼〔谷川〕は有島武郎はじめ白樺派に傾倒してをり、私も多少感染されてゐた」時期があったことは注目していい(「我が青春」、初出不詳)。それだけではない。「有島武郎氏がホイットマンを頻りに言はれてゐたのもその頃で、有島氏はその時分京都の同志社大学にときどき来て講義をされてゐた。谷川等に誘はれて有島氏の宿を訪ねたこともある。私も一時は有島氏の熱心な読者であつた」(「読書遍歴」、『文芸』、昭和一六・六~一二)と三木は有島との直接の交流を回想している。

 三木のいう「その頃」とは、具体的には大正七年一〇月から大正一一年一〇月までの四年間と推定される。内田満によれば、かつての教え子で同志社の神学部に所属していた大島豊の尽力によって、大正七年四月、有島は同志社大学英文科講師を委嘱された(註三)。そして、春秋の四週の間に一週二回の講演をすることが決まり、一〇月二一日から同志社、京大、三高などの学生らの前で講師をつとめた。有島は本業ではない講演に意欲的ではなかったものの、「同志社でする定期講演を非常に愉快に思つてゐます」と、とりわけてその地での仕事に好感を示している(「講演に対する私の希望」、『中央公論』、大正九・一二)。大正八年からは講演の合間に、『白樺』で連載した『或る女のグリンプス』の改稿に本格的に着手し、仕事場として京都の安楽寺に六畳一間を借りて作業に集中することで、関西地方との縁をさらに深めた。

 三木のいう「同志社大学にときどき来て講義をされてゐた」とは、この在京都期間のことを指す。といっても、三木は大正一〇年四月から教育召集で軍隊生活を送り、一一年五月になると岩波茂雄の出資でドイツ留学に旅立ってしまうので、三木の主観に沿ってより絞っていうのなら、大正八年前後が主要な有島体験の時期になるだろう。三木は「ホイットマンを頻りに言はれてゐた」と書いているが、その言葉通り、大正一〇年には有島訳『ホヰットマン詩集』第一輯(叢文閣)が刊行されている。そもそも、杉淵洋一によれば、三木と有島の出会いの仲介役を演じた谷川徹三は、毎週月曜日の夜に有島の自宅でホイットマンの『草の葉』を読みつつ学生たちと議論しあう「草の葉会」の熱心な参加者だった(註四)。三木が有島宅を訪問したのは「草の葉会」で生まれた谷川の縁故に便乗してのことである。

 有島と三木との直接的な交流の記述を拾おうとすると、たとえば、大正八年、八木沢善次、谷川、三木らは有島とともに京都郊外の探索をしている(註五)。また、三木の「我が青春」によれば、卒論を準備していた大正九年の秋の「或る夜京都駅に有島武郎氏を見送つ」た、とある。便乗は一度ではなかった。

 有島の四〇代前半期。大正一二年六月、四五歳で女性記者と情死するのだから端的に晩年と言い換えてもいいかもしれないが、これに対して、青年三木は、京都帝国大学哲学科の単なる一学生にすぎなかった。基本的に三木の教養の中心はカントやハイデガーなどのドイツ哲学によって育まれ、日本人であれば師匠の西田幾多郎を始めとする日本哲学者に多くを負っている。故に、分野違いであるところの有島に三木が積極的に言及することはほとんどない。

 けれども、三木の処女作が、大正九年七月、『哲学研究』に発表された「個性の理解」だったことは看過できない。「個性」は、初期三木哲学の最重要の鍵語であり、卒業論文「批判哲学と歴史哲学」(大正九・九)でも、「歴史的因果律の問題」(大正一〇・四)でも、「個性の問題」(大正一一・一、以上すべて『哲学研究』に発表)でも、繰り返し論及される三木哲学の中核概念だ。そして、「個性」とは、いうまでもなく有島武郎『惜みなく愛は奪ふ』(大正九・六)の中心的なテーマでもあった。内田満の研究を再び参考にすれば、大正九年五月の同志社講演で有島は書きかけだった『惜みなく愛は奪ふ』の朗読をしている(註六)。その講演、或いは私的な雑談などで、三木が『惜みなく愛は奪ふ』の要旨を聞いていた可能性は検討に値する。

 たとえば、「個性の理解」の具体的なフレーズ、「愛とは創造であり、創造とは対象に於て自己を見出すこと」、「人は何物かを愛して自己を純粋な創造的活動の中に見失ふとき、自己を独自の或物として即ち自己の個性を見出す」、「私は唯だ愛することによつて人の個性を理解する」などは、他を奪う激しい力であるところの愛や芸術的な創造性と共に「個性」概念を論じた『惜みなく愛は奪ふ』の主張を具体的に想起させるものだ。

 また三木は、「個性」の把握に「認識の形式としての時間から解放されて「純粋持続」に自由に身を委せ」る必要性を説いている。「純粋持続」とは、時計やカレンダーのように空間化されない、生命の内的な時間を指す哲学者ベルクソンのタームであるが、「ベルグソンのいふ純粋持続に於ける認識と体験は正しく私の個性が承認するところのもの」(第一二章)という文句からも明瞭なように、その影響力は先んじて『惜みなく愛は奪ふ』に浸透していたものだった。どちらも「個性」と「純粋持続」との間に深い結びつきを見出している。ちなみに、有島がベルクソンの主著『時間と自由』、『創造的進化』を受容する仔細については安川定男の研究が詳しい(註七)。

 勿論、自己が外界への配慮に終始することで二元の矛盾を抱え込んでしまう「知的生活」を批判するために、「個性」の呼び声にのみ従おうとする一元的生活(「本能的生活」)を称揚する有島の「個性」論と、ライプニッツのモナドロジーを摂取して、個性を「無限」へと通じる普遍性と相即する「宇宙の生ける窓」として理解しようとする三木の「個性」論とは、様々な点で相違がある。

 しかし、赤松常弘が、三木が「なぜ個性の問題を取り上げたのか、その直接の動機は分からない」とし、間接的なものとして自由な諸個人が紡ぐ「大正デモクラシーと大正教養主義」を挙げるとき(註八)、その具体的な固有名として有島武郎を考えることは十分に可能だろう。そして、「幼き者の為に」というテクストの存在は、時を隔てて、意識的か無意識的かは措いても、過去の有島の「熱心な読者」を文章表現のなかで復活させたといえるのではないか。

 


三、幸福のテクスト

 

 ここで注意したいのは、有島と三木の狭義の影響関係ではない。仮に三木が有島を完全に忘却していたとしても構わない。重要なのは、反復された書簡的テクストから翻って見える類似と差異であり、そこから導き出される今まで看過されてきた『小さき者へ』の重要な主題である。

 端的にいえば、それは幸福の問題である。「幼き者の為に」というテクストは、娘洋子の「幸」を中心的な問題意識として採用しているようにみえる。「どんなに不幸なことであるかは、私の想像に余ること」という不幸の断定から始まって、母が死んでからその話題を自ら禁じる子供らしからぬ気遣いに対して三木は「世間で謂ふ幸福といふものを最初から諦めてかかつて人生に対するといふ態度」を娘から読み取る。それは父母の――「父は世間のいはゆる幸福といふものを余り信じてゐない」、「母はこの世の不幸に対して心を乱さないでゐることができた」――遺伝のようにさえみえる。また、洋子が誕生したのは三木が治安維持法違反によって検束されたあいだのことであり、父不在の「お前の誕生の日を考へると、父はお前を出来るだけ幸福に育ててやる義務を強く感じさせる」と書かれる。幸福であるか否かという問題意識が、テクスト全体を統一している。貴美子の最期の言葉は「お母さんが来たら、私は幸福であつたと伝へてくれ」であった。

 幸不幸のテクストとしての「幼き者の為に」から、改めて『小さき者へ』を読み直してみると、やはりこのテクストもまた、主題としての「幸」を隠していたことに気づく。とりわけ、『小さき者へ』の場合、子供の不幸性に対する強調は執拗なほどである。「お前たちは不幸だ。恢復の途なく不幸だ。不幸なものたちよ」という絶望的な宣告から始まり、「お前たちは母上がその瞬間から永久にお前たちを離れてしまふとは思はなかつたらう。不幸なものたちよ」や「あゝ何がお前たちの頑是ない眼に涙を要求するのだ。不幸なものたちよ」と、母を亡くした子供はなんの留保もなしに不幸である、といわんばかりに、「不幸」の度重なる宣告が断続的に挿入される。

 だが、このような執拗な強調にも拘らず『小さき者へ』が興味深いのは、最後の最後でその「不幸」のまま同時に「幸福」も実現するという矛盾的結末に至る点にある。つまり、最終段落の一つ手前の文は次のように始まっている、「小さき者よ。不幸な而して同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ」。

 『小さき者へ』は最終的に「不幸な而して同時に幸福な」の状態に行き着く。強調されてきた不幸は決して解消されるわけではないが、それは「幸福」と共存可能な「不幸」であったことが最後で発覚する。『小さき者へ』において第一に解釈すべきは、「不幸な而して同時に幸福な」という一見謎めいた矛盾がテクスト内でどのような論理を辿って成立しているのか、ということだ。ここに『小さき者へ』を読む上での大きな難問がある。母を早くに亡くした子供が「不幸」なのは一般的に理解できる。しかし、そこに宿る「幸福」とはなんなのか。

 


四、ナビゲーション的機能と時の数的詳述

 

 小説のなかの「幸福」を読むには、全体を特徴づけているテクストの基本的な性格を理解しなければならない。一読して気づくのは、『小さき者へ』というテクストは、母の不在を埋めるように、先行して書き残された複数のテクストによって構成されたインターテクスチュアルな産物である、ということだ。『小さき者へ』は明示的に他の文章テクストの参照や引用を織り込むことで成立している。

 既に「私の母」という感想文――有島武郎に即していえばこれは『小さき者へ』の同年同月に『新家庭』で発表された「私の母」を彷彿とさせる――については言及した。それだけではない。「私は嘗て一つの創作の中に妻を犠牲にする決心をした一人の男の事を書いた」という記述は、熱心な有島読者ならば、自分の診断の正しさを証明するために妻の死骸を解剖する医者が主人公の短篇『実験室』(『中央公論』大正六・九)を想起するだろう。また、「若しこの書き物を読む時があつたら、同時に母上の遺書も読んで見るがいゝ」などという提案や、「子を思ふ親の心は日の光世より世を照る大きさに似て」という「遺書」の具体的引用は、やはりある程度有島を知る読者からすれば、安子の死後に有島が編集した『松むし』という非売品の刊行物への関心を掻き立てるものといえる――ちなみに、暗示的な引用でいえば、『小さき者へ』で一〇回ほど用いられる「淋」という文字は、佐々木さよが指摘するように『松むし』に頻出する言葉であった(註九)――。

 このように『小さき者へ』というテクストは、先行する他のテクストが集合してできた織物であることを決して隠さない。そればかりか、「読んで見るがいゝ」という言葉からも明らかなように、『小さき者へ』は、テクスト本文の読書によって他のテクストへの読書を誘発させるという点で、ナビゲーション的機能に特化したテクストであると考えることができる。『小さき者へ』は読書案内的な読書を可能にする。

 テクストからテクストへ。この性格は、「書き残したものを繰拡げて見る機会があるだらう」と、未来に読まれるという体裁の下で展開される『小さき者へ』にとって看過できないものだ。というのも、未来で紐解かれる「書き残したもの」は別の「書き残したもの」への参照を求めることで、テクストを介した過去の辿り直しの行為を読む者に要求するからだ。

 そもそも、『小さき者へ』というテクストは、「時はどんどん移つて行く」という言葉が端的に表すように、時間の経過性に対して極めて意識的に書かれたテクストだった。

 この小説で描かれる時間は、ほとんどの場合、測定可能な、つまりは進度を正確に確認できる数字によって表象されている。最初の子供の陣痛が始まったのは、「七年前」の「暁方の三時から」であり、実際に誕生したのは「産気がついてから十二時間目」だった。母親が結核で初めて入院するのが子供が「四つと三つと二つ」になる年の「十月末」で、彼女が死ぬのは子供が「六つと五つと四つになつた年の八月の二日」だ。「一年と七ヶ月」の闘病生活を送ったことになる。数字による時間の計算可能な詳述は、積み重なっていく時の経過を強調する。子供らの幼い頃として曖昧に一括するのではなく、「四つと三つと二つ」から「六つと五つと四つ」の間という具体的な時の歩みを『小さき者へ』は焦点化している。

 或いは、このテクストは中盤に「今十一時半だ」という書き手の現在時が時計で示される。そして、後半部では「今時計は夜中を過ぎて一時十五分を指してゐる」と、その針の運動が示される。書くという行為に、一時間四五分かかることを暗に告げるこのテクストは、ペンを手にとって机の上の紙に文字を書き綴っていくという書記行為の即興性を、針の運動を記すことを通じて演出することに成功している。

 同時代評のひとつ、『文章世界』(大正七・二)の匿名の「卓上余談」には、有島作品に時計が頻出する特徴と共に、『小さき者へ』のなかにも「夜中の一時十五分を指した時計が出て来る」という指摘がある――ちなみに、この評者は内田満によって鑓田研一であろうことが推定されている(註一〇)――。その鋭い観察眼を認めたうえで、なお注目すべきはその時計の針がテクストのなかで着実に進行している、という点だ。そして、そのリアルタイムの即興性によって表現されるのは、過去へと遡るためのテクストを書く行為そのもののにさえ、時の「どんどん移つて行く」性格、不断の更新性が浸透している、ということである。

 書いているうちに、いつのまにか、旧い一日が終わり新しい一日が始まっている。『小さき者へ』とは、日を跨いで執筆されたテクストであり、正しく、昨日と今日を繋ぎとめるための文学である。改めていえば、このような時の経過に意識的なテクストにとって、「書き残したもの」を介した過去の辿り直しの行為は、時の風化に抗う本質的な方法であるといえる。たしかに、「時はどんどん移つて行く」。けれども、来るべき未来に紐解かれるテクストは他のテクストへの参照を本文中に散りばめることで、体験していないことや忘れたことも含めた未知なる過去への旅に読む者を誘うだろう。

 


五、家族から社会へ

 

 比喩的にいえば「タイムカプセル」のなかには別のカプセルがあった。もう既に過ぎ去ってしまった出来事の数々は、さらなるテクストを通じてまだらに解き明かされ、そのつど、『小さき者へ』受容の観点の下で再文脈化されるだろう。「私」の解説を経たかたちで、過去のテクスト群が捉え返されるのだ。その予感される辿り直しの行為は、『小さき者へ』が「お前たち」に伝える大きなメッセージと不可分のものとしてある。つまり、「お前たちをどんなに深く愛したものがこの世にゐるか、或はゐたかといふ事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思ふのだ」という、既に寄せられていた(しばしば自覚的でない)家族「愛」の蓄積である。

 この家族にとって、文書化された資料は特に貴重だ。というのも、「結核」によって子供らと隔離された状態で治療に臨まなければならなかった妻=母の存在は、物理的に家族の分断を招くが、その場合、対面的(直接的)なコミュニケーションを通じて、家族が愛情を伝え合うことは極めて困難な営みとならざるをえないからだ。「知らない間に私たちは離れられないものになつてしまつてゐた」にも拘らず、病の伝染を恐れるあまり「お前たちを寝台に近づけないやうにしなければならなかつた」し、死の床にある「母上は血の涙を泣きながら死んでもお前たちに会はない決心を翻さなかつた」。それは「残酷な死の姿を見せて〔中略〕大きな傷を残す事を恐れた」からだったが、その空白期間は明らかに、子供らの家族「愛」への信頼を揺るがすに足るものだ。だからこそ、強制される物理的な距離に対して、蓄積されたテクストは相互の不在を埋め合わすかのように、家族の貴重な記録として捉え直される。そして、テクストを通じて家族の絆の遡行的な結び直しが期待される。

 ただし、この過去の辿り直し、絆の結び直しには、単に一家族の物語だけでなく、より大きな社会的問題につながる拡張の契機が含まれていた。ここに「幸福」が発生する所以がある。つまり、「愛」のテクストを通じて達成される、家族の記録の捉え直しの先には、U氏の挿話に代表される現在苦しんでいるかもしれない困窮した家族外の隣人に対する問題意識が待っているのだ。

 U氏一家とは「私たち」の貧しい隣家で、その家の妻は「私たち」の母と同じく「結核」にかかり逝去した。また「伝染」によって当のU氏も「無資産の老母と幼児とを後に残して」死んでしまった。宗教への信心によって病を克服しようとするほど追いつめられ、或いは、なけなしの金で注射を打つも田舎の医師の不注意から無駄骨に終わったU氏は、生活のために毎日吐血しながらも役所で勤勉に働いた。「結核」に対して適切な処置をした家族(「私たち」)とできなかった家族(U氏一家)がいる。入院という仕方で妻を隔離したことによって「私」は伝染を免れている。これは明らかに、格差や貧困といった社会問題の表出である。この状況に対し、父親は「お前たちは母上の死を思ひ出すと共に、U氏を思ひ出すことを忘れてはならない」と書く。なぜならば、「お前たちの母上の死はお前たちの愛をそこまで拡げさすに十分」であるからだ。

 さらに「私」は書く、「お前たちと私とは、血を味つた獣のやうに、愛を味つた。行かう、而して出来るだけ私たちの周囲を淋しさから救ふために働かう」。ここにおいて、極めて私的に展開されてきた家族の物語は一気に社会的な問題意識へと飛躍する。その隣家の存在感は、「お前たちのあるものはかすかながらU氏一家の模様を覚えてゐるだらう」という言葉から、おそらく年長の兄弟の記憶に、しかも朧げながらにしか実感されない程度のものとしてある。年少の兄弟にとってみれば、U氏など面識のないただの他人にすぎないだろう。けれども、文書として遺されたテクストは、母の愛や父の苦悩を伝えるのと同じように、「結核」に苦しめられたU氏一家のことも子供らの然るべきとき(文字を読めるようになったとき)に伝達することを可能にする。

 テクストを通じた「愛」の獲得は、自覚できなかった過去の復元だけでなく、最終的には困窮した他者の救済を命じる。私的な家族の物語から公的な社会の問題へと「結核」を介していつの間にか移行させるこの手続きに、『小さき者へ』という小説の最大の仕掛けがある。高橋栄夫はU氏の挿話を「家や人間内部の問題に向けられていた」「全体の流れの中でいささか趣を異にする」と評した(註一一)。その感想は物語を細かく腑分けしてみれば正しいが、流れそのものは決して不自然ではない。「結核」に苦しんだ家族という共通点により、滑らかに家族から社会の問題へと移行させるからだ。

 ここにきて、不幸と幸福が両立する条件が整う。『小さき者へ』は矛盾的結末を予感させる撞着語法を何度か用いている。たとえば、「この悲しみがお前たちと私とにどれ程の強みであるかをお前たちはまだ知るまい。私たちはこの損失のお蔭で生活に一段と深入りしたのだ」という文言。悲しみは強さに、損失は深入りに等しい。ネガティブな出来事がポジティブに再解釈される。そして、悲しみと一体になった「強さ」や、損失と一体になった「深入り」は、困窮した隣人の救済に際してとりわけて強く発揮されよう。だとするならば、同じく矛盾を抱えた末尾の「幸福」とは、つまるところ、他者への働きかけにまで発展しうる、テクストとして蓄積された「愛」の所有であるといえるのではないか。それは母の早すぎる死の象徴であるが、同時にテクストだからこそ可能になる愛の拡張の契機でもある。

 母の死をありふれた「小さなこと」とする世の偏見を先取りして、「私」は「小さなことが小さなことでない。大きなことが大きなことでない。それは心一つだ」とやはり撞着的なテーゼで反論する。正しく、「小さなこと」(家族)と「大きなこと」(社会)との接面にこそ、「幸福」が宿る。これこそが『小さき者へ』の矛盾的解決の本質的なメッセージである。テクストの力は過去と現在だけでなく、「小さなこと」と「大きなこと」の間も架橋するのだ。

 



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