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 篤志は額に尋常ではない脂汗をかいていた。
「大丈夫か?」
 
同僚の飯室が見かねて声をかけてきた。
 
無理に笑顔になって「大丈夫」と応えたが、結局チーフに帰るように言われた。彼はよろよろとバックヤードに戻っていった。
 
備品庫として活用されているバックヤードの壁際に、ロッカーがむき出しに並んでいた。篤志は足を止め、一番右上の口を食い入るように見つめた。
 
食品を扱うこの職場では、二ヶ月に一度腸内検査が実施されていた。食中毒事故や感染症を防ぐためだった。一番右上の口は検体を提出するのに使われていた。つまり、そこにはスタッフの便があった。
 
篤志は、頭の中に芽生えたある考えをどうしても振り払えなかった。こんな考えは絶対に人に知られてはならなかった。こんな欲望を抱いてるなんて、絶対に、絶対に、誰にも知られてはならなかった。
 
彼は、大島朋子の検体を手に入れたかった。
 
彼女の便がほしかった。
 
すべて言ってしまうと、彼女のウンコを食べたかった。
 
ウンコなら何でもいいわけではなかった。大島朋子のものでなければならなかった。なぜかなんて自分でも分からなかった。そうすれば彼女のすべてを知ることができるような気がした。
 
バックヤードには誰もいなかった。
 
篤志はぎりぎりのところで自制していた。
 
検体の管理は杜撰だった。いつでも提出できるように、ロッカーには鍵がかかっていなかった。誰も人のウンコを盗ろうなどと考えないからだ。
 
彼は会社の管理体制を恨んだ。その気になればいくらでも盗むことができる。そう気がついたせいで、あらぬ欲望がふくらんでしまったのだ。
 
確認してみるだけだと自分に言い聞かせながら、篤志はロッカーの脇に張りつけられたリストを覗いてみた。大島朋子は提出済みにチェックを入れていた。
 
彼女の検体がこの中にある。
 
篤志はごくりと生唾を飲み込んだ。心臓が激しく脈打った。
 
本当に提出したのか確認してみるだけだと自分に言い聞かせながら、篤志はロッカーをそっと開いた。検体は専用の紙袋に入れられて乱雑に放り込まれていた。彼は震える手を差し入れて目指すものを探した。
「早退だって?」
 
突然、後ろから声をかけられた。
「のわっ!」
 
篤志は驚きのあまり手を引っ込めた。勢いあまって検体を床にぶちまけてしまった。
「あーあーあー」
 
声をかけてきたのは保田志朗だった。篤志より年下だったが、入ったのが先なので先輩面をする男だった。いつも、何となくこの男が好きではなかった。
 
保田は検体を拾おうとしゃがみ込んだ。
「いいって」
 
篤志は慌てて彼を制し、検体をかき集めた。
「やるから、やるから」
 
篤志は保田を押しやるようにして言った。とにかくどこかへ行ってほしかった。
 
保田はいささか機嫌を損ねた様子で去っていった。
 
篤志は胸を撫で下ろした。気がつくと、彼は大島朋子の検体を手にしていた。途端に体が熱くなった。はっとなって周囲を見渡すと誰もいなかった。彼はそれをポケットにねじ込み、大急ぎで残りを片付けた。
 
どきどきが収まらないまま、通路を小走りに駆けていった。
 
角を曲がると目の前に人がいた。避けられなかった。
 
気がつくと床にひっくり返っていた。
「すいません・・・・・・」篤志は謝りながら上体を起こした。
 相手を見て「ひゃっ!」と悲鳴をあげた。
 
大島朋子だった。
 
頭が真っ白になった。妙なことに、このとき初めて彼は自分が変態なのだとはっきり知った。
「ちょっと・・・・・・」
 
大島朋子は腰をさすりながら起き上がり、責めるような目で彼を見た。
 
篤志はさっと顔を背け、逃げようとして立ち上がりかけた。人でなしと思われようと自分のしたことがバレるよりましだった。
 
そのとき、とんでもないことに気がついた。
 
盗んだ検体が、彼女のすぐ傍らに落ちていたのだ。ぶつかった拍子にポケットから飛び出したらしかった。
 
遅かった。大島朋子が怪訝な顔でそれを拾い上げていた。紙袋には氏名が記載されていた。彼女の顔色がさあっと変わった。
「ち、ちが・・・・・・」
 
言い訳のしようもなかった。篤志は両手を床についた姿勢のまま全身をがくがく震わせた。
 
彼女にだけは見られてはならなかった。だが、彼女にこそ見てほしかった。それほど彼女のことを想っているのだということを知ってほしかった。こんな自分を受け入れてほしかった。
 
大島朋子は血の気の失せた唇を震わせていた。その表情からは恥辱と怒りと恐怖が読み取れた。
 
篤志は極限まで追い込まれていた。彼は、まるでゆで卵を丸呑みしようとしてるみたいに、目に涙をためて顔を真っ赤にしていた。
「す、好きです」
 
篤志は思い切って告白した。完全に場違いだった。
 
大島朋子は眉間にしわを寄せて小さく呻いた。それから、胃の中のものを吐いた。どろどろとしたものが床に広がった。拒絶を意味する返答だった。
 
吐瀉物の臭いが鼻をついた。篤志は胸にムカつきを覚え、一瞬顔を歪ませた。そして、お昼に社食で食べた天ぷらそばを盛大に吐いた。

 

 

 


この本の内容は以上です。


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