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00.プロローグ





 僕には、何も無い。

 何も、持っていない。

 特技も、自慢出来るものも、何かを自慢したいと思える相手も。親からの愛情さえも。



 持たされているものなら、少しはある。

 学校の制服と、学用品。いくらかの私服と、スマホ。

 学校なんてとうに行くのを止めてしまったし、スマホなんて誰からも連絡が来ない。


 友達なんていないし、要らない。簡単に人を裏切るようなやつら、こっちから願い下げだ。

 親も要らない。怒鳴られたり八つ当たりされるのはもうたくさんだ。向こうだって、こんな出来損ないは要らないだろう。実際、いつもそう言っていたもの。




 僕が欲しいのは、独りで生きていく力。

 誰にも頼らず、邪魔されず。罵倒や嘲笑、蔑みや哀れみから逃れて。

 ただ独りで、生きていく力。


 僕が欲しいのは、それだけ。



 僕が、欲しいのは………それだけ。




 ★★★





「誰も僕を捕まえられない。絶対に、誰も」


 初めてそのつぶやきを目にしてから、どのくらい経っただろうか。

 もう随分長いこと、それこそ昼夜を問わずインターネットに没入していたので、時間の経過があやふやになっている。当時はろくに食事も摂らず、途切れ途切れの睡眠を取る以外にはずっとパソコンに繋がれていた。まるで何かに追い立てられる様に。いや、実際追い立てられていたのだろう。怒りや憎しみ、後悔と絶望。そういったものに。



 私は血眼になって、それを探し続けていた。可愛い教え子を、豊かな才能に溢れた私の愛弟子を死に追いやった、憎き悪魔の情報を。

 彼に何が起きたのか、何が彼を死に向かわせたのか。私はそれが知りたかった。知らなければならなかった。何故なら、私だけが気づいていたから。彼の異変に。
 私はその変化が恐ろしくて、逃げた。彼の才能を愛し、人となりを慈しみ、将来に期待し、成功を夢見ていたのに。恥ずべきことに転勤までして、私は彼から遠く逃げたのだ。


 その結果、彼は命を落とした。自らの作品を道連れに、灰になってしまった。

 優しく、純粋な男だった。皆に愛され、彼の周囲にもまた、自然と優しい人々が集う。そんな男だった。
 だからこそ、結果的に周囲を巻き込んでしまったと知った彼の絶望は、計り知れぬ程に深かっただろう。それを思う度、私は逃げ出した自分を呪った。
 その呪いがますます私を煽り立て、昏い怒りの炎を燃え上がらせた。私はいつしか、彼に何が起きたかを知ることより、その悪魔への復讐を目的とするようになっていた。




 例のつぶやきを目にしたのは、そんな中のことだった。その言葉に妙な引っかかりを感じた私は、理由もわからぬままそのつぶやきを遡った。


「僕はもう、自由だ」
「世の中馬鹿ばっかり」
「何も気づいていない間抜け共」

 読み進むうちに痛々しささえ感じるほど、世を憎み蔑む内容の拙い言葉が並ぶ。そんなつぶやきの中には、画像が添付されているものもあった。ある画像を見た時、私は確信したのだ。ついに、手がかりを見つけた。悪魔に近づく手段。復讐への、第一歩を。

 それは、素人丸出しの雑な撮影だった。左手に持った戦利品をスマホで撮っただけの写真。私の目は、その左手に吸い寄せられた。捲れた袖口から僅かに覗く、紅い痣。おそらく本人は何も気にしていなかったであろうその痣は、私の愛弟子に付けられたものと酷似していた。

 胸の真ん中に刻まれた、真紅の痣。孔雀が翼を広げたような、あの形に。

 

 

 


 

 次回より、本編です。

 本編第1話の最後に、簡単な人物紹介があります。

 


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01.月曜<緊急招集>


 ひっそりとした神社の裏手にある、しんと涼しい小さな雑木林を突っ切ると、狭く古びた石の階段がある。
ところどころ錆びの浮いた手すりを頼りに石段を降りた先は、ぽっかりと空いた印象の小さな公園だ。
 ほぼ中央に滑り台、その隣には畳2畳分ほどの砂場。馬をかたどっているらしき、足元がバネになっていてグネグネと動く遊具がふたつ。その他には円形の公園の縁に沿って5つのベンチが並ぶだけの、簡素な公園。
 背後には神社への階段と切り立った石垣、3方の入り口以外を色とりどりの花が咲く樹々で囲まれたその公園は、ほんとうに「ぽっかりと」、住宅街の中に開いた穴のようだっだ。
 だんだんとオレンジがかっていく空に、カラスの鳴く声が響く。夕暮れ間近なこの時間、公園の主である子供たちの姿は既に無かった。


 いつも雑木林の柵に隠すようにして立てかけている木刀を肩に担ぎ、緩く三つ編みにした長髪を右胸に垂らした青年が、カラコロと下駄の音を立てながら足早にその階段を降りてきた。
 馬の遊具に跨ってゆらゆら揺れていた、くるくる巻き毛の小柄な青年が声をかける。

「おー、ハルくん! 来たきたぁ」
「わりぃ、出がけにちょっとあって」

 もう一頭の馬には、栗色の髪をふんわりと巻いたイマドキっぽい女子が横坐りし、膝に乗せた猫を撫でている。赤いリボンを首に巻いた猫は気持ちよさそうに目を閉じ、時おり喉をゴロゴロ鳴らす。
 滑り台の階段中腹に寄りかかっているのは、ストレートの黒髪をハーフアップにした優等生然とした若い女性。右手を唇のあたりで軽く握り少し眉を寄せながら、何か考えを巡らせている様子だ。
 滑り台の終わりの淵に腰を下ろしていた瘦せぎすの男が立ち上がり、重ための前髪を払うついでに人差し指で眼鏡を押し上げた。 

「よし、みんな揃ったな」

 三つ編みの青年が、下駄で細かな砂利を踏みしめて駆け寄り、木刀を下ろした。

「で、何だよ。緊急招集って」

 優等生風女が階段から腰を上げ、片足に体重を預け両腕を組んだ。ただでさえ背が高いうえに、デニムのタイトスカートからすらりと伸びた脚にはヒールの高いショートブーツ。シャープで端正な顔立ちと相まって、なかなかの威圧感を放っている。

「最近うちの商店街でね、盗難が増えてるらしいのよ」

 外見に違わず涼やかな女の声に、眼鏡男がもっともらしく頷き、濃灰色のシャツの襟を骨ばった指で神経質そうに引っ張って首元を緩める。
「どうやら年寄りが経営してる、古くからの個人商店ばかりが狙われているらしいんだ」

 イマドキふんわり女子が、相変わらず優しく猫を撫でながらも憤然とした様子で続けた。
「お茶やさんと乾物屋さんなんか、レジから現金盗られたって。おばあちゃんたち、すごく怒ってた」

「お年寄りの所を狙うなんて、やり方が卑怯だよね。こそ泥め」
 巻き毛の青年は眉を寄せ硬い表情のまま、絶妙のバランスで遊具をさらにグラグラと揺らす。やっていることは子供っぽく滑稽だが、正義感が強いらしい。

「商店街の定例役員会議で議題に上がったんだけど、俺の他って正直年寄りばっかじゃん? 一応回覧板回すことだけは決まったんだけど、危機感が足りないのか無駄話ばっかで、具体的な対策が出てこない。そこで、だ。我々若手が、この南町商店街の治安を守るために立ち上がろうと。それで急遽、集まってもらったわけ」

「そんな勿体付けなくたって、しょっちゅうここでタムロってんだろ」
「……まあ、そうだけどさ」

「いいじゃんいいじゃん、緊急招集。正義のヒーロー見参! って感じでさ」

 口籠る眼鏡男をフォローするつもりなのか、巻き毛青年はそう言うと、グラグラ揺れる馬の遊具から後方宙返りして着地した。と思うと、くるりと回転しながら右足を高く蹴り上げ、空中に回し蹴りを放つ。相対するように、三つ編み青年が木刀を繰り出し空を切った。
 折よく風が吹いて見頃となった藤の花びらを散らし、ふたりの立ち回りに文字通り花を添える。

「武闘派はとりあえず落ち着け。出来るだけ、暴力は無し。ね?」
 パチパチと拍手するふんわり女子を嗜めるように、優等生風が冷静に釘を刺した。

「駐在さんとも相談したんだけど、とりあえず狙われそうな店にカメラを設置しようと思う。これは俺がやる」
 そう言いながら、眼鏡男が手を挙げる。

「私は、盗難多発中の旨、商店街のホームページとポスターで注意喚起」
 同じく手を挙げながら、優等生風。

「なるほど。さすが、記録魔人に黒の魔女。妥当だな。で、俺らは?」

 三つ編み男の問いに、眼鏡男が答える。
「生鮮組は、周辺の個人商店にそれとなく目を配ってて欲しい。仕事のついででいいから、怪しい人物がいないかどうか」

「じゃあ、僕は配達なんかもあるから、あちこちに注意しておくよ」
「俺もそうするわ」
「あたしは配達とか無いけど、いろんなお店にマメに顔出すようにするね」

 八百屋の長男、森井道彦がクリクリとした瞳に意気込みを閃かせると、魚屋の次男坊である高柳晴海が木刀を担ぎ頷いた。
 肉屋の一人娘、百々瀬花奈は相変わらず猫を撫でながら、空いている方の手で敬礼してみせる。

「よし。じゃあ、駅前から商店街の真ん中ぐらいまでは、そっちで監視を頼む。俺と実智で残りの半分。あと、使ってないビデオカメラがあったら貸してくれ」

 眼鏡屋の若き店主、杉原透の言葉に、事前に打ち合わせていたのであろう古本屋の孫娘、墨谷実智が頷いた。

 駅前から住宅街へと伸びるアーケード商店街の、一番駅寄りに森井青果店、その隣に百々瀬精肉店。間に幾つかの店やコンビニを挟み、商店街の中ほどに高柳鮮魚店がある。
そこから少し進んだ辺りの筋向かいに杉原眼鏡店、商店街の終点に墨谷古書堂。
 古くからの幼馴染5人の店は、ちょうど商店街全体にうまく散らばっている形だった。


「じゃあ、私そろそろ行くわ。じいちゃん病院行くから、店番変わらなきゃ」
「みのりちゃん、おばあちゃんは具合どうなの?」

 一学年下の森井道彦と百々瀬花奈は、昔からの癖で実智のことを「みのりちゃん」と呼ぶ。実智は高校入学から最近まで地元を離れ都内で暮らしていたので、なおさら昔のままの呼び方が残ってしまっているのかもしれない。
 戻ってきた当初は 、この歳になって ”ちゃん付け” で呼ばれるのも気恥ずかしく、何度か訂正を申し入れたものだった。だが、ふたりはどうやら「みのりちゃん」卒業の機会を完全に逸してしまったらしく、実智はとうにそれを受け入れていた。


「うん、元気元気。あのばあちゃんだもん。車椅子で病院中歩き回って、誰彼構わず捕まえてはおしゃべりしてる。下手したらお見舞いに行くじいちゃんより元気だから」

「実智のばあちゃん、じいちゃんの分まで喋るもんな」
「そうそう。じいちゃん無口だからね。そういえば、ハル。じいちゃん煮魚食べたいって。今日やってる?」

 魚屋の高柳晴海は、自分の名前の「ハルウミ」という響きが気に入らないらしく、小学生の頃から、「ハル」と呼ばせている。

「ああ、たぶん。今日はメバルだったと思う」
「やったあ。7時ごろに行くから、とっといてくれる? ふたり分」
「了解」


 実智が皆に手を振って立ち去ると、道行がぴょんぴょん飛び上がって手を挙げた。

「ねえねえ、戦隊名付けようよ」
「なにそれ」
「だって僕たち、商店街を悪の手から守る正義の味方じゃん?」
「道行、お前27にもなってなぁ……」

 道行や花奈からは3つほど先輩にあたる最年長の透が、呆れた声を上げた。

「みっちゃん、あたしもそれはちょっと……恥ずかしい、かなぁ」
「俺は賛成」

 まさかの賛成意見に、花奈と透が信じがたいという表情を浮かべる。当のハルは涼しい顔で木刀を振り上げた。

「ハルくん、なんでよ」
「だって、ちょうど5人いるし」
「なんだその理由」

 反対意見をものともせず、上段の構えから薙ぎ払う仕草でポーズを決める。

「俺、ブルーね。クールな二枚目だから」

「わあ、やっぱり自分で言うんだ」
「ハルくん魚屋だし、おさかなブルーだね! じゃあ、僕はグリーン。八百屋だから」

「やだ。おさかなじゃなくて、お刺身ブルーがいい。お前はフレッシュグリーンな」
「いいね、フレッシュグリーン参上! シュゥッ!」

 道行が華麗な飛び蹴りを決める。


「花奈はねぇ……肉汁ジュワッと、ジューシーピンク!」
「……ジューシー……ピンク……」

 道行の言葉に、花奈はうっすらと頬を赤らめた。


「透くんは、どうしよう」

「いや、俺はいいよ……」

「透は……メガネブラック!」
「いや、ブラックはみのりちゃんじゃないかな? 腹黒いし口悪いし」
「それもそうだな。じゃあ実智は、腹黒ブラックで」
「メガネクリアーは? 透明で名前にも合ってるし、メガネっぽいし」

「いやそれ、色じゃないだろ」
「いちいち細かいぞ、透。文句ばっかだと、ピカピカメガネクリアーにするからな」
「ピ、ピカピカはやめて……」

「えっと、なんか、色のバランスおかしくない?」
 花奈がもっともなコメントを差し挟むが、青と緑はお構い無し。透はもう、諦めたようだ。

「ハルくん、テーマソング作ってよ。僕歌うから」
「んー……作曲はいいけど、作詞苦手なんだよな」
「みのりちゃんに頼もう」
「えー……やってくれると思うか? 即座に断られそう」

 透は足を肩幅に開いて腕組みをすると、「面倒だからイヤ」と言い放ち、指先で肩に掛かる髪をはらう真似をする。

「……の一言で終わりそうだよな」
「うー、みのりちゃんならありそう」
「下手したら、一言どころか『は?』で終了だって。おっかないから、テーマソングは諦めよう」

「あたしが頼まれたとしても、断ると思うな……」

 思わず零れ出た花奈の声も気にせず、男3人は(いつの間にか透までも)盛り上がっている。


「リーダー誰にする? やっぱ俺だよな。強いし」

 妙に乗り気な三つ編み青年ハルに対し、そこは譲れない、とばかりに咳払いしたのは、瘦せぎすのメガネ青年、透だ。

「いやそこは冷静沈着、博識でしっかり者の俺でしょう。最年長だし」
「黙れ色無し」
「……なんか酷い」

「戦隊にしようって最初に言ったの、僕だよ。それにほら、フットワーク軽いし」
「でも俺の方がイケメンだから」

 唇を尖らせた道行が巻き毛を揺らしピョンピョンと飛び跳ねながら自己主張するのを、ハルが一蹴する。


「あー、もう!」

 呆れ顔の花奈が、珍しく大きな声を出した。膝の上の猫が、「んなーぁ」と抗議の声をあげる。

「下らないことで揉めない! 決めました。リーダーはこの子! ほら、赤いリボンしてるし。リーダーと言ったらレッドでしょ?」

 えええ、と不満げな3人だったが、花奈は、この話は終わり! とばかりに猫を腕に抱え立ち上がった。


 公園の上の神社に棲みついている名無しの猫は、今日から「リーダー」と呼ばれることになる。




 ☆☆☆☆☆ 



 ひとり店番をしているところに届いた道行からのメールを見て、実智は思わず頭を抱えた。

「なによ、南町5(みなみまちファイブ)て……それに私だけ、店関係ないし。腹黒ブラックってただの悪口じゃない」





 

 

 

 


 主な人物紹介(南町商店街 駅側より)

森井道行(モリイ ミチユキ)
27歳、森井青果店勤務。新規販路の開拓や食育指導なども手掛け、仕事熱心。低身長・巻き毛・童顔で、商店街(特にシニア世代)のアイドル。正義感に厚く曲がったことが嫌い。歌が好き。

百々瀬花奈(モモセ ハナ)
26歳、元保育士だが由あって退職。現在は求職活動をしながら、精肉店の店番と花嫁修業中。おっとりした癒し系で、この5人の中では末っ子的存在。子供と動物に懐かれがち。手先が器用。

高柳晴海(タカヤナギ ハルウミ)
28歳、高柳鮮魚店勤務。釣りに明け暮れる父親に代わり、母とともに店を守る。容姿端麗な自信家で、ちょっと変人。趣味と実益を兼ねて楽器を弾く。

杉原透(スギハラ トオル)
30歳、杉原眼鏡店経営。「理想の土を見つけに行く」と陶芸の道へ旅立った両親から店を譲り受け、店主に。副業で絵本作家をしている。博学だが細かく几帳面な性格で、若干理屈っぽい。

墨谷実智(スミタニ ミノリ)
28歳、不動産会社勤務。最近まで都内で勤務していたが、事情により地元の系列会社へ。夜は祖父の経営する古書店で店番をすることも。趣味は読書と料理、得意技は謎の威圧感を醸し出すこと。



今のところ、こんな感じです。

 

 


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02.火曜<腹黒ブラック>



 ひと気のない、小さな不動産屋の店内に、実智が自前で持ち込んだノートPCのタイプ音が軽快に響く。
 頼まれて作成した南町駅前商店街のホームページの更新。まずは自社のコーナー「今週の新着物件」、次に「今日のお買い得情報」と「おすすめレシピ」の更新を終え、次はトピックの入力だ。
 内容はもちろん、盗難事件多発について。このトピックが、常にHPの各ページの最上部に表示される。商店街のみならず、近隣住民に対しても注意を喚起する目的だ。

 電話が鳴った。

「お電話ありがとうございます。南町不動産でございます。……いつもお世話になっております。はい、担当者はただいま出ておりまして……はい、戻り次第ご連絡致します。はい……はい。失礼致します」

 墨谷実智はよそ行きの声で会話を終え、受話器を置く。

 5年ほど勤めた建築不動産会社の総務の仕事を退職し、こちらへ戻ってきたのが昨年末。
 前の職場で、嫉妬から理不尽な嫌がらせを受け続けうんざりしていたところに、ちょうど祖母が事故にあった。前職を辞したことについては全く後悔していないが、祖母の不幸を渡りに船と利用したみたいで、少し引け目を感じているのも事実だ。
 現在は、勤めていた会社の伝手で紹介された地元の不動産店でアルバイトとして勤めながら、自転車との接触事故で入院した祖母の世話と祖父の古書店の店番、家事全般を受け持っている。
 完全な休日はほとんど無いけれど、少しでも祖父母の助けになれる現在の状況は、後ろめたさを薄めてくれるという意味でも、実智にとってありがたいと言える環境だっだ。


 机の上の付箋を取りあげ、担当者に電話があった旨、メモを残す。にわかには信じがたいことだが、地元密着型の古く小さな不動産店においては、社内メールなどというものは未だに「なにそれ?」みたいな存在だ。時々、昭和の時代にタイムスリップでもしたんじゃないかという気になる。
 床を蹴って椅子を転がし、座ったまま担当者のデスクまで移動する。デスク上の電話機に蛍光ピンクの付箋を貼り付け、また椅子ごと自分のデスクへ。
 客が居るときには、さすがにこんな横着は出来ない。明日の水曜は定休日なのに、今日は珍しく来客が少ないみたいだ。普段の火曜なら、社員が内見などで出払っている間も、資料を眺めながら待っている客が数組居たりするのに。

 暇を持て余してポットに手を伸ばしかけたところで、ふと動きが止まった。


「あんたみたいな事務方は、おとなしくお茶汲みでもやってなさいよ」

 前の職場の先輩社員が吐き捨てた、今時おじいちゃん社員ですら口にしないレベルの嫌味が唐突に蘇る。

 インテリアプランナーという肩書きの社員だった彼女には、自身にそのつもりがあったかどうかは不明だが、顧客層やターゲットを全く顧みずに自分の好みを押し通そうとする傾向があった。
 実智が入社した年の歓迎会の席でのことだ。設計部に配属された同期の「家を設計する際にはまず、その家にはどんな人が住むのかを出来るだけ詳細にイメージする」という旨の発言に、彼女が過剰反応したのを思い出す。「設計屋には芸術はわからない」とかなんとか喚き倒し、上司数名に引き摺られるように退出されられた顛末は、今では社内での悪しき伝説となっている。

「あのセンスで芸術語られてもねえ……」
 そう苦笑いしていた上司の言葉の意味を知ったのは、その歓迎会から間もなくのことだった。

 ある時、何かの話の流れで部署違いの実智が内装や家具を選ぶことになった。といっても、それは単に雑談の中での冗談だったのだが、カタログから適当に選んだところその評判がすこぶる良く、まるっと採用されてしまったのだ。
 それ以来、彼女に目をつけられ、事あるごとに粘着されるようになった。

 いつからか当然のように内装選びを任されるようになった頃に、先の「お茶汲み」云々の嫌味を言われ、ついうっかり「私にそう言われても」と口答えしたのが運の尽き。
 それ以来、有る事無い事そこらじゅうに触れ回り、大騒ぎを演じてくれた。彼女の話を信じたものはほとんど居なかった筈だ(と思いたい)が、あまりにも低レベルな罵詈雑言に、腹がたつどころか却って哀れを催してしまったほどだった。

 と、自分では思っていたのだが………こんな風に長い時間一人きりで過ごしていると、投げつけられた言葉、悪意のかけらの数々が、ふとした拍子に思い出される。もしかしたら私は、案外傷ついていたのかもしれない。少なくとも、お茶を飲む気が失せてしまうくらいには。


 気分を変えようと、実智は背後のキャビネットから物件案内資料のファイルを取り出し、ページをめくった。もともと、こういった間取りを眺めるのが大好きで入った業界だ。実智にとって家というのは、幸せな家族の象徴そのものだった。間取り図を眺めながら、様々な部屋の様子や家具の配置
、そこでの生活を思い描く。

(そういえばあの人、まだあの少女趣味なアメリカンカントリー風のインテリアにこだわってるのかしら……)

 そう思った瞬間、フッと小さな笑いが漏れた。

……ああ、いけないいけない。いくらいけ好かない相手だからって、嘲笑うみたいなこと。相手と同じ土俵まで降りてどうするのよ……って、やっぱり私、あの人のことナチュラルに見下してる? まずいな、だから腹黒とか言われちゃうのよね。大体昔から、お高くとまってるだの偉そうだの黒かぐやだのと言われがちなんだから。気をつけなきゃ………


 お馴染みの微かな痛みが、胸を刺す。思わず目を伏せ、頭の中でぐるぐると考えていると、お気楽な着信音とともにスマホの画面が明るくなった。

「みのりちゃん、ひとり百面相、怪しいよ~」

……花奈からのメッセージだ。うん? 見られてる?

 顔を上げると、ガラス壁に貼られた間取り図の隙間から室内を覗き込んでいる花奈と目が合った。
手招きすると、何故か背を屈めてガラス扉を押し開け忍び足で入って来る。

「お邪魔しまぁす。お仕事中、大丈夫なの?」
「うん。今誰も居ないし、少しならね」
「あ、すずらんだ。かわいい」
「でしょ。好きで毎年買うんだけど、今年は知り合いのとこで安く買えたの。で、張り切っていっぱい買ったから、仕事場にも飾っちゃった。もう少ししたら芍薬も出るから、それも楽しみなんだ」
「みのりちゃんって、意外とお花好きだよね」
「意外って何よ。そういえば花奈、今日はスタジオじゃなかった?」
「そうだったんだけど、無くなった」

 ハルが所属しているバンドに、道行とともに代打出演を頼まれていたのだが、本来のキーボードの子が出られることになったために、花奈の練習は取りやめになったのだという。

「みっちゃんは予定通り出るんだけどね」
「あ~、道行はメインボーカルもコーラスも上手いからねえ」
「しかも踊れるしね。みっちゃんが出ると、すごく盛り上がるから」
「お調子者の本領発揮だ」
「本人は、エンターティナーだと申しておりますが」

 実智は紙コップにティーバッグを放り込むと、先ほど手を止めたポットからお湯を入れて花奈に手渡す。ついでに自分の分も。両者とも、砂糖やミルクは使わない。

「そういえば、アレ。なんなのよ、南町ファイブって」

 花奈がフッと吹き出した。クスクス笑いながら成り行きを説明する。

「……まったく、あいつは。花奈、あんなのと結婚して大丈夫?」
「うふふ、どうなんだろうね。でもあたし、結婚とかみっちゃん以外には考えられないし。もう、しょうがないよね」

 小さく肩をすくめ、嬉しそうに照れ笑いする。

「はぁぁぁ、聞いて損した。はいはい、相変わらずラブラブで良かったこと」
「おかげさまで。でね、あのさ、今晩おうち行っていい?」
「もちろん。今日は店番無いし。今日は何作る? 私はイヤリングがいい。ホールレスピアス」
「オッケー。あたしは……みのりちゃんに任せる。食材は私が買ってくから」

 一見噛み合っていないようだが、これは、手先の器用な花奈と料理の上手い実智が互いの得意分野を教え合うという、特殊な女子会なのだ。料理をたくさん作って、それをツマミに、手芸をしながら延々と酒を飲む。これがまた、殊の外楽しい。
 実智同様、花奈も一度はここを離れて進学就職し、舞い戻って来たクチだ。そのせいもあって、再会以来、子供の頃の様によく遊ぶようになっていた。


 実智は、しばし考えを巡らせた。
 HPの「おすすめレシピ」コーナーの参考に、何度もアドバイスをもらいに行ってるから、おばちゃん達の得意分野はわかってる。その辺は、実の母親と義母予定のふたりに直接教わったほうがいいだろう。あと、道行も作らなそうな料理は……と。

「じゃあ………そうだな、牛肉のトマト煮込みサフラン風味とか、どう? あと、旬のアサリと春キャベツのバジルオイルパスタ。簡単だよ」
「わあ、美味しそう! みっちゃんもハーブ料理好きだから、喜ぶと思う」

 瞳を輝かせて拍手する花奈に、買い足すべき食材を幾つか指示する。花奈は素早く、スマホのメモにそれを打ち込んだ。


「よし、メモった。みのりちゃん料理上手だし、いい奥さんになりそうだよね」

「あー……私はそういうの、当分無いかな。そもそも出会いが無いし」


 会話の流れが怪しくなってきた。社員さん、早く帰ってこないかな……

「みのりちゃん可愛いのに、もったいないよ。合コンとか、行ってみたらいいのに」
「えええ、めんどくさいって。知らない人とお酒飲んでも楽しくないし、こう……グイグイ出会いに行くカンジ? ああいうの私、すごい苦手で。それなら部屋に籠って本読んでた方が楽しい」

「みのりちゃん、読書好きだもんね……」

 なんでちょっと引いてるのよ。別にいいじゃない、本の虫だって。読書の魅力って、文章の内容はもちろんだけど、それだけじゃない。あの、文字と知識と創造が部屋中にみっしりと詰まっている空間で、ページをめくる度にかすかに香る紙の匂い。指先をくすぐる紙の感触。紙の擦れる、密やかな音。何時間だって、その中に埋没していられる。電子書籍も悪くないけど、紙の本を指でめくって読み進める悦びって、特別なんだもの。


 心の中でそんな反論をしていると、花奈が、少し俯いて黙り込んだ。嫌な、予感……

「ねえ、みのりちゃん。もしかして、まだあのこと、引きずってる?」

……やっぱり、来たか。そりゃまあ、そうなるよね。酔っ払って変なこと話しちゃった私が悪いんだ。花奈は純粋ですごく優しい子だから、心配しないわけが無いのに。

「そういうわけじゃないよ、大丈夫。ただ、あんまりさ……恋愛に気持ちが向かないってだけで。仕事でバタバタしたし、今は特にそういう時期なのかも。まあ、私のことは心配しないで。それなりに楽しくやってるからさ。ははは」

 いかにも寒々しい、乾いた笑いだった。
 花奈の表情が、「余計な口出ししちゃってゴメン」みたいな、申し訳なさそうな顔になっている。ああ、気を使わせちゃったな……


「とにかく、私は明日休みだから、今日はいっぱい飲むよ! 秘蔵のワインと焼酎が、私たちを待っている!」

 花奈も空気を読んだらしく、いつもの明るい表情に戻ってくれた。ありがたい。

「いいね! じゃああたし、うちからチーズとサラミ持ってく。余ってたら唐揚げも」
「おう! ナイス!」

 両手を挙げ、互いにパチーンと手を合わせた。


「じゃあ、夜に、また。お邪魔しました」
「うん、またね~」

 店の前まで出て花奈の細い背中を見送ると、実智は一つに結っていた髪を解き、もう一度結び直した。毛先が揃っているか確認し前髪を整えると、スッパリと気持ちを切り替えた。


 さあ、お仕事お仕事。って言っても暇だし、読書でも……って勤務中は流石にマズイわね。宅建の勉強でもしようっと……




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03.水曜 <お刺身ブルー>



 いつものように店の奥に置いた丸椅子に腰掛けギターを爪弾いていると、面倒な客がやって来た。いや、客ですら無い。コイツが魚を買いに来るとは到底思えない。

「ハルさぁん、来ちゃいましたぁ。ウィッセッセェッス!」
「帰れ」
「えええちょっとぉ、冷たいじゃないっすか。せっかく来たのにぃ」

 何がせっかく、だ。呼んでないっつーの。大体コイツは、なんでこんなにクネクネしてるんだ。お前はタコか。

「仕事の邪魔だ、帰れ」
「またまた~、仕事とか言ってギター弾いてるじゃないすか。あ、あれっすか。野菜とか果物に音楽聴かせると、美味しく育つとかって言う」

 アホか。ここにいる魚が育つわけねーだろ。みんな死んでるっつーの。

「ただのBGMだよ。俺は大声で呼び込みとかやらないから、その代わりにな」

 へええ、などとアホ面さらしつつ、チャラ男は店内をキョロキョロ見回している。そういえば、コイツの名前、何だったっけ。

「で、何の用だ」

 クネクネがさらに大きくなった。ベルトに付けたチェーンがジャラジャラと音を立てる。両手を後ろで組んでモジモジするのをやめろ、気持ち悪いから。

「なんかぁ、オヤがぁ、これ持ってけって。ハルさんに」

 チャラ男は、隠すように持っていた白いビニールの手提げをおずおずと突き出した。包みを受け取るとまた、モジモジクネクネが始まる。いいから止まれ。お前は鰻か。

「筍と山菜のおこわ? とか、そんなんらしいっすけどぉ。俺、ハルさんはそんなの喰わねえって言ったんすけどぉ」

 チャラ男は口を窄め、赤くなっている。やっぱ、タコだな。
ビニールの手提げから取り出したタッパーには、サランラップに包まれた美味しそうなおこわが詰められていた。

「お前のかーちゃんが作ったのか」
「そうっす」

「へえ、旨そうじゃん。いただくよ」
「マジっすか。作ったの、うちのくそババアっすよぉ?」

 くそババアとか言っているわりには、やけに嬉しそうじゃないか。顔をしかめてるつもりらしいが、口の端がニヤけている。タコ男が恥じらっても可愛くねえ。

「親をクソババア呼ばわりするような馬鹿に用は無い。とっとと帰れ」

 わざと突き放すと、途端にシュンとなる。でもあのその……とかなんとかブツブツ言いながら、帰ろうとしない。

「一緒に食うか?」
「……いいんすか」

 上目遣いで盗み見るように、こちらを窺ってくる。その上目遣いやめろ、気持ち悪いから。

「今後二度と、くそババアとか言わないと、誓えるなら」

 チャラ男は妙に感激した様子で、何度も頷いた。
「二度と、言わないっす。絶っっっ対!」

「よし、じゃあここ座って待ってろ」

 今まで座っていたスツールを指し、暖簾の向こう側にある厨房へ………行きかけて振り向くと、スツールに座ったチャラ男が首を伸ばしてあちこち眺め回している。

「おいチャラ男、商品に触るなよ。指一本でも触れたら、叩き出すからな」

 そう念を押して暖簾をくぐると、「チャラ男って、何すかぁ……」背中越しに情けない声が聞こえてきた。



 ☆☆☆☆☆



 このチャラ男と出会ったのは、いつだったか。確か、今月の初めぐらいだったろうか。

 裏でライブのリハーサル準備をしていると、オラついた怒鳴り声が聞こえてきた。なにやら相当怒っているのか、巻き舌混じりに一方的にがなり立てている。こういう場所ではまあよくあることなので、さして気にしてはいなかった。女性の半泣きの悲鳴が聞こえるまでは。
 さすがに看過できず、ホールへ向かう。

 狭いホールの中、客席の片隅で、チャラ男が若い女性の髪を掴みグラグラと頭を揺すっていた。
折悪く、ホールには女性スタッフしかおらず、助けたいものの手を出せぬままオロオロしていた。むしろチャラ男は、男性スタッフが居なかったからこそ、そんな暴挙に出たのかもしれなかった。

「てめえ、相変わらず使えねーな。俺に恥かかすなっつってんだろーが」

 女性は身を縮めながらも抵抗せず、しゃくり上げながらされるがままになっている。

「おい、やめろ」

 俺はチャラ男の手首を掴んだ。無理やり離せば女性の髪まで引っ張ることになってしまうので、絞り上げるように手首を強く握りしめた。

「んだよ、離せや!」

 腕を振りほどいたチャラ男は、顔を真っ赤にしながら詰め寄ってきた。動揺したのか、キャンキャンと威勢よく喚くが、睨みつける視線が弱い。そわそわと落ち着きなく上体を揺すり、声が上ずっている。筋力も無さそうだ。

 雑魚だな、と思った瞬間、後悔した。魚の皆さん、ごめんなさい。お魚に、雑魚なんていないから! みんな大事なお魚だからね!


「んだてめえ、このロン毛野郎なめてんのかコラ」

 こういう輩は、どうしてこうもボキャブラリーが貧弱なのか。魚偏の漢字がいくつ書けるか、いや、読めるかさえも怪しいもんだ。

「何があったか知らんけど、女に暴力は駄目だろ」

 全く、こういう輩は、なぜ濁音と巻き舌を多用するのか。盛んにわめき立てているが、何を言っているのか一向に聞き取れない。威嚇しているつもりなのか、しきりに首を上下している。おい、首がもげるぞ。っつーかコレ、鳥だったら求愛のダンスみたいだな……

 そんなことを考えていたら、思わず少し笑ってしまった。
 途端にチャラ男のボルテージが上がり、更に声が高くなった。しまいにはポケットからバタフライナイフを取り出す始末だ。これ見よがしにスチャラカと振り回し、ニヤニヤと構えてみせる。

……駄目だ。全然、なってない。握り込み、体の角度、足の開きに重心の位置。そして何より、心構え。

 俺は一歩踏み出すとおもむろに、ナイフの刃の部分をむんずと握った。あからさまにチャラ男の腰が引け、目が泳ぎだす。ビビりすぎだろ。

「な、な……」

 チャラ男の手から、力が抜けた。が、まだナイフを握っている。

「こんなナマクラじゃ、イワシも捌けねーよ。手ェ離しな」

 いくら手入れが疎かだとはいえ、実を言えばこの程度のナイフでも、ちゃんと切れる。こうして握っても手が切れないのは、刃の握り方にコツがあるのだ。ちなみに、小ぶりのイワシなら手開きのみで捌ける。

 チャラ男は少しホッとした様子で、手を離した。
 俺はナイフを握りなおすと、革ベルトを外し裏側で刃を研ぎ始めた。いわゆる革研ぎの真似事で、やらないよりはマシだというくらいにしか効果はないのだが、目論見通り、チャラ男は釘付けだ。

 研ぎながら、厳かに言った。

「お前は、刃物を持つということの意味を、わかっていない。刃物というものは、むやみに人に向けるもんじゃない。ましてや見せびらかすためのものでもない」

 尤もらしく目を眇めてフッと息を吹きかけ、指先で研ぎ上がりを確認し、軽く頷く。もちろんこれも、パフォーマンスだ。

「いいか。刃物ってのは、人を守るために持つもんだ。わかったか?」

 諭すように言いながら畳んだナイフを差し出すと、チャラ男は瞳を輝かせてそれを押しいただいた。手の中のナイフを見つめ、こちらを見上げる。
 その顔にはありありと、「先輩、かっっっけえっす!!!」と書いてあった。単純だ。単純過ぎて空恐ろしい程だ。

 チャラ男は一旦放置し、泣いていた女の子に歩み寄る。すでに隅っこの椅子に座らされており、呼び出されたのであろう男性スタッフがすまなそうに会釈してきた。

「ねえ、君。今日、出演するの?」

 彼女は俯いたまま、黙って首を振った。

「なら、もう帰っていいよ」
「でも、準備が……」
「準備なんて本来、自分でやるもんだ。コイツのことは気にすんな。こんなアホとは、このまま別れたほうがいい」
「……はい」

 チャラ男を振り返り、有無を言わせぬ視線で見据える。

「お前、それでいいな?」

 なぜかチャラ男は嬉しそうに、首が折れそうなほどガクガクと何度も頷いた。それを見た彼女は、すぅっと冷めた表情になり、小さな声で「別れます。ありがとうございました」と頭を下げるとバッグを掴み、振り向きもせずに出て行った。
 彼女の背中を見送って振り返ると、チャラ男は背中にひっつかんばかりに近づいて佇んでいたので、少しばかり焦ったものだ。

「……お前、ちけーよ」
「すげえかっけえっす! ナイフ詳しいんすか? 俺、・・・って言います!(名前忘れた。)この後弾くんすか? リハ見ててもいいっすか?」


 その後、リハーサルを見ていたく感激したチャラ男のギターをチューニングし直してやったり(あまりに音が狂っていてイライラしたのだ)、「男のけじめ」と称して彼女に電話をさせ謝らせたり、「刃物のコレクションを見せてやる」と騙してライブ終わりに家へ連れ帰り、自慢の包丁コレクションを見せながら説教しつつ洗脳し日本刃物信者にしたりで………すっかり手懐けた。
 この手のアホは野放しにしていると周囲が迷惑するので、普段からできるだけ捕獲するようにしているのだが、コイツは思った以上にアホだった。懐くとなったら全力で、行く先々に出没しては馴れ馴れしく纏わりついてくる。挙句今日、呼んでもいないのに店にまで押しかけてきたのだった。
 

 ☆☆☆☆☆


 レンジで温めたおこわを取り分け、厨房の奥で仕込みをしている母に声をかける。ちなみに父は、搬入を終えた足で趣味の釣りに出かけている。毎度のことだ。

「かーちゃん、おこわ戴いた。あっためたから、ここ置いとく」
「何、友達かい?」
「いや、ただの知り合い」


 暖簾を抜けて店に戻ると、チャラ男はパッと両手を広げてみせた。

「なんにも触ってないっす!」

 よし、食え。と、温めたおこわと刺身の小さな小鉢を載せた盆を差し出す。

「あ、刺身だ。いいんすか」

 聞いたくせに返事も待たずに刺身をパクつくと、チャラ男は驚いたように目を見開き、声を上げた。

「美味あい! こんな美味い刺身食ったの、初めてっす!」
「当たり前だ。俺が切ったんだからな」

 食べるために殺めたのだから、出来得る限り無駄なくその栄養を摂取し、感謝して美味しくいただかなければ。そのために、新鮮さを保ち、時には適切に熟成させ、なるべく細胞を壊さぬよう素材や調理方法によって切り方も変え工夫するのだ………って、ダメだ。聞いてねえ。まあ、前にも話したし、いいか。

 と、かーちゃんが暖簾をくぐり顔を出した。ピアスだらけの金髪男の風貌には全く動じず、にこやかに声をかける。

「こんにちは。美味しいおこわ、ありがとうね。これ、出来立てなの。よかったらどうぞ」

 店の名物になっているあら汁を差し出す。
 魚屋の奥はちょっとした厨房になっており、その先は裏通りに面したカウンター。そこでは魚介系の惣菜を販売していて、客は自前で持ち込んだ酒を飲みながら肴をつまめるようにもなっているのだ。

 顎を突き出し首をすくめるような動作で「あ、あざっす」と椀を受け取ったチャラ男は、こぼさないようバランスを保ちながら、またクネクネし始めた。

「ども。俺、ハルさんの舎弟やってます。お姉さんっすか、めっちゃ美人じゃないっすか」
「舎弟じゃねえ」
「あらま、いい子じゃないの。どうも、ハルウミの母です。ゆっくりしていきなね」

 舎弟、とチャラ男が言った瞬間、母に思い切り睨まれた。が、お姉さんと言われた途端、手のひらを返したように朗らかに微笑み、上機嫌になって引っ込んでいった。まったく、我が母ながら……



「ハルさんのかーちゃん、めっちゃキレイっすね。うちのバ……かーちゃんとは大違いっす」

 ババアと言いかけてハルに睨まれ、チャラ男は即座に言い直した。誤魔化すようにあら汁に口を付け、熱さに驚いている。

「お前が苦労ばっかかけるからだろ」

 そう言うと意外にも、チャラ男は箸を置いてしんみりと肩を落とした。

「そうなんっすよねぇ………」

 
 聞けば、ハルに説教されたその日、チャラ男は興奮状態で家に帰り、母親に一切の顛末を喋り倒したのだとか。筋道立てたわかりやすい話ではなかったが、息子が夢中で話すのを涙を浮かべて何度も頷きながら聞いて、喜んだのだそうだ。
 悪い仲間とつるんでは家を空け、口を開けば悪態ばかりだった息子が、(比較的)まともなことを嬉々として話している。それだけで嬉しかったのだろう。

「それ食ったら帰れよ。お母さんによろしく言っといてくれ」
「……むぅ」

 あら汁は、そんなに頬張って食うもんじゃねえ。

「ちゃんと『ごちそうさまでした』って伝えろよ?」

 チャラ男は目をまん丸にしながら何度も頷き、結局、ハルの分のあら汁まで飲み干した。


 満足げに腹をさするチャラ男を駅まで送って行ったのは、チャラ男が心配だったからではない。近隣の店へ突撃して迷惑をかけるのを阻止するためだ。
 チャラ男は何を勘違いしたのか、感激した様子で帰って行った。「明日の練習、手伝いに行きます!」と宣言して。




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04、木曜<フレッシュグリーン>


 木曜の午後には隔週で公民館の一室を借り、野菜嫌いの子供のための料理教室を開催している。と言っても、本格的な調理はしない。元々、食育や野菜嫌いを治すための催しなので、子供達が料理や食材に興味が持てるようにするのが目的だ。
 そういうわけでメニューは、子供だけでも作れるような生ジュースやフルーツサラダ、ゼリーなどが多い。


「モリーせんせえ、できたー!」
「あたしもできたー!」
「あっちゃんもできたー!みてー!」

 モリーせんせいこと、森井道行。
 毎回、側宙からのバク宙で登場し、格好いいポーズを決めてから自己紹介をするため、子供達のハートは鷲掴み。モリー先生のお料理教室は、親子共に大人気だ。
 ちなみに、一応料理するので、床に手を着かないように配慮はしている。(埃がたつと言われれば反論できないが、そういったクレームは未だ無い)



「よーし、おお、上手に出来たねえ。じゃあ、ママと一緒にお皿に盛り付けてみようか。ゆっくりね。そぉっと、そぉーーーっとだよ」

 ハーイ!と全身を使って手を挙げる子供達に、暴れてせっかくの料理をひっくり返さないよう、それとなく注意する。ここで失敗すると、泣く。まず確実に、大泣きする。無関係の子も、何故かつられて泣く。そのために料理嫌いになったりしたら、可哀想だ。

 子供達は、彼らなりに慎重に慎重に、プラスチックの皿へ盛り付けを開始する。自分で潰したジャガイモ、星や花の型で抜いた茹で人参、小さな手で千切ったレタス。あらかじめコロコロに切っておいたチーズや、ブロッコリー、ミニトマトなども思い思いに皿へ載せる。普段は嫌って食べたがらない野菜も、こうすると自分から皿へ取るから不思議だ。


「あらあっちゃん、トマト食べるの? 自分のお皿のものは、残しちゃ駄目なのよ?」

 愛佳ちゃんママが驚きの声を上げたので、道行はそのテーブルへ歩み寄った。

「あっちゃん、トマト嫌いなのかな?」
「きらーい。でも、食べたら、モリーせんせいみたく、くるくるってできる?」
「そうだねえ。トマトも、他のお野菜も、お肉やお魚もたくさん食べて、いっぱい練習したら出来ると思うよ? でも今日は、少しだけ食べてみようか。美味しかったら、おかわりしたらいいからね」

 この教室では、自分で作ったものは出来るだけ完食するのがルールだ。食べることの楽しさとともに、基本的なマナーや食材を大切にする心も自然に身につけさせる。「親が言って聞かない事も、モリー先生が言うと素直に聞く」ともっぱらの評判だ。

 ベジタブル & フルーツマイスターをはじめ、野菜や食育関連の資格を片っ端から取りまくっていることは、親からの信頼を得ている要因の一つと言えるだろう。一方子供たちから見れば、アクロバティックな登場の効果はもちろんだが、低身長&童顔という見た目に親近感が湧くのかもしれない。



 全員の盛り付けが完了すると、撮影タイム。SNS全盛のご時世、これが案外好評だ。
 道行もテーブルを回って親子の写真を撮ってやり、また自らも一緒に写真に入ったりと、存分に楽しんでいる。
 全員で手を合わせ、「いただきます」の掛け声の後は、付き添いの親にもカメラには触らせない。食事中の写真撮影は禁止。代わりに、道行が参加者のカメラを借りて撮影して回る。
 彼らが食べている間は他にすることも無いし、マナー違反とわかってはいるが食べている我が子の写真を撮りたい、という親にとっても、一石二鳥なのだ。

「モリーせんせい、おかわり!」
「お! 全部食べたのか。偉いねえ。よし、お皿持って取りにおいで」

 完食した、ましてや嫌いな食べ物を克服した子供の表情は、何度見ても素晴らしい。達成感に満ち、文字どおり、誇らしく輝いているのだ。
 道行は皿を受け取ると、両手を挙げてハイタッチし、思い切り頭を撫でてやる。子供らはそれぞれ、得意気だったりはにかんだりと反応は様々だが、皆嬉しそうだ。

 食事を終え、全員で「ごちそうさまでした」をすると、後片付けタイム。
 本来なら洗い物も教えたいところだが、公民館の水道は使えないので、全員でゴムベラなどを使って食器に残ったものを集め、軽く皿を拭って終了。あとは道行が、家に帰ってからまとめて洗う。


 大はしゃぎでなかなか帰りたがらない子供たちをなんとか見送り、教室は終了。あとは撤収作業と公民館の職員への挨拶を済ませて、家に着いたら洗い物とブログ更新………そして、スタジオ練習。ライブが近いので、練習の頻度が高くなっている。道行は客演で出番も少ないけれど、他のメンバーはもっと練習している筈だ。



 ☆☆☆☆☆



 用事を済ませて店に向かうと、珍しく親父が遠くから声をかけてきた。

「おーい道行、ついさっきまでな、お前の料理教室の生徒さんが来てくれてて……」

 ジェスチャーで方向を尋ねると、親父は大きな仕草で駅の方を指差した。頷いて、すぐにそちらへ駆け出す。と、すぐに彼らを見つけた。

「アイカちゃん、みひろくん」

 背後から声をかけると、一行が驚きの表情で振り返った。

「お店まで来てくれたんだね、ありがとうね。わざわざ、ありがとうございます」

 子供達がそれぞれ足にしがみつき、きゃあきゃあ騒ぐのに返事をしつつ、お母さん方に頭を下げる。
 「あらまあまあ、こちらこそ。わざわざ追いかけてきて下さったの?」 と恐縮しきりのお母さん方に微笑みかけ、「いえいえ、せっかくですから」と曖昧な返答。

「駅までですか? でしたら、ご一緒に。もし良かったら、ですけど」

 小首を傾げて愛嬌2割増しスマイル。反応は上々。よし、リピーターゲット。
 子供達を両手にぶら下げながら、駅までの短い道のりを楽しく談笑。我ながら少々あざといとは思うけれど、愛嬌で顧客獲得できるのは今のうちだけだ。お得意さんになってくれるかどうかは、これからの信用次第。

 彼らが改札を通るのを手を振って見送ると、道行は駅を出て商店街の反対方向へと足を向けた。
 父親に電話をかける。今日はこのままスタジオ行くわ。うん、うん。帰りは遅くなるから。じゃあ。
 
 この親父というのが今時珍しい昔気質の鉄火親父で、我が息子は大学卒業後すぐに店に入り店頭に立って修行をするのだと頭から決めつけていた。
 ところが意に反し、単独で飛び回っては新規顧客の開拓、いつの間にか取得していたヨコモジ資格をひけらかして(と実際に言った)なんちゃら教室を開催、パソコンだかワープロだか知らないがチャカチャカやってるばかりで一向に店に出ない息子を叱り飛ばし、一時は険悪な状態にもなったものだ。
 しかし、飲食店への新たな販売ルートや大型商業施設の朝市への出店、つい今しがたのように新たな顧客などの実績を重ねるにつれ態度を少しずつ軟化させ、今では道行の活動を応援してくれている。
 最も大きかったのが、商店街の中で共用できる買い物カートを設置したことだった。
 客は、商店街の入り口にある森井青果店の店頭から自由にカートを持ち出し、あちこちで買い物をして、買い物を終えた店に放置して帰ることが出来る。使用済みのカートは、その店の者が戻しに来たり、道行が自ら回収しに出向いたり。
 当初、古参の店主の中には難色を示す者もあった。だが、客からは便利になったと好評、実際に商店街への人出も格段に増えたということで、道行の、ひいては森井青果店の商店街全体への貢献として認められたのだ。

 親にとって、息子が地元の面々に賞賛されるというのは格別に嬉しいものらしい。今まではライブ出演などには「飛んだり跳ねたり歌ったりなんて」といい顔をしなかったものだが、さっきの電話では頑張れとまで言っていた。変われば変わるものだ。



(お、前方にハルくん発見! よし……)

 道行は足音を忍ばせて近づくと、一気に距離を詰めて正面に回り込んだ。

「おりゃ!」と鼻先すれすれに回転蹴りを見舞い、腰を落として着地。そして決め台詞。

「フレッシューグリーン、ただいま参上!」


 いつものように道行の攻撃をクールに躱したハルだったが、今日はその背後から変なのが現れた。

「んだてめえこのチビ、ボコされてえのか」

 金髪を逆立てピアス満載の男が、顎を突き出し首を激しく上下させ、威嚇しながら詰め寄ってくる。え、誰? このヒト。

「ハルさんに何の用だオラ話あんならオレが」

……何かすごい息巻いてるけど、なんて言ってるかわかんない………


「オイやめろ、俺のツレだ」
「マぁジすか何なんすかこのチビ、てめ俺の方がぜってぇつえーから」

……うわぁ……まだ居るんだ、っていうかホントに居るんだ、こういうヒト………


 安っぽいドラマのチンピラみたいなキャラの男に妙に感動してしまい、まじまじと眺めていると、ハルが彼の肩をポンポンと叩き始めた。はいはい、落ち着け、どうどう………

「これがさっき話した、幼なじみの道行」
「はぁああああ?」

 男は素っ頓狂な声を上げたかと思うと、ものすごく怪訝なしかめ面で、全身を舐め回すように観察してくる。すごい、このヒト感情が表情どころか全身に出まくっちゃっってる。もしこれがジェスチャークイズだったら、全問正解出来る自信がある。


「これが、ハルさんの尊敬する兄貴も認める男? しかもハルさんより強いとかあり得なくないすか? そりゃまあ、さっきのはちょっとビビったけどあれは急に来たから」

「いやマジで。こいつ背は低いけど合気道段持ちだし、俺の知り合いの中じゃ最も漢気に溢れた、最高にイカす男だ」

「いや合気道とかダセエし空手とかボクシングのがぜってぇつえーし、つかストリートファイトだったら俺だって」
「止めとけ。空手も昔やってたし、こいつ怒らせたらお前、手首足首ポキーだぞ。ポキー」

「……いや、そんなことしないから……」

 道行の苦笑いに俄然勢いを取り戻しかけた男だったが、次の言葉でまた怯んだ様子を見せた。

「せいぜい関節痛めて数時間動き止めるぐらいで。あんまりやっちゃうと、治療費やら逆恨みやらで面倒だもん」


 すっかりおとなしくなった男を興味深く観察したかったのだが、道行はハルに促され、スタジオの階段を降りた。頭上から聞こえてくる、こんこんと説教するハルの声を聞きながら。



 ☆☆☆☆☆



 数曲演奏し終え、ひとり小休憩中の今、道行は戸惑っていた。さっきから、やたらと目をキラキラさせたチャラ男とやらに馴れ馴れしく付きまとわれ、辟易気味だ。何このヒト、急に……

 手伝うつもりで機材にちょっかいを出してハルに追い出されたチャラ男くんは、道行の戸惑いなど一切気にせず、クネクネしながら機嫌よく喋りまくり、自分の言葉に自分で笑ったりしている。

「将来好きな女を守る為に強くなるとか、マジかっけえすね! しかも合気道ってぇ、相手を倒すためじゃなくて、動きを止めて逃げる隙を作るためとかって! ガチクールじゃないっすか!クールジャパンっすよ! マジで! パネえ!」

「ああ、えっと、どうも……」

 どうやら彼は、先ほどのハルの説教に感動したらしい。っていうか僕、闘わないから負けないってだけで、別にハルくんより強いとかじゃないんだけどね……


「しかもモリーさん、歌クッソ上手いじゃないすか! なんなんすか!マジ鳥肌っすよ!」

 ヒョオオオ! とおかしな叫び声をあげながら、ジタバタしている。

「あの、えっと……チャラ男くん? でいいの?」

 と、チャラ男は急に道行の肩にもたれかかり、顔を寄せた。

「ちょぉ、モリーさんまで勘弁してくださいよぉ、チャラ男じゃなくて寺尾っすよ。寺尾保雅」
「テラオ、ヤスマサ……」
「そうそう。ジジ臭い名前でヤなんすよぉ。だからホウガって呼んでくださいよ、ホーガ。カッコいいっしょ?」
「え、なんかヤダ。恥ずかしい。あと、近いから。顔近いから、ちょっと離して」

「なぁんすかぁ、冷たいじゃないっすか。あ、クール系っすか? やっぱクールジャパン的な?」

 道行の腕をがっちりホールドし、肩に顔を擦り付けてくる。ちょっとマジで何なの、このヒト……
 逃れようと身を捩っても、「いい匂いっすね、何つけてんすか?」とグネグネしながら腕を離さない。マジやめて、みんな見てるし。ってかおかしいよね、このヒト距離感おかしいよね……?

 そこへ、救いの女神が顔を覗かせた。

「あ、みっちゃん居た」

 花奈が、階段の上からひらひらと手を振っている。練習が終わったら食事する約束をしていたのだ。
 約束があるからとチャラ男、もとい、寺尾を振り切り、道行は階段を二段飛ばしで駆け上がった。「彼女さんっすかぁ? めっちゃカワイイじゃないすかぁ」とかなんとか喚く声を背中に聞きながら。




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