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==仙台==

1987年。初秋

 

ダイアリーの日付が九月に変わってから何日かが過ぎた。

分厚い日差しが照りつけていた仙台の街も少しづつ枯葉色に染まり始めている。

とはいえ、体にまとわりつくような生ぬるい風は相変わらずまだ夏のままで、私は家までの道を小走りに歩きながら、着ていたシャツの袖を思い切りまくり上げた。

「ただいま」

「お帰り、麻衣。ごはんは?」

「いい、バイト先で食べてきた」

私は母にそう答えると、リビングには寄らずに階段を駆け上がり、まっすぐ自分の部屋に行った。

そして、汗ばんだシャツを脱ぎ、部屋着代わりのTシャツに着替え、ベッドに腰を下ろした。

とその時。何となく嫌な予感を覚え立ち上がった。

---もしかしたら・・・

慌ててバッグの中をまさぐると、案の定昼間買っておいた毛糸玉がない。

きっとバイト先のロッカーの中に・・・

私は力が抜ける思いがした。

今夜こそセーターの前身頃を一気に編み上げてしまうつもりだったのに。肝心の毛糸を忘れてきてしまうなんて。

この数日間、私が慣れない編み物に必死で取り組んでいる理由はーー

高一の時から四年間お付き合いをしている彼に愛情のこもったハンドメイドのセーターをプレゼントするためだ。

七才年上の彼ーー貴志は、二年前に大学院を卒業し、現在はあるメーカーの研究室に勤務していて来月には三か月の予定で本社のあるカナダに出張に行くことになっていた。

その出発の日まであと一か月と少し。

それまでには何が何でもセーターを完成させなければ。

今日も短大で友達の千加と広美から

「編み棒もろくに持ったことのない麻衣がセーターなんて編めるわけ?」

「意地張らないでマフラーにしちゃえば?」

とサンザンからかわれたばかりだった。

ーーよし、取りに戻ろう。

私はTシャツの上に薄手のパーカーをはおり、父親と共有している車のキーを持って部屋を飛び出した。

「麻衣、また出かけるの?」

私の足音にリビングにいた母が顔を出した。

「うん、ちょっと忘れ物」

「今何時だと思ってるの。明日にしなさい」

「すぐ帰るから。お父さんに車借りるね、って言っておいて」

私はまだ何か言いたそうな母との会話をむりやり打ち切って玄関を出た。

急がないとバイト先のお店がクローズしてしまう。

それでなくても最近、この時期になってまだ就職の決まらない私に対する母の風当たりが強くなってきている。

まともに対応していたらそれこそいつ解放してもらえるかわからない。

私は玄関脇のカーポートに停めてある車に乗り込み、ダッシュボードから適当な曲を選んで、父か聴いていたらしい演歌のカセットと交換すると、慎重にアクセルを踏んだ。

私がウェイトレスのアルバイトをしている「オリーヴ」はパスタメニューを主にしたカフェレストランで、女子大生やOL達の間では穴場的存在として結構人気のあるお店だった。

バイトを始めたのは短大に入学してすぐの頃だから、かれこれもう一年と半分くらい続けていることになる。

「アルバイトなんかする暇があったら就職のことをもっとしっかり考えたらどうなの」

母からは顔を合わせるたびに文句を言われるけれど、私は当分バイトを辞めるつもりはなかった。

店の従業員はちょっと気難しい店長を除けば皆いい人達ばかりだし、大体親からもらうお小遣いだけではろくに洋服も買えない。

それに----来年はもう卒業だけれど、母の言うように真剣に就職活動をしようという気には今一つなれなかった。

特にやりたいと思う仕事もないし、自分に何か特別な才能があるとも思えない。

もし可能ならこのまま「オリーヴ」で働き続けてもいいし、一年生の時に取ったワープロ二級資格を武器に派遣社員として働く方法もある。

母に話したらきっとこっぴどく怒られるに違いないけれど、私自身はずいぶんのんびりしたものだった。

 

「オリーヴ」が入っているビルには15分ほどで着いた。

ビルの裏手にあるパーキングに車を止め、急いで道路を横切ろうとした時ーー

「岩崎さん」

誰かが私の名前を呼んだ。

振り向くと白いコック服を着た男の子が、両手に破裂しそうなほどふくらんだゴミ袋を下げて立っている。

「どうしたんすスか?こんな時間に」

「あの・・・」

私は彼の名前を思い出そうとして口ごもった。確か…つい最近入ったバイトの男の子だ。どう見てもまだ高校生のようだけれど。

まともに顔を合わせたのは今が初めてで、どうしても名前が出てこない。

彼が私の名前を知っていることが不思議なくらいだった。

「何か忘れ物したんなら俺が取ってきてやるよ。この時間じゃロッカールームなんかもう真っ暗だぜ」

「でも悪いから」

「いいって、いいって。これ捨てたらどうせもう終わりだから」

彼は二つのごみ袋をパーキングの隣にある集積場にポーンと放り投げた。

「じゃあお願い。黄色の紙袋なの」

私はキーホルダーから自分のロッカーの鍵を外し、彼に手渡した。

ロッカーの中身は、店から支給されているエプロンと替えの靴くらいのものだから、他人に開けられたところでどうということもない。

「ちょっとここで待ってて」

彼はうなづいて走り出すと、あっという間に毛糸の入った紙袋を抱えて戻ってきた。

「ほら、これだろ」

「ありがと。助かっちゃった」

私は彼に心からお礼を言った。これで今夜は思う存分編み物ができる。

「じゃあね」

私が歩き出すと、なぜか彼も自由になった両手をブラブラさせながら後を付いてくる。

「どうしたの?私に何か用?」

「あのさ、これからどこかに遊びに行かない?カラオケでも何でも俺付き合うよ」

「何言ってるの、あなたまだ高校生でしょう。早く帰らないとお母さんが心配するわよ」

「ちぇっ、年上ぶっっちゃってさ、つまんねーの」

彼は母親に叱られてすねている子供みたいに唇を尖らせた。

「じゃあ今度一緒にメシ食いに行こう、俺おごるからさ」

「いいけど、機会があったらね」

「ほんと?約束だよ」

「はいはい」

私は子供をあやすように適当に受け流して車のドアを開けた。

今までろくに口をきいたこともない年下の男の子から、どうしてこんなに興味を示してもらえるのか全くわからなかったけれど、とにかく今は一刻も早く家に帰りたい。

「今日は岩崎さんと話ができて嬉しかった。俺、初めて会った時から麻衣さんのファンだったんだ」

彼は薄茶色の前髪を片手でかき上げると、

「俺、坂本。坂本雅仁(まさひと)。覚えといてよ」

切れ長の目を細めていたずらっぽく笑ってみせた。

その笑顔はなぜか妙に印象的だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2

街の中から夏の名残りをすべて奪い去るように、9月が過ぎて行った。

貴志が日本を発つ日の朝。

私は駅構内にあるカフェで貴志を待っていた。

この店は、コーヒーがおいしいのと、貴志の会社から近いという理由で今までにも何度か利用したことがある。

ミルクをたっぷり入れたコーヒーを半分ほど飲んだところで、スーツ姿の貴志が特大のサムソナイトを押しながら店の中に入ってきた。

「悪い、待たせちゃったね。出がけに課長から電話が入って」

「いつものことだもん、待つのは慣れてます」

「まいったな-ーあ、僕もコーヒーを」

私は無愛想なウェイトレスが伝票を持って行ってしまうのを待って、

「はい、これ」

薄い和紙で包んだセーターを、貴志の前に差し出した。

本当はもう少しラッピングにも凝りたかったのだけれど、実は今朝、家を出る直前まで編み棒を動かしていたので、とてもそこまで手が回らなかったのだ。

「クリスマスプレゼントにはまだだいぶ早いけど、今年はクリスマスに会えないでしょう。だから絶対直接手渡したいと思って頑張ったの」

「驚いたな。麻衣から本当にセーターをもらえるとは思わなかった。正直言って半信半疑だったんだ」

「セーターのつもりがマフラーになっちゃったとか言うと思ってたんでしょ。ねえ、ちょっとあててみて」

「ああ」

貴志は、私の努力の結晶ともいえるセーターを丁寧に広げた。

よく見ると、網目はところどころ不揃いだし、袖の長さも微妙に違ってしまっている。

それでも私は、誰の力も借りずに何とかセーターらしきものができあがったことに満足していた。

それに思った通り、少しくすんだグリーンは貴志の雰囲気によく似合っている。

「これでカナダの寒い冬も乗り切れるよ。ありがとう」

貴志の口から、”カナダ”という言葉を聞いたとたん、私は急に現実に引き戻された。

今日から三か月も貴志と会えないなんて。

付き合いだしてからそんなに長く離れるのはもちろん、クリスマスを別々に過ごすのも初めての経験だった。

仕事なのだから仕方がないと納得していたはずなのに、いざとなるとやっぱり淋しくなってしまう。

私のふさぎ込んだ顔を見て、貴志は目を細めて笑いながら、

「できるだけ電話を入れるし、手紙も書く。約束するよ。それより麻衣も僕がいない間いい子にしてるんだぞ」

そう言って、私の頭をくしゃくしゃっとなでた。

こんなふうに、貴志はいつも私のことを子供扱いする。

----四年前。高校生になってすぐの夏休み。

通っていた塾の夏期講習に臨時の講師として来ていたのが、大学四年生の貴志だった。

銀縁眼鏡の奥の優しそうな瞳と、穏やかな話し方に私はすぐに好感を覚えた。

苦手のはずの科学も、彼に教えてもらう限り理解できるような気がした。

実際、貴志の授業はとてもわかりやすき、生徒の間でも評判が良かった。

二人だけでドライブに行ったのは、明日で夏期講習が終わるという日の夜。

私が何かしゃべるたびに

「高校生の女の子っておもしろいな」

貴志はそう言っておかしそうに笑った。

あれから・・・私はいつも貴志のそばで青春を過ごしてきた。

貴志と比べたら同年代の男の子はみんな子どもに見えたし、興味も持てなかった。

私が貴志のことをどこかで優しいお兄さんみたいと感じているように、貴志から見た私はいつまでもあの頃の「高校生の女の子」のままなのかもしれない。

「じゃあ、そろそろ行くよ」

貴志が煙草を灰皿にもみ消すのに合わせて私は席を立った。

ホ-ムには貴志の会社の人たちがたくさん集まっているというので、私は入場券を買わずに改札口の前で別れることにした。

「体に気を付けてね」

「ああ、麻衣も。向こうに着いたら連絡するよ」

エスカレ-タ-を上ってゆく貴志の後姿が完全に視界から消えてしまうと、私は急に知らない場所に置き去りにされたような心細さを覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


3

その週の土曜日。

「オリ-ブ」は珍しく混み合っていた。

お客さんの中にはもう厚手のセ-タ-を着込んでいる人もいたけれど、働いている側としてはセ-タ-どころか冷房を入れたくなるほどの忙しさだった。

湯気の立っているミ-トソ-スとコ-ヒ-を運びながら、私はちらりと壁の時計を見た。

バイトの終了時間はもうとっくに過ぎている。

でも、今日は他のバイトの子が一人、風邪を引いて休んでいたし、この状況ではとても帰れそうにない。

内心うんざりしながら、食器を片付けていると、

「麻衣ちゃん、あとは私がやるわ」

それまでレジを打っていた薫さんがそう声をかけてくれた。

薫さんはここの社員で、いつもは店長と一緒に上の事務所で経理の仕事をしているのだけれど、今日のように人手が足りない時は現場にヘルプとして入ることもある。

年齢は・・・たぶん二十代後半くらい。

でも、ミニスカ-トがよく似合うすらりとした脚と透き通った肌は、同性の目から見ても感心する位美しくて、私はそんな彼女のきりりとした雰囲気にひそかに憧れていた。

情報通のバイトの子から聞いた話によると、薫さんは以前東京のかなり大きな会社で秘書の仕事をしていたらしい。

そんなひとがどうしてここで働くようになったのか。

そのへんの事情は全くわからなかったけれど。

 

タイムカードを押して外に出ると、ひんやりとした風が疲れた体をくるむようにして通り過ぎていく。

私は、持っていたジャケットに袖を通し、バス停に向かって急ぎ足で歩き出した。

その瞬間、

「岩崎さあ-ん」

何となく聞き覚えのある声に振り返ると、

「ひで-なあ。無視して行っちゃうんだから。俺、ずっと待ってたんだぜ」いつかの高校生-ーー坂本くんがビルの前に立っていた。

「私を待ってたって・・・どうして?」

私の驚いた顔を見て、彼はまたあの時のように唇を尖らせた。

「だってメシ食いに行くって約束しただろ。俺、今日バイト休みだったし、早くしないとバイト代なくなっちゃうと思って」

私はあっけにとられてしまった。

確かに約束をしたことになるのかもしれないけれど、そのこと自体今の今まですっかり忘れていたし、はっきり言って本気にしていなかったのだ。

「俺さ、うまい焼肉屋知ってるんだ」

「でもね・・・」

「いいじゃん行こうよ。俺がおごってやるからさ」

別に、おごるからという彼の言葉につられたわけではないけれど、彼の勝手な行動とはいえ、せっかくこうして待っていてくれたのに、むげに断ってしまうのもなんだか悪い気がした。

それにお腹の方もお昼にサンドイッチをつまんだきりだったので、もうペコペコだった。

「よし決まり。行こう」

彼は器用に指を鳴らしてみせると、私の前に立ってさっさと歩きだした。

しばらく一緒に歩いているうちに、私は妙なことに気が付いた。

私たちとすれ違うほとんどの人が一瞬びっくりしたような表情を見せるのだ。

中にはわざわざ振り返る人までいる。

もちろん見られているのは私ではなく、彼の方だ。

「いいよ、気にしなくても。慣れてるから」

当の本人は動じる様子もなく、ケロリとして前を向いている。

私にもすぐその理由がわかった。

今まで気付かなかったけれど、彼は驚異的に背が高いのだ。

もしかしたら二メ-トルをゆうに超えているかもしれない。

「まさか、それじゃ化け物だよ。193センチくらいかな。ここしばらく計ってないからもう少し伸びてるかもしれないけど」

私も女性にしては決して背が低い方ではないけれど、二メ-トルに限りなく近い高さというのは実際並んでみると相当な迫力だ。

自分が小人にでもなってしまったような、何だか変な感じだ。

「何かスポーツでもしてるの?バスケとかバレーとか」

「別に。スポーツは嫌いじゃないけどクラブ活動ってのが性に合わないから今は何もしてない。いろいろ規制されるのが苦手なんだよね、俺。親父も弟もでっかいからたぶん血筋だと思うよ。ーーあ、ここここ」

彼は通りに面したこじんまりとした店の前で立ち止まった。

木枠で仕切られたガラス戸を開けると、

「あらあ、坂本君いらっしゃい。久しぶりね。元気だった?」

店の奥から派手な顔立ちの女性がにこにこしながら近付いてきた。

「こんにちは、おばさん。またメシ食わしてくれる?」

「今ちょうど暇になったところなのよ。ゆっくりしていって」

彼女は彼の後ろに隠れるように立っている私にもちらりと目を向けて、また奥のほうに行ってしまった。

「俺、前にここで一か月くらいバイトしてたんだ。あのおばさんにはずいぶんかわいがってもらってさ。今もこうしてちょくちょく遊びに来てるってわけ」

「彼女と一緒に?」

私はわざと唐突にそう聞いた。

「彼女?」

「クラスの女の子を連れてきたことは何回かあったかもしれないけど・・・でも別にそんなんじゃないよ」

彼は一瞬驚いたように私を見てきっぱりとした口調で言った。

私にはそれ以上彼を追求する権利も意思も全くなかったけれど、さっき私を見た時のあのおばさんの視線--

その中にかすかな戸惑いが含まれていたような気がしたのは、もしかしたら私が彼女の知っているいつもの女の子とは違っていたせいかもしれない。

私は彼のテリトリ-の中に突然放り込まれてしまったような居心地の悪さを覚えて、テ-ブルの下の足を組み直した。

ほどなく肉と野菜の盛られた皿が運ばれてきた。軽く三人分はありそうな量だ。

「きたきた。さっ食おうぜ」

「こんなに食べきれるかしら」

「これくらい軽い軽い」

彼は身を乗り出してきれいな赤身の肉を鉄板の上に並べ始めた。

そして焼きあがったそばから次々と口の中に放り込んでいく。

一人っ子でしかも女子高育ちの私は、若い男の子の食欲がこれほど旺盛なものだとは知らなかった。

私はその食べっぷりに圧倒されて、箸を持ったまましばらく呆然と彼の様子を眺めていた。

「あれっ、どうしたの。全然食べてないじゃん」

「あ...そうね」

彼に言われて、私は慌てて鉄板の隅から焦げかけたピ-マンを取り上げた。

「もしかして岩崎さん、肉嫌いだった?」

「ううん、そんなことないけど、坂本君があんまりおいしそうに食べるからー」

「あのさあ、その坂本君ってのいまいちなんだよな」

「だって他になんて呼べばいいの」

「‘ガジン‘でいいよ」

「ガジン?」

私は耳に飛び込んできた単語を聞いたままに繰り返した。

「俺の名前、雅仁だろ。だからガジン。もちろん本当はまさひとって読むんだけどさ。友達はみんなガジンっていうんだ。その代わりってわけじゃないけど、俺も岩崎さんのこと名前で呼んでいい?」

「まさか呼び捨てにするとかいうんじゃないでしょうね」

「とんでもない。いくら俺でもそこまで図々しくないって」

いつのまにかあれほどあった肉はきれいになくなっていて、皿の上には野菜の切れ端がわずかに残っているだけだ。

ーーついつられて食べすぎちゃった。

私はジ-ンズの上からおなかの辺りをそっと押さえた。

せっかくダイエットしていたのにもう台無しだ。

「麻衣さん、ビール飲む?俺も付き合うよ」

「何言ってるのよ、高校生のくせに」

「すぐそうやって年上ぶるんだから。関係ないよ。制服着てるわけじゃないし」

ガジンはごく当たり前のように言った。

きっと彼にとっては日常的なことなのかもしれない。

ビールを飲むのも。そして女の子を気軽に誘うことも。

 

 

 

 

 


この本の内容は以上です。


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