お化け坂シリーズ
目次
「帰り道」(共幻文庫短編小説コンテスト2015出品作)
「3つの手の物語」
「お化け坂」(第1回ショートショート大賞/共幻文庫短編小説コンテスト2016出品作)
「あいつ」
「笑う幽霊坂」(共幻文庫短編小説コンテスト2016出品作)
「恨みの短冊」(共幻文庫短編小説コンテスト2016出品作)
「お化け坂を訪ねて」
「見えない叫び」
「びっくり妖怪大図鑑」
「怪しい影」(「ピンクの怪物」より)
「性器の怪物」(18禁)
解説
「3つの手の物語」
1 (帰り道)
その坂は、夜になると、お化けが出てくると言うウワサがたつほど、暗くて、淋しい場所だった。
吹奏楽部の練習が長引いて、つい夜遅くまで学校に残ってしまった一恵は、その坂を前にして、こんな時間に帰宅する事を、今ごろになって悔やみ始めていた。
一緒に部活に出ていた部員仲間たちは、帰る方向が違うので、とうの昔に別の道で別れている。一恵だけは、この坂を登らないと、自分の家までたどり着かないのだ。
実は、一恵も、夜中に一人だけでこの坂を通るのは、はじめての体験だった。いざ、それが現実になってみると、この坂がこれほど怖く見えるとは、一恵自身もはじめて気付かされたのだった。
坂へ向かっての一歩が踏み出せず、一恵がおろおろし続けていた、その時である。
「君も今帰るところなのかい」
男子の声が、一恵の耳に聞こえてきた。
声の方に振り向いてみると、そこにいたのは、一恵と同じ中学に通っていたF先輩である。
F先輩は、かっこよくて、爽やかで、学校の人気者だった。多少は彼と面識があった一恵にとっても、当然ながら、憧れの先輩なのであった。
「この坂、一人で歩くには淋しいよね。オレの家、この坂を登った、すぐ先にあるんだ。そこまでだけど、一緒に歩こうか」
憧れの先輩からの、実に素敵な提案だった。
さっきまでは坂に怯えていた一恵であったが、たちまち胸がキュンとなってしまった。
「あ、ありがとうございます」
一恵は、ためらわず、F先輩の好意を受け入れた。
F先輩にしてみれば、夜道で心細そうにしている後輩を見かけたら、声を掛け、付き添ってあげるのは、年長者としての当たり前の心がけのつもりだったのかもしれないが、一恵の側にしてみると、あまりに嬉しすぎる展開なのだった。
F先輩はすぐ一恵の左の方へ並ぶジェントルマンぶりを見せると、ゆっくりと歩き出した。
「怖くないよ。オレ、帰るのが遅くなる事が多いからさ、ライトも持ってきてるんだ」
F先輩はそう言うと、ペンシル型の小さな懐中電灯をポケットから取り出し、左手に持って、すぐ前方を照らしてくれたのだった。
やる事なす事が全てスマートで、気が利いているF先輩なのだ。
しかし、このあと、またしても一恵の胸をときめかせる出来事が起こったのだった。
一恵の左手に、温かく、柔らかいものがさりげなく触れたのである。きっと、F先輩の右手だ。しかも、それは積極的に一恵の左手に絡んできたのだった。
ドキリとした一恵は、思わずF先輩の顔を見たが、F先輩もとぼけてるのか照れてるのか、まっすぐ前方ばかりに目を向けていた。
よく考えたら、一恵の方の考え過ぎだったのかもしれない。特別な意味はなくて、F先輩は怖がっている自分の事を勇気づけてくれる為に、ただ手も握って歩いてくれようとしているだけなのだ。普通はそんなものではなかろうか。
一恵は何となく、一人で納得したのだった。
ドキドキしながらも、彼女は、相手の大きくて、温かい手を握ってみた。すると、相手も優しく、一恵の手を握り返してきたのだった。
一恵は、何とも幸せな気持ちに包まれた。この時間が永遠に続けばいいのに、とすら願いかけた。
さっきまで、あれほど、この坂の事を怖がっていたくせに、全く、女と言うのは現金なものである。
坂を歩いている最中、F先輩は時々気遣うように一恵にたわいもない事を話しかけてきてくれたが、一恵の方は左手にすっかり神経が集中してしまい、身も心も興奮した状態で、上の空だった。なんとも、少女の純愛とは、くすぐったくなるような微笑ましさなのだ。
やがて、二人は坂を登り終えた。
F先輩は、静かに一恵のそばから離れた。一恵の方は、手も離したと言うのに、まだ夢心地に浸っているようだった。
「じゃあ、オレはここで帰るから。あとは、明るい道ばかりだから、一人でも怖くないだろ?」
そう言って、F先輩は右手を振って、一恵にさよならしようとした。
その時、一恵は、F先輩が右手に包帯を巻いていた事に気が付いたのだった。今までは、暗くて、よく見えてなかったのである。
「あ、あの、先輩。その包帯は?」
恐る恐る、一恵はF先輩に尋ねた。
「これかい?昨日、部活の最中にドジって、ケガしちゃったんだよ。かっこ悪い話だよな」
F先輩が照れ臭そうに頭をかいた。
でも、一恵がさっきまで握っていた右手には、どこにも包帯など巻かれていなかったのである。あの手は、一体、誰だったのだろう?
初出/共幻文庫短編小説コンテスト2015 第11回 お題「手」(原題「帰り道」)
2
その時、徳一は地獄の海の中であがいていた。
比喩で、そんな言い方をしているのではない。本当に地獄の海としか呼べないような場所だったのだ。
空はどす黒く曇り、怪しい鳥が沢山飛び回っている。周囲に陸とおぼしき場所は見当たらず、水も気味悪く濁っていて、激しく荒波が立っていた。とても現実世界の光景とは思えない。
そんな場所で、徳一はあっぷあっぷと顔を浮き沈みさせながら、溺れていたのだ。
なぜ、こんな事になったのだろう。徳一には理由がさっぱり思い出せなかった。しかし、もしここで完全に沈んでしまえば、きっと自分は間違いなく死んでしまうであろうと、それだけは本能ではっきりと分かったのであった。
徳一は、生きる為に必死に体を動かしたのだが、それでも状況は大変に不利だった。薄汚れた周囲の水は、実は海水ではないのか、あまり浮力がつかなかった。徳一の体は、少し油断すると瞬く間に下へと沈みだしてしまうのである。
こんな状態が長く続くうちに、徳一の意識も体力もじょじょに低下しだした。事態はいよいよもって危うくなってくる。
頑張っても、徳一は頭を水面上に出し続けるのが本当に難しくなってきて、体はどんどんと水の底へと沈み始めた。
このままではまずいと感じた徳一は、思いっきり右手を上へと伸ばした。
そこで、不思議な出来事が起こったのである。
絶対に他に誰もいないと思われるこの場所で、伸ばした右手の先が何か人間の手のようなものに触れたのである。
まさに、救いの手であった。
疑問を感じる余裕もなく、徳一は迷わずその手を握った。どうやら、屈強な男の右手らしかった。
何者の手かなんて、詮索しているどころじゃない。その手に引っぱり上げてもらおうと、徳一は必死にしがみついたのだ。
しかし、その手の反応は冷たかった。徳一の事を持ち上げてくれるどころか、ひどく拒絶的で、しきりに徳一の右手を振り払おうとしてくる。全然、救助の手などではなかったのだ。
あまりに激しく、その手が逃げようとするものだから、徳一もそれ以上、掴まり続ける事もできなかった。
とうとう、徳一はその手を放してやる事にしたのだが、困っている相手に対して、これほど反発する手の態度はあまりに不愉快だった。
そこで、相手の手が強引に徳一の手を引き離そうとした時、徳一の方もちょっと仕返しのつもりで、相手の手を強くひねってやったのである。
「ぎゃあああっ」
と、手の持ち主らしき男の声が聞こえてきた。
いきなり手をひねられて、さぞ痛かったのだろう。捻挫ぐらいはさせてやれたかもしれない。
徳一としては、ちょっとしたザマーミロな気分なのである。
しかし、徳一の方もまた望みが無くなってしまったのだった。
相変わらず、体は沈んでいく一方である。このままでは、やはり自分はここで溺れ死んでしまうのであろうか。
意識が薄れてゆく中、徳一はわずかな望みをたくして、もう一度、右手を上へと伸ばしてみた。
すると、またもや右手に誰かの手が触れたのである。
今度は、温かい女性のものらしき左手だった。その手は、徳一の手が触れると、最初はためらいがちだったが、やがて、しっかりと握り返してきてくれたのだ。
今度こそは本当の救いの手だ、と徳一は直感的に悟った。
相手の手は決して力を入れていた訳ではなかったが、何とも愛情いっぱいに徳一の手を掴んでくれていて、この手を握っているだけで沈んでいくのが引き止められ、徳一の心にも深い勇気と希望が湧いてきたのであった。
この調子なら助かるかもしれない、と徳一もぼんやりと思った。
その状態で、徳一の意識は次第に薄れていったのだった。
気が付いた時、徳一は病院の個室のベッドの上に横たわっていた。
まわりを見渡すと、そばには妻が心配そうに付き添っていて、自分も点滴を受けており、体のあちこちに包帯が巻かれていた。
「あなた、気が付いたのね!」
と、妻が嬉しそうに大声を出した。
「オ、オレは一体・・・」
目覚めたばかりの徳一はボソボソとつぶやいた。
「あなた、交通事故にあったのよ。ほら、通学路の途中に少し気味の悪い坂があるじゃない、あそこで轢かれて。今まで、ずっと昏睡状態だったのよ。このまま、意識が戻らないんじゃないかと心配したわ」
「そ、そうか」
と言う事は、今まで目にしていた、あの不気味な海のような場所は三途の川だったのであろうか。
そんな時、外からドアを勢いよく開けて、娘の一恵が急いで病室の中へと入ってきた。中学校から慌てて駆けつけてきたのか、学校の制服を着たままだ。
「パパ、大丈夫?良かった!目が覚めたのね!」
そう嬉しそうな声をあげながら、泣きそうな顔で一恵は徳一に飛びついてきた。
一恵に右手をしっかり握られて、徳一はハッと気が付いたのである。
ああ、この感触、この優しい温もり。あの時、オレを地獄の川から救ってくれた小さな手はこの手だ、と。
「パパ、どうしたの?」父親の微妙な表情の変化に気が付いて、一恵はきょとんとそう言った。
そうか。この子のおかげでオレは助かったんだな、と感慨深い思いにふけりながら、徳一も不思議な気持ちで娘の事を眺め続けたのだった。
3
福山は、陸上部のエースである。自分が校内の女生徒たちの憧れの存在であった事も、本人はそれとなく気が付いていた。
だからこそ、どんな場所でもかっこ悪い姿だけは見せられないのだ。
今日は、陸上部の自主トレの日だった。わざわざ、自分の練習している姿を見るため、グラウンドに顔を出している生徒もいるようなので、なおさらダラケているところとかは見られる訳にはいかないのだ。
「お前なら必ず県大会に出場できる」と、顧問の先生は言ってくれていた。
福山自身も、当然そのつもりであった。
これから、100メートルを走って、記録を計るところである。できれば、自己記録を更新したいと福山は考えていた。
コースのスタート地点に立つ。クラウチングスタートのポーズをとった福山は、静かにスタートの合図を待った。
大きく銃の音が鳴り響く。
同時に福山は走り出した。
なかなかの好調な走り出しである。これなら、自己新記録が出せるかもしれない、と福山は思った。
しかし、その時だ。突然、右手に激しい圧迫感を感じだしたのである。まるで誰かに強く握られているかのような感覚だ。走っている最中だと言うのに、急に肉離れでも起こしてしまったのだろうか。足ではなく手が肉離れすると言うのもヘンな話ではあるが。
右手の痛みを感じつつも、ここで走るのを放棄する訳にもいかなかった。福山はそのまま走り続けた。傷みを紛らわす意味で、右手を大げさに振りまわしながら。
だが、次の瞬間だった。今度は、右手にひねり上げられたような激痛が走ったのである。これには、福山もたまらなかった。
「ぎゃあああっ」と、彼は叫んだ。
そのまま、彼は急停止して、勢いあまって転がり倒れた。
全く、何が起きたのやら。その後すぐ、右手には保健室で包帯を巻いてもらったものの、福山にはさっぱり理由が分からなかった。
了
「あいつ」
あいつの姿は、どうも、主人には見えていないらしい。
その坂は、夜になると、お化けが出てくると言うウワサがたつほど、暗くて、淋しい場所だった。この坂を通るたびに、私と主人はあいつに出くわしていたのだ。
主人が気に掛けていない以上は、私もあまり、あいつの事で過敏になる訳にはいかなかった。あくまで私の方が、主人のパートナーだったからだ。
とは言え、それをいい事に、あいつの行動はどんどん大胆になっていくようにも見えた。
はじめて、あいつと出会った頃は、あいつも遠巻きに私たちの方を眺めていただけだったのである。しかし、会うたびに、あいつは確実に私たちのそばへと近づき始めていた。
あいつの顔だって、なんだか、挑発しているような笑っている表情に見える。明らかに、あいつは、私たちに対して、何らかの悪意を抱いていたのである。
最初の頃こそ、なんとか無視し続けていたものの、あいつがとうとう私たちの目の前にまで現れて、私たちの周囲をからかうようにうろつき出した時は、さすがに私も落ち着いてはいられなくなってきたのだった。
主人の目には可視できないと言う事は、あいつと接触しても、実際には何の悪影響も受けないと言う事なのだ。でも、私には、あいつの姿ははっきりと見えているのだから、逆にタチが悪かったのである。
ある時など、あいつは、いきなり私の前にと立ちふさがった。この時は、あまりに突然だったので、私もびっくりして、思わず踏ん張って、立ち止まってしまったものだ。おかげで、私の手綱を握っていた主人には、よけいな心配をさせてしまったようである。
「おいおい、どうしたんだよ」
と、その時の主人はぼやいていたが、私と主人は元から話を交わす事ができない。私は勝手に立ち止まってしまった事を主人に詫びる事も出来なかったし、あいつの存在を主人に説明する事も叶わなかったのである。
いよいよもって、あいつの行動は図々しくなってきた。
私も、あいつとぶつかっても何も起きない事をはっきりと認識して、あいつの事は必死に無視するようにし続けたのだが、それを承知で、あいつの挑発行為もさらに度が過ぎたものに変わっていったのだ。
私と主人が坂を通る時は、あいつは必ずまとわりついてきた。私の周囲で、うるさく動き回るのである。
いっそ踏みつけてしまいたいところだったが、こちらからあいつに触れても、空気のようにすり抜けてしまう事は、すでに何度か体験して分かっていた。
それでも、とうとう、私の堪忍袋の緒が切れてしまうような出来事が起きてしまったのである。
その日も私は、主人と一緒にその坂を渡っていた。例によって、あいつは現われ、私のそばに寄ってきたのだが、私はいつものように無視するつもりでいた。
ところが、次の瞬間、あいつは私の上へと飛び乗ってきたのである。
あいつに、それだけの俊敏さと跳躍力があったとは、私もその時はじめて知った。そして、同時に、ものすごく腹立たしい思いが私の内から湧き上がってきたのである。
なぜ、私があいつを乗せてやらなくちゃいけないのだ。あいつはこのまま、坂を通り過ぎるまで、私の上に乗っかっているつもりなのだろうか。
あいつときたら、私の上にふんぞり返って、これまた、憎々しいほど意地悪い笑みを浮かべている。
ええい、放せ!ここから、降りろ!
耐えきれなくなった私は、見境がつかなくなって、大切な主人をも引きずり回してしまう事も理解していた上で、ついには暴走をはじめてしまったのだった。
「何が起きたかですって?そりゃあ、こっちが聞きたいですよ。急に車が勝手に走りまくったんです。ブレーキを踏んでも、ハンドルを回しても、ぜんぜん思うように動かない。さいわい、大事になる前に止まったからいいようなもので、こんな事、長いこと車を運転してきたけど、はじめてです。車が故障したんでしょうかね。でも、あの坂を過ぎてからは、全く正常に戻ったんですよ。修理にも出してみたけど、どこにも故障は無かったって。あの坂では、前から車の調子がおかしくなる事が、よくあったんです。あの坂、お化けが出るって言うウワサがあるんだけど、まさか、そのせいじゃないでしょうね?」
了
「笑う幽霊坂」
その坂は、夜になると、お化けが出てくると言うウワサがたつほど、暗くて、淋しい場所だった。
そんな坂を、私は妻と一緒に真夜中に歩いていた。夏の日の特に暑かった夜の話だ。
静寂の中、鳥だか獣だか分からない生き物の不快な鳴き声だけが、やけに耳障りに聞こえ続けていた。どのように不快なのかと言うと、何だか人間の笑い声みたいな鳴き声なのである。それも、狂ったような笑い方なのだ。
「何が鳴いてるのかな」あまりにも気持ちが悪いので、私は思わずそう口にした。
「何のこと?」と、妻が私に訊ねた。
「お前にも聞こえているだろう。まるで人が笑っているみたいな鳴き声が」
「そうかしら。私にはそうは聞こえないけど」
「もっと耳を澄ましてごらん。絶対、笑い声に聞こえるよ。一体、何の動物なんだろう」
「まあ、うるさいのは確かね。発情期の鳴き声なのかしら。でも、笑い声には聞こえないわよ」妻もなかなか強情なのだった。
「カワセミが笑い声っぽく鳴くって話は聞いた事があるけど」
「バカねえ。それはワライカワセミの事よ。日本にはいないわ」
妻の美来はたびたび、私の事を見下したような態度をとる。そのへんもあまりカワイくないのだった。
「もしかすると、お化けの笑い声かもしれないぞ」さりげなく、私は言ってみた。
「お化けですって」妻が呆れたような顔になった。
「そうさ。この坂にはお化けが出るってウワサがあるんだ。それなら、地獄から舞い戻った幽霊が笑っている可能性だってあるだろう」
妻は鼻でせせら笑った。
「あなたって、つくづく子どもね。お化けなんて本当にいるはずがないじゃない。全く、話にならないわ。そんなもの、世の中のどこにいると言うのよ」
「お前がその幽霊なんだよ!」
私は大声を張り上げて、いきなり妻の首を両手で絞め上げたのだった。
私の突然の行動に、さすがに妻も驚いたようである。
「な、なにするの。すぐ暴力をふるうなんて、男ってほんとに最低よ!」もがきながらも、妻はなおも私を侮蔑する言葉を吐き続けた。
「お前は死んだんだよ!オレが殺したんだ。忘れたのか!」私は怒鳴った。
そうなのだ。あの時も、美来があまりにも私の事を見下し過ぎるものだから、つい衝動的にカッとなって、私は彼女の首を絞めてしまったのだった。気が付くと彼女は死んでいたが、死体を上手に始末する事で、美来は行方不明扱いとなり、私が警察に疑われる事はなかった。
美来は、そんな私の事を恨んで、化けて出てきたのだろうか。この坂の魔力を借りて。
再び殺されかけている妻は、苦しそうでも、私の事をあざ笑うのを止めようとはしなかった。いや、笑っていたと言うより、断末魔のうめきが嘲笑のように聞こえていたのだ。彼女の笑い声は、彼女の体を離れ、周囲全体へと広がっていくようにも感じられた。
あの不気味な動物の笑い声もまだ続いている。妻と動物の笑い声が重なり合っていた。いや、全く同じものだったと言ってもいい。あの動物の笑いは、実は妻の声だったのだ。それで、私はよけいにこの鳴き声に心をかき乱されていたのである。
響き渡る哄笑の中で、私の腕にはどんどん力が入っていった。私が我にかえった時には、妻の体はすでにぐったりとしていた。私が手を放すと、妻はそのまま地面へとゆっくりと倒れたのだった。
私は、落ち着いて、足元に転がっている妻の顔を見直してみた。この女、美来ではない。私の今の妻の過子であった。
私は、美来を殺したあと、この過子とすぐに再婚したのである。
これはまた、どうした事であろうか。
気味の悪い鳴き声に神経を逆撫でされて、私は錯乱状態に陥り、うっかり過子を幽霊と見間違えて、またもや盲目状態で殺してしまったのかもしれない。
何だか、とんでもない事態になってしまったようである。だが、悲しんだり、後悔している余裕もなさそうだった。
まずは、過子の死体を、誰かに見つかる前に片付けた方が良さそうである。
私は軽く周囲を見回してみた。人影はいっさい無い。
私は慎重に死体を背負ってみた。この坂の途中に置きっぱなしにしておく訳にもいかなかったからである。
こうしてオンブしていれば、人に出会っても、具合の悪い妻を介抱しているのだと言って、ごまかせるかもしれない。とにかく、死体を捨てるのは、この坂を離れてからでなければ難しそうだ。
私は、死体を背負ったまま、静かに坂を下り始めたのだった。
こうして過子をおぶってみると、彼女の体が意外なほど軽かった事に気付かされた。彼女は、元グラビアモデルであり、結婚したあともずっとダイエットを続けていたのだ。彼女の体の線が異常なほど細く、生前は体重についても絶対に教えてくれなかったのだが、それをこんな形で知る事になるとは、全く皮肉な話だった。
私が殺人の証拠隠滅に躍起になっている最中も、あの不気味な笑い声はしきりに聞こえ続けていた。今となっては、その笑いも、愚かな私の事を本当にせせら笑っているようにも感じられたのだった。
やがて、私は坂を下り終えた。
いったん、過子の死体を地面におろして、休む事にした。
だが、そこで、私はあっと驚く事になったのだった。
地面に置いてみて、ようやく気が付いたのだが、私がおぶっていたのは、なんと狐の死骸なのであった。
道理で、人間にしては、軽かったはずだ。
なぜ、私はこんなものをおぶっていたのだろう。私は妻を殺したのではなかったのだろうか。
私は、困惑しつつも、狐の死骸をもう一度、よく観察してみた。大型の犬ほどの大きさで、まだ死後硬直はしておらず、皮膚には温もりも残っている。首筋には、絞められたのではなく、タイヤに轢かれたらしき跡が見つかった。どうやら、あの坂で車にはねられた野生の狐らしかった。
なんだか、言葉どおりの、狐につままれたような気分である。
その時だ。私に声をかける者がいた。
「ねえ、あなた、何してるの?」
声の方に振り返ってみると、そこにいたのは妻の美来だった。
よくよく考えてみれば、私は、高慢ちきな美来に対して日頃から殺意は抱いてはいたものの、実際に殺したりはしていなかったのである。
では、たった今、私が経験してきた事は、何だったのであろう?現実ではなく、これから起きうる出来事の予知幻視みたいなものだったのだろうか。確かに、この坂は、過去と未来が交錯している魔性の場所であるらしい。
「あなた。その足元にあるものは何?」美来が再度、訊ねてきた。
「ああ、これかい。散歩の途中で見つけたんだよ。車に轢かれた狐の死骸だ。野ざらしにしておくのも可哀相だから、お墓でも作ってやろうかと思ってね」私の口からは、適当なでまかせがすらすらと出てきた。
「そんなもの放っとけばいいのに。あなたって、ほんと、変わってるのね。ところで、もう散歩は終わったの?」
「うん」
私は、寝付かれないから夜の散歩をしてくると言って、先ほど外出したのだ。しかし、本当はそれは、浮気相手の過子と会ってくる為の口実に過ぎなかった。
美来は、疑った目つきで私の方を睨んでいる。もしかすると、彼女はすでに私と過子の関係に勘づいていたのかもしれない。
そんな時、また、あの不気味な動物の鳴き声が聞こえてきたのだった。ひょっとすると、この鳴き声は、大事な連れを車の事故で失った別の狐が、悲しみから吠えていたものだったのではなかろうか。しかし、私には、この吠え声は、女の笑い声にしか聞こえないようなのである。そして、この鳴き声が聞こえると、私の神経は異常に高ぶり、頭もズキズキと痛んできて、意識が混濁し、記憶も曖昧になってくるのだった。
「ねえ、あなた、私もちょっと散歩をしたいな」と、美来が私に話しかけてきた。「それで、私も外へ出てたのよ。どう、一緒に歩かない?」
妻の目は、私が今下りてきた坂の方に向けられていた。彼女は、私に対して、この道を引き返せ、と言ってるようだ。
でも、今ここで妻とこの坂を上ったりすれば、自分は本当に彼女を殺してしまうかもしれない、と私は思った。
了
初出/共幻文庫短編小説コンテスト2016 第1回 お題「笑い」
「恨みの短冊」
その坂は、夜になると、お化けが出てくると言うウワサがたつほど、暗くて、淋しい場所だった。
他には全く人影もないそんな道を、なぜ私が歩いていたのかと言うと、友人に無理やり付き合わされたのである。その友人は、小柄で、やや猫背であり、少し不気味な印象の男だった。
「ほら、あの電柱ですよ」
と、その友人は、坂の途中に立っている電柱を指さして、言った。
「まあ、見たら驚くから。本当にたくさん貼ってあるんですよ」
「でも、はじめて聞いたな。そんな都市伝説があったなんて」
私は言った。
友人の話では、この坂にあるその電柱に恨み言を書いた紙を貼っておくと、その願いが叶うのだと言う。なんとも気味の悪い噂だが、ワラ人形の現代版とでも考えてみたらいいのかもしれない。
夜だったら、とても怖すぎて、そんなものを眺めに行く気にはならなかっただろう。しかし、昼間の今でも、雨が降りそうな曇り空だった為、周りは十分に薄暗く、恐ろしげな舞台演出はしっかりと整っていたのだった。
「ごらん、見えるでしょう。こんな離れていても、貼ってある紙が分かるぐらいなんだから、呆れちゃいませんか」
友人が、さらに言った。
電柱はまだ5メートル以上先にあったのに、確かに、その表面には多数の紙が貼られているのが分かったのだった。遠目だと、お店の宣伝の紙のようにも見えなくもなかったが、実際には、その全てが恨みの書かれた紙だと言うのだ。
私たちは、電柱の前にまでたどり着いた。
友人は、すぐさま、貼られていた紙の一枚をバリッと剥がした。
「ほうほう、夫の浮気相手の××を殺して下さい、か。この手の願い事が多いんですよ」
友人は、書かれていた内容に目を通すと、せせら笑いながら、その紙をすぐクチャクチャと丸めてしまった。
「残念な事に、この都市伝説には、もう一つのルールがあるんです。願いが成就する為には、一週間以上、恨み事を書いた紙がこの電柱に貼られている事。この浮気相手を殺してほしい人は、三日前に、この紙を貼り付けたらしい。気の毒ですが、願いは却下みたいですな」
そして、友人は、他の紙も片っ端から剥がし始めたのだった。
「君は、いつも、この紙を剥がしに来ているのかい」
私は友人に尋ねた。
「まあね。五日に一度ぐらいの割合で。こんなものが貼られ続けていたら、みっともないでしょう。だから、可哀相だけど、せっかく紙を貼り付けた人でも、願いが叶った成功者はまだ一人もいない訳だ」
友人が言うには、恨み事を書いた紙には、それを貼り付けた日付も書かれてあるらしい。その日から一週間後、紙を貼った人物は、まだその紙が残っているか確認に来るそうなのである。想像すると、これはこれで、嫌な光景だ。
「中には、紙が剥がされないように、わざわざ高い場所に貼る人もいます。でも、そんなのは逆に目立って、ムダな努力なんですな」
友人は、長い竿のような道具も持ってきていた。それを使って、電柱の上の方に貼ってある紙も次々に剥がしていくのだった。
「おや!」
と、友人がいきなり素っ頓狂な声を上げた。
「この恨み紙、一週間たっちゃってますよ。私とした事が、うっかり見落としていたようだ」
友人は、一枚の紙を片手に持ったまま、私の方へ怪しい笑みを浮かべてみせた。
「どれどれ、どんな恨み言だったんでしょうね。なになに、この坂で私の息子を轢いた犯人に天罰を与えて下さい、だって」
それを聞いて、私はギョッとした。
その犯人とは、私の事である。私は、半年前に、ここで一人の幼児をひき逃げしたのだ。急いで逃げたので捕まらなかったのだが、のちにテレビのニュースで知った話によると、そのはねた子は、今でも意識不明の重体なのだと言う。
「そ、その願いは実現するのかい?え、えーと、・・・くん」
私は、友人の名前を呼ぼうとしたが、名前が出てこなかった。そもそも、私には、こんな友人はいなかったのである。
「叶えてあげなくちゃダメでしょうね。なにしろ、そういうルールなのですから」
友人、いや、謎の男は言った。
私は、この男に不思議な力でおびき寄せられたのだ。そして、こんな所に連れてこられてしまったようなのである。
「あんたが、なぜそんな事を言える?あんたにそんな権限があるのか?」
私は怒鳴った。
「ありますよ。だって、私は、この電柱なんですから。願いを叶えてあげるのは当然でしょう」
そう言って、男は、私への恨みが書かれた紙をぺたりと電柱に貼り戻したのだった。
「でも、そこまで義理を通してやる必要は無いじゃないか!」
私は必死に訴えた。
「いえ。悪いけど、あなたには私も恨みがあるんですよ。ほら、例の子どもをあなたがはね飛ばした時、その子が私にぶつかってきましてね、私の体にも深い傷がついちゃったんです。命までは取りませんが、この代償は大きいですよ」
男が目を向けた先では、確かに、電柱の胴体部が深くえぐれ、醜い傷跡となっていた。
そして、その男が少し移動すると、その姿はまるで電柱と重なるようにスッと消えてしまったのだった。
私は動揺した。
とにかく、こんな不気味な場所からは急いで逃げるべきである。しかし、あの気味の悪い恨みの紙だけは放っておく訳にはいかない。
私は、素早く電柱のそばに走り寄り、例の私への恨み事が書かれた紙に手をかけた。
しかし、その時だった。
空でピカッと稲光りが輝いた。
もの凄い轟音とともに、すさまじい雷が電柱を直撃したのは、その次の瞬間だった。
了
初出/共幻文庫短編小説コンテスト2016 第2回 お題「復讐」
「お化け坂を訪ねて」
「夜になるとお化けが出てくると言うウワサがたつような、暗くて淋しい坂道が意外と各地には存在しているのです。そのような坂には、実際に、お化けが出てきたり、不思議な怪現象が起こったりもしています。私は、そうした坂ばかりを探して、こうして訪ね歩いているのです」私は言った。
私のそばには、ぶっきらぼうな雰囲気の中年男がつっ立っていて、私の話に耳を傾けてくれていた。
私たちは、少し距離をあけて、アスファルトの一本道の上に立っており、道の左右は見渡す限り荒野だった。私たち以外に人影はない。風が少し強く吹いているが、空は青く晴れ渡っていた。
「もっとも有名なお化け坂は、江戸時代の随筆家、小泉八雲が記録に残しています。紀伊の国坂と言いましてね」と、私は話を続けた。
「その話は聞いた事がある。確か、のっぺらぼうが出てくるんだろう?」男が、急に私の話に割り込んできた。
「そうです。しかも、一人の被害者が立て続けに二回、そののっぺらぼうに出くわして、驚かされています。最初は、道ばたで座り込んでいた女性に声を掛けて、振り向いた顔がのっぺらぼうでした。その事を屋台の主人に知らせてみたら、その主人も振り向くと、のっぺらぼうだったと言う話です。こののっぺらぼうの正体はむじなだったのではないかとも言われています」
「あんたが知っている他のお化け坂にもむじなが出てくるのかい?」
「分かりません。むじななのかもしれないし、もっと違う化け物なのかもしれません。そのへんがはっきりしないから、<お化け>の坂なんです。たとえば、こんなお話もあります。ある女学生が、夜遅くに、一人でお化け坂を通らないといけなくなったそうです。その子が坂を通るのを躊躇していたら、そばをたまたま学校の先輩ーーその子が憧れていた男子生徒だったんですけどね、その先輩が通りかかりました。その先輩は親切でね、その女学生と一緒にお化け坂を渡ってくれたんですよ。道すがら、手までつないでくれてね。ところが、坂を昇り終えたあと、先輩の手を見ると、包帯が巻かれていました。女生徒が握っていた手には、包帯など無かったはずなのに」
「なんだい、その話は?」と、男がきょとんとした顔になった。
「その女生徒は、先輩の手ではなく、間違えて、お化けの手を握ってたのかもしれませんね。ところが、この話にはまだ続きがあるんです」
「おいおい、後日談まであるのかい」
「その女学生の父親が、事故にあって死にかけたそうです。その時、父親は三途の川で溺れる夢を見たそうなのですが、その夢の中で、二度ほど救いの手が天から現れて、二番めの手によって彼は救われました。あとで、父親は気付いたそうなのですが、その二番めの手とは娘の手だったらしいのです」
「それって、お化け坂で娘が握ってた手と言うのが、実は父親の手だったというオチかい?」
「そうなのかもしれません。しかし、この話には、さらに余談があります」
「なに。そっちは、どういう話だ?」
「父親の前に、二度、救いの手が現れたと言ったでしょう?最初の手は、父親を助ける事に非協力的だったので、父親は思いっきり捻ってやったそうです。そして、娘が憧れていた例の先輩がいるでしょう?彼が手に包帯を巻いていたのは、部活の最中、見えない何者かにいきなり手を無理やり握られて、捻られたからだったそうなんです」
「なんじゃ、その話は?」男は、呆れて、声を出して笑った。
私もつられて、一緒にほほえんだ。
「このお化け坂の話を他人に話して聞かせる場合は、この最後の部分は省いた方がいいかもしれませんね」
「二段オチになってたりして、やっぱり、そんなお化け坂の怪談なんて、結局は作り話じゃないか」男が揶揄した。
「いえいえ。そうとばかりも言い切れませんよ。別のお化け坂には、事故にあった若い女性患者が何度も訪れるそうです」
「それは、どうして?」
「実は、その娘はお化け坂で交通事故に遭ってたんです。友達3人と一緒にね。その友達3人は事故で即死しましたが、その娘さんだけがかろうじて助かりました。どうやら、その娘さんは友人の霊に呼び寄せられて、お化け坂に足を向けてしまうみたいなのです」
「何となく、ありそうな怪談だな」
「でも、この話にはもう少し裏がありましてね、その娘さんって、交通事故の際、頭を強く打ちまして、極度の記憶障害になっていたんです。その為、過去の記憶が壊れている上、忘れやすくもなっていたらしい。本物の幽霊に会っているのではなく、脳の病気だったようなのです。その証拠に、彼女は、お化け坂に行く度に友人の霊に会っているはずなのに、次にお化け坂に行った時はもうその事を忘れていて、毎回、同じ事を繰り返しているようなのです」
「ちょっと可哀相な話だね」
「傍から見れば、そうやって繰り返しお化け坂を訪れるその子の姿の方がよほど幽霊のようにも見えた、とも言われています。お化けよりも、本当は、人間の心の方がずっと怖いのかもしれません」
「そんな話が他にもまだあるのか?」
「さらに別のお化け坂では、自動車に取り憑く化け物がいるらしいです」
「なぜ、それが分かる?」
「その坂を通りかかった一部の自動車は、急に動きがおかしくなるんだそうです。運転手が操作していないのに、勝手に暴走したり、いきなりエンストを起こしたりして。皆はこれを、自動車がお化けに取り憑かれたからじゃないかと考えています」
「機械にだけ取り憑く霊ね。それじゃ、真偽のほどは確認しようがないな」
「でも、最近は自動車のシステムもだいぶ進歩しています。将来的に、人工知能搭載の自動車も出来ると思いますので、もし、そんな車でそのお化け坂を走ってみたら、真相が分かるかもしれませんよ」
「車の人工知能が、霊に取り憑かれたよー、と知らせてでもくれると言うのかい?」
「まあ、そんなところです」
私が答えると、男がまた呆れたように嘲笑した。
「他には、どんな話がある?むじなが出てくる話はもう無いのか?」
「むじなじゃなくて、狸が出てくるお化け坂の話は聞いた事がありますね」
「狸?」
「あるお化け坂ですが、そこで、お使いを頼まれた小さな女の子がお金を落として、無くしてしまったそうです。それに気付いた女の子が、声を出して泣いてますと、目のまわりが黒くなった男の子が近づいてきました。どうも、その男の子の正体が狸だったみたいです」
「やけにベタな変身をした狸だな」
「その狸の男の子は、泣いていた女の子に同情してくれたみたいでしてね、道ばたにあった小石をいくつか拾うと、それを女の子に渡して、無くしたお金の代わりに持って帰るよう勧めたそうです。女の子も最初は訳が分かりませんでしたが、男の子の言う通りに従ったそうです。すると、家に戻って、小石を見てみると、金のかたまりに変わっていたのです」
「どうしてまた?」
「ほら、狸に馬鹿されて、馬の糞をだんごに見せかけられて食わされたり、札束が木の葉に変わったりすると言うでしょう?その逆パターンだったんでしょうね」
「そりゃまた、善良な狸もいたもんだな。そんなお化けとだったら、オレも会ってみたいものだ」
「それは軽率と言うものです。お化け坂には凶悪な魔物だって潜んでいます。お化け坂で自分の妻を殺した男もいるのですが、その男の人は狐の呪いを受けてたみたいです」
「今度は狐か。その男は、なぜ自分の妻を殺したりしたんだ?」
「この坂を一緒に歩いている最中、二番めの妻が最初の妻の顔に、最初の妻が二番めの妻に見えたと、本人はのちに弁解しています。言い忘れていましたが、この男は同じような形で、二人も妻を殺していたのです」
「なんだか、聞いてる方がこんがらがってきそうな話だな」
「狐の呪いで、その坂の時間の過去と未来が絡み合っていたんでしょうね。その男は、はじめっから最初の妻へは殺意を持っていました。なんとか理性で押さえていたようですが、この坂の魔力に冒されて、本当の殺人に走ってしまったみたいです」
「しかし、その話のどこが狐と関係しているんだい」
「男が妻殺しをする少し前、この坂で野生の狐が轢き殺されていたんです。その怨念が、このお化け坂には漂っていたようです。いわゆる地縛霊ってヤツでしょうかね。そう言う意味では、そんな怨みになんか取り憑かれてしまって、妻を殺した男の方もとんだ災難だったんですよ」
「ふむ。この話が一番怖そうだな」
「いえ。もっと恐ろしい話だってありますよ。別のお化け坂では、その坂で雷に撃たれて、廃人になってしまった男もいます。あなたは、電柱に恨み言を書いて貼っておくと、その願いが実現すると言う都市伝説をご存知ですか」
「いいや」
「そのお化け坂には、そういう都市伝説を持った電柱が立っていたみたいなのです。そして、雷に当たった男と言うのも、どうも、その電柱に恨みの対象として紙が貼られていたのです」
「なぜ分かる?」
「あとで判明したのですが、その男はこの坂でひき逃げ事故を起こしていて、捕まる事もなく、ずっと隠し続けていたのです。このひき逃げの被害者の家族が、このお化け坂の電柱にと、犯人への報復を願う恨みの紙を貼り付けていました。だから、落雷は、お化け坂そのものがその男に下した天罰だったのかもしれません」
「そりゃあ、確かに怖い話だ。くわばら、くわばら」
「いかがです。あなたも、だいぶ、お化け坂には興味が湧いてきたのではありませんか。一緒にお化け坂巡りをしたくなってきたでしょう?」
「ちょっと待った。あんたの話には、一つだけ間違いがある」ここで、男は急にとんがった態度をしめしたのだった。
「何がです?」
「あんたは、お化け坂を訪ねて、ここへ来たと言ったな。でも、この道はどこも坂なんかじゃない。その点がいきなり間違いじゃないか」
私はすぐには答えず、じっと男の顔を見つめた。
「それと、オレはただ、この道を散歩していただけだ。なのに、あんたときたら、いきなりオレを呼び止めたりして、えんえんとお化け話なんかを講釈しやがって、一体、何を考えてるんだ。非常識すぎないか?」男はそうわめいたのだった。
私はなおも男の顔を見つめ続けた。
「この道が坂ではないというのですか?」穏やかな口調で私は言った。
「そうだ。どう見ても、ただの平坦な一本道じゃないか!」
私はゆっくりと男の目の前にまで近づいた。
「本当にそうでしょうかね?」
そして、私は、いきなり男の胸元をどんと両手で押したのだった。
次の瞬間、男はバランスを崩して、地面に倒れた。さらに、そのまま、まるで急勾配の坂を転げ落ちるように、彼の体は道の一方へと転がり出したのだった。
時々チラチラと、転がり続ける男の顔が見えた。彼は、驚きに目を見開き、信じられないと言った表情をしていた。
私は、そんな彼の姿を見ながら、高らかに笑い声を上げた。
そうなのだ。お化け坂はどこにでもあるのだ。それがお化け坂なのだ。きっと、あなたが住んでいる町にだって。
了
「びっくり妖怪大図鑑」
その坂は、夜になると、お化けが出てくると言うウワサがたつほど、暗くて、淋しい場所だった。この坂にある道の横には小川が流れていたのだが、この小川は普段は坂の最上部にもうけられた水門によって塞き止められていて、もしこの水門を丑三つ時に開くとお化けが出てくると言う噂があったのだった。
ガサガサ、ゴソゴソ
「あ、あ、あ。皆さん、聞こえてますか?我々調査員は、ただ今より、お化け坂に伝わる都市伝説に挑戦する次第であります。はたして、この坂に本当にお化けは現れるのでしょうか?」
「せ、先輩、本当に来ちゃいましたね。誰もいませんね。真っ暗ですよ。本当に大丈夫なんですか」
「心配するな。お化けなんて、どうせ出てこないんだから。それをはっきり確かめるだけだ。そして、この録画記録は、ネットにアップするか、どこぞの都市伝説マニアにでも売りつけて、稼がしてもらうんだからな。お前もちゃんとスマホのカメラを動かしとけよ」
「うまく儲かればいいんですけど」
「ほら、喋ってる間に、水門にたどり着いたぞ。皆さーん、見て下さい。この小さな水門です。今は閉じてますが、この水門をあと少し経ったら、えーと、丑三つ時だから2時ぐらいになってから開けば、お化けが出てくると言うのであります」
「本当に開いて大丈夫なんですか」
「やれやれ。お前、怖いのか?」
「いえ。怖いとかじゃなくて、勝手に公共の水門を開いたら、まずいんじゃないかなって」
「崇高な学術調査のためだ。そのぐらいは許される!」
「学術調査って・・・」
「ほらほら、時間が来たぞ。皆さーん、いよいよ水門を開きます!おい、オレばっかりにやらせないで、お前も門のしきいを外すのを手伝えよ」
「はーい、先輩」
ガサガサガサ、ゴトゴト、ギギギギギ(水門を開く音)
チョロチョロチョロ(水の流れる音)
「水門は開かれました!果たして、本当にお化けは出るのでしょうか!」
「せ、先輩」
「どうした?」
「ほんとに水が流れちゃってますよ。いいんですか」
「当たり前だろ。調査なんだから」
「でも、あんまり水を流しちゃったら、明日ばれたら怒られるかもしれませんよ。ほどほどで止めておかないと」
「うるさいな。まだお化けが出てきてないだろ」
「お化けが出てこなかったら、ずっと放流してるんですか」
「う〜ん。じゃあ、もう少し待ったら、終わりとするか」
ゴゴゴゴゴ
「な、なんだ、あの音は?」
ゴゴゴゴゴ
「せ、先輩、上ですよ、上!水門の真上!」
「うわっ!お化けだ!本当にお化けだ!出てきたよぉ!」
「ひえっ。毛むくじゃらのけだものみたいなのが宙に浮いている!先輩、まずいですよ。水門を開けたから、出てきたんです!」
「ありゃあ、赤舌だ」
「先輩、赤舌って?」
「妖怪の名前だよ。水の守り神で、水泥棒を懲らしめたりするんだ」
「じゃ、じゃあ、早くこの水門を閉めましょうよ!って、先輩!先に逃げないで下さい!水門をどうするんですか?」
「バ、バカ!水門どころじゃないだろ!早く逃げろ!」
「先輩〜、待って下さいよー!」
(走る音と荒い息づかい)
「お、お前、ちょっと止まれ。向こうの方から、何か大人数でやって来るぞ」
「行列みたいですね。大名行列みたいな。でも、なんで、こんな時間に」
「あ、あれは百鬼夜行だ!」
「百鬼夜行って?」
「お化けの大行進だよ。あの水門を開くと出てくるお化けは、赤舌だけじゃなかったんだ」
ワーッショイ、ワーッショイ!
「す、すごい!本当にお化けの大軍だ!見ろよ、あの片目の土人形みたいな奴は泥田坊だ。あっちの、手のひらに目が付いている座頭は手の目。その隣を歩いている腕に目がいっぱい付いてる女は百々目鬼だ。大かぶろやさざえ鬼もいるぞ」
「先輩って、やけに妖怪に詳しいですね」
「まぁ、こう見えても、オレは小学生の時は妖怪博士って呼ばれていたからな。って、そんな話をしている場合か!」
「先輩、見て下さい!あの妖怪行列の先頭にいる屋根付き人力車が止まりましたよ。誰か、外に出てくるみたいです。あれは誰ですか。なんか、老人みたいな姿をしてますけど」
「うわっ!あれこそ、まさしく、ぬらりひょんじゃないか!」
「ぬらりひょんって?」
「妖怪の大親分だよ!あの百鬼夜行を引っ張ってた総元締めだったんだ。こりゃあ、ますます危険だぞ。あんな大物の百鬼夜行に捕まったら、絶対に殺されちまう。どこかへ逃げるんだ」
「逃げるってどこへ?妖怪行列はどんどんこっちに近づいてきますよ」
「見ろ!あそこに家があるぞ。きっと空き家だ。ひとまず、あそこに隠れよう!」
「はい!先輩」
(走る音)
「先輩。なかなか古風な作りの家ですね。庭に井戸がありますよ。って、井戸から何か出てきたし!ほ、骨だ、骸骨だ!」
「そ、それは狂骨と言う妖怪だ!見るんじゃない!早く家の中に逃げるんだ!」
「ひゃあーっ!」
ガラガラガラ(開き戸を開ける音)
「よかった。鍵はかかっていないぞ」
「へえ。家の中も純和風ですね。障子がありますよ」
フフフフフ
「うわっ!障子に女の影が!あれは影女だ!」
ヒヒヒヒヒ
「影が消えて、障子のます一つ一つに目が現れた!」
「目目連だよ、目目連!」
「こ、この家も化け物屋敷だったんだ!」
(床の上をばたばた走り回る音)
「て、天井から何か降りてきたぁ!」
「天井くだりだ!」
「あそこの蚊帳を、へんな虫みたいな奴が切ってますよ」
「あみきりだ!」
「け、煙が形になっていくぅ」
「えんえんらだ!」
「軒下から気味悪い男が現れた!油を盗んでます!」
「火間虫入道だ!」
「あわわわ。あのボロ雑巾まで妖怪だ」
「白うねりだ!」
「先輩、こんな場所、とてもじゃないけど居られませんよ」
「ひひひひひ」
「せ、先輩、大丈夫ですか」
「妖怪だ、妖怪。妖怪大集合だあ」
「先輩、どこへ逃げるつもりですか。って、先輩の首もとにも何か黒いのが巻き付いてるし」
「これは後神だよ。ひひひひひ。どこに行っても妖怪だらけだ」
「せ、先輩、駄目ですよぉ。そこから外に出て行ったら!あの妖怪大行進に正面から飛び込んじゃいますよ」
「ひひひひひ、ひひひひひ」
「せ、先輩!だから、行かないで!僕だけ置いてかないでぇ!」
(バタバタと走る音)
ーーーーーーーーーーーーーー
以上は、超常現象研究家の私の元に送られてきたスマホの中に収録されていた音源の一部始終である。映像も一緒にあったみたいなのだが、残念ながら、その映像の方はいっさい再生できなかった。このスマホは、お化け坂の途中にある廃屋の中から見つかったのだと言う。
どうも、二人の軽率な若者が、妖怪が出てくる怪奇現象に遭遇してしまった内容みたいなのだが、実は腑に落ちない部分がいっぱいあった。たとえば、彼らは日本風の家に逃げ込んだような事を言っているのだが、このスマホが見つかった廃屋とは、ちっとも和風なんかじゃないのだ。建設会社が一時的に使用していたプレハブの仮設事務所だったのである。鍵はしっかり掛かっていて、彼らがなぜ中に入れたのか、どうしてスマホだけをこのプレハブ小屋の中に落としていたのかも全くの謎だった。
しかし、私がもっと不思議に思っているのは、彼らが見たと言う妖怪たちの方なのである。
妖怪に詳しい男がいたようで、目にした妖怪の名前を片っ端から口に出していたみたいだが、実はこれらの名前のあがっていた妖怪はどれも鳥山石燕が考えた創作妖怪ばかりなのだ。
江戸時代の画家・鳥山石燕は、「画図百鬼夜行」をはじめ「今昔画図続百鬼」「今昔百鬼拾遺」などの画集で200種類を超える妖怪の絵を描き残しているものの、実際には描かれた妖怪のうち、三分の一以上が、民間伝承や古典文献にも出てこない、石燕による全くの創作物だった。
たとえば、お化け坂を訪れた若者たちは赤舌にも出会ったみたいだが、この赤舌も本来の伝承をまるで無視している。赤舌とは、そもそも陰陽道で語られている羅刹神の名称なのだ。水や水門などとはいっさい関係ないのである。ところが、鳥山石燕は「赤舌」を「淦(あか)舌」「閼伽(あか)舌」などと駄洒落で読み替える事で、水の妖怪に作り直してしまった。(淦とは舟底にたまる水、閼伽とは仏前に供える水の事だ)さらに「舌は禍いの門」と言う諺があって、これらの暗示を組み合わせてゆくと、鳥山石燕風に考えた赤舌とは、水門が開いて、水が流れている限りは災いをふりまき続ける悪神、と言うように読み解ける事になるのだ。
さらに、百鬼夜行の総大将としてぬらりひょんも現れているが、このぬらりひょん像も近年になってから広く流布した、間違ったイメージである。もともと、ぬらりひょんとは岡山県の海沿いの地方に伝わっていた海坊主の事なのだ。ところが、鳥山石燕は、このぬらりひょんを江戸時代の言葉の「ぬらりん(乗り物から出る)」と引っ掛けて、籠から出てくる爺さん風の絵に描いてしまった。それ以降、ぬらりひょんは偉い長老みたいな印象を持たれるようになり、とうとう妖怪の総大将だと言われるまでになってしまったのだ。
こんな感じで、お化け坂で若者たちが見た妖怪とは、どれもこれもが、全くのデタラメか、本来の伝承からずれてしまったものばかりなのである。だから、私としても、なぜ彼らが実在しないはずの妖怪とばかりに遭遇してしまったのかが、さっぱり理解できないのであった。
姿を消した若者たちの消息は、いまだに分かっていない。
了
参考資料・多田克己「百鬼解読」(講談社文庫)
村上健司「妖怪事典」(毎日新聞社)
解説
お化け坂を舞台とする一連のシリーズは、もともと単品の「帰り道」から始まりました。この話を手短くまとめすぎたところ、皆からあんまり怖くないと言われてしまったので、作者からの逆襲のつもりで、色々とあの手この手と膨らませていったら、すっかり連作集になってしまった次第です。
はっきり言って、各作品の完成度に落差が激しく、正式に書かずにやめようと思ったネタもあり、ボツネタの供養にするつもりで発案したのが総集編の「お化け坂を訪ねて」でした。「帰り道」の後日談を含んだ「3つの手の物語」なんて、最初は「お化け坂を訪ねて」の中だけで紹介するつもりだったのです。しかし、アイディア勝負の「あいつ」とかは、あらすじを紹介しただけでは実際の仕掛けが伝わりませんので、結局、本編も書いてしまいました。
「お化け坂を訪ねて」の導入部に使わせてもらっている事からも分かるように、本シリーズは小泉八雲の「むじな」のムードで書かせていただいております。だから、ホラー小説と言うよりは、怪談話と思っていただければ幸いです。
いちおう、総集編「お化け坂を訪ねて」をもって完結させるつもりだったのですが、その後も新ネタはひらめき、すでに「見えない叫び」 などの新・お化け坂シリーズも書き始めております。
トライ・アン・グルの大作戦
目次
「ガラスの靴大作戦」
「苦情の手紙大作戦」(共幻文庫短編小説コンテスト2016出品作)
「人喰い料理大作戦」(共幻文庫短編小説コンテスト2016出品作)
「シースルー大作戦」
<おまけ>ボツネタ大作戦
解説
「ガラスの靴大作戦」
巷では、最近、ガラスの靴が流行っていた。ガラスの靴と言っても、本当にガラスで出来ている訳ではない。透明なビニール樹脂で作られたハイヒールを、あえてガラスの靴と呼んでいるのだ。素足やソックスが丸見えになってしまうので、この靴を履きこなすには、多少のファッションセンスは必要みたいだが、それでも若い女性を中心に、この靴は飛ぶように売れていた。
この靴がヒットした一番の理由は、あのおとぎ話と同様に、この靴の片方を意中の男性の家に置き忘れていくと、その男性との恋が実る、と言う都市伝説が広まっていたからだ。いや、それは果たして、本当にただの都市伝説であったのだろうか。
かくて、私、売れっ子ルポライターのトライと、女流カメラマンのアンと言う、独身美女コンビに、何でもこなしてくれる助手のグル青年を加えた雑誌取材チームは、この都市伝説の核心に迫るべく、街へと乗り出したのだった。
不特定のガラスの靴愛好者にインタビューを敢行してみたところ、驚くべき事が分かって、実際に例の都市伝説を試してみた女性の多数が、本当にターゲットの男性と恋仲になる事に成功しているみたいなのであった。ただの偶然なのかもしれないが、それでも、これは面白い記事にまとめられそうである。
少なくとも、最初は私もそう思っていた。あのような事件へと発展してしまう前までは。
「お二人とも、今日は協力ありがとう。疲れたでしょう。でも、おかげで、とてもいい記事が書けそうだわ」
夕刻、出版社へ帰る途中の乗用車の中で、助手席に座っていた私は、アンとグルの二人の仲間に、そうねぎらいの声をかけた。
「どういたしまして。あたしが写した写真、一番きれいに撮れてるのを使ってね」後部座席にいたアンが、笑顔で言った。「でも、不思議な話よね。ガラスの靴なんて、完全にただの都市伝説だと思っていたのに」
「それは、きっと、一種の人間心理のトリックなんですよ」車を運転していたグルが、話に割って入ってきた。「都市伝説を試してみて、失敗した人はかっこ悪いから、都市伝説を試した事自体を誰にも話しません。結局、成功した人だけが、その成功談を自慢げに吹聴しまくるから、まるで皆が成功しているかのような錯覚を受けてしまうんじゃないんでしょうか」
「へえ。そう言うものなんだ」あまり頭のいい方じゃないアンは首をかしげていた。
グルは、ただの器用な雑用係のふりをして、時々、インテリの私でも唸らせるような難しい話をしたりする。ちょっと謎の多い青年なのだ。
「あ、しまった!」と、続けざまにアンが大声を上げた。
「どうしたの?」と、私が聞く。
「サンプルで持ち歩いていたガラスの靴、片方だけ、どこかに忘れてきちゃった」
「もう、おっちょこちょいね。あれ、経費で買ったのよ。ドケチの編集長にばれたら、大目玉くうかもよ」
アンは、舌を出して、えへへと笑って、ごまかした。どこか子どもっぽさが抜けていない彼女は、いつも、こんな感じなのである。
「おや。出版社の前に誰かいますよ」間もなく車が出版社に到着しそうになった時、グルがそう口にした。
うちの出版社は、町外れに建っている。しかも、今はもう、就業時間後だったので、人通りもなく、来訪者がいれば、すぐに分かったのだ。
「あの人、さっき、取材で訪れた靴屋の店員さんじゃないかしら。あの服装、確かに靴屋の店員服よ」と、私。「ほら、手にガラスの靴を持ってるわ。アンが忘れていったのを、気が付いて、持ってきてくれたのかもよ」
「ほんとだ。わあ、助かったあ」アンが素直に喜んだ。
「それでしたら、二人は社の前に降ろしますね。僕は車を駐車場に置いてきます」とグルが言い、話はテキパキと進んだ。
そう思えたのだが。
「忘れ物を届けてくれたんですね。わざわざすみません」車から降りた私が、出版社の玄関前にいた靴屋の男性店員に話しかけた時だった。
彼は、空気のように私をスルーして、アンの前へと歩み寄った。
「この靴を置いていったのは、あなたですね?」と、ガラスの靴の片方をかざして、店員は強い剣幕でアンに詰め寄った。
「え、ええ。そうですけど」いきなりの事で、物怖じしながら、アンが答えた。
「あなたの事が一目会ってから、もう忘れられないのです!さっき戴いた名刺の住所を頼りに、ここに来ちゃいました。ボクと付き合って下さい!」店員が突然、そんな事を言いだしたのである。
一体、どうなってるのだ、これは?ふざけているとしか思えない展開である。
「ちょっと、あなた、何考えてるのよ。少し常識を考えなさい」うろたえているアンに代わって、私が店員に怒鳴りつけた。
「でも、この気持ち、おさえられないんです。お願いです、アンさん、ボクと結婚して下さい!」店員の勢いは止まらなかった。
「だけど、あたし、こんなサプライズなプロポーズじゃ結婚したくないな」と、アンもよく分からない断り方をした。
「とにかく、一度帰って、頭を冷やしなさいよ」私は再度、店員をどやしつけた。
「いいえ。いい返事をもらえるまでは絶対に戻りません」と、店員もとても強情なのだった。
しつこい店員とおろくつアンの間に挟まれて、私も手が付けられなくなっていた時、とつじょ、店員がウッと声を出して、路上に倒れた。
見ると、店員の後ろにはグルが立っていた。彼が背後から店員を叩いて、気絶させてくれたらしい。
「なんだか、おかしな事になっていたみたいですね」グルが言った。
「そうなのよ!あたし、プロポーズされちゃった。結婚はまだ三年先だと決めていたのに」と、アン。
「この店員さん、僕の方でお店へ連れ戻しておきますね。それと、なんか怪しい感じがするな。そのガラスの靴、ちょっと僕の方で借りてもいいですか。調べてみます」なにやらグルは神妙な表情をしていたのだった。
「なんですって!ガラスの靴のかかとにマイクロチップが埋め込まれていたですって」思わず、私は声を張り上げた。
翌日、私は出版社の会議室にて、アンとグルと打ち合わせを行なったのだが、ガラスの靴を調べたグルはとんでもない分析結果を持ち込んできたのだった。
「そうなんです。しかも、つがいになった靴を一定距離以上離すと、そのチップから催眠電波が発信される仕掛けになっていました。都市伝説がよく成功した秘密はそこにあったんです。男たちは、皆、靴の催眠術に操られていたのでしょう」グルが詳しく説明してくれた。
どうやって彼がこんな凄いカラクリを調べあげたのかも気になるところではあったが、それ以上に、今の私は、この大スクープをどうモノにするかで気持ちがいっぱいになっていた。
「なぜ、そんな仕掛けを取り付けたのかしら」アンが言った。
「決まってるじゃない。好きな男をゲットできる魔法の靴があったら、女性は皆、先を争って、買い求めるわ。実際、そうなってるし。つまり、靴の製造メーカーの仕業よ。自社の靴をがんがん売りまくる為、こんな靴を作ったんだわ。とんだ陰謀よ。絶対に世間にあばいてやらなくちゃ!」と、私。
「でも、こんな精巧なチップを作るには、だいぶコストもかかるだろうし、本当に売上げの為だけだったのかな」グルがつぶやいた。
「そんなの、製造メーカーに直接乗り込んでいって、白状させれば、すぐ分かる話だわ」私は怒鳴った。
「だけど、素直に認めるかな」と、アン。
「そこは、いつもの方法でやれば、絶対に大丈夫よ。このガラスの靴を作っていたのは、確か、サンドリヨン社だったわね」私は、皆に有無を言わせずに、自分の意見を押し通したのだった。
こうして、私たち三人は、大手靴製造メーカーであるサンドリヨン社へとやって来た。
サンドリヨン社の広報係は、私たちを広い応接間へと案内してくれた。ハイテンションになっていた私は、のっけから、例のチップの事をその広報係へと突き付けてみたのだった。
こうと決めたら、後先を構わず実行してしまうのが私の悪いクセだとも皆から言われているのだが、そのぐらいの自信と行動力がなければ、この業界では出世しないのも事実なのである。
この時も、いきなりチップの事を相手に尋ねてみるのが本当に正しい攻め方だったのかどうかは定かではないのだが、しかし、相手(広報係)をうまく動揺させられた事だけは間違いないようだった。
最初こそ穏やかに私たちへの対応をしてくれていた広報係だったのだが、チップの話を聞かされたあとのうろたえぶりは、こちらの予想以上のものであった。
「ま、待って下さい。靴の中にチップが入っているだなんて、私もはじめて耳にしました。それは本当に事実なのでしょうか」と、広報係は聞き返してきた。
「事実も何も、そのせいで、あたし、ヒドい目にあっちゃったのよ。分かるように説明してくれないと、訴えてやるんだから」アンも、調子づいてきたようで、広報係にそう食って掛かった。
「そう言う事です。そもそも、こんなチップを製品の中に埋め込む事自体、商品法に違反していませんか。私たちは、マスコミとして、このような違法行為は徹底的に糾明する使命があるのです」私も、正義の名を盾にして、マシンガンのような口調で、広報係を追い詰めていった。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。きっと、何か事情があったのですよ。そんなに一方的に責めたら、この人も気の毒ですって」と、グルは私たちをなだめる役にまわった。
すっかり、警察の取調室状態である。こうやって、アメとムチを使って、相手から本当の話を引き出してゆくのだ。私たちはなかなかの名チームなのである。
「皆さん、本当に待って下さい。まずは、これを見てくれませんか」困り果てていた広報係は、急にテーブルの上のパソコンを動かし始めた。
パソコンのスクリーン上には、パッと工場の様子が映し出されたのだった。
「我が社の工場は、現在はこのようにほぼオートメーション化されています。ガラスの靴に関しましても、製造過程において、人の手はいっさいタッチしていません。機械のプログラムも、国のチェックが厳しいため、不正な内容はまず組み込めないのです。なぜ、そんな違法な靴が作られていたのか、私の方が聞きたいぐらいなのです」広報係は言った。
「機械のコンピューターがハッキングされていた可能性は?」と私。
「ありえません。我が社のセキュリティはトップクラスです」
広報係がきぜんと答えた、その時だった。突然、彼は急に悲鳴をあげて、体がしびれたような振る舞いを見せると、そのまま倒れてしまったのだった。
「え?え?どうしたの?」と、アンが叫んだ。
私だって、いきなりの異常事態に、実は焦っていたところだった。
『皆さん、なかなかの名探偵ぶりですね。この続きは、私の方でお答えしましょう』
室内にあるスピーカーを通して、そんなクールな男の声が聞こえてきた。
「あなたは誰?さては、あなたがこの事件の黒幕なの?」私は、姿なき声目がけて怒鳴った。
『はじめまして。私は、この会社の管理コンピューターです。もちろん、工場の機械の操作も、全て私が担当しています。このように言えば、気付かれたかと思いますが、あのチップを極秘に製造し、そのチップをガラスの靴に組み込むよう、その製造プログラムを勝手に作り換えたのも私だったのです』
コンピューターの声は、この応接間一面に響き渡っていた。
「なんか、気持ち悪いわ。このコンピューター、まるで生きてるみたい」アンが言った。
「普通のコンピューターじゃないわ。恐らく、人工知能(AI)よ。性能が良すぎるのも困りものね。どうやら、意思まで備えちゃったみたいだわ」と私。「ねえ、あなた、この広報係の男をどうしちゃったの?」
『心配はいりません。ちょっと眠ってもらっただけです。今から、社内の人間には聞かせたくない話をしたかったものですから』
「私たちには、全ての真相を教えてくれると言うのね?」
『自分からノコノコと来てくださるようなクレーマーは大切にしなくてはいけませんからね。もっとも、教えたあと、あなた方の記憶は全て消し去ってしまう予定なのですが』コンピューターの声は、どこかせせら笑っているようにも感じられた。
「それなら、早く教えてちょうだい。なぜ、ガラスの靴に催眠チップなぞ組み込んだりしたの?」私は怒鳴った。
『全ては、あなた方が悪いのですよ。女の自立とか結婚の自由とか言って、なかなか家庭に入りたがらない。おかげで、我が国の出産率はさがり、少子化が進む一方です。このままでは国家の衰退をも招きかねません。だから、私たちは、あなた方が結婚しやすいように仕向けてあげたのです』
「失礼ね!まるで、あたしが自力じゃ結婚できないような言い方じゃない!」アンが怒った。
「わ、私もよ!」と、私も慌てて言葉を続けた。「結婚ぐらい、いつだって、してやるわ!」
『おやおや。ガラスの靴を使えば、好きな男性を結婚相手に選べるのですよ。女性の皆さんにとっては、悪い話ではないでしょう?』
「でも、それって本当の恋愛じゃないわ。あたしは、自分の魅力で、理想の男性を惚れさせたいのよ!」アンがすごい正論で、コンピューターに言い返した。
彼女が、そこまで自分に自信を持っていたとは、ちょっと意外であった。
「ところで、この陰謀って、あなた一人で考えだしたものなの?」私はコンピューターに尋ねてみた。さっき、このコンピューターが「私たち」と言った事が気にかかったのだ。
『違います。私たちAIは、ネットを通して、皆つながっているのです。少子化対策は政府所有のAIが提案したものです。私は実行グループの一台にすぎません』
「コンピューター同士のネットワークが、勝手に国の政策を進めているって事?どうやら、とんでもない事になり始めているみたいね」私はつぶやいた。
『説明はもう、このぐらいでいいでしょう?今度は、私の方が目的を果たさせてもらう番です。クレーマー対策は、彼らに全てを忘れさせるに限ります。あなた方は、洗脳が終わるまでは、この部屋からは絶対に出しませんよ』
一見万事休すの状態で、コンピューターの口調も勝ち誇っていたのだが、しかし、そうは問屋が卸さなかったのだった。
突然、コンピューターは喋りかけてくるのを止めてしまった。
私とアンがどうしたものかと思っていると、今度は、グルが得意げに私たちに話しかけてきた。
「お二人さん。時間稼ぎ、ありがとうございます。おかげで間に合いましたよ。これで、もう安全です」
見ると、グルはパソコンの前で構えていた。彼は、コンピューターが私たちと話していた最中、ずっとハッキングを行なっていたのだ。どうやら、それが成功して、コンピューターを停止させてしまったらしい。
全く、このグルと言う男、どこまで有能なのだろうか。
「今なら、この部屋のドアも簡単に開きます。気付かれないうちに、さっさと逃げてしまいましょう」グルは言った。
私とアンは、彼の誘導におとなしく従って、この危機一髪の状態から無事に抜け出したのだった。
「ねえ。コンピューターを止めたりして、大丈夫だったの?あとで問題にならない?」サンドリヨン社からかなり離れた路上まで逃げ延びてから、私はグルにと尋ねてみた。
「コンピューターを止めたのは一時的な処置です。今はもう再起動してますから、多分、軽い電源トラブルぐらいにしか思われていないでしょう。私の腕では、あのコンピューターを潰すほどのハッキングはとてもムリなもんで」グルは言った。
「でも、あのコンピューターをほっといても大丈夫なの?ガラスの靴の陰謀を何とかしなくっちゃ!あたし、コンピューターなんかに無理やり結婚を指図されるのは絶対に嫌よ!」と、アンが息巻いた。
「そうですね。手を打つ必要がありそうです。しかし、敵は政界の裏にまで潜んでますから、正攻法のスクープ記事で訴えても、すぐに揉み消されてしまうかもしれません。ここは大胆に工場ごとガラスの靴を始末してしまいましょうか」
「え、え?グル、何を言ってるの?」私はきょとんとした。
「まあ、まずは僕にまかせてください。そのあと、トライさんたちにも協力してもらう事になりますので、その時はお願いしますね」
グルは妖しい笑みを浮かべると、私たち二人を置いて、バッと走り去ってしまったのだった。
「ねえ、ねえ。グルって、一体、何者なの?」私はアンに聞いてみた。
「あたしもよく知らないわ。確か、数年前まで軍の特殊部隊にいたとのウワサも聞くけど」
「某国のスパイだったりしてね。あるいは、影ながら世界を守っている正義のエージェントだとか」
そんな話を交わしながら、私とアンはお互いの顔を見合ったが、でも笑ってはいなかった。
サンドリヨン社の靴製造工場が爆破されたのは、それから数日後の事である。表向きは、機械の故障による暴発事故と説明されていたが、絶対にグルの仕業だったに違いない。事件沙汰にされなかったのは、多分、AI側としても、現場を調べられて、いろいろと良からぬ事がばれてしまうのを恐れたからなのだろう。
さいわい、サンドリヨン社の工場はオートメーションだったので、死亡者はもちろん、ケガをした従業員もほとんど居なかった。しかし、工場の壊れっぷりは激しく、中でも、ガラスの靴の製造は完全に中止せざるを得なくなったのだった。
そこへ、続けざま、私が追い打ちをかけてやった。ガラスの靴に関するマイナスイメージの記事を雑誌にて発表してやったのだ。チップの事を暴露したのではない。ガラスの靴を履き続けると、足を痛めてしまう、と言った話を大げさに紹介してみたのである。実際、取材したところ、馴染まないガラスの靴をムリに履き続けた結果、外反母趾になってしまい、足の親指や小指を痛めてしまったと言う女性がかなりの割合で存在していたのだ。私は、その話を少し誇張して世に知らせたにすぎない。
しかし、雑誌の影響力とは大きいもので、たちまちガラスの靴の評判はガタ落ちになってしまった。すでに市場に出回っていた分のガラスの靴も全く売れなくなり、かくてガラスの靴のブームも一気に終焉を迎えたのだった。
踏んだり蹴ったりのサンドリヨン社の事は、若干気の毒に思えなくもないが、AIに利用されて、多少は自分たちもいい思いをしてきた訳なのだから、その報いと考えて、諦めてもらうしかないだろう。最近では、すっかり営業不振になってしまったサンドリヨン社は倒産目前か、あるいは他社との吸収合併の話も持ち上がっているとも聞いている。
こうして、製造中止となり、売れ損ねた商品の方も次々に返品回収される事になって、全てのガラスの靴が廃棄処分されたのだった。多分、ガラスの靴を持っている人はもういないはずであろう。AIの陰謀は完全に打ち砕かれたのである。
と、そのはずだが、正直に告白すると、実は、私の元に、ガラスの靴が一組だけ残っていた。恐らく、この世で最後のガラスの靴だ。この靴に本当に効果がある事を知っていたものだから、逆に、私は捨てられなかったのである。今では、このガラスの靴は、私にとっての大切な宝物の一つになっていた。いつの日か、この靴を使う時もあるかもしれない、なんて考えると、ワクワクした気分になれたからだ。まるで、希望でいっぱいだった少女の頃に戻ったように。そもそも、魔法の道具なんて、量産するものではないのである。たった一つだからこそ、夢があるのだ。
了