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青い壁 十月十日

十月十日

 

今朝はどんよりとした気分で目覚めた。夢の中にいるような心地であった。朝食はトーストを牛乳で無理やり胃に流し込み、気怠い体を引きずるようにして家を出た。智也自身何故こんなにも気分が悪いのかわからなかった。頭の中に霧がかかっているような心地であった。

家から出ると太陽の日差しが智也を出迎えた。久々に太陽の日差しを浴びたので、おもわず目をしかめてしまった。空は多少雲があるが、今日も奇麗であった。ただ、今日の空は屋上で見た時よりもずっと遠くに感じられた。

バスに乗った後は景色をぼーっと眺めていた。夏の時とは違い冷房ももう切れている。制服も衣替えした。過ごしやすい季節にはなっているが智也にはまるで関係なかった。

バスが止まり、智也はのそのそとバスを降りた。学校に歩いていく生徒が見えた。

その光景を見て智也は思った。

―何かが違う。

その何かは智也には分からないが、智也はそう思った。今まで感じていた不快感と少し違うような気がした。だが何はともあれ学校に行かなければならなかったので智也は無理やり体を動かし始めた。

歩くたび、ほかの生徒を見るたびに智也は気分が悪くなるような気がしてならなかった。歩いている生徒たちの声が非常に不快だった。何を話しているか何となく想像がついたがそんなことは智也にとってどうでもよいことだった。とにかく周りの声が不快だった。意味もなく、くだらないことをずっと、際限なくしゃべり続けているものがひどく不快で気持ち悪く感じた。

今までうつむいたまま歩いていた智也だったが、ふとその不快な声を発するものに目を向けてみた。瞳に映ったその姿は智也にとって非常に気持ちの悪いものと映っていた。

―なんなんだよこいつら……。

みんな同じような顔に見えた。しゃべっていることも同じような感じだった。仮面をかぶって話しているみたいだった。無論そんなことはないが、今の智也にはそう感じていた。

智也は気分が一層ひどくなった。胃が逆流するようで、耐えきれなくなった。

智也は駆け出した。驚いた生徒が何人かいて智也の方を見たが、智也はそんなことを気にしていられなかった。

靴を履きかえすぐに近場のトイレに駆け込んだ。

「うっ、おぇっ……。」

今日はいつもよりひどかった。胸の中の不快感を吐き出すようだった。しばらく水道にへばりついて、水を飲んだ。

ひとしきり収まったところで、智也はおぼろげな心地で呟いた。

「なんだよ、これ……。」

こんなことは今までになかった。一之瀬の話を聞いた後も確かに慢性的に吐き気があったがこんなにもひどいことはなかった。すぐには教室に行けそうはなかった。少し怖かった。

しばらくトイレで気分を落ち着け、ようやく智也は教室に向かった。廊下にでたが、もう少しでチャイムが鳴るのにあたりは騒がしかった。一之瀬のことについて皆騒いでいるのだった。

少し前までは自分もあのいくつもある集団のどれかに属して、翔太とかも一緒に話していたのだろうか。そうぼんやり考えると智也はまたひどく気分が悪くなるようだった。

なるべく意識しないように、雑音の波をかき分けながら智也は自分の教室に向かった。

教室の前に立った。

いつもは気にせず開けている何の変哲もない扉なはずであるが、今の智也には異様なものとして目の前にそびえたっているように見えた。

扉の前でただ突っ立っているわけにもいかないので智也は仕方なく扉を開けた。

扉を開けると雑音が一層大きくなった。智也はそれに少したじろいだ。次の瞬間にはその雑音を発しているいくつかのものの顔が智也に向けられた。智也は込み上げる吐き気を押えながら、教室に入った。

不快な声がいくつも聞こえる中智也はまっすぐに自分の机に向かい、腰を下ろした。そうすると何人かが智也の周りに群がってきた。

声を掛けられる。いつものあいさつなどはせず、一之瀬の話をしたいようだった。智也を取り巻くのは翔太の友達だった。翔太との繋がりで彼らとは智也も少し話すほどの中だった。名前は何故だか思い出せなかった。

「成瀬、聞いたか?あの一之瀬の話。すごい騒ぎになってたぜ。」

「俺なんか現場の近くにいたぜ。」

「不謹慎だけど学校休めてラッキーだったよな。」

次から次へと話しかけられる。智也は心底不快に感じた。不快だけならまだよかったのだが彼らの顔を見るとまた吐き気が込み上げてきた。

ほんとになんなんだろうこいつらは―。

さっきから同じような事しか言わないで、オウムのように頷き合っている。こんなものを智也は何度も見てきた。時には自分もその中にいた。今の智也にはそれがはっきりと気持ち悪いものに感じられる。

お前らなんかが一之瀬のことを話すな―。

やがて智也は彼らの顔がだんだん同じに見えてきた。その顔には何もないように見えた。まるでのっぺらぼうのようである。智也にとって彼らはひどく醜悪で、くだらないものに思えてきた。とにかく気持ち悪かった。やがて智也はついに耐えきれなくなり立ち上がって言った。これ以上この場にいたくなかった。

「ごめん。少し気分が悪いんだ、保健室に行ってくる。先生に言っといてくれるかな。」

智也の態度に彼らはすぐに反応できなかった。

「あ、あぁ……。そうか。すまん……。」

彼らは一歩引いた。智也は少し早めの歩調で教室を出ていった。廊下の途中で翔太と鉢合わせたが、目を少し合わせただけで、挨拶もせずに通り過ぎてしまった。

翔太は智也に声を掛けようとしたのだがそれより先に智也は行ってしまった。

 

保健室にはいかなかった。呼吸も乱れていたので少しトイレで気分を落ち着けてから、智也はあの屋上に向かった。落ち着けるところはそこしかないと智也は思った。

向かう足が自然と早くなっていた。鼓動が高鳴る中智也は屋上を目指した。

智也が見たのは無粋な文字で立ち入り禁止と書かれた看板と、屋上への階段を遮る無粋なビニールテープだった。

智也は少しためらったが、あたりに誰もいないことを確認すると、張り巡らされているビニールテープの下をくぐり屋上へ向かった。

扉の前に立つ。もう何度目になるのか智也は忘れてしまったが、今日ほどあの空を渇望したのは初めてだった。

汗がにじむ手をポケットに突っ込み、もう使い慣れた屋上の鍵を焦りながら取り出す。少し手が震えていたが、鍵をしっかりと持ち、ドアノブに突き刺し、鍵を回した。だが、いつものようにかちゃっ、という心地いい音はなく、鍵が回らず、金属が何かに引っかかっているような無骨な音が聞こえた。無論扉は開かない。

「あ、あれ……。おかしいな……。」

智也は慣れた行為を何度も繰り返した。だが鍵は回らず扉は閉じたままだった。智也は焦り、次第には冷静ではなくなっていった。

「くそっ……。なんなんだよ、これっ。」

違うやり方も何度か試したが、扉は開かなかった。おそらく学校側が一之瀬のことをきっかけに鍵を変えたか、扉そのものを永久に閉じてしまったのだろう。考えてみればひどく論理的で筋が通っている。

途方に暮れた智也はしばらく扉を背にし、座り込んで途方に暮れていた。

「もうここには行けない……。あの景色を見ることはできないのか……。」

智也はひどく落ち込んだ。すぐには立ち上がれそうになかった、体がひどく重たく感じられた。今頃学校の連中は体育館で一之瀬のことを聞いているのだろう。本当なら智也も体育館にいなければいけないのだが、そんなことはどうでもよかった。

学校の連中がみんな体育館にいるのならここにはまだ誰も来ないだろう。智也はそう思い、もう少しここにいることにした。そして今までのこと考えた。ここは自分の部屋よりも落ち着いて考えられそうだった。

考えてみればどうしてこんなことになってしまったのだろうか。

一之瀬が自殺したなんていまだに智也には信じられなかった。あの時一之瀬はちょっとどこかに出かけるかのように屋上から飛び降りた。

自分と一之瀬はこれまで同じような思いを抱いていたのだろう。智也はそれを一之瀬気づかされた。

それとは「壁」のことである。

その「壁」は智也にとってひどく不快なもので、前々から感じていたことだった。いつから感じ始めたなんてことは分からない。

閉塞感というのだろうか。毎日周囲の期待に応える日々にストレスを感じていたのだろうか。一之瀬は自分よりもそのストレスを感じていたのだろうか。滝本の話だと相当厳しい家だそうだ。プレッシャーなんてものもあっただろう。そして恐らくそのプレッシャー、「壁」は消えてくれることなんてなかった。恐らく一之瀬は自分よりももうずっと長く感じていたのだろう。

智也は考えが先週の家にこもっていた時とは違いクリアに考えられるようになっていた。家では考えてももやもやして結局は眠りについてしまうことがほとんどであった。なぜなのだろうか。ここがあの空に近いところなのだからかもしれないと、智也は思った。まだ時間はある。もう少しだけ考えることにした。

「壁」のことに一之瀬に気付かされたあとは、周りのことがひどく気持ちの悪いものに思えた。この気持ち悪さは言葉では語りつくせない。人も物も何もかも歪んで見えた。今朝は特にひどかった。

何よりも恐ろしく、不快なことは自分もその気持ちの悪いもののまっただ中に居ることだ。そしてその中に居ると自分の中に気持ちの悪いものが入って、自分が犯されていくかのように感じられるのだ。それが、今までは我慢できたが今朝はもう耐えきれなかった。

「僕はおかしくなってしまったのかな……。」

智也は自分の膝を抱え込んで頭をうずめた。そして自分の制服を強く握りしめた。

「これからどうしようか……。」

智也はまた考えた。とりあえず学校にはもう居たくはなかった。またあの中に行くことは想像もしたくなかった。少し前までは当たり前のように溶け込んでいた風景だったが、今の智也にとってはじめじめした、気持ち悪い異形の空間と成り果てていた。

行くべき場所が智也には分からなくなっていた。高校生の規則通りに従えば集会が終わった後に教室に行くのが正当なことなのであろうが、そんなことは智也にはすでにどうでもいいこととなっていた。

こうしている間も一之瀬のことが頭をちらつかせる。彼は屋上の景色が好きだった。屋上から見える太陽や感じられる風が好きだった。智也も同じであった。あの風景の中に居る時だけは他では得られない安らぎを確かに感じていた。

そこで智也はあることを思い出した。

「そうだ、あの河原……。」

智也が思い出したことは一之瀬と智也は初めて言葉を交わした場所であり、屋上に来るまではよく智也が通っていた河原のことだった。

あそこは智也にとって、一之瀬の屋上と同じような場所である。静かで、いるととても心地の良い場所。屋上に行くようになってからはあまり足を運んでいなかったが、あの場所なら行けるはずだった。屋上と一之瀬が失われた今では智也にとってそこが唯一の場所のように思われた。この時智也は屋上の代わりとなるものを自分が一番欲していることに気が付いた。

「いかなきゃ……、これ以上ここに居たら、僕は窒息してしまう……。」

智也はふらつく足取りで立ち上がった。一度思い立ったが早く、智也はすぐさま河原に向かうために学校をでた。形式的には早退という形になり、保険の教員や担任の許可がないと、本来ならば早退できないのであろうが智也はそんなことは気にもしなかった。帰りのバスに乗り乗り込んだ。この時間に制服なのでバスの運転手の年老いた男は怪訝そうな顔をしたが、すぐに興味を失ったらしくバスは通常通り、智也を乗せて出発した。

 

智也はバスを降りた。いつもなら河原には予備校のけりに立ち寄ることが多いので、自転車で河原に向かうことがほとんどなどだが、家に帰って親と鉢合わせるわけにもいかないので智也は歩きで河原に向かった。

歩いている途中も学校に居た時と同じような気分になった。道行く人がちらりと物珍しげに智也を一瞥していたことが智也にはとても不快なことに感じられた。とにかく一秒でも早く智也は河原に向かった。

 

夏の季節とは違い、秋の風が気持ちよく吹く河原。現代では久しい、虫の声もまだ健在である河原に智也はようやくたどり着いた。目の前には少し濁っているが、まだまだ遊び場として使える水面が太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。

智也は少しばかり汗をかいていたが河原につくと非常に涼しく感じられ、汗も引いていった。そしてなによりも屋上に来る時と同じように、圧倒的な解放感があった。まるで砂漠でようやく水にありつけたような心地だった。心が清められていくようであった。風が心地いい。

智也はゆっくり腰をおろした。草木がくすぐったいがそれもまた気持ちよく感じられた。しばらくは何も考えずに川のせせらぎを聞いて、ぼーっと智也は流れる川を見つめていた。

「……。」

河原には目の前の川とサラサラと吹く風、時折聞こえる虫の音だけが存在していた。智也が今までいた場所とは違いここには智也を圧迫し、不快にさせるものはないように思われた。屋上と同じである。もうどれくらい時間が経ったのだろうか。智也は時間が経つことをすっかり忘れていた。

「はーっ。」

智也は草むらに背中をつけ寝っころがった。背中がちくちくした。目の前にはいっぱいの空が広がった。広がる空を見つめながら智也にふとある一つのことが唐突に頭に思い浮かんだ。

それは一之瀬のことであり、智也の彼に対する一つの回答でもあった。今まで家でずっと考えていたが、決してたどり着けなかった回答。それは屋上やこの河原でしか分からないことだったのだ。その回答を智也は声にだし空に投げかけた。

「一之瀬……。お前はこの空に行ったんだな。」

風が少し強めについた。智也の目の前で、風で飛んできた木の葉が一枚横切った。智也の回答に応えてくれたのだろうか。夢みたいな話である。

一之瀬は自分の周りの醜悪さに気づき、絶望していたはずだ。造られた言葉や価値観、そんなものがひどく醜悪に感じること。それは智也が一之瀬に気付かされたことでもあった。一之瀬はそれをずっと感じていた。消えてくれない醜悪な「壁」。そんな中に一之瀬はずっと閉じ込められていた。

智也は閉じこまれていることに気付いてすらいなかった。いやむしろそのほうが幸福だったかもしれない。少なくとも閉じ込められていることには気づかないのだから。実際、智也は気が付いてからはずっと息苦しいままだった。

そんな息苦しい壁の中で恐らく一之瀬はひとつ、とてもきれいなものを見つけた。それが今智也の目に映る一面の空だ。いつも見ている空だが、「壁」に閉じ込められることに気が付いてからはこの空はとてもきれいに瞳に映った。

空には嘘がない―。

「壁」と違って圧迫することも、押し付けるようなこともしない。自分を縛り付けることもしない。

空はただそこにあるだけで、とても美しかった。風も、昇っては沈んでいく太陽も―。

そのきれいさに一之瀬と智也は心を奪われ、救われた。

そして一之瀬はこの醜悪な地上についに耐えきれなくなったのだろう。そして羨望した空のところに行きたくて、とんだ。だからあれは飛び降りたのではなく、一之瀬は空に翔んでいったのだ。

 

智也は目を閉じる。

本当に空の向こう側に一之瀬がいるような気がした。

これらは全部智也自身が勝手に考え出した妄想の類名の子も知れない。他の人が聞いたら阿多者おかしいやつだと思われるかもしれない。本当は、一之瀬はそんなことを考えていなかったかもしれない。

―だが、今の智也にとっては紛れもない本当のことだとしっかりと思えた。なぜだか智也にはそれを確信することができた。

目を開きまた空に訊いてみる―。

「一之瀬―、そこは気持ちのいいところなのかい?」

今度は風もこたえてはくれなかった。時間がゆっくり流れていく。微睡の中に居るようだった。心が軽く感じた。

だが、それもやがては終わりを告げるということを智也は知っていた。ずっとここにはいられない。家に帰らなければならない。恐らく今日の無断の早退で滝本が家に電話でもかけているだろう。面倒くさいことになりそうということは嫌でも想像できる。そして明日が来る。明日が来たらまた学校に行かなきゃならない。そしてそこであの不快な海の中で呼吸をし、過ごさなくてはいけない。そしてようやくその長く、息苦しい時間が終わると、家に帰る。もしくは行きたくもないような場所に行くこともある。これがずっと繰り返されていく。やがては今通っている学校も卒業するのだろうが、また次の学校に行き、最終的には学校の代わりに会社なんてものが待ち受けており、そこで永遠と働き続ける。そして、やがては死んでいく―。

この場所に来ることもやがてはできなくなってしまうのだろう、あの屋上のように。

だが、智也は生きていく。消えない「壁」の内側で、不快感を享受しながら―。

逃げ場など、どこにもない。

そこまで考え、智也は小さく呟いた。

「僕もそっちに行こうかな……、一之瀬。」

一瞬智也は自分でも驚くような思考にとりつかれた。智也は体を起こした。さっきまでと変わらないきれいな川がある。

そこにいけば消えてくれるのだろうか―。

しばらく智也は考える。そして少し時間が経ち、短くなってきた日も暮れかけてきた頃、それは不可能だということを智也は悟った。

「僕はさっき家に帰ること、学校に行くことを当たり前のように考えた―。」

智也はうつむきながら独り言を続けた。この場所だから言葉にできたのだ。

「僕はそっちに行けないよ、一之瀬……。」

智也は泣きそうになった。思わず顔を膝に埋めた。

「僕は君よりもずっと長く壁を受け入れていたんだから。」

声が震えた。だが止めることはできなかった。智也は自分の心の奥でずっと凍らせていてきたものが溶け出していくのを感じた。そしてそれは智也の心を犯してく。

「僕は、中途半端なんだ。一之瀬みたいに飛ぶことも、壁の中で息をひそめて生きていくことももう……、できない。」

「ぼくはどうすればいいんだ、どこに行けばいいんだ、消えることも、生きることもできない……。」

吐き気が込み上げる。智也は我慢しきれなくなり、近くの草むらで吐き出してしまった。胃の中には何もなく、ただ胃液だけが吐き出された。ただ強い酸のにおいがした。

涙が出ていた。ただ一人誰もいない河原で智也は涙を流した。智也の頭上には暗くなり始めた空があった。その空は当然何かしてくれるわけでもなく、今迄通りただ智也を見下ろしていた。

 

 

 

 


青い壁 十月十一日

十月十一日

 

智也は保健室にいた。昨夜は両親から何か色々なことを言われたが特に智也は覚えていなかった。両親から解放されると昨日はすぐに床に着き、深い眠りについた。

そしていつも通りに登校した。だが、二限目からまた気分が悪くなり智也は耐えきれなくなったので保健室で休んでいた。しばらくすると滝本がやってきた。

「今日はもう帰れ。ご両親にはもう連絡してある。やっぱり一之瀬のことが尾を引いているのだろう。少し落ち着いてから学校に来なさい。」

滝本は一方的にそう言い、連絡事項だけ告げると長居はせずに立ち去った。恐らくは授業中で忙しかったのだろう。

そうして智也は鞄を持って学校を出ることになった。よく考えたら、もう一週間以上学校でまともに過ごしていなかった。そのことに智也は気づくとなんだか笑いがこみあげてくるのであった。

智也はバスに乗り、まっすぐに家に帰った。母親の頼子が智也を心配そうに迎えた。

「おかえり。体調は大丈夫?やっぱりお友達のことショックだったわよね。今日はもう部屋で休みなさい。何かほしいものがあったら何でも言いなさい。」

「うん。ありがとう。少し横になってくるよ。」

智也はそう言うと、部屋に戻った。母の心配そうな視線を智也は感じた。

自分の部屋に戻った智也は制服も着替えないでベッドの上に横になった。何も考えたくはなかった。とにかくここにいるのは嫌だったので智也は目を閉じ、夢の中に行こうと努めた。中々眠りは訪れてくれなかったが、しばらくしたら日差しの暖かさに抱かれて、智也は夢の中へと旅立った。

 

変な夢を見た。

夢を見ているという自覚は智也にはなかった。その夢の中で、智也は町の中を歩いていた。ショッピングモールのようだった。だが智也が知っている街ではなかった。あたりに人がいる。夢の中だからだろうか、周りの人の顔は黒くぼやけているようだった。それはなんだか気味が悪かった。そんな中で智也は一人たたずんでいた。

ぼやけている人影の中に一人、顔の見える人がいた。翔太だった。なんだかずいぶん久しぶりに見るような気がした。智也は翔太に近づこうとした。ここからなら少し大きな声をあげれば翔太も気が付くはずの距離のはずだった。智也は声をあげようとした。

「――――――――。」

その声は発せられることはなかった。智也は少し戸惑ったが、翔太のところまで直接向かうことに決めた。向かおうと思った矢先に智也は通行人にぶつかりそうになりよろけてしまった。「すいません。」と、反射的に声が出かけたが、その声も発せられることはなかった。翔太のいた方向をもう一度見る。だが、翔太がいたはずの場所には違う人間が経っていた。その顔は黒くぼやけていた。何が起こっているのか智也には分からなかった。

そこで智也は気がついた。それはふと自分の手が視界に偶然入った時であった。智也の手は黒くぼやけていた。それはここの周りの人の顔がぼやけているのとおなじであった。

手だけではなかった。よく見てみると、足も腹も黒くぼやけていた。

智也はその黒くぼやけている自分が怖くなった。智也は駆け出した。ここにはいるべきではないと直感的に感じたからだった。また、こんなことは有り得ないと必死に否定したいからでもあった。

しばらく走り、息が切れてきたところで智也は立ち止まり、膝に手をついて、目をつぶったまま、呼吸を整えようとした。目をつぶったのは自分の手や足を見たくなかったからだった。

呼吸が落ち着いてくると智也は自分の体を見ないように目をゆっくり開いた。だが、目の前にあったのは大きな鏡であった。智也はいやがおうにも、自分の姿を直視することになってしまった。

その鏡に映った、自分だと思われる姿を智也は見た。それを見た時、智也は猛烈の吐き気が込み上げた。

全てが黒くぼやけていた。自分お顔も分からなかった。それは異様な不快感を醸し出していた。智也はこらえきれなくなりウ、座り込んでしまった。その姿は異様であったが、同時に見覚えがあるようなものにも感じた。わけが分からなかった。ただそれはずっと見ていることはとても耐えられるものだはないことは確かであった。智也はこれが自分の姿だとは思いたくもなかった。人の姿とも思えなかった。それはまるで生きている感じがしなかった。

そして智也は見た。

それは鏡の中からのっそりと出てきた。智也は目を見開いた。逃げようとも思ったが体は全く動いてくれなかった。ゆっくりとそれは智也に近づいてきた。

それが智也の目の前に立った。智也は震えていた。口の端からだらしなく液体が垂れていた。だがそんなことはどうでもいいことであった。

それはゆっくり智也に向かって両手らしきものを向けてきた。その両手らしきものが智也の体を抱きしめるように回した。その姿は抱擁されているように見えた。そしてそれは徐々に智也の中に入ってきた。

それは気持ち悪いものだった。受け入れたくないものだった。

智也はもう取り込まれていた。いや、同一化していた。

智也はだんだんと意識が薄れてきた。

もう智也はほとんどそれと一緒になっていた。

薄らいでいく意識の中、智也は一之瀬の姿を見た。

一之瀬はいつもと同じの制服の格好で、智也を見つめていた。その姿は智也とは違い、黒くぼやけていることなんてなかった。一之瀬の智也を見つめる瞳は悲しんでいるように見えることもなく、憐れんでいるようにも見えた。

そして一之瀬はくるっと背を向けて智也から離れていった。

智也は一之瀬の名を叫ぼうとした。だが、その声はやはり発せられることはなかった。手を伸ばしたが、それだけで意味のない行為となった。一之瀬の姿が小さくなっていく―。

智也の意識は限界に近づいていた。一之瀬の姿はすでに小さな点となりかけていた。

消えかかっている意識の中、智也は一之瀬の姿を追うことをあきらめた。そして智也が最後に見たのは青い空だった。

その空は智也の姿とは違ってとてもきれいに見えた―。

 

そこで智也は目を覚ました。寝汗をかいていたからか、体がべとべとして気持ちわるかった。すぐさまトイレに駆け込み智也は吐いた。吐いた後、部屋に戻った智也は再びベッドに横になった。

「なんだよこれ……。」

智也は小さく呟いた。窓を見ると空がオレンジ色になりかけていた。その空を見たら、智也は少しだけ気分がよくなったように感じられた。

智也はその空がオレンジ色に染まり、暗くなっていく空をずっと眺めていた。そうしていることで気分が少し良くなった。

その晩は母が作ってくれたおかゆを食べ、また部屋で横になって、空を眺めていた。星がきれいだった。しばらくして智也は一つ決めた。それは明日、学校に行くふりをしてあの河原に行くことだった。母にそのことを告げると心配していそうだったが、とりあえず了解してもらった。

明日の準備をし終わり、智也はまた横になった。その夜はほとんど寝れず、智也はずっと星が輝いている空を窓の内からずっと眺めていた。

 

 

 


青い壁 十月十二日

十月十二日

 

智也は家を出た。家を出て少し学校に向かうふりをしたら、河原に向かう道に戻った。途中で昨日の夜にメモしておいた、学校の番号に携帯電話で掛けた。その電話で今日は欠席するということを滝本に伝えた。智也の生まれて初めてのずる休みだった。思ったよりも後ろめたい気持ちはなく、智也は不思議と気分が高揚していくのを感じていた。

こんな朝早くから河原に行くのは初めてのことだった。智也は歩きながら、河原のことに思いをはせた。

あの河原にはじめていたのはもう年齢も覚えていないような年頃だった。定かではないが多分小学生の頃だった気がした。

普通、小学生ぐらいの子供があのような誰もやってこないような場所なら、最初に見つけた子供が友達に教えて、秘密の遊び場か、秘密基地の拠点となるのが恐らく普通であろう。だが智也は違った。智也はこの場所を見つけた時は、誰にも教えないようにしようと思った。友達にも親にも教えたくはなかった。それは子供が大切な玩具などを宝物にし、他の人に触らせないようにするのと同じような感覚であった。

智也はこの河原を自分だけの場所にしておきたかった。そして智也は子供のころからこの河原に智也以外の人間が出入りしているところを見たことがなかった。そのことから完全智也だけの場所だと、智也は思い込むようになっていった。

そして、小学生のころから現在に至るまで、河原にはいつも智也ひとりで行き、誰にも悟られないように智也は務めてきた。何故こんなにも秘密にしておきたかったのかは智也自身にもはっきりと答えられないことだった。

しばらくそんなことを考えていると、いつの間にか、智也は河原にたどり着いていた。

今日も涼しい風が河原に拭いていた。川のせせらぎが心地よく聞こえてくる。智也は、ほっとした気持ちになり草むらに腰をおろした。

ここに来ると嫌なものをきれいさっぱり風が持って行ってくれるような気がした。朝の時間帯だからだろうか。水面がいつもよりキラキラ輝いていて眩しいくらいだった。十分に景色を眺めたら、智也は草むらに背中を預け、仰向きになった。

自分の部屋にいる時よりもずっと心地よく感じた。もうすぐ寒い季節になっていくのだが、今日は雲も少なく太陽の日差しを余すととこなく浴びることができた。

 暖かい日差しに誘われたのか、昨夜あまり眠れなかったせいなのか、智也に気持ちのいい睡魔が誘ってきた。

 智也はその誘いに簡単にのってしまった。瞼が重くなる。智也は微睡に堕ちていく。今日はもう昨日の夢のような夢は見ないだろうと何故だか確信できた。だがその確信もすぐに微睡の中に溶けていった―。

 

 目を覚ますと少しばかり汗をかいていた。だが部屋の中で寝た時にかく汗とは違いなんとなく心地のいい汗だった。ぼやけている智也の頭を覚醒させたのは太陽の日差しだった。太陽はもう智也の真上に昇っていた。

 智也は体を起き上がらせ、目元をごしごしとこすった。どれくらい眠っていたのだろうか、携帯で時間を確認するともう少しで十二時になるところだった。そういえば少し空腹のような気もする。昼はどうしようかなど智也はぼんやり考えることにした。

 だが、そんな考えはすぐに吹き飛んでしまった。その原因は足音である。この静かな河原では、川のせせらぎ以外聞こえてくるものはほとんどなかった。たまに車のエンジン音らしい音が聞こえてくるくらいである。

 草と土を踏む音だった。河原は静かなので簡単に智也は分かった。しかもその音は徐々に大きくなり、智也の場所に近づいてきているようだった。ここからでは草が茂っていて周りがよく見えなかった。

「ど、どうしよう……。」

 智也はすっかり目が覚めてしまった。人が来るなんてことは今迄なく、智也はひどく動揺した。この場所に自分以外の人間が来ることが智也には受け入れがたいことだった。それは智也に生理的嫌悪感を抱かせた。右往左往しかけている智也だが、ここで有り得ないことを呟いた。

「もしかして、一之瀬……?」

そんなことはありえないことだった。だが、何故だかは分からないが智也は一之瀬がきたかと思ってしまったのだ。なぜならこの場所は、ほんの一か月くらい前から、智也だけの場所ではなくなっていたからだ。一之瀬もこの河原の場所が好きだった。あの屋上と同じように。だからここに来るのは一之瀬なのではないのかと智也は思ってしまったのだった。それが有り得ないことだったとしても。

 だがそんな妄想に近いものは簡単に打ち破られてしまった。足音の主が智也の目の前に現れたからだった。

 足跡の主は無精ひげを生やした大柄の男の人だった。首に手拭いをかけていた。シャツは黒く汚れているところが点々とあり、すぐに智也は土木関係、または工事か何かの人だということを悟った。

 大柄の男は智也を見て驚いているようだった。当然この二人は面識があるわけではなく、二人ともこんなところで人に出くわすとは思ってもみなかったからである。先に口を開いたのは大柄な男の方であった。

「兄ちゃん、こんなところで何やっているんだ?」

智也は返事に困ったが、別に嘘をつく必要もないので素直に答えることにした。それに突然現れた大男に、智也は少し委縮していた。

「えーと、その……、昼寝をしていました。」

嘘偽りのない真実であった。大男はそれを聞き、きょとんとしていた。

「昼寝?今日は平日だろ、学校はどうした?」

智也はここで自分が制服姿だということに初めて気が付いた。そして目の前の大男の迫力に智也は動揺していた。

「あー、えっと、その……学校はあったんですけど……。」

智也が口ごもる。

「なんだ。さぼりか。いまどき珍しいな。」

大男は少しだけ笑って言った。大男に智也のことをとがめる気はないようだった。思っていたよりも怖い人ではないようであった。

「そうか、そうか、確かにここで昼寝でもしたら気持ちいいかもな。」

大男は大きくうなずいている。

「でも悪いな、兄ちゃん。今すぐここから立ち去ってほしいんだ。」

智也は動揺した。

「えっ……、な、なぜですか?」

「あー、会社の偉い人がだな、観光やらなんやらで、この河原を開発してバーベキュ場にしちまおうって言って、ここ一面を工事することになったんだ。んで、俺はその工事の下見に来たってわけだ。まぁ、お前さんが昼寝しちまうほど奇麗で静かなところだからな。それなりに客にうけると、お偉いさんは思ったんだろ。」

智也はぼんやりと男の言うことを聞いていた。

「そうだな、だいたい、あと一週間もすればここは立ち入り禁止になっちまうな。悪いな」

「……。」

智也の頭は真っ白になっていた。ただある事実だけはしっかりと頭の中に浮かび上がっていた。

―この場所がなくなる。

智也は呆然となった。大男が少し不思議そうに呆然とした智也を大きな目で見ていた。

「どうした?そんなにショックだったか?まぁ、分からねえでもないけどよ。」

―ここがなくなる。屋上に続き、この場所も。

智也は地面から川のほうに目を向けた。そうするとさっきまで綺麗だと思っていたこの景色が途端に無味乾燥なものに智也は思えてきた。

「そうですか……。すいません。すぐにここから離れます。ご迷惑おかけしてすいませんでした。」

智也はそう言って、大男にお辞儀をした。大男は智也の丁寧な態度にきょとんとしていた。

「えっ、いや、別にかまわねぇよ。こっちこそ悪かったな、昼寝中に。」

「いえ。すいませんでした。失礼します。」

そうして智也は足早に河原から出て行った。その様子を大男は不思議そうに眺めていた。

「あんな真面目そうなやつがサボりねぇ……。」

 

 

 河原から離れた智也は今更学校や自宅にも帰るわけにもいかないので、行く当てもなく町のはずれを彷徨っていた。途中に智也は空腹に気が付いた。いつの間にかもう午後二時を回っていた。智也は適当に見つけたコンビニで適当にパンと水を買って空腹を満たした。その後は相も変わらず、町を彷徨っていた。ずっと町を彷徨っていたせいか足が棒のようになっていることに気が付き、途中で見つけた公園のベンチで一休みすることにした。

 智也はただ道行く人々を眺めていた。そんな中で虚ろながらに考え事をし始めた。

 

 もう、屋上も河原にも行けない。なら自分はどこに行けばいいのだろう。

 明日からも当然学校はある。またあの億劫な空間の中に身を置かなければならない。

 自分がこんなにも変わってしまったのだからって、世界は変わってくれるわけではないのだ。世界は自分に無関心で、欲しているのはいい大人になれるだけの人間だ。

だからどこにも行けない。自分は壁に閉じ込められているのだ。

いつからこんなことを思うようになってしまったのだろう。いつからこんな風になってしまったのだろう。

 智也はだらしなくベンチに身を預けて、空を見上げた。

 ―いや、きっと、ずっと前からそうだった。自分が変わったわけではない。ただ勉強をして、両親や教師たちのためにふりをしていただけなのである。だってそのほうが楽だった。

 でも気づいてしまった。きっかけは一之瀬であったけれどもこれは自分の問題だった。一之瀬は行き場のない気持ちを屋上で満たそうとしていた。自分も同じだった。でもそれはその場しのぎであるだけで、逃げられるわけではなかった。

 自分はずっと目をそらしていた。死んでいるように生きていた。そして何かを忘れ、何物にもなれなくなってしまった。

「ははは、なんだ。僕はなんだ。」

 智也が乾いた笑い声をだす。智也の叫びをきいてくれるものなどどこにもいなかった。

 そして智也は一之瀬のことを考えた。

 一之瀬は空に行くって言っていたけど、実際は行けるわけがない。今思えばあまりにも馬鹿げている。

 

 でも僕にはそんな馬鹿なこともできない。

 一之瀬は立派だった。彼はきっと何かになれたはずだ。でなければ最後にあんな笑顔ができるはずがない。僕なんかよりもずっとましだ。

 クラスの連中もみんな同じに見えて、くだらないものに感じた。翔太も鬱陶しかった。自分はもっとくだらない人間なのに。彼らのほうがまだましだ。何かになれなくても気が付いていなければいいのだから。

 「ははっ。ほんとに最低だな、僕は。」

 智也は空を見るのをやめて、地面を見た。小さな虫がそこにはいた。何かはわからない。だけど一生懸命に地面を張っていた。

 ―僕は虫けら以下だな。

智也はそう思って目を閉じていると、疲れたのか少しばかり眠ってしまった。

 

 目覚めても特に変わったことは何もなかった。当然である。智也の死んでいるような心も変わっていなかった。

「……帰ろう。ここに居ても意味ない。」

智也はベンチから立ち上がり、少しふらつく足取りで家路についた。あたりはもう暗くなりかけていた。

家に帰っても、母親は智也が普通に学校に行っていたと思っているので、特別に何か言われることはなかった。智也は水を飲んで、早々に部屋に戻った。

部屋に戻ると、出かける前と何も変わらない風景がそこにあった。智也は立っているのも気怠く、すぐにベッドへ体を沈めた。

智也には見慣れている天井がひどく歪なものに見えた。しばらくぼーっとしているとなんだかすべてがどうでもよくなっていた。明日の学校も行きたくないし、家にも居たくはなかった。

だけどもう河原も屋上にも行けない。どこにも行きたいところなどもう智也には無かった。そこで智也はふと思った。

「僕も一之瀬の所に行けるかな……。」

そうつぶやくと智也は重い体を起こし、机に向かった。そしておもむろに引き出しを引っ張った。普段はそんなに使うものではないのですぐにはしまってある場所が思い出せなかった。少し引き出しの奥を手探りであさってみると智也の手に目当てのものが触れた。智也はそれをつかんで、引き出しから手を引いた。

目の前にあるのは金属の鈍い輝き、その金属部分には智也の虚ろな瞳を映していた。智也の手に持っている者はカッターナイフだった。もうすでに刃は出ている。

智也はベッドに戻って腰をおろした。そしてカッターナイフの刃を手首に押し当てた。

―これを強く縦にひいたら全部終わる。もう苦しまなくて済む。嫌なものを見なくて済む。ここから抜け出せる。

智也は目を強くつぶった。

 

「………………。」

智也の体が震える。目には涙がたまっていた。智也はカッターナイフを壁に投げつけた。カッターナイフは無様に壁に当たり、音を立てて落ちていった。

「だめだ……。僕には無理なんだ。」

智也の目から涙がしたたり落ちる。智也は慟哭する。

「もう何かになることもできない……。死ぬことも、生きることもできない。どうしようもない。」

 その晩智也はずっとベッドに突っ伏していた。もう、なにもかもどうでもよくなっていた。自分を覆う壁なんて、全て無くなってほしかった。だがそんなことは有り得ず、虚しく時だけが過ぎていく。

もうどれくらい時間が経ったのか分からなくなったあと、智也は自然と睡魔という闇の中に堕ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青い壁 十月十三日

十月十三日

 

 智也は目覚めた。智也は気づいていなかったが、赤く目を腫らしており、目が血走っていた。智也は自分が制服のまま眠ってしまったことに気が付いたが、そんなことはどうでもよかった。ふと目に昨夜のカッターナイフが昨日のまま床に落ちていた。しばらくそれを見つめていたが、すぐに昨日と同じ鞄を持ち、部屋を出た。

 どうやら起きた時間はいつもより少し遅く、母親もパートでもう家を出ていったようであった。テーブルには書置きがあった。朝食は冷蔵庫にあるということだったが、智也は食欲もわかなかったので、すぐに家を出た。

 いつも通っている道がひどく無機質なものに見えた。足取りもひどく重く感じる。ふと、智也は足を止めた。足が前に進まない。どこにも行きたくない。

 智也は元来た道を少し戻って、通学とは違う道に入っていった。

 目的などなく智也は彷徨っていた。学校のことなんて頭の中になかった。

 どれほど歩いただろうか。気がついたら昨日来た公園に智也はいた。特にすることもなく、少し疲れてしまったので、昨日と同じようにベンチに腰をおろした。

 風が少し冷たい。気がついたら夏が終わっていた。

「……。」

 季節は移ろっていく。気が付く暇もないほどに早く時が過ぎるのは思っているよりもずっと早い。最近少しさぼり気味だが、智也もあと一年半で高校を卒業する。進路はどうなるかわからないし、今は何の関心もないが、恐らくはどこかの大学に行く。日本では珍しくもなんともない、ありふれた進路。もちろんそうでない人もたくさんいるだろうが、智也には分からないことだった。

 だが、特別に何かが変わるわけでもない。高校の教室が大学の教室に変わるだけだ。自分自身は何も変わらないだろう。そんな確信が今は智也にはあった。

 そしてやがては大学も終わり、どこかの会社か何かに就職する。まだ見たこともないが大学の教室が、会社のオフィスに変わる。そして働く。想像もつかないが結婚なんかして、子供なんてものもできる日が来るのだろうか。そして年を取り、やがては死ぬ。

 それのどれも今の智也には無意味で、つまらないものに思えた。そんな人生を歩むために膨大な時間を消費していく。そんなことがなんだか智也には滑稽に思えた。

 だが、やがては智也もそのレールを懸命に歩かなくてはいけない。もうそうするしかないのだ。どこかに楽園のような人生が待っているわけでもないし、望むものもない。

 ―虚しい。

 ただ虚しかった。

 世界はどこまで行っても灰色で、無意味なものに思えた。

 どうしてこんな風になってしまったのだろう。なぜあの河原や屋上の空にあんなにも心をときめかせたのだろう。智也には分からなかった。

 今日の空は青く奇麗だ。智也はあんなに好きだった空がなぜか急に憎たらしいものに思えてきた。

 どうしてそんな奇麗くせに自分をいつまでも見下ろしているのか。智也は空がせせら笑っているように感じた。

 ―見上げると一面の空。智也は青い壁に閉じ込められていた。

 この壁の中で自分は死んでいるように生き、やがては本当に死ぬ。それだけは嫌だった。

 あぁ、本当にどうしてこんな風になってしまったのだろう。智也は虚ろな目で青い壁を見上げながら、思いをはせていた。

 

 そして、智也はふと気が付いた。

「そうかこの町や、風景がこんな僕を作ったんじゃないか。」

智也の口元が歪む。

それは偽物とはわかっていても一つの答えのように思えた。

「僕を取り囲むものが、僕を作った。この胸の虚しさもそうだ。なんだ、簡単な事じゃないか。」

 智也は不気味に笑っていた。道行く主婦らしき人が智也ベンチに座っている智也を気味悪そうに見ていた。智也はそんなことには気にもかけなかった。

 「なら、どうしようか。このまま不様に死んでいくのもなんだか悔しいじゃないか。」

 そして智也はあることを思いついた。それは智也にとって今まで感じたことのないくらい面白いもののように思えた。それは―

 「この壁に傷をつけてやろう。」

 そうだ。智也の周りにある壁はずっと智也を取り囲み、圧迫してきた。だから一回ぐらい反撃に出てもいいではないか。うん。そうだ。

 けどそんなことをしても何も意味はないだろう。そんなことは智也にだって分かっている。決してこの壁からは逃げられない。

 だから、今智也が考えていることはひどく無意味なものに違いないのだ。

 間違いなく世間は嘲笑い、頭のおかしい奴だと非難するであろう。

 ―だが、構わなかった。

 

 あの一之瀬のように智也はなれない。

 それは涙が出るくらい智也にとっては悔しいことだった。

 一之瀬はすごい奴だった。彼はしっかりと答えを示し、実行し、完遂した。

 あの自殺はきっと意味のない行為だったのだろう。

そして恐らくは、一之瀬にもわかっていたに違いない。智也はそう確信できる。

 だがその一之瀬の行為は、本当に尊敬に値することだと智也は信じて疑わなかった。

智也にはできないことだった。

けど智也もこのままではいられなかった。このままこの壁の中で窒息するように死んでいくのは嫌だった。

一矢報いてやりたかった。

この壁を、今まで嘘で塗りたくられた壁を。この憎たらしいくらいの青い壁を。

 

ここで智也は決心がついた。

頭が軽くなった。智也はベンチから立ち上がり、公園を後にした。

 

 

 

 智也は学校にいた。もう授業開始からずいぶん時間が経っていた。校庭には体育の時間であろう生徒たちがジャージ姿でソフトボールを行っていた。

 智也は校庭にいる生徒らに目立たぬように、校庭のはずれにある体育館倉庫に向かった。

 そこで智也は目当てのものを見つけた。それは少し年季の入った金属バットだった。智也は軽く素振りをした。少し冷えた金属の感触や、振り具合に満足し、智也はこそこそと体育館倉庫を後にした。

その後智也は校内へ入っていった。バットを片手に持ち智也は誰にも見つからないように校内を歩いて行った。今、学校は授業中であるので、教室や職員室などに近寄らなければ、他人と遭遇することもなかった。

向かった先は閉じられた屋上だった。智也は周りに十分注意を払い、周りに人がいないことを確認して、屋上の扉に向かった。扉は前に来た時と同じように、鍵がかかっていて、一之瀬からもらった鍵では扉は開かないようになっていた。

智也は数回ドアのノブをいじった後、一歩後ろに下がった。いやな汗が背中にへばりつく。智也はもう一度深く呼吸をした。

そして智也はバットをドアに向け、叩き付けた。

すさまじい音が鳴り響いた。智也は扉が壊れるまで何度もバットを叩き付けた。

何回か叩き付けた後、何かが外れるような音がした。智也はバットを振り下ろすことをやめ、片足で思いっきり、扉をけった。

そして、扉が開いた。

 

そこにはいつもと変わらない空があった。

智也は屋上の中心へ向かった。

そして空を眺める。

もう何も感じない。

いや、むしろ憎く感じた。

いつもそうだ。この空さえ。

この空も同じだ。

壁となんら変わりがない。

いつだって閉じ込めている。

どこにもいけない。

死ぬことも、生きることもできない。

どうしようもない。

それなのに空も変わらない。

ずるい。

そこに行きたかった。

救い出してほしかった。

この気持ち悪いところから。

でも、確認した。

それで十分だ。

だからもう終わりにしようと思う。

僕なりの方法で。

 ようやくたどり着いた。

 

 「はははははははははははははっ!」

 智也は笑った。気持ちよかった。

 そして、少し落ち着いてから智也は最後の決心をすました。

 「じゃあ、行ってくるよ、一之瀬。無駄だけど、やってみる。」

 智也はそう空に言い残し、屋上を去った。

 

 扉を壊した時にすさまじい音が出たが、周りに無関心なのか、ただ単に何があったのか確認することが面倒なのか、誰かが様子を見てきてくれるだろうという、他力本願の精神からか、屋上にやってくる教師は一人もいなかった。それは智也にとっては非常に都合がよいことであった。

 智也は階段を下りていった。頭はこれまでにないほどさえていた。すでに考えはまとまっていた。智也はこれからその考えを実行することが、とても楽しみだった。

 ようやく智也は目的の場所にたどり着いた。

 智也のクラスの教室だった。

 智也は教室の扉を開けた。

 教室にいる連中が一斉に智也のほうを向いた。

 とても驚いているようだった。

 その驚いた様子も智也にはなんだか可笑しくて仕方なかった。

 教師らしき人物が智也に向かって何か喋っている。

 何とも不快な音だと智也は感じた。

 智也はとりあえず持っていたバットを扉に叩き付けた。

 今度は屋上の扉を壊した時とはわけが違かった。

 悲鳴や金切り声が教室に渦巻いていた。

 その悲鳴の嵐が上がった瞬間、智也はこれまでにないほどの快感を得た。

 ―やってやった。この不快な壁に。やってやった。

 「ははははははっ。」

 智也は笑い声をあげた。

 今度はバットを壁に叩き付けた。

 悲鳴はより激しさを増した。

 間髪入れずに、次は近くの机にバットを振り下ろした。

 完全に連中はパニックになった。

 教室の隅に殺到する。

智也も連中の近くに近づくと、連中は智也が入ってきた扉の反対のほうに殺到した。

智也は追いかけるのも面倒になり、近くの窓ガラスをバットで割った。

そしたら、教師らしきものが何人か教室に入ってきた。

それらが何か言っているのか智也はよく聞こえなかった。どうでもよかった。

逃げ惑う連中に目を向けると、パニックで転んでいる者もいた。

教師たちはどうしていいのやらわからず、中々踏み出せないようだった。よく見たら担任である滝もとの姿も見えた。

一方では生徒の誘導している怒鳴り声が聞こえる。

同時に、自分に問いかけるような声も聞こえてくる。

―無視して破壊を続ける。

ガラスが壊れる音や、叫び声がひどくおかしい。

それもそのはずであった。

今までずっと自分を閉じ込めていたもの。

無意味で何の価値もないもの。

そんな中で平気で息をして、くだらないことを言う連中。

どうしてだ。

どうしてお前たちはそんなに鈍感でいられる?

どうしてお前たちは平気で生きていられる?

どうして毎日に耐えられる?

どうしてこの空虚な壁の中で平気でいられる?

破壊を続ける。

この行為にも何か意味があるわけではない。そんなことは智也にもわかっていた。

でもやめられない。

なぜなら不愉快だからだ。

この風景も。この連中も。目に映るものすべて。

体力が続く限り傷つけてやろう。

智也はそう思った。

そのあとは―、

そうだな―、

できれば殺してほしいかな―。

智也は微笑んでいる。

楽しい―。

ほんとに馬鹿らしくて―。

もう何度バットを振るっただろうか。休みなく振り下ろしてきたから、腕が疲れてきていた。もう腕が動きそうにない。

だが、今バットを振るのをやめたら、あの教師どもにたやすく捕えられてしまう。

どうすればいいのか。

智也は考えてみたが良い案考えは、浮かんでこなかった。

とりあえず彼らとの距離をとる。大した考えなど一つもなかった。

そうして腕が限界にきてバットを振るのをやめた。

そうすると、教師たちが見計らっていたように、智也に迫ってきた。

やはりこの瞬間を狙っていたのだろう。

―やっぱりだめか。

智也はそう思った。

でももう一振りくらいはできる。

せめて彼らにも一発当ててやろう。

智也はそう決意し、迫ってくる教師にたいして身構えた。

その瞬間、不意に後ろから誰かに、飛び掛かられた。

「―⁉」

誰か隠れていたのか?

この学校の教室にはベランダがある。

そのベランダは隣の教室につながっていることを智也は今さら思い出した。

「くそっ。」

智也は何とかして飛び掛かってきた人物を払おうとして、バットを振るった。

そして、鈍い音が聞こえた。

それはいままで壁やガラスを壊した時に聞こえる音ではなかった。

組み敷かれた腕がズルズルと落ちていく―。

気が付くと教室は静寂に包まれていた。

重く、鈍い音が智也の背後でした。

智也はゆっくりと後ろを振り返った。

智也の足元にはよく知った人物の頭があった。

そして、その頭から赤いものが広がっていくのを智也は見た。

―翔太だった。

「あっ……。」

智也はバットを落とした。

無機質な音が教室にこだまする。

どうして。

 どうしてお前なんだ。

 半分見える翔太の顔はずいぶん久しぶりに見るような気がした。

 途端に逆らえない力が智也の後ろからふりかかる。

 智也の目線が翔太と同じ高さになった。

 翔太は目を閉じている。

 その横顔はよく眠っていて、心地よそうに見えた。

 久しぶりだなぁと、智也は思った。

周りはがやがやとひどくやかましかった。

 「ごめん、翔太。」

 智也はそう呟き、目を閉じた。

 最後に割れたガラスの窓から見慣れた空が見えた。

 智也の無意味な抵抗は終わった―。

 

 学校という建物の一番高いところにある屋上より遥か彼方にある青い空。

 人々の声がざわざわと騒いでいる地上よりも遥か彼方の空。

 曇天の日や雨の日もあるがいつもそこにあり、かわらずある奇麗な空。

 牢獄に閉じ込められている鈍感で愚かなもの。

 空に焦がれ、飛ぼうとするもの。

 悶々とするもの。

 絶望するもの。

 そんな人たちをこの青い壁が覆っている。

 過去現在変わることなく―。

 憎たらしいほど青く奇麗な空は、今日も僕たちを見下ろしている。

 

                           〈了〉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あとかぎ

ここまで読んでくださった皆様に心から感謝の気持ちを申し上げます。

もしよろしければ感想やコメントをいただければこちらも大変嬉しいです。

 

それでは、また次回作でもよろしくお願いします。

ありがとうございました。

 

                           著タコヤキ


この本の内容は以上です。


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