青い壁 九月二十四日
九月二十四日
放課後になった―。いつもならまっすぐに家に帰るところなのだが、今日は一之瀬との約束があった。
少しぼーっとしていたらと翔太が駆け寄ってきて、一緒に帰ろうと誘われた。翔太はサッカー部なのだが、今日はたまたま練習が休みらしい。もともとこの学校のサッカー部はそんなに強くない部であるそうなので、部員もそこまで本気でやっているわけではないらしい。
智也は今では帰宅部だが、中学では陸上部の短距離で活躍していた。特別優れた選手であったわけではないのだが、大会にも参加したこともある。なにより走るのは嫌いではなかった。今でもたまにランニングをしたりする。
「ごめん、翔太。今日は学校で用事があるから遅くなる。」
「えー。ついてないな。でも仕方ないか。あっ、忘れるところだった。お前から借りた漫画今日持って行った方がいいか?」
「いや、今日はいいよ。明日以降で。」
「了解。んじゃまた明日な。」
「うん。」
そうして翔太は教室を出て行った。
智也は一息つくと、今日の予定を反芻してみた。少し前ならば考えられないことである。今日も一之瀬は誰とも口を利かずに一日を過ごしていた。その表情は、河原で見た時とは別人のようであった。クラスが嫌いなのだろうか。そしてなぜ自分に話しかけてきたのだろうか。どちらにしても普段無愛想で慇懃無礼の一之瀬が、自分にコンタクトを持ちかけてきたのだ。それも一之瀬から。このことがクラスや翔太にばれてしまったら、ちょっとした、いやかなりのニュースになっているだろう。それに、紹介したい場所とはどこなのであろうかと、考えることは少なくなかった。
「行こう……。」
智也は図書室に向かった―。
―図書室。もう少しで空に橙色の光があらわれそうな時間だった。あの時一之瀬と会った時より一時間ばかり遅い時間―。
まだ一之瀬は到着していないようだった。ほかの生徒の姿も見えない。じっとしているのも暇であるので、この前一之瀬がいた海外文学コーナーに足を運んだ。
たくさんある本の中から一冊手に取ってページをめくる。手に取っているものは、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」である。これは一之瀬が前に手にとっていた作者の本である。智也にはあまりなじみのない分野だった。なんとなくだが、こんな本を読んでいるあたり、一之瀬は学年トップの秀才さをあらわしているような気がした。
本を棚に戻したところで、人の気配を感じた。振り向いたら一之瀬がそこに立っていた。ちょうどこの前とは立ち位置が逆になっている状態である。前と違うところは、一之瀬が柔らかな笑みを浮かべており、智也に話しかけているところであった。
「ごめん。成瀬君。待たせかな?」
今度は驚かなかった。智也は一之瀬に落ち着いて顔を向けた。
「いや、ちょっと前に来ただけだよ。」
「そう、それはよかった。それならさっそく向かおうか。」
と、一之瀬は背中を向けて歩き出した。意外とせっかちなのかもしれない。実は今日、一之瀬は学校を昼からは保健室に行って休んでいたらしく、ホームルームにはいなかったので、智也は少し心配していた。本当に図書室に来るのかと―。だが智也は不思議と一之瀬は来るだろうなと確信めいたものがあった。だからそんな漠然とした不安はすぐに消えてしまっていた。このことは智也自身不思議に思った。
「うん。よろしく。」
智也は一之瀬の背中を追って歩き出し、図書室を後にした。
「ところで、一之瀬が紹介したい場所って学校の外?」
智也が質問した。一之瀬は少し笑って、
「いや、一応学校だよ。」と、答えた。
「そうなの?」
「うん。ついてきて。」
そういいながら、廊下を少しわたり、階段をどんどん登って行った。この学校は全部で四階まである。その四階にまで到達しても、一之瀬は階段を上ろうとしていた。ここまでくれば智也にも予想がついた。そしてついに階段の終わりに到達してしまった。あっという間であった。
「ついたよ。成瀬君」
「屋上か。でも、ここは生徒には立ち入り禁止で、しかも鍵がかかっているはずじゃ……。」
一之瀬は得意げにポケットからあるものを取り出した。鍵である。
「それ、ここの?」
「そうだよ。」
どういてそんなものを持っているのか―。学校の施設の鍵は職員室で管理されていて、生徒が持ち出しできるものではないはずだった。校則違反―。下手したら窃盗に近いものになるのではないかと智也は危惧し、少し心配になった。
だが、一之瀬はそんなことを気にも留めていないのか、楽しげにその鍵を鍵穴に突っ込んだ。カチャリ、と心地いい音が静かな学校に響いた。
「さ、どうぞ成瀬君。」
一之瀬はそう言って、自分の宝物をこれからみせるようにゆっくりとドアノブを回していった。
扉の隙間からあふれる光―。その光が徐々に広がり、大きくなっていく。やがてその光は智也の全身を覆い尽くした。
「―。」
そこには青い空があった―。屋上なのだからあたりまえのことなのだが、いつも地面から見る空とは違うものに見えた。いや、空を意識したことなんてあの河原以外では皆無だった。その空に今目を奪われる。何も考えはない。ただもっと空の中心に行きたくて、一歩屋上に足を踏み入れた。そしてその中心へと足を進める。そしてその中央に立った。
空が近くに感じた―。
手を伸ばせば届きそうな空。実際には届くはずのない空。この時の智也の頭の中は空っぽだった。校則違反とかそんなことはどうでもよかった。ただこのなにもない青い空を眺めた。
気持ちがいい―。
少しだけ風を感じる。その風が智也の前髪を揺らしていく。智也はただその風を全身に感じる。あの河原と似たような雰囲気なのだろうか。ここには余計なものが一つもない。この屋上は危険防止のためにフェンスで周りが囲まれており、景色を見るときはフェンス越しであった。
―フェンスなんてなくていいのに。
智也はそこが少しだけ残念に思った。だがそらでも十分開放感があり、心地いいところである。
余分なものはなく、あるのは風と空だけであった。
―なるほど。確かにここはいいところである。
智也は空に心を奪われたかのように上を向いていた。
一之瀬の声がようやく智也の目を空から引き離してくれた。智也はやっと一之瀬に気が付いたかのように、ゆっくりと視線を空から戻した。実際には短い時間だったのだろうが、智也には長い時間空を見ていたかのように感じられた。
「気に入ってくれたみたいだね。」
一之瀬が囁いた。
「うん。気に入った。」
それ以上の言葉は無粋だった。もう一度空を見る。智也はあの河原の時のように腰を下ろし、横になった。視界には空以外何もない。しばし二人は空を眺めた。しばらくたったと感じふと智也は一之瀬に尋ねてみた。
「ここにはよく来るの?」
「うん。夕方になる時が一番素晴らしくてね、この時間帯によく来るよ。」
「そうか、もうすこしで夕方か。」
「うん。それまで何か話そうか。」
智也はとりあえず気になったことから尋ねることにした。
「先生とかには見つかったこととかないの?」
「ないよ。ここはとっくの昔に閉鎖されたらしいから、鍵を職員室から持って行ってもなんともなかった。気にしていないと思う。」
それは安全管理問題としてどうなのかと智也は思ったが、なんだかおかしくて笑ってしまいそうだった。
「いつからここに?」
一之瀬は少し考えた後、
「五月ぐらいからかな。」と、答えた。
「どこか落ち着けるような場所がほしくてね、ずっと探していた。」
「いい場所を見つけたね。」
「うん。」
また静かな時間が流れていた。うっかりしていると気持ち良くて眠ってしまいそうだった。智也は眠気に逆らえずうとうとしかけている時、
「見て。あの夕日。」
と、一之瀬が静かだが吸い込まれるかのような調子で智也にささやいた。
「ん……。」
目をこすりながらゆっくりと瞼を明ける。橙色の光がうっすらと見えた。智也は体を起こしてその眩しすぎない光を見つめた。
「きれいだね。」
ありきたりな感想だった。一之瀬は少し不満そうだ。
「あの光がゆっくりと、青を塗りつぶしていって、やがては暗くなり星が見えてくる。急がずに、ゆっくりと……。あの光ももう少しすればあっちの方に沈んでいく。それはとても美しくて、とても奇麗だ。そしてそれを何度も何度も繰り返していく。でもその美しさは決して色あせるようなことはない。だから僕はここが好きだ。それは教室や町の中ではとても見えづらい。建物が多すぎて光を遮ってしまうことが多い。星もとてもきれいに輝いているのに町では見えづらくなってしまう。だから僕はそういったものがないあの河原やこの場所がとても貴い場所に思える。こういった場所は今とても少ない。それはとても悲しいことに思えるよ。成瀬君もそんな風に感じないかな。」
一之瀬はどこか辛そうな声で語った。
智也はすぐには返答できなかった。一之瀬が言っていることがよく分からないだけではない。
今まで見たことのないさびしげな一之瀬の声色と姿に少しおどろいたからだ。その姿は」はかなく、悲しげで、消えてしまいそうな姿だった。
これが本当の一之瀬の姿なのだろうか―。
一之瀬がここを好きなように、自分もあの河原が好きであった。その理由はただ雰囲気だけの問題ではない。
智也自身にもわからないが、もしかしたら一之瀬と自分は似たような想いを抱き、似たような別々の場所を憩いの場として好んでいたのではないかと思った。そうして一之瀬はこの屋上の他にも、つまりはあの河原を見つけたのではないか。そしてなぜ自分があの河原やこの屋上のような場所を一之瀬と同じように気に入っているのだろうか。空や星、風といった自然なるものが別段好きであると意識は智也には特に無いように思う。自然と触れ合う―。
例えば山登りや、河原で遊ぶことが智也は好きというわけではない。一之瀬の言うことや、感じていることが智也にはまだよくわからない。ただ、少しくすぶる思いが智也の心に生まれていた。それは智也にはまだはっきりと認識できるものではなかった。
「よくわからないけど、こういう場所が少なくなっていることは悲しいね。ここみたいに気持ち良くて落ち着けるところがないのは確かに嫌だ。」智也はゆっくりと答えた。
「そうか。なら一つ聞こう。君はここやあの河原以外で落ち着く場所があるかい?」
再び智也は考えた。
―ここやあの河原以外に落ち着けることができるか?
普段の生活を思い描いてみる。まず真っ先に候補から外されるのは学校や予備校だ。
この二つはあまりにもまわりの雑音が多すぎる。聞きたくないこと、どうでもいいこと、不快になること、中でも一番嫌なのはこの前講師に言われたような言葉だ。まるで自分の好きなものや、生き方を無視して標語のように語られる。社会的には奇麗であろう言葉。その言葉を教師や両親は自分の言葉でもないくせに、これが当たり前のような口ぶりでその不快な言葉を垂れ流す。そういった言葉や音が自分の意思にはかかわらず絶えず耳に入ってくる。耳をふさぐこともできない。なぜなら耳をふさいでしまうとなぜお前だけそうなのだ、みんなと違うのだ、空気を読めないのだと、おかしな奴だと思われる。そして周りから奇異の目で見られ、共同体のメンバー像とは違った、それもマイナスなイメージを勝手に周りは抱き始める。それだけならまだしも、事の大小はともかくそれがひどくなると、心理的、あるいは肉体的にも疎外されてしまうことがある。そうなるとその共同体で生きていくには苦しくなる。だから耳をふさげない。嫌な事でも耳を傾けそれに従う努力をしなくてはならない。そういったものひどくは鬱陶しく感じる。
少し思考が脱線したがとにかく学校や予備校は論外だ。
なら街はどうか。だがこれも微妙だ。なにせ人が多い。それならあとは自分の家しかなかった。この空間ならどうなのだろうか。智也の家庭は世間から見たらいたってこの国では普通と思われる形態であろう。父親は普通の電機メーカーのサラリーマンで名前は晴夫、性格は落ち着いていてよく穏やかな人柄である。趣味は小説を読むことで、よく智也は父から本を借りる。母親は週に三回のパートをしている、名は頼子という。普段は優しいのだが教育に関すると少し神経質になることが只々あり、智也の悩みのタネとなることが多かった。兄弟はいない。だが、時々母から口うるさく言われることもあるが、家族の中は決して悪くはなかった。ただ勉強に関しては少し思うところが智也にはあった。
例えばテストや模試の結果が返ってきたりして両親の一喜一憂する姿を見ると気が滅入るときがある。親なりに期待しているのだろうが、ストレスになっていることをもう少し考慮してほしい。その上講師同じようにもっとがんばればいいところいけるなどとはっぱをかけてくるときがある。そして智也は成績に関してはこれで満足していた。成績も恐らく推薦がもらえるほどには保っている。志望大学も目処がついている。それなのに家族は上を目指せという。居間で飯を食う時にはそんなことが多い。だから居間も除外する。
そうなると残ったのは自分の部屋だ。ここは一番多く時間を消費している場所だ。だから快適に感じられるように環境を整えようとするのは必然だ。部屋はなるべくきれいにしてある。勉強道具もなるべく机に置きっぱなしにしていることは少ない。そもそも勉強はなるべく予備校の自習室でするようにしている。自分の部屋では極力やらない。だがそれでも余計なことを考えてしまう時が度々ある。学校とかと比べるとマシというぐらいだ。そう考えると―。
「そうだね。強いて言えば自分の部屋だけど、本当はないのかもしれない。」
夕日が段々と空一面に広がってきた。そろそろ暗くなり始めるころだろうか―。
「そうか。そう感じているのか。嬉しいけど、悲しいね。」
どういうこと、と智也が訪ねようとしたらいつの間にか一之瀬が体を起こしていた。智也の顔の近くでチャリンという金属の音が響いた。
「その鍵はここのスペアの鍵だよ。君が良かったらいつでも自由に来てくれ。」
その鍵を手繰り寄せて、手にとってみる。普通の鍵だった。
「今日は用事があるから帰るね。成瀬君。よかったらまた来てくれ。歓迎するよ。」
一之瀬は笑っていた。少し不安になるような笑みだった。
「そう。僕はここでもう少しゆっくりしているよ。今日はありがとう。」
智也は体を起こして言った。
「この前と逆だね。それじゃあ、また。」
そういって一之瀬は行ってしまった。もう一度空を見上げてみる。心地いい風が吹いていた。空を見つめる―。夕日がとても鮮やかで美しかった。この夕日ももう少ししたら暗くなっていくのかと思うとすこしさびしく感じた。けど、それはとても神聖で、美しいことのように智也は感じた―。
しばらくしたら、智也は一之瀬からもらった鍵を使って屋上の扉を閉め、自分の家に向かった。空は少しだけ暗くなっていた。
青い壁 九月二十七日
九月二十七日
今日も一日の授業のチャイムが鳴る。
滝本が連絡事項を生徒らに告げると、後はいつも通りにみんな席を立ちあがり、散っていった。部活動がある生徒は足早にグランドや特別教室に向かう。この学校は部活動の数が他校と比べて多くないらしい。
翔太の入っている運動部の花形の一つであるサッカー部が練習に熱心ではないのである。聞くところによればもう一つの花形、野球部も真面目にはやっているが成績は芳しくないらしい。ほかの所も似たり寄ったりである。
帰宅部である智也は、いつもはまっすぐに家に帰るはずなのだが、今日は違かった。
教室を出るときに翔太とすれ違った。「またなー、智也。」と、いつもの軽い態度で声をかけられた。「あぁ。じゃあね。」と普段よりもそっけない態度で答えた。翔太はそんな智也の態度も全く気にせずに、サッカー部の友達であろう、髪の長い男の奴と一緒に、教室を出て行った。
「……。」
―昨日は予備校だった。だから放課後はすぐに家に帰って、準備をしなければならなかった。だが今日は違う。特に用事はない。いつもはすぐに家に帰って、本を読んだり、予備校の課題をやっていた。だが今日は違う。ポケットの中にある一之瀬から貰った、屋上のカギに触れてみる。特別なことはなくただ金属の冷たさを感じた。
―屋上に行こう。
それは何か特別な理由があるわけではなかった。智也には珍しいことだった。翔太に遊びに行こうと誘われる時も決して、智也自身から動いたことはこれまでほとんどなかった。自分から他人に対して動いたことがあるのは、特別な用事があるときだけであった。
―自分でも少し驚いていた。何に惹かれているのかはわからない。ただ、空を見たいと思っただけ、そしてあいつとまた話してみたいと思っただけであった。
「行こう。」
そうつぶやき、智也は静かに席から立ち上がり、教室をでていつもとは違う、屋上に向かう廊下を歩いて行った。
少しだけ周りを見渡す。教師や生徒の姿は見えない。もうこの時間になるとほとんどの生徒は帰宅しているか、部活に精を出しているかであった。教師も職員室に戻り、よく知らないが、各々自分の仕事をし始めようという時間だと思われる。
そして周りに誰もいないことを確認したら足早に屋上へ向かう階段を上って行った。そして扉の前にたどり着いた。自分のポケットの中にある鍵を取出し、ドアノブに差し込んだ。かちゃり、という心地いい音がした。そしてこの前と同じようにドアを開いたら、扉からあふれる光が智也を包んだ。
少し目がくらむー。最初はただこの前と同じように光で何も見えなかった。だがそれも一瞬であり、徐々に視界に色を取り戻していく。上にはいっぱい青と少しの白い雲、眼下にはコンクリートの無機質な灰色が広がっていた。
その奥の中心に、彼はいたー。
「やぁ。成瀬君。また来てくれたね。」
一之瀬は振り向いた。少し吹いている風がサラサラと僕らの髪を撫でていく。
「うん。また来たよ」
我ながら変なあいさつで少しおかしかった。一之瀬の所に近づいて行く。風が気持ちいい。先ほどまでいた教室や、廊下とは違いここでは精神が解き放たれるような気持がした。一之瀬の隣に立ち、空気を大きく吸い込み、吐いた。フェンス越しの景色を眺める。体の中にある毒素が排出されるようであった。
「一之瀬はだいたいいつ頃にここに来るの?」
智也が質問する。
「いつ?うーん、あまり考えたことないな。行きたいと思った時に来る。」
「ちなみに今日は?」
「今日は昼休みぐらいからかな。午後の授業に出るのが嫌だった。」
智也は吹き出した。
「なんだ、それ。まるで不良じゃないか。」
一之瀬はぽかんとしていた。目にかかりそうな髪が風で揺れている。風景と見事に合い、一枚の絵のようだ。
「不良?よく分からないな。」
ほんとに分からなく困惑しているようだった。そんな一之瀬の姿がなんだか面白く、智也はこみあげてくる笑いを抑える努力をしなければならなくなった。そんな中、智也に一つの疑問に思った。
「ごめん、ごめん。気にしないで。でも一之瀬は一学期の頃からよく早退していたけど、もしかしてずっとここにいたりしたの?」
そう聞くと一之瀬は少し困ったような顔をした。
少しの間、微妙な沈黙が流れた。そんな一之瀬の様子を見て、智也は一つの考えがぼんやりと思い浮かんだ。自分は一之瀬の触れられたくないところに安易に触れてしまったのだろうか―。
例えば一之瀬が重たい病気なんかを患っていたら、それは一之瀬にとっては気軽に話せる話ではないはずだ。あくまでもそれはたとえ話だが、もしかしたら一之瀬自身聞かれたくないことだったかもしれない。智也はそんなふうに考えた。そして戸惑いを感じ始めた時、そっと一之瀬が口を開き始めた。
「そうだね。一学期の頃はね、授業を抜け出してここには何度か来たことがあるよ。でもここに来るよりも、家にいた方が多かったかな。」
一之瀬は少し遠い空を眺めながらいった。ここではないどこかを見ている眼。気が付いたら消えてしまいそうな感じだった。一之瀬の一瞬見せるこの雰囲気は、空という風景と溶け合っていた。河原の時と同じ雰囲気を智也は感じた。
「成瀬君。」
ふと、一之瀬が自分の名を呼んだ。反射的―だが、ゆっくりと智也は一之瀬の方に目を向けた。
「君は、生きていて息苦しさを感じないかい?」
さっきまでとは違う、心の中を見透かされるような澄んだ瞳が智也に向けられていた。智也はどきりとした。直観的なものであるが、一之瀬のその眼は屋上に案内された時や、さっき会話していた突起のような楽しげなものではなかった。もしかしたらこれが一之瀬の本質なのかもしれない。例えるなら懺悔室で罪のすべてを告白しなければならないかのような雰囲気を醸し出していた。
智也は息をすることも忘れてしまうくらいに、一之瀬の瞳と言葉に惹きつけられていたのかもしれない。すぐには返答できなかった。
それは頭には言葉が思い浮かばなかった。
しかし心では吐き出したいものがあった。それらは今まで智也が心にため込んできて来たものなのかもしれなかった。その鬱憤の正体は智也自身にも理解することができない。ただもやもやと胸の中にあり、時々それが大きくなったり、小さくなったりしていた。それは自然と、ゆっくりと智也の口から出てきた。いや吐き出していた―。
「そうだね……。そんな風に感じることは何度かあるよ。」
智也は空ではなく下のコンクリートに目をおろし、呟き始めた。
「なんていうかな……。みんな、その教員とか、家族とか、クラスとか、僕の場合予備校とかそういうの、時々何もかも面倒に感じることがあるよ。いや、時々ではないな…。この頃はしょっちゅうだ。みんな、うるさいんだよ―。」
いろいろなことが智也の頭の中を巡っていた。教員に言われる余計なこと。自分の思っていることも勝手に決め、勝手に期待してくる家族、その他の人間関係。毒素を吐き出すかのように智也はどんどん言葉を吐き出していく。フェンスを握る力が強まる。
「僕はやることは一応きちんとやっている。でも、みんなは上を目指せ、上を目指せって念仏のように唱えてくる。それは確かにいいことだと思うよ。社会や世間体的にはね。僕もそれなりに期待には応えてきているはずだ。ずっと、ずっとそうしてきた。」
言葉が自然に紡がれていく。いつもの智也とは違って、饒舌に―。智也自身も驚いていた。だが、言葉は続く。知らない自分が喋っているように感じられた。
「それなのに、まだ言ってくる。本当に思っていることなのかどうか疑わしくなってくる。まるで見えない言葉、いや価値観か概念みたいなものの壁が僕の周りにあって圧迫しているような感じだ。そんな圧迫を感じると無性にイライラする。時間がたてばそんなこともなくなるけど、それでも壁は消えてはくれない。最近はイライラする頻度がおおいかも。イライラするだけならまだしも気分が落ち込むこともあるからね。そうなったら最悪だ。教室でもそうだよ。特に興味もない話をいやというほど聞かされて、周りに同意しなくてはいけない雰囲気があるんだ。そうだ、これはおかしい。脅迫されているかのような、そんな感じがあった。そういうのはひどく疲れる。だからクラスとかにもあまりいたいとは思えない。息苦しい―。確かにひどく息苦しい……。」
智也は吐きそうになった。自分がこんな発言をするなんて思えなかった。だがこれは嘘偽りのない自分の本心だということが確信できた。この前予備校の講師の面談の不快感。そういったことは前からよくあった。
こんなことを胸にため込んでいたのか―。
自分でもきちんと認識できていなかった気持ちだった。気分が悪くなる。智也は口に手を当てた。本当に嘔吐しそうなわけではない。ただ口をふさぎたくなった。衝動的な行為であった。これ以上吐き出さないように―。
けど―。
そんなことをする必要がどこにあるのだろうか。
一之瀬の瞳は変わらない。ただ風の音だけがほんの少しだけ聞こえる。それが今の二人が感じられるすべてであるように感じられた。
すこし間を置き、口を開いたのは一之瀬であった。
「そうか。それはとてもつらいことだよね。うん……、分かるよ。僕もね、君と似たようなことを感じたことがある。」
智也はゆっくりと視線を一之瀬に向けた。少し驚いていた。一之瀬が自分の支離滅裂な言葉に共感を示していたからだ。だがその一之瀬はどこか虚ろな表情をしていた。
「……一之瀬も?」
智也が低い声で呟いた。
「うん。だから学校に来るのが嫌だった。―でもこの屋上やあの河原を見つけた。」
突然風が強くなった。智也はとっさに腕で風を遮った。一之瀬はその風を全身で受け止めていた。一之瀬は風の中語り続けた。
「この空やあの河原の風景は、透き通っていた。僕を苦しめるものは何もなかった。学校や家は本当に気持ち悪かった。みんな同じことを言うからね。ほんとに煩わしい日々だった。周りが人のカタチをなした悪魔か何かに思えたよ。」
一之瀬はそう吐き捨てた。普段からは考えられない態度だった。だが智也は妙な共感を確かに得ていた。
「一時的にとはいえ解放された。ここや河原だけが僕の心の居場所であるように思えた。成瀬君も似たようなことを感じたのだと思うけど、どうだい?」
いたずらっ子のように一之瀬は微笑んでいる。
―そうか。そういうことだったのか。
智也は自分が時折感じている粘ついた不快感と、河原での気持ち良さの本質の輪郭を初めて意識できた。僕は周りが煩わしく感じていたのだ。決まったことを当然のように言う大人、それがいつしか不快な雑音にしか聞こえなくなった。クラスでも同じことだ。不快な音でしかない。そしてここや河原はそんなものとは無縁の聖域だった。何も智也の心に鑑賞してくる存在はそこにはいなかった。智也は空を見上げた。風が吹いている―。
そして目の前には一面の青。美しかった。この風も合わせた風景が何よりも貴く感じられた。
「そうか。僕は雑音のない静かな居場所を求めていたのか。」
心が軽くなっていた。さっきまで感じでいた吐き気ももう嘘のようになくなり、すっきりしていた。風がいつもより心地よく感じる。
「ありがとう、一之瀬。やっと解放されたような気がする。」
きっとまだいたずらっ子のように微笑んでいるのだろう。智也はそう思ってもう一度一之瀬に目を向けた。だが一之瀬は先ほどまでとは違い、冷たい表情をしていた。
「でも、成瀬君。壁は取り払われたわけではないよ。」
風がまた強くなった。それはどうゆうことか智也は聞こうとした。だが、
「風が強くなってきたね。悪いね、僕はそろそろ帰るよ。」
いうが早く、一之瀬は背をむき扉と向かっていった。智也の胸にはすこしの不安が芽生えていた。だから少し遠くに行った一之瀬に聞こえるよう声を少し大きくして、問いかけた。
「さっきのどういう意味?」
一之瀬が動きを止めゆっくりと振り返る。
「君なら、すぐにわかるさ。」
そういって、一之瀬は姿を消した。智也はその場で立ち尽くしていた。
―どういうことだ?
智也は一之瀬の言ったことを反芻した。だが、この時の智也にはまだ理解できなかった。呆然とする智也の上には変わらず青い空があった。風は前より少し冷たくなった気がした。
青い壁 十月一日
十月一日
あれから三日たった。智也の日常は少し変わってしまった。周りが変わったわけではない。智也の周りの見方―。いや、感じ方が変化してしまった。それは時折沸き起こる不快感の連続であった。学校でも家でも予備校でも同じ不快感を抱いた。おまけにその不快感自体も肥大化していた。ひどいときは吐きそうになる時もあった。最初はただの体調不良かと智也は思っていた。だが、それは河原にいったら解消された。だが、翌日学校に行くとまた同じ不快感を抱いた。自分に起こったそれらのことを智也は最近になっておぼろげに理解し始めていた。単なる体調不良なんかではない。
「そういうことなのか……。」
いつもより重たくなった頭を手で押さえ、教師の話を聞き流す。今の智也には教師の言葉など雑音にすぎなかった。教師の雑音が続く。ほとんど全てを聞き流していたが、ひとつだけなぜか耳に入ってきたことがあった。
「いいかー、この問題くらい軽くこなせないといい大学入れずに後悔するぞー。」
―余計なお世話だ。と、智也は素直に思った。
なぜだかは智也には分からなかったが、やけにこの言葉だけには敏感に反応してしまった。自分の心が淀んでいくのが知覚できる。少し気持ち悪くなってきた。
―まただ、いけないな。
智也は頭を振った。だがそれで淀みが消えるわけでもなかった。智也はただ早く時間が経ってくれることに期待するだけであった。
長く感じられた三限目の授業終了の鐘がなった。智也は深い息を吐いて、椅子に寄りかかって足を投げ出した。智也の目に教師が立ち去る姿が目に入った。智也はだれも聞こえない小さな舌打ちをした。
「おーい、智也。」
聞きなれた翔太の声が聞こえてきた。いつもならなんとも思わないで反応したが、今は少しこの能天気な声に智也は煩わしさを感じた。
「……何?」
軽く顔を翔太に向け、いつもよりそっけない態度で反応する。見慣れた能天気な顔があった。
「ここ最近どうしたの?なんかずっと不機嫌だけど、病気か何か?」
智也は少し考えて返答した。
「いや、ここ最近ちょっと体調が優れないだけだよ。急に涼しくなってきたからかな。それと昨日は寝不足だ。」
寝不足は嘘だった。
「寝不足って何してたの?」
「えーと、最近買った本が面白くてね、つい夜更かししちゃったよ。」
これも嘘だった。とりあえず智也は今一人にしてほしかった。
「だからこの時間で少し寝たい。言っている意味わかる?」
「あー、鬱陶しいから話しかけんなってことね。可愛げないなお前は、人がせっかく心配してやったのに。はいはい、お望みどおりに消えますよ。」
相変わらずよくしゃべる奴だった。でも今はほんとに鬱陶しく感じた。適当に返事を返して智也は机に突っ伏した。目を閉じて思う。次の四限目は三限目以上に憂鬱になるであろうということ、そして何よりも今強い願望のこと。それは、屋上に行くことであった。
息苦しく感じた四限目も終わり、智也は一目散に教室を出て屋上に向かった。息苦しさは続いていた。屋上へ続くドアを目指していく。以前は周りの目も多少は気にかけていたが、今の智也にはそんな余裕はなかった。そして階段を上り、屋上の扉の前にたどり着いた。ポケットから鍵を取り出す。いつもよりも落ち着きがなかった。あわただしい手つきで鍵を差し込み、ドアノブを回す。智也の目の前に空が広がった。
扉を開けた時智也の体に纏わりついていた汗がスーッと引くような心地がした。毒の霧の中を抜け出してきたかのようであった。新鮮な空気を大きく吸い込み、吐き出した。この頃は夏の暑さも引いてきており、過ごしやすい季節に移り変わっていた。少しだけ吹く風が一段と心地よく感じられる。少し落ち着いたところで、智也は周りを見渡した。一之瀬の姿は見えなかった。一之瀬がどこにいるかなんて智也には想像もつかなかった。
屋上の真ん中に足を運び、智也は寝ころんだ。智也の目にはのんびりと動いている雲が映った。気持ちが段々と軽くなってくる。少しぼーっとしてから智也は考えた。
―どうすればいいのだろう。
―六日前。
一之瀬とこの場で交わした事。一之瀬によって浮き彫りにされた智也の胸中。自分でもわかっていなかった心情がたったあれだけで暴かれてしまった。それは智也にとっては不快なことではなかった。その時はむしろ胸の棘がとれたような気がして、すっきりしていたものであった。だが、その翌日から異変は現れた。
初めは学校であった。いつも通りに通学していた智也だったが、どこかいつもと違う感じがした。虫の知らせというものだろうかと最初は思っていた。
だが、そういう不吉なものといったものではなかった。この智也もそういう日もあるだろうと、特に気に掛けることもなかった。朝にあった翔太が少しうるさく感じたぐらいである。
異変は教室に入っていたからであった。いつものように聞こえてくる、クラスの話し声。なんも変哲もないはずのこの声が智也はひどく気持ちが悪いようなものに感じられた。風邪でも引いたのだろうかと思った。引き返すわけにもいかず、自分の机に向かった。その足取りはひどく重たく感じられた。
席についても気持ち悪さは続いていた。保健室に行って休むことも考えたが、それほどのことでもないと智也はこの時は思ったので担任が来るまで机に突っ伏し、休むことにした。
それから気持ち悪さは少し安らいでいたので智也はいつも通りに授業を受けることにした。
だが、その日の授業を終えた智也はげっそりとしていた。智也はその日はすぐ家に帰ってすぎに眠った。
翌日は土曜日だったので念のために横になっていた。
そうすると次の日にはほとんど体調が元に戻っていたので、すこしだけ予備校のテキストの復習をした。念のためその日も早めに寝ることにした。
それでも翌日教室に入ったら、この前と同じ不快感が蘇った。どうしたのだろうか。
その日、智也はこの原因について一日中考えることにした。気をまぎわらしたかったこともあった。風邪とかではないのかもしれない。そう智也は思い至った。なら精神的な事であろうか。そんなふうに考えていったが、その日は智也には回答を出せなかった。そうして学校での一日が終わっていた。
その日は予備校があった。模試が近いということで、智也は自分の体に鞭打って予備校へ行った。
だが、智也はすぐに後悔することになった。学校よりも気分が悪くなった。授業中に講師にも心配されたが、智也にはそれすら鬱陶しく感じた。拷問のような時間だった。早く帰って寝ようとこの時は思っていたが、ふとある考えが智也の頭を過った。
―河原に行ってみよう。
そう思ったが早く、智也は何かに誘われるように河原へと向かった。徐々に河原にチ被くにつれ智也の足は速くなっていた。まるで砂漠で水を手元に持っていいない人間が、オアシスを見つけたかのような足取りであった。そして智也は河原にたどり着いた。
圧倒的な解放感がそこにはあった。長い人込みの中をようやく抜け出したような、あるいはようやく汚い空気の中から抜け出し、新鮮な空気の中に出たような感じであった。
智也は河原の空気を大きく吸い込み、今までたまっていたものを吐き出すように呼吸した。その行為を何回か繰り返す。心なしか、智也は気分が少し良くなったように感じられた。
そしてゆっくりと腰を下ろした。しばらく川の方を智也は眺めた。水流の音が心地よく智也の耳に入ってきた。そうしてふと智也の頭に一之瀬の言葉が思い浮かんだ。
「―壁は取り払われたわけではないよ。」
智也は反芻する。あれは今の僕の状態と何か関係があるのだろうか―。
なんなく今の自分の状態が風とかではないことが智也は察しがついていた。しかしなぜこんな風になってしまったのかは今まで見当もつかなかったが、今やっと現状の手掛かりになりそうなものに智也は思い至った。
―もしかして今まで感じていた気持ち悪さを前よりも感じやすくなっている?
馬鹿馬鹿しいことだと以前の智也はそう思ったであろう。だが、今は違っていた。そう考えると妙に納得してしまう。だがなぜなのであろう?そうしてさらに考えていくと一つの可能性に智也は至る。
―この気持ち悪さは消えてくれないのではないか?
智也は頭の中で思ったことをふるい落とすように、頭を振った。そんなことは有り得ない。結局智也は一之瀬が不思議なことをいうものだから、少し彼の影響を受けておかしくなっているのかもしれないと思うことにした。そのせいで精神的に少しおかしくなっているとこの時は結論づけた。そして智也は今後なるべくこのことを考えないようにしようと決心した。
そして十月一日、今に至る―。
気がついたら四限の授業の終了を知らせるチャイムが聞こえた。ほとんどぼーっとしていたようであった。智也はまるで寝起きのような状態で席を立った。そして教室を後にした。
まずは購買のパンを買いに行った。いち早く来たおかげかまだ購買は生徒の姿でごった返していなかった。パンを買ったら智也は屋上に向かった。最近では屋上に行くことが習慣化しつつあった。
屋上にたどり着いた。鍵を使って扉を開ける。この扉を開ける瞬間が智也は好きだった。息苦しい空間から清浄な空間に変わるような気がするからだ。
智也の目に青い空が広がる。もうすっかり見慣れた景色なのだが、この心地よさは変わらずに智也の魂を癒してくれた。適当なところに腰をおろし、先ほど購買で勝ったパンの封を開け、かじりついた。味は何の変哲もなく、コンビニでも売っているようなごく普通のツナサンドなのだが、ここで食べると心なしか少しだけいつもよりも美味しく感じられた。一之瀬はいなかった。最近は教室でも放課後にも姿を見かけなかった。不思議と心配にはならなかった。そのうちまた顔を出すだろうと、何となく智也は思っていた。
それよりも智也は自分の今の状態についてのほうが遥かに深刻だった。
―あれから色々なことが智也には解ったような気がした。
―壁。
智也をとりまく不快な壁。今まで何度か感じて不快になった時は少なくなった。一之瀬にこのことを吐き出したときは本当にすっきりしていた。その時は新しく生まれ変わったような心地さえした。だが、それは間違いであったことに智也は気づいた。
「―消えてくれるわけじゃないんだね。色々と。」
そう。消えたわけではなかった。壁は依然として智也を取り囲んでいた。今まではその存在すら気が付かなかったが。一之瀬とのやり取りの後、その壁はしっかりと認識でき、感じられ、捉えられるように智也はなってしまったのだ。
―智也は醜悪な壁が今までより強く感じられるようになってしまった。
そのことに気が付いた昨日、智也は学校のトイレで本当に胃の中のものを吐き出してしまった。幸い昼飯を食べる前の昼休みだったので、周りにはばれずに済んだ。だがもう教室にはいられなかった。
その時はすぐに屋上に行った。そんなこともあったので、屋上は智也にとって言葉通りの心のオアシスになっていた。
この屋上では一時的にその形無き壁の気持ち悪さから解放される。だがそれはあくまでも一時的である。河原もあるがあそこは予備校の近くにある。智也の家から予備校までは電車を使わなくてはいけないのである。予備校の帰り道ぐらいしか行く暇がなかった。その点、屋上は一之瀬のおかげで気軽に足を運べる。今の智也にはとてもありがたいことだった。
穏やかな時間が過ぎていく。智也はこの場所を離れたくなかった。
―午後の授業さぼってしまおうか。
そこで智也はあることに気が付いた。
―もしかした一之瀬も同じことを感じ、あんなに学校に来ないのだろうか。
そうかんがえると妙に納得ができる。次に会った時に聞いてみようと智也は思った。
もう少しで昼休みが終わり、午後の授業が始まろうという時間に近づいてきた。智也は流れていく雲を惜しみながら体を起こした。
智也は今まで授業をさぼったことは一度もなかった。その真面目な行いの習慣が智也を教室へと誘った。少しふらつきながらも屋上の扉の前へ歩いた。そこから先はまた気持ち悪さがあふれている。憂鬱になりながらも扉を開け、教室へと智也は向かった。
この日は予備校もあり智也にとってはしんどい一日になった。予備校の帰りには河原に寄って少しは気分が和らいだが、明日も変わらなそうであった。今日の智也には夜空の星がいつもよりもきれいに見えた。
青い壁 十月二日
十月二日
―放課後になった。
智也は今日も屋上に足を運んだ。翔太から何か話しかけられたが、適当に打ち切って屋上へと向かった。もう慣れた手つきでドアノブに鍵を差し込み扉を開けた。そして青空の下に出る。とても落ち着いた。
日の光でよく見えなかったが、目を凝らすと知っている人影があった。それはもちろん一之瀬の姿であった。
智也はずいぶん久しぶりに一之瀬の姿を見た気がした。だがそんな感慨にふけることは智也にはなかった。むしろじらされている気分であった。なぜなら智也は一之瀬に聞きたいことがたくさんあったのである。それはもちろん智也が今まで以上に感じやすくなった不快感のことであった。
「一之瀬―。」
智也は声を上げると同時に、足早でフェンスの近くにいる一之瀬のもとに歩み寄った。ゆっくりと一之瀬が振り向く。一之瀬の顔が智也の視界に入ると、智也は息をのんだ。
「なんだい。成瀬君。」
その言葉に智也はすぐに反応することができなかった。なぜなら一之瀬の目の下にはひどいクマができており、細い体つきが一段と細くなっていた。みるからに一之瀬はやつれていたのである。
「えっ、いやその…、ひ、久しぶりだね。」
智也はうまく口が回らなかった。
「そうだね。久しぶり。」
智也は少しうろたえてしまった。聞きたいことがたくさんあったはずなのだが、一之瀬の明らかなやつれた姿をみると、何をしゃべったらいいのかわからなくなってしまった。すると先に口を開いたのは一之瀬の方だった。
「どうだい。成瀬君。」
智也ははっと顔を上げた。
「最近気分が悪くなっているのだろう。」
智也は唖然となった。自分が聞きたかったことを先に言われてしまい、またもやすぐに反応することができなかった。それに、一之瀬の目つきがいつもと違いい異様に鋭かった。智也はうろたえながら少し震えた声で言った。
「全部……、わかってたの?」
智也が聞くと一之瀬は病人の顔つきであったが、その口元を少し歪ませていた。
「うん。確実ではないけれど成瀬君は僕と少し似ているところがあるからね。予想はしていたよ。」
智也は最初は一之瀬のやつれた姿を見て戸惑っていたが、今は何故だかは分からないが不気味なほど落ち着きを取り戻していた。
「なら、僕が抱いているこの不快感は、消えてくれないんだね?」
智也は一之瀬をまっすぐに見つめながら言った。
「そうだ。僕らはね閉じこめられているんだよ。成瀬君―。」
「閉じこめられている?何に?」
その時一之瀬の目つきがするどくなった。何かを憎んでいるような、怒りがこもっているような、そんな感情をあらわにしたかのような目つきに急変した。
「僕らにくだらない価値観や世界観や感覚を刷り込んだやつらだよ。成瀬君。」
一之瀬の顔がひどく歪んでいた。その姿は、今までの一之瀬の神秘的な雰囲気は微塵も感じられなかった。その姿は物語の中でしか知らないような狂人のようなものだと他人事のように智也は思った。
「それはどういうことなんだい。一之瀬。」
智也が尋ねる。
一之瀬はゆっくりだが何かを込めるような口調で語り始めた。
「ずっと君も言われてきただろう。絵に描いたような優等生であり続けて、良い職業に就けだとか、立派な人間になれだとか、嫌になるほど周りから言われたくだらないこと。まだろくに熟していない子供の頃からね。そしてそれは子供が成長するにつれてより多くの人間に言われる。面白いことにみんなほとんど同じことを言う。言葉は変えているけど本質的には同じだね。」
一之瀬は吐き捨てるように言い放った。その姿は今までの一之瀬の面影などほとんどなかった。
「僕も幼いころはそれらの言うことがすべてだと思っていた。しっかりと成績で優等生を示した。それが当然のことだと思っていた。それ以外のことなんて、何の価値もないと思っていた。少しの疑いもなく、ね。今思えば恐ろしいことだよ。」
一之瀬の話を聞いて智也は一之瀬が毎回学年トップの秀才だったことを今更思い出した。一之瀬は智也が想像しているよりもずっと大変な教育を子供の時から受けていたのかもしれない―
と、智也は思った。
一之瀬の話は続く―。
「でも僕は段々とずれていった。なぜだかは分からないけど、今まで自分が信じ込まされたことに疑問を抱いたんだ。僕はなんで楽しくもないことをこんなにしているのだろう―ってね。そんな時に僕は今まで見もしなかった空や景色を見るようになったんだ。この空のような、きれいな空を、ね。」
一之瀬は空を仰いだ。一之瀬の目はフェンス越しに遠い空を見つめている。その姿は何とも言えないほど儚げであった。
「そんな空や景色を見ているとね、くだらなく思うようになってしまったんだよ。あんまりにも奇麗で心地よくて安らいでね。でも―」
「そう感じるようになってから、今までの日常が自地獄のように感じられた。」
一之瀬が智也に視線を向ける―。
「もう、わかるだろう?今の君と一緒だ。」
智也はどこか他人ごとのように一之瀬の話を聞いていた。なんとなくわかっていたのだ。一之瀬が自分と似たようなことを感じているということを。でなければこんなところにそう何度も足を運ぶはずがなかった。」
「そうか。やっぱりか。」
智也はため息をついた。
「ならー。」
そして智也が一番聞きたいことを言った。
「僕らはどうすればいいんだ?」
校庭から聞こえてくる運動部の掛け声がかすかに聞こえてくる。だがこの屋上の二人にはそんなものは全く意識の外にあった。風が少しだけ吹いている。
「ずっとこの不快感を抱いて生きていくしかないのかい。」
一之瀬はふっと笑った。
「そうだよ。もう長く壁にとらわれていた僕らはそこから完全に脱却することはできないんだ。何をしても何を見てもずっと憑いてまわる。まるで呪いのにね。気持ち悪いよね。だから僕は自分の部屋にこもって本を読んだり、ここに来たりしてなんとか気持ちをそらそうとした、でもそれもその場しのぎのようなものさ。」
一之瀬は無表情だった。濃い目のくまが痛々しく見える。今にも消えてしまいそうだった。
「ここはとてもいいところだよ―。なにせあるのは偽りのない空や風だけだ。毎日日が昇り沈んでいく―。風が心地いい―。それだけのことがすごく素晴らしくて、尊いものだと感じられる。僕が信じ込まされたものなんてなんとも無意味で醜いものだとわかる。ここには息がつまるような閉塞感なんてない。自由なんだよ―。でも、」
一之瀬は目を伏せる。
「ずっとここにはいられない。」
智也は言葉などはさめるはずがなかった。
「なくなってしまう―。だから、どこにいっても僕は自由に生きられない―。まるで死んでいるように生きるしかない。」
―虚無。今の一之瀬の姿は虚無という言葉がふさわしい。目が虚ろである。智也はだんだんと得体の知れない恐怖を感じてきた。
「ずっと考えていた。どうすればいいか―。そしてやっとひとつ見つけた―。」
一之瀬が笑った。その笑顔は初めて智也と話した時と同じように無邪気な笑顔であった。
「僕もあの空のもとにいければ素敵だなって―。」
智也の頭はもう一之瀬の言うことについていけなくなってきていた。
―だが、智也は一之瀬から眼を放すことはできなかった。吸い込まれていきそうな感じだ。智也は考えることすら億劫になっていた。ただ、一之瀬の声を聴くことだけはやめようとは思わなかった。
「だから行こうと思うんだ成瀬君。」
一之瀬はそう言って智也から眼をそらし、空に目を向けた。そして―、
一之瀬は屋上を囲うフェンスに足をかけ、よじ登り始めた―。
智也には一之瀬が何をしようとしているのかおぼろげに分かった。だが智也の口も体も決して動いてはくれなかった。
智也が何もせずに一之瀬を見ている間に、一之瀬はフェンスの一番上に足をかけた。
―あぁ、見上げると思っていたよりも高いな。
智也は間抜けなことを考えていた。なにも考えることができず、思考が麻痺していた。一之瀬はついにフェンスの一番上に立った。器用にバランスをとっていて、よろけるような様子はなかった。智也はただちょっと危ないかな、とだけ思った。
一之瀬が両手を広げていた。心なしかさっきよりも目がいきいきとしていた。それはまるで最初に智也が屋上に行き、一之瀬が見せた笑顔と同じような感じであった。
「やっぱり素晴らしいよ。この空を眺めていると、今まで信じていたものが全部くだらなく思えてくる。こんな素晴らしく、尊いものがあるのにどうしてあんなにみんなくだらないことばかりしているのだろう。それはひどく気持ちが悪いものなのに―」
智也は一之瀬をただ眺めていた。下から見上げる智也の視線上の一之瀬の姿は青い背景を後ろにしたこの場面がとても素晴らしいものに思えた。口なんて開こうなどとはもう微塵も思うことはなかった。
「もう僕はそんな中では生きられそうにない。だから行くんだ。」
そして今まで空を見ていた一之瀬は智也を見た。
向けられた瞳は怖いくらいにきれいで―澄んだ瞳をしていた。
「さようなら。成瀬君。僕はもう行くよ。君も早く解放されたらいいね。」
―そして、
一之瀬の体がフェンスの先にふわりと浮いた。
実際には人が落下するのにさして時間がかかるわけではないだろう。
智也には一連の出来事がスローモーションのように感じられた。
ゆっくりとだが確実に一之瀬の体は落下していった。
そんな中、一瞬だけ一之瀬の顔を智也は見た。
その表情はとてもこれから下に落下していく人間の表情とは思えなかった。まるで漫画の中で空を初めて飛んだかのような、嬉しさと感動が詰まったかのような表情であった。
そしてまぬけな音が下から聞こえた。
次に聞こえてくるのは人の悲鳴。
この声が智也には非常にうるさく感じられた。
「ここから離れないと……。」
智也の頭は妙に冴えていた。
ようやく動いた体に少し戸惑いながらも智也は屋上から出た。
近くで様々な声や音が聞こえてきた。音や男の怒鳴り声や甲高い女の叫び声。
―非常に不快だった。
智也は真っ直ぐに昇降口に向かい、靴を履きかえた。
周りから様々な不協和音が聞こえてくる。一刻も早くここから立ち去りたかった。
昇降口を出た智也は少し遠くに人だかりができているのが見えた。不協和音の元であった。
様々な人がいた。
口を押さえているもの。
泣いているもの。
恥知らずな野次馬。
そんな群像を横目に見ながら智也は学校を出る、正門へ向かった。
空が頭上高くに広がっている―。
それは智也らをいつも通りに覆い尽くしていた。
青い壁 十月九日
十月九日
あれから事実上一週間がった。
この一週間というのは智也には実際あまり関係がなかった。それは智也に立って時間の感覚が不明瞭となっていたからである。
一之瀬が死んだ―。自殺である。
彼のその瞬間を智也は見届けていた。あまりにも突然のことだった。その時は何も考えられず、ただ周りが煩わしく感じ、直接家に帰ってしまった。
一之瀬が死んだという事実に智也は全く現実感を得られなかった。明日からまた同じように学校が始まるかのように感じられた。だが、その日の夜には学校から家に連絡がきて、学校は当分休校となることを担任の滝本から連絡があった。学校としては当然の対応であった。
一之瀬の自殺の話はニュースにもなっていた。テレビの画面に自分が普段通っている建物が映っているというのは中々奇妙な感覚を覚えた。
翔太からも携帯で連絡がきたが、話す気分ではなかったので適当な理由をでっち上げ打ち切った。智也は誰とも話したくなかった。
今の智也にはやるべきことなど何もなかった。ただずっと布団の中にいて一之瀬のことについて考えていた。
一之瀬のことを考え、眠たくなったら眠る。普段の智也からは考えられない自堕落な生活だった。
父と母は智也のことを心配していた。智也は申し訳ない気持ちになっていた。だが、二言目には早く勉強の遅れを取り戻さなきゃね、なんとことも言っている。それだけが智也にとって不快で鬱陶しき感じることだった。居間に降りることも面倒なので智也は自分の部屋からほとんど出ようとせず、誰も部屋にはいれないようにしていた。
そんな中で一つだけ智也にとって興味を惹かれる出来事があった。それは三日前に智也の家に担任の滝本が来たことであった。
滝本が家に来たのは突然だった。母から滝本ができれば智也の部屋で智也と二人で話したいということを智也は聞いた。智也は不審に思ったが、一之瀬のことについていくつか誰かに聞きたいことがあったのでちょうどいいとその時は思った。智也の母は智也が一之瀬の自殺にショックを受けていると思っているので、智也の体調を気にかけていた。母は滝本に今日は帰ってもらおうかと智也に提案したが、智也は大丈夫だと母を納得させて、滝本を部屋に招きいれることにした。
そして滝本が智也の家に上がりこみ、智也の部屋に二人で移動した。母が心配そうな目で智也を見ていたが、あまり気にしなきことにした。
滝本を部屋に招き入れ、手じかな座布団を二人分敷き、滝本と向かい合った。
最初は、「大変なことがあったなあ」と、滝本の気の抜けるような声から始まった。最初は現在の学校の状況のことの話を聞いた。当初はマスコミも押しかけ、関係者の連絡などに全職員が奔走し、かなり大変だったということであった。だが数日たつと徐々に騒ぎも収まっていき、学校ももう来週からは再開されるという話だった。
ここまでは滝本も気軽そうに話をしていたが、次の話から少しばかり滝本から緊張感が漂ってきた。
智也驚いたことは智也が一之瀬と一緒に屋上に何度かあっているということを知られているということであった。どうやら何人か立ち入り禁止の屋上に行く智也と一之瀬の姿を誰かに見られ、今回のことで滝本にも伝わったようであった。
そしてそのことで事情聴取ではないが詳しく話を聞きたいということであった。場合によっては校長とも面談してもらうかもしれないということであった。
誰がどう見ても孤立していると思われていた一之瀬と、智也は友好関係があったのかどうか、なぜ屋上に行っていたのか、一之瀬が飛び降りた時にはどこにいたかなどを細かく聞かれた。まるで刑事ドラマの取調室でのワンシーンのようだと智也は思った。
智也はごまかしてもいいことはないと思い、できるだけ正直に一之瀬のことについて滝本に語った。初めて一之瀬と会話した時のことや、屋上のことについてゆっくり時間をかけて滝本に話した。だが、一之瀬と話した内容のことについては何も言わなかった。それと、一之瀬の自殺時には家に帰っている途中だったと滝本に行った。もし自殺の場に居合わせたと言ったら、追及されて面倒くさいことになるのは明白だったからだ。
智也は一通り話し終えるとのどの渇きを強く感じた。それに久しぶりにこんなにしゃべったので少し疲れていたので、滝本に言い少し休憩をもらうことにした。
滝本は智也の話を聞いて困惑しているようだった。だがしばらくして何か納得したようなそぶりを見せていた。
少し時間を置いたら再び滝本が一之瀬のことを聞いてきた。
「一之瀬が自殺したことに何か思い当たる節はないか。」
この質問は智也がずっと考えていたことであった。そしてそのことを滝本に話す気は智也には毛頭なかった。
「いえ、わかりません。」
と、当たり障りのない返答をした。
滝本は困っているようで少し考え込んでいるように見えた。そして少しため息を吐いた。
「わかった。よく話してくれた。お前が一之瀬と交流があったのは分かったが、今回のことには直接原因にかかわっているわけでもないから、屋上に行っていたことは今後何も問わないことにする。校長室に行くこともない。ただ、また何かあったら話をさせてもらうことがあるかもしれないということだけ気に留めておいてくれ。あとは……、もう屋上には絶対にいかないこと。」
滝本は釘を刺すように言った。
「すいません。もう屋上には行きません。」
智也は務めて冷静に滝本に謝罪した。
「後は……、お前から聞いておきたいことは何かあるか?」
智也は少し考えるそぶりをして滝本に聞いた。
「あの……、一之瀬はどんな奴だったんですか。」
滝本は少し怪訝な顔をした。
「どうとは?」
「その……、学年トップだったし、学校はよく休んでいるから、気になって……。そんな話とか聞いたことなかったので……。」
歯切れの悪い言い方であった。滝本は少し唸っていた。
「うーん。まぁいいか……。」
滝本は頭をぼりぼりと掻きながら話し始めた。
「お前も知っている通り一之瀬はちょっと……、いや、かなり変わったやつだということは分かっていると思う。成績はいつもトップなくせして、学校にはなかなか来ないし、クラスでも浮いていたよな。」
智也は少し滝本の言い方に引っかかるところがあったが、話の腰を折るのも何なのでとりあえず首を縦に振った。
「詳しくは話せないが一之瀬はかなりいいところ出の子供だ。」
智也は黙って滝本の話を聞いていた。
「その家では特に教育に力を入れていて、本来なら一之瀬は日本のトップの進学校に通う予定だったという話だ。全国模試でもトップレベルだったらしい。だがちょっと不都合があったらしく進学校には行かずにここに来たわけだ。俺もその辺の正確な理由は俺も良よく知らないがな。」
滝本はふうっと、息をついて話し続けた。
「そんな優等生だったんだが、ふとご両親から校長に話があった。それが面食らう話だった。なんでもうちの息子は他の子とは違うから息子の態度は目をつぶってほしいという話だったそうだ。具体的には学校をさぼることだな。おまけに代価として補助金まででしてきやがった。うちも私立で経営が楽というわけではないし、全国トップレベルの優等生だから断るに断れなかったそうだ。」
智也は驚いていた。一之瀬が成績トップだということは知っていたが、ここまでだとは思っていなかった。
「俺も担任を任せられたときは不思議に思ったが、ふたを開ければこうというわけさ。当時は校長から口酸っぱく言われたよ。そして今回のことだ。もうずっと校長やご両親の罵詈雑言と責任追及だ。なんとかクビにはならなかったがな。」
滝本がため息をついた。次の言葉が見つからず微妙な時間が少し流れた。
「まあ、一之瀬のことについてはこんなところだ。これ以上は勘弁だ。なんかお前の方で思い当たるところはあるか?」
智也は少し考えてから言った。
「そういったことがあるから一之瀬の……、自殺の原因を探っているんですか。」
滝本はバツが悪そうにまた頭を掻いた。
「まあ、そういう側面もあるな。一応言っとくけど他の奴には俺と話したことは誰にも言わないようにな。」
それは言うのが遅いだろうと智也は思ったが、あまり関係ないことなので気にしないことにした。
「僕には……、一之瀬が死んだ理由が思いつきません。そもそもそんなに仲が良いわけでもありませし、話したきっかけも偶然でした。でも―、」
「先生は、どう思っているんですか。」
滝本は頭を掻くのをピタリとやめた。そしてゆっくり言った。
「それは俺には分かるはずがないよ。ただ―、」
滝本は少し目をそらし続けた。
「自殺した前日は、両親とかなり揉めたらしい。」
智也は少し目を伏せた。
「そうですか……。変なこと聞いてすいません。」
智也はぺこりと頭を下げた。
「いや、気にするな。そうだな……、それじゃそろそろお暇させてもらうよ。長々とすまなかったな。」
滝本は立ち上がりながらそう言った。智也もつられて立ち上がった。
「いえ、屋上のことは本当にすいませんでした。」
智也はもう一度頭を下げた。
「おう。とりあえずあまり気に病むなよ。不幸な出来事だったんだ。それと親御さんにあんま心配かけないようにな。」
滝本は背を向けながら、手を振った。そのまま玄関まで見送くると、滝本は帰っていった。」
それが三日前の話だった。
滝本が言っていたように明日から学校が再開される。
智也は相変わらず、一之瀬が自殺したことについて考えていた。
誰とも口をきこうとしなかった一之瀬と会話が成功して半年もたっていなかった。よく考えたら滝本の言っていることと、これまで一之瀬と会話していたことしか智也は一之瀬について何も知らないのだった。急に一之瀬との距離がはるか遠くになってしまったように智也は感じた。実際一之瀬は遠くの所に行ってしまったのだが。
「……。」
一之瀬はもうこんな所では生きてはいけないと最後に言っていた。こんな所とはおそらくこの世界のことであり、それは智也が感じていたものとほとんど同じもとと言っていいだろう。
智也が感じていたことを一之瀬は智也よりもずっと前に感じていた。滝本の話で一之瀬はずっと厳しい教育を受けていたのだろう。何せ全国トップレベルのことだ、生半可ではなかったはずだ。恐らくその厳しい両親から自分よりもよっぽど口うるさく、厳しく言われていたのだろう。
―そんな中で、彼はあの屋上、空を見つけた。
心が洗われるような感覚だったのだろう。その時の快感は智也も知っている。
―だがそのあとは地獄だったはずだ。
あの周りの気持ち悪さは忘れられなかった。今は一人でいる時間が長かったおかげか、あまり不快感を抱いていなかった。もっとも消えたわけではないが。
あの感覚を一之瀬はどう感じていたんだろう。
その感覚をどうやって付き合っていたのだろうか。
そして一之瀬は空に行くと言っていた。
「どうゆうことなんだよ……。」
智也には分からなかった。
「ふぅ……。」
智也は布団の上で寝返りを打った。もう何度同じようなことを考えたのだろうか。気が付けばもう日付を跨ぐ時間に差し掛かっていた。
明日は久々の学校である。正直登校する気力など智也にはからきしなかったが、滝本のこともあるので、登校しないわけにもいかない。おまけにずっと気分が悪かった。
「もういい、寝てしまおう……。」
智也は部屋の電気を消して布団の中に潜り込んだ。少しばかり暑苦しさを感じた。
なかなか寝付けなかったが、時間が過ぎるにつれ微睡の中に智也は沈んでいった。
完全に闇に沈んでしまう前に智也は一之瀬の後ろ姿を見たような気がした。
一之瀬の顔が半分だけ見える―。
夢だということは眠気で虚ろな智也でもわかっていた。だがその姿は克明に映っていた。
一之瀬が少し微笑んだようだった。そして囁いた―。
「成瀬君も早く解放されたらいいね―。」
闇が一之瀬を塗りつぶしていく―。
いや―、それは闇ではなかった。
それは―、「青」だった。
智也は手を伸ばそうとする。
何かに引っ張られるような感覚―。
伸ばした手は虚しく、「青」の前で漂う―。
智也の体が何かに覆われていく。それはひどく気持ち悪い気がした―。
そうして智也の意識は沈んでいった―。