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青い壁 八月三十一日

八月三十一日

 

残暑がまだまだ残る蒸し暑い夜、高校二年生である成瀬智也は家で暇を持て余していた。

予備校と学校が押し付けてきた課題は昨日のうちに全て終わらせ、夏休み最後の日である八月三十一日を智也は怠惰に過ごしていた。

クーラーの効いた快適な部屋で寝転んでいた智也は何気なく机に置いてある読み終わった小説に手を伸ばし、ページをパラパラとめくっていた。

成瀬智也はきわめて一般的な高校生二年生である。短くも長くもない髪で、自分でも納得がいくほどの特徴のない顔つきだ。ある意味それが特徴ともいえる。

智也が読んだ本は最近よく新聞に載るある田舎の学校が舞台の青春小説だった。世間では涙なしでは語れないストーリーと騒がれていたが、生憎智也には感動も共感もなく、知り合いとの話の種にはなるかという程度のものだった。

智也は暇なときには小説を読んだりしている。自慢できるほどではないが智也の唯一の趣味でもある。読むもののジャンルは小説が多い。

智也は本をめくりながら、明日から嫌でも再開となる学校生活のことに頭を巡らせていた。

学校生活に思いを巡らせても湧き出てくる感情は面倒くさいという単純な心情であった。智也はクラスメートとは特別仲が悪いということはないが、時折彼らが煩わしく感じてしまうときがある。別にクラスの人間が嫌いなわけではない。友達と呼べる人はそれなりにいる。ただうまくは言えないが、智也はクラスという団体、群衆、集合の中では言いようのない違和感があった。自分が自分でないあやふやな感覚。妙な浮遊感、思春期特有の感じ方の一つと言われてしまえばそれまでなのだが、とにかく智也はこの違和感をぬぐいきれず、おまけにそれに対し嫌悪感もあった。そんな風に感じてしまう智也が明日からの学校生活を歓迎できるはずがなかった。だがこれは些細な問題であり別段深刻になることではなく、智也自身おもわず吹き出してしまいそうなくらい、くだらない話にすぎないのであった。一人が好きで、騒々しいのが好きではないだけである。

「何を考えているのだか……。」

本を机に放り投げ、見慣れた天井を見つめる。

「……」

智也は深いため息を吐き出し、目を瞑る。

「―」

暑く、ジメジメした感覚が智也の体を這いずり回る。クーラーがかかっているこの部屋でそんなものは感じることはないはずなのだが、なんともいえない不快感があった。

その不快感を認知してしまった智也はイライラして、残っていたぬるい麦茶を飲みほし、気分を変えるためにテレビをつけた。適当にチャンネルを回していると、ここ最近人気があるといわれているバラエティ番組にチャンネルを固定した。

「……」

とてもつまらない。観客はタイミングを合わせたように笑っている。言っていることも絶望的に面白味がない。見ている自分の正気を疑いたくなるほどであった。

そんなことで時間は過ぎ、ふと時計をみると針は午前一時を指していた。明日は夏休み明けの初の学校である。

さすがに初日から寝坊はしたくなかった。智也はそう思い、今まで感じていた不快感を無視しようと心に決め、部屋の電気を消しベッドに入った。あまりにも怠惰に任せすぎていたのか、すぐに眠気が襲ってきた。まだ眠りたくはないな。そんなことを微睡に飲まれながら、智也は思った。そして眠気が智也を包み込んだ。智也は消えてくれなかった違和感とともに眠りへ堕ちていった―。

明日なんて来なくていいのに―

 

 

 

 

 

 

 

 


青い壁 九月一日

 

 

 九月一日

 

―暑い。

久々に着た制服は不快極まりなかった。肌にまとまりつく汗を吸い取ったシャツ、容赦なく降り注ぐ太陽の日差し。

ただでさえ不快な夏休み明けの登校だというのに、より一層の不快のスパイスをしみこませていた。

智也が住んでいるところは、静かな住宅街である。少し歩かないとスーパーやデパートといったものはない。また繁華街や智也が通う予備校は自転車で二十分以上かかる。学校はそういったとところから少し離れ、少し山なりになっているところにある。智也は学校にはバスで行く。智也の学校は自転車通学が多くバス通学の生徒が少ないのでバスの中は通学で混むようなことは滅多になかった。智也は朝をゆっくり過ごしたかったのと、のんびり座っていきたいという気持ちが強かったので、多少時間はかかってしまうが、バス通学を好んでいた。

ついさっきまでは冷房が効いたバスの中で少しうたたねをしていた智也であったが降りてからは足取りが重くなった。

バスから降りて学校まで五分ばかり歩くのだが、その五分ばかりの歩行の時間でさえ苦痛に感じるほど今日の残暑はひどかった。夏休み明けの最初の登校でもあるのでよりいっそうに苦痛を智也は感じた。

「……」

黙って足を動かすことだけを考えた。そう決意した時に、知っていた声が智也の耳に入ってきた。

「よー、智也、久しぶり。」

肩をたたかれ、仕方なく振り向いて返事をする。

「……翔太か。」

高原翔太。一応中学の頃からの付き合いで智也の友人と呼べる人物であった。

「ひどいな、今日の暑さは……。」

「うん、ひどい……。」

普段はそれなりにおしゃべりであるこの友人でもこの暑さでは口数も減っていた。約二週間ぶりの再会で少しは弾むはずであろう会話も暑さによる気怠さに押し流されていった。

「夏休み終盤は何をしていたの?」「予備校だよ。」「進路とか考えた?」「少しは。」と、なるべく言葉数を少なくして、会話を続ける。二人にはこれで十分だった。

翔太はおしゃべりな方であり、友達も多い。智也とは中学の頃出会い、大人しくしていた智也に翔太がやたら話しかけてきて、そこから智也も気が付かぬうちに、友人といえる関係になっていった。中学からクラスが一緒で、時々鬱陶しい時もあるが今では智也の中でも気が知れた相手であった。翔太は自転車通学なのだが、学校から少し離れたところにある駐輪所に自転車を止めている。そして学校の校門に徒歩で向かうのだ。翔太が智也の隣に並ぶ。

アスファルトの坂道をひたすら歩いていく。智自分たちと同じ制服を着た生徒たちを横目で何度か見たが、青春中の輝くような目つきをしているものは今日では皆無であった。隣の友人に至っては、暑い、だるいとひたすらに繰り返すマシーンと化している。

暑い中の坂道を上り数分、自分たちの校舎が見えてきた。ここまでくれば多少は足取りも軽くなってくる。そうしたら次第に校門も視界に入ってきた。

二人の教師が校門の前で生徒たちを出迎えている姿が見えた。こういったことに引っ張られるのは体育教師と相場が決まっているのか、無駄にでかい声で登校する生徒にあいさつしている教師の声が智也たちの耳に入ってくる。この暑さでは鬱陶しいことこの上なかった。「なんであんなに元気なのか……。」と、翔太がぶつぶつ言っている。

やがて智也たちが校門に到達すると、教師のスピーカーのような声が近くで発せられる。智也たちは軽い会釈をし、校門を逃げるようにくぐりぬけ、外よりもかろうじて過ごしやすいはずである教室へと向かっていった。

 

 

教室に入ると、一か月半前と変わらない風景があった。少し変わっているところといえば、夏休み明けということで積もる話があるのだろう、クラスメートはいつも以上におしゃべりになっていた。智也は目があったクラスメートに挨拶し、翔太と別れて自分の席に向かった。

ここに来るまでにかいた汗が多少不愉快だったが、席に着くとだいぶ歩いてきた時より楽になり一息つけた。智也は手でシャツの下に風を送りながら、ぼんやりと今日のことを考え始めた。

今日は夏休み明け恒例の始業式である。我が校の校長のありがたくためになるお話を拝聴する予定であるが、この手の行事はどこもやることは変わらないのがほとんどである。智也たちにとっては面倒なこと以上の意味はなかった。

特にやることもなく、まだ始業までには時間があったので、智也は話しかけてくる数人のクラスメートと相手をしていた。

すると、教室のドアがガラガラっと空き、教室が少しだけ静かになった。智也のクラスの担任が教室に入ってきた。「お前ら早く座れー。」と教室に入ってきた少し背の高い男から、寝ぼけたような声が発せられた。

―滝本卓。

智也たちの担任である。あと少しで三十路に突入する年齢であるらしいのと、呆けた顔という特徴らしくない特徴を持っているのが智也のクラスの担任である。担当教科は数学だ。基本放任主義であり、身なりからわかるように教育に対する熱意は砂漠のように乾ききっているような態度の持ち主である。だが、智也たちには小うるさいことを言わず、面倒でもない教師として生徒たちからは敵意を持たれているわけではなかった。  

そういった意味では生徒たちからはいい先生であった。その滝本先生から体育館得へ行くようにとの指示が出された。みんなしぶしぶと体育館への移動を始める。終わったらさっさと帰って予備校の課題でもしようかと思いながら智也もしぶしぶと席を立ち体育館へ向かった。

そして智也は暑い中の始業式にじっと耐え、教室に戻り、今後の日程を聞きいて、家に帰った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青い壁 九月九日

 

 

 九月九日

 

学校が始まって一週間以上が過ぎた。

これまでと変わりなく、夏休み前の退屈な授業を消化する日々になった。だが、一つだけ一学期と変わったことがあった。そのことはクラスメートには驚きのことでもあったが、あまり歓迎されるようなことでもなかった。むしろ嫌なことに分類される類のものだった。

―それは一之瀬拓真が毎日学校に来ていることだった。

一之瀬拓真は少し長めの髪と中性的な顔立ちをしており、一般的には女子にそれなりに受けそうな顔立ちであった。だがそんな印象も最初だけであった。

彼は一学期にあまり学校に姿を見せなかった。担任である滝本によると、諸事情によりとのそっけない答えであった。だがそれは不登校というわけではなく、週に一度ぐらいは学校にその顔を出していた。それでも午前の授業のみとか、早退とかという具合だったのである。だが最初の中間テストの結果で智也たちは驚かされる羽目になる。一之瀬拓真は中間テストで校内トップクラスの成績だったのである。その結果を見た生徒は誰のことかわからなかった。そしてようやく一之瀬拓真の名前を認識したのである。その後のクラスは一之瀬の話題でいっぱいだった。そして中間テストの成績優秀者発表の後、彼が初めて姿を現したのである。

―そしてその日、クラスの生徒が抱いていた一之瀬に対する印象が百八十度変わってしまうことになった。

その日、珍しく一之瀬が登校した。智也はその一之瀬の姿を視界にとらえた。不思議な青年であった。背はあまり高い方ではない。体は細めで、触れてはならないような、そんな神聖な雰囲気があった。彼が教室に入ったら、その場が少し静かになった。だがすぐにそんな静けさは打ち破られた。それもそのはずで、噂のその人がきたのでクラスメートはワイワイと、彼に押し寄せ、生徒に囲まれてしまった。そして彼にプライベートやくだらない質問が投げかけられた。その中心にいる一之瀬はその中でも際立って特殊だった。同じ年とは思えないような少年のような顔つきであった。そんな彼は静かにゆっくりと下がっていた視線を上げ、透き通った奇麗な声で言葉を発した。

「邪魔だからどいてくれる?」と―、

―静寂があたりを支配した。

みんな言葉を失い、ぽかんと口をあけているものがほとんどだった。この時智也は教室の隅で翔太と一連の流れをなんとなく眺めていたが、二人とも面を食らっていた。

最初に行動を起こしたのは、我がクラスの委員長だった。

「ねぇ、そんな言い方はないんじゃないの?」

静寂を破り少し甲高い声が聞こえてきた。声の主は春原涼香だった。春原は気は少しきついが品行方正で、成績も優秀であり、家柄も良く、教師からの評価も高い優等生であった。

「……。」

一之瀬は春原へ返事もせずに、席に向かい静かに座った。絵になるようなはかなげな光景だった。彼は黙って空を眺めているようだった。

「ねぇ、無視は失礼じゃない?」

と、気の強い菅原は無視されたことが癪に障ったのか、一之瀬につっかかり、肩に触れようとした。だがその時、一之瀬の切り裂くような声が響いた。

「やめろっ!」

一之瀬は菅原の手を振り払った。

「きゃっ……。」

一瞬だが彼の奇麗な顔立ちがすごい形相と化していたのを智也は見逃さなかった。これには菅原も面を食らい、呆然としている。

一之瀬ははっとして、すぐに奇麗な顔立ちに戻った。その変化に気が付いたのは智也だけだった。

「ごめんなさい。僕の態度が気に障ったのなら謝ります。でも僕には話しかたり触れないでほしい。お願いだ。」

一之瀬は詩でも歌っているような、でもどこか機械的な澄んだ声で言葉を紡いだ。春原も我に返り、何か言おうとしたが、一瞬早く一之瀬が動き出し、「今日は早退します。さようなら。」と言い、まっすぐに教室から出て行った。

―再び静寂

だれもがあっけに取られていた。春原にいたっては「何よ、あいつ・・・・・・。」と、悪態を隠さないでいた。そうして滝本の登場によってようやく硬直した空気が弛緩したのであった。

それからも一之瀬は学校に来たり来なかったりであった。当然一之瀬に話しかけるような人間は一人もいなかった。村八分というわけではないが、立ち寄る人間はいなかった。それもそのはずで、一之瀬の近くの席である人間の話によると一之瀬は授業中に、急に薄ら笑いを浮かべて机に絵をかいたりして、気味が悪いといううわさも耳にすることがある。

そんな話もあって一之瀬は周りから気味悪がれていた。何人かの物好きが一之瀬に話しかけたりすることもあったが、例外なく無視されたのでクラスも徐々に興味を失っていった。

そして一之瀬が学校に来るのは、週に一度というペースだったので、いじめなど問題にはならなかった。むしろみんな気にしないようになっていった。

―だが

その一之瀬がここ最近は毎日のように学校に来ている―。

これが一学期と大きく変わったことだった。

だが智也は同じクラスとはいえ、一之瀬と関わりがあるわけでもないので、いつものように淡々と日常を過ごしていた。心境の変化があったかは図りようもないが、一之瀬は相変わらず、誰ともコミュニケーションをとるそぶりは見せなかった。時には突然姿が消えているときもあったのだが、だれも気に留めている者はいなかった。どこに行っているのかも分からなかった。

そんな変わったこともあったのだが、日常は大きく変わっておらず、暑さも続いていた。雨も降る気配もなく、ただ時間が過ぎていくだけであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青い壁 九月十七日

九月十七日

 

夕方の図書室。生徒たちは部活か放課後の遊びに精を出しているまだまだ暑い夏の中、智也は担任の滝本と面談をするために図書室で暇つぶしをしていた。暇つぶしと言っても予備校の勉強である。

夕方にもなると図書室にいる生徒などは智也以外には、図書室の先生がパソコンを眺めている姿しかなかった。面談というのは、智也の進路のことである。

一応、それなりの優等生で通っている智也だから成績自体は全く問題なく、一学期のテストの順位も上位層に入っていた。今日の内容の面談は保護者抜きの面談で、文系か理系かといった調査であった。

何もそんなにせっぱつまって決めるものでもないだろうに、とおもわずため息がでる智也であった。

一応、滝本には国立文系志望を報告するつもりだ。別に数学や化学などが苦手なわけではない。

理由は二つある。一つは英語が小学生のころから塾に通わされていた賜物なのか、英語は対して勉強をしなくても高得点をキープすることができた。国語の成績も良い。それが理由の一つだった。

二つ目は歴史が好きなことである。歴史というよりは歴史の人物が好きなのである。ただその歴史の人物、例えば、大久保利通が近代の日本にどのように影響を与えたのだとか、坂本竜馬がどれほど偉大な人物であるかといったものには全く興味がなかった。智也は歴史上の人物が、どのように世の中を思い、どのように死んでいったか、何を思って死んだのか、その人物は幸せだったのだろうかと想像したりすることが好きなのである。そのおかげかどうかは分からないが、こと歴史に関しては、智也は塾の全国模試でも群を抜けて成績が良かった。

以上の理由から智也は国立の文系志望であった。両親にも報告済みのことである。

智也は勉強の手を止め、時計を見た。

五時十分―。

滝本との面談は四十分からである。まだ職員室に行くのは早すぎる時間帯だ。だが、予備校のテキストも丁度キリのいいところなのでこれ以上勉強を続ける気にもなれず、終わりにすることにした。

「さて……。」

 こった肩を鳴らしてあと二十分なにをするか考智也は考えることにした。

「本でも見てみるか……。」

ここは図書館であるので、智也は何か面白そうな本はないか探索することにした。

智也は席を立って、小説コーナーに向かった。ざっとタイトルに目を通していくが、あまり興味をそそられるようなものはなかった。智也は日本の小説や文学しか読まないのだが、この学校の図書館には教科書に載るような作家の本しかなかった。

智也はため息をつき、どうしようかとしばし逡巡した。

そして、智也は少し趣向を変えて海外文学がある棚に向かうことにした。完全に気まぐれであった。

この図書館の文学関係の本の棚は、日本文学と海外文学とに別れていた。

海外文学がある棚、はちょうど本棚が並べられてあるところの、丁度直角にあたるところを曲がったところにある。智也がその直角の所に足を向けた途端、ふと人影が見えた。

その影が揺れている。

智也は気が付かなかったが、だれかいたのだろうか。

と、智也はその人影の顔を見ようとして足を進めた。そしてその陰の横顔を見てふかくにも呆然としてしまった。

「一之瀬?……」

しまったと思った時にはもう遅く智也は一之瀬の名前を口に出してしまった。

「―。」

一之瀬は少しだけ顔を上げたが、いつも通りですぐに興味なく視線を逸らした。相変わらず整った顔立ちである。女子たちが噂するのも納得がいく。だが、そんなことはどうでもよいことだった。智也はなにを言っていいのかわからなく、言葉を発せないでいた。ふと、一之瀬が持っている本のタイトルに目が行った。

「―ヘルマン・ヘッセ?」

ドイツの小説家かなにかだったかな、と智也は頭を巡らすが、それ以上のことは思い浮かばなかった。

「海外文学が好きなの?」と、口を開こうとしたら、奇麗な瞳を向けられ、

「どいてくれるかな。」

と、あいさつでもするように慇懃な態度で一之瀬は口を開いた。

「あ、あぁ…。ごめん……。」

智也はおどおどとはたから見たら情けない態度で答えた。彼の特殊な雰囲気は相手に踏み込ませないような何かがある―。そんな雰囲気をまとっているな。と、智也は体をどかしながら、流暢にそんなことを思った。嫌われているのだろうか。

智也に一瞥もせずに一之瀬は智也を避けて、まっすぐに図書室から出て行った。

「なんだよ、あいつ……。」

不思議な感覚だった。あまり人付き合いが多い方ではない智也だが、本当に彼は他の奴とは違うものだと感じた。だが、その雰囲気はなにか自分の心をくすぐるようなものがあった。それが何なのかは智也には検討もつかないが―

「……。」

呆然としていた智也だったが、当初の目的を思い出し、時計を見たら丁度長い針が六を指して、三十分を示していた。

「面談行かなきゃ……。」

もやもやした気持ちをなんとか心から追い払い、智也は荷物のある席に戻り、素早く片づけをして図書室をでて、職員室へと向かった。

面談が終わり学校を出ると少し暗めの夕焼けが空を覆っていた。その日の面談は何を言われたのか何も覚えていなく、一之瀬の不思議な印象が智也の頭を支配していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青い壁 九月二十三日

九月二十二日

 

一之瀬との遭遇から五日が経った。智也の頭の中にはほとんど一之瀬のことは頭になかった。教室で一之瀬の姿をたまに目をやってしまうときが度々あったが、彼はいつも通りの無関心の態度を貫いていた。ただ単に変な奴であるだけなのかもしれないな―。成績ダントツトップになる頭脳を所有していると考えていることも自分たちとは一線を画しているのだろう。ここ数日で智也はそのように結論づけていた。そんな思考の流れから、一之瀬のことは目が行っても気にしないようになっていた。

そんなことよりも今日はとても気分が悪く一之瀬のことなど全く頭に出てこなかった。今は予備校の帰りである。もうあたりが暗くなっているが、涼しさは感じない。そのくせ夏の暑さはまだ懲りずに残っておりジメジメしている。

「―くそっ。」

腹いせに道端の小石を思いっきり蹴ってみる。思ったより遠くには飛ばなかった。

なぜこうも腹が立っているのかというと、予備校での講師の面談が原因であった。英語の講義が終わったのでいつも通りに帰ろうとしたら、講師に呼び止められたのである。何の話かと思ったら、進路のことであった。その話がとても長い上に、智也にとっては不愉快極まりない内容だった。―君はまだ余裕があるように見える、君がもっと頑張ればさらに上の所に行けるだろう、ひとつでも上の学校に行った方が良い将来があるぞ、授業数をふやしてみたらどうかね、君には期待している、君はまだまだ伸びる、いい大学にいけるなどと、そんな言葉をひたすら浴びせられていた。

 

智也はこの手の応援や激励は生理的に毛嫌いしていた。とにかく不快である。おまけに昨日も似たようなことを両親にも言われていた。智也だって言い分は理解しているし、将来的な事や世間体などを考えると間違っていないとも思っている。だがそんなことは前々からさんざん言われてきたことだった。本当に鬱陶しかった。やることはきちんとやっている。文句のない成績もとって結果もでている。学校での評判も、予備校での評判も悪くない。だが別に好きでやっているわけでもない。目標なんてあってないようなものだ。だからほうっておいてほしい。うるさいのは嫌いだ。あげくに言っていることは不快だ。だが、周囲は飽きもせずに繰り返し囁く、もっとがんばれ、君ならできる、呪いのような無責任な激励の言葉を繰り返す―。そしてそれらの言葉が智也の許可なく体を葉這いずり回っているようにまとわりつく。やめてほしい。これ以上自分に品行方正な価値観を押し付けないでほしい。もう十分だろう。本当に。

 

―気持ち悪いな……。

 

吐き気がした。このまままっすぐ家に帰る気力は今の智也には持ち合わせていなかった。今は虫の音にすら頭にくる。足を止めて深いため息をつく。

「どこか寄り道でもしていくか……。」

智也は少しばかり逡巡した後、いくつかの候補が挙がった。人がいないところがよかった。そう考えると考えがおのずと決まった。ここから少し歩くが、智也が子供の頃によく遊んだ河原へと足を運ぶことにした。反転して、河原に向かった―。

―やっぱりここに来ると落ち着くな。

智也は河原到着したらしばらく寝そべっていた。その心地よさに目を閉じながら身を任せていた。背中にある草がチクチクとくすぐったいが、住宅街なんかよりも涼しく、川のせせらぎも心地よく耳に入ってくるので、さっきまでの粘りつくような不快感はほとんど消化されていた。

目を開けると星が見える。今日は少しばかり曇って入るが、それでも晴天と言って差し支えない空であった。普段は星のことなんて気に留めもしないが、ここにきて空を眺めると、都会の空とはいえ、感嘆せざるを得なかった。

この河原は智也が子供の頃から遊んでいた、お気に入りの場所であった。都市開発やら、なんやらで昔遊んだ公園などはなくなってしまうことが多いのだが、ここは智也が子供の頃と何一つ変わっていない場所であった。昔から、悲しくなったり、怒ったりして心に行き場所がなく、負の感情をため込む以外に術がない時には、この河原に来ていた。

「―ここはいつも静かでいいところだな。」

たまに吹く風が智也の前髪を揺らしていく。このまま眠ってしまいたいほどだった。もうあたりは暗いので本当に寝てはあまりの心地よさで、ここで朝を迎えてしまうことになってしまう。流石にそれはよくないことなので、上体を上げ、河原を見ることにした。闇が覆っているが、川の音は自然と智也の心を安らげ、安堵感を与えていた。

だが、川を眺めているとふと闇の中で何かが動いているのを智也は知覚した。

―誰かいるのか?

あたりは暗い。この河原で光となるものは月と星だけだ。闇の中の得体のしれないものがゆっくりと動いている。

―やっぱり誰かいるみたいだ。

危ないやつではないという保証はどこにもないということは承知している。ただ、なんとなくその人影のような姿が気になっていた。なぜなのかは智也自身にもわからなかった。

その人影がもう近くまで来ていた。あたりは不気味なほど静かだった。虫の音が相変わらず心地よく鳴り響いており、風情である。これが不審者だったら、逃げた方がいいよな、と呑気に構えていた。雲が月を隠していた。その雲が智也も気が付かぬうちにゆっくりと月の姿を現していく。そして少しずつ現れた月の光が川の水に反射し、その人影の顔を照らした。

「……一之瀬拓真?」

「…………………成瀬君?」

智也は驚愕した。一之瀬がなぜかここにいることよりも、自分の名前を一之瀬の口から発せられた事実に驚愕したのである。それに加え正直自分の名前が憶えられていることにも驚きを隠せなかった。少しだけ無言の時間が流れる。智也がどうしてここに―?と聞こうとしたが、先に言葉を発したのはなんと一之瀬であった。

「もしかして成瀬君、ここが好きなの?」

「―。」

驚いた―。

てっきりまた冷たい態度で、どけ―。とか言われるのかと、智也は身構えていたのである。少し頭が混乱したが、智也はなんとか返事を出した。

「う、うん。ここ子供のころから気に入っている場所だよ―。」

また無言の状態が少し流れる。一之瀬は今迄見たこともないような子供のような顔で智也が発した言葉の意味を考えているように見えた。

一之瀬がゆっくりと口を開く。時の流れがここだけ変わったようだった―。

「そうか……。成瀬君もここが好きなんだね―。」

―開いた口がふさがらない。実際にはそこまでまぬけな顔をしていたわけでもないと思うが、心情的にはまさに開いた口がふさがらなかった。

―一之瀬が笑っている。

智也は見ているものが信じられなかった。あれだけクラスメートを拒絶し、感情なんて露の欠片も見せないでいた一之瀬が、自分の目の前で微笑んでいるのだ。驚くのも当然である。

「う、うん…。一之瀬もここが好きなの?」

智也が言葉を返す。

「うん。ここはとても静かなところだからね。」

「そうだよな。ここは静かでいいよな……。」

一之瀬と会話が成立している。一之瀬を知っているクラスメートがこの場を見たら、明日には噂になってしまっているだろう。

「僕は最近この場所を見つけた。成瀬君は子どもの頃からここを知っていたのなら、僕は後からここに来た人間になる。そうなると、僕は成瀬君の場所に勝手に入ってしまったことになる。だから謝るよ。」

「えっ、そんなこと気にしないよ。第一ここは別に僕のものじゃない。謝る必要なんてこれっぽっちもないし、後とか先とかなんて関係ないよ。この場所が好きならそれでいいと思う。気にしないで。」

やっぱり変わっているな―。

と、智也は思ったのだが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。この場所による吊り橋効果もあるのだろうか。

智也もそうなのだが、一之瀬も学校よりも気分がよさそうであった。

「そう?ありがとう。それにしても嬉しいな。」

「嬉しいって、何が?」

「この場所が好きである人が成瀬君のような人で嬉しいよ。」

「よくわからないけど、とりあえずありがとう。」

「こちらこそ。」

一之瀬の言っていることに戸惑う智也であったが、それでもやっぱり嫌な感じではなかった。それにしてもここにいる一之瀬が、いまだに学校での近寄りがたい一之瀬と同一人物とは思えなかった。

「そうだ。成瀬君なら多分気に入ると思う場所があるんだ。そこは君がここをお気に入りにしているように、よく行く場所がもう一つある。僕だけがここのように素晴らしい場所を二つも知っているのはなんだか不公平な気がしてならない。独占しているみたいだ。だから僕は成瀬君にも知ってもらいたい。どうかな。」

「それは興味あるな。いったいどこなんだい?」

「それはまだ秘密だ。ここで言ったら味気ないしね。」

「ぜひ知りたいな。」

智也は自分でもびっくりしていた。あの一之瀬とここまで会話が弾むとは夢にも思わなかった。おまけに次の約束も成立しそうである。

「そう?ならそうだな。明日の放課後、図書室で落ち合おうか。」

一之瀬は少し含みがある笑顔で言った。

図書室と言えば偶然とはいえ、初めて一之瀬と顔を突き合わせた場所だった。あの時のことを思い出したら、口元が緩みそうだった。

「あの時は悪かった。つい、いつもと同じ感じで口を滑らしてしまった。」

一之瀬もわかっているらしい。

「別に気にしていないよ。どうせなら文学コーナーのところで待ち合わせしようか。」

智也も少し不敵に笑いながら言う。

「それはいいね。そうしよう。」

一之瀬も笑う。楽しそうであった。

「じゃあ文学コーナーで。それと水を差すようで悪いけどももう遅いから帰らなくちゃいけない。一之瀬はこれからどうする?」

「僕はもう少しここにいるよ。」

「そうか。なら暗いから気をつけて。」

「うん。じゃあ、明日―。」

「あぁ。」

智也は一之瀬に背を向けた。一之瀬の好きなどんなところだろうな―。智也は自分でも築いていないが、明日を楽しみにしており、口元が少しばかり笑っていた。もう、予備校のことなどすっかり忘れてしまっていた。

「成瀬君。」

後ろから声がかけられる。少しばかり後ろを見る。

「久しぶりに楽しかった。ありがとう。」

智也は少し驚いてとっさに反応できなかった。そして少し遅れて智也は笑った。

「僕も楽しかったよ。」

と言って、すこし早歩きで、コンクリートの道路に向かっていった―。

今夜は三日月で、とてもきれいに夜空に輝いていた。そしてその光はまだ河原にいる一之瀬を照らしていた―。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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