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青い壁 九月九日

 

 

 九月九日

 

学校が始まって一週間以上が過ぎた。

これまでと変わりなく、夏休み前の退屈な授業を消化する日々になった。だが、一つだけ一学期と変わったことがあった。そのことはクラスメートには驚きのことでもあったが、あまり歓迎されるようなことでもなかった。むしろ嫌なことに分類される類のものだった。

―それは一之瀬拓真が毎日学校に来ていることだった。

一之瀬拓真は少し長めの髪と中性的な顔立ちをしており、一般的には女子にそれなりに受けそうな顔立ちであった。だがそんな印象も最初だけであった。

彼は一学期にあまり学校に姿を見せなかった。担任である滝本によると、諸事情によりとのそっけない答えであった。だがそれは不登校というわけではなく、週に一度ぐらいは学校にその顔を出していた。それでも午前の授業のみとか、早退とかという具合だったのである。だが最初の中間テストの結果で智也たちは驚かされる羽目になる。一之瀬拓真は中間テストで校内トップクラスの成績だったのである。その結果を見た生徒は誰のことかわからなかった。そしてようやく一之瀬拓真の名前を認識したのである。その後のクラスは一之瀬の話題でいっぱいだった。そして中間テストの成績優秀者発表の後、彼が初めて姿を現したのである。

―そしてその日、クラスの生徒が抱いていた一之瀬に対する印象が百八十度変わってしまうことになった。

その日、珍しく一之瀬が登校した。智也はその一之瀬の姿を視界にとらえた。不思議な青年であった。背はあまり高い方ではない。体は細めで、触れてはならないような、そんな神聖な雰囲気があった。彼が教室に入ったら、その場が少し静かになった。だがすぐにそんな静けさは打ち破られた。それもそのはずで、噂のその人がきたのでクラスメートはワイワイと、彼に押し寄せ、生徒に囲まれてしまった。そして彼にプライベートやくだらない質問が投げかけられた。その中心にいる一之瀬はその中でも際立って特殊だった。同じ年とは思えないような少年のような顔つきであった。そんな彼は静かにゆっくりと下がっていた視線を上げ、透き通った奇麗な声で言葉を発した。

「邪魔だからどいてくれる?」と―、

―静寂があたりを支配した。

みんな言葉を失い、ぽかんと口をあけているものがほとんどだった。この時智也は教室の隅で翔太と一連の流れをなんとなく眺めていたが、二人とも面を食らっていた。

最初に行動を起こしたのは、我がクラスの委員長だった。

「ねぇ、そんな言い方はないんじゃないの?」

静寂を破り少し甲高い声が聞こえてきた。声の主は春原涼香だった。春原は気は少しきついが品行方正で、成績も優秀であり、家柄も良く、教師からの評価も高い優等生であった。

「……。」

一之瀬は春原へ返事もせずに、席に向かい静かに座った。絵になるようなはかなげな光景だった。彼は黙って空を眺めているようだった。

「ねぇ、無視は失礼じゃない?」

と、気の強い菅原は無視されたことが癪に障ったのか、一之瀬につっかかり、肩に触れようとした。だがその時、一之瀬の切り裂くような声が響いた。

「やめろっ!」

一之瀬は菅原の手を振り払った。

「きゃっ……。」

一瞬だが彼の奇麗な顔立ちがすごい形相と化していたのを智也は見逃さなかった。これには菅原も面を食らい、呆然としている。

一之瀬ははっとして、すぐに奇麗な顔立ちに戻った。その変化に気が付いたのは智也だけだった。

「ごめんなさい。僕の態度が気に障ったのなら謝ります。でも僕には話しかたり触れないでほしい。お願いだ。」

一之瀬は詩でも歌っているような、でもどこか機械的な澄んだ声で言葉を紡いだ。春原も我に返り、何か言おうとしたが、一瞬早く一之瀬が動き出し、「今日は早退します。さようなら。」と言い、まっすぐに教室から出て行った。

―再び静寂

だれもがあっけに取られていた。春原にいたっては「何よ、あいつ・・・・・・。」と、悪態を隠さないでいた。そうして滝本の登場によってようやく硬直した空気が弛緩したのであった。

それからも一之瀬は学校に来たり来なかったりであった。当然一之瀬に話しかけるような人間は一人もいなかった。村八分というわけではないが、立ち寄る人間はいなかった。それもそのはずで、一之瀬の近くの席である人間の話によると一之瀬は授業中に、急に薄ら笑いを浮かべて机に絵をかいたりして、気味が悪いといううわさも耳にすることがある。

そんな話もあって一之瀬は周りから気味悪がれていた。何人かの物好きが一之瀬に話しかけたりすることもあったが、例外なく無視されたのでクラスも徐々に興味を失っていった。

そして一之瀬が学校に来るのは、週に一度というペースだったので、いじめなど問題にはならなかった。むしろみんな気にしないようになっていった。

―だが

その一之瀬がここ最近は毎日のように学校に来ている―。

これが一学期と大きく変わったことだった。

だが智也は同じクラスとはいえ、一之瀬と関わりがあるわけでもないので、いつものように淡々と日常を過ごしていた。心境の変化があったかは図りようもないが、一之瀬は相変わらず、誰ともコミュニケーションをとるそぶりは見せなかった。時には突然姿が消えているときもあったのだが、だれも気に留めている者はいなかった。どこに行っているのかも分からなかった。

そんな変わったこともあったのだが、日常は大きく変わっておらず、暑さも続いていた。雨も降る気配もなく、ただ時間が過ぎていくだけであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青い壁 九月十七日

九月十七日

 

夕方の図書室。生徒たちは部活か放課後の遊びに精を出しているまだまだ暑い夏の中、智也は担任の滝本と面談をするために図書室で暇つぶしをしていた。暇つぶしと言っても予備校の勉強である。

夕方にもなると図書室にいる生徒などは智也以外には、図書室の先生がパソコンを眺めている姿しかなかった。面談というのは、智也の進路のことである。

一応、それなりの優等生で通っている智也だから成績自体は全く問題なく、一学期のテストの順位も上位層に入っていた。今日の内容の面談は保護者抜きの面談で、文系か理系かといった調査であった。

何もそんなにせっぱつまって決めるものでもないだろうに、とおもわずため息がでる智也であった。

一応、滝本には国立文系志望を報告するつもりだ。別に数学や化学などが苦手なわけではない。

理由は二つある。一つは英語が小学生のころから塾に通わされていた賜物なのか、英語は対して勉強をしなくても高得点をキープすることができた。国語の成績も良い。それが理由の一つだった。

二つ目は歴史が好きなことである。歴史というよりは歴史の人物が好きなのである。ただその歴史の人物、例えば、大久保利通が近代の日本にどのように影響を与えたのだとか、坂本竜馬がどれほど偉大な人物であるかといったものには全く興味がなかった。智也は歴史上の人物が、どのように世の中を思い、どのように死んでいったか、何を思って死んだのか、その人物は幸せだったのだろうかと想像したりすることが好きなのである。そのおかげかどうかは分からないが、こと歴史に関しては、智也は塾の全国模試でも群を抜けて成績が良かった。

以上の理由から智也は国立の文系志望であった。両親にも報告済みのことである。

智也は勉強の手を止め、時計を見た。

五時十分―。

滝本との面談は四十分からである。まだ職員室に行くのは早すぎる時間帯だ。だが、予備校のテキストも丁度キリのいいところなのでこれ以上勉強を続ける気にもなれず、終わりにすることにした。

「さて……。」

 こった肩を鳴らしてあと二十分なにをするか考智也は考えることにした。

「本でも見てみるか……。」

ここは図書館であるので、智也は何か面白そうな本はないか探索することにした。

智也は席を立って、小説コーナーに向かった。ざっとタイトルに目を通していくが、あまり興味をそそられるようなものはなかった。智也は日本の小説や文学しか読まないのだが、この学校の図書館には教科書に載るような作家の本しかなかった。

智也はため息をつき、どうしようかとしばし逡巡した。

そして、智也は少し趣向を変えて海外文学がある棚に向かうことにした。完全に気まぐれであった。

この図書館の文学関係の本の棚は、日本文学と海外文学とに別れていた。

海外文学がある棚、はちょうど本棚が並べられてあるところの、丁度直角にあたるところを曲がったところにある。智也がその直角の所に足を向けた途端、ふと人影が見えた。

その影が揺れている。

智也は気が付かなかったが、だれかいたのだろうか。

と、智也はその人影の顔を見ようとして足を進めた。そしてその陰の横顔を見てふかくにも呆然としてしまった。

「一之瀬?……」

しまったと思った時にはもう遅く智也は一之瀬の名前を口に出してしまった。

「―。」

一之瀬は少しだけ顔を上げたが、いつも通りですぐに興味なく視線を逸らした。相変わらず整った顔立ちである。女子たちが噂するのも納得がいく。だが、そんなことはどうでもよいことだった。智也はなにを言っていいのかわからなく、言葉を発せないでいた。ふと、一之瀬が持っている本のタイトルに目が行った。

「―ヘルマン・ヘッセ?」

ドイツの小説家かなにかだったかな、と智也は頭を巡らすが、それ以上のことは思い浮かばなかった。

「海外文学が好きなの?」と、口を開こうとしたら、奇麗な瞳を向けられ、

「どいてくれるかな。」

と、あいさつでもするように慇懃な態度で一之瀬は口を開いた。

「あ、あぁ…。ごめん……。」

智也はおどおどとはたから見たら情けない態度で答えた。彼の特殊な雰囲気は相手に踏み込ませないような何かがある―。そんな雰囲気をまとっているな。と、智也は体をどかしながら、流暢にそんなことを思った。嫌われているのだろうか。

智也に一瞥もせずに一之瀬は智也を避けて、まっすぐに図書室から出て行った。

「なんだよ、あいつ……。」

不思議な感覚だった。あまり人付き合いが多い方ではない智也だが、本当に彼は他の奴とは違うものだと感じた。だが、その雰囲気はなにか自分の心をくすぐるようなものがあった。それが何なのかは智也には検討もつかないが―

「……。」

呆然としていた智也だったが、当初の目的を思い出し、時計を見たら丁度長い針が六を指して、三十分を示していた。

「面談行かなきゃ……。」

もやもやした気持ちをなんとか心から追い払い、智也は荷物のある席に戻り、素早く片づけをして図書室をでて、職員室へと向かった。

面談が終わり学校を出ると少し暗めの夕焼けが空を覆っていた。その日の面談は何を言われたのか何も覚えていなく、一之瀬の不思議な印象が智也の頭を支配していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青い壁 九月二十三日

九月二十二日

 

一之瀬との遭遇から五日が経った。智也の頭の中にはほとんど一之瀬のことは頭になかった。教室で一之瀬の姿をたまに目をやってしまうときが度々あったが、彼はいつも通りの無関心の態度を貫いていた。ただ単に変な奴であるだけなのかもしれないな―。成績ダントツトップになる頭脳を所有していると考えていることも自分たちとは一線を画しているのだろう。ここ数日で智也はそのように結論づけていた。そんな思考の流れから、一之瀬のことは目が行っても気にしないようになっていた。

そんなことよりも今日はとても気分が悪く一之瀬のことなど全く頭に出てこなかった。今は予備校の帰りである。もうあたりが暗くなっているが、涼しさは感じない。そのくせ夏の暑さはまだ懲りずに残っておりジメジメしている。

「―くそっ。」

腹いせに道端の小石を思いっきり蹴ってみる。思ったより遠くには飛ばなかった。

なぜこうも腹が立っているのかというと、予備校での講師の面談が原因であった。英語の講義が終わったのでいつも通りに帰ろうとしたら、講師に呼び止められたのである。何の話かと思ったら、進路のことであった。その話がとても長い上に、智也にとっては不愉快極まりない内容だった。―君はまだ余裕があるように見える、君がもっと頑張ればさらに上の所に行けるだろう、ひとつでも上の学校に行った方が良い将来があるぞ、授業数をふやしてみたらどうかね、君には期待している、君はまだまだ伸びる、いい大学にいけるなどと、そんな言葉をひたすら浴びせられていた。

 

智也はこの手の応援や激励は生理的に毛嫌いしていた。とにかく不快である。おまけに昨日も似たようなことを両親にも言われていた。智也だって言い分は理解しているし、将来的な事や世間体などを考えると間違っていないとも思っている。だがそんなことは前々からさんざん言われてきたことだった。本当に鬱陶しかった。やることはきちんとやっている。文句のない成績もとって結果もでている。学校での評判も、予備校での評判も悪くない。だが別に好きでやっているわけでもない。目標なんてあってないようなものだ。だからほうっておいてほしい。うるさいのは嫌いだ。あげくに言っていることは不快だ。だが、周囲は飽きもせずに繰り返し囁く、もっとがんばれ、君ならできる、呪いのような無責任な激励の言葉を繰り返す―。そしてそれらの言葉が智也の許可なく体を葉這いずり回っているようにまとわりつく。やめてほしい。これ以上自分に品行方正な価値観を押し付けないでほしい。もう十分だろう。本当に。

 

―気持ち悪いな……。

 

吐き気がした。このまままっすぐ家に帰る気力は今の智也には持ち合わせていなかった。今は虫の音にすら頭にくる。足を止めて深いため息をつく。

「どこか寄り道でもしていくか……。」

智也は少しばかり逡巡した後、いくつかの候補が挙がった。人がいないところがよかった。そう考えると考えがおのずと決まった。ここから少し歩くが、智也が子供の頃によく遊んだ河原へと足を運ぶことにした。反転して、河原に向かった―。

―やっぱりここに来ると落ち着くな。

智也は河原到着したらしばらく寝そべっていた。その心地よさに目を閉じながら身を任せていた。背中にある草がチクチクとくすぐったいが、住宅街なんかよりも涼しく、川のせせらぎも心地よく耳に入ってくるので、さっきまでの粘りつくような不快感はほとんど消化されていた。

目を開けると星が見える。今日は少しばかり曇って入るが、それでも晴天と言って差し支えない空であった。普段は星のことなんて気に留めもしないが、ここにきて空を眺めると、都会の空とはいえ、感嘆せざるを得なかった。

この河原は智也が子供の頃から遊んでいた、お気に入りの場所であった。都市開発やら、なんやらで昔遊んだ公園などはなくなってしまうことが多いのだが、ここは智也が子供の頃と何一つ変わっていない場所であった。昔から、悲しくなったり、怒ったりして心に行き場所がなく、負の感情をため込む以外に術がない時には、この河原に来ていた。

「―ここはいつも静かでいいところだな。」

たまに吹く風が智也の前髪を揺らしていく。このまま眠ってしまいたいほどだった。もうあたりは暗いので本当に寝てはあまりの心地よさで、ここで朝を迎えてしまうことになってしまう。流石にそれはよくないことなので、上体を上げ、河原を見ることにした。闇が覆っているが、川の音は自然と智也の心を安らげ、安堵感を与えていた。

だが、川を眺めているとふと闇の中で何かが動いているのを智也は知覚した。

―誰かいるのか?

あたりは暗い。この河原で光となるものは月と星だけだ。闇の中の得体のしれないものがゆっくりと動いている。

―やっぱり誰かいるみたいだ。

危ないやつではないという保証はどこにもないということは承知している。ただ、なんとなくその人影のような姿が気になっていた。なぜなのかは智也自身にもわからなかった。

その人影がもう近くまで来ていた。あたりは不気味なほど静かだった。虫の音が相変わらず心地よく鳴り響いており、風情である。これが不審者だったら、逃げた方がいいよな、と呑気に構えていた。雲が月を隠していた。その雲が智也も気が付かぬうちにゆっくりと月の姿を現していく。そして少しずつ現れた月の光が川の水に反射し、その人影の顔を照らした。

「……一之瀬拓真?」

「…………………成瀬君?」

智也は驚愕した。一之瀬がなぜかここにいることよりも、自分の名前を一之瀬の口から発せられた事実に驚愕したのである。それに加え正直自分の名前が憶えられていることにも驚きを隠せなかった。少しだけ無言の時間が流れる。智也がどうしてここに―?と聞こうとしたが、先に言葉を発したのはなんと一之瀬であった。

「もしかして成瀬君、ここが好きなの?」

「―。」

驚いた―。

てっきりまた冷たい態度で、どけ―。とか言われるのかと、智也は身構えていたのである。少し頭が混乱したが、智也はなんとか返事を出した。

「う、うん。ここ子供のころから気に入っている場所だよ―。」

また無言の状態が少し流れる。一之瀬は今迄見たこともないような子供のような顔で智也が発した言葉の意味を考えているように見えた。

一之瀬がゆっくりと口を開く。時の流れがここだけ変わったようだった―。

「そうか……。成瀬君もここが好きなんだね―。」

―開いた口がふさがらない。実際にはそこまでまぬけな顔をしていたわけでもないと思うが、心情的にはまさに開いた口がふさがらなかった。

―一之瀬が笑っている。

智也は見ているものが信じられなかった。あれだけクラスメートを拒絶し、感情なんて露の欠片も見せないでいた一之瀬が、自分の目の前で微笑んでいるのだ。驚くのも当然である。

「う、うん…。一之瀬もここが好きなの?」

智也が言葉を返す。

「うん。ここはとても静かなところだからね。」

「そうだよな。ここは静かでいいよな……。」

一之瀬と会話が成立している。一之瀬を知っているクラスメートがこの場を見たら、明日には噂になってしまっているだろう。

「僕は最近この場所を見つけた。成瀬君は子どもの頃からここを知っていたのなら、僕は後からここに来た人間になる。そうなると、僕は成瀬君の場所に勝手に入ってしまったことになる。だから謝るよ。」

「えっ、そんなこと気にしないよ。第一ここは別に僕のものじゃない。謝る必要なんてこれっぽっちもないし、後とか先とかなんて関係ないよ。この場所が好きならそれでいいと思う。気にしないで。」

やっぱり変わっているな―。

と、智也は思ったのだが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。この場所による吊り橋効果もあるのだろうか。

智也もそうなのだが、一之瀬も学校よりも気分がよさそうであった。

「そう?ありがとう。それにしても嬉しいな。」

「嬉しいって、何が?」

「この場所が好きである人が成瀬君のような人で嬉しいよ。」

「よくわからないけど、とりあえずありがとう。」

「こちらこそ。」

一之瀬の言っていることに戸惑う智也であったが、それでもやっぱり嫌な感じではなかった。それにしてもここにいる一之瀬が、いまだに学校での近寄りがたい一之瀬と同一人物とは思えなかった。

「そうだ。成瀬君なら多分気に入ると思う場所があるんだ。そこは君がここをお気に入りにしているように、よく行く場所がもう一つある。僕だけがここのように素晴らしい場所を二つも知っているのはなんだか不公平な気がしてならない。独占しているみたいだ。だから僕は成瀬君にも知ってもらいたい。どうかな。」

「それは興味あるな。いったいどこなんだい?」

「それはまだ秘密だ。ここで言ったら味気ないしね。」

「ぜひ知りたいな。」

智也は自分でもびっくりしていた。あの一之瀬とここまで会話が弾むとは夢にも思わなかった。おまけに次の約束も成立しそうである。

「そう?ならそうだな。明日の放課後、図書室で落ち合おうか。」

一之瀬は少し含みがある笑顔で言った。

図書室と言えば偶然とはいえ、初めて一之瀬と顔を突き合わせた場所だった。あの時のことを思い出したら、口元が緩みそうだった。

「あの時は悪かった。つい、いつもと同じ感じで口を滑らしてしまった。」

一之瀬もわかっているらしい。

「別に気にしていないよ。どうせなら文学コーナーのところで待ち合わせしようか。」

智也も少し不敵に笑いながら言う。

「それはいいね。そうしよう。」

一之瀬も笑う。楽しそうであった。

「じゃあ文学コーナーで。それと水を差すようで悪いけどももう遅いから帰らなくちゃいけない。一之瀬はこれからどうする?」

「僕はもう少しここにいるよ。」

「そうか。なら暗いから気をつけて。」

「うん。じゃあ、明日―。」

「あぁ。」

智也は一之瀬に背を向けた。一之瀬の好きなどんなところだろうな―。智也は自分でも築いていないが、明日を楽しみにしており、口元が少しばかり笑っていた。もう、予備校のことなどすっかり忘れてしまっていた。

「成瀬君。」

後ろから声がかけられる。少しばかり後ろを見る。

「久しぶりに楽しかった。ありがとう。」

智也は少し驚いてとっさに反応できなかった。そして少し遅れて智也は笑った。

「僕も楽しかったよ。」

と言って、すこし早歩きで、コンクリートの道路に向かっていった―。

今夜は三日月で、とてもきれいに夜空に輝いていた。そしてその光はまだ河原にいる一之瀬を照らしていた―。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青い壁 九月二十四日

 九月二十四日

 

放課後になった―。いつもならまっすぐに家に帰るところなのだが、今日は一之瀬との約束があった。

少しぼーっとしていたらと翔太が駆け寄ってきて、一緒に帰ろうと誘われた。翔太はサッカー部なのだが、今日はたまたま練習が休みらしい。もともとこの学校のサッカー部はそんなに強くない部であるそうなので、部員もそこまで本気でやっているわけではないらしい。

智也は今では帰宅部だが、中学では陸上部の短距離で活躍していた。特別優れた選手であったわけではないのだが、大会にも参加したこともある。なにより走るのは嫌いではなかった。今でもたまにランニングをしたりする。

「ごめん、翔太。今日は学校で用事があるから遅くなる。」

「えー。ついてないな。でも仕方ないか。あっ、忘れるところだった。お前から借りた漫画今日持って行った方がいいか?」

「いや、今日はいいよ。明日以降で。」

「了解。んじゃまた明日な。」

「うん。」

そうして翔太は教室を出て行った。

智也は一息つくと、今日の予定を反芻してみた。少し前ならば考えられないことである。今日も一之瀬は誰とも口を利かずに一日を過ごしていた。その表情は、河原で見た時とは別人のようであった。クラスが嫌いなのだろうか。そしてなぜ自分に話しかけてきたのだろうか。どちらにしても普段無愛想で慇懃無礼の一之瀬が、自分にコンタクトを持ちかけてきたのだ。それも一之瀬から。このことがクラスや翔太にばれてしまったら、ちょっとした、いやかなりのニュースになっているだろう。それに、紹介したい場所とはどこなのであろうかと、考えることは少なくなかった。

「行こう……。」

智也は図書室に向かった―。

 

 

―図書室。もう少しで空に橙色の光があらわれそうな時間だった。あの時一之瀬と会った時より一時間ばかり遅い時間―。

まだ一之瀬は到着していないようだった。ほかの生徒の姿も見えない。じっとしているのも暇であるので、この前一之瀬がいた海外文学コーナーに足を運んだ。

たくさんある本の中から一冊手に取ってページをめくる。手に取っているものは、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」である。これは一之瀬が前に手にとっていた作者の本である。智也にはあまりなじみのない分野だった。なんとなくだが、こんな本を読んでいるあたり、一之瀬は学年トップの秀才さをあらわしているような気がした。

本を棚に戻したところで、人の気配を感じた。振り向いたら一之瀬がそこに立っていた。ちょうどこの前とは立ち位置が逆になっている状態である。前と違うところは、一之瀬が柔らかな笑みを浮かべており、智也に話しかけているところであった。

「ごめん。成瀬君。待たせかな?」

今度は驚かなかった。智也は一之瀬に落ち着いて顔を向けた。

「いや、ちょっと前に来ただけだよ。」

「そう、それはよかった。それならさっそく向かおうか。」

と、一之瀬は背中を向けて歩き出した。意外とせっかちなのかもしれない。実は今日、一之瀬は学校を昼からは保健室に行って休んでいたらしく、ホームルームにはいなかったので、智也は少し心配していた。本当に図書室に来るのかと―。だが智也は不思議と一之瀬は来るだろうなと確信めいたものがあった。だからそんな漠然とした不安はすぐに消えてしまっていた。このことは智也自身不思議に思った。

「うん。よろしく。」

智也は一之瀬の背中を追って歩き出し、図書室を後にした。

「ところで、一之瀬が紹介したい場所って学校の外?」

智也が質問した。一之瀬は少し笑って、

「いや、一応学校だよ。」と、答えた。

「そうなの?」

「うん。ついてきて。」

そういいながら、廊下を少しわたり、階段をどんどん登って行った。この学校は全部で四階まである。その四階にまで到達しても、一之瀬は階段を上ろうとしていた。ここまでくれば智也にも予想がついた。そしてついに階段の終わりに到達してしまった。あっという間であった。

「ついたよ。成瀬君」

「屋上か。でも、ここは生徒には立ち入り禁止で、しかも鍵がかかっているはずじゃ……。」

一之瀬は得意げにポケットからあるものを取り出した。鍵である。

「それ、ここの?」

「そうだよ。」

どういてそんなものを持っているのか―。学校の施設の鍵は職員室で管理されていて、生徒が持ち出しできるものではないはずだった。校則違反―。下手したら窃盗に近いものになるのではないかと智也は危惧し、少し心配になった。

だが、一之瀬はそんなことを気にも留めていないのか、楽しげにその鍵を鍵穴に突っ込んだ。カチャリ、と心地いい音が静かな学校に響いた。

「さ、どうぞ成瀬君。」

一之瀬はそう言って、自分の宝物をこれからみせるようにゆっくりとドアノブを回していった。

扉の隙間からあふれる光―。その光が徐々に広がり、大きくなっていく。やがてその光は智也の全身を覆い尽くした。

「―。」

そこには青い空があった―。屋上なのだからあたりまえのことなのだが、いつも地面から見る空とは違うものに見えた。いや、空を意識したことなんてあの河原以外では皆無だった。その空に今目を奪われる。何も考えはない。ただもっと空の中心に行きたくて、一歩屋上に足を踏み入れた。そしてその中心へと足を進める。そしてその中央に立った。

 空が近くに感じた―。

手を伸ばせば届きそうな空。実際には届くはずのない空。この時の智也の頭の中は空っぽだった。校則違反とかそんなことはどうでもよかった。ただこのなにもない青い空を眺めた。

気持ちがいい―。

少しだけ風を感じる。その風が智也の前髪を揺らしていく。智也はただその風を全身に感じる。あの河原と似たような雰囲気なのだろうか。ここには余計なものが一つもない。この屋上は危険防止のためにフェンスで周りが囲まれており、景色を見るときはフェンス越しであった。

―フェンスなんてなくていいのに。

智也はそこが少しだけ残念に思った。だがそらでも十分開放感があり、心地いいところである。

余分なものはなく、あるのは風と空だけであった。

―なるほど。確かにここはいいところである。

智也は空に心を奪われたかのように上を向いていた。

一之瀬の声がようやく智也の目を空から引き離してくれた。智也はやっと一之瀬に気が付いたかのように、ゆっくりと視線を空から戻した。実際には短い時間だったのだろうが、智也には長い時間空を見ていたかのように感じられた。

「気に入ってくれたみたいだね。」

一之瀬が囁いた。

「うん。気に入った。」

それ以上の言葉は無粋だった。もう一度空を見る。智也はあの河原の時のように腰を下ろし、横になった。視界には空以外何もない。しばし二人は空を眺めた。しばらくたったと感じふと智也は一之瀬に尋ねてみた。

「ここにはよく来るの?」

「うん。夕方になる時が一番素晴らしくてね、この時間帯によく来るよ。」

「そうか、もうすこしで夕方か。」

「うん。それまで何か話そうか。」

智也はとりあえず気になったことから尋ねることにした。

「先生とかには見つかったこととかないの?」

「ないよ。ここはとっくの昔に閉鎖されたらしいから、鍵を職員室から持って行ってもなんともなかった。気にしていないと思う。」

それは安全管理問題としてどうなのかと智也は思ったが、なんだかおかしくて笑ってしまいそうだった。

「いつからここに?」

一之瀬は少し考えた後、

「五月ぐらいからかな。」と、答えた。

「どこか落ち着けるような場所がほしくてね、ずっと探していた。」

「いい場所を見つけたね。」

「うん。」

また静かな時間が流れていた。うっかりしていると気持ち良くて眠ってしまいそうだった。智也は眠気に逆らえずうとうとしかけている時、

「見て。あの夕日。」

と、一之瀬が静かだが吸い込まれるかのような調子で智也にささやいた。

「ん……。」

目をこすりながらゆっくりと瞼を明ける。橙色の光がうっすらと見えた。智也は体を起こしてその眩しすぎない光を見つめた。

「きれいだね。」

ありきたりな感想だった。一之瀬は少し不満そうだ。

「あの光がゆっくりと、青を塗りつぶしていって、やがては暗くなり星が見えてくる。急がずに、ゆっくりと……。あの光ももう少しすればあっちの方に沈んでいく。それはとても美しくて、とても奇麗だ。そしてそれを何度も何度も繰り返していく。でもその美しさは決して色あせるようなことはない。だから僕はここが好きだ。それは教室や町の中ではとても見えづらい。建物が多すぎて光を遮ってしまうことが多い。星もとてもきれいに輝いているのに町では見えづらくなってしまう。だから僕はそういったものがないあの河原やこの場所がとても貴い場所に思える。こういった場所は今とても少ない。それはとても悲しいことに思えるよ。成瀬君もそんな風に感じないかな。」

一之瀬はどこか辛そうな声で語った。

智也はすぐには返答できなかった。一之瀬が言っていることがよく分からないだけではない。

今まで見たことのないさびしげな一之瀬の声色と姿に少しおどろいたからだ。その姿は」はかなく、悲しげで、消えてしまいそうな姿だった。

これが本当の一之瀬の姿なのだろうか―。

一之瀬がここを好きなように、自分もあの河原が好きであった。その理由はただ雰囲気だけの問題ではない。

智也自身にもわからないが、もしかしたら一之瀬と自分は似たような想いを抱き、似たような別々の場所を憩いの場として好んでいたのではないかと思った。そうして一之瀬はこの屋上の他にも、つまりはあの河原を見つけたのではないか。そしてなぜ自分があの河原やこの屋上のような場所を一之瀬と同じように気に入っているのだろうか。空や星、風といった自然なるものが別段好きであると意識は智也には特に無いように思う。自然と触れ合う―。

例えば山登りや、河原で遊ぶことが智也は好きというわけではない。一之瀬の言うことや、感じていることが智也にはまだよくわからない。ただ、少しくすぶる思いが智也の心に生まれていた。それは智也にはまだはっきりと認識できるものではなかった。

「よくわからないけど、こういう場所が少なくなっていることは悲しいね。ここみたいに気持ち良くて落ち着けるところがないのは確かに嫌だ。」智也はゆっくりと答えた。

「そうか。なら一つ聞こう。君はここやあの河原以外で落ち着く場所があるかい?」

再び智也は考えた。

―ここやあの河原以外に落ち着けることができるか?

普段の生活を思い描いてみる。まず真っ先に候補から外されるのは学校や予備校だ。

この二つはあまりにもまわりの雑音が多すぎる。聞きたくないこと、どうでもいいこと、不快になること、中でも一番嫌なのはこの前講師に言われたような言葉だ。まるで自分の好きなものや、生き方を無視して標語のように語られる。社会的には奇麗であろう言葉。その言葉を教師や両親は自分の言葉でもないくせに、これが当たり前のような口ぶりでその不快な言葉を垂れ流す。そういった言葉や音が自分の意思にはかかわらず絶えず耳に入ってくる。耳をふさぐこともできない。なぜなら耳をふさいでしまうとなぜお前だけそうなのだ、みんなと違うのだ、空気を読めないのだと、おかしな奴だと思われる。そして周りから奇異の目で見られ、共同体のメンバー像とは違った、それもマイナスなイメージを勝手に周りは抱き始める。それだけならまだしも、事の大小はともかくそれがひどくなると、心理的、あるいは肉体的にも疎外されてしまうことがある。そうなるとその共同体で生きていくには苦しくなる。だから耳をふさげない。嫌な事でも耳を傾けそれに従う努力をしなくてはならない。そういったものひどくは鬱陶しく感じる。

少し思考が脱線したがとにかく学校や予備校は論外だ。

なら街はどうか。だがこれも微妙だ。なにせ人が多い。それならあとは自分の家しかなかった。この空間ならどうなのだろうか。智也の家庭は世間から見たらいたってこの国では普通と思われる形態であろう。父親は普通の電機メーカーのサラリーマンで名前は晴夫、性格は落ち着いていてよく穏やかな人柄である。趣味は小説を読むことで、よく智也は父から本を借りる。母親は週に三回のパートをしている、名は頼子という。普段は優しいのだが教育に関すると少し神経質になることが只々あり、智也の悩みのタネとなることが多かった。兄弟はいない。だが、時々母から口うるさく言われることもあるが、家族の中は決して悪くはなかった。ただ勉強に関しては少し思うところが智也にはあった。

例えばテストや模試の結果が返ってきたりして両親の一喜一憂する姿を見ると気が滅入るときがある。親なりに期待しているのだろうが、ストレスになっていることをもう少し考慮してほしい。その上講師同じようにもっとがんばればいいところいけるなどとはっぱをかけてくるときがある。そして智也は成績に関してはこれで満足していた。成績も恐らく推薦がもらえるほどには保っている。志望大学も目処がついている。それなのに家族は上を目指せという。居間で飯を食う時にはそんなことが多い。だから居間も除外する。

そうなると残ったのは自分の部屋だ。ここは一番多く時間を消費している場所だ。だから快適に感じられるように環境を整えようとするのは必然だ。部屋はなるべくきれいにしてある。勉強道具もなるべく机に置きっぱなしにしていることは少ない。そもそも勉強はなるべく予備校の自習室でするようにしている。自分の部屋では極力やらない。だがそれでも余計なことを考えてしまう時が度々ある。学校とかと比べるとマシというぐらいだ。そう考えると―。

「そうだね。強いて言えば自分の部屋だけど、本当はないのかもしれない。」

夕日が段々と空一面に広がってきた。そろそろ暗くなり始めるころだろうか―。

「そうか。そう感じているのか。嬉しいけど、悲しいね。」

どういうこと、と智也が訪ねようとしたらいつの間にか一之瀬が体を起こしていた。智也の顔の近くでチャリンという金属の音が響いた。

「その鍵はここのスペアの鍵だよ。君が良かったらいつでも自由に来てくれ。」

その鍵を手繰り寄せて、手にとってみる。普通の鍵だった。

「今日は用事があるから帰るね。成瀬君。よかったらまた来てくれ。歓迎するよ。」

一之瀬は笑っていた。少し不安になるような笑みだった。

「そう。僕はここでもう少しゆっくりしているよ。今日はありがとう。」

智也は体を起こして言った。

「この前と逆だね。それじゃあ、また。」

そういって一之瀬は行ってしまった。もう一度空を見上げてみる。心地いい風が吹いていた。空を見つめる―。夕日がとても鮮やかで美しかった。この夕日ももう少ししたら暗くなっていくのかと思うとすこしさびしく感じた。けど、それはとても神聖で、美しいことのように智也は感じた―。

 しばらくしたら、智也は一之瀬からもらった鍵を使って屋上の扉を閉め、自分の家に向かった。空は少しだけ暗くなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青い壁 九月二十七日

九月二十七日

 

 今日も一日の授業のチャイムが鳴る。

滝本が連絡事項を生徒らに告げると、後はいつも通りにみんな席を立ちあがり、散っていった。部活動がある生徒は足早にグランドや特別教室に向かう。この学校は部活動の数が他校と比べて多くないらしい。

翔太の入っている運動部の花形の一つであるサッカー部が練習に熱心ではないのである。聞くところによればもう一つの花形、野球部も真面目にはやっているが成績は芳しくないらしい。ほかの所も似たり寄ったりである。

帰宅部である智也は、いつもはまっすぐに家に帰るはずなのだが、今日は違かった。

教室を出るときに翔太とすれ違った。「またなー、智也。」と、いつもの軽い態度で声をかけられた。「あぁ。じゃあね。」と普段よりもそっけない態度で答えた。翔太はそんな智也の態度も全く気にせずに、サッカー部の友達であろう、髪の長い男の奴と一緒に、教室を出て行った。

「……。」

―昨日は予備校だった。だから放課後はすぐに家に帰って、準備をしなければならなかった。だが今日は違う。特に用事はない。いつもはすぐに家に帰って、本を読んだり、予備校の課題をやっていた。だが今日は違う。ポケットの中にある一之瀬から貰った、屋上のカギに触れてみる。特別なことはなくただ金属の冷たさを感じた。

―屋上に行こう。

それは何か特別な理由があるわけではなかった。智也には珍しいことだった。翔太に遊びに行こうと誘われる時も決して、智也自身から動いたことはこれまでほとんどなかった。自分から他人に対して動いたことがあるのは、特別な用事があるときだけであった。

―自分でも少し驚いていた。何に惹かれているのかはわからない。ただ、空を見たいと思っただけ、そしてあいつとまた話してみたいと思っただけであった。

「行こう。」

そうつぶやき、智也は静かに席から立ち上がり、教室をでていつもとは違う、屋上に向かう廊下を歩いて行った。

 少しだけ周りを見渡す。教師や生徒の姿は見えない。もうこの時間になるとほとんどの生徒は帰宅しているか、部活に精を出しているかであった。教師も職員室に戻り、よく知らないが、各々自分の仕事をし始めようという時間だと思われる。

そして周りに誰もいないことを確認したら足早に屋上へ向かう階段を上って行った。そして扉の前にたどり着いた。自分のポケットの中にある鍵を取出し、ドアノブに差し込んだ。かちゃり、という心地いい音がした。そしてこの前と同じようにドアを開いたら、扉からあふれる光が智也を包んだ。

 少し目がくらむー。最初はただこの前と同じように光で何も見えなかった。だがそれも一瞬であり、徐々に視界に色を取り戻していく。上にはいっぱい青と少しの白い雲、眼下にはコンクリートの無機質な灰色が広がっていた。

その奥の中心に、彼はいたー。

「やぁ。成瀬君。また来てくれたね。」

一之瀬は振り向いた。少し吹いている風がサラサラと僕らの髪を撫でていく。

「うん。また来たよ」

我ながら変なあいさつで少しおかしかった。一之瀬の所に近づいて行く。風が気持ちいい。先ほどまでいた教室や、廊下とは違いここでは精神が解き放たれるような気持がした。一之瀬の隣に立ち、空気を大きく吸い込み、吐いた。フェンス越しの景色を眺める。体の中にある毒素が排出されるようであった。

「一之瀬はだいたいいつ頃にここに来るの?」

智也が質問する。

「いつ?うーん、あまり考えたことないな。行きたいと思った時に来る。」

「ちなみに今日は?」

「今日は昼休みぐらいからかな。午後の授業に出るのが嫌だった。」

智也は吹き出した。

「なんだ、それ。まるで不良じゃないか。」

一之瀬はぽかんとしていた。目にかかりそうな髪が風で揺れている。風景と見事に合い、一枚の絵のようだ。

「不良?よく分からないな。」

ほんとに分からなく困惑しているようだった。そんな一之瀬の姿がなんだか面白く、智也はこみあげてくる笑いを抑える努力をしなければならなくなった。そんな中、智也に一つの疑問に思った。

「ごめん、ごめん。気にしないで。でも一之瀬は一学期の頃からよく早退していたけど、もしかしてずっとここにいたりしたの?」

そう聞くと一之瀬は少し困ったような顔をした。

少しの間、微妙な沈黙が流れた。そんな一之瀬の様子を見て、智也は一つの考えがぼんやりと思い浮かんだ。自分は一之瀬の触れられたくないところに安易に触れてしまったのだろうか―。

例えば一之瀬が重たい病気なんかを患っていたら、それは一之瀬にとっては気軽に話せる話ではないはずだ。あくまでもそれはたとえ話だが、もしかしたら一之瀬自身聞かれたくないことだったかもしれない。智也はそんなふうに考えた。そして戸惑いを感じ始めた時、そっと一之瀬が口を開き始めた。

「そうだね。一学期の頃はね、授業を抜け出してここには何度か来たことがあるよ。でもここに来るよりも、家にいた方が多かったかな。」

一之瀬は少し遠い空を眺めながらいった。ここではないどこかを見ている眼。気が付いたら消えてしまいそうな感じだった。一之瀬の一瞬見せるこの雰囲気は、空という風景と溶け合っていた。河原の時と同じ雰囲気を智也は感じた。

「成瀬君。」

ふと、一之瀬が自分の名を呼んだ。反射的―だが、ゆっくりと智也は一之瀬の方に目を向けた。

「君は、生きていて息苦しさを感じないかい?」

さっきまでとは違う、心の中を見透かされるような澄んだ瞳が智也に向けられていた。智也はどきりとした。直観的なものであるが、一之瀬のその眼は屋上に案内された時や、さっき会話していた突起のような楽しげなものではなかった。もしかしたらこれが一之瀬の本質なのかもしれない。例えるなら懺悔室で罪のすべてを告白しなければならないかのような雰囲気を醸し出していた。

智也は息をすることも忘れてしまうくらいに、一之瀬の瞳と言葉に惹きつけられていたのかもしれない。すぐには返答できなかった。

それは頭には言葉が思い浮かばなかった。

しかし心では吐き出したいものがあった。それらは今まで智也が心にため込んできて来たものなのかもしれなかった。その鬱憤の正体は智也自身にも理解することができない。ただもやもやと胸の中にあり、時々それが大きくなったり、小さくなったりしていた。それは自然と、ゆっくりと智也の口から出てきた。いや吐き出していた―。

「そうだね……。そんな風に感じることは何度かあるよ。」

智也は空ではなく下のコンクリートに目をおろし、呟き始めた。

「なんていうかな……。みんな、その教員とか、家族とか、クラスとか、僕の場合予備校とかそういうの、時々何もかも面倒に感じることがあるよ。いや、時々ではないな…。この頃はしょっちゅうだ。みんな、うるさいんだよ―。」

 いろいろなことが智也の頭の中を巡っていた。教員に言われる余計なこと。自分の思っていることも勝手に決め、勝手に期待してくる家族、その他の人間関係。毒素を吐き出すかのように智也はどんどん言葉を吐き出していく。フェンスを握る力が強まる。

「僕はやることは一応きちんとやっている。でも、みんなは上を目指せ、上を目指せって念仏のように唱えてくる。それは確かにいいことだと思うよ。社会や世間体的にはね。僕もそれなりに期待には応えてきているはずだ。ずっと、ずっとそうしてきた。」

 言葉が自然に紡がれていく。いつもの智也とは違って、饒舌に―。智也自身も驚いていた。だが、言葉は続く。知らない自分が喋っているように感じられた。

「それなのに、まだ言ってくる。本当に思っていることなのかどうか疑わしくなってくる。まるで見えない言葉、いや価値観か概念みたいなものの壁が僕の周りにあって圧迫しているような感じだ。そんな圧迫を感じると無性にイライラする。時間がたてばそんなこともなくなるけど、それでも壁は消えてはくれない。最近はイライラする頻度がおおいかも。イライラするだけならまだしも気分が落ち込むこともあるからね。そうなったら最悪だ。教室でもそうだよ。特に興味もない話をいやというほど聞かされて、周りに同意しなくてはいけない雰囲気があるんだ。そうだ、これはおかしい。脅迫されているかのような、そんな感じがあった。そういうのはひどく疲れる。だからクラスとかにもあまりいたいとは思えない。息苦しい―。確かにひどく息苦しい……。」

 智也は吐きそうになった。自分がこんな発言をするなんて思えなかった。だがこれは嘘偽りのない自分の本心だということが確信できた。この前予備校の講師の面談の不快感。そういったことは前からよくあった。

こんなことを胸にため込んでいたのか―。

自分でもきちんと認識できていなかった気持ちだった。気分が悪くなる。智也は口に手を当てた。本当に嘔吐しそうなわけではない。ただ口をふさぎたくなった。衝動的な行為であった。これ以上吐き出さないように―。

 けど―。

そんなことをする必要がどこにあるのだろうか。

 

一之瀬の瞳は変わらない。ただ風の音だけがほんの少しだけ聞こえる。それが今の二人が感じられるすべてであるように感じられた。

 すこし間を置き、口を開いたのは一之瀬であった。

「そうか。それはとてもつらいことだよね。うん……、分かるよ。僕もね、君と似たようなことを感じたことがある。」

智也はゆっくりと視線を一之瀬に向けた。少し驚いていた。一之瀬が自分の支離滅裂な言葉に共感を示していたからだ。だがその一之瀬はどこか虚ろな表情をしていた。

「……一之瀬も?」

智也が低い声で呟いた。

「うん。だから学校に来るのが嫌だった。―でもこの屋上やあの河原を見つけた。」

 突然風が強くなった。智也はとっさに腕で風を遮った。一之瀬はその風を全身で受け止めていた。一之瀬は風の中語り続けた。

「この空やあの河原の風景は、透き通っていた。僕を苦しめるものは何もなかった。学校や家は本当に気持ち悪かった。みんな同じことを言うからね。ほんとに煩わしい日々だった。周りが人のカタチをなした悪魔か何かに思えたよ。」

 一之瀬はそう吐き捨てた。普段からは考えられない態度だった。だが智也は妙な共感を確かに得ていた。

「一時的にとはいえ解放された。ここや河原だけが僕の心の居場所であるように思えた。成瀬君も似たようなことを感じたのだと思うけど、どうだい?」

いたずらっ子のように一之瀬は微笑んでいる。

―そうか。そういうことだったのか。

智也は自分が時折感じている粘ついた不快感と、河原での気持ち良さの本質の輪郭を初めて意識できた。僕は周りが煩わしく感じていたのだ。決まったことを当然のように言う大人、それがいつしか不快な雑音にしか聞こえなくなった。クラスでも同じことだ。不快な音でしかない。そしてここや河原はそんなものとは無縁の聖域だった。何も智也の心に鑑賞してくる存在はそこにはいなかった。智也は空を見上げた。風が吹いている―。

そして目の前には一面の青。美しかった。この風も合わせた風景が何よりも貴く感じられた。

「そうか。僕は雑音のない静かな居場所を求めていたのか。」

心が軽くなっていた。さっきまで感じでいた吐き気ももう嘘のようになくなり、すっきりしていた。風がいつもより心地よく感じる。

「ありがとう、一之瀬。やっと解放されたような気がする。」

きっとまだいたずらっ子のように微笑んでいるのだろう。智也はそう思ってもう一度一之瀬に目を向けた。だが一之瀬は先ほどまでとは違い、冷たい表情をしていた。

「でも、成瀬君。壁は取り払われたわけではないよ。」

風がまた強くなった。それはどうゆうことか智也は聞こうとした。だが、

「風が強くなってきたね。悪いね、僕はそろそろ帰るよ。」

いうが早く、一之瀬は背をむき扉と向かっていった。智也の胸にはすこしの不安が芽生えていた。だから少し遠くに行った一之瀬に聞こえるよう声を少し大きくして、問いかけた。

「さっきのどういう意味?」

一之瀬が動きを止めゆっくりと振り返る。

「君なら、すぐにわかるさ。」

そういって、一之瀬は姿を消した。智也はその場で立ち尽くしていた。

―どういうことだ?

智也は一之瀬の言ったことを反芻した。だが、この時の智也にはまだ理解できなかった。呆然とする智也の上には変わらず青い空があった。風は前より少し冷たくなった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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