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 1階に出て、もう一度飛び込むとあとは口を大きく開けたり閉めたりして顎の痛みを消そうとする男どもと、ボタンを操作していた小林だけになった。


 私がシンくんと出会ったのは危ない町でのことだった。私はハローワークでさんざん待たされて、イライラしていたため、紹介状をもらい、自販機で「氷結」を買って、飲み干して、ポケットを探ると小銭しかなかった。電車賃くらいにしかならない。また母から借金をしなくてはならない。
 職安通りを歩いていると、人が倒れていた。髪を短く刈り込んだ男で、血だらけになっていた。声をかけた。返答があるため、死んでいないことが分かった。
 「警察に知らせようか」
 「ダメです、ママが怒ります」
 「でも、そのケガ、酷いよ、とりあえず病院に連れて行こうか」
 「病院もダメです」
 話していると、私の自宅に連れて行くことになった。信現と言う名前で、寺の後継ぎというより住職であることが分かった。なぜシンくんを運ぶことになったかといえば、金を持っていたからであった。
 自宅に着くと、私の母が出てきて、血だらけのシンくんを見て、誰なのか尋ねた。母はなぜ病院に行かないかと言うことも聞いたが、シンくんはママに怒られると言うだけであった。
 傷は恐らく4針は縫わなくてはならない切り傷で、あとは顔が腫れるような内出血があった。母は切り傷を見て、
 「ここは縫わないといけないわ」と言うと、
 「ママがひどく怒るんです」と言った。
 「ママに怒られるもなにも、…しょうがない、おばさんが縫うわ」
 シンくんが、そうしてください、と言うので母は、消毒エタノールをかけ、傷口を縫うことにした。私の母は以前洋裁に凝って雑誌をよく読んでいた。
 「いたっ」
 「母さん、そりゃ無理だよ、それって縫い針でしょ、外科が使うのは釣り針みたいなものでしょ」と私は言った。
 「昔テレビでラグビー選手がケガをしたとき、こうして縫っていたのを見たことがある」と母は言った。
 「いたっ」またシンくんが顔を歪めた。
 「うるっさいわね、病院に行けばいいのに、断るからよ」
 4針ですむところを7針くらい縫った。
 氷を入れたジップロックで顔を冷やすと、シンくんは小便に起きるとき以外は眠っていた。母が
  「動物はああやって自分でちゃんと治すのよ。それより、仕事はどうなったの?」
  「ああ、紹介状はもらったんだ。まず望み薄だね」
 三日後、シンくんはどうにか布団の上で起きていることができた。今日は面接日だ。私はシンくんと話をした。シンくんが次のような話をし出した。


 シンくんのママは教育熱心で、シンくんはあまり勉強が得意ではなかった。
 シンくんのママへの依存は大人になっても直らなかったし、大学受験のときにママは鬼のようになってシンくんを叩き上げ、合格させたが、シンくんは変調をきたし、薬物療法と精神科のカウンセリングで、現在なんとか住職として生活している。
 親として嫁が来ないとなると、あととりがいなくなり、寺を明渡すことになると考えたママは、お見合いをさせた。ところが、お見合い当日にシン君はもじもじしていると、ママが話し始めて、ちょっとした拍子に子供のことを話し出した。
ママの言うには、子供は必ず男の子で、シンくんのような性格で、寺のあととりとなってもらう。それから大学に行かないとだめ、それには、初夜にマジナイをかけるから、私は側にいます、こういうのもシンも年をとると精子の数は少なくなり、それだけ繁殖能力が落ちるためです、と言い、相手の父親は怒り出した。
 お見合いが駄目なって、友人からノーマン・ベイツみたいだ、といわれ、やけを起こしたシン君は、友人から止めておけといわれたのに、街頭で女を5000円で買って、ママに連れられ、泌尿器科に行った。すると、単なる尿道炎で、性病ではないことが分かり、ママはすごく安心して、すごく怒った。ところが、この出来事で、相手の女が、怖い人とつながりがあったため、シンくんをゆすろうと考えたらしく、怖い人が寺に来ることになった。ママは少しも動揺はしなかったものの、シンくんはベルの音、電話の音、車の音を聞くとびくびくして、薬の分量が多くなったが、それでも現実に起こっているわけで、治らず、シンくんはあるとき家出をした。2,3年ほどして、寺に戻ったシンくんは、見違えるほど精神的にも進歩した姿だったが、あるときママが、あなたは一度ママを捨てたのね、と、ことあるごとに言われ、再びなよなよした元のシンくんになってしまった。ママには逆らえないよ、と、こぼすことが多くなった。
 ママがそこまでシンくんを縛り付けるのは、ママの夫で、前の住職であったシンくんのパパが樹海で心中をしたためであった。相手が檀家であったために、ママはこっぴどく攻め立てられて、いまの寺に移ったときに、5歳のシンくんを間違いがないよう管理しだしたのであった。シンくんには罪がない、とんだとばっちりを受けたのだ。住職としてシンくんがボランティア活動をするときでも、ママは女の人に根回しをして、シンを誘惑したら、ただじゃおかないわよ、と脅かし、そうこうしているうちに、シンくんの所作が女のようなっていったため、オカマが寺にいる、オカマが寺にいる、という悪口が流れだし、シンくんはますます悩んだ。やけを起こしたシンくんは再び危ない町へ向って、けがをしたところを私と会ったのだという。話し終えたシンくんが、眠ると言うので、面接に向った。

 

 面接場所は新宿で、30分前に着いたため、バッグからi-podを取り出し、聞いていた。すると、一人の男が近づいてきて、
 「そんなイヤフォンをしていて、聞こえるんですか」と尋ねた。
 「時間を見ているんですよ」


 「あの、ここから徒歩で品川に行くにはどうしたらいいですか」と訊いてきた。
 どう考えたって新宿からは遠すぎるので、
 「電車で行ったほうがいいです、徒歩じゃ無理ですよ」と答えた。
 「お金がないんですよ、それより、ぼく日本人じゃないんですよ」
 「言葉たいへんでしょ」
 「三ヶ国語話します、中国語、英語、フランス語です」
 「すごいですね」
 「ヤ、ヤ、ヤ」盛んに「ヤ」と繰り返した。
 こういう人を私は嫌うし、薬物でもやってそうな目つきなので面接時間なので行かなくては、とガードレールから道路に出ると、自動車に跳ね飛ばされた。私は頭をフロントグラスにぶつけて意識を失った。
 意識が戻ると、母が傍らで本を読んでいた。
 「何の本を読んでるの」
 「赤い鬼」
 「知らないよ」
 「部屋に赤い金魚を見る男の話し。誰も信じてくれないの。」
 「誰が書いたの」
 「同級生、それより眠りなさいな」
 「今、何時」
 「3時よ、昼の」
 「こつこつ音しない?」
 「近くで工事してんのよ」
 長く深い眠りが訪れ、私は夢の世界の入口に吸い込まれた。

 

 私は紺碧の空の下に一面広がる赤い砂漠にいた。しばらく砂に足を奪われつつも歩いていくと、レールが見え、そこに古い都電がやってきた。都電に乗り込み、市場の雑踏の中を都電はゆっくり進んだ。人々は都電を迷惑そうによけ、走る都電から私は降りた。アナウンスで、この都電は事故になると伝えられたからだ。市場には赤い、青い、黄色い、薄いグリーンの魚が並べてあり、その店では見たことのない文字で書かれた紙がぶら下がっていた。恰幅のいい女が主人であった。見慣れない形のジャガイモ、トマトも売っていた。市場を歩いていると、オイルで汚れた垂れ幕の細い路地があり、覗いてみた。通信機があり、男がアラビア語で通信している。その垂れ幕が揺れ、その路地から女が出てきた。
 「ちょっと来て」そう女が言った。
 私は女とともに市場を歩いた。大きなスチール製のごみバケツを子供が抱えて横切った。
 「こっちよ」と女が言い、再び路地裏に入った。その路地にはアラビア語で書かれた古新聞が液体に濡れて敷き詰められていた。新聞を踏む音を立てながら路地を抜けると、
 「さっきの人はスパイなのよ」と女が言った。
 「ここはアラビアですか?」
 「違うわ、アフリカよ」


 どう見ても私の家の近所であった。石垣の上には白い網がムベに絡まれ、アケビのような実をつけていて、その外壁の中は上に向かって、三段に作られている庭である。小さいころこの庭によく入っておじいさんに怒られた。その最上段は日の光で薄ぼんやり輝く白い母屋になっていて、光を取り入れるサンルームが見える。ぼんやりしているのは庭で焚き火をしているためだ。その焚き火の煙のせいで庭に植えた樹木の上に鳩が巣を拵えているのだが、鳩はもう耐え切れず、飛び立っていた。ここが彼女は「アフリカ」だと言うのだ。
 「わたし、モグラの兵隊なの」女は言った。
 「なに?モグラの兵隊って?」
 「ああ、あのね、これ持っているはずよ」と女はいって、懐から黄色いキャップを出した。
 「これね、被ると地面に潜れるのよ、持っているはず。」
 ポケットから出すと寺から来た手紙で法話の案内だった。女が見せて、というので渡すと、
 「これ、シンゲンって読むのかな?」
 「あ、そうだよ、シンゲン、頼りないお坊さんだよ」
 私はさらに女に引きつられて、団地に入った。子供の背丈くらいの大人が5,6人車座になって花札をやっていた。
 「一言も声をかけないで」女が注意した。
 エレベーターに乗って、降りると、公園があり、その隣に2階建ての消防小屋が見えた。誰も住んでおらず、赤い三輪車がガラス戸の内側に見えた。
 「この建物誰も住んでいないのよ」と言って鍵をあけている。狭い階段を上がると、畳の部屋になっていた。埃っぽい臭いがした。昼の暖かな陽射しが窓から部屋を照らし、開け放たれた便所の白い便器が影を作って目に入った。
 「ちょっと来て」というので付いていくと風呂場に案内した。青い小さなタイルの風呂場で、ここも部屋と同じく陽射しで鈍く光っていた。時間が止まったかのようだった。女は風呂場の水道から洗面器に水を張った。
 「さっきの手紙くれる?」女に手渡すと、洗い場の排水溝に詰めた。
 「詰っちゃうよ」
 「大丈夫、溶けるから」と言って、洗面器の水を流した。手紙は渦を巻いて流されていった。
 「さてと、今度はトイレに来て」
 女がトイレのレバーを動かすと水が乾いた便器に流れた。タンクの裏を手探りで女が探っている。
 「あった…」黄色いキャップを引きずり出し、私の頭にかぶせた。
 「いま、潜っちゃダメよ」
 女が畳に寝っころがって、足先でテレビのスイッチを入れた。使われていないブラウン管に電気が流れる音がして、映像が浮かんだ。とても背の低いジェームス・ブラウンがバイクのゴリラに跨り、走り去る、ジーンズの宣伝であった。
 「これからワイドショーを見るけど、いいかしら?」
 「かまわないよ」
 しばらく見ていると、博愛協会の宣伝が始まった。内容は貧困問題に対して博愛協会は援助をしているということと、特別施設での教育に力を入れているということが長閑な音楽と自然風景を映し訴えている。


 最後に小林を囲む多くの子供たちが「ありがとう」と叫ぶと、小林が一人だけ芝生の上に立ち、「皆様に真心込めて博愛協会はご安心をお約束いたします」と言って終わった。
 「なんだこれ?」と私が言うと女は退屈そうに
 「小林。ペテンとキリストが混じった変な奴」
 「何している人なの?」
 「力があるっていうだけ、金を持っているんだって」女がうんざりして言った。
 押入れから音がする。誰かが入っているようだった。私が立ち上がって、押入れをあけると、シンくんが汗をかいて正座をしていた。
 「シンくん、何してんのこんなところで?」
 「知らないよ」
 女が立ち上がって、シンくんを仰向けにして、上に体を乗せた。シンくんは抵抗したが、女はシンくんの両手を抑え込んだ。
 「あなた焼いてるの?」と女が私に言った。
 「べつに」
 シンくんはお経を唱えた。死体と性交しているみたいだった。
 シンくんは素早く動いて、暗い部屋の隅で膝を抱えて座っている、そんなシンくんを女は笑って、私に振り向いた。
 「わたしのこと好きかしら、あのね、シンくんをダシにカマかけてみたのよ」
 それから女と私はぎこちない付き合いを始めた。
 「この黄色い帽子を持っていると、モグラの兵隊なのかい?で、モグラの兵隊って何をするの」
 「追っかけまわされるのよ、食事しに、植物園に行かない?」女が誘った。そして部屋の隅で沈んでいるシンくんに女は黄色い帽子を投げつけた。女は、シンくんに向って
 「あんたも兵隊の一員にしとくわ、役に立ちそうもないけど」と捨て台詞を言った。

 

 植物園の中に東南アジアのある国があった。軍事政権の支配下にある国だった。私はそこで兵隊の行進にもまれながら、一軒のレストランに入った。主人は色黒で、カンボジア風の顔立ちをしていた。
 「どうです、この料理、おいしくありませんか?」と主人が一口も口にしない私に言った。
 女が雰囲気を壊さないで、という感じで
 「いいから、騙されたと思って食べてごらんなさいよ」といった。
 魚と野菜に香辛料と香菜が一枚の皿に盛られている。女は平気で食べている。私たちの後ろは大きな棚になっていて、グラスや酒瓶が並び、店には主人しかいない。ウエイトレスがいない。床は黒光りしたかなり使い込んだ木でできている。午後の静かな植物園の木々の間に割り込むように優しい陽射しが店を明るくしていた。
 「ね、食べなよ」女が言った。
 私は異国の食事に抵抗を感じながら一口食べた。口の中に不思議な香りが満ち、勝手に舌が動くような気がした。急に腹が空き始め、次々に平らげていった。
 「ね、おいしいでしょ」
 「ああ、うまい」



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