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第4話「Don’t look back in anger」


 1


 地方から上京してくる人間にとって、一番わかりやすく東京を感じさせてくれるのは、やはり新宿だと思う。別に豪雨でなくたって良い。
 バンドをやるために地方から出てきた僕にとっての聖地はやはり下北沢だったけれど、ライブを重ねたのは新宿のほうが多い。他には渋谷、青山、代官山、代々木など。当時、六本木には、別にライバルってわけではないのだけれど、僕らとは相反する別勢力(?)がいたので、そちら方面はあんまり馴染みはないのだけれど。
 そんなこんなで、久しぶりに新宿のとあるライブハウスに来ている。解散してから、出演はもちろんのこと観客としても来たことはなかった。ただ、僕らのバンドのドラマーだった羽鳥が是非来てくれというので、足を運んだのだ。
 仕事終わりの午後八時。羽鳥のバンドの出番は八時半頃らしいので、ギリギリセーフだ。当たり前だけれど、若い人たちが多い。まぁ、四十代のおじさんとかもいるにはいる。けれど、空気感というか雰囲気ってのは、やっぱり若者のものだ。
 これまで何度も足を運んだ空間なので、今更ライブハウスの雰囲気に気後れすることはないが、それでもなんとなく収まりの悪さを感じるのは、今僕がスーツを来ているからであり、どこからどう見てもサラリーマンにしか見えない男は、やはりこの場の雰囲気の中には溶け込めないからだった。
 ドリンクカウンターで、ビールを注文する。緑色の髪の女の子が無愛想に手渡してくれる。僕のこと……、まぁ知らないだろうな。
 今演奏しているのは、キンクス風のブリティッシュロックに日本語の歌詞を付けたような女の子三人組。センスは悪くないけれど、やはり演奏が拙い。カタカナ英語も気になるけれど、それはそれでヘタウマ感がある。僕は一旦ホールを出て、休憩することにする。
 ロビーでは、出番の終わった出演者とお客さんたちが談笑していた。一日に何バンドかが出るブッキングのライブでは、みんな目当てのバンド以外はあまり見ない。すぐ帰る人もいれば、こうやって適当に会話をしたりしている。
 僕は所在がないので、ちびちびとビールを舐めながら壁に貼られているフライヤーを眺める。知っているバンドは一つもなかった。みんな個性的だな。今時のフライヤーには、楽曲試聴用のQRコードまで付いている。サンプル音源がダウンロード出来るようだ。良い時代になったもんだ。って、たかだか一年ちょっと前まで僕もこの場所にいたのだけれど。時の流れは早い。
「益一郎くん……?」後ろから声をかけられる。
「あっ……、久しぶり……」僕は振り返る。一瞬だけ、呼吸が止まる。
「なによぅ。そんなあからさまに気まずい態度取らないでよ」彼女は笑う。
「いや、そんなつもりはないのだけれど……」
「でも、本当に久しぶりだね。三年ぶりくらい?」
「会うのは……、そうだね」
「益一郎くん……、本当に就職したんだね。コスプレみたい」
「それ、羽鳥にも言われたよ」
「まぁ、頑張ればジャーヴィス・コッカーに見えなくもないかな」
「頑張れば……?」
「うん。メガネくらいは」
「メガネ限定かよ」
「まぁ、でも相変わらず、かっこいいね」
「知ってる? 相変わらずってのは、悪口なんだよ」
「そうなの? でも、別に褒めてないから」
「え?」
「フフフ。嘘だよ。なんかそういう慌て方、変わってないね」
「そうかな」
「そうだよ」
 まったく。相変わらず調子の狂う人だ。
 三年ぶりに再会したその女性は、桜井しずくさん。バンドをやっているときに、よく対バンしたりイベントで共演したりした、インディのシンガーソングライターだ。
 彼女はピアノの弾き語りを中心に、時々バンド編成でもライブをやっていた。僕も曲を提供したり、彼女のライブでサポートでギターを弾いたこともある。
「あ、そうそう。益一郎くん、結婚したんだって?」
「あ、うん。おかげさまで」
「私、知らされてないんですけど?」
「あ、ごめん。でも、その……」
「嘘だよ。まぁ、普通言わないよね」
「うん。たぶん……」
 そう。普通あまり言わないだろ。
 元カノには。


 2


 羽鳥のライブを見終わった後、打ち上げに誘われたけれど、終電も近いので辞退する。

 が、しかし。

 なぜか、しずくさんが付いてくる。
「あの……、えっと……?」
「なによ? 逃げなくたって良いんじゃない?」
「いや、僕、帰るから……」
「既婚者位相手に変な真似しませんって。良いでしょ、別に。ちょっとお茶でもしていこうよ。終電まだでしょ?」
「いや、けっこうぎりぎりなんだよね」
「でも、終電はまだでしょ?」
「まぁ、そうだけど……」
 こんな感じに押し切られる。駅の近くのイタトマカフェに入る。僕はコーヒーを、彼女はロイヤルミルクティーを注文する。
「実はね、益一郎くんが結婚したの、噂では聞いてたんだ」
「あ、そうなの?」
「うん。まぁ有名人じゃん?」
「よく言うよ」
 こんな風に向かい合って話をするのも、何年ぶりだろう。
「どうして音楽やめちゃったの? 解散、突然だったよね」
「それは噂になってないの?」
「なってると思う?」
「ほら、有名人だからさ」
「フフフ。噂は色々あるよ?」
「そうなんだ」
「聞きたい?」
「うん」
「何種類かあるんだけどね……」
「何種類もあるのかよ」
「益一郎くんの彼女が、極東なんちゃらとかいう元暴走族の女で……」
「実話ナックルズかよ。あぁ、そんな噂まであるんだ」
「有名人だね」
「しがないインディバンドだったんだけどな」
「よく言うよ。それで、本当は?」
「まぁ……」僕はコーヒーを一口すする。「色々かな。才能の限界っていうか」
「ウソ。まぁ、言いたくないんなら聞かないけどさ。それで、今は何やってるの? 会社員?」
「正解」
「ふーん。益一郎くんがね……」
「感慨深いでしょ」
「どうかな〜」
 それから、他愛もない世間話をした。現在の彼女は音楽活動を休止しているらしい。僕と同い年だから、彼女も今年で三十歳だ。
「正直ね……。この歳になると、いろいろとあるよね」彼女はスプーンでカップの中身をかき回す。「才能とか、そういうんじゃなくてさ。周りの環境っていうかなんていうか。そういうので、音楽なんかやっていられなくなったりするんだよね」
「なんかあったの?」
「うん。お父さんがさ、脳梗塞になって」
「え、大丈夫なの、それ」
「まぁ、命に別条はないんだけど。私、他に兄弟もいないからさ」
「そっか……」
「あ、そろそろ時間厳しいね。ごめんね、付き合わせちゃって」
「いや、いいけど」
 テーブルの上のカップを、彼女は両方持つ。
「自分でやるよ」
「いいの」
 彼女は、それを下げ台まで運び、店を出る。僕は、彼女の後ろ姿を見つめながら、後を追う。
 駅までの道すがら、彼女は一言も発しなかった。改札を抜けて、それぞれの行き先のホームへ向かう。
「益一郎くん」
「ん?」僕は振り返る。
「あのね……」
「何?」
「曲、作ってもらえないかな」
「え?」
「益一郎くんに、私の曲、作って欲しいの」
「いや、だって君はシンガーソングライターじゃんか」
「前にも作ってくれたじゃん」
「それは、なんていうかさ……。それに、僕はもう辞めた人間だよ」
「関係ないよ。私、もう音楽活動出来なくなるかもしれないから。最後に、益一郎くんに、曲を作って欲しいの」
「いや、でも……」
「まぁ、ちょっと考えてみて」
 彼女はそう言って、ホームへの階段を上っていった。
 
 曲を作る、か……。
 別に、できないことではない。
 けれど……。

「お義兄さん……?」
「え?」振り向くと、琴羽ちゃんがいた。「あれ、今帰り?」
「はい。会社の人たちと飲んでて」
「あ、そうだんだ……」
「あの……」
「ん?」
「今の女の人、誰ですか?」
「え? あぁ、えーっと……」

 見られていた!


 3


 帰りの電車の中で、僕は琴羽ちゃんに、彼女は桜井しずくさんという人で、昔の音楽仲間だと説明した。元メンバーのライブを見に行ったら偶然会ったと。琴羽ちゃんは「なぁーんだ」と言って、それ以上詮索してはこなかった。
 最寄駅に着き、一緒に歩いて帰る。琴羽ちゃんはずっとスマホを操作しながら歩く。
「ねぇ、それ、危ないよ」
「大丈夫です」
「ここら辺、変質者だって出るんでしょ。なんかニュースでもやってたじゃん。歩きスマホしていた女性が、夜道で被害に遭ったって」
「お義兄さんと一緒じゃないですか。一人のときはしません」
「それでもさ、足元とか注意しないと」
「大丈夫ですって。スマホいじりながらも、ちゃんと見てるんで……、あぁぁっ」と、言ったそばから段差につまづく。
「だから、言ったじゃん」
「すみません」
「何をそんなに真剣にやっているの? ゲーム?」
「いえ……。あの、桜井しずくさんって……」
「え?」
「インディーズの歌手なんですね」
「あぁ、そうだよ」ん、なんだ?
「結構綺麗な人ですね」
「そうかな」
「ネット上にも写真とか、いろいろありますね」
「うん」
「あの……」
「はい」
「益一郎さんと桜井しずくさん、付き合ってたって、掲示板の過去ログがあったんですけど……」
「あ、え、えーっと……」この検索スキルよ……! そんな情報まで載ってるのか。というか、さっきからずっとそれ調べてたのかよ。「昔の話だよ」
「さっき、何を話していたんですか」
「うーんと、ワケあって、僕に曲を作って欲しいって」
「作るんですか」
「返事はしなかった」
「それだけですか?」
「ん? うん」
「それだけじゃないと思うんですけど」
「いや、それだけだって。本当に」
「違います。相手の人。絶対それだけじゃないですって」
「え、なんで?」
「女の勘です」
「そうかなぁ」
「まぁ、いいです。一応、お姉ちゃんには言わないでおきます」
「え、あ、うん……」
「あと、これ」
「え?」
 僕のアイフォンが振動する。ラインの通知だ。相手は琴羽ちゃん。僕はそれを開く。
「ちょ、なにこれ?」
「私、絶対それだけじゃ無いと思います」
「いや……」なんだというのか。僕は画面に表示された写真を見ながら、項垂れる。
 その写真は、さっきの駅での、僕と桜井さんのツーショットだった。



 4


 帰宅後、入浴を済ませ、自室へ向かう。久遠さんは先に寝ている。僕は、そっと掛け布団をめくって、体を滑り込ませる。
 彼女の体温でポカポカなベッドの中は、温泉みたいにじーんと疲れた体に染みる。あっという間に眠気がやってきて、水に溶けていく絵の具のようなまどろみが僕を覆っていく。けれど、あいつがやってくる。
『なんですぐに返事しなかったんだよ。迷ってんのか』
 無視だ無視無視。眠りよ、僕の体に行き渡れ。
『やり直すチャンスじゃないか。諦めかけてた夢を、あの娘が繋いでくれるかもしれないぜ』
 何を言ってるんだか。僕にはもう久遠さんがいる。家庭があるのだ。
『違うだろ。お前が迷ってるのは、そこじゃない』
 なんだよ。
『まぁ、いいや。おやすみなさいませ』
 ったく。毎度毎度、腹の立つやつだ。

 その夜、僕は夢を見た。バンドのメンバーたちと、雪山を登っている。どこの山かは判らない。けれど、完全防備で、ザイルを伝いながら頂上を目指す。
「なぁ、これどこに向かってんだ?」僕は言う。でも、誰も答えない。「なぁ!」
「マスさん、何言ってんですか」僕の後ろにいた羽鳥が言う。「これから、レコーディングですよ」
「はぁ?」意味が判らない。
 頂上には大きなロッジがあった。僕らはそこへ入る。
 中には、本当にレコーディングスタジオがあった。ミキサーの前には誰か判らないがエンジニアがいる。ガラスの向こうにはブースがあって、羽鳥はすでにドラムのセッティングをしている。
「マス、どっち使う?」近藤が、マーシャルとツインリバーブを指して言う。どっちもなにも、いつも僕がツインリバーブで、お前がマーシャルだっただろう。
「JCM800のカスタムだぜ、これ」近藤は、さっそくギターをアンプに繋いでいる。やつのレスポールは、見たことの無いトラ目で、毛で覆われている。
「なにそのギター?」僕はきく。
「ヴィンテージだよ。紀元前のギター」
「は?」
「いいから早くお前もセッティングしろよ」
 僕は言われるがまま、準備をする。でも、僕が手に持っているのはギブソンのSGに似たヘンテコなギターで、しかもプラスティック製。いつものテレキャスターじゃない。
「あれ?」僕は言う。「僕のギター知らない? っていうかこれ、誰のギター?」
「それがお前のギターだろうが」近藤が言う。
「いや、違うよ。僕のテレキャスターは?」
「何言ってんすか」羽鳥が笑う。「テレキャスは、益一郎さんが捨てたじゃないですか。登って来る途中に」
「え? そんなはずは……」僕は柏木を見る。でも、やつはトレースエリオットのアンプのつまみをいじっている。「なんか喋れよ……」
「じゃ、とにかく始めるぞ」近藤が言う。「とりあえず、ベーシックトラックは、このまま一発録りで、歌とかギターのダブは後からで」
「うぃ」と羽鳥が生ぬるい返事。
「寒かったからさ、まずは適当にジャムんない?」柏木が言う。
「それもそうだな」近藤はそう言うと「じゃあ、Fブルースで」と適当に弾き始める。
 僕はそれに合わせながら、一体いつ、どうしてテレキャスターを捨ててしまったのか、思い出そうとする。捨てるワケなんか無いからだ。
 別に、高いギターってワケじゃない。ありふれた国産の中古だ。でも、アタリだった。僕とそのギターは相性抜群だった。渋谷のKEYで、運命的とも言える出会いをしたのだ。当時の僕は超貧乏で、すぐには買えなかった。だから、お店の人に頼んで、頼み込んで、取り置きをしてもらったのだ。
 半年間、僕は一所懸命に貯金をした。毎週その店に通い、試奏をした。お店の人は、正直迷惑そうな顔をしていたけれど。
 それからずっと大事に弾き続けてきたのだ。すり減っていたフレットとペグも交換した。何より、音が良い。マイクロフォニックな性質は扱いにくいけれど、この“全身で鳴っている”という感覚は、他のギターでは味わえない。

 それを、僕は捨てた?
 どういうことだろう?
 そんなはずはない。
 絶対に、ありえない。

 近藤が、ディストーションを踏む。
 僕はそれで我に帰る。
 羽鳥のビートと柏木の低音が、僕を煽る。
 付いてこい、と言っているようだった。
 音の渦に飲まれまいと、
 僕も弦を叩くように、
 ギターを弾く。
 サスティンが、
 グラデーションのように余韻を残す。
 低音の鼓動が速くなり、
 雷鳴のようなタムの連打から、
 クラッシュシンバルへ。

 そうだ。
 思い出した。

 ライドシンバルが、刻まれる。
 ジャムセッションは、終わりへと向かう。
 洪水のような歪みの応酬は、
 クリーントーンのアルペジオへ。
 僕のギターだけが、
 ハウリングを起こしている。
 耳障りな、ノイズ。

 世界が歪む。

 そう、あのテレキャスターは……。
 バラバラになったのだ。
 バスの下敷きになって。
 忘れていたわけじゃない。
 思い出せなかったのだ。
 あの日。
 あの事故の日。
 僕の左手と一緒に、
 壊れてしまったのだ。
 
 目が覚める。

 窓の外は、まだ暗い。
 汗をかいている。
 僕は深呼吸をしてから、隣に久遠さんがいることを確かめた。
 それから、自分の左手に力を入れた。
『未練TARATARAだな』奴が言う。
 僕は、キッチンで水を飲む。アイフォンの画面で時間を確認する。
 深夜二時。
 しずくさんには悪いけれど、やっぱり断ろう。そう思って、メールの文面を書く。
『本当に良いのか?』
 メールの文面を書き終えて、今は深夜だということに思い至り、送信ボタンは押さずに下書きフォルダへ。
『よく考えろよ』
 僕は、ベッドに戻り目を閉じる。こいつと喋ったら、ダメなのだ。


 5


 メールで断るのも失礼かな、と思ったので、会社の近くの喫茶店で、しずくさんと待ち合わせをする。少し仕事が長引いて、時間ギリギリだったけれど、彼女も三十分くらい遅刻すると、連絡があった。
 僕は窓際の席に座り、コーヒーを注文する。午後8時。仕事帰りのOLや大学生たちで、店内はそこそこ賑わっている。どうやって断ろうか。僕は窓の外を見ながら、ぼんやりと考える。小雨が降ってきたようで、行き交う人々が傘を差し始める。折りたたみ、あったかなぁ。
「あ、あ、渡良木さん……?」振り返ると、中年の男性が僕を見ていた。
「あぁ、どうも」僕は言う。
「そ、その……、ご無沙汰しております」
「あ、はい。お久しぶりです」
 ヨレヨレの服を着て、髪もボサボサだ。前に会ったときは、もうちょっとマシな格好をしていたように思うけれど。
「あの、その節は……、その、なんというか、大変申し訳ありませんでした……」
「いえ、もう良いですから」
「あ、はい……。その……」
「僕に何か用でも?」
「いえ、その……、偶然お見かけしたので、その……」
「そうですか。すみません、忙しいんで」
「はい……。大変失礼いたしました……」
 彼はそう言って、とぼとぼと歩いていく。一緒に来ていた人がいたようで、その人のところへ力なく向かっていく。一緒にいた人は誰だろう。弁護士かなんかかな。
 元木久夫さん。あぁ、気分が悪い。僕はどうしてあんな態度を取ってしまったのだろう。でも、あれが限界だった。そっと、自分の左腕を撫でる。大丈夫。こんなこと、全然大丈夫だ。
 しばらくして、しずくさんがやってくる。彼女は、ミルクティを注文する。
「お待たせ」
「うん」
「呼び出したのは、この前の返事を聞かせてくれるってことで良いのかな」
「うん」
「そっか……。そっかぁ……。まぁ、予想はしてたけど。そっか」
「いや、あの……」
「顔見れば判るよ。ダメなんだね。うん。大丈夫。気にしないで」
「その、なんていうか、ごめん」
「謝らないでよ」
「うん。ごめん」
「そっか、ダメかぁ」彼女はスプーンを持て余しながら、ソーサーの上に置く。「ねえ、お願いがあるんだけど」
「え? なに?」
「これから、一緒にスタジオ入らない?」


 駅の近くの、リハーサルスタジオに入る。こんなの久しぶりだな。でも、どうしてだろう。しずくさんは受付で、マイクを二本とアコースティック・ギターを借りる。
「一時間だけ借りたから」
「うん。で、その……」
「私たちの曲って、さすがにカラオケにはないじゃない? だから、そんなノリで」
「あぁ、なるほど」
「まぁ、遊び感覚でさ。ちょっと演奏しようよ」
「あ、うん」
 ミキサーにマイクを繋げる。彼女は据え置きの電子ピアノを起動させる。僕は、チューニングをした後、アコギをジャズコに繋げる。
「前に益一郎くんが作ってくれた曲、弾いてくれない?」
「うん。良いけど」
 まだ彼女と付き合っていたとき、一曲だけ、曲を提供した。といっても、メロディだけで、歌詞は彼女が書いた。『ブーゲンビリアの窓辺』というタイトルで、僕はその歌詞を聴いて、初めてそんな花があることを知った。
 彼女が、ピアノでイントロを弾く。それに合わせて、コードを鳴らす。
 あぁ確か、こんな曲だった。
 囁くようなヴァースから、物憂気なブリッジへ。けれど、自分で作った曲なのに、手が追いつかない。
「やっぱり」彼女は演奏を止めて、言う。「変だとは思ったんだ」
「ごめん。別に、隠そうとしたわけじゃないんだけど」
「良いよ、別に。そっか。事故が原因?」
「そう。ギターもバラバラになった」
「事故に遭ったってのは、聞いていたけれど。かすり傷程度だって」
「うん。実際そうなんだ。病院でもよく判らなかった。でも、うまく力が入らないんだ」
「なんか、ごめんなさい。私、知らなくて」
「いや、良いんだ。でも、というか、だから、その……」
「うん。判った。諦める。ありがとう、考えてくれて」
「いや、面目ない」

 僕たちはスタジオを出る。彼女はこれから約束があるという。
「じゃあね、益一郎くん」
「うん」
「最後に、こうやって会えてよかった」
「え? あぁ、力になれなくて、その……」
「いいの。謝らないで。それじゃ」
「うん」
 彼女は歩いていく。僕も駅に向かう。家に帰るのだ。
『本当に良いのかよ』
 ヤツが言う。
『ちょっとくらい手が動かなくたって、弾けないことはないだろう?』
 僕は歩く。
『あの子の曲、作ってやれば良かったのに』
 僕は歩く。
『お前、絶対後悔するぜ。中途半端に諦めたフリすんなよ。お前、絶対……』
 背後で、何かが崩れた音が響き、僕は振り返る。
「イッテェ……、ハァ、すみません」誰かが転んだようだ。酔っ払っているようで、フラフラとよろめいている。

 元木さんだ。

 何をやっているのだろう、と僕は思った。
 こんなところで。
 こんなところで、酒を飲んで。
 酔っ払って……。
 お前のせいで……。
 お前が運転していたバスのせいで……。
 クソ、クソ、クソ。

 あれは事故だったんだよ。だから……、と久遠さんは言った。
 そう。そうなのだ。
 それは、判っている。
 判っては、いるのだけれど……。


 6


 それから数日後。仕事から帰ると、琴羽ちゃんが駆け寄ってきて、手に持っているスマホを僕に見せてくる。
「益一郎さん! これ見てください!」
「え、え、うん……」なんだというのか。僕は手渡されたそれを覗く。ネットのニュースサイトのようだ。「えっ、あぁ。マジか」
 そこには、“若手プロデューサー岩松エイジ、電撃結婚”とあった。
「この人、有名な人なんですか」
「うーん、多分。KUWA=GATAってバンド知ってる? そのプロデューサー」
「知らないですね」
「だよね」
「あの話、断ったんですか?」
「え? あぁ、うん」
 記事には、相手はインディーズ歌手の桜井しずくだと書いてあった。
「そうなんですね。この話、知ってました?」
「いや、全然」
「ふーん。っていうか、益一郎さんって、この人に昔、曲提供してますよね?」
「まぁ、昔ね。よく知ってるね」
「調べました」
「すごい検索スキルだね。今時っ子じゃん」
「ちょっと意味が判りませんけど」ウッ。「確か、曲のタイトルが『ブーゲンビリアの窓辺』でしたよね」
「そうそう。まぁ、僕はメロディだけっていうか曲だけだから。作詞はしずくさんだよ」
「へぇ。ところで、ブーゲンビリアの花言葉って知ってます?」
「いや、知らない」
「そうですか。まぁ、別に良いんですけど……」
「え? なに?」
「自分のお姉ちゃんの旦那さんに、こういうこと言うのもなんですけど……。益一郎さんのそういうところ、ちょっとヒドイと思います」
「え? なんで? なにが?」
「いえ、別に良いです」
 えー? なんだよ……。
「おかえり」二階から、久遠さんが降りてくる。「二人して玄関で何やっているの?」
「あ、いや」僕は靴を脱ぐ。「ただいま」
「おかえりないさい。マスくん、ちょっと部屋に来て」
「あ、うん」
 久遠さんは、先に部屋に向かう。
「あの写真、消しておきますね」琴羽ちゃんが言う。先日の駅での写真だ。
「えっと、なんだっけ? 話が途中じゃなかったっけ?」
「ううん。大丈夫です」
「うん? じゃあ、行くね」
「はーい」
 なんとなく後味が悪いけれど、部屋に向かう。ドアを開けると、久遠さんはカーペットの上に正座していた。
「なに? 改まって」
「ここに座ってください」
「うん」なんだ? 何が始まるんだ?
 彼女の正面に、僕は正座する。
「あとで、パパやママには、ちゃんと言うけれど……」
「うん……」
「私、妊娠しました」
「え?」

 え、マジで?
 マジで?
 マジでか?
 マジでか!?!?!?!?!?
 スゲェ!
 スゲェ!スゲェ!スゲェ!スゲェ!スゲェ!スゲェ!スゲェ!スゲェ!

 ポロポロ、ポロポロと涙が溢れてくる。良かった、本当に良かった。
 胸の奥が熱くなってくる。何かが飛び出してしまいそうなほど、息が苦しい。
 でも、嬉しい。呼吸が、止まりそうになる。
 僕につられてか、久遠さんも目に涙を浮かべている。喜びすぎて僕はちょっと恥ずかしい。嬉しさは、久遠さんの方がずっと上のはずなのだ。
「益一郎くん。私、本当に良かった。嬉しい」
「うん。うんうん」

 僕らは互いに手をとって、泣き笑う。
 良かった、諦めなくて。
 本当に、良かった。



 つづく。


この本の内容は以上です。


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