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「なぜだい?」俺が言うと、彼女が財布から三万円出して渡した。
 「こんなものいらないよ。餞別?」
 「そう、…受け取って、」
 俺は受け取り、彼女が買ってくれた服を着て、オキアミ歯科医院を出た。はじめて女と交渉したときの始発列車を待つときの朝焼けを眺めているときのような、感傷的な気持ちだった。しかし、それとは裏腹の晴れ渡った空。離れの窓から厚手のカーテンはもとより、レースのカーテンもなくなり、死んだような建物の窓から老婆の姿がなくなり、俺は行方知らずの老婆になぜか親しみを抱いていた。
俺は尿意をもよおし、砂糖屋と古本屋の間に少しへこんで建っていた公衆便所に駆け込んだ。街中まできていたのだった。
 小便器に向かってウールのズボンのファスナーを下ろす。取替え時の蛍光灯とアンモニア臭で目がちかちかしていたせいか、その小便器に手書きで、それもおそらく書きなぐったようで、時間がなかったのか、とても汚い字で、『職安窓口』とあった。学生のいたずら書きか、と思い小便をしていると、コホコホと咳をして、
 「そこに書いていませんか?窓口って…」といって、小便器から掠れた、ブルースでも歌えばいいのではないか、と思わせる女性の声がした。
 「すみません、もう少しで終わるので…」といっても、なかなか止まらない黄金色の小便。疲れているのだろうか、こんな色になるなんて。
 小便を済ませ、腰をかがめて、窓口といったあたりを見ると、映画館の切符売り場のようになっていた。彼女は一段下にいて、机が見えた。
 「まったく、勘違いもいいかげんにしてほしいわ、あなたおしっこするから、書類がびしょ濡れで、黄色くなってしまうわ、これは公式文書なのよ」
 「すみません、公衆トイレではないんですか?」といって、ファスナーを上げる。そうだ、小便をきちんと飛ばすのを忘れた。それを飛ばさないと、下着がすぐ汚れてしまうんだ。蒸れた、アンモニア臭の原因になるのだ。
 「で、仕事を探しているんですね」と女がティッシュペーパーで書類をぬぐって、言った。
 「いいえ、でもこんなところにハローワークがあるとは知りませんでした」
 「違います、職業案内所、略して、職安、昔の職業安定所でも、ハローワークでもありません」
 「でも、失業者を取り扱っているんですよね」
 「そんなおしゃべりで、時間をつぶされると、困るんです、もうお昼ですし、それにあなたのせいで、あたしの好きなイタリア料理店にランチに行けなくなっちゃったじゃないのよ」
 「ごめんなさい」
 「これからお風呂に入らなくては…で、どんな職業をお探しですか、それから収入の希望は?」
 「いいや、俺は職業よりも、家に帰らなくてはならない」
 「家では家賃がかかるでしょ、仕事をして、収入がないのならば、それなりの手続きをしなくてはならないのです」と、いっているのだが、だんだん遠のいていくような声で聞き取りにくかった。
 「え?」
 窓口の女は首を振って、話にならない、といった仕草をした。女は旧式のパソコンを弄くっていた。キーボードはなく、テンキーでもなく、昔のプッシュフォンのボタンのようなものを盛んに打っていた。音声が、器械から発した。
――ガスガイシャ。マタハ、オヨビ、ガスタンクセイビ。
 「それが俺の仕事なのかい?」と男が言うと、窓口の女はレシートみたいな紙切れが器械から出てくるのを待っていた。
 「ここに番号がありますので、直接電話してください」とあっけなく言うと、窓口に『隣の窓口へ』と書かれた立て札を掲げ、姿を消した。
 窓口の女は、事務的でどうも虫が好かなかったものの、小便をかけられても平気なのは俺のほかにもここを職安と気付かずに、公衆便所と勘違いするものがいるのを示したものだろう。


 しかし、そのガス会社とやらに俺は行かなくてはいけないのであろうか?もう一度紙切れを見る。この町ではこうした契約をなして、互いを救済するのだろうか。そうした話は聞いたためしがなかった。俺はこう見えても自治体の発行するパンフレットはきちんと保存していたので、よけい気になった。自治体のパンフレットをよりにもよって俺が保存しておくにはわけがあるのだ。パンフレットを配りにくる女が強い香水をつけており、その女の肉感的な匂いで子供のころからなんとなく脳の片隅の埃にまみれて放っておかれている女への執着心を植え込まれたからであった。もうその女はかなりの年齢になっているので、俺の性的な対象にはならないが、母親であって、恋人であって、自己犠牲的であって、近親相姦的であって、タブーであって、他者であって、自己であって、自虐的であって、老婆に犯されているような、複雑な感情の中でその女は例の香水で俺をとことんまで駄目にしてしまうのであった。だから、俺はその女の持ってくるパンフレットをべとべと眺めているうちに大人になっていったので、女への原型は彼女がこしらえたといえる。思い起こせば、あの歯科医院の女も変わっていた。
 電話をかけてみて、別に雇われることはないのだ、ただ、職安の女への義理と詫びを兼ねた電話、肩代わりの電話をしてみようと思ったのである。
 なかなかでない。普通のガス会社なら、ガス漏れの緊急対応も兼ねているためにすぐに、百十番くらいの速さで出るはずなのだが、もう一回コールして出なかったら切ってしまおう、と思った。出ない。やめよう、として受話器を置こうとしたときになにやら砂浜のヤドカリのかさつくような音声が聞こえた。
 「…しました。ガス屋です。なんですか、だれですか?」
それにしても気持ちの悪い電話だ。屋号がない。それに、訛っている。変な電話だ。切ってしまおう。そして、受話器を置いた。相手を怒らせないようにするには、無言電話の場合、受話器の置き方にある。乱暴に置くと相手は怒り出す。そっと置くと、静かに置くと、相手は平然としていられる。だから、俺もそうした。だが、いっこうに鎮まらないのが、とことんまで、かけてきた相手を探るタイプである。そのガス会社の職員もそのタイプであったのであろう、受話器を置くとその電話のベルをしつこいくらいに、男が不安になり、その防御のためか、苛立ちを帯びてくるまで鳴らしてきた。男も放っておいて、逃げ出せばいいものを電話相手に喧嘩しているようなものだ。じっとしていたのだ。そして、電話に出てしまったのである。
――ガス屋ですけれど、なんですか、誰ですか?いったんかけてきたものは繋がるようにできているのです、その公衆電話の番号は…
――職安に案内されたんだ。
――ハローワークですか?それとも職業案内所ですか?
――あんたが最後に言った職安のほうだ。
――では、面接がありますので、後日といってもいいのですが、期間を空けるのはすこぶる良くないので、今日これから面接をします。簡単な試験をパスするだけです。履歴書や学歴はうち関係ないんです。その点は安心できて、他の会社では考えられないでしょう、人物に関する証明書、卒業見込み証明書、卒業証明書、在学証明書、成績証明書、健康診断証明書、……………といろいろ集めないと駄目なところありますからね、エヘエヘヘ…で、場所ですが、今おたくさまはどちらにいるんですか?
――それがよく分からないのです。海を泳いで、陸に上がって、歯科医院で世話になって、そしてそこでいろいろあって、いま仕事どころじゃないんですよ、まったく変な案内所だ。それから町に出て…


――いやいや参りました、まるで『およげたいやきくん』みたいですね、わが社はおたくさまのようなユニークな人材を求め、育成しておるんです。ま、とにかくこちらのほうで探しますので、しばらくそこにいてくれませんか?
 電話はそれで終わった。本当にこちらとしては勤めどころではないのだ。ただ、隠れ蓑として、ガス会社に勤めることも一つの手である。しかし、彼女は自首がいいといっていた。やはり自首をしたほうが罪が軽くてすむ可能性が高い。そうしようと町をぶらぶら歩いて交番を探すが、アフリカの地図を見せた交番だけには行きたくなかった。そこで、地元警察を探そうとしていると、青いランプをつけ、サイレンを鳴らす、流線型のガス会社の車がやってきた。すごい速さだ。あれでは衝突してしまう、と思っていたら、案の定中央分離帯に乗り上げタイヤが空回りしだした。それでも走り続けるぞ、といわんばかりにタイヤはくるくる高速度で回転し、それがたまにコンクリートに掠るものだから、ゴムの焦げた臭いが立ち込め、人々はハンカチを口にして通り過ぎていった。いったいどんな奴が乗っているんだろうと思っていると、ドアが開き、頭が薄い中年の男が出てきて、
 「えらいことじゃ、これはこれは、乗り上げてしまったではないか!しかも中央にじゃ、そら、見てみるがいい、中央に乗り上げてしまったではないか!」と大声で、わざとらしく演技のように見えた。
 男は素通りしようとしたら、スピーカーで俺の名前を呼んだ。そして、俺の格好はひどく奇妙だったためすぐに中年男の目にとまり、
 「そこの男性、さっそく乗り込もうではないか!案内をいたす!」と、マイクで拡張された声はひび割れ、隣町まで聞こえるくらいだった。俺は車から出てきた、俺よりももっと若い男どもによって身柄を拘束されてしまい、車に乗った。ウィンド・グラスは黒で、なぜ、どうして、この車が運転できるのかが分からなかった。ただ、冷房が効いていたため、快適であった。中年のはげた男は直射日光を浴び、俺が乗ると、すぐさま乗り込んできた。頭皮が光っていた。
 「いやいや、暑いですね。もう夏至かね。ま、それはそうと、会社まで、きみ行ってくれたまえ」と運転手にいうと、運転手は、これでは前に何があるかが分からないですよ、いままで感で動いていたのと、皆が避けてくれたからできたまでだけれどもと苦情を言った。その車は文句をいいつつも進み始め、サイレンを鳴らしたために皆は避け、目くらめっぽうで走りつづけた。俺はどこにいったいこの連中は見えないで走り続けるのが怖くないのか、そして目的地がどうやって分かるのか理解できなかった。カーオーディオが備えられていて、カントリーが能天気に流れていた。いくらウィンド・グラスを黒に塗りこめたところで太陽だけはくっきりまるで天体望遠鏡で見た惑星のように光って映っていた。だから俺はこの太陽の方角でこの車は方向をかろうじて分かるのではないであろうか、と考えたものの、草原、何も無い草原でないのだからそれではないだろう。そこで、
 「どうやって会社に辿り着けるんですか」と運転手に訊いてみた。そうすると、運転手はぶつぶつ愚痴を言うかのようにいって、
 「感というものです。だから私などは歩くんですよ、目隠しをして。そうして一人前になるのにかなりの時間がかかるんです。でも、よくよく考えてみると、とても会社の方針が最初のうちには理解できなかったのです。でも、それには意味がある、とわかり始めたのがつい先日です。先日社長の運転、これも黒に塗ったくったものでした。そこで、社長がこの世には目の見えない人々がいるからこの会社はその目の見えない人々が安心して運転できるようなことを副産業として開発しようということを私は聞いたのです。


そこで、あなたに実施体験をしてもらい、それをレポートにしてもらい今後の方針に役立てよう、ということなのですが、どうも私は、こう見えても銀行の重役の運転手をしていたので訳がわからず、先ほども中央分離帯に乗り上げるという運転手としては最高に恥ずかしい真似をして、つい文句をいってしまったのです。情けないものです。若い人は辛抱が足りない、と言いますが、こう私のように長くお勤めしている者でももう限界なのです。ああ、いったいどこを走っているんだろうか」
 「カーナビがあるでしょ、あれで音声で知らせるのがあるから、それでいいんじゃないかな」
 「なんていうことを言うんです。カーナビはベテラン運転手はつけないのが運転手としても誇りなのです。でも、社長に言ってみようかな、カーナビか、私は使わないとしても、盲目の人にはいいとね」
 「でも、もう他の会社が一杯使っているから、会社独自のものを使わないと」
 「そうですね、カーナビだなんて略語を使うくらいなのですからね、普及しているわけですね、問題は盲目の人に距離感をどうやって教えるか、ということですね、ま、あなたがこれから入社してがんばって開発してくださいな」
 「だが、職安ではガスタンクセイビとかいっていたな」
 「そうですか、でも何かのきっかけで別の部署に移されるかもしれませんね、ア、すいません、うっかりで…」
 そのとき、禿げた中年男が運転手を小突いたのだ。これは俺の言うことで、運転手はただ運転だけをしていればよいというのが、この男の主張である。
 どうにか会社に辿り着いた。運転手と握手をして、励まされた。禿げた男が、
 「これから、会長室に向かってちょっとした説明を受けた後に、テストがあるから、それをしてから、新入社員の会社説明会に出席してもらいますからね」と、言われて、俺は頷いた。
 おそらくこの工業団地の一角に設けられた巨大な敷地には大きな地球儀のような球状のガスタンクが数十個はあり、その一つがオフィスだと言う。大きすぎるくらいの西瓜のようなガスタンクの一つに俺は近付いた。入口には、警察の事件看板のような毛筆で、
 ガス会社東一号棟
と書かれてあった。インクで書かれておらず、墨で書かれているために降雨の際に滲んでしまうのであろうか、一人の男が空模様をうかがっていて、手には墨壺を持っていた。そのようなことをするのだったならば、一人を係りにするのではなく、誰かが気付いた時に看板を取り込めばいいものを、ここに係りを一人設けているのであった。賃金の無駄遣いだと思った。禿げた男が案内をしてくれたのだが、そもそも俺がここに勤める謂れは無いのだから、ここではっきりと意見を固めておこうかと考えた。
 「ちょっと、あの私はここに勤めるのだけしか選択が無いのですか?それにここに働く上で、ちょっとした事件を俺は引き起こしちゃったんですが」
 「事件?」
 「そうです、これから警察に行かなくてはいけないのです。詳細は申し上げられませんがね」
 「それも会長さんに聞いてくだいさいな。事件といっても重大事件で、指名手配を受けているわけじゃないでしょうね」
 「そうなる可能性があるのです」
 「じゃ、それも会長さんと相談してよ、俺に聞かれても判断はみな会長さんがしていることだから」と言われて、横目でちらっと女の従業員の尻を見ていたのを俺は見逃さなかった。その会長室に通じる事務所にはこの禿げた男と俺の他、男性はおらず、みな女であり、会長の趣味なのか、面長で中肉中背の画一的な女ばかりであり、さながらオットセイのハーレムを想像してしまった。長いこと事務所をぐるぐる回った。中央に会長室があるようで、それを囲むように、ゆで卵の白身のように事務所が構えられていたのであった。


 やっとのことで、会長室に着くころには、俺は情けないことに息切れをしてしまっていた。息を切らして、禿げた男に、
 「分かりませんか、俺はもう息切れをしているんです、そいつがここで働けるとでもいえますか、それも訊かないとわからないですって!」
 禿げた男が、会長室のドアを叩いた。中で、曇った声をして、会長がどうぞ、と言った。
 会長室は暗く、暖色系の明かりをつけていたためにはっきりと会長を見ることはできなかったが、その発声がどこかで聞いたことのある声であり、そしてタキシードを着ていることで、会長があの八百屋そのものであったことに、男は驚いた。会長は、二人だけにしてくれるか、と禿げた男に言うと、禿げた男はそんな滅相もないことです、お邪魔いたしました。といい会長室を後にした。
 「なかなか、ユニークな格好ではないかね」といって、男の容姿を誉めた。
 「あんた、八百屋じゃないか、こんなところで何しているんだ」
 「八百屋は兼業、アルバイト的なものだよ、それに…」といって、暗がりからもう一人出てきた。あの糖尿病の男であった。「専務だよ」と改めて紹介されると、男はかしこまってしまい、それが変だったので、怒った口調で、二人に食って掛かった。
 「おまえらのせいで、とんでもないことになってしまったんだ。人を一人殺してしまったのだ。それで、今度はガス会社の強引な勧誘だ、何だあの紹介所は、おまえたちが拵えたのにしては都合が良すぎるじゃないか!」
 「言いたいことは大体分かる、こう言いたいんだろ、私らの監視下にあるのだと!」
 「そうだ、俺はお前らの手のひらの上で生きているようだ」
 そんな時に専務が割り込んでくるのだ、
 「だが、監視にしてはあなたが生きて、体験したことはまるで万華鏡のように不思議で、自然だという気がしないか?そうだとしたら、やはり、会長の言うとおりにこれは監視下なのだ、といえる。だが、少しでもあなたが楽しんだのならば計画のもとであっても、少しは協力してもらわなくてはならない」
 「協力だと、ふざけるな、あの変な歯科医もおまえたちが用意していたものなのか?」
と、彼が突き詰めると二人は寄り添って首を振り、否定するのである。会長は、少し落ち着きたまえ、といった。しかし、男はそうおいそれとは落ち着いてられなかった、というのもこれから新入社員の入社説明会を開くという事務の者からの伝言をドア越しに聞いてしまったからだ。それでは何もかもがこの会長と専務が拵えた雛型の中でみなが動かされている気がし、動揺を隠せなかったからだ。
 「いま、これからテストをする、簡単なものだ、知恵の輪を知っているか?そうか、知っているんだな、じゃ、これを解きたまえ」と、会長は専務に顎をしゃくりあげると、専務が赤い布の包みを開き、それを男に渡した。そこには、銀の知恵の輪があり、恐ろしいくらいに単純なものであった。さっと男は解いて、はずれた知恵の輪を赤い包みにくるんで、会長に渡した。すると、会長は赤い包みを開いてまだ知恵の輪が解けていないことを示した。そうすると、男は怒って、今、解いたのを見ていたじゃないか、と怒鳴った。そうすると、会長はこう切り出した。
 「ま、人を殺めたことを考慮し、解けないのだろう、しかし、安心しなさい、ここでは警察もこなければ、マスコミも来ない、出たいと思ったときには出られ、出たくないと思ったら出なくて良い、いいところだ、ここを安住の地としなさい。それが一番あなたのためだ。」
 「俺はいったい何者なのだ?それとおまえたちはなんなんだ!」
 「おとといきやがれ、このうすらばか」と言う声がした。二人のものではなかった。
 「今、なんていった?」



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