閉じる


<<最初から読む

14 / 25ページ

 サイレンを鳴らさないようにしてください、と俺は言ったが、向こうで協力してください、近所まできたら消しますのでと、親切に言ってくれて、これは行き届いた気配りだと、感謝した。
 救急車が、オキアミ歯科医院の前で止まった。赤いランプで集まった、バカな野次馬どもがそれ相応の好奇心丸出しの顔をして、互いに親しく語りだした。それでなくとも、彼女のことだ、いい噂などなかったのだろう。それでも、俺は酸素ボンベを持って救急車に乗り込もうとした。かなり重いもので、こんなところで肉体労働か、とあきれた。そうしたら、彼女が、一人で行くから留守番していて、と言い残して、付き添いで彼女一人だけが救急車に乗り込んだ。病院との電話連絡で救急車は一向に動こうとしないため、野次馬が俺の周りに集まってきた。たいていは、担ぎこまれたのは患者さんかな、それとも男の人かな、というたぐいのものであったが、俺の奇妙な格好を指をさして若い女の子が笑っていた。そして、俺が歯科医院の中に入ったときに、サイレンを鳴らして出て行った。
 それから、俺は彼女からの連絡を待った。昼ご飯もろくに食えなかったため、夕飯のときなどは非常に悲しいくらいにKが憎たらしかった。そして、連絡を八時まで待つと、彼女の財布をビニール袋から出そうとしたときに、ビニール袋の中にスパゲティーと、ミートソースの缶があるのを見つけ、小躍りした。これくらいの調理なら、俺でもできると思い、作って食べた。一袋のスパゲティーが空になり、もうすこし食べられそうだ、彼女の分もとっておかなくてはならない、と考えて、もう一袋は開封しなかった。彼女が夜中に帰ってくることがあったならば、今度は恩返しと愛情を込めてスパゲティーをこしらえよう、それがたとえ明け方であろうとも。そうして、満腹で連絡を待っていると、二階でごとごと音がしたので、Mの食事は、犬はどうなのか、心配になった。ただ、Mに関しては人間であるから、そこらに放してやったら、買いにいけるだろう、そんな時に限って自由のありがたさを身に沁みてもう帰ってこないかもしれない、それならそれで俺は構わない。ただ、犬は自分では買いに行けないので、俺が用意しなくてはならない。こんなときこそ、あの離れの老婆が役に立つというものだ。そこで、中庭に出て、離れを見るが、電気はついておらず、いつの間にか彼女がひまでも出したのか、それとも施設に入れたのか、まだいるのだろうか、厚いカーテンが引かれていて、真っ暗だった。老婆の力は借りられず、食堂に戻り、犬のために缶詰を探すが、無いので、仕方なくMの食事と、犬の分を、金を持ってコンビにでも行けば手に入るだろうという安易な考えで、家を後にした。
 外は静まり返り、しばらく家から出なかったために新鮮に感じ、それと足が感覚を取り戻すような妙に高ぶる気分がした。長い散歩をしたものだ。すっかり迷子になってしまったのに気づいたのは、町の交番の前だ。そこで、交番に入り、酔っていないことを告げて、地図を見せてもらった。それは奇妙な地図で、アフリカの地図であった。
 「オキアミ歯科医院、というとどこらへんでしょうかね」と、尋ねる。すると、そんなことは安易に教えられない――それもそうだ、夜に救急外来でもない町の歯科医院を案内することは、犯罪に繋がる可能性もあるわけである――そう言おうとする表情をして、
 「何しに行くんだ、こんなに遅くに」
 「友達の家なんですよ」俺にしてはいい言い訳だ。
 「教えられないね」
 「彼女知っていますよ、俺のこと」
 「じゃ、あなたが電話して、案内してもらいなさい、そんなことより、早く家に帰りなさい」


 「その家が、オキアミ歯科医院なんですよ」
 「あなたの家なのか」
 「ええ」まずいと思った。
 「名前は?」
 適当にごまかして逃げた。追ってはこなかったものの、警戒網の一つや二つ敷くことは可能であろう。だとするなら、今医者に行っている彼女は、Kに関しての事件性を帯びた事態に巻き込まれ、俺は俺で僅かな警戒網であったものが、次第に大きな事件の中、真っ只中に放り込まれることになってしまうのだ。本能で逃げ出し、本能でオキアミ歯科医院を探すことだ。
 先ほど、救急車を呼んだときには、住所を教えてもらったのだが、また目印となるレストラン――住宅街でやっているドイツ料理のレストランである――その名も教えてもらったのだが、そのレストランもドイツ語でカタカナであったために、思い出せないのであった。
 夜の銀行というのは本当に日中活動しているのか、というくらいの静けさであり、その銀行の横に坂があった。オキアミ歯科医院から、坂を下りた記憶があった。ただ、この坂を上ったときに、おそらくは高級住宅街が開けているのだろうとは思うのだが、それよりも、コンビニに行って、教えてもらったほうがいい。しかし、この大通りだというのに、人影も無く、コンビニも無かった。勘を頼りに歩きつづける。昭和初期に建てられたと思われる商店の二階が明るいかと思うが、どの商店もシャッターを下ろし、暴走族の落書きがスプレーで描かれ、それは暗闇で、薄ら明るい街灯で、暴力と、ナイフと、性と、バイクと、タバコと、酒と、リンチを連想させた。
 なぜだか、心の中では、歯科医院からどんどん遠のいているように感じた。考えてみれば、俺と彼女が一緒にいる間に、彼女が全部処理していたのだ、Mに対しても、離れの老婆にしても、犬にしても、それが、ちょっとしたことで、彼女が居なくなった途端に、俺はパニックになってしまう。そのパニックもこうして、疲れ、彼女の買ってくれたとても派手な服を着て、襲われても仕方ない格好でうろついている夜になって初めて生じたのであるが、決して難しいものではないのだ。買えばいいのだ。金もあるわけだ。その店がここには見当たらないのが、不安になった理由だ。今ごろ彼女は病院で何をしているのだろうか。警察が絡んでくることは間違いが無いであろう。そうすると、俺は捕まり、彼女の言うように、措置入院という運びになろう。
 その辺は彼女の頭の良さでどうにか切り抜けることはできるだろう。それに彼女なら、有能な弁護士を雇うことも可能だろう。そうじくじく考えないことだ。それにしても俺はずいぶん歩いたのだが、一向に町並みが変化しないので、仕方なくタクシーでオキアミ歯科医院を目指すことにした。空車と言う赤い文字が飛び込んできて、俺の前で止まった。そして、運転手に行き先を告げるが、運転手は分からない、という、そこで俺が、近くにドイツ料理のレストランがある、住宅街だ、というと、あそこかな、という返事がきた。そこで、俺はたぶんそうだと思う、といった。
 まったく人を馬鹿にした話だ。オキアミ歯科医院はすぐそこだったのだ。ワンメーターでお釣りが来るくらいに近かった。運転手が、歩いたほうが良かったんじゃないですか、といったので、いいや、俺はずいぶんと歩いて、大変疲れたし、それにこの町はまったく知らないから、授業料だと思って受け取ってくれ、と言い、運転手に代金を払った。
 こうめちゃくちゃな町づくりでは、この町にはじめて来たものなど、蟻地獄に嵌まる蟻のようなものだ。これはおそらく、継ぎ足し、継ぎ足しして作った結果こうなったのだろう。町長とやらに会ってみたくなった。なぜ、交番に関係の無いアフリカの地図なんか置いてあるのだろう。変な町だ。
 やっと落ち着いたころ、電話がなった。彼女からだった。


――何度も電話したのに、出ないのはなんでなの?
――いや、二階の人の食料と、犬の缶詰を買いに出かけたら、迷子になったんだ
――で、どうやって帰ってきたの?
――タクシーで帰ってきた。運転手が良かったのと、それと、俺がレストランを覚えていたことが役に立ったようだ、無事だよ。それにしても、変な町だね、交番にアフリカの地図があってさ、おまわりさんがオキアミ歯科医院を教えてくれないんだよ
――そうよ、この町少し変なの、交番は実際警察が運営というか、設けているか、それとも、民間の警備会社が設けているかそのあたりも良く分からないのよ、でもアフリカの地図だなんて奇妙ね、それより、あなたご飯はどうしたの
――きみが買ってきてくれたスパゲティーを自分で調理して食べた。
――そう、じゃ、すぐ帰るから、帰ったら話をするわ
――ご飯は?
――いらないわ
 女というものは平気で食事を抜いてしまう。彼女がいらないわ、と言ったときそう思った。ところで、Kの奴どうなったのだろう。死んだのだろうか。それなら、彼女のいまの電話で死んだことを報告することだろう。どっちにしろ、彼女は俺の尻拭いをしたわけだ。気の毒なことをしたものだ。おそらく、病院には親族が集まりだし、彼女を散々叩きのめしたことだろう。それに彼女は耐えて、俺とKがもめたことを少しも喋らず、持ち前の気転の良さで切り抜けたのだろう、その光景が浮かぶようだ。なんてことを俺はしてしまったんだ。彼女を傷つけたから後悔するので、Kが負け犬のようになったことからは鼻で笑うくらいのゆとりを持っていた。だから、彼女が深刻そうにして帰ってこないことを想像し、そして実際帰ってきたときには未亡人のように成り果てていたのには、正直いって驚いた。
 「どうした?」
 「かなり、堪えたわ…それにひどく疲れちゃった…スパゲティー残っているの?」
 「いまから作るよ」
 「じゃいらないわ、さっき病院で少し食べたから」
 「Kのかみさんとか来たのか?」
 「来たわ、…どうしたらいいのかしら…彼もう死んだの、それで、警察に呼ばれて、いろいろ聞かれたわ、ごめんなさい、あなたのこと話したの、明日逮捕しに来るわ、出頭してくれる?自首がいいんですって。」
 「過失傷害、過失致死、殺人、どれだろう」
 「無罪になってももう会えないわ」
 「最後にきみを抱きたい、抱きしめたい」
 
 夢を見た、Kの肉片をミキサーにかけ、白いビニール袋に入れ、うろうろし、竹やぶに入っていく夢だった。

 

 翌朝早く、俺は身支度をして、逃亡を図ろうとも考えた。しかし、彼女は一睡もしないで悲しんだと思えるくらいに涙の痕が顔に刻み込まれていた。夢から覚めても、人を殺したことには変わりが無い、それは眠ったところで解決し終えたという安心感は、もう既に枯れ果てた。これで女は抱けなくなるし、酒も飲めなくなる。タバコだって制限されてしまうだろう。あんなちんけな奴と揉めなければ良かった。彼女がやめて、と叫んだときにやめていればこんなことにはならなかったのだ。それとは逆に、これから、彼女自身も警察の取調べにいや、取り調べならまだしも、家宅捜査の手が伸びて、Mについて、監禁していることが発覚し彼女もまずくなってしまう。取り返しのつかないことをしてしまった。
 「悲しいわ、あなたと話していて、楽しかったし、他にも最高な点が一杯あったのに…ねぇあの雨がふっていたときにはじめてあったでしょ、あのときの曲覚えている?あなたは演歌が好きって言っていたけど、私は嫌いって言っていたの、覚えている?」
 「ああ、覚えているよ、でもなんで俺が逮捕されたら、会えなくなってしまうんだい、面会に来てくれないのか?」と、男は言うが、女は名残惜しそうに話をしていた。


「なぜだい?」俺が言うと、彼女が財布から三万円出して渡した。
 「こんなものいらないよ。餞別?」
 「そう、…受け取って、」
 俺は受け取り、彼女が買ってくれた服を着て、オキアミ歯科医院を出た。はじめて女と交渉したときの始発列車を待つときの朝焼けを眺めているときのような、感傷的な気持ちだった。しかし、それとは裏腹の晴れ渡った空。離れの窓から厚手のカーテンはもとより、レースのカーテンもなくなり、死んだような建物の窓から老婆の姿がなくなり、俺は行方知らずの老婆になぜか親しみを抱いていた。
俺は尿意をもよおし、砂糖屋と古本屋の間に少しへこんで建っていた公衆便所に駆け込んだ。街中まできていたのだった。
 小便器に向かってウールのズボンのファスナーを下ろす。取替え時の蛍光灯とアンモニア臭で目がちかちかしていたせいか、その小便器に手書きで、それもおそらく書きなぐったようで、時間がなかったのか、とても汚い字で、『職安窓口』とあった。学生のいたずら書きか、と思い小便をしていると、コホコホと咳をして、
 「そこに書いていませんか?窓口って…」といって、小便器から掠れた、ブルースでも歌えばいいのではないか、と思わせる女性の声がした。
 「すみません、もう少しで終わるので…」といっても、なかなか止まらない黄金色の小便。疲れているのだろうか、こんな色になるなんて。
 小便を済ませ、腰をかがめて、窓口といったあたりを見ると、映画館の切符売り場のようになっていた。彼女は一段下にいて、机が見えた。
 「まったく、勘違いもいいかげんにしてほしいわ、あなたおしっこするから、書類がびしょ濡れで、黄色くなってしまうわ、これは公式文書なのよ」
 「すみません、公衆トイレではないんですか?」といって、ファスナーを上げる。そうだ、小便をきちんと飛ばすのを忘れた。それを飛ばさないと、下着がすぐ汚れてしまうんだ。蒸れた、アンモニア臭の原因になるのだ。
 「で、仕事を探しているんですね」と女がティッシュペーパーで書類をぬぐって、言った。
 「いいえ、でもこんなところにハローワークがあるとは知りませんでした」
 「違います、職業案内所、略して、職安、昔の職業安定所でも、ハローワークでもありません」
 「でも、失業者を取り扱っているんですよね」
 「そんなおしゃべりで、時間をつぶされると、困るんです、もうお昼ですし、それにあなたのせいで、あたしの好きなイタリア料理店にランチに行けなくなっちゃったじゃないのよ」
 「ごめんなさい」
 「これからお風呂に入らなくては…で、どんな職業をお探しですか、それから収入の希望は?」
 「いいや、俺は職業よりも、家に帰らなくてはならない」
 「家では家賃がかかるでしょ、仕事をして、収入がないのならば、それなりの手続きをしなくてはならないのです」と、いっているのだが、だんだん遠のいていくような声で聞き取りにくかった。
 「え?」
 窓口の女は首を振って、話にならない、といった仕草をした。女は旧式のパソコンを弄くっていた。キーボードはなく、テンキーでもなく、昔のプッシュフォンのボタンのようなものを盛んに打っていた。音声が、器械から発した。
――ガスガイシャ。マタハ、オヨビ、ガスタンクセイビ。
 「それが俺の仕事なのかい?」と男が言うと、窓口の女はレシートみたいな紙切れが器械から出てくるのを待っていた。
 「ここに番号がありますので、直接電話してください」とあっけなく言うと、窓口に『隣の窓口へ』と書かれた立て札を掲げ、姿を消した。
 窓口の女は、事務的でどうも虫が好かなかったものの、小便をかけられても平気なのは俺のほかにもここを職安と気付かずに、公衆便所と勘違いするものがいるのを示したものだろう。


 しかし、そのガス会社とやらに俺は行かなくてはいけないのであろうか?もう一度紙切れを見る。この町ではこうした契約をなして、互いを救済するのだろうか。そうした話は聞いたためしがなかった。俺はこう見えても自治体の発行するパンフレットはきちんと保存していたので、よけい気になった。自治体のパンフレットをよりにもよって俺が保存しておくにはわけがあるのだ。パンフレットを配りにくる女が強い香水をつけており、その女の肉感的な匂いで子供のころからなんとなく脳の片隅の埃にまみれて放っておかれている女への執着心を植え込まれたからであった。もうその女はかなりの年齢になっているので、俺の性的な対象にはならないが、母親であって、恋人であって、自己犠牲的であって、近親相姦的であって、タブーであって、他者であって、自己であって、自虐的であって、老婆に犯されているような、複雑な感情の中でその女は例の香水で俺をとことんまで駄目にしてしまうのであった。だから、俺はその女の持ってくるパンフレットをべとべと眺めているうちに大人になっていったので、女への原型は彼女がこしらえたといえる。思い起こせば、あの歯科医院の女も変わっていた。
 電話をかけてみて、別に雇われることはないのだ、ただ、職安の女への義理と詫びを兼ねた電話、肩代わりの電話をしてみようと思ったのである。
 なかなかでない。普通のガス会社なら、ガス漏れの緊急対応も兼ねているためにすぐに、百十番くらいの速さで出るはずなのだが、もう一回コールして出なかったら切ってしまおう、と思った。出ない。やめよう、として受話器を置こうとしたときになにやら砂浜のヤドカリのかさつくような音声が聞こえた。
 「…しました。ガス屋です。なんですか、だれですか?」
それにしても気持ちの悪い電話だ。屋号がない。それに、訛っている。変な電話だ。切ってしまおう。そして、受話器を置いた。相手を怒らせないようにするには、無言電話の場合、受話器の置き方にある。乱暴に置くと相手は怒り出す。そっと置くと、静かに置くと、相手は平然としていられる。だから、俺もそうした。だが、いっこうに鎮まらないのが、とことんまで、かけてきた相手を探るタイプである。そのガス会社の職員もそのタイプであったのであろう、受話器を置くとその電話のベルをしつこいくらいに、男が不安になり、その防御のためか、苛立ちを帯びてくるまで鳴らしてきた。男も放っておいて、逃げ出せばいいものを電話相手に喧嘩しているようなものだ。じっとしていたのだ。そして、電話に出てしまったのである。
――ガス屋ですけれど、なんですか、誰ですか?いったんかけてきたものは繋がるようにできているのです、その公衆電話の番号は…
――職安に案内されたんだ。
――ハローワークですか?それとも職業案内所ですか?
――あんたが最後に言った職安のほうだ。
――では、面接がありますので、後日といってもいいのですが、期間を空けるのはすこぶる良くないので、今日これから面接をします。簡単な試験をパスするだけです。履歴書や学歴はうち関係ないんです。その点は安心できて、他の会社では考えられないでしょう、人物に関する証明書、卒業見込み証明書、卒業証明書、在学証明書、成績証明書、健康診断証明書、……………といろいろ集めないと駄目なところありますからね、エヘエヘヘ…で、場所ですが、今おたくさまはどちらにいるんですか?
――それがよく分からないのです。海を泳いで、陸に上がって、歯科医院で世話になって、そしてそこでいろいろあって、いま仕事どころじゃないんですよ、まったく変な案内所だ。それから町に出て…



読者登録

カナタ ムメイさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について