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「どうかしているとも、あなたは人間だ、それに元教師だ、なんでこんな真似をしているんですか、やめにしたらいい!」
 しかし、Mは倒錯した性関係を否定する言葉には一切耳をかさなかった。男はこのことを理解できず、どうにかこの駄目になってしまった人間が、少しでも立ち直れるようになれないものかと、もどかしい思いで話をするのであった。
「わたくしの役目ももう終わりのようであります。これはお嬢様が奴隷二頭を飼うか、ということです。もちろんあなた様を奴隷にするにはわたくしのように一年も必要がないでしょう。既に、あなた様は虜になっていらっしゃるようなので。」いつの間にやら、手淫を止めていた。
「その辺のことを少し詳しく話してくれないか?」と言って、「このケージはどうやって開けるんだね?」男はケージをこじ開けようと手を動かした。
「その、壁に、赤い壁にかかっています鍵がそうであります。」
 男は奴隷Mを解放してあげたのであるが、階下の廊下で話をするしかなかった。というのも、あまりにも汚れていたため、他の部屋を汚すおそれがあったからである。
「お嬢様ははじめわたくしを普通の男性として扱ってくれたのですが、教師という職柄どうしても、性癖が変わっているものがままございまして、わたくしの同僚などは覗きで興奮するのでありました。いつだったか、養護の先生がトイレに入っていったのを追いかけていって女便所に入り、その養護の先生のちろちろというお小水の音を聴いてマス…そんなことよりもわたくしの場合ですが、わたくしはどうも奴隷として扱われ、散々責め苦をあじわったところにどうやら性的な絶頂感があるようであり、それを妻は気付いてくれなかったんですが、お嬢様はそれはものの見事に見抜いて、とうとう今年で二年になりますが、ずっとあの部屋に監禁されております。なぜ、あなたを奴隷にできるのかは分かりませんが、わたくし、極限的に言うのであるならば、わたくしの心の底には、そうしたものが微かにあったということでありました。だから、あなたにある要素があるとするのならば、その要素をお嬢様は見事に見抜いて、あなたを奴隷にすることができるということであります。集合の問題とおんなしです。で、銀行員の話はいたしましたでしょうか?」といってMがそろそろ調子付いてきたときに、
「二リットルだよ!」と、背後から、彼女は凄んで言った。
「ああ、お嬢様!」と、Mは恍惚とした表情を仮面の下に浮かべて、拝むようにして、女の前にひれ伏した。
 俺は、トイレ、と言って向かった。すると、不鮮明な二人の声がやり取りされていた。二階へ向かう階段で、二人の声がいっそう狂ったようにこだまして、重い猿を麻袋に入れて階段をずるずると引き上げていくような音が耳に届いた。


 何の事はない。ちょっとした行き違いだ。彼女が男を連れてきたのであった。それが、あのバカ鴉でなかったことが唯一男にとって救いであった。奴隷Mは彼女の話では処分するらしく、そのために、部屋を改造すると言う。その大工かと俺は思ったのであるが、どうも様子が可笑しい。
「紹介するわ、Kさん。大学時代のクラスメートなの。なんだっけ?何のクラスだったけ?」
 Kは照れ隠しをするようにして、俺の前に出てきて、彼女とまるでこれからベッドに向かうかのような仕草をして、低い声で、不鮮明でこう言った。
「確か、フランス語、第二外国語は苦手だったんで、忘れちゃいました。フランス語でいいんだよね?」と、今度は彼女にふった。そこで、俺は少し頭にきて、


「もっと口の回りを良くすることだね。歯医者なんだろ。不鮮明な発音なら、フランスもドイツも日本もかわりゃしまい。このどもりめ!」
 これには、さすがのKも怒りを覚えたらしく、自慢話をしだした。
「ぼくは、きみの言うとおりに、うまく発音できないけれども、ぼくはいま美容歯科をやっていて、これは景気に左右されないんだ。結局金を使ってもきれいな歯並びにしたいし、きれいなきみのようなヤニで汚れた歯になりたくない願望があるからね。」
「どのくらい稼ぐんだい?」
「四千万。」
「すごいね」と言いつつ、俺はフックをこいつに決めた。「これで、自分の仲間に歯並びを治してもらいな、」と言い捨てた。彼女も彼女で、こんな奴を介抱している。
 大体こんな奴をなぜ彼女は連れ込んだりしたんだろうか、という疑問が俺には浮かんだ。そこで、彼女に訊いてみるが、いっこうに返事をしない。俺の待遇はどうなるのか、そして、この美容歯科の男を彼女にとって恋人として扱うのか、だとするならば、俺はどんな立場、彼女にとって、俺はどんな立場になるというのか、さっぱり見当がつかなかった。
「露出狂の枠として、二階にいるMのように逸脱した人間として俺をこれから扱う算段なのか?」
「違うってば!そんなことよりも、Kさんにひどいことするわね、これじゃ顔が腫れるわよ」
「腫れるように殴ったんだ。わざとだ。」
「何が不満だって言うのよ」
「別に…ただ、こいつをきみが連れ込んだからさ、こいつ高慢ちきだよ」
 Kは頬を擦りながら、苦笑いをしたが、その笑いが、男にとっては理解できないものであった。
「あーイタタ・・・こりゃ参ったよ。ちゃんと紹介してくれなくちゃ、ひどいよ、まったく、ぼくのことちゃんと説明しないから、こんな乱暴を働くんだと思うよ、そんなにひどいこと言ったかな。そりゃ、少し頭にきたことを認めはするさ、でも、パンチを食らうなんて真似、よくするさ、大学でもこんな奴には出会ったことはない」
「大学にいなくったって、世間じゃいるっていうことだよ、ぼく。」と、言って手入れの行き届いた刀を武士が磨くように、男はこぶしを作り、今度は腹に食らわせた。うっ、と唸り、美容歯科は倒れた。喧嘩になっちゃた!と、彼女は叫んで、止めようとするが、男は馬乗りになって、顔をこぶしでがんがん殴りつけた。何をそんなに憎んでいるのよ!と彼女は再び叫んだが、その辺はどうも男も理解していないらしくただ、なんとなく体が反応するのであった。
「おそらく、拒絶反応でも起こしたんじゃないかな、俺はこの家の一部のようになってしまったようだから、この家の敷居を俺以外のものが跨ぐとこうなっちまうんだろうな」と、冷静に彼女に男は話した。
「もう、止めて!お願いだから、これ以上Kさんを殴らないで、もうKさんを連れてこないから!誓うわ!」と、彼女が大声で男に言うと、男は殴るのをやめた。
「結局のところ、きみ次第ってことだよ、きみが変な奴を俺の目の前に突き出したら、きみを殴らない代りにそいつをきみの分まで殴ってやる、そういうことらしい」と、男は血だらけのこぶしをウールのズボンで拭った。Kは既に意識を失っており、顔はおそらくこれから紫色に変色すると思われるくらいに赤くなっていた。
「まるでオテモヤンだ」と、男はKを見ていった。
 不愉快なのは、Kをよりにもよって俺の部屋にふとんを新たに敷いて、介抱する彼女の考えだ。


もう一部屋あるのだから、そこに連れて行けばいいものを、どのような理由があるのか分からないが、これでは火に油を注ぐようなものだ。
 「なんだって、この部屋にこいつを入れるんだよ」
 「部屋がないじゃない?」
 「きみの部屋の隣がいいと俺は思ったんだが、使えないのか?」
 「あ、トイレの前の部屋は嫌な親戚が来たときだけよ」
 「なんで、こんな奴に肩入れをしたりするんだ」と男が言うが、彼女は氷嚢で、Kの顔を、首筋を冷やして、何も答えなかった。
 「おい、聞いているのかよ!」
 「そんなに怒鳴らないでちょうだい」彼女は大切な人を扱うようにKに接した。これはただの親切心や、友情などと言ったものではない。また、Kを連れて来ない、というのは喧嘩を止める――もちろんこちらが優位でつまらぬ揉め事ではあったもので、勝負というのには少しもふさわしくないものであったのだが――そのための口実でしかない。だから、このままだらだらと、彼女はKとやらをこの家に、いや俺がいる部屋にまるで仲のよい恋人のように寄り添って眠るようにしておくのだろう。しかし、この二人の男で誰がこの家から追い出されるのか、との考えには、俺は先ほどのアジを売っていた魚屋を想像し、新鮮なものを置いておく、と結論が出てしまうのであった。Mは放り出され、戸口ですすり泣いても、俺はそのまま路頭を彷徨い、そして、盛り場にくりだし、暴力バーで被害に遭って、誰か親切な人がいればどうにかなるだろう、少なくとも家には返してくれるだろう、ということまでも想像した。
 「そんなにKに尽くすんだったら、その愛情の一部を俺に分けても罰は当たらないよね」
 「なに言ってんのよ、この人妻子もちなのよ、それをあなたったら、もうしょうがないわね、奥さんに事情を説明しなくてはならなくなっちゃったわ、あなたからも詫びてちょうだい、なにを勘違いして、こうなったのかを!」
 「そう言って、俺をごまかすつもりだね、そうはいかないさ。こいつのこときみは好きなんだろう、そして俺を…」と言った瞬間、彼女は俺を平手で叩いた、そして、悪いことをしたように反省したようにして、
 「被害妄想よ、そう、あなたをじっとこの家から出さなかったからなのかもしれないけれども、ひどくなってしまっているわ」
 「なに、俺が被害妄想をもっているって言うのか?」
 彼女が頷いた。そして、またKの氷嚢を取替えに冷蔵庫に向かった。そして、時計を目にして、もう四時過ぎたわ、どうしよう、もう夜になってしまうわ、とそわそわと落ち着きがなくなってしまった。
 「そんなに慌てることないさ、簡単だよ、救急車を呼べばいいことなんだ」
 「なにバカ言っているのよ、警察が絡んだりしたら、あなたどうなっちゃうのか分からないの?まさか、俺は魚から変身して人間になって、そして、八百屋が一枚絡んでいて、そして、歯科医院で世話になって、とでも言うつもりなの。誰も信じちゃくれないし、それにあなた病院に強制入院されちゃうのよ!少しは考えてよ」
 図星だ。俺の体験したことなど誰も信じちゃくれない。彼女でさえ、魚をかろうじて信じだしたのは俺と、関係を持ち、新しいパーツ、アルジネイト、といったころからだろう。そうだ、金冠はどうなったのだろう。
 「こういうときに言うのもなんだけれども、俺の金冠は技巧師さんから届いたのか?」
 彼女はきょろきょろして、頭を掻きだした。
 「もういいかげんにしてちょうだい。と・ど・い・たわよ!こんな時に。もう少し頭がいいと思ったのに…」

 しばらく様子を見たのだが、歯ぎしりをしだしたため、脳にダメージがあるのでは、と女は考え、救急車をやむなく呼ぶこととなった。そこには、混乱と男の刑罰を軽くする計算が混ざった判断だった。


 サイレンを鳴らさないようにしてください、と俺は言ったが、向こうで協力してください、近所まできたら消しますのでと、親切に言ってくれて、これは行き届いた気配りだと、感謝した。
 救急車が、オキアミ歯科医院の前で止まった。赤いランプで集まった、バカな野次馬どもがそれ相応の好奇心丸出しの顔をして、互いに親しく語りだした。それでなくとも、彼女のことだ、いい噂などなかったのだろう。それでも、俺は酸素ボンベを持って救急車に乗り込もうとした。かなり重いもので、こんなところで肉体労働か、とあきれた。そうしたら、彼女が、一人で行くから留守番していて、と言い残して、付き添いで彼女一人だけが救急車に乗り込んだ。病院との電話連絡で救急車は一向に動こうとしないため、野次馬が俺の周りに集まってきた。たいていは、担ぎこまれたのは患者さんかな、それとも男の人かな、というたぐいのものであったが、俺の奇妙な格好を指をさして若い女の子が笑っていた。そして、俺が歯科医院の中に入ったときに、サイレンを鳴らして出て行った。
 それから、俺は彼女からの連絡を待った。昼ご飯もろくに食えなかったため、夕飯のときなどは非常に悲しいくらいにKが憎たらしかった。そして、連絡を八時まで待つと、彼女の財布をビニール袋から出そうとしたときに、ビニール袋の中にスパゲティーと、ミートソースの缶があるのを見つけ、小躍りした。これくらいの調理なら、俺でもできると思い、作って食べた。一袋のスパゲティーが空になり、もうすこし食べられそうだ、彼女の分もとっておかなくてはならない、と考えて、もう一袋は開封しなかった。彼女が夜中に帰ってくることがあったならば、今度は恩返しと愛情を込めてスパゲティーをこしらえよう、それがたとえ明け方であろうとも。そうして、満腹で連絡を待っていると、二階でごとごと音がしたので、Mの食事は、犬はどうなのか、心配になった。ただ、Mに関しては人間であるから、そこらに放してやったら、買いにいけるだろう、そんな時に限って自由のありがたさを身に沁みてもう帰ってこないかもしれない、それならそれで俺は構わない。ただ、犬は自分では買いに行けないので、俺が用意しなくてはならない。こんなときこそ、あの離れの老婆が役に立つというものだ。そこで、中庭に出て、離れを見るが、電気はついておらず、いつの間にか彼女がひまでも出したのか、それとも施設に入れたのか、まだいるのだろうか、厚いカーテンが引かれていて、真っ暗だった。老婆の力は借りられず、食堂に戻り、犬のために缶詰を探すが、無いので、仕方なくMの食事と、犬の分を、金を持ってコンビにでも行けば手に入るだろうという安易な考えで、家を後にした。
 外は静まり返り、しばらく家から出なかったために新鮮に感じ、それと足が感覚を取り戻すような妙に高ぶる気分がした。長い散歩をしたものだ。すっかり迷子になってしまったのに気づいたのは、町の交番の前だ。そこで、交番に入り、酔っていないことを告げて、地図を見せてもらった。それは奇妙な地図で、アフリカの地図であった。
 「オキアミ歯科医院、というとどこらへんでしょうかね」と、尋ねる。すると、そんなことは安易に教えられない――それもそうだ、夜に救急外来でもない町の歯科医院を案内することは、犯罪に繋がる可能性もあるわけである――そう言おうとする表情をして、
 「何しに行くんだ、こんなに遅くに」
 「友達の家なんですよ」俺にしてはいい言い訳だ。
 「教えられないね」
 「彼女知っていますよ、俺のこと」
 「じゃ、あなたが電話して、案内してもらいなさい、そんなことより、早く家に帰りなさい」


 「その家が、オキアミ歯科医院なんですよ」
 「あなたの家なのか」
 「ええ」まずいと思った。
 「名前は?」
 適当にごまかして逃げた。追ってはこなかったものの、警戒網の一つや二つ敷くことは可能であろう。だとするなら、今医者に行っている彼女は、Kに関しての事件性を帯びた事態に巻き込まれ、俺は俺で僅かな警戒網であったものが、次第に大きな事件の中、真っ只中に放り込まれることになってしまうのだ。本能で逃げ出し、本能でオキアミ歯科医院を探すことだ。
 先ほど、救急車を呼んだときには、住所を教えてもらったのだが、また目印となるレストラン――住宅街でやっているドイツ料理のレストランである――その名も教えてもらったのだが、そのレストランもドイツ語でカタカナであったために、思い出せないのであった。
 夜の銀行というのは本当に日中活動しているのか、というくらいの静けさであり、その銀行の横に坂があった。オキアミ歯科医院から、坂を下りた記憶があった。ただ、この坂を上ったときに、おそらくは高級住宅街が開けているのだろうとは思うのだが、それよりも、コンビニに行って、教えてもらったほうがいい。しかし、この大通りだというのに、人影も無く、コンビニも無かった。勘を頼りに歩きつづける。昭和初期に建てられたと思われる商店の二階が明るいかと思うが、どの商店もシャッターを下ろし、暴走族の落書きがスプレーで描かれ、それは暗闇で、薄ら明るい街灯で、暴力と、ナイフと、性と、バイクと、タバコと、酒と、リンチを連想させた。
 なぜだか、心の中では、歯科医院からどんどん遠のいているように感じた。考えてみれば、俺と彼女が一緒にいる間に、彼女が全部処理していたのだ、Mに対しても、離れの老婆にしても、犬にしても、それが、ちょっとしたことで、彼女が居なくなった途端に、俺はパニックになってしまう。そのパニックもこうして、疲れ、彼女の買ってくれたとても派手な服を着て、襲われても仕方ない格好でうろついている夜になって初めて生じたのであるが、決して難しいものではないのだ。買えばいいのだ。金もあるわけだ。その店がここには見当たらないのが、不安になった理由だ。今ごろ彼女は病院で何をしているのだろうか。警察が絡んでくることは間違いが無いであろう。そうすると、俺は捕まり、彼女の言うように、措置入院という運びになろう。
 その辺は彼女の頭の良さでどうにか切り抜けることはできるだろう。それに彼女なら、有能な弁護士を雇うことも可能だろう。そうじくじく考えないことだ。それにしても俺はずいぶん歩いたのだが、一向に町並みが変化しないので、仕方なくタクシーでオキアミ歯科医院を目指すことにした。空車と言う赤い文字が飛び込んできて、俺の前で止まった。そして、運転手に行き先を告げるが、運転手は分からない、という、そこで俺が、近くにドイツ料理のレストランがある、住宅街だ、というと、あそこかな、という返事がきた。そこで、俺はたぶんそうだと思う、といった。
 まったく人を馬鹿にした話だ。オキアミ歯科医院はすぐそこだったのだ。ワンメーターでお釣りが来るくらいに近かった。運転手が、歩いたほうが良かったんじゃないですか、といったので、いいや、俺はずいぶんと歩いて、大変疲れたし、それにこの町はまったく知らないから、授業料だと思って受け取ってくれ、と言い、運転手に代金を払った。
 こうめちゃくちゃな町づくりでは、この町にはじめて来たものなど、蟻地獄に嵌まる蟻のようなものだ。これはおそらく、継ぎ足し、継ぎ足しして作った結果こうなったのだろう。町長とやらに会ってみたくなった。なぜ、交番に関係の無いアフリカの地図なんか置いてあるのだろう。変な町だ。
 やっと落ち着いたころ、電話がなった。彼女からだった。



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