閉じる


<<最初から読む

8 / 25ページ

だが、どうしても怒りは収まらなかった。ただ、言えることはこうした冷めた関係はいずれは溶解し、和解し、元の鞘に収まるのだろう、という希望が僅かではあるが、男に生じていた。それにはきっかけが必要だ。そのきっかけというのは笑いだろうか。そんな考えを男は持ち静かにふとんを敷き、横になった。
 彼女の場合であれ、付き合っている異性に対して過去の異性との付き合いを喋りだしたとしたら、途端に関係などといったものは破綻する。ましてや、今現在そんなことをしたとしたなら、関係などというものはぎくしゃくしだし、喧嘩になり、冬にアイスクリームを震えながら食べるようなものに成り果てることだろう。男はもう忘れようとした。それが男がとれる技量であり、寛容さだろうと思ったからである。しかし、彼女の悲しみは波がひくようになるのだろうか。それはわからなかった。そして、彼女の悪癖である。それは染み渡り、そうおいそれとは治らないだろう。拾われたものの不自由さ、それに男は気付きだした。
 昼になり、食事の時間となった。男は空腹を感じ、食堂に向かった。そこに彼女がいた。まるでこれから責めを受けてもかまわない、ともとれるし、反撃をしよう、ともとれた。化粧をし、きれいになっていた。男は別に化粧などしなくとも一向にかまわなかった。ただ、これから彼女が出かけるのではあるまいか、と思った。
 「どこかに出かけるのかい?」と、男はもうすでに怒りは乾きもののように鎮まっていたのであり、彼女の返事を待った。彼女は別に…といった。これは出かけるのは気まぐれであり、その決定は俺にあるといった返事だ。
「もう怒っていない。きみを悲しませたことは詫びるよ。ただ、きみが、これはおそらく老婆が言ったことなんだが、それが心の中にあって…」
「もういいの。私が悪かったんだから」と言いつつも、男を見なかった。
「こういっちゃ何だが、一緒に食事に行かないかい?」
「今買い物に行って来る、料理の本を見ていたの…」
「食事を作ってくれるんだ…」
 返事はなかった。

 

子供のころ、小学生のころだろう、女の子のクラスメートを家に遊びに来させた。ゲームをしたり、もう忘れた。ただ、こんなことがあった。彼女は空腹のために、パンを無断で食べたのであった。それを許せなかった。これから、パンを食べ、出かけなくてはならなかったからだ。そのときの彼女は悲しそうで、おびえるような表情をしていた。

 

 彼女は出かけ、なかなか帰ってこなかった。そこで水で空っぽの胃から分泌してくる胃酸を薄めた。二階で音がしたので、俺は二階に行った。あの老婆の言っていた、部屋のドアが少し開いていた。中からはくうくうといった人間の口から発生する音が聞こえた。思い切ってドアを開けた。すると、奴隷Mがケージの中にいて猿轡をしていた。彼がいる中には黄色い小便が池を作っていた。男はケージを開けるにはどうしたらいいのか、Mに訊こうとするのだが、猿轡をしており、訊きだすことができなかった。そして、彼に手招きをして、ケージから猿轡を取るから、といい近付くようにいった。すると彼は傍によってきたため猿轡をはずすことができた。彼には独特の臭いがつき、鼻が曲がりそうだった。おそらく、風呂にも入れてもらえないのかもしれない。仮面を取ろうと同意を求めたが、彼は拒否した。そこで、男は、
「またなんだってこんなとこに閉じ込められているんですか、この前は食事できたのでしょうか?」と言い、部屋を見回すと、鞭と浣腸器、それから張り方があった。


床は水色のタイル張りで、汚水を流せるようにか、責めに使うのか水道が備えられており、汚水口の周りには黴が生えていた。壁には皮の相当分厚い音漏れを防ぐ設備が施されており、映画館でもこうまでしないが、劇場入口のドアのようになっていて、
「この部屋にどのくらい閉じ込められているんですか?」と、返答を待った。しかし、彼はなかなか話そうとせず、始終鼻詰まりのような奇妙な音を口からか、鼻からか分からないが発していた。そして、こっちが何か話題になりそうなことを探そうが、そのようなことはお構いなしであり、じっと男の自由な体を、特に目を見ていた。そして、他に誰も来ないことが分かったのだろうか、自己紹介をし始めた。
「わたくしは、このお嬢様と出会いましたのは、もうかれこれ三年前になります。わたくしは当時患者として、う歯がございまして、治療を受けに、このオキアミ歯科医院様を受診したのでございます。まず初めにお嬢様が先生でございまして、わたくしが患者であった頃のことから話をさせてくださいませ。先生は親切でありました。わたくしが痛がってもなお歯科を受診しなかった恐怖感をお嬢様は、いや先生は、全てお見通しのようでありまして、まるでわたくし、このようなわたくしの下種な心をお読みになられますことを非常にわたくしは、不思議に思いました。そこで、お嬢様は診察をすばやくして、わたくしにこれからゆっくり時間をかけて治しましょうと言いました。金銭的に問題はなかったのですが、わたくしはお嬢様のあどけないお顔を拝見してからというものの、このオキアミ歯科医院を受診するのが、う歯の治療でなのか、それともお嬢様目当てなのか、分からなくなっておりました。家庭内にも、職場にも問題を抱えておりまして、いっそのことお嬢様と生活をはじめたく心のそこで考えておりました。その点をお嬢様がはじめに感じたときは、わたくしが麻酔をかけられる時に白衣の裾をぐっと握り締めたときにお嬢様が白衣の下に何も身に纏っていなかったときでありまして、そのことをなんとなしに訊いたところ、私露出狂に興味があるの、というのであります。わたくしはそんなことは考えずにお嬢様を、今から考えるとそれが引き金になったのでしょうが、押し倒し、抱いてしまったのでした。そうすると、お嬢様はえんえん泣き出したので、わたくしがどうして泣くのです、と問いましたところ、私今、一人で生活しているの誰も私のことを思ってくれていないと思ったの、で、つい、などと言われました。しかし、それは真っ赤な嘘でありまして、わたくしはお嬢様とだんだん妙な関係になっていきました。それからというもの治療していくうちにお嬢様はあちらも、ここも、と、いたずらをする少女のような顔をしてう歯を探り出してわたくしは歯の半分を削られてしまいました。」
 「それ」といってMは口を開くと、確かに言うとおりに、歯は、普通の半分だということが前歯から分かり、そして奥歯にいたっては、十文字に削られて、それを見るために男は Mの口の中に顔を突っ込むようにしなくてはならなかった。
「神経が出て痛くないのですか?」
「それが不思議と痛くないのです。わたくしは、多量の麻酔――多量といっても通常の量よりも少し強めたもので、致死量には達しないわけでありまして、――それを打たれ、口の中は痺れてしまい、感覚がなくなってしまいました。麻酔の中を泳ぐおたまじゃくしのような私の舌は、あさっての方向を向いてだらりと、垂れ下がって、涎をたらしつづけたのでありました。そのときの麻酔が覚めていないのでしょう」
「いや、違う、全ての歯の神経を取られたんだ!」
「そういえば、お嬢様はピンセットを使って糸くずのようなものを捨てておりました…」
Mは、横目で首の座らない赤ん坊のように震えていた。


それが、真相を知ったためか、それとも永い監禁生活の障害なのか、判断できなかった。しかし、彼は彼女以外の人間にまるで生まれて初めて会うかのようにして、喜んでいたのだろうが、それは男にとって不愉快なことであった。それは、Mが手淫をしだしたからであった。彼は、男に注意を受けてもやめず、喋りだした。
「歯のことはもう申し上げることはございませんが、わたくしには教育哲学のようなものがありまして、それから分析させていただきますと、お嬢様は少女時代にかなり、衝撃的な暴行を受けたのであるまいか、と思われる節がございまして、わたくしとプレーをしていただきましている間に、心の中でお嬢様にこう問い掛けるのであります。『なぜそのように異性であるわたくしを責めるのでしょうか?』と。そうしますと、それに呼応するかのように鞭やらエネマを多めに与えられるのであります。学校にいたときに、この子はおそらくサディストになるだろう、という子…」と言う、Mの言葉を遮って、男は尋ねるのであった。
「じゃあ、もとは学校の先生だったんだね」
「そうであります。教師をしておりました。当時はまるで時代錯誤のような管理教育がなされておりまして、学校長は入学式、ことある毎に教育勅語をお読みになるなど管理教育というよりも、その仮面を被った軍国主義色の強い教育を施しておりました。わたくしは国語の教師をしており、大学時代には空手をしていました。そこで、体罰を容認するべく、その方針を現場で施行いたしたわけであります。学生に対しては痛みを持って物事を知るべし、とした考えでございます。手で鼻血が垂れるくらいに叩くことはそれは!、それは!――と言って、かなりの興奮をしたのだろうか、精液の代りに小便を垂らして――け、け、・・・・その頃に育った子供たちはやがて親となり、現在のすさまじい世の中が到来する訳であります。これは目にも鮮やかなりとも言えましょう。完全な帰結であったのであります。わたくしもその責を負うべきなのでしょう。」
「しかし、なぜだろうか?あなたはマゾヒストのように思えたりしている一方で、サディストのようでもあるようだが…」
「それが真正マゾヒストの性とも言えるのです。よくサディストはマゾあがりがいい、とおっしゃいます。それと同じく、マゾヒストにもサディストの要素がなくてはこうしたことはできないのでしょう…。これからはわたくしなどのことはどうかお構いなしにしてくださいませ。わたくしなどといったものは本当に、鯖の生腐れと申しますように、精神が腐りきっておりまして、その臭気が、汚臭がお嬢様の気に障りなどいたしましたら快楽の鞭が飛び交うのでありまして、わたくしはその鞭に打たれながらも、勃起をしてしまうのです。それから、エネマであります。これは妻にも要求していたのでありましたが、なかなか同意を得られずにいた、わたくしの快楽の極値でありました。これらが、マゾヒストの一種の傾向なのだと、お嬢様は分析なされました。」
「俺にはちんぷんかんぷんだ、逃げ出したらいいじゃないか!」
「いいえ、わたくしは忠誠を誓うことをいたしました。一種の儀礼、儀式でございます。そのために、それに背くことは微塵も考えたことなどございません」
「だけど、食べ物も与えられないで…すごく痩せているじゃないですか」
「しかし、これから栄養分をしばし与えられ、肥えさせるのでございます。そうしてまた痩せての繰り返しであります。これもひとえにお嬢様のお考えでありまして、わたくしはお嬢様に足蹴にされてもなお、ついていく所存でございます。」


「どうかしているとも、あなたは人間だ、それに元教師だ、なんでこんな真似をしているんですか、やめにしたらいい!」
 しかし、Mは倒錯した性関係を否定する言葉には一切耳をかさなかった。男はこのことを理解できず、どうにかこの駄目になってしまった人間が、少しでも立ち直れるようになれないものかと、もどかしい思いで話をするのであった。
「わたくしの役目ももう終わりのようであります。これはお嬢様が奴隷二頭を飼うか、ということです。もちろんあなた様を奴隷にするにはわたくしのように一年も必要がないでしょう。既に、あなた様は虜になっていらっしゃるようなので。」いつの間にやら、手淫を止めていた。
「その辺のことを少し詳しく話してくれないか?」と言って、「このケージはどうやって開けるんだね?」男はケージをこじ開けようと手を動かした。
「その、壁に、赤い壁にかかっています鍵がそうであります。」
 男は奴隷Mを解放してあげたのであるが、階下の廊下で話をするしかなかった。というのも、あまりにも汚れていたため、他の部屋を汚すおそれがあったからである。
「お嬢様ははじめわたくしを普通の男性として扱ってくれたのですが、教師という職柄どうしても、性癖が変わっているものがままございまして、わたくしの同僚などは覗きで興奮するのでありました。いつだったか、養護の先生がトイレに入っていったのを追いかけていって女便所に入り、その養護の先生のちろちろというお小水の音を聴いてマス…そんなことよりもわたくしの場合ですが、わたくしはどうも奴隷として扱われ、散々責め苦をあじわったところにどうやら性的な絶頂感があるようであり、それを妻は気付いてくれなかったんですが、お嬢様はそれはものの見事に見抜いて、とうとう今年で二年になりますが、ずっとあの部屋に監禁されております。なぜ、あなたを奴隷にできるのかは分かりませんが、わたくし、極限的に言うのであるならば、わたくしの心の底には、そうしたものが微かにあったということでありました。だから、あなたにある要素があるとするのならば、その要素をお嬢様は見事に見抜いて、あなたを奴隷にすることができるということであります。集合の問題とおんなしです。で、銀行員の話はいたしましたでしょうか?」といってMがそろそろ調子付いてきたときに、
「二リットルだよ!」と、背後から、彼女は凄んで言った。
「ああ、お嬢様!」と、Mは恍惚とした表情を仮面の下に浮かべて、拝むようにして、女の前にひれ伏した。
 俺は、トイレ、と言って向かった。すると、不鮮明な二人の声がやり取りされていた。二階へ向かう階段で、二人の声がいっそう狂ったようにこだまして、重い猿を麻袋に入れて階段をずるずると引き上げていくような音が耳に届いた。


 何の事はない。ちょっとした行き違いだ。彼女が男を連れてきたのであった。それが、あのバカ鴉でなかったことが唯一男にとって救いであった。奴隷Mは彼女の話では処分するらしく、そのために、部屋を改造すると言う。その大工かと俺は思ったのであるが、どうも様子が可笑しい。
「紹介するわ、Kさん。大学時代のクラスメートなの。なんだっけ?何のクラスだったけ?」
 Kは照れ隠しをするようにして、俺の前に出てきて、彼女とまるでこれからベッドに向かうかのような仕草をして、低い声で、不鮮明でこう言った。
「確か、フランス語、第二外国語は苦手だったんで、忘れちゃいました。フランス語でいいんだよね?」と、今度は彼女にふった。そこで、俺は少し頭にきて、


「もっと口の回りを良くすることだね。歯医者なんだろ。不鮮明な発音なら、フランスもドイツも日本もかわりゃしまい。このどもりめ!」
 これには、さすがのKも怒りを覚えたらしく、自慢話をしだした。
「ぼくは、きみの言うとおりに、うまく発音できないけれども、ぼくはいま美容歯科をやっていて、これは景気に左右されないんだ。結局金を使ってもきれいな歯並びにしたいし、きれいなきみのようなヤニで汚れた歯になりたくない願望があるからね。」
「どのくらい稼ぐんだい?」
「四千万。」
「すごいね」と言いつつ、俺はフックをこいつに決めた。「これで、自分の仲間に歯並びを治してもらいな、」と言い捨てた。彼女も彼女で、こんな奴を介抱している。
 大体こんな奴をなぜ彼女は連れ込んだりしたんだろうか、という疑問が俺には浮かんだ。そこで、彼女に訊いてみるが、いっこうに返事をしない。俺の待遇はどうなるのか、そして、この美容歯科の男を彼女にとって恋人として扱うのか、だとするならば、俺はどんな立場、彼女にとって、俺はどんな立場になるというのか、さっぱり見当がつかなかった。
「露出狂の枠として、二階にいるMのように逸脱した人間として俺をこれから扱う算段なのか?」
「違うってば!そんなことよりも、Kさんにひどいことするわね、これじゃ顔が腫れるわよ」
「腫れるように殴ったんだ。わざとだ。」
「何が不満だって言うのよ」
「別に…ただ、こいつをきみが連れ込んだからさ、こいつ高慢ちきだよ」
 Kは頬を擦りながら、苦笑いをしたが、その笑いが、男にとっては理解できないものであった。
「あーイタタ・・・こりゃ参ったよ。ちゃんと紹介してくれなくちゃ、ひどいよ、まったく、ぼくのことちゃんと説明しないから、こんな乱暴を働くんだと思うよ、そんなにひどいこと言ったかな。そりゃ、少し頭にきたことを認めはするさ、でも、パンチを食らうなんて真似、よくするさ、大学でもこんな奴には出会ったことはない」
「大学にいなくったって、世間じゃいるっていうことだよ、ぼく。」と、言って手入れの行き届いた刀を武士が磨くように、男はこぶしを作り、今度は腹に食らわせた。うっ、と唸り、美容歯科は倒れた。喧嘩になっちゃた!と、彼女は叫んで、止めようとするが、男は馬乗りになって、顔をこぶしでがんがん殴りつけた。何をそんなに憎んでいるのよ!と彼女は再び叫んだが、その辺はどうも男も理解していないらしくただ、なんとなく体が反応するのであった。
「おそらく、拒絶反応でも起こしたんじゃないかな、俺はこの家の一部のようになってしまったようだから、この家の敷居を俺以外のものが跨ぐとこうなっちまうんだろうな」と、冷静に彼女に男は話した。
「もう、止めて!お願いだから、これ以上Kさんを殴らないで、もうKさんを連れてこないから!誓うわ!」と、彼女が大声で男に言うと、男は殴るのをやめた。
「結局のところ、きみ次第ってことだよ、きみが変な奴を俺の目の前に突き出したら、きみを殴らない代りにそいつをきみの分まで殴ってやる、そういうことらしい」と、男は血だらけのこぶしをウールのズボンで拭った。Kは既に意識を失っており、顔はおそらくこれから紫色に変色すると思われるくらいに赤くなっていた。
「まるでオテモヤンだ」と、男はKを見ていった。
 不愉快なのは、Kをよりにもよって俺の部屋にふとんを新たに敷いて、介抱する彼女の考えだ。



読者登録

カナタ ムメイさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について