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 そして、彼女の部屋にいき、彼女の枕の匂いをかいだ。そうすると、なぜか鎮静作用があり、おとなしくなった。鼻を思いっきり擦りつけ、匂いを巨大な、ふいごの要領で吸い込みあじわった。
 それでも、電話は切れなかった。長いこと話を聞いていたようだ。俺はそんなことは知らずにいつのまにか、彼女のふとんで眠りかけていた。雨が降ってきたようで、電話の声は、艶やかに聞こえた。もちろん彼女の声である。あの初診のばか鴉の電話を通過した電子音ではない。
 

 俺は夢の中を彷徨う、鏡なんて考えたからだろうか、夢のまた夢、さらに…それは一向に覚めない夢であった。

 

 次の朝を迎えると、彼女は、隣で、黒づくめで眠っていた。生きている唇、血がかよう指、しなやかな背中、それだけで興奮させる足。黒という色であっても包まれている身体には色鮮やかな生命が宿っていた。まるで、その色が発散してしまっては一大事となることを怖れるかのように、彼女は黒という色を身に纏い、覚醒していない時でさえも気を、神経を使っているかのようだ。
 彼女の眼球がくるくる動いた。
「もう、何を考えているのか分かるわ、電話のことでしょう、そのことを朝一番で聞きたかったんでしょ?ねぇ、あなたこの前あの人が来たとき意地悪したでしょ、そのこと彼は気にしているようよ、悪いことをしたようだ、別に変な気を起こしてはいないが、あの状態では今度はこっちが疑われてしまうから、出直そう、と思った、って言っていたわ。次からは、姿勢を正して…ハハハ、笑っちゃった…姿勢をですって、姿勢を正して出直そうですって、あなたそんなひどく追い払ったの?」
 目をこすって、髪が顔にかかったために手ぐしで後ろに掻きあげて、それを何度か繰り返していた。
「そうとも、追い出した」
「ひどいわね、営業妨害よ」
「今度から気をつけるが、あの鴉は…」
「カラス?」
「ああ、あの鴉は、きみを狙っているんだ。それが分からないかな、俺には、そいつが、はっきりと分かる。自信を持って言える、あいつはきみを狙って、手篭めにしようという顔つきだ」
「そんなにひどく憎むことはないし、それに私のタイプじゃないわ」
 そう言い残して、食堂に向かい、冷蔵庫からボトルを取り出し、グラスを二つ用意して、男を呼んだ。テーブルについて、朝の空腹な胃袋を純粋なミネラルウォーターが満たす。
「ね、昨日買ってきた服着てみない?似合うと思うわ、そう、探検隊みたい…」と言って、くすくす笑った。
「探検隊だって!」
「だって、あなたがどんな趣味かわからないし、私の感性で選んだのよ、どうせなら良い服をと考えて、隣町の比較的開けた商店街のビルで買ってきたのよ、ブランド物よ、あまり知られていないけど、雑誌にも出ていないけど…」
 紙袋をテーブルに置いた。
 まずシャツだが、やたらと襟が大きかった、これでは一年もすれば見捨てられてしまうような、一時的な流行を後追いしたようなものであった。それは、色はレモン色で、貝のボタンであり、相当高かったものに見えた。ブランド名を見ようとしたが、彼女が今度はジャケットを出してきた。
 ジャケットの色は赤だった。これもまた、伝統的な英国を意識したのか、右に二つポケットがついており、上のポケットにはおそらく懐中時計でも入れておくのであろう、ちなみにボタンは三つであった。


 そして、「これはついていたのよ」と言って、お芋のような太いネクタイで、それはもう既に結ばれており、端にはぼっちがあり、それをやたらと大きい襟の裏にもう片方のぼっちが仕組まれていたのであった。そして、水色の短パンで、ウールだそうだ。
「夏場にウールだとは、というのは素人ですって、ウールはよくできているそうよ」
 彼女は真面目な顔をしていった。
 靴にいたっては、ゴム長を思わせるもので、彼女の話ではこの靴は、ハンターが好んではいているそうよ、という。それは、ソールとつま先がベージュで、滑り止めのために出っ張った線が何本か走っていた。そして、それ以外は黒で、ゴムでできているのだった。そのベージュがなければ、ゴム長に鳩目をつけ紐結びにしたように見える。
 げんなりしてしまった。色彩感覚はないが、全体を見ると、変なルパン三世に見えた。
「さぁ、着てみて、どんな感じかしら?」
 彼女は何ら悪意もなく言った。
 そこで、着てみると、ジャケットのサイズだけが、一回りも二回りも小さいために、ボタンをつけることができなかった。無理やり留めようとすると、ボタンから放射状に皺が広がり、腹が締め付けられる感じがした。
 ズボンは丈があっていないらしく、ひざ頭が出て、ホットパンツを思わせるものであり、どうやら、ジャケットに問題があるようで、ジャケットの裾が長いため、ズボンが見えず、穿いていないようにみえる。
「きみ、これはジャケットが長いように感じるんだが、ひどく可笑しく見えないか?」
「そうかしら、でも、…」といって例の靴を手渡すのである。
 そこで、履いてみるのだが、どう見ても変だ。
「ボタンをとってしまえば、前から見たかぎりでは、ズボンを穿いているように見えるわ」
「後ろはどうなのか」
「そうね、でも…後ろから見て、可笑しいな、と思ったら、その人はきっと前から見るでしょ、だから…やっぱりズボンを穿いている、って思うと私は考えるけど…」
「鏡で全体を見てみたい」
「洗面台に鏡があるけど、無駄だと思う」
 洗面台に向かった。
「ね、意味をなさないでしょ」
 その洗面台の鏡では下半身を見るためには背伸びをしなくてはならず、そうすると手前の台が視界を邪魔してしまい、結局、全身を見ることができなかった。それに爪先立ちをするため、鏡の中の映りが、非常に不安定になるのである。
 例の靴にいたっては、そこから伸びる足で、きっと人様は笑うだろうと思い、それとズボンと上はもう想像するのも嫌になるくらいであった。
「仕方ない、あきらめよう」
「そんな変じゃないわ。それに、服にうるさい男の人っていうのもねぇ…」
「わかったよ、でも、うるさい以前の問題じゃないかと思うけれど」
 俺はしばらくその服を着て、靴を履き、居間と食堂を歩き回った。慣れで、違和感をなくしてしまおうとした。だが、いつまでたっても、なじめなかった。
「朝食をとろうではないか」
 彼女はメロンパンを二つと、アイスティーを冷蔵庫から出してきた。


「昨日買ってきた物よ」と言って渡す。
 俺はメロンパンが大好物なので、
「これ、俺の好物だ」と言ってかぶりついた。
 あんこが入っていた。これではメロンパンではない。そこで、彼女にメロンパンを買うときは、あんこの入っていないもので、表面に風味を蓄えたものが正道だ、と説いた。
「結構、うるさいのね」
「メロンパンについては少々うるさいのだ、カレーパンならもっとうるさい」
  

 彼女と交わることは、めっきり少なくなった。モミジマークの性欲。すっかり彼女との間に枯葉が舞散る木枯らし一番がいつの間にやら生じたようだ。そのことについて俺はそんなに気に止めていないというと、嘘になってしまうが、気にしているか、と問われれば、せいぜい標本の蝶ぐらいに俺を扱っているといったことが時たま顔を出す。
 ラジオを聞いていた。これは電池で動く。蚊取り線香は不要だ。聞いたことのない町からの生中継、魚屋が出ていた。アジが百円だよー。ネズミ魚の記憶が再び現れる。
 俺も数が増えていき、それが食用ともならば、このアジのように売りさばかれ、時間が来れば破棄されるか、しょっつるの原材料にでもなってしまうのだろうか、なんだか仲間が売られている気がしてくる。
 魚屋が嫌いになってきた。局を変えてみた。携帯用のラジオだから、ボリュームを上げるとただ単に喧しいだけになる。音楽だ、演歌ではなく、ポップスだ。彼女は好むのか知らないが、また局を変えた。
 そうこうしていくうちに、ラジオのストラップをつかみ、携帯用小型ラジオを振り回した。音が大きくなったり、小さくなったりと目が回るような感覚に襲われる。ラジオの電源を切った。
 外はどうなっているのか、雨雲が立ち込めているのか、からっと晴れているのか、梅雨の中休みだろうか、とにかく庭に出た。
 あの服を着て出たせいか、少しは人の視線が気になってきた。この庭で少しウォーミングアップをして、町に出てみよう、奇妙ではないだろうか、心配だ。
 外に出て、見上げると、晴れ渡って、透き通った紺碧の空であった。彼女と関係をもった芝生の上を飛び降り自殺した現場を見るような、痛ましい感情で眺めてしまう。離れのほうに目をやると、ガラス窓にカーテン、それも厚手の冬の寒い時期にするようなカーテンで窓から中を見ることはできなかった。せめて離れの婆さんが何か評価をしてくれればいいのだが、口が悪いし、俺をとことんこ汚いといっていたから、なんと言われるか分からない。離れはしんと静まり返っていて、中に人の気配がないかのように思われた。足元はサンダルである。靴はいずれこの家から出たとき、たとえば彼女と外食に行くときなどにおろし、それまで部屋で使ってみたらいいだろう、と考えた。どうもあの靴は気に食わない。

 犬小屋に近づくと、犬は擦り寄ってきた。そこで頭を撫でてやった。すると、犬は足をぺろぺろ舐め、俺がしゃがむと飛び掛り、口を舐め始めた。
「おお、これは大変な歓迎だ、なんという名だい?犬種がどうも分からんな、雑種でもないし、おまえさんはどこから来たんだろうか、外国の犬らしいが…先祖はイギリスか、ドイツか、フランスか?」と、男は言って、ああ、俺は外国に行ったことなどなかったな、友人は行ったというが、今の年になってしまったら若いときの感動なんてものは無くなるだろうな。俺がもしネズミ魚で研究材料でなく、保存され、水族館にでも行けば、珍魚として外国にでも行けるのかも知れない。そうすれば、諸外国の皆様に会えるというわけになる。


 庭は手入れが行き届いておらず、俺の知っている範囲では、あの離れから少しはなれたところにあるのはエンジュの木であろう。そして、後は柿ノ木、もみじの木、それから低木にいたってはアジサイ、キイチゴの木、ナンテンていどくらいしか分からない。庭としては大きいのだろう。芝生で彼女は精一杯らしい。他の木は、剪定してもらうしかないだろう。ここで家庭菜園でも開いても面白いだろう、トマト、キュウリ、ナス、シソ、それくらいか思いつかなかった。

 そしてその菜園で取れた野菜を彼女と一緒に食べようと男は考え、物置を探し、スコップで耕そう、として物置を見つけると、鍵がかかっていた。そして、男は庭を後にして食堂に行った。テーブルの上に例の靴があった。ハンターがよく履いているそうよ、という彼女の言葉が過ぎる。オランダの木靴を考えるとこれは世界的に普及しているものなのかもしれない。そんな考え方をしてその靴に足を通す。そこで、ラグソックスを履いたほうがまだ見るに堪えるのかもしれない、と思い、彼女が買ってきた袋を見ると、ソックスがあった。彼女はすっかりソックスを渡すのを忘れていたらしい。そこで、どうにか格好を取って、誰かいそうな気配を感じる診察室に行き、彼女に物置の鍵をもらおうとした。
 診察室に向かうと、彼女が声を堪えているのが聞こえた。そこで、男は恐る恐る診察室のドアをこっそり開けると、初診の男がスーツを着てそのズボンは膝ぐらいのところまで下ろされており、彼女の手が伸びていて、触れていた。バカ鴉の手は彼女の下半身にもうすでに入り込んでおり、指を動かしているらしく、ここからでは見えないが、白衣が揺れていた。
 俺は意気消沈した。今、着ている奇妙な格好からすると、初診の男ははるかに洗練された格好であり、彼女のほうといえばこれまた白衣にスーツというおれを同等の扱いを許さないような格好だ。二人が二人とも垢抜けていたため、余計惨めに見えた。それに追い討ちをかけるかのごとく、この光景を見ているのであるから、惨めさはよりいっそう男を萎びた、半ば腐りかかった青菜のように情けない心情にした。男は耐えられずに診察室に入り込んだ。そして、こぶしで初診の男の陰のうをつぶすかのように殴った。
「出て行け、この鴉、バカ鴉め!」と大声で叫ぶと、彼女は急いで飛びのいて、下着とスカートを同時にもぞもぞしてあげたのだが、それはとても速い動きであり、彼女は格好を整え、俺は奇妙でもきちんと服を着ているために、下半身を露出して、悶えている、苦しがっている初診の男を見下すにはちょうどいい状況となったのだ。
「二度と来るな!」といって、股間に踵を思いっきり振り落とした。こんなときはよく酔っ払ってテレビで格闘技を見ていた、アンディー・フグの踵落しの真似をしていたことが役に立つのである。

「こんなのが目当てなのは、お見通しだ!このバカ鴉め!もう一度言う、二度と顔を見せるな!この家にも二度と近づくな!」と、怒鳴ると、初診の飄々とした男は、気まずそうにしてズボンを上げるのだが、股間の痛みはそうおいそれとはひかないらしく、ズボンを上げる手がわなわなと震えていた。
「女に手を二度と出してみろ、股間を砕いてやる!」と紐を固結びにした上にもう一度固結びをするかのように大声で言った。そうすると、初診の男は、「同意だったんだ」といったので、彼女への説教はあとにするとして、この男に口を利けないようにドリルをもって目玉に付き立てようとしたところ、初診の男は痛みに堪えかねて、まさに鴉がゴミ箱に捨てた食べ残しのハンバーガーを突っつくかのように跳ね、逃げていった。

 それから、彼女に問い詰めると、案の定、昨日の電話で意気投合したのだ、そして、俺を騙したのか、との問いに彼女は、そんなことはないけれども、…といって語尾を濁し、ごめんなさい、といって涙を流した。そこで性的興奮の後に泣き出す心境は理解できない。あの男は悪いが、きみも悪い、きみと俺はまだ付き合っている最中だ、失礼だと言った。


「ね、もうそんなに責めないで、抱いて…」といって、白衣を脱ぎ捨てた。

「今そんな気持ちにはなれない、それにこんな格好で、そのうえ説教をたれたんだ、きみを責めたんだ、それで反省してくれるのかと思ったら、そんなことを平気で言う、きみは変だ」と言った。そうすると、彼女は白衣を診察椅子にたれかけ、ちょっとした遊びのつもりだったの、でもあの男はだめね、不能よ、といい始めた。不能ではなかった、いきり立っていた。嘘つきめ、だんだん彼女が嫌いになってきた。

 二十坪ほどの土地に祖父の代に家を建て、祖父が動けなくなったころ、両親と俺は住み始めた。家の風呂場からは、隣の敷地になっており、その広い庭を眺めることができる。そこには、昭和か、大正時代に建てられたと思われる蔦の絡むぼろ屋があった。その家には老夫婦が住んでいて、夫は引退した大学教授であった。庭は手入れが行き届いておらず、森か雑木林のようだった。家の風呂場には木苺の枝が伸びて窓にかからんとしていた。子供のころはその木苺の実が熟したころ、父と一緒に入浴をし、父が、
「これは食えるんだ。ほら、食べてごらん」といって、実を取り、食べた。父ももいで食べた。甘酸っぱい野生の味がした。それを祖母が何かの弾みに外に漏らし、大学教授が父に語ったそうだ。筍などはいいが、枝が伸びそこに実った果実はいけない。父はそれを怒って、家で祖母に八つ当たりした。祖母は、わたしはもう何も話さない!と叫んで、父としばらく口を利かなかった。父にとっては、その実を悪意もなくもいで、それもその家が手入れがいたらなく、伸び放題伸び、それを放っておいて、食べたからといって、説教をするとは何様だ、あいつは何様のつもりだ、といいたかったのだろう。それとも、まだ幼い子供が嬉しそうに食べた顔を思い起こしたか、親である自分の一時の幸福な光景を爪を立てて破り、裂かれたからかもしれない。父は、その裏に住む、大学教授に冷たくなった。

 

 嫉妬は彼女をみすぼらしくしてしまうのかも知れない。今、食堂で女と食事、粗末であるが、それをとっていて化粧をしておらず、眉毛も描いていないで、今気付いたことなのだが、顔にそばかすがあること、目やにがついていること、髪が整っていないで寝癖がついていて、雨雲が立ち込めて蛍光灯のもとで色がはっきりしないために浅黒く見える、そんな女を半ば蔑んだように見た。その蔑んだ見方というのも、初診の男と接触があった、生々しい接触があったからなのかもしれない。嫉妬なのだろうか。男は回想してみた。男に遊び心を抱く彼女を嫉妬したのではなく、嫌悪感を抱いたのだろうか。だとするなら、なぜ男が付き合っている女以外のものと遊んだからといってそれを認め、女が認められないという伝統――それは恐ろしく古い考え方である、ということを男は知らなかったのだが――をこの女が拒むことを男が寛容になれないのはどうやら離れの老婆から断片的に聞いてきたこの女への偏見なのかもしれない、と思った。この偏見というものは、付き合っているうちに――それがたとえ何年でなくとも――自分自身が主導権を握ることが少なかったからではないだろうか、それとも一人前の、普通の男性として付き合ってもらえなかったからではないだろうか――、そこに原因があると男は分析した。
「ねぇ、まだ怒っているの?」と、彼女が見つめてきた。その視線をさえぎるように新聞紙で顔を覆った。それでは、怒っていることになる、そう思い直し、新聞紙を畳んだ。
「ちょっとした考え事さ、きみはまだ初診の男に、これは正直に言ってもらいたいのだが、なんと言ったらいいのかわからないが、これは恋愛感情ではないと思うのだが、関係をもちたいなんて感情は抱いているのか?」と、男はぎこちなく言った。



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