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 そのようなことをこの初診の男は経験しておらず、それでいて彼女を油揚げを掻っさらう鴉のごとく手にしようとしているのである。だとするならば、少々手荒な真似をして、この憎たらしい鴉を退治しなくてはならない。
 だから、こいつには、鴉というあだ名をつけることにする。その鴉はくちばしを入れてきた。それで、殴りつけるわけにもいかず・・・・どうにかして・・・
 
 初診の男は退散した。しかし後日、こいつは必ずくるにちがいない、それに彼女が休診札を取ってしまい、診察を行うこともありえるわけであり、それを妨害することなど一回なら、ともかくも、そうたびたびできるわけもなく、それに俺も神経が参ってしまう。それならば、彼女を信頼するしかないと考えた。
 彼女は、そのようなことは全く知らないわけで、そもそもそれを知る、知らせようとは思わないが、帰ってきた。紙袋いっぱいにして。彼女は冷蔵庫に向かっていき、冷えたミネラルウォーターをごくごくと音を立てて飲み、
「これ飲む?外すごく暑いのよ、まるで息しないで潜水するようね」と息を切らせながら言った。
「この前きみをいやらしい目で見ていた男が来たんだ、でも俺はこう言ってはなんだがね、追い出した」
「ひょっとして、やきもち焼いたの?」と、からかった。
「そうともとれるね、そうさ、やきもち焼いた…正直に言う」

 

(その時俺はあの八百屋の男を思い浮かべた。すぐに消えた…)

 

「大丈夫よ、問診表の電話で呼んでみるから」
 俺は彼女とあの男が電話で話しを、たとえ事務的な話であってもしてしまう、このことが燻っていた嫉妬を、わんさか燃えさせ、炎は強まった。まるで、初診の男が彼女の耳元で囁くように感じた。
 電話という奴はどうも昔から気に食わなかった。耳という繊細な襞でできている器官を互いに電話機を介在させつつも接近させることが、なんとなく関係を持つかのように感じたからだ。もちろん好意があってのことだ。何の脈絡もなく、たとえば、俺と親父とか、宝くじ売り場の年増の女とか、小学生の子供とか。そういった関係では、そんな感じは起こらない。
 それでも彼女はあの男に電話をした。
 事務的なことだから、と思ってはいたものの、長く感じ、傍らで咳払いなどをし、かちゃかちゃと小物で、音を立てたり、お茶をずるずると啜ってみたりした。そのたびごとに彼女は困った顔をして、その顔がなおいっそう内密な電話のような気もした。
 電話は、もちろん向こうの声は聞こえない。彼女が、「ええ、いつでもかまいません」、「ええ、結構です」と言っただけで、後は、なにやら聞いて笑ったりなどしていた。
 そのため、俺はさらに、何かしら音を立てなくてはならないような気がした。音だけで満足のいかないとわかり、彼女の裾を引っ張ったり、脹脛に舌を這わせたりしたので、困った顔が、徐々に怒りを示すような顔になった。
 それでは困ると思い、立ち上がり、唇を合わせようとした。すると、彼女はスリッパを履いた足の裏で、俺の弁慶の泣き所を蹴った。痛くはなかったが、じゃれたくて仕方のない犬のようになり、部屋を行ったり来たりした。


 そして、彼女の部屋にいき、彼女の枕の匂いをかいだ。そうすると、なぜか鎮静作用があり、おとなしくなった。鼻を思いっきり擦りつけ、匂いを巨大な、ふいごの要領で吸い込みあじわった。
 それでも、電話は切れなかった。長いこと話を聞いていたようだ。俺はそんなことは知らずにいつのまにか、彼女のふとんで眠りかけていた。雨が降ってきたようで、電話の声は、艶やかに聞こえた。もちろん彼女の声である。あの初診のばか鴉の電話を通過した電子音ではない。
 

 俺は夢の中を彷徨う、鏡なんて考えたからだろうか、夢のまた夢、さらに…それは一向に覚めない夢であった。

 

 次の朝を迎えると、彼女は、隣で、黒づくめで眠っていた。生きている唇、血がかよう指、しなやかな背中、それだけで興奮させる足。黒という色であっても包まれている身体には色鮮やかな生命が宿っていた。まるで、その色が発散してしまっては一大事となることを怖れるかのように、彼女は黒という色を身に纏い、覚醒していない時でさえも気を、神経を使っているかのようだ。
 彼女の眼球がくるくる動いた。
「もう、何を考えているのか分かるわ、電話のことでしょう、そのことを朝一番で聞きたかったんでしょ?ねぇ、あなたこの前あの人が来たとき意地悪したでしょ、そのこと彼は気にしているようよ、悪いことをしたようだ、別に変な気を起こしてはいないが、あの状態では今度はこっちが疑われてしまうから、出直そう、と思った、って言っていたわ。次からは、姿勢を正して…ハハハ、笑っちゃった…姿勢をですって、姿勢を正して出直そうですって、あなたそんなひどく追い払ったの?」
 目をこすって、髪が顔にかかったために手ぐしで後ろに掻きあげて、それを何度か繰り返していた。
「そうとも、追い出した」
「ひどいわね、営業妨害よ」
「今度から気をつけるが、あの鴉は…」
「カラス?」
「ああ、あの鴉は、きみを狙っているんだ。それが分からないかな、俺には、そいつが、はっきりと分かる。自信を持って言える、あいつはきみを狙って、手篭めにしようという顔つきだ」
「そんなにひどく憎むことはないし、それに私のタイプじゃないわ」
 そう言い残して、食堂に向かい、冷蔵庫からボトルを取り出し、グラスを二つ用意して、男を呼んだ。テーブルについて、朝の空腹な胃袋を純粋なミネラルウォーターが満たす。
「ね、昨日買ってきた服着てみない?似合うと思うわ、そう、探検隊みたい…」と言って、くすくす笑った。
「探検隊だって!」
「だって、あなたがどんな趣味かわからないし、私の感性で選んだのよ、どうせなら良い服をと考えて、隣町の比較的開けた商店街のビルで買ってきたのよ、ブランド物よ、あまり知られていないけど、雑誌にも出ていないけど…」
 紙袋をテーブルに置いた。
 まずシャツだが、やたらと襟が大きかった、これでは一年もすれば見捨てられてしまうような、一時的な流行を後追いしたようなものであった。それは、色はレモン色で、貝のボタンであり、相当高かったものに見えた。ブランド名を見ようとしたが、彼女が今度はジャケットを出してきた。
 ジャケットの色は赤だった。これもまた、伝統的な英国を意識したのか、右に二つポケットがついており、上のポケットにはおそらく懐中時計でも入れておくのであろう、ちなみにボタンは三つであった。


 そして、「これはついていたのよ」と言って、お芋のような太いネクタイで、それはもう既に結ばれており、端にはぼっちがあり、それをやたらと大きい襟の裏にもう片方のぼっちが仕組まれていたのであった。そして、水色の短パンで、ウールだそうだ。
「夏場にウールだとは、というのは素人ですって、ウールはよくできているそうよ」
 彼女は真面目な顔をしていった。
 靴にいたっては、ゴム長を思わせるもので、彼女の話ではこの靴は、ハンターが好んではいているそうよ、という。それは、ソールとつま先がベージュで、滑り止めのために出っ張った線が何本か走っていた。そして、それ以外は黒で、ゴムでできているのだった。そのベージュがなければ、ゴム長に鳩目をつけ紐結びにしたように見える。
 げんなりしてしまった。色彩感覚はないが、全体を見ると、変なルパン三世に見えた。
「さぁ、着てみて、どんな感じかしら?」
 彼女は何ら悪意もなく言った。
 そこで、着てみると、ジャケットのサイズだけが、一回りも二回りも小さいために、ボタンをつけることができなかった。無理やり留めようとすると、ボタンから放射状に皺が広がり、腹が締め付けられる感じがした。
 ズボンは丈があっていないらしく、ひざ頭が出て、ホットパンツを思わせるものであり、どうやら、ジャケットに問題があるようで、ジャケットの裾が長いため、ズボンが見えず、穿いていないようにみえる。
「きみ、これはジャケットが長いように感じるんだが、ひどく可笑しく見えないか?」
「そうかしら、でも、…」といって例の靴を手渡すのである。
 そこで、履いてみるのだが、どう見ても変だ。
「ボタンをとってしまえば、前から見たかぎりでは、ズボンを穿いているように見えるわ」
「後ろはどうなのか」
「そうね、でも…後ろから見て、可笑しいな、と思ったら、その人はきっと前から見るでしょ、だから…やっぱりズボンを穿いている、って思うと私は考えるけど…」
「鏡で全体を見てみたい」
「洗面台に鏡があるけど、無駄だと思う」
 洗面台に向かった。
「ね、意味をなさないでしょ」
 その洗面台の鏡では下半身を見るためには背伸びをしなくてはならず、そうすると手前の台が視界を邪魔してしまい、結局、全身を見ることができなかった。それに爪先立ちをするため、鏡の中の映りが、非常に不安定になるのである。
 例の靴にいたっては、そこから伸びる足で、きっと人様は笑うだろうと思い、それとズボンと上はもう想像するのも嫌になるくらいであった。
「仕方ない、あきらめよう」
「そんな変じゃないわ。それに、服にうるさい男の人っていうのもねぇ…」
「わかったよ、でも、うるさい以前の問題じゃないかと思うけれど」
 俺はしばらくその服を着て、靴を履き、居間と食堂を歩き回った。慣れで、違和感をなくしてしまおうとした。だが、いつまでたっても、なじめなかった。
「朝食をとろうではないか」
 彼女はメロンパンを二つと、アイスティーを冷蔵庫から出してきた。


「昨日買ってきた物よ」と言って渡す。
 俺はメロンパンが大好物なので、
「これ、俺の好物だ」と言ってかぶりついた。
 あんこが入っていた。これではメロンパンではない。そこで、彼女にメロンパンを買うときは、あんこの入っていないもので、表面に風味を蓄えたものが正道だ、と説いた。
「結構、うるさいのね」
「メロンパンについては少々うるさいのだ、カレーパンならもっとうるさい」
  

 彼女と交わることは、めっきり少なくなった。モミジマークの性欲。すっかり彼女との間に枯葉が舞散る木枯らし一番がいつの間にやら生じたようだ。そのことについて俺はそんなに気に止めていないというと、嘘になってしまうが、気にしているか、と問われれば、せいぜい標本の蝶ぐらいに俺を扱っているといったことが時たま顔を出す。
 ラジオを聞いていた。これは電池で動く。蚊取り線香は不要だ。聞いたことのない町からの生中継、魚屋が出ていた。アジが百円だよー。ネズミ魚の記憶が再び現れる。
 俺も数が増えていき、それが食用ともならば、このアジのように売りさばかれ、時間が来れば破棄されるか、しょっつるの原材料にでもなってしまうのだろうか、なんだか仲間が売られている気がしてくる。
 魚屋が嫌いになってきた。局を変えてみた。携帯用のラジオだから、ボリュームを上げるとただ単に喧しいだけになる。音楽だ、演歌ではなく、ポップスだ。彼女は好むのか知らないが、また局を変えた。
 そうこうしていくうちに、ラジオのストラップをつかみ、携帯用小型ラジオを振り回した。音が大きくなったり、小さくなったりと目が回るような感覚に襲われる。ラジオの電源を切った。
 外はどうなっているのか、雨雲が立ち込めているのか、からっと晴れているのか、梅雨の中休みだろうか、とにかく庭に出た。
 あの服を着て出たせいか、少しは人の視線が気になってきた。この庭で少しウォーミングアップをして、町に出てみよう、奇妙ではないだろうか、心配だ。
 外に出て、見上げると、晴れ渡って、透き通った紺碧の空であった。彼女と関係をもった芝生の上を飛び降り自殺した現場を見るような、痛ましい感情で眺めてしまう。離れのほうに目をやると、ガラス窓にカーテン、それも厚手の冬の寒い時期にするようなカーテンで窓から中を見ることはできなかった。せめて離れの婆さんが何か評価をしてくれればいいのだが、口が悪いし、俺をとことんこ汚いといっていたから、なんと言われるか分からない。離れはしんと静まり返っていて、中に人の気配がないかのように思われた。足元はサンダルである。靴はいずれこの家から出たとき、たとえば彼女と外食に行くときなどにおろし、それまで部屋で使ってみたらいいだろう、と考えた。どうもあの靴は気に食わない。

 犬小屋に近づくと、犬は擦り寄ってきた。そこで頭を撫でてやった。すると、犬は足をぺろぺろ舐め、俺がしゃがむと飛び掛り、口を舐め始めた。
「おお、これは大変な歓迎だ、なんという名だい?犬種がどうも分からんな、雑種でもないし、おまえさんはどこから来たんだろうか、外国の犬らしいが…先祖はイギリスか、ドイツか、フランスか?」と、男は言って、ああ、俺は外国に行ったことなどなかったな、友人は行ったというが、今の年になってしまったら若いときの感動なんてものは無くなるだろうな。俺がもしネズミ魚で研究材料でなく、保存され、水族館にでも行けば、珍魚として外国にでも行けるのかも知れない。そうすれば、諸外国の皆様に会えるというわけになる。


 庭は手入れが行き届いておらず、俺の知っている範囲では、あの離れから少しはなれたところにあるのはエンジュの木であろう。そして、後は柿ノ木、もみじの木、それから低木にいたってはアジサイ、キイチゴの木、ナンテンていどくらいしか分からない。庭としては大きいのだろう。芝生で彼女は精一杯らしい。他の木は、剪定してもらうしかないだろう。ここで家庭菜園でも開いても面白いだろう、トマト、キュウリ、ナス、シソ、それくらいか思いつかなかった。

 そしてその菜園で取れた野菜を彼女と一緒に食べようと男は考え、物置を探し、スコップで耕そう、として物置を見つけると、鍵がかかっていた。そして、男は庭を後にして食堂に行った。テーブルの上に例の靴があった。ハンターがよく履いているそうよ、という彼女の言葉が過ぎる。オランダの木靴を考えるとこれは世界的に普及しているものなのかもしれない。そんな考え方をしてその靴に足を通す。そこで、ラグソックスを履いたほうがまだ見るに堪えるのかもしれない、と思い、彼女が買ってきた袋を見ると、ソックスがあった。彼女はすっかりソックスを渡すのを忘れていたらしい。そこで、どうにか格好を取って、誰かいそうな気配を感じる診察室に行き、彼女に物置の鍵をもらおうとした。
 診察室に向かうと、彼女が声を堪えているのが聞こえた。そこで、男は恐る恐る診察室のドアをこっそり開けると、初診の男がスーツを着てそのズボンは膝ぐらいのところまで下ろされており、彼女の手が伸びていて、触れていた。バカ鴉の手は彼女の下半身にもうすでに入り込んでおり、指を動かしているらしく、ここからでは見えないが、白衣が揺れていた。
 俺は意気消沈した。今、着ている奇妙な格好からすると、初診の男ははるかに洗練された格好であり、彼女のほうといえばこれまた白衣にスーツというおれを同等の扱いを許さないような格好だ。二人が二人とも垢抜けていたため、余計惨めに見えた。それに追い討ちをかけるかのごとく、この光景を見ているのであるから、惨めさはよりいっそう男を萎びた、半ば腐りかかった青菜のように情けない心情にした。男は耐えられずに診察室に入り込んだ。そして、こぶしで初診の男の陰のうをつぶすかのように殴った。
「出て行け、この鴉、バカ鴉め!」と大声で叫ぶと、彼女は急いで飛びのいて、下着とスカートを同時にもぞもぞしてあげたのだが、それはとても速い動きであり、彼女は格好を整え、俺は奇妙でもきちんと服を着ているために、下半身を露出して、悶えている、苦しがっている初診の男を見下すにはちょうどいい状況となったのだ。
「二度と来るな!」といって、股間に踵を思いっきり振り落とした。こんなときはよく酔っ払ってテレビで格闘技を見ていた、アンディー・フグの踵落しの真似をしていたことが役に立つのである。

「こんなのが目当てなのは、お見通しだ!このバカ鴉め!もう一度言う、二度と顔を見せるな!この家にも二度と近づくな!」と、怒鳴ると、初診の飄々とした男は、気まずそうにしてズボンを上げるのだが、股間の痛みはそうおいそれとはひかないらしく、ズボンを上げる手がわなわなと震えていた。
「女に手を二度と出してみろ、股間を砕いてやる!」と紐を固結びにした上にもう一度固結びをするかのように大声で言った。そうすると、初診の男は、「同意だったんだ」といったので、彼女への説教はあとにするとして、この男に口を利けないようにドリルをもって目玉に付き立てようとしたところ、初診の男は痛みに堪えかねて、まさに鴉がゴミ箱に捨てた食べ残しのハンバーガーを突っつくかのように跳ね、逃げていった。

 それから、彼女に問い詰めると、案の定、昨日の電話で意気投合したのだ、そして、俺を騙したのか、との問いに彼女は、そんなことはないけれども、…といって語尾を濁し、ごめんなさい、といって涙を流した。そこで性的興奮の後に泣き出す心境は理解できない。あの男は悪いが、きみも悪い、きみと俺はまだ付き合っている最中だ、失礼だと言った。



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