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ともをまつ

 

 

 

これでも努力はしたつもりだ。

同じ職場で働く者同士、相性の良し悪しはひとまず置いて、お互いを尊重し合う大人な関係を築きたいと思っていた。

店舗管理用のパソコンの置かれたデスクとロッカーを除けば三畳程度しかない事務所。キーボードの横に、ハトムギ化粧水、綿棒、そして青い缶が置かれている。PUFFYの「渚にまつわるエトセトラ」が、奥井店長の充電中のアイポッドからリピートで流れていた。

 

「え、難しいですか?」

『蟹食べ行こう』

「別に難しいこと言ってませんよね?」

『はにかんでいこう』

「じゃあ、何でわかんないんですか?」

『あまりにも絵になりそうな魅力的な長いハッピービーチ』

「日本語わかります?  え、脳みそありますよね? あるよね?  じゃあ使いましょうよ、せっかくだから」

『リズムがはじけて恋するモード』

平たい、無意味な、のんきな歌がおれの代わりに奥井の相手をしていた。

先週、商品の発注漏れがあった。

青い丸缶に入った、ニベアのハンドクリーム。季節的にかなり売れ筋の商品である。それをたまたま現場視察に訪れていた本社の人間に見咎められたことが、事務所内に響く奥井の歯ぎしりを半音高くした。

今夜、こうしておれが居残りを命じられたのもそのせいだ。

確かにおれは発注をしなかった。が、それは「月末はなるべく発注数を絞れ」と以前から指示を受けていたからだった。

「そんなこと言ってない」「絶対に言わない」「言うはずがない」「仮に言ったとしても、それはケースバイケースだから永橋さんがその場で考えて、対応したらよかっただけの話ですよね」

一般的な仕事論にすり替えて責任逃れをする、というのが奥井得意のやり方である。いかにも憤懣やるかたないといった様子で、組んだ足をぶらぶら動かしている。

 

糸切歯の覗く赤い口を見ながら、おれはあることに没頭していた。

 

「換算」。

 

このストレスは何度の酒で解消されるだろう。

飯に換算すれば焼肉何回分、寿司何人前、ピザ何枚分だろう。

風俗何回分、DVD何枚分にあたるだろう。

一人カラオケに換算したら何時間だろう。ユニコーンの「大迷惑」、クリスタルキングの「大都会」、「粉雪」、「移民の歌」。何回歌えば、この鬱屈を吹き飛ばせるだろう。

このストレスと「ちょうどイコール」で結ばれる何かを探す。そんな空疎な遊びを繰り広げるのが、叱られている時の癖になっていた。それだけ頻繁におれは奥井に呼び出しを食らっていたということだ。

 

そもそも叱られている時、人は何を考えたらいいんだろう。

はげしい叱責を受けている人間が、その場できっちりと反省しているわけはないと思う。

相手が瞬間的な怒りに従って叱り、後付けで「教育だ」とか「愛情だ」とか言うように、叱られている側もまた、反省は後付けで、その場ではほとんど何も考えられない、というのが本当だろう。その最中は叱られるという役割に瞬間的に没頭して、肺の隅々まで酸素を送り込まれたような気持ちのまま、じっとしているほかない。

「考えて、行動する。それだけ。こうすればこうなるから、こうしよう。冷静客観的に判断する。それだけのこと。難しいですか? わかりますよね? 永橋さん、いい大学でてんだから」

このセリフを聞くのも何度目かしれない。

『いい大学を出ればいい仕事に就くことができ、豊かな将来が約束される』

おれの世代はその言葉の嘘を証明した、最初の世代だった。

大学の同窓はいまや半数がフリーターになり、正社員として働いているのは元々家が裕福であるか、強力なコネがあるか、もしくはブラック企業という断崖絶壁にかろうじて指先だけでしがみついている者達だけである。

どういうわけか、皆「自業自得」と言われる。おれは親や教師の言葉を信じて勉強していただけだ。正直、大卒のメリットなんて微塵も感じたことがない。学歴があればバイト先でさえ「有能さ」を期待される。もしくは、奥井のような人間から使われる立場になれば、眠っていた彼らのコンプレックスをへんに刺激してしまう。

 

 

初めのバイト歓迎会だった。はっきりと奥井に目の敵にされたのは。

それにしても、「あの時代に就職できなかったやつは全員負け組だ」

なんて、酒の勢いはあったにせよバイトしかいないその場でよく言えたものだと思う。

そのあと場の空気を察して自虐した、

「ま、でも結局どれだけやってもチェーン店の店長どまりなんだけどな。高卒だし。っていうか、中卒で高校中退だし。いずれ平民の人生ってことだよ」

その一言におれだけが笑った。らしい。まったく記憶にはないが、しばらくしてから他のバイト仲間に奥井がそのことを根に持っているらしいと聞かされた。「あいつはおれを下に見てる」。たぶん別の会話の流れで笑っていたのを誤解したんだろう。

 

「あのさ………もう永橋さんに、期待しなくていいですか?」

なんて答えたらいいのか、わからない。いや期待してくれ、と返せばいいのだろうか。

「あ、いいんだ? すごいですね! そんな感覚で仕事やれてんだ。やっぱ尊敬しますよ、永橋さん。それでよく今日までやってこれましたね。だからずっとフリーターなんじゃないですか? っていうか親の貯金食いつぶして大学行って、結局フリーターって親からしたらマジで地獄ですよね。うわ、マジでかっけえ。永橋さん、自分マジで憧れますよ」

閉店からもう二時間経つが、終わる気配はまだない。

奥井はこういう時に限って時間をたっぷり使い、どこまでもねちっこくやる。

「黙ってないで何か喋ってくださいよ」

時折そうやって発言を促す。

これは当然ながら罠で、うっかり従うと最後、奴はその言葉を手掛かりにまたおれを叱りつける。

「全然違います」「まるでわかってないんですね」「っていうか、日本語喋れます?」

奴は暖炉の火を絶やさないように、それを忘れずに行うのだ。

このストレス、金に換算したらいくらだろう。

いくらもらえば、この苦痛も仕方ないと思えるだろう。

その考えは、そのままおれの仕事にもいえた。要するに、これは我慢料なのだ。苦痛に対する対価。それでおれは飯を食うし、水道代と光熱費を払うし、親のオムツを買う。

屈辱を毎月何枚かの紙幣に変換させる。ただ、そうして忍耐を重ねていても、近い将来にそれを償うような豊かな日々が訪れるわけではない。屈辱の日々を越えていくうちに、うつむいたり、天を仰いだり、うつぶせになったりするその形のままに老齢がやってきてしまうのだ。

そんなことはわかっている。その程度のこと、さすがにわかっている。

わかっていて、なんで耐えているのか、わからない。

 

……思えば、おれはずっと換算していたのだった。

もっと前に気づくべきだった。時給という発想がまずそうじゃないか。気づくのが遅すぎたぐらいだ。どうして誰も(なんだよ時給って)と言わないんだろう。

「それじゃあ、チャッチャとやりましょうか」

奥井がおれを促す。

「それで全部チャラにしましょう。ね? それでもう、お互い恨みっこなしで。平和的解決」

奥井が要求しているのは、「顔靴」だ。

がんくつ。聞くところによると、系列の店舗で流行している罰らしい。そのやり方は知っている。ずいぶん前に同期の遠野くんが、やらされてるのを見たことがある。その翌日から遠野くんは職場に来なくなった。

「このくらい、普通ですよ。社会じゃ普通。あ、ずっとバイト生活じゃわかんないか。正社員って、こういうのも耐えてきてるんですよ。いやになったらすぐ辞めるとか、無責任なことできないんですよ。……あの、永橋さん、……あんたぶっ倒れるまで仕事した事ないだろ?  あんたも遠野もさ、平気で土日休みとか希望してくるから腹立つんだよな。あとなんか労働時間の超過がどうのこうのってさ、会社訴えるとか言い出して……大卒ってみんな頭腐ってんのかな? っていうかさ、ウチなんかまだマシ、全然マシだから。もっとひどい会社あるから」

おれは跪き、頭を床に近づける。ためらう間もなく、両手で肩をぐっと押し込まれた。冷たいリノリウムの床に頬がつく。もう一方の頬に、靴の裏が押し付けられる。つま先が粘土をこねるように俊敏に動くたび、頬の内側で歯列がきしんだ。PUFFYがまだ歌っているところを見ると、どうやらリピート再生らしい。

『あのペリカンさみしそう 波にふわふわして』『誰でもせつなくて お魚にもあのパフューム』

おれは自分が、また新たに換算しようとしているのに気づいた。複雑さのない、小学校で習うようなまったくわかりやすい換算だ。

換算。しかし、ばかばかしいにもほどがある。

こんなことがイコールで結べるわけがないじゃないか。

 

「もしおれがあんたなら自殺しますね」

 

でも換算しろ。

できる範囲でいい。

とり返せ。

 

頭のなかで響く声に従って、おれは無理やり等号の二本線を抱き寄せた。

 

 

 

 

 

事務所のドアが開き、頭上から声がした。

 

「永橋。お前……何やってんの」

 

遠野くんがいた。その立ち姿に、ばかばかしいとは思いつつ、おれは曙光を感じた。

どうやら結構な時間が経っていたらしい。そういえば、そうだ。忘れていた。今日は仕事終わりにパーティをやる予定だったのだ。

たらこ、すじこ、明太子に、とびっこ。それらをごはんにのせるだけじゃなく、あらゆる調理法を駆使して食べる、魚卵パーティ。家の冷蔵庫にはスーパー三和で買った安物だが、イクラと雲丹も少量ある。今日ぐらいは、と思って買ったものだ。

遠野くんが自分と同じで魚卵が好物だというのは、バイトの休憩時間に話しているうちに発覚したことだった。

 

「……なんで、そんなの塗ってんの」

おれは床に横たわる奥井の傍に座し、その手にハンドクリームをすりこんでいた。いくらやってもカサつきが消えず、すでに缶の大半を使ってしまっていた。

遠野くんは呆然としてこちらを見つめている。その手には銀座コージーコーナーのロゴの入った箱があった。

何故そんなことをしたのか。

おれにはやっぱり、わからなかった。

ただただ、後悔していた。だいじな約束を忘れていたことに。どうして忘れていたんだろう。忘れてさえいなければ、こんなことにならなかったんだ。そして、もう少しだけ待っていれば。

 

 

遠野くんとおれは、ほんとに仲がよかった。

   

 


奥付



ともをまつ


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著者 : 堀内幸太
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