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 次に先ほどの表情をしたら、紳士的に女と関係を持とうと考えた。その読みは甘かったらしく、先走った、しっぺ返しか、女は傍には寄らず、庭に出て行った。男もついて行った。
 庭には人口の滝があり、犬小屋があった。二人は雨にあたって犬小屋を見ていた。犬の名は訊かなかった。犬は後足の間から赤紫のペニスをだらりと下げてそれを舐めていた。
 女は男の顔を覗き込んだ…男は視線をずらした。そして、女の顔と合った。男は、発情期の話をし始めた、しかし女は、いたずらな笑みを浮かべ、男を挑発した。
「こういうことは生理的に考えるべきさ、きみは歯医者だ、そういうことには慣れているだろう、俺はここに永くいたようだ、もう帰るよ、駅はどこかね」と、男は少し不機嫌になって言ったが、その裏には、女と関係を持ち、あの脹脛を嫌というほど味わいたい気持ちで疼いていた。
「きらいなの…わたしのこと…」
「好き嫌いの問題じゃない、だが、そう、リードされると、調子がおかしくなりそうで…」
「きらい?」
「きみのことか?」
「そうじゃなくて…」
 雨音は一段と増し、女の言っていることは聞こえなかったが、男は女を抱きしめた。

 

 傷を負った鳩を掌で保温していた少年時代の映像が一瞬浮かんだ。

 

 そして二人は庭先で関係を持った。

 

「雨に打たれるのは好きなの…と耳元で女は囁いた。昔ね、診察していたときに失神しちゃった患者さんがいたの、そうしたら、…硬くなって…ズボンが持ち上がって…だから、…わたし、こうしているの好き…誰も見ていないわ…もうおしまいなの?…帰るの?」
 女は雨ですっかり濡れた髪をかきあげ、服を着始めた。男の部分は、しばらく上に反っていたが、次第に、落下していった…女は余韻を楽しんでいた。男は女の踵に舌を滑らせ、脹脛からひざの裏までを丁寧に滑らせた。
「ねぇ、どうして、そう足を楽しむのかしら、じれったいの嫌い」
「きみの足になぜか惹かれたんだ…どうしてか分からない。足に執着するのは…」

 

 小学校に通っていた頃だったのだろうか、授業中に母が学校にやってきた。母の顔は悲しみで暗く、寂しそうで、その落ち込みは激しく、その顔を見たときに俺は分かった。静岡の療養所に祖母がいた。祖母はその当時では、いい薬がなく苦しんでガンで死を迎えようとしていた。母はよく毎週日曜日になると、列車で療養所まで行った。俺も連れて行ってもらったことがあったが、覚えているのは、小便に行きたくて、駅でプラットホームから小便をしたことと、連結器に異常なほど見惚れていたこと、それから、祖母の病室の臭いが酷かったこと、そして祖母の個室にあったテレビでは枯葉剤の奇形児のドキュメントをしていたことだ。祖母は痛い、痛いと苦しんでいるか、薬で恍惚としているかで、もう死ぬのは誰の目にも明らかだった。それから、病院を後にして、確か夏場だったか、五月のひどく暑かった日のいずれかだろう、鄙びた農家の母屋の庭先で女がしゃがんで子供に水浴びをさせていた。子供を母は見て微笑ましい表情をしていたのだろう。しかし、俺はしゃがんだ女の短いスカートから覗く薄いブラウンの色をしたストッキングに包まれた、M字になった太ももと脹脛に、視線が焼け付き、その光景が、その後の女の脚に執着する原風景だったのだろう。


祖母が死にかけていること、その祖母の病室の嫌な臭いがなぜかその光景を強化したようだった。俺は時ある毎にその光景を飽きるほど記憶の中で再現していた。そして祖母は死を迎え、母が学校にやってきたのであった。母に連れられて、俺は通夜に出席した。そこでも喪服から覗く足にやけに執着した。このことは普通であろう。誰しもそんな性に関するきっかけらしきものの一つや二つはあることだろう。ただ、俺の場合女の乳房や性器にはたいした興奮を示さず、足だけで興奮してしまい、その後の女との関係でも足に拘り、どんなきれいな女でも足に目がいき、そこで品定めをしてしまった。

 

「すっかり冷えっちゃったじゃない、私先にシャワーを浴びるわ…」と女は言い、庭を後にした。男は女の後を視線で追った。
庭先に面した茶色の木の艶やかな廊下に女の足跡が湿って続いていた。庭にいる男は、しばらく雨に打たれていた。というのも庭の奥には透明のガラスを嵌めてある離れがあり、そこに老婆が庭にいる男を眺めていたのであったからだ。
その老婆は顔をガラスに押し当てて鼻先のところが、息で、曇ったり、透明になったりして、それが興奮を意味するのか、怒りを意味するのか、無表情のため判断がつきかねていた。老婆は醜く曲がった指先をガラスに押し当て何か文字を書いていたが、水蒸気で曇ったガラスでないために文字は分からなかった。ただ、その老婆が女の身内の者なのか知りたく、また男と関係を結んでいた庭の光景を見てしまったのかを知りたかった。そこで男は離れに行ってみることにした。老婆から何か聞きだし、場合によっては脅かしてせめて関係を持ったことについて公言しないことを誓わせようとした。
 離れのドアをノックした。すると、部屋から意外と鮮明で、しっかりとした老婆の声が聞こえてきた。
「お入んなさいな、誰か知らんがね、まさか私をも襲おうという魂胆じゃないだろうね、私はもうお婆さんだからね、お婆さんを襲うなどといったら、それこそお化けだからね、…とにかくお入んなさいな、ドアは鍵なぞかかとらんよ」
老婆は夏だというのにストーブをつけていた。そして、男がドアを静かに開けると、ちゃぶ台を前に正座していた。長袖で、紺の模様の入った割烹着を着ていた。
「ばあさん暑すぎやしまいかい?」
男は、額の汗をぬぐって、スウェットの上着を脱ぎ、Tシャツ姿になった。
「お母さんかい?あの女の」
口をへの字型にして目をつむっている奇妙な表情の老婆に言った。
「なんだい、お母さんじゃまずいことでもあの女にしたのかい?」
「見ていたとしたら、黙って知らない振りをしてくれないかい」
「嫌だね、これだけを言っておきたいね、私はあの女のかかあでもなきゃ親戚でもないさ、だがね、白の服を着た女と、寝巻きを着たようなおまえさんが、乳繰り合っている姿はとても滑稽だったね。なんだね、あの腰つきは、下手だね。おまえさんは女を楽しませたことはあるのかい?ひどくぶきっちょそうだね、あの女は、色情狂なのさ、私は懇々と説教をしたって、少しも聴いたためしがない、子宮の話し、命の話し、恋愛の話し、私のようにお婆さんともなりゃ若い子なぞ聴くわけがないがね、懇々と説教したもんさ…あの女はね、最初は歯科医のお嬢様だったんだ、なに不自由なく育ったんだがね、見たんだよ、まだ小さな子供のころにあそこを擦っているのを、それを注意したんだ、ばい菌がつくからってね、そうしたことを旦那さまに伝えたら、旦那さまが怒って、私を叱ったんだ、おまえが教えたんだろうってね、


私はいいえとしか言えなかったんだがね、お暇を出されちゃって、私は一人じゃ、どうしようもなかったんだ、田舎は遠かったからね、そうして、病院の家政婦をしたりしてそのことを忘れようとしていた矢先に旦那さまが亡くなったっていう知らせがきたんだ、それは不思議だったんだよ、なんでかって、私の居所を知っているということがだよ、かなり離れてはいたんだ、奥様はその頃元気だったんだ、そしてお嬢様が跡を受け継ぐって話になって、私は何も知らない奥様の頼みで、ここに住み込むことになったんだ。お嬢様はそれは親の七光りもあってか、最初は順調だったんだ、だがね、歯科大学に行っていたときに、悪党がお嬢様に付きまとい始めて、それから、なに不自由なく育ったお嬢様はだんだん変な癖がついてしまってそれが普通で…あとのことは、私はすべて見てきたんだ、その悪党はきちんと大学を出て行ったんだが、残したもの、お嬢様に残していった爪あとはそれは気の毒なくらいお嬢様に沁み込んでしまった、私は、それを何度も何度も、くどいほど説明しても、お嬢様は聞いちゃくれなかった…それからというもの、もうひどいものさ、とっかえひっかえで、患者にまで手を出して、全てあの悪党のせいなのさ、普通の身なり、顔立ちした悪党のせいさ…」
老婆は、話し終えると、目を閉じて上を向いて、念仏のようなものを唱え始めた。そして、男がなぜ夏なのにストーブをつけて、その上、厚着をしているのを不思議に思って、滴る汗を拭きながら、女のことをもう少し聞き出そうとした。老婆はしばらく念仏のようなものを唱えたかと思うと話し始めた。
「それで、悪党はどっかに行っちまったんだがね、お嬢様は結婚もせず、町に出歩いてはおまえさんのような駄目な人間を連れてきては母屋やおまえさんのように庭で交接したんさ、ただ、それだけで終わんないんだ、ひどいことにここの歯医者がすぐにやらせてくれるという評判がたちはじめ、それ目当てにまだニキビのある中高生まで来て、噂はものすごく広まった。強姦もされたんだ。お嬢様は私に泣きついてきたね。お嬢様は、自分がふしだらだからいけないんだ、って泣き泣き言っていたがね、しばらくすると私にだよ、この私に強姦されたときのことを話し始めたんだ。聞くまいとして、お嬢様に、もうお忘れなさい、といっていたにもかかわらず、お嬢様はみほとって何?っていうんだ、だからそういうことは忘れなさいといったんだ、そうしたらお嬢様があれのことかもしれない、って泣き顔で言うんだ、私は黙って聞いていたんだがね、小さな声で独り言のように言うんだ、そのみほとに穴を開けてピアスするぞ、ここには都合よくドリルがあるからな、って声色を使って泣き顔で言うんだ、それを聞いて私は警察に相談したほうがいいですよ、って言ったんだ、でも翌日にはもう忘れてしまったらしく、高校生の男の子を母屋に連れ込んでいたさ」と、言って、ちゃぶ台の上に俯いて寝息を立てて、それがいびきになって寝込んでしまった。
「ばあさん、そんな毒々しい話ほんとかよ」
 男はそう言ったが、老婆はひどいいびきをかいて眠ったままだった。
 ここはやたらに暑い、どうかしている、この老婆の言っていることは自分自身のことかもしれない。そうだ、多分そうだ。
 男はそんな老婆のいいかげんな作り話など信用すまいと思っていると、老婆は、いびきを中断し、俯いたまま言った。
「もって半年、ほんとにおまえは間抜けだね。まずここ一週間はおまえさんをここにおいて置くが、その後はおまえは違う男をここで見かけることだろうよ」
「下女め!」
 そう言い捨てると、男は母屋に向かって歩き出した。


 女はシャワーを浴びて髪を乾かしているところだった。食堂のテーブルの椅子に腰掛けていた。
 男は、濡れたスウェットの上下を着たまま、しばらく女を見ていた。老婆の言葉が頭をよぎり、そう見てはいけない、彼女は違うのだ、あの言葉は老婆の願望なのだ、自分が長年手伝いをしていて同等の立場をおそらく得られず、欲求不満のあの老婆がこしらえた彼女への偏見なのだ、そうに違いない。

 

 フランス人が住んでいた家に当時では物珍しいメガネと海外でしか手に入らないと思われる服装をしたお手伝いさんが子供だった俺の近所に住んでいた。彼女はよく俺に犬の話をし、あるときフランス人の住む屋敷に連れて行こうとした。彼女のことは両親も知っていたし、俺も知っていたから、顔なじみで誘拐などといった大それたことなどは当時考えには無かった。だから、知っている人に素直について行ったというのが正しいだろう。屋敷の庭にはアジサイが草薮に紛れて大きな鮮やかな群青色した花を咲かせていた。雨の降りつづける六月だったと思う。空は白く輝いてあたりは静まり返り、大きな樹が庭には植えられており、枝は、自由に伸びやかに手を広げて、その輝く空から降り注ぐ雨と光の中、俺は放尿した。お手伝いさんは、その間、しゃがんでいた。硬くなって、まっすぐに伸びたそれを、うっとり見つめていた。彼女は視姦をしていたのだろう。そして視姦という行為がまだ小さな子供だった俺に芽生えさせたことに今考えればそうなる。放尿をし終えて、俺は半ズボンのチャックを閉めて、彼女に手を引かれて、屋敷に上がりチーズサンドと甘いカルピスを与えられ上機嫌だった。

 

 タオルで髪を拭き、乾かしているとき女は首を俺のほうに向けて頭をこんこん動かしながら、
「あなたさっきもそうだったわ、なぜじっと私のことを見つめたり、喋んなかったりしているのかしら…どうしてなの?」
「いいや、俺は喋るのが下手で、昔友人の結婚式に出席したときにスピーチを頼まれたんだ。その時スピーチなんか知らなくて、図書館にはじめて行って…いや、本代を惜しんだわけじゃないんだ、ただそんなことは稀だし、使い古す本でもなさそうだったから…」
「それは本代を惜しんだっていうことと同じよ」
「なぜ?」
「だってそうじゃない?代金を支払う価値がその本には無いと考えていたからよ」
「なぜ、そう責めるように話すんだ」
 男は少し不機嫌そうにはしていたものの、女に対して怒りを見せるようなことはしたくなかったため、静かに話し出した。
「だから、分かった、俺は本代を惜しんだんだ。そうしよう」
「私…別にそんな責めるように言ったかしら?…」
「そう聞こえたんだ、たぶんはなれに住んでいる老婆に会ったからだろう」
「ロウバ?」
「そう、老婆さ、お手伝いさんみたいだ、話を聞いていたら」
「あの人のことね、そう、お手伝いさんよ、でも…私の悪口を言っていなかった?」
「色情狂だって…」
「また、その手か…」


 彼女は余裕のある微笑を顔に浮かべた。これは明らかに老婆の言ったことが出たら目であることを示しており、俺は、頭に渦巻いていた、毒々しい偏見を払拭するには十分な言葉であった。強姦されたこと、誰かまわず交渉をするという彼女への言葉、イメージはやはり老婆のあの暑苦しい離での妄想でしかなかったのだ、ということに確信を抱いた。そして、彼女に近づいて傍らに椅子を持っていき、腰掛けた。彼女の顔を一瞬見た。
 
 俺が男色だという噂が学生時代に流れた。とんでもない噂を俺は調べていって馬鹿でかい陰険な顔をした男に突き当たった。そいつはぶるぶる震えながら詰問する俺に恐れをなして謝った。陰険な人間は数え切れないほどいる。あいつにもっと接近して、逆にあいつが男色家だということを仄めかしたほうがよかったのかもしれない。あの糖尿病の男に少し似ていた。

 

 彼女は、「髪をドライヤーで乾かすから、少しここにいて?あら、びしょ濡れじゃない、スウェットを乾燥機に入れて乾かすわ」と、言って、俺を裸にしてどこかに行ってしまった。裸で椅子に腰掛けてバナナを齧った。時刻は七時を回っている。庭のほうに目を向けると低木やら、伸びきった雑草の類で離れの窓はすぐには見えず、これでは庭先で彼女を抱いた際に回りに気を取られないのはあたりまえだと気付いた。
 バナナは本当に甘い。上階があるのだろうか。上で何か動く音がする。ネズミ…俺は笑い、それにしては軽やかな音ではない、もっとずっしりとした音だ。そのことにはあまり気にはしなかった。
 彼女はどこか別の部屋を回ったようで、この食堂に来るまで少し時間がかかった。俺は次第に酔いから醒めはじめ、眠たくなってきた。

 

 桜吹雪が春を示していたのだろう。それは度を越しており、あたりは桜の花で白くなってしまっていた。俺は漆黒の所々金で飾られた台に乗せられ、顔は判別できないが何人かで運ばれていた。結婚式なのだ。お城が見え、不思議なことに桜の花びらは誰一人として頭髪に付着しなかった。俺は先頭を行く台の上の女に目をやった。後姿で誰であるか分からない。日本髪をしていて、それが地毛であった。しばらくのあいだ台を担いだ人々は何も文句を言わず黙々と進んだ。父が囁く。「年の差などは関係が無い。いま幸せだったらそれでいい。」
 真昼ののんびりとした時刻で、陽光が二人を包み込んでいた。俺は父に披露宴は彼女がやりたいといったらやってくれ、俺は正直言って好きじゃない、と小さな声でいった。父は分かったようだ。桜並木を長いこと進んだ。台を担ぐ人々を除いて誰もいなかった。城は俺と女の行進が続くにつれはっきりしてきた。城の窓から人が覗いていた。カメラを腹のところにぶら下げているから観光客のようだ。彼は盛んにカメラを背中に回し、撮るまいとしていた。その男を俺は見ていると、傍にその男のつれだろうか、女と子供が狭い窓に顔を出した。女はその男の服を引っ張っている。まるで見てはいけないような素振りだ。子供は、窓枠には届かないらしく、女が抱えて、俺と女の結婚式を見物していた。カメラをぶら下げた男が、カメラで、俺の行進を撮ろうとした。女はその男の手を叩き、カメラは再び腹のところを振り子のように揺れていた。男は何か文句を女に言ったのであろうか、口論をしている様子だった。
先頭を行く女が振り返ると、離れの老婆であった。俺は、その老婆と結婚することになることをはじめて知った。



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