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「虫歯がありますが…」
 彼女はミラーで、光を反射させ、歯を丹念に調べ、弾きだしていく。
「放っておいてかまいません。後日先生のところにまた来ますから」

と、意外と誠実な発音をさせて話した。
「ここもそうです。そうですね、一度にできませんから、徐々にやっていきましょう」

といって、歯の掃除に取り掛かった。そして、患者は何事もなく帰って行った。
 彼女はその患者だけを待っていたかのように、もう休診札をドアにかけた。俺は診察室に安心して入っていった。
「あの患者きみのうなじをいやらしい目をしてみていた、うなじだけではない、足も腰もあそこもみんな見ていた気がする」

と、俺は子供のように彼女に訴える。彼女は驚いて、
「なーに、見ていたの?」と、返答し、

「あなたのも見ましょうか?虫歯があるって言っていたじゃない?」
 彼女は最近、言葉を濁さない。そういえば先ほどの患者に対しても、言葉を濁さなくなっていた。
「いいよ、いや…、いいや、結構」
 彼女は微笑んで、椅子に座るように手で合図を送り、ライトをつけた。
「治した方がいいわ、どんどん進行するものなのよ、それとも私の腕を信用していないのかしら?」
「いや、そんなわけじゃない。昔、神経を抜かれたときの近所のおばさんが、ひどく叫んで、痛い、痛い、ともんどりうっていたのを見たんだ、夕暮れ時で気味が悪かった。それからあまり、歯医者さんには行かない。よほど痛くなってからじゃないと」
「私、私が見るのよ、平気でしょ、ちょっとだけ…」
 彼女の言葉で男はしぶしぶ診察椅子に腰掛けた。
「神経を抜くほどではないわ、大丈夫、簡単に治るわ、少し怖いでしょうけど、削るからね」
 彼女が、素手で、口に侵入してきたので、彼女の指を吸った。彼女は、「もう」と言って、肩をたたいた。それから歯を削られ、プラモデルをこしらえるときの、接着剤の臭いがする、パテを塗られて、虫歯退治をした。
「また、新しいパーツになったわね、技巧士さんに注文して被せるから、一週間くらい必要ね、それと歯を掃除する?」
 彼女は首を傾げて返事を待った。男はヤニで汚れているだろうから、そうして欲しいといった。そういうのも、また彼女の指に舌を絡めたかったからであった。
 
 満ち溢れ、褪めた欲求は笑いをもたらすのだろうか、俺と彼女は下らぬ話をして、交わることはなくなっていた。そのことで少しは対等の立場を取ることができるようになった気がした。つまり、彼女が主導権を握り、俺を露出狂の枠に閉じ込め、彼女の思い描いた、求めていた男性像を強く要請してこなかったことは、喜ばしいかぎりであった。 

 Mについての話だけは、和んだ雰囲気の中でも、決して彼女の口からは寸分も漏らすことはなかった。Mについて深く知ろうとすれば、彼女の見せたくない一面を見ることになるだろう。


 ただ、気になる、というものなのか、気に障る、というものなのか、Mよりも、つい最近この歯科医院を受診した、あの初診の男のほうが、頭を占拠していた。
 彼女とラジオも聞かず、即席ラーメンを食べながら、例の、やぶ蚊取りを兼ねて、短時間の、蚊取り線香が消えると、寸断されるテレビを鑑賞をしているときでも、初診の男が癪に障ったままだ。
「あの初診の男を面倒みるのかい?」
「そうよ、虫歯が多いから治さないと、そのうち、だんだんひどくなって、腐ってしまうわ。それにどこで受診したのかわからないけれども、虫歯でない歯まで削っていたみたいだわ、気の毒に」
「この前きみはあの男が帰ってから、休診札をかけたね、あれはどういうことなんだい」
「あなたと一緒にいたかったからよ、歯科医は、お小遣い稼ぎ程度になってしまっているのよ」

 と、爪を見ながら話をした。
「金はどうしている?遺産が転がり込んだのか?」
「少しだけね、だから生活には困らないの…」
「だから、俺みたいな奴を連れてきたりしているんだ」
 彼女は何も答えず、居間から食堂に向かった。その後を付いて行った。
 すると、彼女は、アオカビが生えている腐ったルーを見て、鍋を洗い始めた。
「どうも臭いがすると思ったら、これね」
 女は顔をしかめて言い、男が隣に位置を取り、
「腐っているのはルーだけじゃないんだ、バナナも腐っている」
 蒸れた臭い腐ったバナナの入っている白いビニール袋を女に手渡した。彼女は手際よく手渡された袋に、腐ったルーを新聞紙に包んで入れ、
「ちょっと捨ててくる、ゴミ屋さんまだ来ていないわよね」、と言って、外に出た。
 なんの洒落気もない、色気もない、ただ単に時刻だけを伝える壁掛け時計が、午前八時をさしていた。
 彼女が帰って来ると、男は服を買いに行ってくれるか、と頼んだ、しかし、彼女は外に散歩に出るのだったら、今の格好でも別に違和感はないわ、もし自信がなかったら、私も一緒に付き合うけれど、と言った。
「そうだ、夏らしい格好をしたい、シャツと短パン、それにソールがごつごつしたブーツが欲しい、この辺にないのかな」
 彼女は下を向いてしまった。彼女に、何をしたというのだろうか。彼女は、しばらく落ち込んだ表情をしていて、これではまだ俺をこの家に閉じ込めて、対等でない立場にしようと、いうのだろうか。腹痛は治ったわけだ、店に行くことぐらい簡単だ。

 ただ、なぜかスウェットスーツでは、外に出られない、裸で歩いていたときにはそんな気は起こらなかったのだが、社会では服というものが、一つの連帯を生み出し、それから逃れたり、見劣りするものを排除してしまう。服というものは人間の警戒信号のスイッチを入れさせるための動機に成り果てるようだ。


 

 なんのことはない、彼は黄色が好きだったのだ。服も黄色、ノートも黄色、クリアファイルも黄色、靴も黄色、帽子も黄色、財布も黄色、…黄色が警戒信号であることと彼の黄色に拘ることはそう短絡的に関連はしないように見えた。髪の毛を黄色に染めてみた。ネクタイも黄色にしてみた。そうこうしていくうちに部屋の壁も黄色にし、カーテンも黄色、テレビも黄色、電話も黄色、「イエローバード」を聞いていた。

 友人の話では彼は小さいときに、黄色の車を見てから黄色が、彼の色だと決まった、決定打となったと言っているが、どうみてもおかしい。友人はその点、好奇心が強いので彼に接触しだし、黄色の秘密を彼から探ろうとした。そして、初めは外で会って、いろいろなところに行って、彼と親密になろうとした。

 そうすると、今度は互いの家を訪問しだす。そして、話を聞いているうちに、黄色の秘密がわかった。その秘密というのは、彼には黄色の服を着た双子の看護婦が見えるというのだ。ほら、そこにいるでしょ、といって友人に指し示すが、友人には見えない、それで友人は見えないというと、彼は怒り出し、もうそういう人とは付き合いたくない、といって別れたのだそうだ。

 しかし、話はそこでは終わらない。友人の部屋に一本のひまわりが送られてきた。それを契機に友人は黄色に冒された。ミイラ取りがミイラになったのだ。彼の警戒色は毒を持っていたのであった。

 

「何を思いつめているのか分からないけれど、俺がそんな無理難題を吹っかけたか?」
 彼女は顔を上げた。
「いいえ、…そんなことはないわ。ただ、そう、そんなに私の家にいることが嫌なのかなと思って、外に行きたい外に行きたい、というんですもの…」
「きみにはなんか、引っかかるというか、外に出すのを拒んでいるように思えるんだ。この家の秘密など公言はしないし、それに、第一俺はこのあたりに住んでいないんだ。知り合いをつくられると困るというのならば、外であった女の人が、にこやかに、『おはようございます』と大きな声で言っても無視して、口をしっかりと閉めて、そう、こうやって、――できるかぎりの演技はしてみた――だから、そうだな、とりあえず、一緒に外にいけるだけのレベルの服が欲しい。きみがスーツを着るのならば、俺もスーツが欲しい。同等の服で嫌ならば、」
 ここで彼女は切り込んできた。
「じゃ、なに?私があなたにろくに満足な服を与えないで、この家に閉じ込めておくとでも言うの?」
「違う、そうとれる、といいたいんだ。わからないかな、だから、服を用意してくれるだけでいいんだ、で、できない、どうしてもできないならば、その理由を知りたいんだ」
「わかったわ」
 彼女はそう言って、財布を持ち、外に出て行った。男は、なぜ彼女が服を用意しないのかを考えてみたものの、結局は俺を露出狂の枠に閉じ込めるためだとしか言いようがなかった。

 服を彼女が買ってくる間に、時間がかかりそうなため、男は何をしようかと思い始めた矢先に、休診札を掲げているにもかかわらず、待合室のドアを叩く音がした。

 そこで待合室に向かい、ドアを開いた。すると、あの初診の男が立っていた。


「休診とありますが、いったい何時ならやっているのでしょうか。この歯科医院では休診がやたらと多く、実際診察などしておられるのか、と思いましてね、思い切ってドアを叩いたのですが、あなたは旦那さんでしょうか?」
 帽子を取り去り、礼儀正しく尋ねた。
「旦那でなく、恋人だ」
「ああ、で、先生は、いらっしゃるのでしょうか。できれば、診察をしていただきたく思いましてね。いらっしゃいますか?」
「いない、この歯科医院は、ほとんどやらないんだ、他の歯医者を探したほうがいい」

と、つっけんどんに答えた。
「では待たせていただきます」

と言い、待合室に入り込もうとした。
 しかし、ドアをほとんど立ち塞がるかのように男は立っていたため、初診の男は隙間を狙って、どうにか潜ろうとする。意地悪なことに、その隙間を、手を伸ばして、入れないように、邪魔をした。
「すみません、ちょっと通してくれませんか」
「いや、いないと言ったはずだ、今日は診察はしない」

と語気を強めにして言った。
「恋人を取られる心配をしていらっしゃるのでしょうか」

と、額に汗をかき、それをハンカチで拭きながら言った。
「いいや、違う、さっきも言ったように、診察は決まっていないし、今日は診察をしないと言ったじゃないか!」
「ですが、虫歯がひどくなったようで、痛いのです、待たせていただけないでしょうか」

と懇願するように言った。
男はそれがなぜなのか分からない、普通こうまでして拒否されたら根負けをして速やかに退散することだろうに、この初診の男はいつまでたっても、低姿勢で、丁寧で、穏やかだ。年齢からいえば、頭髪の薄さからいえば、俺のほうが若い、それなのに、この男は、腹を立てずに、頼んでいる。
 この男なら、彼女に対して献身的な行動、行為をすることだろう。だとするならば、その献身さが仇となって、二階に住む奴隷Mの二番煎じをこの男はやらかすというものだ。だとするなら、滑稽だ。
 その点、俺は彼女の奴隷にはなっていない。その証拠に、たった今彼女を買い物に行かせたし、関係も持っている。それも一週間もだ。それに腹痛という、ちょっとした出来事に対しても乗り越えてきたわけであり、彼女との人間関係についても濃密になっているからだ。

 

ねずみ魚(下)につづく


この本の内容は以上です。


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