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 部屋に女がやってきた。しばらく枕もとで座っていたのであるが、脚を崩してため息をついた、そして唾液を飲み込む咀嚼音を立てて、切り出した。
「二階の部屋を、もうじき明渡そうかと思っているのよ、それでいま二階の人に交渉している最中なの、どう思う?私とあなただけの世界を作るのよ、そう悪くない話でしょ、私といるのは苦痛?ねぇ」と、女は返答を待った。
 男は苦痛で顔をゆがめて、背を丸めた状態で布団の上で、もだえていた。

 しかし、女はそれを腹痛で苦しんでいるのかと考えもしないで、ひたすら返答を待っていた。
「ねぇ、返事くらいしてよ、どうなの、あの二階のやつを追い出すのよ、それで、…」
 次の言葉を伝えようとしたときに、男は苦し紛れに言い放った。
「おもちゃ遊びなんだろ!所詮俺を、弄繰り回して、捨てる気なんだろ!」
「そんなことはないわよ、なんで、そんなに怒っているのよ、何がそんなに不安なのよ」
 女は覗き込んで言う。
「腹が痛いんだ、それをきみは放っておいた。それで俺は砕け散ったんだ。せめて俺をこの家から出してくれ、それには服が必要だ、前にも言ったようにカジュアルな服をくれ、それと医者を呼んでくれ、これは正露丸でも止まらない痛さだ…」

と、脂汗をかいて、最後の方は呻き声のようになっていた。
「しかたないじゃないの、二階の人のことでもめていたんだから、正露丸があったでしょ!」

と、女は怒って、男に言った。
「老婆がくれたものだ!恵んでくれたものだ!」
 便所に向かう。女は泣き出して布団に崩れていった。

 

 医者が来た。内科医で、隣町からだという。

 彼女は診察のときに薬瓶を持って座っていた。医者は聴診器を使い、それから触診をして、なにを食べたのか、と聞いた。男は腐ったバナナだと思う、と答えた。そして、医者は彼女から薬瓶を手にして、老眼鏡をかけ、顔を反るようにして説明書きを読んだ。
「あれ、これ変ですね、ラッパのマークじゃない。それに成分が違いますね。私などは子供のときに耳鼻咽喉科に行ったんですよ、そうしたら、先生は鼓膜が内側にへこんでいる、と診断をしましてね、鼻にゴムマリのようなもので空気を送るんです。そのときに先生は『ラーッパ』といって、ぼくも『ラーッパ』と大きい声でいうのです。それで空気を鼻から送る、そうして、凹みを無くすんです。それは小学校三年生までなんです。それ以降は大人の方法、鼻に金属の管を挿入して、それが今考えると、子供にとっては痛いものでした。それはそうと、それ、言ってごらんなさい、よーく効きますよ、それ、ラーッパ!それ、ラーッパ!…」
 医者は大声で言った。彼女も負けじと大声で言う。俺も仕方なく、大声で言った。その奇妙な医者が注射をして帰ると、彼女は薬屋に行き、本物の正露丸を買ってきた。贋正露丸は庭先に捨てたという。


 二日くらいだろうか、いつのまにか腹痛は治ってしまい、彼女と過ごす時間は先日から比べると長かった。
 

 そんな折、休診札を彼女が取り去っていたとは知らなかった。だから、彼女が診察室にいて、白衣を着て患者を待っていることを俺は気付かなかった。彼女は診察椅子に腰掛けて、足を組んで目を閉じていた。いつ来るとも限らない患者を彼女は待ちつづけた。
 俺は居間で即席ラーメンを食べて雑誌を読んでいた。休日ではないのに、休日のような、のどかな日だった。爪が伸びていたので爪切りを探し、小物入れから取り出すと、新聞紙を広げて足の爪を切っていた。

 

 死んだ人は髪の毛も生えつづけ、つめも伸び、髭も伸びる。死んだ祖父がそうだった。祖母はそのころ元気で、床に横たわった死んだ祖父の爪を切っていた。それが二日後には火葬場に行くのだ。それなのに、最後の最後まで祖母は祖父の世話をしていた。

 

 足の爪を切り終わり、新聞紙をたたんで切った爪をごみ箱に捨てに行った。ごみ箱は食堂にあり、燃えるごみだろうと思い生ごみのほうに包んで落とした。診察室で声がした。
「初診の方ですね、ではこちらに記入してください」
彼女は問診表を手渡す。しばらく使われず、俺と彼女から発散した桃色の空気を吸った淫靡な問診表だ。患者は問診表を書き、彼女は事務的に準備をする。その様子を診察室に通じるドアをこっそり小さく開けて覗いていた。

 患者はどこも悪そうもなく、ただ歯を掃除してください、とだけ言って、書き上げた問診表を渡した。
 よりにもよって、こんな廃業寸前の歯科医院を受診するとは、たいがいは彼女目当てなわけであろう。この変な患者、下心みえみえの患者をあっさり、あしらう彼女を予想していた。
 しかし、彼女は患者に診察椅子に腰掛けるように促した。そうすると、患者は彼女のうなじをじっと、焦げるような視線を浴びせたのを、俺は見逃さなかった。あの男は、うなじに拘るのだろうか?

 その患者を俺は想像の腕で捏ねまわし、殴り、蹴飛ばし、引っ叩いて、この歯科医院から追放したくなった。

 ライトを彼女はつける。ここからではよく分からないが、安い合金の金冠だらけの歯のような気がした。
「これから、デートですか?」
 彼女が言って、俺は、なんということを言い出すのか、と驚いた。普通、このような話題は親しい人同士で話すものだ。なんということはない、俺は嫉妬していたのだ。

 こうして、廊下に立ち、やぶ蚊に刺されながらも、患者の動き、視線、姿勢、そしてズボンの股あたりをしっかり、獲物を追う、狩りをする動物のように見ていた。

 患者は笑って、そうです、と答えた。ここで、ひと安心する。彼女目当てではないと。
 彼女は患者の顔に、胸を押し付けるようにして、エプロンをつけた。ブルーのエプロンだが、あの患者には、象さんのマークが入った、赤ん坊の涎掛けでいいくらいだ。
 彼女がまた覆い被さって、口に脱脂綿を入れた。患者は、だらだらと、しまりのない、唾液がその口を満たし始めた。唾液が溜まったのを、彼女はごく自然に見つけて、脱脂綿を取り換える。


「虫歯がありますが…」
 彼女はミラーで、光を反射させ、歯を丹念に調べ、弾きだしていく。
「放っておいてかまいません。後日先生のところにまた来ますから」

と、意外と誠実な発音をさせて話した。
「ここもそうです。そうですね、一度にできませんから、徐々にやっていきましょう」

といって、歯の掃除に取り掛かった。そして、患者は何事もなく帰って行った。
 彼女はその患者だけを待っていたかのように、もう休診札をドアにかけた。俺は診察室に安心して入っていった。
「あの患者きみのうなじをいやらしい目をしてみていた、うなじだけではない、足も腰もあそこもみんな見ていた気がする」

と、俺は子供のように彼女に訴える。彼女は驚いて、
「なーに、見ていたの?」と、返答し、

「あなたのも見ましょうか?虫歯があるって言っていたじゃない?」
 彼女は最近、言葉を濁さない。そういえば先ほどの患者に対しても、言葉を濁さなくなっていた。
「いいよ、いや…、いいや、結構」
 彼女は微笑んで、椅子に座るように手で合図を送り、ライトをつけた。
「治した方がいいわ、どんどん進行するものなのよ、それとも私の腕を信用していないのかしら?」
「いや、そんなわけじゃない。昔、神経を抜かれたときの近所のおばさんが、ひどく叫んで、痛い、痛い、ともんどりうっていたのを見たんだ、夕暮れ時で気味が悪かった。それからあまり、歯医者さんには行かない。よほど痛くなってからじゃないと」
「私、私が見るのよ、平気でしょ、ちょっとだけ…」
 彼女の言葉で男はしぶしぶ診察椅子に腰掛けた。
「神経を抜くほどではないわ、大丈夫、簡単に治るわ、少し怖いでしょうけど、削るからね」
 彼女が、素手で、口に侵入してきたので、彼女の指を吸った。彼女は、「もう」と言って、肩をたたいた。それから歯を削られ、プラモデルをこしらえるときの、接着剤の臭いがする、パテを塗られて、虫歯退治をした。
「また、新しいパーツになったわね、技巧士さんに注文して被せるから、一週間くらい必要ね、それと歯を掃除する?」
 彼女は首を傾げて返事を待った。男はヤニで汚れているだろうから、そうして欲しいといった。そういうのも、また彼女の指に舌を絡めたかったからであった。
 
 満ち溢れ、褪めた欲求は笑いをもたらすのだろうか、俺と彼女は下らぬ話をして、交わることはなくなっていた。そのことで少しは対等の立場を取ることができるようになった気がした。つまり、彼女が主導権を握り、俺を露出狂の枠に閉じ込め、彼女の思い描いた、求めていた男性像を強く要請してこなかったことは、喜ばしいかぎりであった。 

 Mについての話だけは、和んだ雰囲気の中でも、決して彼女の口からは寸分も漏らすことはなかった。Mについて深く知ろうとすれば、彼女の見せたくない一面を見ることになるだろう。


 ただ、気になる、というものなのか、気に障る、というものなのか、Mよりも、つい最近この歯科医院を受診した、あの初診の男のほうが、頭を占拠していた。
 彼女とラジオも聞かず、即席ラーメンを食べながら、例の、やぶ蚊取りを兼ねて、短時間の、蚊取り線香が消えると、寸断されるテレビを鑑賞をしているときでも、初診の男が癪に障ったままだ。
「あの初診の男を面倒みるのかい?」
「そうよ、虫歯が多いから治さないと、そのうち、だんだんひどくなって、腐ってしまうわ。それにどこで受診したのかわからないけれども、虫歯でない歯まで削っていたみたいだわ、気の毒に」
「この前きみはあの男が帰ってから、休診札をかけたね、あれはどういうことなんだい」
「あなたと一緒にいたかったからよ、歯科医は、お小遣い稼ぎ程度になってしまっているのよ」

 と、爪を見ながら話をした。
「金はどうしている?遺産が転がり込んだのか?」
「少しだけね、だから生活には困らないの…」
「だから、俺みたいな奴を連れてきたりしているんだ」
 彼女は何も答えず、居間から食堂に向かった。その後を付いて行った。
 すると、彼女は、アオカビが生えている腐ったルーを見て、鍋を洗い始めた。
「どうも臭いがすると思ったら、これね」
 女は顔をしかめて言い、男が隣に位置を取り、
「腐っているのはルーだけじゃないんだ、バナナも腐っている」
 蒸れた臭い腐ったバナナの入っている白いビニール袋を女に手渡した。彼女は手際よく手渡された袋に、腐ったルーを新聞紙に包んで入れ、
「ちょっと捨ててくる、ゴミ屋さんまだ来ていないわよね」、と言って、外に出た。
 なんの洒落気もない、色気もない、ただ単に時刻だけを伝える壁掛け時計が、午前八時をさしていた。
 彼女が帰って来ると、男は服を買いに行ってくれるか、と頼んだ、しかし、彼女は外に散歩に出るのだったら、今の格好でも別に違和感はないわ、もし自信がなかったら、私も一緒に付き合うけれど、と言った。
「そうだ、夏らしい格好をしたい、シャツと短パン、それにソールがごつごつしたブーツが欲しい、この辺にないのかな」
 彼女は下を向いてしまった。彼女に、何をしたというのだろうか。彼女は、しばらく落ち込んだ表情をしていて、これではまだ俺をこの家に閉じ込めて、対等でない立場にしようと、いうのだろうか。腹痛は治ったわけだ、店に行くことぐらい簡単だ。

 ただ、なぜかスウェットスーツでは、外に出られない、裸で歩いていたときにはそんな気は起こらなかったのだが、社会では服というものが、一つの連帯を生み出し、それから逃れたり、見劣りするものを排除してしまう。服というものは人間の警戒信号のスイッチを入れさせるための動機に成り果てるようだ。


 

 なんのことはない、彼は黄色が好きだったのだ。服も黄色、ノートも黄色、クリアファイルも黄色、靴も黄色、帽子も黄色、財布も黄色、…黄色が警戒信号であることと彼の黄色に拘ることはそう短絡的に関連はしないように見えた。髪の毛を黄色に染めてみた。ネクタイも黄色にしてみた。そうこうしていくうちに部屋の壁も黄色にし、カーテンも黄色、テレビも黄色、電話も黄色、「イエローバード」を聞いていた。

 友人の話では彼は小さいときに、黄色の車を見てから黄色が、彼の色だと決まった、決定打となったと言っているが、どうみてもおかしい。友人はその点、好奇心が強いので彼に接触しだし、黄色の秘密を彼から探ろうとした。そして、初めは外で会って、いろいろなところに行って、彼と親密になろうとした。

 そうすると、今度は互いの家を訪問しだす。そして、話を聞いているうちに、黄色の秘密がわかった。その秘密というのは、彼には黄色の服を着た双子の看護婦が見えるというのだ。ほら、そこにいるでしょ、といって友人に指し示すが、友人には見えない、それで友人は見えないというと、彼は怒り出し、もうそういう人とは付き合いたくない、といって別れたのだそうだ。

 しかし、話はそこでは終わらない。友人の部屋に一本のひまわりが送られてきた。それを契機に友人は黄色に冒された。ミイラ取りがミイラになったのだ。彼の警戒色は毒を持っていたのであった。

 

「何を思いつめているのか分からないけれど、俺がそんな無理難題を吹っかけたか?」
 彼女は顔を上げた。
「いいえ、…そんなことはないわ。ただ、そう、そんなに私の家にいることが嫌なのかなと思って、外に行きたい外に行きたい、というんですもの…」
「きみにはなんか、引っかかるというか、外に出すのを拒んでいるように思えるんだ。この家の秘密など公言はしないし、それに、第一俺はこのあたりに住んでいないんだ。知り合いをつくられると困るというのならば、外であった女の人が、にこやかに、『おはようございます』と大きな声で言っても無視して、口をしっかりと閉めて、そう、こうやって、――できるかぎりの演技はしてみた――だから、そうだな、とりあえず、一緒に外にいけるだけのレベルの服が欲しい。きみがスーツを着るのならば、俺もスーツが欲しい。同等の服で嫌ならば、」
 ここで彼女は切り込んできた。
「じゃ、なに?私があなたにろくに満足な服を与えないで、この家に閉じ込めておくとでも言うの?」
「違う、そうとれる、といいたいんだ。わからないかな、だから、服を用意してくれるだけでいいんだ、で、できない、どうしてもできないならば、その理由を知りたいんだ」
「わかったわ」
 彼女はそう言って、財布を持ち、外に出て行った。男は、なぜ彼女が服を用意しないのかを考えてみたものの、結局は俺を露出狂の枠に閉じ込めるためだとしか言いようがなかった。

 服を彼女が買ってくる間に、時間がかかりそうなため、男は何をしようかと思い始めた矢先に、休診札を掲げているにもかかわらず、待合室のドアを叩く音がした。

 そこで待合室に向かい、ドアを開いた。すると、あの初診の男が立っていた。



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