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中で何が行われているのか、俺はほんとうに不要になったのか、それならばこちらから出て行っても、一向にかまわない。
 そうして、俺は、服というきわめて単純な布切れ一枚のせいで、この家に居つづけなくてはならない。彼女は相変わらず、俺に外出用の服を買ってきてくれなかった。なんていうことはない、雨でも降れば、こんなよれよれの創業1950年の老舗のスウェットスーツで外にいける。魚から変化し、丸裸であったことから考えれば、こんな格好は著しい進歩ではなかろうか。
 たまに食堂ですれ違う彼女、顔を合わすものの、笑顔は消え去った。食事もなく、男は半分腐ったバナナとミネラルウォーターで一日を過ごしたが、一日が限界であった。

 

 ひどい下痢を起こし、正露丸を薬箱からどうにかせしめて、それで一日床についていた。それでも、俺の部屋には足音が近づいてきたりはしたものの、部屋にはこなかった。
 見捨てられるのがこんなに情けないものか、つい一週間前までは見捨てられてもいい、と考えた俺でも、ぐるぐる言い出す腹を抱え、苦痛で顔が歪んでも、顔すら見せない彼女は、俺と一体どこで接点が切れてしまったのであろうか。彼女の内面には俺はとてもではないが付いて行けない気がした。
 

 こう考えているときに、頃合を見計らってか、離れの老婆が、顔を出すようになったのは、十日過ぎのことだった。
「なんていうさまだよ、おまえさんは!馬鹿だね、だから私は言っただろうが、こうなるのは目に見えていたんだよ、まぁ、一週間持ったのはいいじゃないかとは思うがね」
 そして、老婆は、便所に立っていく俺の杖代わりになってくれる。それまでは這って廊下を行ったものだった。
「お嬢様はね、サディストなのさ、真からのサディストなのさ、それを弁えていないと、おまえさんは二階の人とおんなじになってしまうんだ、こ汚い乞食は痛い目に遭わないと分からないんだろうかね」
 便所に男を老婆は送ると、食堂の薬箱からか、離れからか、正露丸と、ミネラルウォーターを持って待っている。便所で苦しんでいると、老婆は、こう続けるのだった。
「あの二階では今、お嬢様は、おもちゃ遊びをなさっているんで、離れにも聞こえて来るんだよ、おまえさんのときとおんなじさ、それで、お前さんは放って置かれ、うんうん唸っているのも聞こえて来るんだよ、よそ様が聞いたら、いったい、どうなっているんだ、この家は!と思うに違いないとも」
 便所から、男が出てくると同時に、正露丸を渡し、きめ細かに、時間を計ったかのように水を渡す。
「婆さんすまないね。俺は、こんなにだらしなく、弱く、情けない男に見えるだろうが…もとは破壊が好きで、喧嘩好きの男だったんだ…それが魚になってしまってから、いや、八百屋のせいか、あの女のせいか分からないが、とにかく、魚になってから、この体たらくさ」

と、腹を擦り、

「魚っていうのは妙で、俺も、そこのところを考えてみようと思っていたんだが、とにかく忙しかった。解剖されそうになったり、この家に来たりと、忙しかった…」

と、男が愚痴をこぼした。


 すると、老婆はしかめっ面をして、
「なんなんだい、おまえさんが魚だったって?だとしたら、それに戻ったらいい、魚に戻って、私が、魚屋で一匹買おうじゃないか、へ、笑わせてくれるわい、戯言ぬかしよって、散々楽しんだわけだろうが…それが、お嬢様が興ざめしたとたんに、こんなになっちまって…」
 と言い、老婆は自分の腹を擦り、首をくるくる振って真似をした。

 男は、この老婆を叱りつけるわけにはいかなかった。老婆の罵倒はまだ続いた。
「野放図な性欲っていうのはお釣りがくるんだよ、それに飽きっていうもんが来る、お前さんをお嬢様が拾ったのは、お嬢様の気まぐれでしかないんだよ、それをおまえさんは舌をだらりと垂らして、いつまでもお嬢様にしがみついている、憐れだね、お嬢様が、おまえさんに、ぞっこんなことなどないんだよ、いいかげん目を覚ましな、いつだって、お嬢様は恋愛感情なんてもんはないんだ、下の口が疼くのさ、それで拾ってくる、そして飽きたら、また別の…てな具合で、永遠に、そうだね、私くらいか、そのくらいにでもなりゃ、落ち着くんじゃないだろうか、これまでお嬢様が連れこんだ男の数といったら、おまえさん驚きなさんなよ、」

 と、老婆は言って両手をかざして、ゆらゆらさせ、

「星の数ほどってことだよ、数え切れない数さ、もし私が帳面にでも記帳していてごらんよ、そりゃ、電話帳くらいの厚さになることだろうよ、お嬢様が自叙伝で自分の男性遍歴でも書きようものなら、そうだね、世の男はげっそりすることだろうよ、あいつは俺たちの白い魂を吸い尽くす悪魔だ、ってな感じさ、所帯持ちであろうと、当たり構わずあの女は奪い取る。そういう女なんだよ、二階の人にしたってもうそう長くはないことだろう、あの二階にいる奴は、最初はお嬢様と結婚でもするつもりでいたんじゃないのかね、それをあの女は逆手にとって、ぎゅうぎゅう締め付けて」
 そう、老婆は言って、雑巾を絞る真似をしたが、男はまた便所に駆け込んで、その便所の戸に向かって、老婆は、大きな声で、まるで酒場ではしゃぐかのように、話し続け、
「とうとうあの棺桶さ、棺桶っていうのは音がしない部屋のことだよ、おまえさん二階に上がったんだから知っているんだろ、あのノブをまわしても開かないドアのある部屋だよ、あれは変な癖がなんかの拍子についたときに作ったんだよ、大工さんを頼んでね、その大工だって、その変な癖がなんかの拍子についたときの男の紹介さ、なんかの拍子っていうのは、数が多すぎてわかりゃしないからなんだよ、そのくせっていうやつは、それ、陰険で、暗い、地下室で行われそうな、秘密で日陰もんのすることさ」
 老婆が言うと、便所から男が出てきた。
「だが、あんたは聞こえるって言ったじゃないか」
 反論すると、老婆は、そんなことを言ったかい、と恍けるのであった。しかし、老婆の妄想は止まらない。
「いいかい、よく聞くんだ、お嬢様のことは、この私が、よく知っておる、どんな癖がついたのか、どんな男を連れてきて、何をしたのか、歴史をみてきたんだ、この家の」
 老婆が、そう言ったところで、男は、老婆の肩越しに、立つ女を見た。

 女は開放的な笑みをたたえていた。その開放的な笑みが、男に不安を呼び起こした。男が、下を向いて、自室に入る前に老婆に指で気付かせ、振り向いた老婆は、急いで、離れに戻り、男は床についた。


 部屋に女がやってきた。しばらく枕もとで座っていたのであるが、脚を崩してため息をついた、そして唾液を飲み込む咀嚼音を立てて、切り出した。
「二階の部屋を、もうじき明渡そうかと思っているのよ、それでいま二階の人に交渉している最中なの、どう思う?私とあなただけの世界を作るのよ、そう悪くない話でしょ、私といるのは苦痛?ねぇ」と、女は返答を待った。
 男は苦痛で顔をゆがめて、背を丸めた状態で布団の上で、もだえていた。

 しかし、女はそれを腹痛で苦しんでいるのかと考えもしないで、ひたすら返答を待っていた。
「ねぇ、返事くらいしてよ、どうなの、あの二階のやつを追い出すのよ、それで、…」
 次の言葉を伝えようとしたときに、男は苦し紛れに言い放った。
「おもちゃ遊びなんだろ!所詮俺を、弄繰り回して、捨てる気なんだろ!」
「そんなことはないわよ、なんで、そんなに怒っているのよ、何がそんなに不安なのよ」
 女は覗き込んで言う。
「腹が痛いんだ、それをきみは放っておいた。それで俺は砕け散ったんだ。せめて俺をこの家から出してくれ、それには服が必要だ、前にも言ったようにカジュアルな服をくれ、それと医者を呼んでくれ、これは正露丸でも止まらない痛さだ…」

と、脂汗をかいて、最後の方は呻き声のようになっていた。
「しかたないじゃないの、二階の人のことでもめていたんだから、正露丸があったでしょ!」

と、女は怒って、男に言った。
「老婆がくれたものだ!恵んでくれたものだ!」
 便所に向かう。女は泣き出して布団に崩れていった。

 

 医者が来た。内科医で、隣町からだという。

 彼女は診察のときに薬瓶を持って座っていた。医者は聴診器を使い、それから触診をして、なにを食べたのか、と聞いた。男は腐ったバナナだと思う、と答えた。そして、医者は彼女から薬瓶を手にして、老眼鏡をかけ、顔を反るようにして説明書きを読んだ。
「あれ、これ変ですね、ラッパのマークじゃない。それに成分が違いますね。私などは子供のときに耳鼻咽喉科に行ったんですよ、そうしたら、先生は鼓膜が内側にへこんでいる、と診断をしましてね、鼻にゴムマリのようなもので空気を送るんです。そのときに先生は『ラーッパ』といって、ぼくも『ラーッパ』と大きい声でいうのです。それで空気を鼻から送る、そうして、凹みを無くすんです。それは小学校三年生までなんです。それ以降は大人の方法、鼻に金属の管を挿入して、それが今考えると、子供にとっては痛いものでした。それはそうと、それ、言ってごらんなさい、よーく効きますよ、それ、ラーッパ!それ、ラーッパ!…」
 医者は大声で言った。彼女も負けじと大声で言う。俺も仕方なく、大声で言った。その奇妙な医者が注射をして帰ると、彼女は薬屋に行き、本物の正露丸を買ってきた。贋正露丸は庭先に捨てたという。


 二日くらいだろうか、いつのまにか腹痛は治ってしまい、彼女と過ごす時間は先日から比べると長かった。
 

 そんな折、休診札を彼女が取り去っていたとは知らなかった。だから、彼女が診察室にいて、白衣を着て患者を待っていることを俺は気付かなかった。彼女は診察椅子に腰掛けて、足を組んで目を閉じていた。いつ来るとも限らない患者を彼女は待ちつづけた。
 俺は居間で即席ラーメンを食べて雑誌を読んでいた。休日ではないのに、休日のような、のどかな日だった。爪が伸びていたので爪切りを探し、小物入れから取り出すと、新聞紙を広げて足の爪を切っていた。

 

 死んだ人は髪の毛も生えつづけ、つめも伸び、髭も伸びる。死んだ祖父がそうだった。祖母はそのころ元気で、床に横たわった死んだ祖父の爪を切っていた。それが二日後には火葬場に行くのだ。それなのに、最後の最後まで祖母は祖父の世話をしていた。

 

 足の爪を切り終わり、新聞紙をたたんで切った爪をごみ箱に捨てに行った。ごみ箱は食堂にあり、燃えるごみだろうと思い生ごみのほうに包んで落とした。診察室で声がした。
「初診の方ですね、ではこちらに記入してください」
彼女は問診表を手渡す。しばらく使われず、俺と彼女から発散した桃色の空気を吸った淫靡な問診表だ。患者は問診表を書き、彼女は事務的に準備をする。その様子を診察室に通じるドアをこっそり小さく開けて覗いていた。

 患者はどこも悪そうもなく、ただ歯を掃除してください、とだけ言って、書き上げた問診表を渡した。
 よりにもよって、こんな廃業寸前の歯科医院を受診するとは、たいがいは彼女目当てなわけであろう。この変な患者、下心みえみえの患者をあっさり、あしらう彼女を予想していた。
 しかし、彼女は患者に診察椅子に腰掛けるように促した。そうすると、患者は彼女のうなじをじっと、焦げるような視線を浴びせたのを、俺は見逃さなかった。あの男は、うなじに拘るのだろうか?

 その患者を俺は想像の腕で捏ねまわし、殴り、蹴飛ばし、引っ叩いて、この歯科医院から追放したくなった。

 ライトを彼女はつける。ここからではよく分からないが、安い合金の金冠だらけの歯のような気がした。
「これから、デートですか?」
 彼女が言って、俺は、なんということを言い出すのか、と驚いた。普通、このような話題は親しい人同士で話すものだ。なんということはない、俺は嫉妬していたのだ。

 こうして、廊下に立ち、やぶ蚊に刺されながらも、患者の動き、視線、姿勢、そしてズボンの股あたりをしっかり、獲物を追う、狩りをする動物のように見ていた。

 患者は笑って、そうです、と答えた。ここで、ひと安心する。彼女目当てではないと。
 彼女は患者の顔に、胸を押し付けるようにして、エプロンをつけた。ブルーのエプロンだが、あの患者には、象さんのマークが入った、赤ん坊の涎掛けでいいくらいだ。
 彼女がまた覆い被さって、口に脱脂綿を入れた。患者は、だらだらと、しまりのない、唾液がその口を満たし始めた。唾液が溜まったのを、彼女はごく自然に見つけて、脱脂綿を取り換える。


「虫歯がありますが…」
 彼女はミラーで、光を反射させ、歯を丹念に調べ、弾きだしていく。
「放っておいてかまいません。後日先生のところにまた来ますから」

と、意外と誠実な発音をさせて話した。
「ここもそうです。そうですね、一度にできませんから、徐々にやっていきましょう」

といって、歯の掃除に取り掛かった。そして、患者は何事もなく帰って行った。
 彼女はその患者だけを待っていたかのように、もう休診札をドアにかけた。俺は診察室に安心して入っていった。
「あの患者きみのうなじをいやらしい目をしてみていた、うなじだけではない、足も腰もあそこもみんな見ていた気がする」

と、俺は子供のように彼女に訴える。彼女は驚いて、
「なーに、見ていたの?」と、返答し、

「あなたのも見ましょうか?虫歯があるって言っていたじゃない?」
 彼女は最近、言葉を濁さない。そういえば先ほどの患者に対しても、言葉を濁さなくなっていた。
「いいよ、いや…、いいや、結構」
 彼女は微笑んで、椅子に座るように手で合図を送り、ライトをつけた。
「治した方がいいわ、どんどん進行するものなのよ、それとも私の腕を信用していないのかしら?」
「いや、そんなわけじゃない。昔、神経を抜かれたときの近所のおばさんが、ひどく叫んで、痛い、痛い、ともんどりうっていたのを見たんだ、夕暮れ時で気味が悪かった。それからあまり、歯医者さんには行かない。よほど痛くなってからじゃないと」
「私、私が見るのよ、平気でしょ、ちょっとだけ…」
 彼女の言葉で男はしぶしぶ診察椅子に腰掛けた。
「神経を抜くほどではないわ、大丈夫、簡単に治るわ、少し怖いでしょうけど、削るからね」
 彼女が、素手で、口に侵入してきたので、彼女の指を吸った。彼女は、「もう」と言って、肩をたたいた。それから歯を削られ、プラモデルをこしらえるときの、接着剤の臭いがする、パテを塗られて、虫歯退治をした。
「また、新しいパーツになったわね、技巧士さんに注文して被せるから、一週間くらい必要ね、それと歯を掃除する?」
 彼女は首を傾げて返事を待った。男はヤニで汚れているだろうから、そうして欲しいといった。そういうのも、また彼女の指に舌を絡めたかったからであった。
 
 満ち溢れ、褪めた欲求は笑いをもたらすのだろうか、俺と彼女は下らぬ話をして、交わることはなくなっていた。そのことで少しは対等の立場を取ることができるようになった気がした。つまり、彼女が主導権を握り、俺を露出狂の枠に閉じ込め、彼女の思い描いた、求めていた男性像を強く要請してこなかったことは、喜ばしいかぎりであった。 

 Mについての話だけは、和んだ雰囲気の中でも、決して彼女の口からは寸分も漏らすことはなかった。Mについて深く知ろうとすれば、彼女の見せたくない一面を見ることになるだろう。



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