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 男はラジオの昔話をしだした。だが彼女は耳を貸さずに、
「お手伝いさんのことが好きだった叔父のことよ、もうだいぶ前のことになるけれど…私が大学のときよ、でも、その当時なんだか汚らしくて嫌だったの、だからラジオっていうと、叔父の顔が浮かんで、次にお手伝いさんの顔が浮かんで、離れが浮かんで、雨音がするのよ、そして田舎臭い音…」

と言ってテレビ画面を見ていた。
 男は、奴隷をいつから飼いだしたのかを聞いてみようか、と考えた。こうした極度にプライベートな質問に対しても、彼女はおそらく、きちんと真面目に答えてくれるのではないかと思ったからであった。

 しかし、その質問をしようと口を、男が動かす前に、彼女の手が下半身へ伸びて、下着を下ろされる。どう考えても、彼女は俺を露出狂の枠に入れているとしか言いようがない。
 目は画面に、手は男に、器用なことができたものだ、こうして過ごしていってしまうのであろうか。だとするなら、俺は二階の奴隷の二の舞に過ぎない。

 そう考えると、男は不機嫌になって、女の手を払いのける。彼女が見つめる。部屋はもう暗く、顔の表情は、もう燃え尽きる線香が電力を、頼りなく送ることで、やっと保っているブラウン管の光で、どうにか判別できる程度になる。

 女はどんな表情をしているのだろうか。
 画面の光が消え去った。暗い、雨音のする、居間のエアコンの緑のセンサーランプが唯一の光源。いつのまにか、男の顔に女の顔が近づいている。女は唇を合わせようとする一方で、手が男に伸びてくる。これでは初心な少年が、性的誘惑を受けているようなものだ。完全に彼女の音頭取り。完璧な主導権への白紙委任状。

ふざけている。そう男は言ったところ、女は、何が?と、全く何も知らない小学生の女の子のような口の利き方をした。香水をいつの間にか、つけていた。いい匂い。

 もう既に、下半身は何も纏っておらず、腹と鋭角を描いて伸びていた。女が跨ぐ。ふざけている。また、男が言った。

 今度は女は何も言わず、彼女の表情が、一瞬の稲光りで見えた。夜叉だ。そう感じた。あの老婆の言ったように彼女は、老婆が何かを伝えようとして、伝えきれずに、作り話に終わったあの何か…それを男は次第に、薄ぼんやりであるが、感じ取りつつあった。
 力んで放った水鉄砲。彼女はうまく避ける。脱力感の中、俺は、侵されているのではないかといった、疲れ果てた脳が送る信号。


 こうして一週間がたった。下半身が痛み出していた。最初の興奮、ときめき、それは消え去り、苦痛すら感じるようになった。ことある毎に、彼女は、

「新しいパーツ、アルジネイト…」と言う、確かに俺の体は新しい部分なのだろう。
 あの食物をくださいと言ったMは、あれから音沙汰ない。彼女は彼に食事を与えたのであろうか。
 台所は異臭を放っていた。一週間前のカレーのルー、アオカビが生え、小蝿が乱痴気騒ぎをしているように飛び交っていた。なかには交尾をしながら飛び交う、ランデブー小蝿、そいつを俺は憎たらしいくらいに思い、しつこく追いまわして、手のひらで叩き潰した。
 彼女はもう既に俺に飽きがきたのか、要求してこなかった。二階に彼女がいることのほうが多かった。そんなときには、ときおり二階に忍び込んで、開かない扉の前で、俺は卑しく聞き耳を立てる。


中で何が行われているのか、俺はほんとうに不要になったのか、それならばこちらから出て行っても、一向にかまわない。
 そうして、俺は、服というきわめて単純な布切れ一枚のせいで、この家に居つづけなくてはならない。彼女は相変わらず、俺に外出用の服を買ってきてくれなかった。なんていうことはない、雨でも降れば、こんなよれよれの創業1950年の老舗のスウェットスーツで外にいける。魚から変化し、丸裸であったことから考えれば、こんな格好は著しい進歩ではなかろうか。
 たまに食堂ですれ違う彼女、顔を合わすものの、笑顔は消え去った。食事もなく、男は半分腐ったバナナとミネラルウォーターで一日を過ごしたが、一日が限界であった。

 

 ひどい下痢を起こし、正露丸を薬箱からどうにかせしめて、それで一日床についていた。それでも、俺の部屋には足音が近づいてきたりはしたものの、部屋にはこなかった。
 見捨てられるのがこんなに情けないものか、つい一週間前までは見捨てられてもいい、と考えた俺でも、ぐるぐる言い出す腹を抱え、苦痛で顔が歪んでも、顔すら見せない彼女は、俺と一体どこで接点が切れてしまったのであろうか。彼女の内面には俺はとてもではないが付いて行けない気がした。
 

 こう考えているときに、頃合を見計らってか、離れの老婆が、顔を出すようになったのは、十日過ぎのことだった。
「なんていうさまだよ、おまえさんは!馬鹿だね、だから私は言っただろうが、こうなるのは目に見えていたんだよ、まぁ、一週間持ったのはいいじゃないかとは思うがね」
 そして、老婆は、便所に立っていく俺の杖代わりになってくれる。それまでは這って廊下を行ったものだった。
「お嬢様はね、サディストなのさ、真からのサディストなのさ、それを弁えていないと、おまえさんは二階の人とおんなじになってしまうんだ、こ汚い乞食は痛い目に遭わないと分からないんだろうかね」
 便所に男を老婆は送ると、食堂の薬箱からか、離れからか、正露丸と、ミネラルウォーターを持って待っている。便所で苦しんでいると、老婆は、こう続けるのだった。
「あの二階では今、お嬢様は、おもちゃ遊びをなさっているんで、離れにも聞こえて来るんだよ、おまえさんのときとおんなじさ、それで、お前さんは放って置かれ、うんうん唸っているのも聞こえて来るんだよ、よそ様が聞いたら、いったい、どうなっているんだ、この家は!と思うに違いないとも」
 便所から、男が出てくると同時に、正露丸を渡し、きめ細かに、時間を計ったかのように水を渡す。
「婆さんすまないね。俺は、こんなにだらしなく、弱く、情けない男に見えるだろうが…もとは破壊が好きで、喧嘩好きの男だったんだ…それが魚になってしまってから、いや、八百屋のせいか、あの女のせいか分からないが、とにかく、魚になってから、この体たらくさ」

と、腹を擦り、

「魚っていうのは妙で、俺も、そこのところを考えてみようと思っていたんだが、とにかく忙しかった。解剖されそうになったり、この家に来たりと、忙しかった…」

と、男が愚痴をこぼした。


 すると、老婆はしかめっ面をして、
「なんなんだい、おまえさんが魚だったって?だとしたら、それに戻ったらいい、魚に戻って、私が、魚屋で一匹買おうじゃないか、へ、笑わせてくれるわい、戯言ぬかしよって、散々楽しんだわけだろうが…それが、お嬢様が興ざめしたとたんに、こんなになっちまって…」
 と言い、老婆は自分の腹を擦り、首をくるくる振って真似をした。

 男は、この老婆を叱りつけるわけにはいかなかった。老婆の罵倒はまだ続いた。
「野放図な性欲っていうのはお釣りがくるんだよ、それに飽きっていうもんが来る、お前さんをお嬢様が拾ったのは、お嬢様の気まぐれでしかないんだよ、それをおまえさんは舌をだらりと垂らして、いつまでもお嬢様にしがみついている、憐れだね、お嬢様が、おまえさんに、ぞっこんなことなどないんだよ、いいかげん目を覚ましな、いつだって、お嬢様は恋愛感情なんてもんはないんだ、下の口が疼くのさ、それで拾ってくる、そして飽きたら、また別の…てな具合で、永遠に、そうだね、私くらいか、そのくらいにでもなりゃ、落ち着くんじゃないだろうか、これまでお嬢様が連れこんだ男の数といったら、おまえさん驚きなさんなよ、」

 と、老婆は言って両手をかざして、ゆらゆらさせ、

「星の数ほどってことだよ、数え切れない数さ、もし私が帳面にでも記帳していてごらんよ、そりゃ、電話帳くらいの厚さになることだろうよ、お嬢様が自叙伝で自分の男性遍歴でも書きようものなら、そうだね、世の男はげっそりすることだろうよ、あいつは俺たちの白い魂を吸い尽くす悪魔だ、ってな感じさ、所帯持ちであろうと、当たり構わずあの女は奪い取る。そういう女なんだよ、二階の人にしたってもうそう長くはないことだろう、あの二階にいる奴は、最初はお嬢様と結婚でもするつもりでいたんじゃないのかね、それをあの女は逆手にとって、ぎゅうぎゅう締め付けて」
 そう、老婆は言って、雑巾を絞る真似をしたが、男はまた便所に駆け込んで、その便所の戸に向かって、老婆は、大きな声で、まるで酒場ではしゃぐかのように、話し続け、
「とうとうあの棺桶さ、棺桶っていうのは音がしない部屋のことだよ、おまえさん二階に上がったんだから知っているんだろ、あのノブをまわしても開かないドアのある部屋だよ、あれは変な癖がなんかの拍子についたときに作ったんだよ、大工さんを頼んでね、その大工だって、その変な癖がなんかの拍子についたときの男の紹介さ、なんかの拍子っていうのは、数が多すぎてわかりゃしないからなんだよ、そのくせっていうやつは、それ、陰険で、暗い、地下室で行われそうな、秘密で日陰もんのすることさ」
 老婆が言うと、便所から男が出てきた。
「だが、あんたは聞こえるって言ったじゃないか」
 反論すると、老婆は、そんなことを言ったかい、と恍けるのであった。しかし、老婆の妄想は止まらない。
「いいかい、よく聞くんだ、お嬢様のことは、この私が、よく知っておる、どんな癖がついたのか、どんな男を連れてきて、何をしたのか、歴史をみてきたんだ、この家の」
 老婆が、そう言ったところで、男は、老婆の肩越しに、立つ女を見た。

 女は開放的な笑みをたたえていた。その開放的な笑みが、男に不安を呼び起こした。男が、下を向いて、自室に入る前に老婆に指で気付かせ、振り向いた老婆は、急いで、離れに戻り、男は床についた。


 部屋に女がやってきた。しばらく枕もとで座っていたのであるが、脚を崩してため息をついた、そして唾液を飲み込む咀嚼音を立てて、切り出した。
「二階の部屋を、もうじき明渡そうかと思っているのよ、それでいま二階の人に交渉している最中なの、どう思う?私とあなただけの世界を作るのよ、そう悪くない話でしょ、私といるのは苦痛?ねぇ」と、女は返答を待った。
 男は苦痛で顔をゆがめて、背を丸めた状態で布団の上で、もだえていた。

 しかし、女はそれを腹痛で苦しんでいるのかと考えもしないで、ひたすら返答を待っていた。
「ねぇ、返事くらいしてよ、どうなの、あの二階のやつを追い出すのよ、それで、…」
 次の言葉を伝えようとしたときに、男は苦し紛れに言い放った。
「おもちゃ遊びなんだろ!所詮俺を、弄繰り回して、捨てる気なんだろ!」
「そんなことはないわよ、なんで、そんなに怒っているのよ、何がそんなに不安なのよ」
 女は覗き込んで言う。
「腹が痛いんだ、それをきみは放っておいた。それで俺は砕け散ったんだ。せめて俺をこの家から出してくれ、それには服が必要だ、前にも言ったようにカジュアルな服をくれ、それと医者を呼んでくれ、これは正露丸でも止まらない痛さだ…」

と、脂汗をかいて、最後の方は呻き声のようになっていた。
「しかたないじゃないの、二階の人のことでもめていたんだから、正露丸があったでしょ!」

と、女は怒って、男に言った。
「老婆がくれたものだ!恵んでくれたものだ!」
 便所に向かう。女は泣き出して布団に崩れていった。

 

 医者が来た。内科医で、隣町からだという。

 彼女は診察のときに薬瓶を持って座っていた。医者は聴診器を使い、それから触診をして、なにを食べたのか、と聞いた。男は腐ったバナナだと思う、と答えた。そして、医者は彼女から薬瓶を手にして、老眼鏡をかけ、顔を反るようにして説明書きを読んだ。
「あれ、これ変ですね、ラッパのマークじゃない。それに成分が違いますね。私などは子供のときに耳鼻咽喉科に行ったんですよ、そうしたら、先生は鼓膜が内側にへこんでいる、と診断をしましてね、鼻にゴムマリのようなもので空気を送るんです。そのときに先生は『ラーッパ』といって、ぼくも『ラーッパ』と大きい声でいうのです。それで空気を鼻から送る、そうして、凹みを無くすんです。それは小学校三年生までなんです。それ以降は大人の方法、鼻に金属の管を挿入して、それが今考えると、子供にとっては痛いものでした。それはそうと、それ、言ってごらんなさい、よーく効きますよ、それ、ラーッパ!それ、ラーッパ!…」
 医者は大声で言った。彼女も負けじと大声で言う。俺も仕方なく、大声で言った。その奇妙な医者が注射をして帰ると、彼女は薬屋に行き、本物の正露丸を買ってきた。贋正露丸は庭先に捨てたという。


 二日くらいだろうか、いつのまにか腹痛は治ってしまい、彼女と過ごす時間は先日から比べると長かった。
 

 そんな折、休診札を彼女が取り去っていたとは知らなかった。だから、彼女が診察室にいて、白衣を着て患者を待っていることを俺は気付かなかった。彼女は診察椅子に腰掛けて、足を組んで目を閉じていた。いつ来るとも限らない患者を彼女は待ちつづけた。
 俺は居間で即席ラーメンを食べて雑誌を読んでいた。休日ではないのに、休日のような、のどかな日だった。爪が伸びていたので爪切りを探し、小物入れから取り出すと、新聞紙を広げて足の爪を切っていた。

 

 死んだ人は髪の毛も生えつづけ、つめも伸び、髭も伸びる。死んだ祖父がそうだった。祖母はそのころ元気で、床に横たわった死んだ祖父の爪を切っていた。それが二日後には火葬場に行くのだ。それなのに、最後の最後まで祖母は祖父の世話をしていた。

 

 足の爪を切り終わり、新聞紙をたたんで切った爪をごみ箱に捨てに行った。ごみ箱は食堂にあり、燃えるごみだろうと思い生ごみのほうに包んで落とした。診察室で声がした。
「初診の方ですね、ではこちらに記入してください」
彼女は問診表を手渡す。しばらく使われず、俺と彼女から発散した桃色の空気を吸った淫靡な問診表だ。患者は問診表を書き、彼女は事務的に準備をする。その様子を診察室に通じるドアをこっそり小さく開けて覗いていた。

 患者はどこも悪そうもなく、ただ歯を掃除してください、とだけ言って、書き上げた問診表を渡した。
 よりにもよって、こんな廃業寸前の歯科医院を受診するとは、たいがいは彼女目当てなわけであろう。この変な患者、下心みえみえの患者をあっさり、あしらう彼女を予想していた。
 しかし、彼女は患者に診察椅子に腰掛けるように促した。そうすると、患者は彼女のうなじをじっと、焦げるような視線を浴びせたのを、俺は見逃さなかった。あの男は、うなじに拘るのだろうか?

 その患者を俺は想像の腕で捏ねまわし、殴り、蹴飛ばし、引っ叩いて、この歯科医院から追放したくなった。

 ライトを彼女はつける。ここからではよく分からないが、安い合金の金冠だらけの歯のような気がした。
「これから、デートですか?」
 彼女が言って、俺は、なんということを言い出すのか、と驚いた。普通、このような話題は親しい人同士で話すものだ。なんということはない、俺は嫉妬していたのだ。

 こうして、廊下に立ち、やぶ蚊に刺されながらも、患者の動き、視線、姿勢、そしてズボンの股あたりをしっかり、獲物を追う、狩りをする動物のように見ていた。

 患者は笑って、そうです、と答えた。ここで、ひと安心する。彼女目当てではないと。
 彼女は患者の顔に、胸を押し付けるようにして、エプロンをつけた。ブルーのエプロンだが、あの患者には、象さんのマークが入った、赤ん坊の涎掛けでいいくらいだ。
 彼女がまた覆い被さって、口に脱脂綿を入れた。患者は、だらだらと、しまりのない、唾液がその口を満たし始めた。唾液が溜まったのを、彼女はごく自然に見つけて、脱脂綿を取り換える。



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