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――とおちゃん、今度犬を飼っておくれよ、柴犬が欲しいんだ、名前も考えたんだチロって言うんだ、妹と考えて決めたんだ
 先ほどの俳優は今のせりふからして父親役なのだろう。父親は、
――それはかあちゃんに言うんだ、いいか洋助、とおちゃんはこれから…
と、言ったところで、線香を男が見ると、線香は導火線のように激しく、ちりちりと燃え、見る見る灰になっていき、もう銅線がある穴のところまで来ていた。
「これ、すごく電気食うっていうのが分かるでしょ、父もその辺を気にしていたの、ただ蚊を取る役目とテレビを見られるという役目、一石二鳥でいい、と父は考案したの…」と、女は消えかかった白黒テレビのコードを引き抜くと、もうひとつ蚊取り線香を持ってきた。
「もういいよ、何か別のことをしよう、トランプ…そうだ、ポーカーをやろう」と、男が言うと、

女はポーカーは知らないといった。
「すまないが、服を買ってきてくれないか、カジュアルなものでいい。そうして、外に出ないか。お茶を飲んで、映画でも見に行かないか?」、と男は言うが、一方で、全て彼女が金を払うのかと思うと情けなくなってきた。それでも、彼女を少しでも違う場所に動かして、気を紛らわそうとした。
 老婆にしろ、Mにしろ、この家には、男が知らない、女の裏の顔を併せ持つ、毒蝶のようなところがある。男もそれをどうにか改善したいが、なかなかうまくいきそうもない気がしてきた。というのも、この家はかなり古く、それにことは既に進んでおり、男の力で、全く別のものに変えることなど、到底できそうもない、それこそ伝統のように成り果てていたからだ。
「映画…私しばらく行っていないわ…ずっと家にいたの…」と、彼女は最初に男に接したときのように、また語尾を濁す話し方をしていた。
「二階のMについてもこれから少しずつ考えよう。一遍に何かをしようとすると達成できないんだ。わかるよね、それに、そう、おいそれと、きみの癖という言い方は、いいかわからないが、それを俺も手伝って、変えていこう…」
 しかし、女は鼻で笑うのをこらえていた。男は不安になった。綱が切れ、落下し、全身を打って重体、そして死亡したピエロ。
「そうだ、…酒でも飲もう、それがいい…」
 腰を引いた言葉。男は盛んに、この家にいては、だめな気がして、説得しようとするが、黙って、笑みを浮かべる女を前にしては、もう何も効果をもたないことを悟った。
 そこで、男は台所に向かい、包丁を研ごうと、研ぎ石を探した。女は台所のシンク下から研ぎ石を出した。
「いつも、研ぎ屋さんに頼むの、よく来る研ぎ屋さんは包丁を、この辺の家々から集めて、十本くらいを並べて、路上で研ぐの、研いでもらうとすごく持つの…」
 包丁を水で湿らして、既に研ぎ始めた男は、研ぐことに集中していて、彼女の話をあまり聞いていなかった。
「え?」
「なんでもないわ、邪魔してごめんなさい」
 女は、居間へ消えた。そこで、ソファーに横になり、燃え尽き、石綿の上で白胡椒色した、蚊取り線香の灰をぼんやり、眺めていた。そうして、疲れを感じて、眠った。


 台所の刃物を研ぐ音が、彼女の子供時代に父に連れられて行った浜辺を思い起こさせた。その浜辺で彼女は貝殻を擦り合わせて、波打ち際で演奏をしていた。そのときの音に似ていた。日傘を差した、母の姿。父はタバコを吸って…
 女は、台所に行き、男に向かって、大きな声で言った。
「あなたタバコ吸わないの?」
 すると、男は研ぎながら、
「そういえば、魚から変化してから、ずっと吸っていない」
 女は財布を持ってタバコを買いにいった。
 包丁を研ぎ終わり、男は居間に向かい、テレビの仕組みを調べ始めた。奇妙であった。なぜ、蚊取り線香で、電気が発生するのかが、分からなかった。
 急な夕立で、勢いよく雨粒がこの家の屋根をたたきつける。彼女を迎えに行ってあげなくてはいけない。そこで、男は診察室を抜けて、待合室に入り、そこで傘を探し――待合室に骨の折れた、黒い傘が、傘立にあった――見つけて、外に出た。

 外は白い飛沫のような雨が降り注いでいた。この黒い傘は骨が折れていたため、男が歩く姿は、傘を被った妖怪のようであった。これでは視界は開けない、彼女を見失ってしまう。そこで、諦めて彼女の家に戻り、タオルを用意し、それから風呂を沸かしておこうと思った。
 スウェットのズボンが、洗濯しなくてはならないくらいに、ずぶ濡れであった。そこで、男は乾燥機に、それを入れ、スイッチを押した。単調な乾燥機の音、その熱風。夕立のため、今は湿気を帯びていたため、エアコンを除湿にした。

 診察室から物音がして、髪をすっかり濡らし、上着も濡れた彼女は、タバコ一カートンを白いビニール袋に入れており、その袋は、雨粒で濡れていた。
「ひどい、土砂降りよ、風邪をひいてしまうわ…銘柄を聞き忘れていたから、マイルドセブンがいいんじゃないか、ってタバコ屋さんが言ったから、それ買って来たの」
 男が差し出したタオルで髪を拭き、洋服をたたいて乾かしていた。
「ありがとう、今お風呂を沸かしているところだ、すまなかったね、少し前に迎えに行こうと外に出たんだよ、でもひどく視界が悪かったから、家で準備しておいたほうが、いいのではないかって、思ったから、家に戻った」
 彼女はありがとうと言い、居間に行きましょうと歩き出した。

 一服をし、彼女を見ると、またしても、奇妙なテレビを見ようとした。無邪気に、蚊取り線香に、コードの先端をつけるのに、一生懸命だった。女の姿を、男は微笑ましく眺める。その半面で、奴隷を飼うところが、男にとって謎であった。ちょうど、この今、夢中になってテレビの設定をしている状態で、彼女は奴隷を扱っているのであろう。
 「もう、五時過ぎでしょ、ニュースを見たくても…こう湿気ちゃうとなかなか…つかないわね」

と、男から一カートン買うと付いてくるライターを取り上げると、
「ラジオでいいかしら?でも、ラジオって嫌いなの…なんかこう・・・空気の中を電波が、蠢いていると思うと、脳によくないような気がするのよ、テレビの電波もそうなんだけれど・・・ラジオは何か、雨の時に聞いていると、悲しい通夜を思い出してしまうのよね。父の葬儀のときに、深夜に叔父が、離れでラジオを聞いていたわ…」

と言った。


 男はラジオの昔話をしだした。だが彼女は耳を貸さずに、
「お手伝いさんのことが好きだった叔父のことよ、もうだいぶ前のことになるけれど…私が大学のときよ、でも、その当時なんだか汚らしくて嫌だったの、だからラジオっていうと、叔父の顔が浮かんで、次にお手伝いさんの顔が浮かんで、離れが浮かんで、雨音がするのよ、そして田舎臭い音…」

と言ってテレビ画面を見ていた。
 男は、奴隷をいつから飼いだしたのかを聞いてみようか、と考えた。こうした極度にプライベートな質問に対しても、彼女はおそらく、きちんと真面目に答えてくれるのではないかと思ったからであった。

 しかし、その質問をしようと口を、男が動かす前に、彼女の手が下半身へ伸びて、下着を下ろされる。どう考えても、彼女は俺を露出狂の枠に入れているとしか言いようがない。
 目は画面に、手は男に、器用なことができたものだ、こうして過ごしていってしまうのであろうか。だとするなら、俺は二階の奴隷の二の舞に過ぎない。

 そう考えると、男は不機嫌になって、女の手を払いのける。彼女が見つめる。部屋はもう暗く、顔の表情は、もう燃え尽きる線香が電力を、頼りなく送ることで、やっと保っているブラウン管の光で、どうにか判別できる程度になる。

 女はどんな表情をしているのだろうか。
 画面の光が消え去った。暗い、雨音のする、居間のエアコンの緑のセンサーランプが唯一の光源。いつのまにか、男の顔に女の顔が近づいている。女は唇を合わせようとする一方で、手が男に伸びてくる。これでは初心な少年が、性的誘惑を受けているようなものだ。完全に彼女の音頭取り。完璧な主導権への白紙委任状。

ふざけている。そう男は言ったところ、女は、何が?と、全く何も知らない小学生の女の子のような口の利き方をした。香水をいつの間にか、つけていた。いい匂い。

 もう既に、下半身は何も纏っておらず、腹と鋭角を描いて伸びていた。女が跨ぐ。ふざけている。また、男が言った。

 今度は女は何も言わず、彼女の表情が、一瞬の稲光りで見えた。夜叉だ。そう感じた。あの老婆の言ったように彼女は、老婆が何かを伝えようとして、伝えきれずに、作り話に終わったあの何か…それを男は次第に、薄ぼんやりであるが、感じ取りつつあった。
 力んで放った水鉄砲。彼女はうまく避ける。脱力感の中、俺は、侵されているのではないかといった、疲れ果てた脳が送る信号。


 こうして一週間がたった。下半身が痛み出していた。最初の興奮、ときめき、それは消え去り、苦痛すら感じるようになった。ことある毎に、彼女は、

「新しいパーツ、アルジネイト…」と言う、確かに俺の体は新しい部分なのだろう。
 あの食物をくださいと言ったMは、あれから音沙汰ない。彼女は彼に食事を与えたのであろうか。
 台所は異臭を放っていた。一週間前のカレーのルー、アオカビが生え、小蝿が乱痴気騒ぎをしているように飛び交っていた。なかには交尾をしながら飛び交う、ランデブー小蝿、そいつを俺は憎たらしいくらいに思い、しつこく追いまわして、手のひらで叩き潰した。
 彼女はもう既に俺に飽きがきたのか、要求してこなかった。二階に彼女がいることのほうが多かった。そんなときには、ときおり二階に忍び込んで、開かない扉の前で、俺は卑しく聞き耳を立てる。


中で何が行われているのか、俺はほんとうに不要になったのか、それならばこちらから出て行っても、一向にかまわない。
 そうして、俺は、服というきわめて単純な布切れ一枚のせいで、この家に居つづけなくてはならない。彼女は相変わらず、俺に外出用の服を買ってきてくれなかった。なんていうことはない、雨でも降れば、こんなよれよれの創業1950年の老舗のスウェットスーツで外にいける。魚から変化し、丸裸であったことから考えれば、こんな格好は著しい進歩ではなかろうか。
 たまに食堂ですれ違う彼女、顔を合わすものの、笑顔は消え去った。食事もなく、男は半分腐ったバナナとミネラルウォーターで一日を過ごしたが、一日が限界であった。

 

 ひどい下痢を起こし、正露丸を薬箱からどうにかせしめて、それで一日床についていた。それでも、俺の部屋には足音が近づいてきたりはしたものの、部屋にはこなかった。
 見捨てられるのがこんなに情けないものか、つい一週間前までは見捨てられてもいい、と考えた俺でも、ぐるぐる言い出す腹を抱え、苦痛で顔が歪んでも、顔すら見せない彼女は、俺と一体どこで接点が切れてしまったのであろうか。彼女の内面には俺はとてもではないが付いて行けない気がした。
 

 こう考えているときに、頃合を見計らってか、離れの老婆が、顔を出すようになったのは、十日過ぎのことだった。
「なんていうさまだよ、おまえさんは!馬鹿だね、だから私は言っただろうが、こうなるのは目に見えていたんだよ、まぁ、一週間持ったのはいいじゃないかとは思うがね」
 そして、老婆は、便所に立っていく俺の杖代わりになってくれる。それまでは這って廊下を行ったものだった。
「お嬢様はね、サディストなのさ、真からのサディストなのさ、それを弁えていないと、おまえさんは二階の人とおんなじになってしまうんだ、こ汚い乞食は痛い目に遭わないと分からないんだろうかね」
 便所に男を老婆は送ると、食堂の薬箱からか、離れからか、正露丸と、ミネラルウォーターを持って待っている。便所で苦しんでいると、老婆は、こう続けるのだった。
「あの二階では今、お嬢様は、おもちゃ遊びをなさっているんで、離れにも聞こえて来るんだよ、おまえさんのときとおんなじさ、それで、お前さんは放って置かれ、うんうん唸っているのも聞こえて来るんだよ、よそ様が聞いたら、いったい、どうなっているんだ、この家は!と思うに違いないとも」
 便所から、男が出てくると同時に、正露丸を渡し、きめ細かに、時間を計ったかのように水を渡す。
「婆さんすまないね。俺は、こんなにだらしなく、弱く、情けない男に見えるだろうが…もとは破壊が好きで、喧嘩好きの男だったんだ…それが魚になってしまってから、いや、八百屋のせいか、あの女のせいか分からないが、とにかく、魚になってから、この体たらくさ」

と、腹を擦り、

「魚っていうのは妙で、俺も、そこのところを考えてみようと思っていたんだが、とにかく忙しかった。解剖されそうになったり、この家に来たりと、忙しかった…」

と、男が愚痴をこぼした。


 すると、老婆はしかめっ面をして、
「なんなんだい、おまえさんが魚だったって?だとしたら、それに戻ったらいい、魚に戻って、私が、魚屋で一匹買おうじゃないか、へ、笑わせてくれるわい、戯言ぬかしよって、散々楽しんだわけだろうが…それが、お嬢様が興ざめしたとたんに、こんなになっちまって…」
 と言い、老婆は自分の腹を擦り、首をくるくる振って真似をした。

 男は、この老婆を叱りつけるわけにはいかなかった。老婆の罵倒はまだ続いた。
「野放図な性欲っていうのはお釣りがくるんだよ、それに飽きっていうもんが来る、お前さんをお嬢様が拾ったのは、お嬢様の気まぐれでしかないんだよ、それをおまえさんは舌をだらりと垂らして、いつまでもお嬢様にしがみついている、憐れだね、お嬢様が、おまえさんに、ぞっこんなことなどないんだよ、いいかげん目を覚ましな、いつだって、お嬢様は恋愛感情なんてもんはないんだ、下の口が疼くのさ、それで拾ってくる、そして飽きたら、また別の…てな具合で、永遠に、そうだね、私くらいか、そのくらいにでもなりゃ、落ち着くんじゃないだろうか、これまでお嬢様が連れこんだ男の数といったら、おまえさん驚きなさんなよ、」

 と、老婆は言って両手をかざして、ゆらゆらさせ、

「星の数ほどってことだよ、数え切れない数さ、もし私が帳面にでも記帳していてごらんよ、そりゃ、電話帳くらいの厚さになることだろうよ、お嬢様が自叙伝で自分の男性遍歴でも書きようものなら、そうだね、世の男はげっそりすることだろうよ、あいつは俺たちの白い魂を吸い尽くす悪魔だ、ってな感じさ、所帯持ちであろうと、当たり構わずあの女は奪い取る。そういう女なんだよ、二階の人にしたってもうそう長くはないことだろう、あの二階にいる奴は、最初はお嬢様と結婚でもするつもりでいたんじゃないのかね、それをあの女は逆手にとって、ぎゅうぎゅう締め付けて」
 そう、老婆は言って、雑巾を絞る真似をしたが、男はまた便所に駆け込んで、その便所の戸に向かって、老婆は、大きな声で、まるで酒場ではしゃぐかのように、話し続け、
「とうとうあの棺桶さ、棺桶っていうのは音がしない部屋のことだよ、おまえさん二階に上がったんだから知っているんだろ、あのノブをまわしても開かないドアのある部屋だよ、あれは変な癖がなんかの拍子についたときに作ったんだよ、大工さんを頼んでね、その大工だって、その変な癖がなんかの拍子についたときの男の紹介さ、なんかの拍子っていうのは、数が多すぎてわかりゃしないからなんだよ、そのくせっていうやつは、それ、陰険で、暗い、地下室で行われそうな、秘密で日陰もんのすることさ」
 老婆が言うと、便所から男が出てきた。
「だが、あんたは聞こえるって言ったじゃないか」
 反論すると、老婆は、そんなことを言ったかい、と恍けるのであった。しかし、老婆の妄想は止まらない。
「いいかい、よく聞くんだ、お嬢様のことは、この私が、よく知っておる、どんな癖がついたのか、どんな男を連れてきて、何をしたのか、歴史をみてきたんだ、この家の」
 老婆が、そう言ったところで、男は、老婆の肩越しに、立つ女を見た。

 女は開放的な笑みをたたえていた。その開放的な笑みが、男に不安を呼び起こした。男が、下を向いて、自室に入る前に老婆に指で気付かせ、振り向いた老婆は、急いで、離れに戻り、男は床についた。



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