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 その男は、上半身には引っかき傷があり、黒い皮のブリーフを穿き、足には足輪がついており、その足輪は鎖で繋がっていたため、うまいこと歩けないのであった。
 彼女は、険しい顔をその男に向けると、握られていた手を軽く離し、立ち向かって進み、腰に手を当てて聳え立った。

 その男の口には猿轡を施してあったために涎がたれ流れて、もぐもぐと口を動かしてはシュウシュウ不鮮明な音を口から出していた。
 男は皮仮面の男を見て唖然とした。女はその男を無視するようにして、男の視界に皮仮面の男が入らないようにして、大きく脚を広げて、跨ぎ、男の太ももの上に乗っかって、胸を顔に押し当て、両手を体に巻きつけ、顔を近づけ、キスをしようとした。すると、キスを一回した。
「あの猿轡を取ってあげたら」と男は言った。
「あなたの頼みだから…」
 彼女は、抱擁をとき、立ち上がって、皮仮面の男に近づいた。そして、猿轡を取った。しかし、涎は依然たれつづけ、女のほうに顔を向け、
「何か食物をください」と言った。
 女は、テーブルにいる男に近寄り、
「今、それどころじゃないの…」
男に頬擦りをした。
「何か与えたら」
「だめ、絶対だめ、今はこうしていたいの」
 甘える口調で言い、男を見つめた。

 皮仮面の男を、彼女はしぶしぶ紹介した。名前はMであり、もう長くこの家の二階にいるという。いるのか、飼っているのか、男は、Mに対して想像してみたが、どうみても奴隷でしかなかった。

 奴隷Mはもう一度、食物をください、と言ったが、今度は彼女がどすのきいた声で、

「ハウス!しっ、しっ!」と怒鳴り、

 奴隷Mに再び猿轡を施した。しばらく、彼女と奴隷Mは対峙していたが、彼のほうから、二階に自主的に上がった。
 彼女は、二階にあの男がいるのよ、としか言わず、それが彼女の性癖であることを男は想像で補うしかなかった。彼女が、普段の彼女に戻るまで少し時間がかかった。その間、男は彼女を見たりはしなかった。まるでコンタクトレンズを嵌めるのを見ないように、唾が腕に飛んできたときに知らない振りをするように、彼女を問い詰めないように、彼女をそっとしておいた。そのことに彼女は気付いたらしく、あなたってやさしいのね、まだこの家にいてもいいのよ、…かまわないわ…と小さな声で言った。

 

 万引きの少女。意図したことではなかった。ただ、代金を払わず、小さな洋服の中にしまいこんだ、ピンクのウサギのぬいぐるみ。店員が、他の客が見ている前で大声で怒鳴りつけ、詰り、見下した。年齢は小学低学年くらい。怯えすくみ、涙を流し、頬は赤く、無理やりに、罪悪感を、店員に注ぎ込まれ、当惑している女の子…もう、その店には俺は行かないことにした。その店員は気が狂い、入院しているそうだ。


 しばらく、彼女は俯いて何も喋らなかった。男も彼女のこしらえた傷口に触れないように、かさぶたになるまで待っていた。彼女はおそらく長い間に培われた性癖を、この目の前の、関係を持った男に説教されることなど望んではいないだろう。男にとって奴隷を持つこと、そして、その一方で自分と濃厚な時間を過ごす、二面性を、最初は受け入れにくいものがあったが、その原因を突き止めるにはそれ相応の訓練、教育、体験が必要ではないだろうか。
 汚れて、食べ終わったカレーライスの皿を眺めながら、そう思った。彼女は、あの男とは、どんな関係かが、老婆の言うおもちゃでしかないのであろうか?、張り方でしかないのでないのか。だとすると、俺はこれから先、この女にどのような待遇を受けるのであろうか?
 彼女、今俯いて、すっかり食事を用意していた陽気な彼女が萎れていた。俺は近寄って、彼女の髪を撫でるしかなかった。彼女は飼い犬が粗相をして、そこの主人が、片付けをしているときの犬のように、すっかり、これから罰せられるような、弱気な表情をしていた。

 励ます?それも変だ。俺は、この件に関して、余程のことがないかぎり、彼女との会話には持ち出さないようにした。ただ、あの奴隷をいずれは解放してあげること、そして彼に食事くらいは用意してあげることだけは望んでいた。
 ようやく彼女が顔を上げた。彼女は、はじめは暗く、沈んだ顔をしていた。
「ばれてしまった…こういう事はもう少しはっきりをあなたに知らせておけばよかったの…でも、そうしたら、あなたが離れていくようで…怖かったの…」
「恐れることはないんだ。誰しもそうした性癖の一つや二つ持つはずさ、俺の知っている男はセックスのときに女の首を締めるんだ。そうして弱める。そうしているんだ」
 彼女は皿を片付け始めた、その動作には元気がなかった。疲れきった母親が、やつれた表情で、重い動作で子供たちの食器を片付けしているようだ。
「そうだ、テレビを見よう、さっきそういったとも、テレビを二人で見よう」
 彼女は作り笑いをして、同意してくれた。その彼女の心は、見捨てられるという不安と、そのときを想像した、悲しさで、満ちていたかもしれない。
 シンクに、汚れた皿をいれ、水に漬け、彼女は、コーヒーにするか、緑茶にするか、聞いてきたので、きみの好きなものにあわせると言った。ぎこちなさは会話にないだろうか、俺はずいぶんと神経を細やかにしていた。
 居間に二人は移り、14インチのテレビ、それも白黒で、時代に不釣合いのチャンネルがついていた。コードがテレビの後ろから伸びており、そのコードは先が二股に分かれていて、黄金色の銅線が黒い塩化ビニールのコードから剥き出しになっていた。
「これ、父の形見のものなの、父が市販のテレビを改良したの」
 そして、彼女は、やぶ蚊を取るためか、蚊取り線香を用意した。蚊取り線香をコードの傍に置いた。そして、彼女は銅線の先端を渦を巻いている蚊取り線香の終わりの穴に装着した。マッチをすり、火を蚊取り線香につけた。

 すると、テレビの画面が薄ぼんやりと浮かび上がった。画面には、肥大化し、窪みのある、巨大な夏蜜柑のような俳優が写った。それはドラマの一場面であり、よれよれのシャツの子役が、


――とおちゃん、今度犬を飼っておくれよ、柴犬が欲しいんだ、名前も考えたんだチロって言うんだ、妹と考えて決めたんだ
 先ほどの俳優は今のせりふからして父親役なのだろう。父親は、
――それはかあちゃんに言うんだ、いいか洋助、とおちゃんはこれから…
と、言ったところで、線香を男が見ると、線香は導火線のように激しく、ちりちりと燃え、見る見る灰になっていき、もう銅線がある穴のところまで来ていた。
「これ、すごく電気食うっていうのが分かるでしょ、父もその辺を気にしていたの、ただ蚊を取る役目とテレビを見られるという役目、一石二鳥でいい、と父は考案したの…」と、女は消えかかった白黒テレビのコードを引き抜くと、もうひとつ蚊取り線香を持ってきた。
「もういいよ、何か別のことをしよう、トランプ…そうだ、ポーカーをやろう」と、男が言うと、

女はポーカーは知らないといった。
「すまないが、服を買ってきてくれないか、カジュアルなものでいい。そうして、外に出ないか。お茶を飲んで、映画でも見に行かないか?」、と男は言うが、一方で、全て彼女が金を払うのかと思うと情けなくなってきた。それでも、彼女を少しでも違う場所に動かして、気を紛らわそうとした。
 老婆にしろ、Mにしろ、この家には、男が知らない、女の裏の顔を併せ持つ、毒蝶のようなところがある。男もそれをどうにか改善したいが、なかなかうまくいきそうもない気がしてきた。というのも、この家はかなり古く、それにことは既に進んでおり、男の力で、全く別のものに変えることなど、到底できそうもない、それこそ伝統のように成り果てていたからだ。
「映画…私しばらく行っていないわ…ずっと家にいたの…」と、彼女は最初に男に接したときのように、また語尾を濁す話し方をしていた。
「二階のMについてもこれから少しずつ考えよう。一遍に何かをしようとすると達成できないんだ。わかるよね、それに、そう、おいそれと、きみの癖という言い方は、いいかわからないが、それを俺も手伝って、変えていこう…」
 しかし、女は鼻で笑うのをこらえていた。男は不安になった。綱が切れ、落下し、全身を打って重体、そして死亡したピエロ。
「そうだ、…酒でも飲もう、それがいい…」
 腰を引いた言葉。男は盛んに、この家にいては、だめな気がして、説得しようとするが、黙って、笑みを浮かべる女を前にしては、もう何も効果をもたないことを悟った。
 そこで、男は台所に向かい、包丁を研ごうと、研ぎ石を探した。女は台所のシンク下から研ぎ石を出した。
「いつも、研ぎ屋さんに頼むの、よく来る研ぎ屋さんは包丁を、この辺の家々から集めて、十本くらいを並べて、路上で研ぐの、研いでもらうとすごく持つの…」
 包丁を水で湿らして、既に研ぎ始めた男は、研ぐことに集中していて、彼女の話をあまり聞いていなかった。
「え?」
「なんでもないわ、邪魔してごめんなさい」
 女は、居間へ消えた。そこで、ソファーに横になり、燃え尽き、石綿の上で白胡椒色した、蚊取り線香の灰をぼんやり、眺めていた。そうして、疲れを感じて、眠った。


 台所の刃物を研ぐ音が、彼女の子供時代に父に連れられて行った浜辺を思い起こさせた。その浜辺で彼女は貝殻を擦り合わせて、波打ち際で演奏をしていた。そのときの音に似ていた。日傘を差した、母の姿。父はタバコを吸って…
 女は、台所に行き、男に向かって、大きな声で言った。
「あなたタバコ吸わないの?」
 すると、男は研ぎながら、
「そういえば、魚から変化してから、ずっと吸っていない」
 女は財布を持ってタバコを買いにいった。
 包丁を研ぎ終わり、男は居間に向かい、テレビの仕組みを調べ始めた。奇妙であった。なぜ、蚊取り線香で、電気が発生するのかが、分からなかった。
 急な夕立で、勢いよく雨粒がこの家の屋根をたたきつける。彼女を迎えに行ってあげなくてはいけない。そこで、男は診察室を抜けて、待合室に入り、そこで傘を探し――待合室に骨の折れた、黒い傘が、傘立にあった――見つけて、外に出た。

 外は白い飛沫のような雨が降り注いでいた。この黒い傘は骨が折れていたため、男が歩く姿は、傘を被った妖怪のようであった。これでは視界は開けない、彼女を見失ってしまう。そこで、諦めて彼女の家に戻り、タオルを用意し、それから風呂を沸かしておこうと思った。
 スウェットのズボンが、洗濯しなくてはならないくらいに、ずぶ濡れであった。そこで、男は乾燥機に、それを入れ、スイッチを押した。単調な乾燥機の音、その熱風。夕立のため、今は湿気を帯びていたため、エアコンを除湿にした。

 診察室から物音がして、髪をすっかり濡らし、上着も濡れた彼女は、タバコ一カートンを白いビニール袋に入れており、その袋は、雨粒で濡れていた。
「ひどい、土砂降りよ、風邪をひいてしまうわ…銘柄を聞き忘れていたから、マイルドセブンがいいんじゃないか、ってタバコ屋さんが言ったから、それ買って来たの」
 男が差し出したタオルで髪を拭き、洋服をたたいて乾かしていた。
「ありがとう、今お風呂を沸かしているところだ、すまなかったね、少し前に迎えに行こうと外に出たんだよ、でもひどく視界が悪かったから、家で準備しておいたほうが、いいのではないかって、思ったから、家に戻った」
 彼女はありがとうと言い、居間に行きましょうと歩き出した。

 一服をし、彼女を見ると、またしても、奇妙なテレビを見ようとした。無邪気に、蚊取り線香に、コードの先端をつけるのに、一生懸命だった。女の姿を、男は微笑ましく眺める。その半面で、奴隷を飼うところが、男にとって謎であった。ちょうど、この今、夢中になってテレビの設定をしている状態で、彼女は奴隷を扱っているのであろう。
 「もう、五時過ぎでしょ、ニュースを見たくても…こう湿気ちゃうとなかなか…つかないわね」

と、男から一カートン買うと付いてくるライターを取り上げると、
「ラジオでいいかしら?でも、ラジオって嫌いなの…なんかこう・・・空気の中を電波が、蠢いていると思うと、脳によくないような気がするのよ、テレビの電波もそうなんだけれど・・・ラジオは何か、雨の時に聞いていると、悲しい通夜を思い出してしまうのよね。父の葬儀のときに、深夜に叔父が、離れでラジオを聞いていたわ…」

と言った。


 男はラジオの昔話をしだした。だが彼女は耳を貸さずに、
「お手伝いさんのことが好きだった叔父のことよ、もうだいぶ前のことになるけれど…私が大学のときよ、でも、その当時なんだか汚らしくて嫌だったの、だからラジオっていうと、叔父の顔が浮かんで、次にお手伝いさんの顔が浮かんで、離れが浮かんで、雨音がするのよ、そして田舎臭い音…」

と言ってテレビ画面を見ていた。
 男は、奴隷をいつから飼いだしたのかを聞いてみようか、と考えた。こうした極度にプライベートな質問に対しても、彼女はおそらく、きちんと真面目に答えてくれるのではないかと思ったからであった。

 しかし、その質問をしようと口を、男が動かす前に、彼女の手が下半身へ伸びて、下着を下ろされる。どう考えても、彼女は俺を露出狂の枠に入れているとしか言いようがない。
 目は画面に、手は男に、器用なことができたものだ、こうして過ごしていってしまうのであろうか。だとするなら、俺は二階の奴隷の二の舞に過ぎない。

 そう考えると、男は不機嫌になって、女の手を払いのける。彼女が見つめる。部屋はもう暗く、顔の表情は、もう燃え尽きる線香が電力を、頼りなく送ることで、やっと保っているブラウン管の光で、どうにか判別できる程度になる。

 女はどんな表情をしているのだろうか。
 画面の光が消え去った。暗い、雨音のする、居間のエアコンの緑のセンサーランプが唯一の光源。いつのまにか、男の顔に女の顔が近づいている。女は唇を合わせようとする一方で、手が男に伸びてくる。これでは初心な少年が、性的誘惑を受けているようなものだ。完全に彼女の音頭取り。完璧な主導権への白紙委任状。

ふざけている。そう男は言ったところ、女は、何が?と、全く何も知らない小学生の女の子のような口の利き方をした。香水をいつの間にか、つけていた。いい匂い。

 もう既に、下半身は何も纏っておらず、腹と鋭角を描いて伸びていた。女が跨ぐ。ふざけている。また、男が言った。

 今度は女は何も言わず、彼女の表情が、一瞬の稲光りで見えた。夜叉だ。そう感じた。あの老婆の言ったように彼女は、老婆が何かを伝えようとして、伝えきれずに、作り話に終わったあの何か…それを男は次第に、薄ぼんやりであるが、感じ取りつつあった。
 力んで放った水鉄砲。彼女はうまく避ける。脱力感の中、俺は、侵されているのではないかといった、疲れ果てた脳が送る信号。


 こうして一週間がたった。下半身が痛み出していた。最初の興奮、ときめき、それは消え去り、苦痛すら感じるようになった。ことある毎に、彼女は、

「新しいパーツ、アルジネイト…」と言う、確かに俺の体は新しい部分なのだろう。
 あの食物をくださいと言ったMは、あれから音沙汰ない。彼女は彼に食事を与えたのであろうか。
 台所は異臭を放っていた。一週間前のカレーのルー、アオカビが生え、小蝿が乱痴気騒ぎをしているように飛び交っていた。なかには交尾をしながら飛び交う、ランデブー小蝿、そいつを俺は憎たらしいくらいに思い、しつこく追いまわして、手のひらで叩き潰した。
 彼女はもう既に俺に飽きがきたのか、要求してこなかった。二階に彼女がいることのほうが多かった。そんなときには、ときおり二階に忍び込んで、開かない扉の前で、俺は卑しく聞き耳を立てる。



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