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 俺は、父の怒りがラジオで生じたのではなく、母に関することを口走ったからだと、その当時感じた。そこで、俺はラジオを父から取り上げようとした。そうすると、父はまたぐっと怒りをこらえて、俺の差し出した手を無視した。しかたなく、自室に行こうとすると、父が、「おまえ母さんのことなど口にするな、それでなくとも仕事がうまくいかないんだ、」といい怒りを表すため息を強くすると、ラジオを持って玄関に向かった。「お父さん、いいよ、修理に出すから」というのも無視をし、ラジオは壊された…なんだか自分が玄関にたたきつけられた気がした。

 

 診察室のドアが開き、ビニール袋ひとつに詰め込んだ食料が来た。居間に入ってきた彼女は、はーっと息をすると、笑顔を男に送った。それに答えて、男は、「ご苦労かけたね、わるいね、楽しみだよ、手伝おうか」と言うと、彼女はいいの、挑戦してみる、といって台所に向かった。
「暑いのよ外」
「ここを開けておくと冷気が入るだろう、真夏日だから火を使っているとしんどいだろう」
居間と食堂を仕切っているドアを引いた。
「そんなに気にしないで、エアコンなら、この食堂にもあるから」
 男は、冷えてきた居間のソファーで横になった。そのうち、スパイスの香りが、漂いだした。男は立ち上がって、台所に向かい、圧力鍋が、この家にはないようで、作りのいい鍋を使って、カレーライスをこしらえているのを、目にした。

 そして、彼女の肩を掴んだ。彼女は、調理を止めてじっと男の顔を見た。その表情には、この台所でも関係を持ってもかまわないという合図のように、男は受け取った。
 男は女の髪を撫でて、「きれいな髪だね」と言い、微笑した。なぜか気まずい雰囲気に男は飲み込まれ、なぜ気まずいのか分からずに、こう言うのであった。
「包丁を研ぐのは得意なんだ」
「今度お願い、研いでもらって、ずいぶん経つの。ほとんど使わないけど」
 カレーライスができるまで少し時間がかかった。彼女の野菜を刻む、慣れない、中断したり、勢いよくなったりする音。当たり前のことでも、スーツを着て、エプロンをし、ひざ上のスカートをはいてそこから、剥き出しになる彼女の脹脛を見ていると、あの脹脛を擦りたくなる。

 擦って、彼女はくすくす笑いながら、ニンジンを切る。ニンジンの皮は皮むき機で削ぐ。ニンジンの皮を削ぐのと同じように、彼女の脹脛の美しさを削いでうっとりとする。肉を切るときに、彼女の脹脛は、硬くなり、やわらかい、淑やかな筋肉が浮かぶ。シンクから、ガス台に動くときも脹脛に目玉が張り付く。踵の正確な造型の計算。スーパーコンピューターでも弾き出せない彼女の踵から脹脛。それを見て、彼女の足の虜に成り果てる。スパイスの香り、男は食欲などどうでもよくなった。
「もう少しでできるからね、ちょっと待っていて…今何時?…三時か…昼にしては遅すぎるし、夜にしては早すぎるわね。おやつにカレーライス…」
 彼女が男を見て、あどけない表情で微笑んだ。


「時々抱きしめたくなるの、あなた見ていると…なぜか分からない…」

と言い出すと、男は女の口を指でなぞり、指を二本、口に入れた。彼女の舌が指に絡みつく。下にするすると降りていき、脹脛を空気を食べるようにして軽く噛む。
「ねぇ、歯型とらしてくれない?」
「どうして?」
 女は黙ったまま冷蔵庫に向かい、製氷機からひとつ氷を取り出すと、口に入れコリッコリッと齧った。
 歯型…彼女がかつて歯科医をしていたことを想像する。俺と関係を持って、彼女のことは深くは知らないものの、二階に何かがあるか彼女は未だに教えてくれないものの、俺の部分、永久に残しておける部分、それを欲している。なぜ、歯型なのだろうか?
 

 確かに、俺も歯に拘ったことがあった。白く輝き、唾液が銀色の糸を引き、前歯と下顎の歯に架かる…女だった。彼女は俺とはかなり年の離れた女であった。俺は子供のときの記憶を、彼女を引き寄せて、探り出す、きっとある何かある。なぜだかその記憶だけは消え去っていた。ただ、その女の歯だけが印象に残っていて、当時心では眼前に浮かばず、容易く消え去る気持ちが頭を持ち上げかかる。そうだ、恋愛感情。それが浮かばなかった。懐いても恋愛という簡単な気持ちが浮かばなかった。だから可愛がられた。いま考えてもその唾液のかほそい消えそうな糸がなぜだか、俺の心に部分を欲するという原型を作り出していたことに気付かせてくれた。今、目の前の女と同じ気持ちも、そうなのだろうか。
 

 コツっと、こめかみを人差し指で突っつかれ、俺は気付く。
「また…もうできたわよ、冗談よ、歯型なんていらないわ、だけど何かあなたの記念が欲しいの、そう思っただけよ、深刻に考えてしまっているわ…」と笑った。
 女と男は冷房をきかせた食堂でカレーライスを食べる。味はどうか、辛すぎないか、などの会話が交わされたくらいで、目的は食欲というふたりの欲求をまず叶えることであった。それが叶ってから、彼女の体を欲する。そうだ、食欲が満たされなくては、ことがうまく運ばない。ひたすら食べている。俺はせっかく作ってくれたものなので、お代わりをし、サラダを彼女が手をつけないので、その分を食べた。食欲はもう充分満たされた。そのとき二階から足音がした。彼女は困惑した表情をした。
 階段を降りきったようで、人気のする階段下を頭の中で想像した。しばらくすると、それはひたひたと廊下を歩き、食堂のドアの外に立っていた。
 二人は食事を終え、女は、男の隣に立ち、屈んで男の頬を唇でくすぐり、どうにか唇を合わせようとしていた。
「誰か上から降りてきて、いまそこにいるみたいだが…」
 彼女の肩を、鼻で小突いて、気付かせる。
「ねぇ、居間に行かない?テレビ見ましょうよ…」
「誰かいるようだよ」
 言い続ける男の口を塞ごうと、彼女が手を差し出したとき、少しドアが開いた。
「おい、誰だい?」
 彼女の手を握って、一本一本盲目のように手探りで確かめながら、
「おい、いるんだったら、出てくるといい、もう俺は長いことここにいる、悪いから、出て行こうと思う、誰だい?」

と言って、彼女に問いかけようとしたとき、一人の皮の仮面を被った大きな男が食堂に入ってきた。


 その男は、上半身には引っかき傷があり、黒い皮のブリーフを穿き、足には足輪がついており、その足輪は鎖で繋がっていたため、うまいこと歩けないのであった。
 彼女は、険しい顔をその男に向けると、握られていた手を軽く離し、立ち向かって進み、腰に手を当てて聳え立った。

 その男の口には猿轡を施してあったために涎がたれ流れて、もぐもぐと口を動かしてはシュウシュウ不鮮明な音を口から出していた。
 男は皮仮面の男を見て唖然とした。女はその男を無視するようにして、男の視界に皮仮面の男が入らないようにして、大きく脚を広げて、跨ぎ、男の太ももの上に乗っかって、胸を顔に押し当て、両手を体に巻きつけ、顔を近づけ、キスをしようとした。すると、キスを一回した。
「あの猿轡を取ってあげたら」と男は言った。
「あなたの頼みだから…」
 彼女は、抱擁をとき、立ち上がって、皮仮面の男に近づいた。そして、猿轡を取った。しかし、涎は依然たれつづけ、女のほうに顔を向け、
「何か食物をください」と言った。
 女は、テーブルにいる男に近寄り、
「今、それどころじゃないの…」
男に頬擦りをした。
「何か与えたら」
「だめ、絶対だめ、今はこうしていたいの」
 甘える口調で言い、男を見つめた。

 皮仮面の男を、彼女はしぶしぶ紹介した。名前はMであり、もう長くこの家の二階にいるという。いるのか、飼っているのか、男は、Mに対して想像してみたが、どうみても奴隷でしかなかった。

 奴隷Mはもう一度、食物をください、と言ったが、今度は彼女がどすのきいた声で、

「ハウス!しっ、しっ!」と怒鳴り、

 奴隷Mに再び猿轡を施した。しばらく、彼女と奴隷Mは対峙していたが、彼のほうから、二階に自主的に上がった。
 彼女は、二階にあの男がいるのよ、としか言わず、それが彼女の性癖であることを男は想像で補うしかなかった。彼女が、普段の彼女に戻るまで少し時間がかかった。その間、男は彼女を見たりはしなかった。まるでコンタクトレンズを嵌めるのを見ないように、唾が腕に飛んできたときに知らない振りをするように、彼女を問い詰めないように、彼女をそっとしておいた。そのことに彼女は気付いたらしく、あなたってやさしいのね、まだこの家にいてもいいのよ、…かまわないわ…と小さな声で言った。

 

 万引きの少女。意図したことではなかった。ただ、代金を払わず、小さな洋服の中にしまいこんだ、ピンクのウサギのぬいぐるみ。店員が、他の客が見ている前で大声で怒鳴りつけ、詰り、見下した。年齢は小学低学年くらい。怯えすくみ、涙を流し、頬は赤く、無理やりに、罪悪感を、店員に注ぎ込まれ、当惑している女の子…もう、その店には俺は行かないことにした。その店員は気が狂い、入院しているそうだ。


 しばらく、彼女は俯いて何も喋らなかった。男も彼女のこしらえた傷口に触れないように、かさぶたになるまで待っていた。彼女はおそらく長い間に培われた性癖を、この目の前の、関係を持った男に説教されることなど望んではいないだろう。男にとって奴隷を持つこと、そして、その一方で自分と濃厚な時間を過ごす、二面性を、最初は受け入れにくいものがあったが、その原因を突き止めるにはそれ相応の訓練、教育、体験が必要ではないだろうか。
 汚れて、食べ終わったカレーライスの皿を眺めながら、そう思った。彼女は、あの男とは、どんな関係かが、老婆の言うおもちゃでしかないのであろうか?、張り方でしかないのでないのか。だとすると、俺はこれから先、この女にどのような待遇を受けるのであろうか?
 彼女、今俯いて、すっかり食事を用意していた陽気な彼女が萎れていた。俺は近寄って、彼女の髪を撫でるしかなかった。彼女は飼い犬が粗相をして、そこの主人が、片付けをしているときの犬のように、すっかり、これから罰せられるような、弱気な表情をしていた。

 励ます?それも変だ。俺は、この件に関して、余程のことがないかぎり、彼女との会話には持ち出さないようにした。ただ、あの奴隷をいずれは解放してあげること、そして彼に食事くらいは用意してあげることだけは望んでいた。
 ようやく彼女が顔を上げた。彼女は、はじめは暗く、沈んだ顔をしていた。
「ばれてしまった…こういう事はもう少しはっきりをあなたに知らせておけばよかったの…でも、そうしたら、あなたが離れていくようで…怖かったの…」
「恐れることはないんだ。誰しもそうした性癖の一つや二つ持つはずさ、俺の知っている男はセックスのときに女の首を締めるんだ。そうして弱める。そうしているんだ」
 彼女は皿を片付け始めた、その動作には元気がなかった。疲れきった母親が、やつれた表情で、重い動作で子供たちの食器を片付けしているようだ。
「そうだ、テレビを見よう、さっきそういったとも、テレビを二人で見よう」
 彼女は作り笑いをして、同意してくれた。その彼女の心は、見捨てられるという不安と、そのときを想像した、悲しさで、満ちていたかもしれない。
 シンクに、汚れた皿をいれ、水に漬け、彼女は、コーヒーにするか、緑茶にするか、聞いてきたので、きみの好きなものにあわせると言った。ぎこちなさは会話にないだろうか、俺はずいぶんと神経を細やかにしていた。
 居間に二人は移り、14インチのテレビ、それも白黒で、時代に不釣合いのチャンネルがついていた。コードがテレビの後ろから伸びており、そのコードは先が二股に分かれていて、黄金色の銅線が黒い塩化ビニールのコードから剥き出しになっていた。
「これ、父の形見のものなの、父が市販のテレビを改良したの」
 そして、彼女は、やぶ蚊を取るためか、蚊取り線香を用意した。蚊取り線香をコードの傍に置いた。そして、彼女は銅線の先端を渦を巻いている蚊取り線香の終わりの穴に装着した。マッチをすり、火を蚊取り線香につけた。

 すると、テレビの画面が薄ぼんやりと浮かび上がった。画面には、肥大化し、窪みのある、巨大な夏蜜柑のような俳優が写った。それはドラマの一場面であり、よれよれのシャツの子役が、


――とおちゃん、今度犬を飼っておくれよ、柴犬が欲しいんだ、名前も考えたんだチロって言うんだ、妹と考えて決めたんだ
 先ほどの俳優は今のせりふからして父親役なのだろう。父親は、
――それはかあちゃんに言うんだ、いいか洋助、とおちゃんはこれから…
と、言ったところで、線香を男が見ると、線香は導火線のように激しく、ちりちりと燃え、見る見る灰になっていき、もう銅線がある穴のところまで来ていた。
「これ、すごく電気食うっていうのが分かるでしょ、父もその辺を気にしていたの、ただ蚊を取る役目とテレビを見られるという役目、一石二鳥でいい、と父は考案したの…」と、女は消えかかった白黒テレビのコードを引き抜くと、もうひとつ蚊取り線香を持ってきた。
「もういいよ、何か別のことをしよう、トランプ…そうだ、ポーカーをやろう」と、男が言うと、

女はポーカーは知らないといった。
「すまないが、服を買ってきてくれないか、カジュアルなものでいい。そうして、外に出ないか。お茶を飲んで、映画でも見に行かないか?」、と男は言うが、一方で、全て彼女が金を払うのかと思うと情けなくなってきた。それでも、彼女を少しでも違う場所に動かして、気を紛らわそうとした。
 老婆にしろ、Mにしろ、この家には、男が知らない、女の裏の顔を併せ持つ、毒蝶のようなところがある。男もそれをどうにか改善したいが、なかなかうまくいきそうもない気がしてきた。というのも、この家はかなり古く、それにことは既に進んでおり、男の力で、全く別のものに変えることなど、到底できそうもない、それこそ伝統のように成り果てていたからだ。
「映画…私しばらく行っていないわ…ずっと家にいたの…」と、彼女は最初に男に接したときのように、また語尾を濁す話し方をしていた。
「二階のMについてもこれから少しずつ考えよう。一遍に何かをしようとすると達成できないんだ。わかるよね、それに、そう、おいそれと、きみの癖という言い方は、いいかわからないが、それを俺も手伝って、変えていこう…」
 しかし、女は鼻で笑うのをこらえていた。男は不安になった。綱が切れ、落下し、全身を打って重体、そして死亡したピエロ。
「そうだ、…酒でも飲もう、それがいい…」
 腰を引いた言葉。男は盛んに、この家にいては、だめな気がして、説得しようとするが、黙って、笑みを浮かべる女を前にしては、もう何も効果をもたないことを悟った。
 そこで、男は台所に向かい、包丁を研ごうと、研ぎ石を探した。女は台所のシンク下から研ぎ石を出した。
「いつも、研ぎ屋さんに頼むの、よく来る研ぎ屋さんは包丁を、この辺の家々から集めて、十本くらいを並べて、路上で研ぐの、研いでもらうとすごく持つの…」
 包丁を水で湿らして、既に研ぎ始めた男は、研ぐことに集中していて、彼女の話をあまり聞いていなかった。
「え?」
「なんでもないわ、邪魔してごめんなさい」
 女は、居間へ消えた。そこで、ソファーに横になり、燃え尽き、石綿の上で白胡椒色した、蚊取り線香の灰をぼんやり、眺めていた。そうして、疲れを感じて、眠った。



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