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第2話「Carry That Weight」


 1

 終電で最寄駅に着くころにはすでにクタクタで、家までの徒歩十分をタクシーで帰ろか迷っていると、後ろから話しかけられる。
「お義兄ちゃん♡」莉乃ちゃんだ。
「どうしたの? こんな夜遅くに」
「ん? 友達と遊んでたら、遅くなっただけだよ。でも、良かった。帰り道、微妙に怖いんだよね。一緒に帰ろ」
「うん」
 妻である久遠さんの実家で暮らすようになって、早一ヶ月。賑やかな毎日を僕は送っている。上京するまで、ずっと母と二人暮らしだった僕は、僕を含め六人で一つ屋根の下で生活するということは、とても新鮮だった。まぁ、多少の不便や不満がないわけではないけれど。でも、苦ということもない。
 しかし、高校生がこんな時間まで遊んでいるのは如何なものか。しかも女の子だ。認識はあるようだけれど、家までの道のりは、暗くなると確かに危ない。変な奴が出ることもあるというし。ただ、一緒に暮らしているとはいえ、ついこの前まで他人だった僕が、どこまで干渉して良いのか判らない。いや、ここは義兄として、ちゃんと言うべきことは言った方が良いのだろうか。
「ねえねえ」
「うん?」
「ウチで一緒に暮らすのって、嫌じゃないの?」
「なんで? 全然嫌じゃないよ。むしろ助かってるし」
「そう? でもさ、夜とか、困らないの?」
「夜?」え? どういう意味だ? 夜って……。って、え? そういうこと?「いや、それはなんていうか、その……」
「だって、二人暮らしの時はさ、なんの気兼ねもなかったでしょ?」
「いや、まぁ、そういう話はよそう」興味津々かよ……。
「ねぇ、どうなの? ぶっちゃけ、週に何回くらい……」
「いやいやいやいや……」
 僕は歩を早める。
「ちょっとぉ。待ってよぅ」
「もう遅いから早く帰ろう」
 家に着き、玄関のドアをそっと開ける。ゆっくりと忍び足で、玄関脇の部屋の前を通り抜ける。
 この部屋は、久遠さんのお祖母さんの寝室。実のところ、僕はまだ、このお祖母さんとまともに話したことがない。朝早くから、近所のご年配方と出かけていて、夕方まで帰ってこないことが多い。食事も一人で済ませている。
 久遠さんの実家は、ゆるい造りの二世帯住宅で、一階でお祖母さんは暮らしている。僕を含めた残りの家族は、全員二階だ。だから、あまり顔をあわせることもない。
 そんな生活に、みんなは慣れているようだけれど、未だに僕は違和感を抱いている。過去に何かあったのだろうか。その理由を、僕はまだ知らない。
 忍び足で、階段を上がると、リビングの明かりがまだ付いている。
「あ、最悪。お母さん、まだ起きてる」莉乃ちゃんが言う。
「きっと心配してるんだよ」
「面倒臭いなぁ」
 莉乃ちゃんは、リビングへ。僕は自分の部屋に向かう。
 久遠さんはきっともう寝ているだろうから、そっとドアを開ける。
「ただいま」僕は小声で言う。スーツをハンガーにかけて、静かにお風呂場へ向かう。
「今何時だと思っているの!?」リビングからだ。小声だけど怒気を含んでいる。夜だから、ここまで聞こえる。莉乃ちゃんは、悪態をついて言い訳をしている。忍び足で廊下を進む。
 リビングの脇を通り抜けたと同時にドアが開く。
「益一郎さん。おかえりなさい」
「すみません。夜中に。静かに入りますので」
「いえいえ。お仕事ご苦労様。帰り道、莉乃と一緒だったんですってね」
「あ、はい。駅で偶然会いまして……」
「もう、本当あの子ったら。誰に似たんだか。久遠も琴羽も、門限はちゃんと守っていたんですけれど」
 リビングから、莉乃ちゃんの不満を漏らした声が聞こえる。
「いえ、すみません。僕もちゃんと注意できなくて」
「いえ、いいの。あら、すみません。お風呂ですよね」
「はい」
「追い焚きしましょうか」
「いえ、大丈夫です」ボイラーの音も響くし。
「では、おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」

 服を脱いで、お風呂場に入る。ちょっとぬるかったけれど、湯船にも浸かる。
 はぁ、疲れた。


 2


 日曜日の昼間。僕は部屋で一人、ギターを爪弾いていた。最近はほとんど弾いていないし、やっぱり左手にも力が入らない。でも、ゆっくりとは弾くことができる。ビートルズの『ブラック・バード』や『ディア・プルーデンス』をつっかえながら弾く。
 正直なところ、多田羅家でギターを弾くことは大いに憚られる。じゃあ、どうしてこんなことをしていられるかというと、みんな出かけているからだ。
 久遠さんとお義母さんは、午前中から買い物に出かけていて、莉乃ちゃんは遊びに行っている。琴羽ちゃんは休日出勤らしい。お義父さんも会社の人たちとゴルフに行っている。
 僕は一人この家に取り残されたわけだけど、でもこれは、久遠さんの気遣いでもある。みんなでワイワイ暮らせることは嬉しい。これは本心だ。でも、久遠さんは優しいから、僕に一人になれる時間を与えてくれたのだ。
 七回やっても、『ブラック・バード』のイントロは弾けなかった。そういえば、『ホワイトアルバム』どこかにしまってあったはず。忙しくて後回しにしていた引越しの荷物が、クローゼットの中にあるので、そこを探す。
 しかし、見当たらない。うーん、確かに持ってきたはずなんだけどな。僕は捜索を諦め、ギターをケースに戻し、クローゼットの奥に仕舞う。
 窓の外を見る、天気が良い。ちょっと散歩にでも行こうかな。そんで駅前のドトールにでも行って、コーヒーを飲もう。
 階段を降りて玄関に向かう。すると、どこからか声をかけられる。
「ちょいと、お前さん」忘れていた! お祖母さんだ。あぁ、やばい。さっきのギターの音、聞こえちゃったかな。
「はい」恐る恐る返事をする。
「さっきの演奏……」ドアが開く。「恐ろしく下手だね」
「あ、すみません。えっと……」
「どうしてくれるんだい? あんたのせいで、ビートルズを聴きたくなってしまったじゃないか」
「え? あぁ、買ってきましょうか?」なんだこの返答……。
「あんた、バンドやってたのに、ビートルズも持っていないのかい」
「いえ、どうやら引越しの時に、どこかに紛れてしまったみたいで」
「じゃあ、ちょっと手伝っておくれ」
「え? あ、はい」手伝う?
「こっちだよ」お祖母さんは、僕を招き入れる。
 久遠さんのお祖母さんである多田羅千和さんは御年73歳。あまり顔を合わせることはないけれど、多田羅家の真の支配者だ。なぜかみんな、触らぬ神に祟りなし的な態度で接しているけれど、少なくとも僕ら夫婦に何か干渉してきたことはない。そして、結構若く見える。五十代くらい、というのはさすがにないけれど、背筋もピンとしているしスタイルも良い。頭の回転が早いことも、少し話しただけで判る。何より印象的なのが、その声だ。なんというか。発声、発音もクリアで言葉がはじけるような感じ。一言で言えば、音楽的なのだ。
 千和さんは、押入れをの上を指差す。
「あのダンボールの中に、レコードが入ってるから取っておくれ」
「あ、はい……」レコード? 
「重いからね。気をつけな」
「はい」
 千和さんが用意してくれた踏み台に乗って、僕はそれを取り出す。本当だ、結構重い。
 ゆっくりとそれを床に降ろし、開ける。
「おっ、これは……」
 中には、ターンテーブルと十数枚のレコードが入っていた。全部LPだ。『ホワイトアルバム』の他にも『ペット・サウンズ』『ベガーズ・バンケット』『ネバーマインド・ザ・ボロックス』『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』などなど。
「死んだ旦那の趣味でね。かけ方は判るかい」
「はい。大丈夫です」60年代と70年代のレコードたち。さすがに初版ではないだろうけれど。
「みんな出かけてるのかい」
「そうみたいですね」
「じゃあ、多少大きい音でも構わないだろう。コーヒーでも淹れてきてくれるかい。淹れ方は判るね」
「はい。もちろん」
「台所に、ミルがあるから」
「はい」
 コーヒーを淹れて、二人でレコードを聴いた。何も話さなかったけれど、悪くない。


 3


 一通りレコードを聴き終えると、千和さんは近所の友達と出かけて行った。
 僕は自室に戻り、ベッドの上でぼんやりと目を閉じる。すると電話が鳴った。久遠さんからだ。
「もしもし?」
「あ、益一郎くん」
「どうしたの?」
「あのね、困ったの」
「なに?」
「車が動かなくなっちゃったの」
「え? 何? バッテリィ?」
「判らない。セルは回るんだけれど」
「なんだろう。キャブかな」
「多分プラグかも。ねえ、どうしよう。荷物もあるし」
「レッカー呼ぶしか……」
「うーん……。ねえ、とにかく来てくれない? 今、コストコなんだけど」
「え、行くも何も。車がないじゃない」
「パパのがあるでしょ。今朝、会社の人が迎えに来てたし」
「え、お義父さんの車、乗って良いの?」
「だって、しょうがないじゃない」
「いや、でも……」
 多田羅家は二台の車を所有している。主に家族全般用のワゴンRとお義父さんの車だ。お義父さんは、昔は結構車をいじっていたらく、詳しい。車好きだ。首都高あたりを走っていたらしけれど、今は日産の35Rをノーマルで乗っている。
「パパには、私から連絡しておくから。とにかく来て」
「判ったよ……」

 マジか。緊張するなぁ。お義父さんからメールでキーの場所を教えてもらう。
 うへぇ。500馬力オーバーのスポーツカーだ。絶対ぶつけられない。
 エンジンをかけ、恐る恐る発車する。ひとまず大通りに出る。
 あぁ、すごいな。オートマモード、60km/hくらいでも六速に入るのか。自信がないからマニュアルにはしない。MTなんて教習所以来乗っていない。
 パワーがすごい。これでノーマルかよ。軽自動車なんかゴーカートに思えるな。
 高速を降りて、下道に戻る。信号に引っかかったので、停車する。
 西日が眩しいな、と思ったところで、隣にバスが止まり、影の中に入る。
 ふと、隣を見る。ほとんど無意識に。でも、もっと気をつけていれば良かった。
 心臓が鳴る。ハンドルを握る手が、汗ばんでいる。

『よぉ。元気か』

 無視だ。

『思い出したか。忘れたってわけじゃないだろ。これ見よがしに動揺しやがって』

 うるさいやつだ。

『俺は知ってるぜ。お前がレコード屋の前を通るたびに、〈あんなことさえなければ、今頃自分だって……〉と思っていること。左手の具合はどうだ?』

 黙れ。

『ほら、その車、スピード出るんだろう? もっと飛ばせよ。そうすりゃ、ちょっとハンドル切っただけで……』

 信号が変わる。バスは右折して見えなくなる。
 後続車に、クラクションを鳴らされ、僕は我に帰る。ゆっくりとアクセルを踏む。
 大丈夫。
 大丈夫だ。
 全然大したことじゃない。
 少しだけ、息が上がっていた。

 駐車場に入り、ケータイに電話をする。ぐるっと一周すると、久遠さんがいた。隣に停めて、車を降りる。
「益一郎くん!」久遠さんが駆け寄ってくる。
「お待たせ。あれ? お義母さんは?」
「まだ買い物している」
「そう。で、どう? ダメそう?」
「うん。どうしちゃったんだろう?」
「さあね。レッカーは呼んだ?」
「まだ。だって、説明とか出来ないもん」
「説明もなにも、エンジンがかかりませんって言えば良いだけなのに」
「でも、益一郎くんみたいに車に詳しくないもん」
「いや、僕も詳しいわけじゃないよ。直せないし」
「もうっ。意地悪言わないでよ。本当に困ってたんだから」
「まぁ、とりあえず見てみるよ」
 多田羅家はお義父さんが車好きであるがゆえに、いや、だからこそ他の家族は、車は動けば良い、という考えのようだ。お義父さんは肩身が狭いだろう。僕たちが結婚するまで、家族に男は一人だったのだ。僕も男の子なりに、少しだけ車の知識はあるから、初めて挨拶に行ったときも、それでなんとか間を持たせることができた。
「うーん」久遠さんの言う通り、セルは回る。けれど、エンジンが始動しない。「ダメみたいだね。これ、どれくらい乗ってるんだっけ」
「10年くらいかな。今まで壊れたことなかったのに」
「まぁ、10年も乗っていれば……」僕はメーターを見る。11万㎞。
 保険会社に連絡をして、レッカー車に来てもらう。近くの修理工場まで運んでくれるらしい。多分、この後はお義父さんが色々やるのだろうなぁ。
「益一郎くん、ありがとう。助かりました」
「いえいえ。でも、車ないと不便だね」
「うん。買い替えかなぁ」
「どうだろうね。ところで、お義母さんは?」
「買い物している。多分、もう終わった頃だと思うけれど」
 久遠さんは、お義母さんに電話する。
「益一郎くん」
「ん?」
「ママが荷物運ぶの手伝ってだって」
「何を買ったの?」
「お肉だよ。今日はバーベキューだって」
「へいへい」
 お義母さんのところへ行くと、普通のショッピングカートより二回りくらい大きなカートに、大量の食料品が積まれていた。こんなのバーベーキューというより、カーニバルだよな、と思った。あれ? 謝肉祭って、肉食べるんだっけ?


 4


 珍しく定時に上がれたので、寄り道していこうかと思ったけれど、たまには早く家に帰ってみる。毎晩夜遅くに食事や入浴をしているので、やっぱり結構迷惑だよな、と思う。まぁ、仕事だから仕方がないんだけれど。
 最寄駅に着き、商店街を抜ける。いつもはもっと遅い時間だから、ほとんどの店が閉まっているけれど、今日はまだ7時半だ。当たり前だけれど、雰囲気が全然違う。あっ!と、僕が見つけたのはコーヒー屋さんで、カフェではなく豆を売っているお店だ。そうか、多田羅家のコーヒー豆は、ここで買ってるんだな。紙袋に書いてある店名を思い出す。面白そうなので、ちょっと寄って行くことにする。
 ウチが買っているのは、どれなんだろう。いろいろな種類がある。
「いらっしゃい」店主であろう、初老の男性がニコニコと話しかけてくる。「何かお探しかな」
「いえ。ウチの人が、ここで豆を買っているので」
「そう。もしかして、多田羅さんちのマスオさんかな?」
「あ、そうです」マスオさん……。実際そうなのだが、改めて誰かに言われると『ウッ』ってなるな。
「多田羅さんには昔からお世話になってるよ。なんなら、先代のころからかな」
「先代のころ?」
「千和さんだよ。僕の親父の友人でね。昔は結構綺麗だったよ。あ、だった、なんていうと怒られるかな」店主は笑う。「旦那さんが、コーヒーにはうるさい人だったらしくてね。一時期は生豆を買って、自分で焙煎していくらいだよ。旦那さん亡くなった後も、変わらず買ってくれているね。さすがに焙煎はもうしてないけれど」
「それはそれは……」なんかすごいこと聞いちゃったな。
「あ、そうだ。これ、持って行きなよ」と店主は小さなパックを手渡してくる。「インドの豆なんだけれどね。希少なのが手に入ったから」
「良いんですか?」
「あぁ。千和さんに渡してくれ」豆を受け取ると、バンっと背中を叩かれる。「まぁ、大変だろうけれど、頑張ってね」
「あ、はい。ありがとうございます」
 店を出る。一体何が大変なのだろう、と思うけれど、決まっている。今の僕の境遇のことだ。『奥さんの実家で同居をすること』を、あの有名な国民的アニメから取って、『マスオさん』というのだ。婿養子とは違う。なかなか珍しいようで、同僚から好奇に満ちた質問も受ける。
 最初のうちは、誰もが同情しているようで、正直邪魔くさかった。いや、同情ではなく、あれは憐れみだった。大変だね、いろいろと気を使うでしょ、自分の時間とかあるの、ストレス溜まるでしょ、などなど……。勝手な想像で、勝手な憶測で、辛い思いをしているに違いないと初めから決めつけて、僕にものを言ってくる。いちいち、そんなことはないよ、というのも億劫だった。

 そう、意外とそんなことはなかったのだ。

 多田羅家は、ドライな雰囲気で成り立っていた。千和さんは、下の階で自由気ままに暮らしている。自分のことは自分でしているので、お義母さんのストレスはそれほどなように見える(まぁ、それでもあるんだろうけれど)。お義父さんは、仕事で帰りも遅いし、出張も多い。週末はだいたいゴルフだ。
 姉妹も仲が良く、次女の琴羽ちゃんとお義母さん、久遠さんの三人は、よく買い物や遊びに出かけている。三女の莉乃ちゃんは、高校2年生で遊びたい盛りだ。だから、ほとんど家にいない。

 家に着き、靴を脱ぐと二階からカレーの匂いが漂ってくる。なんだか楽しそうな声も聞こえる。
 自室でスーツを脱ぎ、部屋着に着替えてからキッチンへ向かう。久遠さんと琴羽ちゃんが一緒に料理をしている。
「おかえり」
「ただいま」
「今日はカレーだよ」
「なんか手伝おうか」
「ううん。大丈夫。向こうで待ってって」
 良いな、と思う。和気藹々としていて、実に家族らしい。
 リビングに行くと、お義母さんがテレビを見ている。反対側のソファに座る。
「あら、おかえりなさい。早かったのね」
「ええ。今日は」
 テレビではニュースをやっている。番組と番組の間の短いニュースだ。アナウンサーは、ニートの増加を憂いている。
「良い年して、働いてないなんて。親にも責任があるわよね」お義母さんが言う。
「どうなんですかね」僕は言葉を濁す。
 あまり真剣に考えたことはない。言ってしまえば、僕の知ったことではない。ただ、僕が彼らを否定しきれないのは、ついこの間までは、僕も似たようなものだったからだ。定職につかず、バンド活動をしていた。収入も自分ひとり養うくらいはあった。でも、思うのは、彼らのうち全てが単に怠けているから働いていないというわけではないだろうということ。それぞれに事情があり、働かないでいるのだろう。
「働かざるもの食うべからずよね。ホント」
 それもどうだろうか。それは結局、働いている人が偉い、という考え方に繋がるのではないだろうか。直接ではないにしろ、そういった部分が、子供や女性、高齢者、はては障害者などの差別につながっているのではないだろうか。僕は、そんなことを思う。お義母さんに悪気がないのは判っている。それに対して、こんなことを思ってしまうのが意地悪だという自覚もある。ただ、やっぱりお義母さんは、寿退社をして以来、ずっと専業主婦でいられた。もちろん、それにもそれなりの苦労はあっただろう。けれど、どうしても亡くなるまでずっと働いていた、自分の母親と比べてしまうのだ。
「不況も続いていますからね。そういったものの割を食っている人もいると思いますけど」
「でも、人材不足の業界だってあるでしょう」
「そうれはそうですけど」
 働ければなんでも良い、という人は意外に少ないものだ。もちろん、今日明日の仕事に困っている人もいるだろう。でも、ただ働ければ良いかといえば、それは違う。キツイ仕事をしたくないとか、そういうことではなく、例えば家族がいたり、なんらかの責任がある人は、そういった視点で、待遇を選ばざるを得ないだろう。人それぞれ、事情や都合があるものだ。それを選り好みと一括りにしてしまうと、たくさんの不幸があるように思う。
 僕も運が良かっただけだ。たまたま知り合いから仕事を紹介してもらえた。それだけなのだ。
 ニュースは、どこかの商店街を映している。近所で評判の看板犬を紹介していた。ほのぼのニュースだ。
 お義母さんは、チャンネルを回し、天気予報を見ている。来週からは雨で、洗濯物のことを気にしているようだ。僕は、折り畳み傘を持って行こう、と思った。


 5


 夜中、何かの振動で目を覚ます。携帯電話のバイブ音だ。微睡みの中で寝返りをうつ。僕のじゃない。久遠さんが、小声で何かを話している。
「なに? こんな時間に」「っていうか、あんた今どこにいるのよ」「なんでよ?」「そんなこと言ったって」と少しだけイライラしたような声が聞こえる。僕は、ベッドサイドの照明を点ける。
「どうしたの?」
「莉乃がね、今駅にいるらしいんだけれど」
「今何時?」時計を見る。夜の1時だ。
「迎えに来いだって」
「はぁ」欠伸が出る。「最近帰りが遅いね」
「もうなんなのよ」
「いいよ。僕が行ってくるよ」
「ダメだよ、甘やかしちゃ」
「でも、危ないでしょ」
「うん。じゃあ、私も行く」
 とりあえずパジャマから着替える。玄関へ向かう途中、リビングの明かりがついていることに気づく。お義母さんが、テーブルに突っ伏して寝ている。きっと、心配で起きていたんだ。久遠さんが、ブランケットをかけてあげると、目を覚ます。
「ん? 今何時?」
「1時だよ」久遠さんが言う。
「莉乃は?」
「いま電話あった。駅にいるから迎えに行ってくるね」
「あ、そう」お義母さんは目を擦りながら、少しだけ息を吐く。「いいわ、私が行くから」
「いえ、大丈夫ですよ」僕は言う。「こんな時間ですし、女性は危ないでしょう」
「でも……」
「僕は明日休みですし。大丈夫ですよ」無法地帯というわけではないので、そこまで危険があるわけではない。でも、まぁ、暗い道だし、夜中だし。男がいるのなら、男が行ったほうが良いだろう。それに、お義母さんが行ったら行ったで、話が拗れそうな予感もしていた。
「そう? じゃあ、お願いできるかしら」
「はい」

 家を出て、駅まで向かう。
「莉乃ちゃんって、前からこうなの?」隣を歩く久遠さんにきく。
「ううん。最近かな」
「理由は知ってるの?」
「うーん。よくわからないんだよね。友達と遊んでるみたいだけれど」
「友達ね……」田舎で育った僕には、こんな時間まで遊べる場所があるというのが驚きだ。ただ、僕もそういう経験はある。僕の家も母が夜勤の日は、溜まり場になった。「変なことをしてなければ良いけどね」
「うん。あの子ね、大学は受けないんだって」
「そうなの?」
「そう。それで、ママと喧嘩しているみたい。それもあるのかな」
「そっか。でもなんでまた?」久遠さんも琴羽ちゃんも大卒だ。
「それもよく判らないの。末っ子で甘やかされて育ったからかな」
「ふーん」

 駅に着く。莉乃ちゃんの姿を見つけるが、誰かと一緒だ。しかも、同い年くらいの男の子。久遠さんが声をかけると、その男の子はどこかへ行ってしまった。
「ちょっと。あんた、何考えてるの?」
「いいじゃん。お姉ちゃん仕事してないんだから」
「そういう問題じゃないでしょ。高校生がこんな時間に」
「はいはい。お姉ちゃんたちが良い子ちゃんだから、私にしわ寄せがくるんだよ」
「あんた、良い加減にしなさい」
 始まってしまった。僕は、まぁまぁ、と二人の間に入る。
「莉乃ちゃん。お義母さんもすごく心配していたよ。ずっと起きて待っていたし」
「知らないよ。勝手に起きてたんでしょ」
「でも、家族に心配をかけちゃいけないよ。それに、やっぱり女の子が……」
「うるさい! 他人のくせに……!」パン、と音が鳴る。莉乃ちゃんは、頬を抑える。「痛い……」
「あんた、益一郎くんに謝りなさい」
「なんでよ……」
「いいから、謝りなさい!」
「まぁ、良いよ。本当のことだし」僕は言う。

 三人で家に帰る。莉乃ちゃんは、静かに泣いていて、一言も喋らなかった。帰るなり、お義母さんは何かを言いたそうだったけれど、僕と久遠さんが間に入って、今日のところは、そっとしておいて欲しいとお願いした。

 このときの僕は、莉乃ちゃんのことは、まぁ良くある思春期というか反抗期だと思っていた。でも少しだけ、当人たちにとっては、切実な思いがあるということを、僕は知ることになる。

 つづく。


この本の内容は以上です。


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