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文化三年 七月十三日 周庵先生の長屋

「て、て、て、てえへんだっ!」

 貫禄十分とまでは行かないけれど、そこそこお手柄も立て、面倒見の良さで

は江戸一番と町の人々からの信頼も厚い亀屋の万蔵親分が、まるでどこぞの下

っ引きみたいに声を裏返して長屋へ転がり込んできたのは盆の入りの夕方で、

丁度みんなでお迎え火を焚く準備をしている時だった。

 家の門々で苧殻を燃やすので、面倒見の良い岡っ引きたるもの、火の用心の

注意でもして歩くべきところだろうが、そんな悠長な様子ではない。

 駆けに駆けてきたらしく全身汗みずくになりながら、日頃血色の良い丸顔か

らは完全に血の気が失せている。

「どうしたんだよ、親分さん。真っ青じゃないか。具合が悪いんだったら先生

なんかじゃダメだよ」

「そっ、そっ、その、せせせ先生が――」

「わたしが、どうしたというんだ」

 声を聞きつけて先生が出てくると、万蔵親分は、ひゃっと悲鳴を上げて尻餅

をついた。

「ゆっ、幽霊――」

「なにを分からないことを言っているんだ、親分。いかに盆中とは言え、幽霊

が出るには、まだちっと明るすぎるだろう」

 万蔵親分は、ふらふらと立ち上がり、まるで泣き笑いのような実になんとも

言えず情けない顔をした。

 それから、あわあわと、

「ひ、百本杭に土左衛門が。せ、先生が、斬られて……」

 なんて言い出すもんだから、あたしも先生も呆気にとられたよ。

「馬鹿も休み休みお言いよ。現に先生は、ここにこうしてちゃあんとピンシャ

ンしてるじゃあないの」

 盆の最中のことだから、冗談にしては、ずいぶんとたちが悪い。

 それに親分は、不審な死人なんぞがあると、何のかんのと理屈を付けて、嫌

がる先生を引っ張り出しにかかるんだ。親分のお手柄の半分くらいは、先生の

見立てのお陰じゃないかとあたしなんかは思っているよ。

 だけど、切羽詰まった親分の様子は、とても嘘や冗談を言っているようには、

見えなかった。

 ようやく気を取り直した様子の親分は、それでもまだ半信半疑の顔つきで、

先生の頭のてっぺんから足のつま先まで――とくに足の辺りをしげしげと眺め

ている。

「ふうむ。わたしもたいがいのんきなほうだが、それでも人に斬られたことに

も気付かずに、魂だけで帰ってくるほど頓狂に生まれついてはいないつもりな

んだがなあ」

 のほほんと首を傾げて、先生までが馬鹿なことを言う。

「とっ、とにかく先生。こうおいでなせえ」

 親分はなおも、その手が幽霊のようにすり抜けてしまうのではないかと言わ

んばかりに一瞬躊躇しながらも先生の手をつかみ、それが間違いなく血の通っ

た人の手であることに勇気を得ると、今度はぐいぐいと引っ張った。

「そう引っ張らんでも、行くよ行くよ。まあ、これまで死にかけたことは無い

でもないが、自分の死骸を自分で検分するなんぞは、さすがにはじめてだ。こ

んなけぶな体験は、滅多にできることじゃなかろうからな」

 まさか、本気でそんなことを思っていやしないのだろうけれど、存外乗り気

な顔で先生は、万蔵親分についていく。

 まったく――

 まるで、どこかで聞いた落とし話のようだと思いながら、あたしも後を追い

かけた。


 百本杭

 なるほど、確かに小柄で細身な背格好は、先生によく似ていた。

 髪も、髷はこわれていたけれど色は同じような半白で、着流しに黒の十徳姿。

 ただし、先生の着物より、よほど上等そうだ。

 大体、確かに十徳は、よくお医者も着ているものだけど、先生のは海の物と

も山の物ともつかない、よれて色褪せた無紋の黒羽織なんだ。血の跡が目立ち

にくいからいいんだなんぞと言って、往診の時だけ着て歩くのさ。

 でも、そんなことより何よりも――

「先生は、こんなに不細工じゃあないよ」

 と、あたしは言ってやった。

「そりゃあ、おあいちゃん。だって、なんしろこりゃあ土左衛門なんだから、

面変わりだってすらあな」

 万蔵親分は、弁解がましく口の中でもごもご言って、それから、

「こんななぁ、娘っ子が見るもんじゃあねえよ」

 しっしっと追い払うようにした。

 そんなことくらいで大人しく引っ込んだりなんかするものかね。

 死体を裏っ返してみると、背中から袈裟懸けにずんばらりと一刀のもとに斬

り下げられていて、背骨がほとんど断ち切られかかっているほどなのだと言う。

 厳しい表情でそれを見ていた先生の口が微かに動いたけれど、声は聞こえず、

何と言ったのかは分からない。

 おびただしかったに違いない血潮はあらかた水に洗われて、それほど凄惨な

感じじゃなかったけれど、さすがにまじまじと正視してはいられずに、あたし

は目をそらした。

 なんにしても、親分は土左衛門なんて言い方をしたけれど、水死人じゃあな

い。死顔は、確かに様子が違って見えるものだし、恐怖がこびりついたような

表情で、おまけに水に浸かってふやけてもいるけれど、変に膨らんているわけ

でもないし、ずっと上流から流されてきたわけでもないようで、斬られた傷の

他は目立った損傷もないのだから、落ち着いてようく眺めれば、先生かそうで

ないかくらいの見分けは付こうってものだ。

 だけど、あたしがそんな生意気な差し出口を挟む間もなく、親分は先生の袖

を引いて、十手の先で仏さんの左の太腿の辺りを指し示し、小声で、

「あっしが、早っとちりをしちまったのは、こいつのせいなんで……」

 眉尻を下げて、「分かるでしょ?」と言わんばかりの目で訴えている。

 あたしの位置からじゃ、よく見えないけれど、前に先生は、少しばかり足が

悪いことについて、「若い頃に馬鹿をやって、怪我をしたのさ――」なんてこ

とを言っていたことがある。大方、同じような位置に古傷の跡でもあるのかも

知れないね。近所のことで、湯屋で一緒になったことでもあれば、親分がそれ

を見知っていたとしてもおかしくはない。顔よりも、そういった体の特徴は、

間違いの無い目印として認識されやすい。

 ……そこまで考えて、はっとした。

 もしそうならば、この仏さんも足が悪かったかも知れないよね。きっと杖だ

って突いていたに違いない。夜目で顔かたちがはっきりしない状況ならば、ま

さにそっくり……だったかも知れないんだ。

 そして、その拍子に、分かってしまった。

 別に、読唇術の心得がある訳じゃ無いけどね、さっき先生は確かに、「やは

り――」と、言ったんだ。

 ざわざわとした思いを抱きながらちらりと先生を窺うと、親分の示す十手の

先には目もくれず、何のつもりか、仏さんの両の足先をためつすがめつ交互に

眺めてうーんと首を傾げていたのだけれど、やがて、おもむろに、

「なるほど、親分が言う通り、どうやらこれは、わたしに違いないようだな」

 と、言った。

「なっ、なっ、なっ、なにを――」

 万蔵親分が、目を剥いて声を裏返し、何か言いかけたけれど、それを制して

先生はとぼけた顔で、

「言われてみりゃあ、医者の不養生だなんのと馬鹿にされてもつまらんから黙

っていたが、今朝からどうにもうそ寒いような気がしていたんだ。こんなとこ

ろで死んでいたとは気付かなかった。一晩水に浸かっていては、寒気もする道

理だなあ。なに、この世に何の未練執着のあるものでもないが、丁度死者が地

獄から戻ってくるという盆中のせいか、ちょいとあの世へ行きそびれたようだ。

しかし、こうして己の死骸と対面し、得心がいったのだから、今度はうまく成

仏できるだろう」

「ええぇぇ――?!」

「親分。済まないが、ご苦労でも長屋へ連れ帰って、線香の一本も手向けてお

くれ。いや、坊主なんぞはいらないが、通夜はなるたけ賑やかな方がいいなあ」

 大真面目な顔で頓狂なことを抜かして先生は、音も無くふわりと立ち上がり、

身を翻した。

「ち、ちょいとお待ちよ、せんせ…い……?」

 あたしは、飛び出して行って先生の手をつかんだ。確かにつかんだつもりだ

ったのに、別に振り払われたわけでもないようだったのに、先生の手は、まる

で実体の無いもののように、するりとあたしの手をすり抜けた。驚いて、思わ

ず自分の手を見る。それから慌てて後を追おうとしたけれど、先生の姿はもう、

夕闇迫る誰そ彼時の暮色の中へ溶け込んでいた。

「先生のばかぁっ。自分の死骸なんだから、自分で抱えて行けばいいじゃない

かよぅっ!」

 落とし話ならば、そうでなければならない。でなけりゃあ、オチが付かない

よ。

「おあいちゃん。幽的が死骸みてえな重たいもんを背負って歩けるわきゃあね

えだろうよ。なにしろ足が、ねえのだもの……」

 あごが外れたような顔をしていた親分が、半ばやけくそのようにそう言った。


 通夜

 先生が死んだと聞かされても、長屋の者は誰も信じやしなかった。

 だって、万蔵親分が飛び込んできて、先生が一緒に出かけて行くまでの顛末

を、大方の者が笑って見ていたんだからね。

 その時既に先生は殺されていて、実はあれは幽霊だったのです――だなんて、

いくら江戸の人達が素直で迷信深くったって、さすがに無理というもんだろう。

 だけど、実際に死人が運び込まれて、皆顔を見合わせた。

 それでも、顔を拝んで確かめようという者がいないのは、やっぱり先生だと

は全然信じていないからなのだ。どこの誰とも知れない死人に近づくのは、や

っぱり薄気味悪いよね。

「ねえ、おあいちゃんよう。本当のところ、ありゃあ一体、どこの仏なんです

え?」

「だから、先生だと言っているだろう。当人がそう言うんだもの、これほど確

かなことはないってもんさ」

「と、当人がって……」

 あたしだって、もうすっかり自棄さ。

 

 さすが面倒見の良さでは江戸一番という親分の手回しは完璧で、すぐに早桶

屋がやって来る、酒屋もやって来る、ちょっと大仰にわあわあ泣きながら、自

前の総菜を見繕っておつたさんがやって来る。あっという間に通夜の準備は整

った。

「さあ、遠慮無くやってくれ。通夜はなるたけ賑やかなのがいいってぇのが、

先生たっての注文だ。頼むぜ」

 まだみんな首を傾げていたけれど、ただ酒が飲めるとなれば話は別だ。

 長屋中の人達が、取っ替え引っ替えやって来て、酒盛りになった。

 おつたさんは、泣き女をつとめていただけだけど、大工の留吉さんは、本当

に泣いていた。今では三人の子持ちで立派に一家を養っている留吉さんだけど、

その一番上の子がまだおかみさんのお腹の中にいた頃に、なんと足場から落ち

て足を折ってしまったんだって。

 足があさっての方へねじ曲がり、命が助かったところで、とても大工仕事に

戻れるようにはならないだろうと誰もが思ったものだけど、先生のお陰ですっ

かり直って、元の通り足場に上れるようにさえなったのだと、おまけに相長屋

のよしみだと治療代のことは言い出さず、それどころか、傷を治すにも、よい

子を産むにも滋養が必要なのだと言って、亭主が働けず女房も身重という二人

の食う物の心配までしてくれたのだと、

「本当に先生がいなけりゃあ、とても上の子は生まれちゃいねえ。いや、俺た

ちだってきっと生きちゃあいられなかった――」

 手を合わせて涙ながらに語るのは、泣き上戸な留吉さんのいつもの癖で、実

はもう何度も聞いて耳にタコな話なのだけれど、これまた不思議に毎回ほろり

ともらい泣きをするおかみさん達がいて、おかげで、何となくお通夜らしい体

裁になってきた。

 だけど、どこの誰だか知らないけれど、早桶の中で自分のことでもない思い

出話を聞かされている仏さんは、いい面の皮じゃあないの。

 そのうち、どう噂が広まったのか、長屋の外からも、幾人か弔問にやって来

る人があって、こっちはもう、すっかり本気にしている上に、香典まで置いて

いく人があって、申し訳ないったらなかったよ。

 

 やがて、更けるにつれて、明日仕事のある人たちは三々五々帰って行き、あ

たしと親分さんだけが残った。

「まったく――。何が何だか、さっぱり分からねえ」

 親分は、おかんむりな様子で飲み残りの燗冷ましをぐびりとあおって、口を

への字に曲げた。

「先生には、なんぞ思案がおあんなさるんだろうが、それにしたってつなぎの

ひとつくれえ、あってもよかりそうなもんだ」

 と、ぷりぷりしている。

 無類の早耳で、こんな噂が広まれば、いの一番に飛んできそうな長次が、一

度も姿を現わさない。

 ということは、おそらく先生の手足となっているに違いなく、それに引き換

え自分は蚊帳の外に置かれたようで面白くないんだろう。

 その時――

「これは一体、何の茶番だっ!」

 ばあんと腰高障子が引き開けられるや、大音声が降ってきて、親分なんぞは

「ひええ」と壁際まですっ飛んだ。


 読売り

 青筋を立て、頭から湯気でも噴きそうな顔つきでやって来た、南の臨時廻り

同心、小森庄左衛門様は、その手に一枚の紙っぴらを鷲づかみにしていた。

「あっ、長次の野郎だな。もうこんな読売を――」

 親分が、目を怒らせた。

 長次は、ねぐらも仕事も定まらず、ある時は盛り場で香具師の手伝いをして

いたり、またある時は面白半分に万蔵親分の下っ引きみたいなことをしていた

り、妙に博打が上手くて何日も賭場に転がり込んでいたかと思えば、剽げた格

好で歌い踊りながら子ども相手に飴を売り歩いていたりと勝手気ままな暮らし

をしているのだけれども、本職はどうやら読売屋の気でいるようで、前に二の

腕辺りに跳ね兎の彫り物を入れているのを見つけて、

「ずいぶんと、かあいらしいものを彫るじゃあないの」

 と、からかったら、うさぎは長耳で「ちょうじ」と読むこともできるし、長

い耳で人の話を聞いて集めているといったような意味合いの、いわば看板なの

だと言っていた。

 面白い話を仕入れると、向両国にある早耳堂という読売屋へネタを売り、時

には売り子もつとめているらしい。

 読売は、内容によってはお上の取り締まりの対象になるものだから、お役人

を見かけたら、尻に帆かけて逃げ出さなければならないのだけれど、逃げ足の

速さにかけては大いに自信があるのだと、ちょっと微妙な威張り方をしていて、

跳ね兎には脱兎の意味もあるらしかった。

 それはさておき――

 小森の旦那が持ってきたのは、この一件を驚くべき早刷りにしたもので、昨

日辻斬りに遭った先生が、しかしあんまりみごとに斬られたものだから、己が

死んだことに気が付かず、そのまま魂だけで帰ってきて今日一日生者の如く暮

らしていたのだけれど、自分の死体と対面して無事に極楽成仏を果たした――

という、まあ、先生が口にしていた通りの怪談仕立てになっていた。

 江戸っ子はみんな怪談が大好きで、夏からお盆にかけては、怪談話を扱った

読売も沢山発行される。よほど人心を惑わすような話以外は、お上も捨て置き

にするものだけど、これは実際にあった事件をすぐさま刷ったものだから、果

たしてどうだろう。

 まかり間違って、この場に長次がいようものなら、たちまち縄をかけかねな

いような顔つきの、小森の旦那だった。

「まあまあ、そうかっかとなさらずに、お座りなさいまし」

 先生の口真似をして言ってみたんだけれど、

「うるさい!」

 と、怒鳴られた。

「そう大声を出したって駄目さ。当人はのうのうと死んでいるからいいけど、

あたしらだって、困っているんだ。ねえ、親分」

「へえ……なにぶん急なこって、先生の菩提寺がよく分からねえ。坊主はとも

かく、死骸を埋めねえわけにゃあいきやせんからね。今日の通夜は無事に済ん

だが、明日はいってえどうしたらいいのやら――」

「……馬鹿者」

 疲れたように言って旦那は、すとんと框に腰を下ろした。

「まさか、この与太話がまことだなどとは言わさぬ。その方ら、本当にあやつ

の居所を知らぬのか」

 あたしと親分は、揃ってこくこくと首を縦に振った。

「それで――」

 旦那は、狭い長屋の部屋にでんと鎮座している早桶を横見にして、

「仏の、まことの身元は知れておるのか」

 親分は、一瞬うっと詰まった顔をして、それからふるふると首を横に振った。

 ここで通夜の仕切りをしてたんだもの、何の調べもしているわけが無い。

 本当なら、百本杭は松坂町の吉五郎親分の縄張りだけれど、何しろこれは先

生だと言って死骸を引っさらって来ちまったんだから、それ以上、身元の詮議

なんかしちゃいないだろうね。

「だけど、ほら、この読売。死骸の様子が事細かに書いてあるよ。たぶん、

当たりのある人が読んだら、おやと思えるように、先生が書かせたんだと思う

んだけど――」

 似顔がある訳じゃ無いけれど、顔かたちについても微に入り細に入り記して

あって、それを読む限り、とても先生の顔は思い浮かべられないよ。本当に親

分ときたら、そそっかしいんだから。

「今宵は、仮通夜だ。埋葬は、明後日でも良かろう。その間にその方は、身元

を洗い出せ。わしは、あの大馬鹿者の首根っこをひっ捕まえて、どういう了見

なのか問い糾す」

 怖い顔で言い渡されて、万蔵親分は、亀のように首をすくめて「へへえ」と

這いつくばった。

 あたしはまた、死体の番と決まった。

 読売を見て、心当たりの人が、死顔を拝みに来ないとも限らないからね。


翌早朝―― 本所緑町の廃寺

 ~柏木周庵によって語られた話~

 

 夜の間は気付かなかったが、傾きかけた堂宇の壁にも屋根にも、無数の穴や

裂け目があるようで、そこから朝日が幾筋もの光となって漏れ落ちている。

 こんなところで夜を明かすのは、実に久しぶりのことだった。

 どんな場所でも(やす)むのに不都合はないが、日が昇っても、女房連の姦しいお

喋りも、子ども達の歓声も、振り売りの声も聞こえてこないことが、無性に寂

しく感じられた。

 それにしても、おかしなことに、なったものだ――

 

 昨日、万蔵が妙なことを口走りながら転がり込んできた時、まず思い出した

のは、先だっての謂われなき襲撃のことだった。

 実を言えば、色々考えてはみたものの、どうやら単なる人違いだったのでは

ないかと思うようになっていた。

 主命――すなわち、上意討ちということならば、打たれる側も歴とした主持

ちの武士、あるいは武士だった者である筈だが、あいにくそんな結構な身分に

なったことは、一度もない。

 そして万一、的が真実わたしだったとしたら、主命を帯びた刺客としては、

一度撃退されたくらいで引き下がるとは考えられず、しばらくの間は気を付け

てもいたが、不穏な影はそれきり無かったのだ。

 果たして、万蔵がわたしと間違えたという人物は、背格好だけ見れば確かに

似ていないこともなかったし、傷から太刀筋を推測するに、斬ったのは、あの

夜わたしに真っ先に斬りかかってきた奴に違いない。

 到底敵わぬ相手だと言うことをよく分からせてやったつもりであるが、それ

でも同じ者が刺客に立っていることから見ても、わたしとは別人と知った上で

襲撃したのに相違なかった。

 これで、やはりわたしとは無関係の一件と決めても良さそうに思えたが、そ

れでもなお不可解な――と言うより、気に入らない点がいくつもあった。

 まず第一に、あの死体の人物は、侍ではない。

 この年になるまで労働というものをしたことなど一度たりとも無さそうな、

まっさらな手には、まともな侍ならば多少はその痕跡が残っているべき筈の竹

刀だこも無い。そして何より、どんなに武芸とは無縁の暮らしをしていようと

も、刀を差して歩かぬ武士はおらず、その重みで左の足が右足よりも、必ず大

きくなっているのだが、そんなこともまったくなかった。

 身なりから推しても、どこか裕福な商家の隠居が俳諧の宗匠でも気取ってい

るといった風情で、金目当ての辻斬りならばともかくも、上意討ちなどとは結

びつかない。

 第二に、上意討ちなら死体をそこに捨てていくという法は無い。

 確かに討ち取ったという証が必要だろうし、町方に騒がれるのも、望ましく

ないはずだ。

 にもかかわらず、あの死体は、わざわざあの場に置いて行かれたのだ。

 百本杭は、川が大きく蛇行している上に、水除けのための杭が沢山打たれて

いるために、水死体が流れ寄りやすく、かつそのまま杭に引っかかり、引き上

げられることの多い場所だが、あの死体は上流から水をくぐって流されてきた

ものではない。

 しかし、あんなところに足を踏み入れるのは釣り人くらいで、別の場所で殺

したものを、捨てていったと考えるのが妥当だ。

 第一と第二を総合すると、ありそうな線としては、人違いだったから取り捨

てたのだとも考えられるが、先夜のわたしに続いて今度もまた人違いであると

すれば、剣呑極まりない話だ。小柄で痩せた年寄りなぞ、掃いて捨てるほどど

こにでもいるだろうに、手当たり次第に狙われてはたまったものではない。

 それに、わたしの見立てでは、だいぶ足は不自由だったはずで、暮らし向き

から言っても、移動に駕籠を使わなかったはずは無い。たまたま背格好が似て

いるからと人違いされたのだとは、考えにくいのだ。

 そして、何より――野次馬の中からずっと、突き刺さるような視線を感じて

いた。

 下手人が、己が手にかけた死体を見に戻ってくるというのはままあることだ

が、そんなものでは無い、何かもっと強い意志のようなものを感じたのだ。

 あれは、一体、何だったのか――

 しかし、思考はそこで中断された。

 突如、あからさまな強い剣気が膨れあがり、跳び退ると同時に鋭い刃風が廃

寺の堂宇に厚く積もった埃を舞い上げた。

 まったく、なんて野郎だ――と、昔の気分で毒づく。

 幸い、人目を気にする必要の、全く無い場所だ。

「馬鹿じゃねえのか。いきなり、何をしやぁがるんだ。危ねえな」

「馬鹿はどっちだ! おぬし、一体なにを考えておるのだ」

「だから今、その考えをまとめているんだから、邪魔をするな」

「考えもなしに、あの茶番か?! 通夜までさせて、生き返る時には一体どう

いう理屈にするつもりだ」

「……そこまでは、考えていなかったんだ」

「馬鹿――」

「面倒だから、いっそこのまま本当に死んだことにして、どこかに消えちまお

うかなあ」

 と、言ったら、庄太郎――いや、小森庄左衛門は、ふっと息を詰めた。

「何ぞ、不都合があるのか」

「いいや。結構づくめで、居心地が良すぎて困るよ。だが……俺がひとつとこ

ろに長く留まると、たいがいろくな事にならないんだ。大方疫病神にでも憑か

れているんだろう」

 平穏で暖かい暮らしは、長くは続かない。手に入れたと思っても、いつか必

ず壊れて、こぼれ落ちる。およそそういったものからは縁遠い生まれつきなの

だろう。だからいっそ一人が良いと決めていたが、裏店暮らしは不思議なこと

に、やがて次第に、一つの大きな家族のようになっていく。そのことが、かえ

ってわたしを不安にさせるのだ。

 庄左衛門は、珍しく声を荒らげず、しかし、いつも以上に深く眉間に皺を刻

んだ。

「生まれてから死ぬまで――いや、先祖代々同じ所に住み暮らしてみろ。平穏

無事など、どこにも無い。人は次々に死んでいくし、時にはとんでもない事件

だとて出来する。五年十年と過ごすうちには、そんなことの一つや二つにぶつ

かるのが、むしろ当然だ。それをいちいち自分のせいにしていれば、世話は無

い。第一、今のおぬしに、まこと左様な真似ができるのか」

「………………」

 元来わたしなど、到底医者だなどと言えた代物でもないが、それでも――今

見放せば確実に命を縮めるであろう患者が、幾人もいる。

 できねえ――と、心の中でつぶやいた。



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