閉じる


<<最初から読む

4 / 18ページ

act.3

「卒業できないかもしれない」寛は弱音を吐いた。

 

「できるさ」世良が言った。


「就職も決まっていない」

 

「決まるさ」


「なぜそう断言できる」


「学則第二十二条がある」


「学則第二十二条?」


 そんな学則は聞いたことがなかった。他の三人を見ると、安達も岸和田も常盤も口々に「学則第二十二条」と言うのだった。寛だけが知らなかったことらしい。


「入学にふさわしくない者は」世良が説明した。「我が校への入学を許可しない。ひとたび入学した者は、我が校の学生としてふさわしいふるまいをしなければならない。中途退学は我が校の学生にふさわしいふるまいではない」

 

「どういうことだ」寛は要点を掴みかねた。

 

「万が一卒業しそこなったら、お前は卒業しなければならないだろう。万が一就職しそこなったら、お前は就職しなければならないだろう」世良はポイントを解説した。


 寛は、その冷徹で非の打ちどころのない凄まじい論理に舌を巻いた。

 

「逃げ道なし、か」寛は、流しに溜まった洗い物を見るときのような憂鬱な目つきで、己の足首を固定しているギプスを見て言った。


「前から不思議だったんだが」安達が文字通り不思議そうに言った。「お前という奴は一体将来何がしたいんだ。おれにはそれが分からない」


 まさにそれこそ、寛が自分について分からないでいることだった。一体、自分は将来何がしたいのか。それが分からないがために、現在やっていることもどこかピント外れになるのだった。

 

「おれはまだ二十一歳の学生なんだ」寛は言い訳がましく言った。彼の誕生日は三月で、早生まれだった。二十二歳まではあとちょっとだけ間があった。

 

「お前は色彩を持たない奴か」岸和田がある小説の題名を引用して突っ込んだ。

 

「おれも二十一歳の学生だ」同じく早生まれの世良が言った。「だが、おれは二十五までに教授職を射止めるだろう。それから一足飛びに学部長になるつもりだ。四十歳までには最年少の学長になると思う。そして、四十五歳で引退する。それがおれの人生設計さ。すでに全工程の三分の一が終わろうとしてるんだが、これは予定よりもずいぶん早い。もっと早く引退するか、あるいは四十五歳までもっと仕事をするか、どっちかだろうな」

 

「ずいぶんなスピードで駆け抜けるな」寛は、世良がまだこの場にいることを確かめるように、頭からつま先へと視線を走らせた。

 

「そこが連中とおれたちの違いなのさ」世良はまだその場にいた。

 

「連中?」

 

「我々以外の連中」

 

「我々以外」

 

「連中は大学三年も終盤になってからのろのろと就活を開始する。ところが、おれたちは入学したそのときから就活をしているようなものだ。いいや、違うな。正しくは入学すること、つまり受験が就活に相当するのであって、入学はすなわち入社。おれたちは学生であると同時に、社会人として働いているようなものなのさ。まぁ、学生のふりをしたければそうもできるが」

 

 それを聞いて、寛は大学入学以来抱き続けていたすべての疑問が氷解したような気がした。しかし、一瞬ののちには、その答えは再び闇の中に姿をくらませてしまった。
「ということは、おれは小学校のときから働いていることになる」慶應幼稚舎出身の安達が言った。

 

「おれは高校から」慶應高校出身の岸和田が言った。

 

「おれもだ」同じく慶應高校出身の常盤が言った。

 

「世の中もその事実を知っている。世の中がその事実を知っているということを、おれたちも知っている。そこで我々は連携をとって社会で働く」

 

「我々」寛はうなった。

 

「個々の能力を社会に還元してこその仕事だ。我々はそれを最大限に活用する。我々はスモール・サークル・オブ・フレンズなのさ」世良は説明を完了した。

 

「おれはどうしたらいい」率直に言って、寛は話についていけなかった。

 

「新しい女を見つけろ。何なら紹介してやる」岸和田が言った。

 

 それが今の話に関係があるかどうか分からなかったが、寛にはひどく説得力があるように聞こえた。

 

「そうしてやってくれ。こいつが三田キャンパスのパンチラスポットで何時間も一人で座ってるのを見ると、おれは涙が出そうになるんだ」安達が同情心を起こして言った。


「モデルでも看護師でもいい」寛はすがりついた。本当に紹介してほしかった。

 

「いや、やっぱりやめておこう」気分屋の岸和田は簡単に前言を撤回した。「その代わり、お前には差し入れを用意しておいた」


「何を」寛は何でもいいからほしかった。


「すぐに分かる」岸和田は思わせぶりに言った。それから寛の耳元で囁いた。「この四年間は祭りみたいなもんさ。楽しめなかったらバカだぜ」


 その深夜、病室に突如として四人のベリーダンサーが現れた。

 

 彼女たちは寛のベッドを囲むと、官能的に腰をくねらせて踊りはじめた。それこそ岸和田が用意した差し入れだった。ベリーダンサーは非常に面積の小さい布切れを二枚身に付けているだけだった。我慢しきれずに触ろうとすると、寛は手をぺしっと叩かれた。

 

「見るだけよ」ベリーダンサーはウィンクして言った。

 

 寛は見るだけでも大いに楽しんだ。


act.4

 この四年間という意味では、寛はまったく楽しめていなかった。しかも、退院してみると大学から留年決定の通知が届いていた。彼は二十二歳になっていた。

 

 寛は自分が何をしたいのか分からないでいたが、それを知るために何をしたらいいのかもまた分からなかった。とりあえず就職活動を再開してみたものの、何をしたいのか分からないということが意識されると、それは去年にもまして苦痛なものとなった。

 

 エントリーシートを書くことからしてひどく難しかった。少しでも気を緩めると、企業を批判してしまうのだ。そうでなくても曖昧な物言いばかりが並んだ。例えば「もし通信サービスというものが機能しなくなったら、社会はどれほどの混乱に陥ることでしょう」などというように。

 

 寛は、未完成だからということとは別に、卒論のタイトルも明かさない方が賢明なのではないかと考えた。それは「商業主義の終焉、すべての主義の終焉、そして依然として世の中は金」といった。反発を招くだけになりそうだった。

 

 そうなると面接での会話も弾まなかった。彼を面接したある企業の人事部員は、「実を言うと、富田林さんがうちで働きたがっているようには見えないのです」とやんわり非難した。否定できなかった。

 

「聞いた話によると、きみは昨年いくつかの企業の面接を連絡も入れずにすっぽかしているね」沼尾教授(慶應義塾大学・経済学部教授)は慇懃に言った。

 

 寛は、就職のことをこの教授に相談したのは間違いだったと感じながら言い訳した。

 

「プライベートで色々ありまして」


「大学の評判を落とす行為だ」沼尾教授は、耳を貸す素振りも見せず、忌々しげに口元を歪ませた。「そしてもちろん、私の業績にも響いてくる。きみが私の学生だということを忘れてもらっては困る」


「は」寛は恐縮した。


「他の学生たちはもう全員内定をもらっている。きみは一体何をしているんだ」


「は」寛は恐縮した。


「この話はもういい。来週のゼミなんだが、プリンストン大の教授を招いて御茶ノ水の経済研究センターでやることになったから、間違いのないように」


「は」寛は恐縮した。


 翌週、寛は御茶ノ水の経済研究センターを訪れたが、そこでは沼尾教授のゼミなど開かれていなかった。プリンストン大の教授もいなかった。それ以前に、経済研究センターなどという建物自体が存在しないのだった。

 

昨日、御茶ノ水に行きました」その翌日、寛は教授に抗議した。

 

「なぜ」沼尾教授は取りかかっていた書類から目を上げて、疎ましげに彼を見た。

 

「経済研究センターでゼミをやると仰ったので」

 

「御茶ノ水にそんなものはない!」教授は一喝した。

 

「では、どこに」寛は狼狽して言った。

 

「知らんね」教授はそっけなく言うと書類仕事に戻った。

 

 寛は納得が行かないまま、その場に立ち尽くした。

 

 就職がうまくいかなかったら、引き延ばし策として大学院に進学するという手もあった。しかし、とりわけ成績優秀でもない彼が大学院に進むためには、担当である沼尾教授の推薦が不可欠だった。寛は、そうなったときにこの教授は推薦状を書いてくれるだろうかといぶかしんだ。

 

 三分後、沼尾教授は再び目を上げた。「のわっ!」教授は寛がまだそこに立っていたことに驚き、熱狂的に万歳するかのように両手を上にあげて仰け反った。

 

「は」寛は不信を押し隠して言った。

 

「仕事は決まったのかね」教授はすばやく動揺を鎮め、乱れた髪を整えながら高みからものを言った。

 

「いいえ」

 

「ハローワークに行ってみるといい」教授はまるでその方角にハローワークがあるとでもいうように、人差し指で一方を指さした。その方角にあるのはドアだった。

 

「よろしいでしょうか」寛は出て行く前に是非とも訊きたいことがあった。
教授は何も言わず、ただ睨むように彼を見た。

 

「いったい、あなたはどういった業績が認められて教授の地位に就かれたのですか」

 

 大学教授になる道はひどく険しい。特に、この大学の教授になる道はひときわ険しい。世良から聞いたところによれば、沼尾教授はこれまでろくに論文を発表したことがなく、発表した数少ない論文でも話題になったものは一つもないということだった。この男には目立った業績は一つもなく、その一方でもっと優秀な人材はいくらでもいた。それなのに、なぜこの男が教授なのか。

 

「私は何もしていないよ」それが沼尾教授のよこした返事だった。

 


act.5

 寛は、ある大手銀行のセンタービルに大学のOBを訪ねた。その銀行は、慶應義塾大学出身の職員が多いことで知られていた。


 面会を快諾してくれた宮田(慶應義塾大学・商学部卒)は、弱冠二十六歳にして幹部となった出世頭だった。

 

見てくれ」宮田はビル内を案内しながら惜しげもなく言った。「好きなだけ見てくれ」

 

 寛の目の前を、現金をたんまり積んだ網かご台車が横切った。まさしく札束の山だった。これほどの量の現金を生で見たことがなかったので、寛は圧倒されて言葉を失った。

 

「八億ある」宮田は得意満面になって言った。「厚みでいくらか分かるようになる。もちろん、重さでも分かるようになる」

 

 寛は、八億円の札束を乗せた網かご台車を物欲しげな目つきで見送った。見るからに屈強そうな警備員が二名同行し、鍵も厳重にかけられていた。とても近づける雰囲気ではなかった。

 

「今、法に抵触するようなことを考えたね?」宮田がからかうように言った。

 

「いえ、滅相もありません」寛はあわてて否定した。

 

 しかし、図星だった。床に紙幣を敷き詰めて、げらげら笑いながら裸で転げまわり、群がる女たちの頬を札束で張るという夢想をしたのだ。


「毎日毎日、三十億から四十億の金が動いている」宮田は言った。「我々の金さ」


「わ、我々の金」寛は、使ってみたい言葉だったので、自分でも言ってみた。そうしながらも、若干の疑問がわくのを抑えることはできなかった。


「しかし、それは預金者の金では」


「はっはっは」宮田は軽快に笑ってその考えをいなした。「あるいはそうとも言えるだろう。しかし、そう厳密になる必要はない」


「そうなんですか」寛は合いの手のつもりで言った。


 だが、それは宮田には反抗的な態度に映ったようだった。


「きみは、どうも素直じゃないところがあるな」宮田は寛を横目に見て、不信感をにじませて言った。「本当にぼくの後輩なんだろうね」


「もちろんです。よろしければ学生証を」寛はあわてて財布を取り出した。
「よしたまえ!」宮田はそれを制して言った。


「は」寛は恐縮し、媚びへつらうように言った。「しかし、間違っても早稲田の学生などではありませんので」


「なに?」宮田が眉根を寄せ、険しい顔になって言った。「今、なんて?」


「え?」寛は、何かまずいことを言ったかとまごついた。「いや、あの、早稲田の学生などでは……」


「おーーーっと、っと、っと、っと、っと、っと、っと、っと、っと、っと!」


 宮田は一つひとつの「っと」にやたら力を込めて、大袈裟につまずいて言った。これが冗談などではないということは、それに続く口調から明らかだった。


「言ってはいけない言葉を言ったな」


「は」寛はとにもかくにも恐縮し、しどろもどろになった。「しかし、一体何が……」


「きみは、今、言ってはいけない言葉を言った」宮田はもう一度厳しく指摘した。


「早稲……」寛には何が起きたのか分からなかった。全然分からなかった。


「ハッ!」宮田は、手のひらをばっと突き出し、寛が愚かにも再び口にしかけた言葉を気合で封じた。


 寛は出かかった言葉を無理やり飲み込まされ、涙目になって口をつぐんだ。


「そんなものは存在しない。きみが言おうとしている言葉は、この世に存在しない。言葉自体も、それが指し示す対象も存在しない。つまり、まったく存在しない」


 宮田が殺気に満ちた目つきで言った。


「そ、そうでした」寛はわけが分からないながらもすくみあがって同意した。


 宮田が右手の人差し指をぴんと伸ばし、目玉をくりぬこうとするかのように突きつけてきた。


 寛は思わず後ずさりした。心臓が激しく脈打っていた。


「知っているだろう」宮田は言った。「その言葉を言った者にはペナルティが課せられる」


「ペ、ペナルティ」


「一万」


「いいい、一万」


「ちょうどうまい具合に、きみの財布には万札が一枚入っている」宮田は残虐非道になって言った。「人相を見て分かるようになる」


 宮田の見立てが完全に正確だったので、寛は身震いした。


「きみは二十二条を知らないのか」宮田が続けて言った。


「二十二条!」寛はどきりとして、床から三センチ飛び上がった。


「ある者が我々の一員であるなら、彼もしくは彼女はそれらしく振る舞わなければならない。それらしく振る舞えないのなら、その者は我々の一員ではない。我々のように振る舞い、我々が知っていることを知っているなら、それは我々の一員であり、我々である」


「そ、そうでした。ぼくとしたことが」


 寛はもごもごと口ごもった。それから、学生証を出そうとして手に持ったままだった財布からなけなしの一万円を取り出し、両端を指でつまんで恭しく差し出した。


「気をつけることだな」宮田は何のためらいもなく札を掴むと、目にも止まらぬ速さで上着の内ポケットにしまった。「実際、これについてはどれだけ注意してもしすぎるということはない」


「は」寛は、両手を身体の脇にぴたりとつけて、気をつけの姿勢になって恐縮した。


「これは我々の金さ」宮田は仕切り直して言った。


「左様でございます」寛は追従した。


「そうだとも」宮田は心地よさそうに言った。


 しかし、今度は別の疑問が寛をとらえたのだった。彼は、言ってしまった直後に言わなければよかったと激しく後悔することになる疑問を口にした。


「我々とは誰のことなのですか?」


「なんだって?」宮田はぎょろりと目を剥いた。


「いや、あの……」寛は居たたまれない気持ちになって、身体をもぞもぞ動かした。


「今なんて言った」宮田は容赦なく追及した。


「我々というのが、誰のことなのか分からないのです」寛は度重なる失敗に恥じ入りながら小声で言った。今すぐこの場から消えてしまいたかった。


 宮田はもはや疑問に答えてくれなかった。

 


act.6

 慶應義塾大学では基本的に一、二年生は横浜の日吉キャンパスで学び、三、四年生は港区の三田キャンパスで学ぶことになっていた。


 寛は四年生だったが、週に一日だけ日吉キャンパスに通っていた。足りない単位を取得するためと、一年のときから通っている学生相談室のカウンセリングのためだった。


 寛は、幼少の頃よりずっと自分には何か問題があるような気がしていた。しかし、それが一体何なのか、自分でもはっきり分からなかった。それでカウンセリングに通いはじめたのだが、その具体的な成果があるかどうかもまた分からないのだった。


 カウンセラーの鈴木さん(慶應義塾大学・文学部卒)は、寛が大学においてほとんど唯一くつろいだ気持ちで話せる相手であったが、それでも彼が抱える問題を理解しているわけではなかった。それどころか、彼女は「私が相談を受けている学生の中でも、富田林さんはもっとも恵まれています」と言い渡したことさえあった。


 鈴木さんは、寛が話している途中で寝てしまうこともしばしばだった。彼が不服を申し立てると、彼女は落ち着き払って「ただ目を閉じていただけですから」と言うのだった。


「自分が何をしたいのか分かりません」


 寛はカウンセリングルームの座り慣れた椅子に座って窮状を訴えた。就職したいわけではなかった。進学したいわけでもなかった。だからといって、他に何かやりたいことがあるわけでもなかった。


 しばらく間を置いて鈴木さんは言った。


「それで富田林さんはここにいるというわけです」


 考えてみればまったくその通りだった。少しの沈黙のあと、鈴木さんは続けた。


「では、今まで何をしてきたかは分かりますか」


 寛ははっとなった。驚くべきことに、この先何をしたいのか分からないのと同様に、今まで何をしてきたのかも分からないのだった。四年間の学生生活と、四年間のカウンセリング。すべてがおぼろげだった。積み重ねられたものが何一つないようだった。


「分かりません」寛は自分でも受け入れがたい思いで言った。


「今日は時間です。ではまた来週」鈴木さんは無情にも言った。


 日吉キャンパスには多くの野良猫がいたが、寛は食べ物を分け与えることによって彼らを手なずけていた。今もまた、彼は心を慰めるべく、生協でフィッシュフライサンドを買い求めて餌やりスポットに向かった。


 しかし、今やこの猫たちまで彼につらく当たった。フライを千切ってやっても、猫たちは示し合わせたようにそっぽを向いた。猫なで声で涙ぐましいアピールをすると、ようやく一匹だけ近寄ってきた。寛は、手の平に餌を乗せてそっと差し出してやった。ところが、その猫は彼の腕を思い切り引っ掻いて、一目散に逃げていったのだった。


 寛は、まるでつげ義春漫画の主人公のように、ひりひりと痛む傷口を押さえながら、悲しみに暮れて学生会館に入っていった。


 学生会館の地下には、音楽系サークルの部室兼練習室が並んでいた。一、二年のときに出入りしていた音楽サークルに、誰か話し相手になってくれる者がいるかもしれない。寛はぬくもりを求めて辺りをうろついた。


 ふいに、どこかからピアノの旋律がもれ聞こえてきた。クラシックらしかった。寛は耳を澄ませて音の出所を探り当てると、ドアについた丸窓から室内を覗き込んだ。


 壁際に置かれたアップライトピアノに向かって、女子学生がピアノを弾いていた。弾き慣れた曲のようで、指は滑らかに動いていた。ショートカットの小柄な子だった。


 寛は吸い寄せられるようにして彼女の横顔を見つめた。控えめながら意志の強さを秘めた眼差し。かすかに赤みがさした頬のふくらみ。寛は思わず胸が高鳴った。


「あの」


 遠慮がちな声に振り返ると、三人の女子学生が中に入ろうとして声をかけてきたのだった。そこはピアノサークルの部室だった。寛はあわててドアの前からどくと、ごまかし笑いをして足早に立ち去った。


 寛は、週に一度だけ来る日吉で講義を三コマ履修していた。いずれも単位がとりやすいと評判の授業だった。三田で履修している数コマと合わせて、その中からわずか八単位あれば卒業には足りるのだった。あとは書きかけの卒論を完成させれば問題なかった。


 大学の講義で寛の知的好奇心を真に刺激したものは、ただの一つもなかった。高校で、あるいは中学で、あるいは小学校で、どんな授業があろうとどうでもよかったのと同じだけ、大学でどんな授業があろうとどうでもいいことだった。


 だから、「和歌と短歌と日本史」というお題目の文学部系の講義も、ほとんどと言っていいほど内容に興味はなかった。担当の教授が使い古した講義ノートを見ながら訥々と喋るだけの講義は、実際何の面白みもなく、定員二百人の大教室に出席者は毎回四、五十名ほどだった。しかも、午後最初の授業ということもあって、出席者の半数近くが催眠にかかったように眠ってしまうのだ。


 後方に一人で座っていた寛は、いつもと違って眠るどころではなかった。頭の中はピアノを弾いていた女の子のことでいっぱいだった。彼女が弾いていた旋律がいつまでも耳に残っていた。彼は、このときばかりは例外的に、自分の身に何が起きたのか分かった。一目惚れをしたのだ。


 そのときだった。寛は、教壇に向かって緩やかに下っていく広い教室の前方の席に、彼女の姿を発見した。ピアノを弾いていた彼女だ。まったくの偶然だった。同じ講義を取っていたのだ。


 寛は、ベートーヴェンがなぜ「ソソソ・ミ♭、ファファファ・レ」と作曲したのか、その内的動機を心の底から理解することができた。寛の心臓は、運命にノックされたように激しく打ちつけた。


 寛は、今こそ、自分が何をしたいのか理解した。

 


act.7

 何をしたいのか理解することと、実際それができるかどうかはもちろん別の話だった。


 寛は、何とかして彼女と知り合いたかったが、講義で一緒になっても後姿を遠目に眺めることしかできなかった。彼にできたのは、毎日ひたすら彼女を想い続けるということだけだった。


「ドリア、注文入ってるよ!」


 尾尻(高校中退、フリーター)がやや切れ気味に言った。


 寛は白昼夢から覚めると、あわててドリアの皿をオーブンに入れた。


 それも束の間、またしても尾尻が「なんだこりゃ!」と悲鳴をあげた。フライヤーに放り込まれたまま忘れられ、すっかり黒焦げになったポテトを引き上げたのだ。


「おれだ」寛は真っ青になってミスを申告した。


 彼は二時間分の給料を引かれた。地元小田原でのファミレスのアルバイトは、時給八五〇円だった。


「お前、飯田成美って知ってる?」


 客足が引いて暇になると、尾尻が前置きもなく言った。


 尾尻は寛と同じ小中学校に通った同級生だった。高校は中退したとのことだったが、詳しい事情は寛も知らなかった。勤続三年の尾尻はシフトリーダーだったが、深夜勤務が多かったため二人が顔を合わせる機会はあまりなかった。寛としては、その方がありがたかった。


 寛は、尾尻の口から彼が知るはずもない飯田成美の名前が出たので驚いた。飯田成美は寛の高校の同級生であり、元恋人でもあった。


「知ってるけど、なんで知ってるの?」寛は動揺して問い返した。


「世間は狭い」尾尻は詳しい説明はしなかった。


「あぁそう」


「高校のとき付き合ってたな」尾尻は事実を確かめるように言った。


「まぁ、そうかな」


 飯田成美は、寛が初めて付き合った相手だった。色々な初めてを彼女と経験した。いい思い出もあれば、そうでないものもあった。


「彼女はそんな事実はないと言ってる」尾尻はどこか面白がるようにして言った。


 寛は最初その言葉の意味するところが分からなかった。それから、意味を理解して、驚きに目を丸くして言った。


「なんで?」


「さぁ」


「どうして?」


「知らんな」


「直接聞いたのか」寛は質問の方向を変えた。


「いいや。友達の友達の友達の、そのまた友達が、その彼女と友達でね」
尾尻を追求しても埒が明かないようだった。


「彼女は、お前がアスペだとも言ってるらしい」尾尻はさらに言った。


「なんだって?」寛は耳を疑った。


「アスペルガー」尾尻は今度は略さずに言った。


 アスペルガー症候群のことは寛も知っていた。発達障害の一つで、社会性、コミュニケーション、想像力に障害のある病気だった。人の輪の中で浮いてしまったり、暗黙の了解が理解できなかったり、分かりにくい話し方をするなどの症状があった。


「なんで?」寛は思わず強い口調になった。


「知らねぇよ」


 尾尻はそう言うと、肩を震わせていっひっひと笑った。


 寛は、小学五年生のとき、板書している担任の女性教師の太ももを食い入るように見つめていたところを、尾尻に大声で指摘されたことを突如思い出した。おかげでクラス中が彼のいやらしい行為を知ることとなり、大恥をかかされたのだった。


 なぜ飯田成美がそんなことを言うのか、まったく見当がつかなかった。寛は、自分の女運の悪さを呪った。彼の多いわけでも少ないわけでもない標準的な女性遍歴は、そのまま心の傷の歴史だった。


 大学に進学して間もない頃に付き合ったのは、百瀬桃子(フェリス女学院・音楽学部)だった。音楽サークルの交流を通して知り合ったのだ。


 もともと見栄っ張りなところのあった桃子は、彼氏が慶應生ということが何よりの自慢で、フェリスの友人たちにも寛のことをあれこれ触れ回っていた。ただし、彼女には物事を自分のいいように誇張したり脚色したりする悪癖があり、寛はいかにもそれらしい人物として描写された。


 彼は、IQ140の頭脳を持ち、自由が丘の高級マンションで独り暮らしをしていることにされたのだった。芸能人の友達が大勢いて、俳優や歌手を部屋に招いてはパーティに明け暮れているというのだ。父親は国際線のパイロットだということにされた。母親は元客室乗務員で、職場結婚という設定だった。


 桃子は、寛に対して友人たちの前に絶対に姿を現さないよう要求した。ボロが出ないようにするためだったが、寛は否応なく従わされた。そのうち、彼女は自分が友人たちに伝えている話と寛の実像とがあまりにもかけ離れていることに耐えられなくなっていった。


 思い込みの強い性格である桃子は、しまいには寛に対してまで自分のすてきな慶應生の彼氏のことを自慢するのだった。もはや寛にさえ、その幻の男と自分との共通点を見出すことができなかった。


 交際から半年ほどで寛はふられた。その際にも、彼女の友人たちの同情を買うために、彼は死んだことにされたのだった。恋人のよしみで、寛は死に方を選ばせてもらうことができた。寛が選んだ死に方は、雷が直撃したことによる感電死だった。


「そしてぼくは稲妻を自在に操るダークヒーローとして復活する」寛は言ったが、その提案はあっさり却下された。


 湯川るり子(神奈川大学・人間科学部)とは、大学二年の秋から付き合いはじめた。二日間だけの試験監督のアルバイトで知り合ったのだった。


 湯川るり子は、百瀬桃子とは打って変わって、まったくおとなしい性格だった。おとなしすぎて、寛が話しかけてもうんともすんとも反応が返ってこないことも度々だった。電話で話しているときなど、ときどき彼女がちゃんとそこにいるのか不安になって、寛は「もしもし? 聞いてる?」と問いかけずにはいられなかった。不安を掻き立てる短い沈黙のあと、彼女はか細い声で「えっ?」と返事をするのだった。


 当然のこととして、デートは気詰まりになることが多かった。彼女にはどこそこへ行きたいとか、何が食べたいといった望みもなく、寛は何も話さなくて済むようによく映画に誘った。


 ストーリー展開にのめりこんだときなど、場内が明るくなってふと隣に目をやるとそこに彼女がいて、思わず声をあげて驚いたこともあった。映画に夢中になるあまり、存在を忘れてしまったのだった。


 普段はおとなしいるり子だったが、二人で会っているときに携帯に電話がかかってくると、断りもせずに出るのだった。寛が話している最中でもお構いなしだった。るり子は、彼を放置したまま平然と長話に興じた。そういうときの彼女は、ぺちゃくちゃ喋り、けらけら笑い、普段とはまったく違っていた。


 彼女が電話を切ると、寛は相手が誰なのか問いたださないわけにはいかなかった。しかし、彼女はいつも「別に。大学の子」程度にしか教えてくれないのだった。


 三年生に進級したばかりの頃、寛は大学帰りの横浜駅で偶然るり子を見かけた。彼女はどこかの知らない男と腕を組み、見たこともないような笑顔で歩いていた。寛は大きなショックを受け、それから二度と彼女に連絡しなかった。彼女の方からも何一つ連絡はなかった。


 そのあとが坂下みな実だった。

 

 彼女との出会いは就職活動の場だった。坂下みな実はある売れない大所帯のアイドルグループに所属していたのだが、卒業後もアイドルを続けるか、それとも就職をするかで迷っていた。


 ルックスは十人並みだったが、昨今のアイドル事情においてはそれでも十分通用した。しかし、就職活動においてはそれではまったく通用しなかった。ルックスどころか、歌や踊りも彼女より達者な素人がいくらでもいた。


 坂下みな実は、将来に強い不安を覚えて精神の安定を失った。そうしたところへ、グループ内でいじめられるという事態が起きた。それまではどちらかと言えばいじめる側だったのだが、ついに順番が回ってきたのだ。


 きっかけは、彼女が控え室でスナック菓子を貪り食べていたことだった。みな実にしてみれば、面接を控えた製菓会社の商品を試食していただけだったのだが、ダイエット中の他のメンバーがこれを無神経な振る舞いとして不愉快に思ったのだ。


 いじめに怯え、精神安定剤を乱用したみな実は、混乱した行動を見せるようになった。会社説明会では他の就活生たちに「いつも応援ありがとうございます!」と言って握手して回り、ファンとの撮影会では唐突に就職の志望動機を喋りだした。マネージャーも事務所も何もしてくれなかった。


 彼女は次第にアイドル稼業がいやになりはじめた。いったんそう感じはじめると、すぐにそれが大嫌いになった。グループのメンバーも大嫌いなら、業界も大嫌い、自分たちに与えられた歌も踊りも大嫌い、おまけにファンも大嫌いになった。


 寛だけが彼女を見捨てなかった。彼は辛抱強く彼女の話に耳を傾け、愚痴や不安に理解を示した。しかし、それでも十分ではなかった。


 みな実が「死んでやる」と言って展望台から飛び降りようとすると、寛は腰にしがみついてさせなかった。みな実が「死んでやる」と言って睡眠薬を大量に飲むと、寛は彼女の両脚を掴んで逆さに振ってすべて吐き出させた。みな実が「死んでやる」と言って車道に飛び出すと、寛は交通整理をはじめて事故を防いだ。


 その挙句、「あんたなんか大嫌い!」と言われてふられたのだった。


 結局、みな実は大学を休学した。寛は、ご存知の通り、度重なる不幸に見舞われて入院したのだった。

 



読者登録

十佐間つくおさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について