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act.6

 慶應義塾大学では基本的に一、二年生は横浜の日吉キャンパスで学び、三、四年生は港区の三田キャンパスで学ぶことになっていた。


 寛は四年生だったが、週に一日だけ日吉キャンパスに通っていた。足りない単位を取得するためと、一年のときから通っている学生相談室のカウンセリングのためだった。


 寛は、幼少の頃よりずっと自分には何か問題があるような気がしていた。しかし、それが一体何なのか、自分でもはっきり分からなかった。それでカウンセリングに通いはじめたのだが、その具体的な成果があるかどうかもまた分からないのだった。


 カウンセラーの鈴木さん(慶應義塾大学・文学部卒)は、寛が大学においてほとんど唯一くつろいだ気持ちで話せる相手であったが、それでも彼が抱える問題を理解しているわけではなかった。それどころか、彼女は「私が相談を受けている学生の中でも、富田林さんはもっとも恵まれています」と言い渡したことさえあった。


 鈴木さんは、寛が話している途中で寝てしまうこともしばしばだった。彼が不服を申し立てると、彼女は落ち着き払って「ただ目を閉じていただけですから」と言うのだった。


「自分が何をしたいのか分かりません」


 寛はカウンセリングルームの座り慣れた椅子に座って窮状を訴えた。就職したいわけではなかった。進学したいわけでもなかった。だからといって、他に何かやりたいことがあるわけでもなかった。


 しばらく間を置いて鈴木さんは言った。


「それで富田林さんはここにいるというわけです」


 考えてみればまったくその通りだった。少しの沈黙のあと、鈴木さんは続けた。


「では、今まで何をしてきたかは分かりますか」


 寛ははっとなった。驚くべきことに、この先何をしたいのか分からないのと同様に、今まで何をしてきたのかも分からないのだった。四年間の学生生活と、四年間のカウンセリング。すべてがおぼろげだった。積み重ねられたものが何一つないようだった。


「分かりません」寛は自分でも受け入れがたい思いで言った。


「今日は時間です。ではまた来週」鈴木さんは無情にも言った。


 日吉キャンパスには多くの野良猫がいたが、寛は食べ物を分け与えることによって彼らを手なずけていた。今もまた、彼は心を慰めるべく、生協でフィッシュフライサンドを買い求めて餌やりスポットに向かった。


 しかし、今やこの猫たちまで彼につらく当たった。フライを千切ってやっても、猫たちは示し合わせたようにそっぽを向いた。猫なで声で涙ぐましいアピールをすると、ようやく一匹だけ近寄ってきた。寛は、手の平に餌を乗せてそっと差し出してやった。ところが、その猫は彼の腕を思い切り引っ掻いて、一目散に逃げていったのだった。


 寛は、まるでつげ義春漫画の主人公のように、ひりひりと痛む傷口を押さえながら、悲しみに暮れて学生会館に入っていった。


 学生会館の地下には、音楽系サークルの部室兼練習室が並んでいた。一、二年のときに出入りしていた音楽サークルに、誰か話し相手になってくれる者がいるかもしれない。寛はぬくもりを求めて辺りをうろついた。


 ふいに、どこかからピアノの旋律がもれ聞こえてきた。クラシックらしかった。寛は耳を澄ませて音の出所を探り当てると、ドアについた丸窓から室内を覗き込んだ。


 壁際に置かれたアップライトピアノに向かって、女子学生がピアノを弾いていた。弾き慣れた曲のようで、指は滑らかに動いていた。ショートカットの小柄な子だった。


 寛は吸い寄せられるようにして彼女の横顔を見つめた。控えめながら意志の強さを秘めた眼差し。かすかに赤みがさした頬のふくらみ。寛は思わず胸が高鳴った。


「あの」


 遠慮がちな声に振り返ると、三人の女子学生が中に入ろうとして声をかけてきたのだった。そこはピアノサークルの部室だった。寛はあわててドアの前からどくと、ごまかし笑いをして足早に立ち去った。


 寛は、週に一度だけ来る日吉で講義を三コマ履修していた。いずれも単位がとりやすいと評判の授業だった。三田で履修している数コマと合わせて、その中からわずか八単位あれば卒業には足りるのだった。あとは書きかけの卒論を完成させれば問題なかった。


 大学の講義で寛の知的好奇心を真に刺激したものは、ただの一つもなかった。高校で、あるいは中学で、あるいは小学校で、どんな授業があろうとどうでもよかったのと同じだけ、大学でどんな授業があろうとどうでもいいことだった。


 だから、「和歌と短歌と日本史」というお題目の文学部系の講義も、ほとんどと言っていいほど内容に興味はなかった。担当の教授が使い古した講義ノートを見ながら訥々と喋るだけの講義は、実際何の面白みもなく、定員二百人の大教室に出席者は毎回四、五十名ほどだった。しかも、午後最初の授業ということもあって、出席者の半数近くが催眠にかかったように眠ってしまうのだ。


 後方に一人で座っていた寛は、いつもと違って眠るどころではなかった。頭の中はピアノを弾いていた女の子のことでいっぱいだった。彼女が弾いていた旋律がいつまでも耳に残っていた。彼は、このときばかりは例外的に、自分の身に何が起きたのか分かった。一目惚れをしたのだ。


 そのときだった。寛は、教壇に向かって緩やかに下っていく広い教室の前方の席に、彼女の姿を発見した。ピアノを弾いていた彼女だ。まったくの偶然だった。同じ講義を取っていたのだ。


 寛は、ベートーヴェンがなぜ「ソソソ・ミ♭、ファファファ・レ」と作曲したのか、その内的動機を心の底から理解することができた。寛の心臓は、運命にノックされたように激しく打ちつけた。


 寛は、今こそ、自分が何をしたいのか理解した。

 


act.7

 何をしたいのか理解することと、実際それができるかどうかはもちろん別の話だった。


 寛は、何とかして彼女と知り合いたかったが、講義で一緒になっても後姿を遠目に眺めることしかできなかった。彼にできたのは、毎日ひたすら彼女を想い続けるということだけだった。


「ドリア、注文入ってるよ!」


 尾尻(高校中退、フリーター)がやや切れ気味に言った。


 寛は白昼夢から覚めると、あわててドリアの皿をオーブンに入れた。


 それも束の間、またしても尾尻が「なんだこりゃ!」と悲鳴をあげた。フライヤーに放り込まれたまま忘れられ、すっかり黒焦げになったポテトを引き上げたのだ。


「おれだ」寛は真っ青になってミスを申告した。


 彼は二時間分の給料を引かれた。地元小田原でのファミレスのアルバイトは、時給八五〇円だった。


「お前、飯田成美って知ってる?」


 客足が引いて暇になると、尾尻が前置きもなく言った。


 尾尻は寛と同じ小中学校に通った同級生だった。高校は中退したとのことだったが、詳しい事情は寛も知らなかった。勤続三年の尾尻はシフトリーダーだったが、深夜勤務が多かったため二人が顔を合わせる機会はあまりなかった。寛としては、その方がありがたかった。


 寛は、尾尻の口から彼が知るはずもない飯田成美の名前が出たので驚いた。飯田成美は寛の高校の同級生であり、元恋人でもあった。


「知ってるけど、なんで知ってるの?」寛は動揺して問い返した。


「世間は狭い」尾尻は詳しい説明はしなかった。


「あぁそう」


「高校のとき付き合ってたな」尾尻は事実を確かめるように言った。


「まぁ、そうかな」


 飯田成美は、寛が初めて付き合った相手だった。色々な初めてを彼女と経験した。いい思い出もあれば、そうでないものもあった。


「彼女はそんな事実はないと言ってる」尾尻はどこか面白がるようにして言った。


 寛は最初その言葉の意味するところが分からなかった。それから、意味を理解して、驚きに目を丸くして言った。


「なんで?」


「さぁ」


「どうして?」


「知らんな」


「直接聞いたのか」寛は質問の方向を変えた。


「いいや。友達の友達の友達の、そのまた友達が、その彼女と友達でね」
尾尻を追求しても埒が明かないようだった。


「彼女は、お前がアスペだとも言ってるらしい」尾尻はさらに言った。


「なんだって?」寛は耳を疑った。


「アスペルガー」尾尻は今度は略さずに言った。


 アスペルガー症候群のことは寛も知っていた。発達障害の一つで、社会性、コミュニケーション、想像力に障害のある病気だった。人の輪の中で浮いてしまったり、暗黙の了解が理解できなかったり、分かりにくい話し方をするなどの症状があった。


「なんで?」寛は思わず強い口調になった。


「知らねぇよ」


 尾尻はそう言うと、肩を震わせていっひっひと笑った。


 寛は、小学五年生のとき、板書している担任の女性教師の太ももを食い入るように見つめていたところを、尾尻に大声で指摘されたことを突如思い出した。おかげでクラス中が彼のいやらしい行為を知ることとなり、大恥をかかされたのだった。


 なぜ飯田成美がそんなことを言うのか、まったく見当がつかなかった。寛は、自分の女運の悪さを呪った。彼の多いわけでも少ないわけでもない標準的な女性遍歴は、そのまま心の傷の歴史だった。


 大学に進学して間もない頃に付き合ったのは、百瀬桃子(フェリス女学院・音楽学部)だった。音楽サークルの交流を通して知り合ったのだ。


 もともと見栄っ張りなところのあった桃子は、彼氏が慶應生ということが何よりの自慢で、フェリスの友人たちにも寛のことをあれこれ触れ回っていた。ただし、彼女には物事を自分のいいように誇張したり脚色したりする悪癖があり、寛はいかにもそれらしい人物として描写された。


 彼は、IQ140の頭脳を持ち、自由が丘の高級マンションで独り暮らしをしていることにされたのだった。芸能人の友達が大勢いて、俳優や歌手を部屋に招いてはパーティに明け暮れているというのだ。父親は国際線のパイロットだということにされた。母親は元客室乗務員で、職場結婚という設定だった。


 桃子は、寛に対して友人たちの前に絶対に姿を現さないよう要求した。ボロが出ないようにするためだったが、寛は否応なく従わされた。そのうち、彼女は自分が友人たちに伝えている話と寛の実像とがあまりにもかけ離れていることに耐えられなくなっていった。


 思い込みの強い性格である桃子は、しまいには寛に対してまで自分のすてきな慶應生の彼氏のことを自慢するのだった。もはや寛にさえ、その幻の男と自分との共通点を見出すことができなかった。


 交際から半年ほどで寛はふられた。その際にも、彼女の友人たちの同情を買うために、彼は死んだことにされたのだった。恋人のよしみで、寛は死に方を選ばせてもらうことができた。寛が選んだ死に方は、雷が直撃したことによる感電死だった。


「そしてぼくは稲妻を自在に操るダークヒーローとして復活する」寛は言ったが、その提案はあっさり却下された。


 湯川るり子(神奈川大学・人間科学部)とは、大学二年の秋から付き合いはじめた。二日間だけの試験監督のアルバイトで知り合ったのだった。


 湯川るり子は、百瀬桃子とは打って変わって、まったくおとなしい性格だった。おとなしすぎて、寛が話しかけてもうんともすんとも反応が返ってこないことも度々だった。電話で話しているときなど、ときどき彼女がちゃんとそこにいるのか不安になって、寛は「もしもし? 聞いてる?」と問いかけずにはいられなかった。不安を掻き立てる短い沈黙のあと、彼女はか細い声で「えっ?」と返事をするのだった。


 当然のこととして、デートは気詰まりになることが多かった。彼女にはどこそこへ行きたいとか、何が食べたいといった望みもなく、寛は何も話さなくて済むようによく映画に誘った。


 ストーリー展開にのめりこんだときなど、場内が明るくなってふと隣に目をやるとそこに彼女がいて、思わず声をあげて驚いたこともあった。映画に夢中になるあまり、存在を忘れてしまったのだった。


 普段はおとなしいるり子だったが、二人で会っているときに携帯に電話がかかってくると、断りもせずに出るのだった。寛が話している最中でもお構いなしだった。るり子は、彼を放置したまま平然と長話に興じた。そういうときの彼女は、ぺちゃくちゃ喋り、けらけら笑い、普段とはまったく違っていた。


 彼女が電話を切ると、寛は相手が誰なのか問いたださないわけにはいかなかった。しかし、彼女はいつも「別に。大学の子」程度にしか教えてくれないのだった。


 三年生に進級したばかりの頃、寛は大学帰りの横浜駅で偶然るり子を見かけた。彼女はどこかの知らない男と腕を組み、見たこともないような笑顔で歩いていた。寛は大きなショックを受け、それから二度と彼女に連絡しなかった。彼女の方からも何一つ連絡はなかった。


 そのあとが坂下みな実だった。

 

 彼女との出会いは就職活動の場だった。坂下みな実はある売れない大所帯のアイドルグループに所属していたのだが、卒業後もアイドルを続けるか、それとも就職をするかで迷っていた。


 ルックスは十人並みだったが、昨今のアイドル事情においてはそれでも十分通用した。しかし、就職活動においてはそれではまったく通用しなかった。ルックスどころか、歌や踊りも彼女より達者な素人がいくらでもいた。


 坂下みな実は、将来に強い不安を覚えて精神の安定を失った。そうしたところへ、グループ内でいじめられるという事態が起きた。それまではどちらかと言えばいじめる側だったのだが、ついに順番が回ってきたのだ。


 きっかけは、彼女が控え室でスナック菓子を貪り食べていたことだった。みな実にしてみれば、面接を控えた製菓会社の商品を試食していただけだったのだが、ダイエット中の他のメンバーがこれを無神経な振る舞いとして不愉快に思ったのだ。


 いじめに怯え、精神安定剤を乱用したみな実は、混乱した行動を見せるようになった。会社説明会では他の就活生たちに「いつも応援ありがとうございます!」と言って握手して回り、ファンとの撮影会では唐突に就職の志望動機を喋りだした。マネージャーも事務所も何もしてくれなかった。


 彼女は次第にアイドル稼業がいやになりはじめた。いったんそう感じはじめると、すぐにそれが大嫌いになった。グループのメンバーも大嫌いなら、業界も大嫌い、自分たちに与えられた歌も踊りも大嫌い、おまけにファンも大嫌いになった。


 寛だけが彼女を見捨てなかった。彼は辛抱強く彼女の話に耳を傾け、愚痴や不安に理解を示した。しかし、それでも十分ではなかった。


 みな実が「死んでやる」と言って展望台から飛び降りようとすると、寛は腰にしがみついてさせなかった。みな実が「死んでやる」と言って睡眠薬を大量に飲むと、寛は彼女の両脚を掴んで逆さに振ってすべて吐き出させた。みな実が「死んでやる」と言って車道に飛び出すと、寛は交通整理をはじめて事故を防いだ。


 その挙句、「あんたなんか大嫌い!」と言われてふられたのだった。


 結局、みな実は大学を休学した。寛は、ご存知の通り、度重なる不幸に見舞われて入院したのだった。

 


act.8

 バイトのあとに立ち寄った市立図書館で、寛は飯田成美(東海大学卒・練り物屋の事務員)にばったり出くわした。


「なんでおれがアスペルガーなんだよ」寛は食ってかかるように言った。


「よしてよ、こんなところで」飯田成美は人目をはばかるようにして彼を表に連れ出した。


「噂を流しているのは本当にお前か」寛は昔の恋人を改めて問いただした。


「誰から聞いたの」


「バイト仲間の、友達の友達の友達の、そのまた友達が、お前から聞いたと言ってる」寛は、そう口に出してみると、自分の言ってることがひどく根拠薄弱に思えて弱気になった。


「私はそんなこと言ってません」成美はきっぱりと否定した。


「じゃあどうしてそんな噂が立つ」


「私って現実主義者なの」成美は、まるでそう言えば何をしても正当化されるとでもいうように、己の主義を標榜した。


 高校時代に彼女と一年近く付き合った寛だったが、それでも彼女が現実主義者だったかどうか思い出せなかった。彼女ばかりでなく、同級生の誰も、どんな主義も持っていなかったような気がした。いずれにしろ、寛自身にはどんな主義もなかった。彼は何も信じられなかった。そのことは最近になって発見したわけではなかった。物心ついて以来、寛には信じられることなど何一つなかった。


「どうしてこんなこそこそ話さなきゃいけない」寛はバカげてると思って言った。人目をはばからなければいけない理由など何もなかった。


「大きな声出さないで!」


 成美は鋭い語気で咎め、怯えたように周囲を見回した。まるで、こんなところを見つかったが最期、もうこれまで通りには生きていけないとでも言いたげだった。


「私が今何してるか知ってるの?」彼女は責め立てるように言った。


「いや」寛は少なくともこの一年、彼女を思い出したこともなかった。


「働いてるの」


 成美は、大学卒業と同時に地元でよく知られた練り物屋に就職し、事務員として働いていた。彼女は、学生時代も今も実家に暮らしていた。現在交際中の恋人も、やはり地元に暮らし地元で働く二歳年上の会社員なのだという。


「邪魔されたくないの。分かるでしょ」


 彼女の生活の基盤はここ小田原にあるということが言いたいようだった。
しかし、寛には分からなかった。彼もまた地元で暮らしていた。まだ身分こそ学生だったが、小田原市の住民だった。彼女の言い分はまったくの自分本位にしか聞こえなかった。それに、邪魔するも何も、今更彼女に何かしようなどと考えたこともなかった。


 寛にとって、飯田成美は思い出の一つでしかなかった。だが、この女は二人が付き合っていたという事実自体がなかったと触れ回っているのだ。否定しているが、噂を流しているのはやはり彼女自身に違いないと寛は確信した。


「あなた、留年したんでしょ」成美は冷たく言った。


「どうして知ってる」寛は思いがけない反撃にあって動揺した。


「みんな知ってるわよ」成美は、なぜそこまでというほど、よそよそしく言った。


「どうして。誰から聞いた」


「友達の友達の友達の、そのまた友達から」


 先ほどと同じ質問と同じ答えが、話者を入れ替えて発せられた。寛の劣勢だけが変わらなかった。


「おれに一体どうしてほしいんだ」寛は苛立って言った。


 邪魔者扱いされなければならない謂れなど、どこにもないはずだった。どこかで話が食い違ってしまったに違いない。寛は原因を究明したかった。


「あなたって、基本的に私たちをバカにしてるのよね」成美は、昔のよしみなど微塵も感じられない、何とも疎ましげな目つきで寛を見た。


「何の話だ」


「留年までして、まだ大学生でいたいわけ。慶應義塾大学の」


 彼女の口調は今や百万本の針のように尖っていた。高校時代に別れ話をしたときでさえ、こんなものの言い方をされた覚えはなかった。


「卒業できなかったんだ!」寛は成美の皮肉をはねつけた。「それに就職だって決まってなかった」妥協して、その事実も付け加えた。


「慶應義塾大学。画数の多い漢字ばっかり!」成美は攻撃の手を休めなかった。


「いいかげんにしてくれ!」寛はあからさまな当てこすりに我慢できなかった。


「言わせてもらうが、だいたい、大学なんて行きたくて行ってるわけじゃない。お前だってそうだろ。普通そうだろうが。大学に限らず、高校でも何でも。会社だって同じだろ。行きたくて行くわけじゃないだろ」寛は常日頃から感じていた不満を述べ立てた。


「そりゃ私が行った大学なんて行きたくないでしょうね、誰だって」成美は自分の好きなように解釈した。「東海大学。小田急線の東海大学前駅にあるのよ。駅から歩いて十五分。ずっと上り坂」


 彼女はその道のりを四年間通った過去を思い出し、猛烈に頭に来たようだった。東海大学が小高い山の上にあることは寛も知っていたが、それは間違っても彼のせいではなかった。しかし、成美はそれさえ彼のせいにしそうな勢いだった。


「そういうことじゃなくて」寛は彼女の曲解を正そうとした。


「あなたの行ってる大学なら、誰だって行きたがると思ってるんでしょ」


「そんなこと言ってないだろ」寛は否定した。


「やっぱり。まるで自分の学校が優秀だみたいな口ぶり」成美は寛の発言を捏造した。


「だからおれはそんなこと言ってない!」寛は思わず声を荒げた。


「言いました」成美は確信に満ち満ちて言うのだった。


「なんて言いがかりだ」寛は、うっかり攻撃すると分裂して増殖するRPGのモンスターを相手にしているような気分になった。


「言っときますけど、そんなの思い上がりもいいところよ。私たちをバカにしないで」


 何を言っても無駄だった。話せば話すほどすれ違い、憎み合っていくようだった。そのとき、寛はふいにまったく別の疑問にとらわれた。


「その私たちというのは誰のことだ」


「は?」


「私たち、と言った。私たちをバカにしないで」


「私たちは私たちよ」


 寛は、つい最近どこかでその「私たち」という言葉と似た言葉を耳にしたような気がした。すぐに思い出した。それは「我々」という言葉だった。


「それは、我々ということか」


「は?」


「私たちというのは、我々のことか」寛は、自分がとんちんかんな疑問を口にしていることに気がつく余裕もなかった。


「同じことでしょ。どっちにしろ、あなたはそこに入ってないけど」成美は皮肉たっぷりに言った。


「なぜ」寛は歯軋りしながら言った。


「なぜでも」成美は間髪入れずに答えた。


「入れてくれと頼んだら?」寛はそのサークルの正体が掴めないまま、仲間に入りたいと熱望していた。


「無理」成美はあっさりはねのけた。


「なぜ」


「なぜでも」


 寛の脳裏を、もう一つの恐ろしい言葉がかすめた。


「まさか、二十二条か」彼はたじろぎながら言った。


「二十二条?」成美は一瞬怪訝な表情を浮かべた。


「違うのか?」寛は一縷の望みを持って彼女を見た。


「いいえ」成美はやはり否定した。「違わない。二十二条よ」


 寛は絶望の淵に立たされたような気持ちになった。


「あなたにはあなたの仲間がいるでしょ」成美は冷たく突き放して言った。


「いいや」寛は熟考してから答えた。「いないと思う」


「そんなことありえない」成美はそう言って去っていった。

 


act.9

 富田林茂(小田原市内の公園管理事務所勤務)と素子(主婦)の夫婦は、寛の両親であった。


「自分だけ特別だみたいな顔をするな!」父親はだらしのない息子を叱り飛ばした。


 寛がこれまで経験したあらゆる苦痛と苦悩は、父親から「そんなもの悩みのうちにも入らん!」と一蹴されるのが常だった。


「悩みがあるのはみんな同じ。他の連中の方がよっぽど悩んでいる。お前は何も分かってない!」茂はそう怒鳴りつけては息子の訴えを封じ込めた。


 そもそも、寛は己の悩みをわざわざ報告するつもりなどなかった。ところが、茂が「悩みがあるなら言ってみろ」としつこく迫るので、仕方なしに、就職が思うに任せないことや人付き合いがうまくいかないことを打ち明けたのだった。罠にはめられたようなものだった。


 不条理だとは分かっていても、寛はこの暴君と面と向かうと繰り返し電気ショックを与えられたモルモットのように萎縮して、何も口答えできなくなるのだった。


 茂は、説教をして悦に浸るたびに「お前は間違っとる!」と宣告した。客観的に判断すると、だいたいいつも寛の方が正しかったが、そうすると子供が親よりも正しいということ自体が間違いだとされるのだった。


 母親の素子は「お父さんの言うことが正しいよ」と言うばかりで何の助けにもならなかった。それどころか、彼女は幼少期から現在に至るまでの寛の失敗を面白がって近所中に話して回り、息子に大恥をかかせていた。


 息子に対するひたすらの否定を重ねることを、富田林家では教育と称していた。寛が将来何をしたいのか未だに分からないでいるのも、この教育と無縁のことではなかった。


 息子に偏差値の高い大学へ進学することを望んだのはまさにこの両親であったにもかかわらず、いざ寛が本当に偏差値の高い大学へ進学すると、彼らは途端に息子を敵視しはじめたのだった。しかも、留年した今となっては、寛はこの家で文字通りの冷や飯を食わされていた。


「お前がこれまでにやった一番の親孝行が何か知ってるか」父親は言った。


「いいえ」寛は、何も分かっていない能無しという割り当てられた役回りを演じて、言葉少なに答えた。


「お前の行ってるその何とか大学の学費が、他と比べて少しだけ安かったことさ」父親は嫌味たっぷりに言った。「私立にしてはな」


 寛は天を仰いだ。こうして天を仰ぐたび、それが数センチずつ降下してきているのを彼は察知していた。やがて落ちてくる天に押し潰される日も、そう遠くなさそうだった。

 


act.10

 絲山遼子(慶應義塾大学・文学部一年)というのが彼女の名前だった。


 寛は、文学の講義で教壇にばらばらに提出される出席カードの整理を買って出て、彼女の名前と学部を突き止めたのだった。


 彼は、糸が二つ並んだその漢字にえもいわれぬ魅力を感じた。苗字と名前は、画数の多い漢字と少ない漢字の組み合わせから成っており、その配列は横書きにしても縦書きにしても見事なバランスで見映えがした。知性を感じさせ、力強くて品があり、どこか謎めいていた。思わず口に出して呟いてみたくなる名前だった。


 寛は、こっそりあとをつけ回すという古来から伝わる方法によって、自分が日吉に来る水曜日の絲山遼子のスケジュールを調べ上げた。一限が語学、二限が近代思想、お昼はピアノサークルの仲間たちと一緒に部室で過ごす。三限が寛と一緒の文学、四限が心理学。


 絲山遼子はいずれの授業にもきちんと出席し、たいていは友人たちと一緒だった。なかなか隙がなかったが、四限が終わるとようやく彼女が一人になるチャンスが訪れた。心理学に一緒に出席した友人らと別れ、大学図書館で自習をするのだ。


 翌週の水曜の午後、寛は学生会館の物陰に隠れて絲山遼子を待ち伏せた。彼女が図書館に向かうところを捕まえるつもりだった。


 四限が終わり、絲山遼子が校舎から出てきた。寛は、彼女の姿を確認すると、食堂棟を回り込んでいったん日吉駅に向かって走った。逆方向から来たように見せかけて、図書館前で偶然を装って出くわそうという魂胆だった。


 このときのために、寛は日本の古典文学に関する本を数冊借りて読んでいた。それらの本を返却するという口実にもなり、同じ講義を取っている彼女と話題にするにも自然だという計算だった。


 寛は、平安貴族を気取って、彼女に贈るべく和歌も書いてみた。昔の貴族はそうやって女性を口説いたという話を講義で聞いたのだ。しかし、イマジネーションに欠ける彼にはまるで歯の健康週間の標語のようなものしか作れず、この案は却下となった。


 図書館の前にある大学創設者の銅像の前で、寛は計算通りのタイミングで絲山遼子と出くわした。入口のところで、お先にどうぞと互いに譲りあう格好になった。


「あの」寛は、内心どきどきしながら声をかけた。「文学の講義で一緒だよね。三限の」


 小柄な絲山遼子は、見上げるようにして寛の顔を確かめた。すぐに彼のことが分かったような表情になった。


「あぁ、そうですね。三限の」


 寛は脈ありだと直感した。


「図書館?」寛は、聞くまでもないことだと知りながら、行く先を確認した。


「はい」絲山遼子は少し口元を緩ませた。


「おれも」寛はそう言って先を譲った。


 入館ゲートを抜けながら鞄から本を取り出すと、寛はさりげなく彼女に題名が見えるようにした。「これを返さなくちゃ」


 寛の言動は、何から何まで全然さりげなくなかった。


「文学にはちょっと興味があって」寛は格好つけて言った。「特に日本の古典文学にはね。自分たちがどんな言葉を使ってきたのか、その歴史を知ることは大事だと思うんだ。それに、物事を考えるときには、何でもルーツまで遡って考えないとね」


 拾い読みした本のどこかに書かれていたフレーズの借用だった。


「私もそう思います」絲山遼子はおかしそうに笑いながら言った。


「自分と同じように考えている人がいるなんて嬉しいな」寛は、彼女が富田林寛という男に抗いがたい魅力を感じていると手前勝手に思い込んで言った。彼は、自意識過剰であるばかりか、調子に乗りやすい男でもあった。


「そういえば」寛は彼女にもう一歩近づく口実をひねり出した。「今日の講義だけど、レジュメをコピーさせてもらえないかな。欠席してしまったので」


「確か、出席されてたと思いましたけど」絲山遼子はすぐにこれがウソだと分かったが、礼儀を欠くようなことはなかった。


 その日の文学の講義がはじまる前に、二人は一度目が合っていたのだ。寛が絲山遼子を探して小鳥のようにきょろきょろしているところへ、ちょうど彼女が近くのドアから入ってきたのである。寛はさりげなく目を逸らし、さりげなく授業の準備をするふりをしたのだったが、そのときの彼の行動もやはり全然さりげなくなかった。


「そう。そうそうそう。そうだった」寛自身もそのことを思い出し、慌てて辻褄を合わせようとした。「出席したんだけど、だからつまり、なんと言うか……」


「なくしちゃったんですか?」


「そう。それ。まったくその通り」


 コピー機のある談話室で、寛は絲山遼子と十五分の会話をする機会に恵まれた。


 絲山遼子は和歌山県出身の十八歳。地元の女子高を卒業した彼女は、大学進学のために単身上京したのだった。実家は老舗の和菓子屋で、六つ離れた兄がいるという。彼女の品のよさや落ち着いた雰囲気は、そうした環境で育まれたものだった。


 祐天寺のマンションで一人暮らしをしている彼女は、授業が忙しくてアルバイトをする暇もなかった。語学が得意で、将来海外で働くことを希望しており、大学の勉強とは別にそのための勉強も進めているということだった。

 

 まだ一年生の彼女がすでに将来を見据えているということに少なからず焦りを感じた寛は、思わず自分は週に一度日吉に来て学生相談室でカウンセリングを受けているのだと告白した。


「自分でも何が問題なのかはっきり分からないんだけど、問題があることは確かなんだ」


「きっと根が深いってことなんですね」


 絲山遼子は寛の告白に真剣に耳を傾けて言った。寛には思いがけない言葉だった。


「そう思う?」


「はい」


「そうなんだ」寛は我が意を得たりと勢い込んで言った。「おれもそう思ってた」


 未だかつて、自分には何か問題があるという己の考えにこれほど自信を持ったことはなかった。絲山遼子の優しさと率直さは、過去の女たちから受けた心の傷をすべて払拭してくれそうなほどだった。


「自分でもそう思ってたことは何となく知ってた気がするけど、今はっきりと分かった、自分がどう思っていたのか。どう思っていたか分かって、はじめて自分がおぼろげに思っていたことが何だったのか、はっきり理解できた。つまり、自分の中でもやもやしていたものをうまいこと対象化できたというか」寛は自分の身に起きたことを懸命に説明した。「ぼくには根の深い問題がある」


 絲山遼子は、こらえきれない様子で、それでも控えめに笑った。


「ごめんなさい。笑っちゃいけないんですけど、でも、富田林さんって面白い人ですね」


「そうかな」寛は、自分ではよく分からずに言った。


「私、自分が真面目で面白くないので、すごいと思います」


「そうかな」寛は、なんとなくよく思われているように感じて気をよくした。「あの、よかったらまた話したいな」


「はい。是非」絲山遼子はそう言ってにっこり笑った。


 カウンセリング四年間分よりも効果のある十五分の会話だった。寛は、小田原までの一時間半の道のりを、絲山遼子との会話を何度も反芻しながら帰った。

 



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