act.2
寛が入院すると、大学の同期たちが続々と見舞いに訪れた。
彼らは、寛に訪れた一連の不幸を自分の目で確かめるために、我先に病室に押しかけてくるのだった。そして、寛が本当に不幸な目にあったのだと分かると、これ以上面白いものはないというように遠慮なく声をあげて笑った。
ドアを開けて颯爽と現れたのは、世良(慶應義塾大学・経済学部四年)だった。自信家で快活なこの男は、ソウルで開かれていた学会からわざわざこのために一時帰国したのだ。
「最近スカイダイビングに凝ってるから」開口一番、彼は言った。「飛行機から飛び降りて、窓から登場しようと思ったんだけどな。他の患者に迷惑だからやめておいた」
世良は大学院への進学が決まっていたが、学部生のうちからすでに学会のエースと目されていた。世界中の学会を飛び回っては新しい論文を発表し、それをまとめた本も出版していた。これは学術書としては異例の三万部というヒットを記録していた。
世良は昨年受験生向けの大学受験対策本も出版していた。この本はまたたく間に重版を重ね、その印税は最終的には平均的なサラリーマンの生涯賃金に達すると予測されていた。世良は、大学院生のうちに教授の座につくだろうと噂されていた。
女性看護師たちの嬌声から逃れるようにして病室に入ってきたのは、岸和田(慶應義塾大学・法学部法律学科四年)と安達(慶應義塾大学・商学部四年)だった。
岸和田は、ある有名アイドルグループの元メンバーで、日本で最もイケメン揃いと言われたそのグループの中でも一人群を抜いてイケメンだった。ということは、日本で最もイケメンだといっても過言ではなかった。三田祭のミスター慶應コンテストでは、彼が参加すると勝負にならないという理由で出場登録を禁じられていた。
岸和田は、病室にたどり着くまでの間に七人の女性看護師の連絡先をゲットしていた。そのうち五つは一方的に渡されたものだった。
「次は看護師と合コンだな。制服で来てもらうか」
岸和田が、眩しさに思わず目を細めてしまう自慢の白い歯を輝かせて言った。彼にあっては自慢は歯だけではなかった。全身のすべてのパーツが自慢だった。
「おれはそれに参加するだろう」安達が未来を予言するように言った。
安達は、口数が少なく何を考えているか分からないところがあったが、どこか危険な匂いのする男だった。彼の父親は世界的に名を知られた実業界の大物だと言われていた。一方では、裏社会を牛耳る闇の帝王なのだという噂もあった。事実はその両方なのかもしれなかった。安達自身は、決して親の職業を明かそうとしなかった。
安達は、卒業後は国立の経済研究所で働くことが決まっていたが、その一方で世良とともに起業する計画もあった。二人は、安達個人が所有している瀬戸内海のある島を、老人のユートピア――もしくはディストピア――にしようと目論んでいるのだった。超高齢化社会に備えて、次世代の社会システムのあり方を模索するのがテーマらしい。
「ちなみに今日はモデルと合コンだ」岸和田が軽やかに言って笑顔を決めた。自慢の歯がきらりと光り、暗く沈みがちな病室の光量が増した。
岸和田はアイドルグループを脱退した現在、ソロでアルバムを出したり映画に出演したりしており、その人気は今やアジア全域に及んでいた。にもかかわらず、卒業後はIT系のトップ企業に就職が確定しており、芸能活動のかたわら一社会人として働くというのだ。アイドルである前に人であることを忘れたくないというのが本人の言だった。
「おれはそれに参加するだろう」今度はソウルにとんぼ返りする予定だった世良が言った。
「学会は?」ベッドの上で劣等感に苛まれていた寛は、余計なおせっかいを口にした。
「まず合コンに出る。それからソウルに戻る」世良がスケジュールを整理しながら言った。
「おれも、モデルとの合コンに参加するだろう」寛は痛みを堪え、むっくりと起き上がりながら言った。
「ダメだ」
「無理だ」
「足手まといになる」世良と岸和田と安達はすげなく言った。
そのとき、廊下から「ぬあーっはっはっはっはーっ!」と病棟を揺るがすような笑い声が響いてきた。常盤に違いなかった。誰がおかしいことを言ったわけでもないのに一人で大笑いしながら登場するのが、計り知れないスケールを持つ常盤という男だった。
「おい、世界で初めて空飛ぶ車を実用化するのはおれだぞ」病室に入ってくるなり、常盤(慶應義塾大学・法学部政治学科四年)は宣言した。
「何の話だ」寛は、何となく悔しくなって言った。
「うちの大学の研究チームを組織して、ある発明家と手を組んで空飛ぶ車の開発にとりかかった。五年、いや、三年で何とかなると思う。岸和田、完成したらCMに出ろよ」
「いいよ」岸和田は簡単に請け負った。
常盤は、春から官僚としてエリートコースを歩むことが決まっていた。何かというと新しいチームを組織したり、既成の組織を改革したりすることが好きな男で、そのカリスマ性でリーダーシップを取るのだった。彼の優れた弁舌はTVの討論番組でもいかんなく発揮されていた。常盤には人に命令を下す稀有の才能があった。
「おれは」常盤はあっさり言ってのけた。「そう遠くない将来、世界を手に入れるだろう」
「半分くれ」寛はすねた子供のように口を尖らせて言った。
「ダメだ」常盤は即座に却下した。「そして、大学にはおれの名を冠した奨学金が設立されるだろう」
世良、岸和田、安達、常盤の四人の経歴は完璧で、卒業後の進路も約束されていた。彼らには成功に至る道が開かれていた。何にも邪魔されない、目的地まで高架で一直線にすっ飛ばせる道だった。しかも、その道の両側にはモデル級のルックスの女たちがずらりと並び、スカートの裾をつまみ上げて太ももをちらちら見せながら立っているのだ。
寛はといえば、その道の路肩に木箱を置いて靴磨きをやるのがせいぜいといったところだった。彼は坂下みな実とのすったもんだの恋愛の末、就職活動を途中で放棄してしまっていたし、卒論も期限に間に合わせることができなかった。
卒論は全体の四分の三まで書いたものの、残りは目次だけという状態で提出したのだった。担当の沼尾教授は「何とかしてみよう」と言ったが、その口ぶりからするとあてにはできなかった。
この分では卒業は危うかった。そうなればもちろん卒業旅行に行くこともできない。卒業旅行はそれぞれ別のルートで世界一周するという話になっていた。途中、日本の裏側に当たるブラジルのポルト・アレグレという港湾都市で落ち合って、「陽気な港」を意味する町の名前通り、陽気に飲んで騒ぐ計画だった。
寛もそれに参加したいと思っていた。そのためにこっそり金も溜めていた。しかし、仮に卒業できたところで、この怪我では海外旅行など無理だった。寛は今、ろくにベッドから出ることもできなかった。世良たちとの差は、あまりにも歴然としていた。
「どうやったらふられて骨折できるんだ」常盤は、彼にだけできるやり方でいきなり核心に触れた。
「まずふられた。そのあと骨折したんだ、自転車に轢かれて。その前には高校生にリンチにあってる。ふられて、リンチにあって、自転車に轢かれた」安達がなるべく正確を期して説明した。
「高校生というのは富田林が卒業した地元の学校の後輩だ」ルービックキューブの最年少記録を持っている世良が、機転を利かせて付け足した。
「ちょっとじゃれあっただけだ」寛は弁解した。
「それからクラゲにも刺された」岸和田も情報を添えた。「カツオノエボシ。猛毒がある。普通はGW頃に現れるんだが、この異常気象だからな」彼は海洋生物の生態にも詳しかった。
「おれはクラゲに刺されたことなどないぞ」常盤が聞いてもいないのに言った。
この連中と一緒にいると、寛はいつも自分が何の取柄もない田舎者であるかのように感じられたが、今ほど惨めな気持ちになったことはなかった。何もかも手にしているように見える同級生たち。それに引き換え、何ひとつ持っていない自分。寛の父親は地元小田原市の公園管理事務所で働いており、母親は主婦だった。
かつて、寛の家柄や出自を聞いたとき、岸和田は率直な驚きを表明したものだった。
「そんなことが可能なのか? おれはまた、世帯収入が少なくとも三千万以上あるか、三親等以内に医者や弁護士や経営者や国家公務員といった人物が五人以上いるかしなければ入学できないんだと思ってた」
ここが寛の地元であり、今いるのがまさに彼が生まれ出でた病院(小田原市立病院)でもあったことから、岸和田が懐かしむようにその話を持ち出した。世良も安達も常盤も、かつての岸和田と同じように率直な驚きを表明した。
「それでもおれは入学した。現役で、偏差値の一番高い学部に、独力で」
寛は虚ろな眼差しで言った。そんなことはこの連中にとって何ほどのものでもないと痛いほどよく分かっていた。それでも言わずにいられなかった。それだけが寛の心の拠り所だったのだ。
「そんな細かいこと、誰も気にしてないぞ」岸和田は愉快そうに笑った。
寛は、心の傷も身体の傷もしばらく癒えそうにない気がした。
act.3
「卒業できないかもしれない」寛は弱音を吐いた。
「できるさ」世良が言った。
「就職も決まっていない」
「決まるさ」
「なぜそう断言できる」
「学則第二十二条がある」
「学則第二十二条?」
そんな学則は聞いたことがなかった。他の三人を見ると、安達も岸和田も常盤も口々に「学則第二十二条」と言うのだった。寛だけが知らなかったことらしい。
「入学にふさわしくない者は」世良が説明した。「我が校への入学を許可しない。ひとたび入学した者は、我が校の学生としてふさわしいふるまいをしなければならない。中途退学は我が校の学生にふさわしいふるまいではない」
「どういうことだ」寛は要点を掴みかねた。
「万が一卒業しそこなったら、お前は卒業しなければならないだろう。万が一就職しそこなったら、お前は就職しなければならないだろう」世良はポイントを解説した。
寛は、その冷徹で非の打ちどころのない凄まじい論理に舌を巻いた。
「逃げ道なし、か」寛は、流しに溜まった洗い物を見るときのような憂鬱な目つきで、己の足首を固定しているギプスを見て言った。
「前から不思議だったんだが」安達が文字通り不思議そうに言った。「お前という奴は一体将来何がしたいんだ。おれにはそれが分からない」
まさにそれこそ、寛が自分について分からないでいることだった。一体、自分は将来何がしたいのか。それが分からないがために、現在やっていることもどこかピント外れになるのだった。
「おれはまだ二十一歳の学生なんだ」寛は言い訳がましく言った。彼の誕生日は三月で、早生まれだった。二十二歳まではあとちょっとだけ間があった。
「お前は色彩を持たない奴か」岸和田がある小説の題名を引用して突っ込んだ。
「おれも二十一歳の学生だ」同じく早生まれの世良が言った。「だが、おれは二十五までに教授職を射止めるだろう。それから一足飛びに学部長になるつもりだ。四十歳までには最年少の学長になると思う。そして、四十五歳で引退する。それがおれの人生設計さ。すでに全工程の三分の一が終わろうとしてるんだが、これは予定よりもずいぶん早い。もっと早く引退するか、あるいは四十五歳までもっと仕事をするか、どっちかだろうな」
「ずいぶんなスピードで駆け抜けるな」寛は、世良がまだこの場にいることを確かめるように、頭からつま先へと視線を走らせた。
「そこが連中とおれたちの違いなのさ」世良はまだその場にいた。
「連中?」
「我々以外の連中」
「我々以外」
「連中は大学三年も終盤になってからのろのろと就活を開始する。ところが、おれたちは入学したそのときから就活をしているようなものだ。いいや、違うな。正しくは入学すること、つまり受験が就活に相当するのであって、入学はすなわち入社。おれたちは学生であると同時に、社会人として働いているようなものなのさ。まぁ、学生のふりをしたければそうもできるが」
それを聞いて、寛は大学入学以来抱き続けていたすべての疑問が氷解したような気がした。しかし、一瞬ののちには、その答えは再び闇の中に姿をくらませてしまった。
「ということは、おれは小学校のときから働いていることになる」慶應幼稚舎出身の安達が言った。
「おれは高校から」慶應高校出身の岸和田が言った。
「おれもだ」同じく慶應高校出身の常盤が言った。
「世の中もその事実を知っている。世の中がその事実を知っているということを、おれたちも知っている。そこで我々は連携をとって社会で働く」
「我々」寛はうなった。
「個々の能力を社会に還元してこその仕事だ。我々はそれを最大限に活用する。我々はスモール・サークル・オブ・フレンズなのさ」世良は説明を完了した。
「おれはどうしたらいい」率直に言って、寛は話についていけなかった。
「新しい女を見つけろ。何なら紹介してやる」岸和田が言った。
それが今の話に関係があるかどうか分からなかったが、寛にはひどく説得力があるように聞こえた。
「そうしてやってくれ。こいつが三田キャンパスのパンチラスポットで何時間も一人で座ってるのを見ると、おれは涙が出そうになるんだ」安達が同情心を起こして言った。
「モデルでも看護師でもいい」寛はすがりついた。本当に紹介してほしかった。
「いや、やっぱりやめておこう」気分屋の岸和田は簡単に前言を撤回した。「その代わり、お前には差し入れを用意しておいた」
「何を」寛は何でもいいからほしかった。
「すぐに分かる」岸和田は思わせぶりに言った。それから寛の耳元で囁いた。「この四年間は祭りみたいなもんさ。楽しめなかったらバカだぜ」
その深夜、病室に突如として四人のベリーダンサーが現れた。
彼女たちは寛のベッドを囲むと、官能的に腰をくねらせて踊りはじめた。それこそ岸和田が用意した差し入れだった。ベリーダンサーは非常に面積の小さい布切れを二枚身に付けているだけだった。我慢しきれずに触ろうとすると、寛は手をぺしっと叩かれた。
「見るだけよ」ベリーダンサーはウィンクして言った。
寛は見るだけでも大いに楽しんだ。
act.4
この四年間という意味では、寛はまったく楽しめていなかった。しかも、退院してみると大学から留年決定の通知が届いていた。彼は二十二歳になっていた。
寛は自分が何をしたいのか分からないでいたが、それを知るために何をしたらいいのかもまた分からなかった。とりあえず就職活動を再開してみたものの、何をしたいのか分からないということが意識されると、それは去年にもまして苦痛なものとなった。
エントリーシートを書くことからしてひどく難しかった。少しでも気を緩めると、企業を批判してしまうのだ。そうでなくても曖昧な物言いばかりが並んだ。例えば「もし通信サービスというものが機能しなくなったら、社会はどれほどの混乱に陥ることでしょう」などというように。
寛は、未完成だからということとは別に、卒論のタイトルも明かさない方が賢明なのではないかと考えた。それは「商業主義の終焉、すべての主義の終焉、そして依然として世の中は金」といった。反発を招くだけになりそうだった。
そうなると面接での会話も弾まなかった。彼を面接したある企業の人事部員は、「実を言うと、富田林さんがうちで働きたがっているようには見えないのです」とやんわり非難した。否定できなかった。
「聞いた話によると、きみは昨年いくつかの企業の面接を連絡も入れずにすっぽかしているね」沼尾教授(慶應義塾大学・経済学部教授)は慇懃に言った。
寛は、就職のことをこの教授に相談したのは間違いだったと感じながら言い訳した。
「プライベートで色々ありまして」
「大学の評判を落とす行為だ」沼尾教授は、耳を貸す素振りも見せず、忌々しげに口元を歪ませた。「そしてもちろん、私の業績にも響いてくる。きみが私の学生だということを忘れてもらっては困る」
「は」寛は恐縮した。
「他の学生たちはもう全員内定をもらっている。きみは一体何をしているんだ」
「は」寛は恐縮した。
「この話はもういい。来週のゼミなんだが、プリンストン大の教授を招いて御茶ノ水の経済研究センターでやることになったから、間違いのないように」
「は」寛は恐縮した。
翌週、寛は御茶ノ水の経済研究センターを訪れたが、そこでは沼尾教授のゼミなど開かれていなかった。プリンストン大の教授もいなかった。それ以前に、経済研究センターなどという建物自体が存在しないのだった。
「昨日、御茶ノ水に行きました」その翌日、寛は教授に抗議した。
「なぜ」沼尾教授は取りかかっていた書類から目を上げて、疎ましげに彼を見た。
「経済研究センターでゼミをやると仰ったので」
「御茶ノ水にそんなものはない!」教授は一喝した。
「では、どこに」寛は狼狽して言った。
「知らんね」教授はそっけなく言うと書類仕事に戻った。
寛は納得が行かないまま、その場に立ち尽くした。
就職がうまくいかなかったら、引き延ばし策として大学院に進学するという手もあった。しかし、とりわけ成績優秀でもない彼が大学院に進むためには、担当である沼尾教授の推薦が不可欠だった。寛は、そうなったときにこの教授は推薦状を書いてくれるだろうかといぶかしんだ。
三分後、沼尾教授は再び目を上げた。「のわっ!」教授は寛がまだそこに立っていたことに驚き、熱狂的に万歳するかのように両手を上にあげて仰け反った。
「は」寛は不信を押し隠して言った。
「仕事は決まったのかね」教授はすばやく動揺を鎮め、乱れた髪を整えながら高みからものを言った。
「いいえ」
「ハローワークに行ってみるといい」教授はまるでその方角にハローワークがあるとでもいうように、人差し指で一方を指さした。その方角にあるのはドアだった。
「よろしいでしょうか」寛は出て行く前に是非とも訊きたいことがあった。
教授は何も言わず、ただ睨むように彼を見た。
「いったい、あなたはどういった業績が認められて教授の地位に就かれたのですか」
大学教授になる道はひどく険しい。特に、この大学の教授になる道はひときわ険しい。世良から聞いたところによれば、沼尾教授はこれまでろくに論文を発表したことがなく、発表した数少ない論文でも話題になったものは一つもないということだった。この男には目立った業績は一つもなく、その一方でもっと優秀な人材はいくらでもいた。それなのに、なぜこの男が教授なのか。
「私は何もしていないよ」それが沼尾教授のよこした返事だった。
act.5
寛は、ある大手銀行のセンタービルに大学のOBを訪ねた。その銀行は、慶應義塾大学出身の職員が多いことで知られていた。
面会を快諾してくれた宮田(慶應義塾大学・商学部卒)は、弱冠二十六歳にして幹部となった出世頭だった。
「見てくれ」宮田はビル内を案内しながら惜しげもなく言った。「好きなだけ見てくれ」
寛の目の前を、現金をたんまり積んだ網かご台車が横切った。まさしく札束の山だった。これほどの量の現金を生で見たことがなかったので、寛は圧倒されて言葉を失った。
「八億ある」宮田は得意満面になって言った。「厚みでいくらか分かるようになる。もちろん、重さでも分かるようになる」
寛は、八億円の札束を乗せた網かご台車を物欲しげな目つきで見送った。見るからに屈強そうな警備員が二名同行し、鍵も厳重にかけられていた。とても近づける雰囲気ではなかった。
「今、法に抵触するようなことを考えたね?」宮田がからかうように言った。
「いえ、滅相もありません」寛はあわてて否定した。
しかし、図星だった。床に紙幣を敷き詰めて、げらげら笑いながら裸で転げまわり、群がる女たちの頬を札束で張るという夢想をしたのだ。
「毎日毎日、三十億から四十億の金が動いている」宮田は言った。「我々の金さ」
「わ、我々の金」寛は、使ってみたい言葉だったので、自分でも言ってみた。そうしながらも、若干の疑問がわくのを抑えることはできなかった。
「しかし、それは預金者の金では」
「はっはっは」宮田は軽快に笑ってその考えをいなした。「あるいはそうとも言えるだろう。しかし、そう厳密になる必要はない」
「そうなんですか」寛は合いの手のつもりで言った。
だが、それは宮田には反抗的な態度に映ったようだった。
「きみは、どうも素直じゃないところがあるな」宮田は寛を横目に見て、不信感をにじませて言った。「本当にぼくの後輩なんだろうね」
「もちろんです。よろしければ学生証を」寛はあわてて財布を取り出した。
「よしたまえ!」宮田はそれを制して言った。
「は」寛は恐縮し、媚びへつらうように言った。「しかし、間違っても早稲田の学生などではありませんので」
「なに?」宮田が眉根を寄せ、険しい顔になって言った。「今、なんて?」
「え?」寛は、何かまずいことを言ったかとまごついた。「いや、あの、早稲田の学生などでは……」
「おーーーっと、っと、っと、っと、っと、っと、っと、っと、っと、っと!」
宮田は一つひとつの「っと」にやたら力を込めて、大袈裟につまずいて言った。これが冗談などではないということは、それに続く口調から明らかだった。
「言ってはいけない言葉を言ったな」
「は」寛はとにもかくにも恐縮し、しどろもどろになった。「しかし、一体何が……」
「きみは、今、言ってはいけない言葉を言った」宮田はもう一度厳しく指摘した。
「早稲……」寛には何が起きたのか分からなかった。全然分からなかった。
「ハッ!」宮田は、手のひらをばっと突き出し、寛が愚かにも再び口にしかけた言葉を気合で封じた。
寛は出かかった言葉を無理やり飲み込まされ、涙目になって口をつぐんだ。
「そんなものは存在しない。きみが言おうとしている言葉は、この世に存在しない。言葉自体も、それが指し示す対象も存在しない。つまり、まったく存在しない」
宮田が殺気に満ちた目つきで言った。
「そ、そうでした」寛はわけが分からないながらもすくみあがって同意した。
宮田が右手の人差し指をぴんと伸ばし、目玉をくりぬこうとするかのように突きつけてきた。
寛は思わず後ずさりした。心臓が激しく脈打っていた。
「知っているだろう」宮田は言った。「その言葉を言った者にはペナルティが課せられる」
「ペ、ペナルティ」
「一万」
「いいい、一万」
「ちょうどうまい具合に、きみの財布には万札が一枚入っている」宮田は残虐非道になって言った。「人相を見て分かるようになる」
宮田の見立てが完全に正確だったので、寛は身震いした。
「きみは二十二条を知らないのか」宮田が続けて言った。
「二十二条!」寛はどきりとして、床から三センチ飛び上がった。
「ある者が我々の一員であるなら、彼もしくは彼女はそれらしく振る舞わなければならない。それらしく振る舞えないのなら、その者は我々の一員ではない。我々のように振る舞い、我々が知っていることを知っているなら、それは我々の一員であり、我々である」
「そ、そうでした。ぼくとしたことが」
寛はもごもごと口ごもった。それから、学生証を出そうとして手に持ったままだった財布からなけなしの一万円を取り出し、両端を指でつまんで恭しく差し出した。
「気をつけることだな」宮田は何のためらいもなく札を掴むと、目にも止まらぬ速さで上着の内ポケットにしまった。「実際、これについてはどれだけ注意してもしすぎるということはない」
「は」寛は、両手を身体の脇にぴたりとつけて、気をつけの姿勢になって恐縮した。
「これは我々の金さ」宮田は仕切り直して言った。
「左様でございます」寛は追従した。
「そうだとも」宮田は心地よさそうに言った。
しかし、今度は別の疑問が寛をとらえたのだった。彼は、言ってしまった直後に言わなければよかったと激しく後悔することになる疑問を口にした。
「我々とは誰のことなのですか?」
「なんだって?」宮田はぎょろりと目を剥いた。
「いや、あの……」寛は居たたまれない気持ちになって、身体をもぞもぞ動かした。
「今なんて言った」宮田は容赦なく追及した。
「我々というのが、誰のことなのか分からないのです」寛は度重なる失敗に恥じ入りながら小声で言った。今すぐこの場から消えてしまいたかった。
宮田はもはや疑問に答えてくれなかった。
act.6
慶應義塾大学では基本的に一、二年生は横浜の日吉キャンパスで学び、三、四年生は港区の三田キャンパスで学ぶことになっていた。
寛は四年生だったが、週に一日だけ日吉キャンパスに通っていた。足りない単位を取得するためと、一年のときから通っている学生相談室のカウンセリングのためだった。
寛は、幼少の頃よりずっと自分には何か問題があるような気がしていた。しかし、それが一体何なのか、自分でもはっきり分からなかった。それでカウンセリングに通いはじめたのだが、その具体的な成果があるかどうかもまた分からないのだった。
カウンセラーの鈴木さん(慶應義塾大学・文学部卒)は、寛が大学においてほとんど唯一くつろいだ気持ちで話せる相手であったが、それでも彼が抱える問題を理解しているわけではなかった。それどころか、彼女は「私が相談を受けている学生の中でも、富田林さんはもっとも恵まれています」と言い渡したことさえあった。
鈴木さんは、寛が話している途中で寝てしまうこともしばしばだった。彼が不服を申し立てると、彼女は落ち着き払って「ただ目を閉じていただけですから」と言うのだった。
「自分が何をしたいのか分かりません」
寛はカウンセリングルームの座り慣れた椅子に座って窮状を訴えた。就職したいわけではなかった。進学したいわけでもなかった。だからといって、他に何かやりたいことがあるわけでもなかった。
しばらく間を置いて鈴木さんは言った。
「それで富田林さんはここにいるというわけです」
考えてみればまったくその通りだった。少しの沈黙のあと、鈴木さんは続けた。
「では、今まで何をしてきたかは分かりますか」
寛ははっとなった。驚くべきことに、この先何をしたいのか分からないのと同様に、今まで何をしてきたのかも分からないのだった。四年間の学生生活と、四年間のカウンセリング。すべてがおぼろげだった。積み重ねられたものが何一つないようだった。
「分かりません」寛は自分でも受け入れがたい思いで言った。
「今日は時間です。ではまた来週」鈴木さんは無情にも言った。
日吉キャンパスには多くの野良猫がいたが、寛は食べ物を分け与えることによって彼らを手なずけていた。今もまた、彼は心を慰めるべく、生協でフィッシュフライサンドを買い求めて餌やりスポットに向かった。
しかし、今やこの猫たちまで彼につらく当たった。フライを千切ってやっても、猫たちは示し合わせたようにそっぽを向いた。猫なで声で涙ぐましいアピールをすると、ようやく一匹だけ近寄ってきた。寛は、手の平に餌を乗せてそっと差し出してやった。ところが、その猫は彼の腕を思い切り引っ掻いて、一目散に逃げていったのだった。
寛は、まるでつげ義春漫画の主人公のように、ひりひりと痛む傷口を押さえながら、悲しみに暮れて学生会館に入っていった。
学生会館の地下には、音楽系サークルの部室兼練習室が並んでいた。一、二年のときに出入りしていた音楽サークルに、誰か話し相手になってくれる者がいるかもしれない。寛はぬくもりを求めて辺りをうろついた。
ふいに、どこかからピアノの旋律がもれ聞こえてきた。クラシックらしかった。寛は耳を澄ませて音の出所を探り当てると、ドアについた丸窓から室内を覗き込んだ。
壁際に置かれたアップライトピアノに向かって、女子学生がピアノを弾いていた。弾き慣れた曲のようで、指は滑らかに動いていた。ショートカットの小柄な子だった。
寛は吸い寄せられるようにして彼女の横顔を見つめた。控えめながら意志の強さを秘めた眼差し。かすかに赤みがさした頬のふくらみ。寛は思わず胸が高鳴った。
「あの」
遠慮がちな声に振り返ると、三人の女子学生が中に入ろうとして声をかけてきたのだった。そこはピアノサークルの部室だった。寛はあわててドアの前からどくと、ごまかし笑いをして足早に立ち去った。
寛は、週に一度だけ来る日吉で講義を三コマ履修していた。いずれも単位がとりやすいと評判の授業だった。三田で履修している数コマと合わせて、その中からわずか八単位あれば卒業には足りるのだった。あとは書きかけの卒論を完成させれば問題なかった。
大学の講義で寛の知的好奇心を真に刺激したものは、ただの一つもなかった。高校で、あるいは中学で、あるいは小学校で、どんな授業があろうとどうでもよかったのと同じだけ、大学でどんな授業があろうとどうでもいいことだった。
だから、「和歌と短歌と日本史」というお題目の文学部系の講義も、ほとんどと言っていいほど内容に興味はなかった。担当の教授が使い古した講義ノートを見ながら訥々と喋るだけの講義は、実際何の面白みもなく、定員二百人の大教室に出席者は毎回四、五十名ほどだった。しかも、午後最初の授業ということもあって、出席者の半数近くが催眠にかかったように眠ってしまうのだ。
後方に一人で座っていた寛は、いつもと違って眠るどころではなかった。頭の中はピアノを弾いていた女の子のことでいっぱいだった。彼女が弾いていた旋律がいつまでも耳に残っていた。彼は、このときばかりは例外的に、自分の身に何が起きたのか分かった。一目惚れをしたのだ。
そのときだった。寛は、教壇に向かって緩やかに下っていく広い教室の前方の席に、彼女の姿を発見した。ピアノを弾いていた彼女だ。まったくの偶然だった。同じ講義を取っていたのだ。
寛は、ベートーヴェンがなぜ「ソソソ・ミ♭、ファファファ・レ」と作曲したのか、その内的動機を心の底から理解することができた。寛の心臓は、運命にノックされたように激しく打ちつけた。
寛は、今こそ、自分が何をしたいのか理解した。