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act.17

「やめます」


 寛は三田キャンパスの学生事務局のカウンターで言った。


 対応した職員は「今なんと?」「確かですか?」「本当に?」と何度も意思を確認した。寛はどの質問にも迷いなく「やめます」と答えた。


 異例の事態に、事務局が騒然となった。しかし、彼の決意が断固としたものであると見てとると、事務局側はついに手続きを取ることを承諾した。


 退学届けを提出するには、寛が在籍する経済学部の学部長と面談し、承認印をもらうことが必要だった。


 寛は職員の案内で学部長室に通された。教員棟の五階、長い廊下を抜けた先にその部屋はあった。


 ドアノブに手をかけたとき、ふと嫌な予感がした。予感は的中した。正面にある横幅が三メートルくらいありそうな重厚な書斎机に座っていたのは、沼尾教授だったのだ。


「あんたは学部長じゃない」寛はすばやく警戒態勢になって言った。


「学部長は多忙で不在にしている」沼尾教授は、時代劇の悪役さえ善人に思えるほど根性のひねくれた笑みを浮かべて言った。「私が留守を預かってるんだ。次期学部長の私が」


「判子がほしい」寛は余計なことは言わず、机の上に退学届けを差し出した。


「そんなものはただの紙切れだ」沼尾教授は鼻にもかけない調子で言った。


「なら勝手に押させてもらう」


 寛は机の端にあった学部長印に手を伸ばした。すると、沼尾教授は「おっと」と言ってすばやくそれを手繰り寄せた。寛の手は空を切った。


「あんたはおれの邪魔ばかりする」寛は相手を睨みつけて言った。「なぜだ?」


 沼尾教授の陰険な目がぎらりと光った。


「知りたいのなら教えてやる。貴様は一年のとき、私の経済学の講義を履修した。講義には出席していた。しかし寝てばかりだった。毎回欠かさずだ。しかもかなり前列で。いやなら出席しなければいい。寝るなら後ろの方に座ればいい。そのくせ試験となるとやたら高得点を取る。貴様は私を一体なんだと思ってるんだ。私の講義と、私の研究を」


「よく知らない」寛は持ち前の正直さで答えた。


 寛の正直さは、時と場合をわきまえずに発揮されることがあり、しばしば災いの種となることがあった。実際のところ、一年のときに受けた沼尾教授の講義の内容など、彼は何一つ覚えていなかった。


 沼尾教授は怒りに顔を紅潮させ、鼻息を荒くした。その鼻息で退学届けがひらひらと宙を舞った。


「判など押さんぞ!」沼尾教授は両手で机を叩き、飛び上がるようにして立ち上がった。「ついでに言っておいてやる。貴様の名前は変な名前だ。とんだばやし! ひろし! くそっ、韻でも踏んでるつもりか!」


「それはおれのせいじゃない」寛は場違いな指摘に頬を赤らめた。子供の頃から気にしていたことだった。


「いいや、貴様のせいさ。何もかも、悪いことがあったときは貴様のせいに決まってる」


「ならおれも言わせてもらう」寛はやられっぱなしになるつもりはなかった。


「あんたは本当はこの大学の出身じゃない」


「なんだと?」


「調べたんだ。あんたが卒業したのは専修大だ。慶應出身であるようなふりはしているがな。あんたは仲間になるのに必死なんだ。我々とやらの仲間に」


 沼尾教授(実は専修大卒)は、顔面蒼白になって全身を硬直させた。喉の奥からしゅーしゅーと奇怪な呼吸音が洩れ、指先が激しく震えていた。血走った眼はもはや焦点が合っていなかった。見るからに危険な状態だった。


 寛はすきをついて判子を奪い取ると、すばやく退学届けに判を押した。そして、これ以上相手を刺激しないよう、背を向けてすみやかに出口を目指した。


 ところが、部屋を出ようとしたところで、沼尾教授が横から音もなくすーっと現れてドアの前に立ちはだかった。教授は、糸で吊られた操り人形のように首だけがっくりとうなだれて、手足を奇妙に脱力させて立っていた。


 どこからともなく一陣の風が吹き、教授がおもむろに顔をあげた。生気を失った顔にみすぼらしく伸びた髪が乱れかかったその姿は、落ち武者の亡霊を彷彿とさせた。寛は生唾を飲み込んだ。


「きみは知りすぎてしまったらしい」


 沼尾教授は放心したように呟くと、突然ペーパーナイフを片手に襲いかかってきた。


 寛はさっと身を翻し、間一髪で刃先をかわした。


 教授は勢い余って書斎机に突っ伏した。


 寛は慌ててドアから飛び出した。長い廊下を猛ダッシュで駆け抜けた。振り返っている余裕はなかった。


 ところが、いつの間にか前方に回りこんだ沼尾教授が、ホラー映画のモンスターのように柱の陰からぬっと現れて行く手を塞いだのだった。


「通さんぞ!」


 教授は、またしてもペーパーナイフで猛然と突きかかってきた。


 寛は覚悟を決めて正面から突っ込んでいった。彼は絶妙のタイミングで足を踏み切ると、高々とジャンプして相手をかわし、背中を踏みつけにして先を急いだ。


 階段を駆け下りた。四階、三階、二階。あと少しでこの忌まわしい建物から脱出することができた。


 ところが、またしてもどこからともなく先回りして現れた沼尾教授が、地上階で狂気のオーラを撒き散らしながら待ち受けていた。彼の周囲の空気はどす黒く歪んでいた。


「逃がさんぞ!」


 教授は、魔界から召喚された魔物のように地を震わすような吠え声をあげると、鉤爪の生えた両手を荒々しく広げ、寛めがけて飛び上がってきた。


 捕まったら八つ裂きにされることは間違いなかった。寛は巧みなフットワークでこれをかわすと、手すりを尻で滑り降りた。


 学生事務局に駆け込んだ。息を切らしてカウンターに退学届けを差し出すと、いきなり手首を掴まれた。事務職員のふりをした沼尾教授だった。


 教授は悪魔のように不気味に笑うと、頭上にナイフを振りかざした。刃が天井の蛍光灯を反射してぎらりと光った。寛はとっさにカウンターにあった消毒用アルコールを掴み、相手に吹きつけた。


 教授はぐわっと悲鳴をあげて目を押さえた。そして、苦し紛れにナイフをめちゃくちゃに振り回した。寛は上体を反らせて刃をかわし、隙をついて反撃に出た。


「これでも食らえ!」


 寛は、教授のおでこに退学届けを叩きつけた。


 その瞬間、退学届けがまばゆい光を放った。


「ぐぎゃー!」


 断末魔の叫びとともに、教授の体はみるみる崩れ去り、腐臭を放つどろどろの液体へと溶けていった。


 最後まで見届ける必要もなかった。


 寛は、長い間彼を縛りつけていた不毛の世界から、すたこらさっさと逃げ出した。

 

 

 

 


この本の内容は以上です。


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