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act.12

 夏休みに入ってまもなく、寛は京都に来ていた。


「和歌と短歌と日本史」の講義で、勉強会をかねた京都旅行が計画されたのだ。主催は担当教授の高山(慶應義塾大学・文学部教授)だった。もちろん絲山遼子も参加していた。彼女が参加すると知ったため、寛も参加することにしたのだ。


 実を言うと、絲山遼子から聞かされるまで彼はこの企画自体を知らなかった。試験がすべて終わり、ねぎらいのメールを送るついでに夏の予定を訊いてみたところ、彼女がこの旅行のことに触れたのだ。講義の中で何度となく説明があったらしいが、寛は完全に聞き逃していた。


 彼はすぐさま高山教授に連絡した。申し込みはとっくに締め切られていたが、そこを何とかと拝み倒して参加を許可してもらった。一泊二日の旅だった。二日間ともファミレスのバイトが入っていたが、それも尾尻に頼み込んで代わってもらった。


 参加者は高山教授を含めて十四名だった。京都に現地集合ということで、多くの者は新幹線で来ていた。飛行機という者もいた。寛だけが、安上がりな青春十八切符で来たのだった。


 講義で扱った和歌や短歌と縁のある名所旧跡を訪ね歩くのが、勉強会の目的だった。堅物の教授は、観光しながら授業のときと同じように話をし、学生たちに京都に来てまで講義を受けているような気分を味あわせた。


 絲山遼子と二人きりになる機会に恵まれないまま、夜になった。


 ホテルにチェックインすると、教授の部屋に集まって飲もうという話になった。寛は気乗りしなかったが、絲山遼子が参加するとなれば行かないわけにはいかなかった。


 一同は車座になって座り、そこでもまた古典文学の話をするのだった。それだけではなかった。国家間の紛争について、福祉制度について、古代文明から学ぶべきことについて、これからのエネルギー資源について、税金の使い方について、二十一世紀の芸術について、ありとあらゆるトピックについて議論が交わされたのだった。今度は学生たちも活発に発言した。まるで国連総会だった。


 寛は一度、ユーロ諸国の財政状態についてどう思うか、経済学部に在籍するものとして専門的な意見を求められた。しかし、彼はどうやって絲山遼子と二人きりになるかばかり考えていて、ろくに話を聞いていなかった。そもそも、彼はリボ払いというものがどういう仕組みなのかさえ理解できない経済学部の学生だった。


 寛がうまく答えられないでいると、一同は彼に話を振ったことなどなかったかのように議論を続けた。やがて、夜も更けると会はお開きとなった。取り上げられた問題のいずれが解決したわけでもなく、世の中が一ミリでもよい方向に動いたわけでもなかったが、各自がそれなりに満足を得たようだった。


 寛はパンクしたタイヤのようにぺしゃんこな気分だった。それでもへこたれず、ちょっと外の空気を吸いに行かないかと絲山遼子を散歩に誘った。彼女は少し疲れた顔をしていたが了承してくれた。


「夜の、京都だね」


 寛は言った。確かに夜の京都だった。二人きりになったらああしてこうしてと、何百万通りものシミュレーションをして備えていたはずだった。しかし、そういいように事を運ぶことはできなかった。


「私、留学するんです」絲山遼子が思いがけず言った。


 寛は、突然もたらされたこの情報によって思考停止に陥った。彼は、必死に手繰り寄せた命綱が途中で切断されていたのを発見したかのように、ショックに言葉を失った。夜の京都は、まるでこの世の終りだった。


「留学?」


「はい」


「誰が?」


「私です」


「いつから?」


「八月半ばには発つ予定です」


「す、すぐじゃないか!」


「すぐです」


「どこに?」


「カナダのマギル大学というところに」


「マギル大学」寛は恨みがましい口調でうなるように言った。「レナード・コーエン、バート・バカラック、ジノ・ヴァネリ、ウィリアム・シャトナー」


 いずれも寛が知っている著名なマギル大学卒業生の名前だった。芸能関係に偏ってはいたが、そのリストを見るだけで優秀な人材を輩出する大学だということが分かった。だが、そんなことは彼にはどうでもよかった。
「いつまで?」


「最低でも一年」


「一年!」寛の声はリアクション芸人のように裏返った。


「もしかしたら、二年」


 目の前が暗くなった。寛は、彼女を乗せた旅客機が音速を超えるスピードで遠ざかっていくイメージに襲われ、目眩に倒れそうになった。音速とは秒速約340メートルで、そうすると飛行機が飛び去る音を目で見るよりあとに聞くことになるのだ。


「あぁカナダ」


 寛は、ジョニ・ミッチェルの歌にあるように口の中で呟いた。


 カナダはとてつもなく遠かった。英語とフランス語が公用語で、森林地帯が多く、アイスホッケーが盛んだ。そして何より、寛にはまるきり縁のない国だった。


「おれはみんなに嫌われている」寛は沈痛な面持ちで言った。


 何もかもが手をすり抜けていくようだった。どこに行っても仲間はずれにされ、いつも彼だけが蚊帳の外なのだ。さっきの国連総会かと思うような宴会の席でもそうだった。


 寛は、この旅の参加者たちを「いやになるほど精神のまともな連中」と感じていた。それだけではなかった。彼を取り巻くすべての人々が「いやになるほど精神のまともな連中」なのだった。そして、みんなが寛を仲間はずれにするのだ。


 寛はこれらすべての人々を忌み嫌った。声をあげて泣きたいくらいだった。カナダという言葉が彼の頭の中でこだました。カナダ、カナダ、カナダ、カナダ、カナダ……。カナダという言葉をこんなに連発したことは、かつて一度だってなかった。彼は、猛烈にメイプルリーフクッキーが食べたくなった。もうどうにでもなれだ。


「どうしてそんなこと言うんですか」絲山遼子は悲しげに言った。


「それが事実だから」寛はやけくそだった。


「私には、富田林さんが嫌われていると言うより、富田林さんが他の人のことを嫌っているように見えます」


 寛ははっとなって絲山遼子を見た。しかし、彼にはまっすぐ訴えかけてくる彼女の目を直視することができなかった。


「こっちが嫌いだから」寛は弁解した。「みんなから嫌われてるように感じるのか。あるいは、みんなから嫌われてるように感じるからこっちも嫌いになるのか。どちらが先か分からない。卵が先か鶏が先かの関係なんだ」


「としたら」絲山遼子は努めて理性的に言った。「好きになれば、好かれてると思えるようになるんじゃないでしょうか」


 寛には返す言葉がなかった。


 旅の二日目は、絲山遼子と口を聞くこともなく終わった。


 一行は京都駅で解散した。絲山遼子はこのあと和歌山の実家に立ち寄るということだった。他の学生たちもこのまま別のところへ旅行に行くなどする者がほとんどだった。


 寛は、またしても一人で、青春十八切符で、小田原まで帰った。

 


act.13

 一年は長すぎた。二年ともなれば、ほとんど永遠だった。


 寛は絲山遼子のことを忘れようと、延び延びになっていた卒論の完成に集中した。すでに書いてあった分も大幅に書き直し、さらに予定していたよりも倍近くの分量を書き足してそれは完成した。これほど何かに打ち込んだことは久しくなかった。


 夏休みがあけて最初のゼミで、寛は沼尾教授が数年ぶりに発表したという論文を目にすることになった。一読して愕然となった。教授の論文は、寛が昨年度にいったん未完成で提出していた論文から論旨やフレーズをいくつも借用していたのだ。


「どういうことですか」寛は、沼尾教授の研究室に乗り込むと怒りを滲ませて問いただした。


「なんだね」沼尾教授はしらばっくれて言った。


「これはぼくの論文だ」寛は論文が掲載された研究誌を机の上に叩きつけた。


「違うな」沼尾教授は顎を撫でさすりながら一考して言った。「これは私の論文だ」


「おれの卒論からパクりまくってる!」寛は思わず声を荒げた。


 彼は盗用された文章を蛍光ペンでマーキングしていた。まったく同じフレーズを用いているところだけでも、その数は三十以上に及んだ。段落ごとそっくりそのままコピーされている箇所もいくつかあった。


「そういうことを気安く言うもんじゃない」教授は眉一つ動かさずにぬけぬけと言った。「ところで、きみの新しい卒論に目を通させてもらったが、このままでは私の論文の盗用と考えざるをえないだろう。改稿して再提出してもらう必要がありそうだ。いっそ、別のテーマに変えた方がいいかもしれないな」


 寛は完成した論文をすでに提出していたのだった。一度ならず二度までも致命的なミスを犯していたことに、今更気がついた。


「あんたがおれの論文を盗んだんだ」寛は糾弾した。


「私の論文は完成し、発表されている。苦労の甲斐あって好評を博しているよ」教授は厚かましくも言った。


「きみの論文はそれよりあとに完成したものだ。発表もされていない。これをどう説明するかね。もっとも、優れた教師の教えがまだ論理的思考力のない学生に大きな影響を与え、似たようなことを考えるに至るという例はいくらでもあるが」


 何を言っても手遅れだった。汚い真似をする人間は用意周到にするのだ。寛は自分が敗北を運命づけられた男であることを改めて思い知った。シャドーボクシングでさえ負ける男、それが富田林寛だった。


「訴えてやる」寛は歯ぎしりしながら言った。


「つまらない真似はよしたまえ」教授は笑っていなした。


「富田林くん、私がきみの指導教授だ。きみの問題は私が処理する。私の権限でいかようにもできるのだよ。もし、それ相応の振る舞いをするなら、大学院に口をきいてやらないでもない。きみはまだ進路が決まっていない。違ったかね? 学問はいいものだよ。きみもやってみたらどうだ」


 寛は、最も握られたくない人物に己の運命を握られているのだった。絶望というより他なかった。


「それ相応の振る舞いとはなんだ」寛は言った。この薄汚い男は、あまりにもあからさまに不誠実な取引を要求しているように思われた。


「それ相応の振る舞いとは、それ相応の振る舞いだ」教授は答えた。


「まさか」寛は突如恐ろしい考えに襲われた。「二十二条か」


「二十二条?」沼尾教授は一瞬眉をひそめた。それから何か心得たような表情になって、薄気味悪い笑みを浮かべて言った。「もちろん二十二条だ」
寛は、またしても現れた正体不明で理解不能の学則を前に、どんな抵抗も無力と化してゆくのを感じた。


「あんたは自分のしていることが分かってない」寛は最後の力を振り絞って言った。


「私は何もしていないよ」教授はいつもの返答をよこした。


 寛はその足で学生課に向かった。


 対応した職員に事情を話すと、ふいに相手が「しかし、学則二十二条がありますので」と言葉を濁した。寛の顔からさっと血の気が引いた。どこに行っても二十二条が現れるのだった。彼はよろよろと後ずさるようにして逃げ出した。

 


act.14

「富田林くんだろ?」


 ある企業の面接の待合室で、寛は一人の就活生から声をかけられた。見覚えのある顔だった。


「大木だよ」男は言った。


 寛と小学校で同級だった大木(明治学院大学・国際学部四年)だった。


「こんなところで会うとはね。小学校卒業以来じゃないか? おれは一浪したんだけど、富田林くんは留年したんだって? 地元の友達から聞いたよ。同じ会社を受けるなんて偶然だね。おれなんか落ちまくりだよ。もうすぐ百社。不採用不採用不採用。どこ受けてもダメ。何がいけないんだと思う? 先輩とかに聞くと数撃ちゃ当たるって方法しかないって。でも百社だよ、百社。富田林くんはどうなの? きみが通ってるような大学だとやっぱり違うわけ? おれは明治学院なんだけど、時代がどうのって言ってもやっぱり大学名がでかいと思うんだよな。ていうか、結局それが決め手っていうか。ま、お互い正々堂々やろうよ」


 大木は一人で喋り続けた。彼がこんな男だったかどうか、小学校三、四年辺りまでしか付き合いのなかった寛には思い出せなかった。


 グループ面接で、寛は奇遇にも大木と同じグループに振り分けられた。内定まであと一息というところまで来ていた。


「この男はいじめっ子です!」


 大木が突然立ち上がって、寛を指さして高らかに宣言した。


「小学生のとき、ぼくをいじめました!」


 三人の面接官は眉をひそめ、それから手元にある二人の履歴書を見比べた。そこに同じ小学校名が記されていることは間違いなかった。


 寛はいきなりの展開にうろたえた。そう言われてみると、大木を木製の三十センチ物差しで叩いて泣かせた記憶がかすかにあった。しかし、一度きりだったはずだし、いじめというほどのものとは思えなかった。


 面接官たちは見定めるような目で寛を見ていた。そればかりか、他の就活生たちも同じような目で彼を見ていた。その途端、寛は自分が試されているのだと気がついた。


「ち、違います、違いますよ!」寛は顔の前でぶんぶん手を振りながら言った。


「何が違うんだね」面接官の一人が慇懃に言った。


「この男はいじめっ子です!」大木がよく通る声でもう一度訴えた。


 大木は過去のつらい記憶を思い出したかのように目を潤ませ、唇を噛みしめていた。正々堂々やろうと言った者が取る言動とは到底思えなかった。


「とにかく違うんです」寛は落ちつかなげに足をぱたぱた動かした。


「証明してみてくれませんか」別の面接官が言った。


「証明?」


 その場の全員が寛に注目した。彼は潔白を証明しなければならない立場に追い込まれた。しかし、いじめていないということを一体どうやったら証明できるのか、いくら考えてみても分からなかった。


「この男はいじめっ子であります!」大木が追い打ちをかけた。「私は明治学院大学、国際学部の大木と申します! 過去のいじめ体験にもめげず、御社で身を粉にして働きたいと考えております!」


 居合わせた者たちが拍手で称えた。寛はもはや挽回のしようがなかった。

 


act.15

 これでは去年の失敗の繰り返しだった。


 未だ就職が決まらず、卒論は白紙に戻り、そしてまたしても恋に破れたのだった。このままではどうにもならないと分かってはいたが、どうしたらいいか考えてみたところで何も思いつかなかった。


 富田林寛を歓迎してくれる場所はどこにもないということが、今や明らかとなった。もがけばもがくほど深みにはまる底なし沼に落ちたような気分だった。


「尾尻って、どうして学校やめたの」


 寛はふと気になって、若鶏の甘酢炒めの定食セットを盛り付けながら訊いた。


「くだらないから」尾尻は巧みなヘラ捌きで二枚の厚切りステーキを焼きながら言った。


「くだらない」寛はおうむ返しに言った。


「くだらねぇよ」


「そう思うか」寛ははっとなった。


「そう思うかとは何だよ」


「いや、おれも最近同じようなことを考えてたもんで」寛は思いがけないところで友を見つけたような気持ちだった。


「へぇ」尾尻は、しかし、小馬鹿にしたように笑った。「でも、お前はそんなことしない方がいいぞ」


「どうして」寛は不服そうに言った。


「お前は一人じゃ何もできないからさ」尾尻は声をあげて笑った。


「分かってるのか? 今までここに入ったバイトで、皿の洗い方さえろくに知らなかったのはお前だけだぞ。高校一年のバイトにさえ、お前は使えないお坊ちゃんだと思われてるんだ。最初なんか火の付け方さえ知らなかっただろうが」


 寛は思わず頬を赤らめた。それは本当のことだった。しかし、今では皿の洗い方も火の付け方もちゃんと分かっていた。青春十八切符を使って一人で京都に行くことだってできた。失恋したあとでも迷わず帰ってくることもできた。そんじょそこらのお坊ちゃんには、こんな真似はできまい。


「富田林! フロアの片付け行って!」


 寛の動きが悪いので、店長の高橋(駒澤大学・経営学部卒)は指示を出した。


 高橋は、昨年寛に対して「もしその気があるなら、うちで社員登用できないこともない」と話を持ちかけたところを、たいして考慮もされずに断られて以来、彼に冷たい態度を見せるようになっていた。そこにきて、寛が七月に無理やりシフトを代わって旅行に行ったのに土産の一つも買ってこなかったことから、その冷たさには拍車がかかっていた。


 ランチタイムの混雑はピークを迎えていた。会計が済んだテーブル席をあわてて片付けはじめた寛は、小鉢を取り落として割ってしまった。小さい食器だったが、割れる音だけは惜しげもなく大きかった。


「失礼いたしました!」


 寛は、客というよりもむしろスタッフに向けて言ったが、店長の苛立ちの視線が背中に突き刺さったのを感じないわけにはいかなかった。もうすぐ四十になる店長の高橋はまだ独身で、この五年というものは恋人さえいなかった。


 そこへフロア担当の女子高生バイトの柴田(私立相洋高校二年)が、状況をさらに悪化させる報告を持って厨房に戻ってきた。


「クレームつけられました」柴田は、自分のせいではないことで客に頭を下げなければならなかったときに裏でいつも見せる不快さに歪んだ顔で言った。やや舌足らずな喋り方をする女の子だった。機嫌がいいときには、その喋り方はとてもかわいらしかった。


「何?」店長の高橋は、相手が若い女の子だからといって少しの愛想を見せることもなく訊き返した。彼は柴田を見もしなかった。


「クリームつけられたって言ってます」柴田が、堂々とふて腐れて説明した。


「だから何」店長が、せかせかとご飯を盛りつけながら、再び彼女の方を見もしないで言った。


「クリームつけられたって」柴田は、洗浄機にがちゃがちゃと食器を突っ込みながら、うんざりして繰り返した。


「だから、何て」店長は語気を強めて問いただした。


 柴田の説明は店長には通じていなかった。彼女はクリームをつけられたというクレームをつけられたのだ。だが、飛び交う雑音と彼女の舌足らずな喋り方のせいで、高橋にはクレームとクリームを聞き分けることができなかったのである。


「クレームです」柴田は、もはや明らかな敵意を見せながら声を張った。


「だから、どんな!」店長もまた苛立ちをあらわにして声を荒げた。


 柴田の舌足らずで若者じみた平坦な発音にも問題がないわけではなかったし、店長の己の仕事に対するほとんど憎悪と言ってもいい感情ゆえのスタッフへの思いやりを欠いた態度にも問題がないわけではなかったが、厨房のあわただしさと店内の喧騒の中で、話は混乱の一途を辿った。


「クリームつけられたんですよ!」柴田は悲鳴をあげるように叫んだ。


「だからどんなクレームかって訊いてんだよ!」店長がフロアにも聞こえるほどの声で怒鳴り返した。彼は女子高生が嫌いだった。特に、学校の制服姿でないときの女子高生が大嫌いだった。


「クリームつけられたって!」柴田も負けてはいなかった。彼女の声は興奮で甲高くなり、ますます何を言ってるのか分からなくなった。


「何言ってんだよ!」店長はもどかしげに叫んだ。


「クレームだっつってんだろ!」柴田は育ちの悪さを丸出しにして言った。


「だからどういう内容なんだよ!」店長は怒鳴り返した。


「だから! クリーム!」傍で聞いている者にも、もはやクリームともクレームとも、どちらとも聞きたいように聞こえた。


「あぁもう!」店長は両手で宙を無茶苦茶にかき乱し、話にならないと投げ出した。


「デザート皿に残ってたやつ! 多分プリン・ア・ラ・モード!」柴田は少しも引き下がる様子を見せず、詳しい内容に踏み込んで言った。


 これを聞いた寛は、さっと血の気が引いた。身に覚えがあったのだ。先ほど食器を下げたとき、クリームの少し残ったデザート皿を乗せていたのだ。おまけに客とも接触していた。すれ違いざまにわずかにかすっただけだったが、そのときにクリームをつけてしまったに違いなかった。


「は?」店長は眉間に深いしわ作った。


「だから、そのクリームつけられたって客が怒ってんだよ!」柴田が金切り声を上げた。


「クリームつけられたのか!」店長はようやく事態を理解した。


「最初からそう言ってんだろうが!」


「いつ? どこに?」店長は今や怒りの矛先を変えつつあった。


「多分、富田林がさっき食器下げたとき! 客のスーツに!」寛は女子高生に呼び捨てにされた。


「スーーーーーーーツ!」店長の頭に「クリーニング代として一万円」という言葉が急浮上した。「とんだばやしーーーっっ!」店長は声の限りに叫んだ。


 寛は思わずフロアに逃げ出していた。


 ところが、彼は店の真ん中で突如呪いにかかったように立ちすくんでしまった。この世のものとは思えない恐ろしい光景が、彼を取り囲んでいたのだ。


 店内は彼の顔見知りで溢れかえっていた。


 寛の恥ずかしい過去を知っている小学校の同級生がいた。中学校の部活で先輩だった意地の悪い男がいた。理不尽に叱られてから一度も口をきいていなかった数学の教師がいた。近所に住む不良姉妹がいた。この姉妹は、その昔田んぼの真ん中で寛の服を無理やり脱がせて裸にしたことがあった。所属していたリトルリーグのコーチがいた。このコーチはどんな負け試合であろうと決して寛を起用しようとしなかった。昔ちょっと好きだったファーストフード店の店員が恋人らしき男と来ていた。勉強が忙しいとウソをついて一月足らずでバイトをやめた雑貨屋のオーナーがいた。飯田成美もまた恋人らしい男と来ていた。親戚の伯父夫婦までいた。


 いずれも寛が会いたくない人々だった。全員が彼を指さし、腹を抱えてその失敗を笑っていた。まるで地獄だった。寛の視界がぐるぐると回った。とどめに、店内の有線で「ゴッドファーザー 愛のテーマ」が流れ出した。


 寛は、突然下腹部に刺すような鋭い痛みを感じた。このような事態に陥って、彼はどう振る舞うべきか分かっていた。


 寛は気を失って、その場に倒れた。

 


act.16

「こいつは仮病を使っとるだけです」


 偶然ファミレスに居合わせた兄夫婦から連絡を受けた富田林茂と素子の夫婦は、あわてて病院に駆けつけた。しかし、息子のどこにも外傷がないことを見てとると、この父親は医者に食ってかかったのだった。


「急性虫垂炎かと思いましたが、そうではないようです」医者は所見を告げた。寛は救急車で運び込まれたのだった。今回もまた小田原市立病院だった。


「だから仮病だと言ってる」父親は言い張った。


「おそらくストレスや過労から来るものでしょう」


「過労!」茂は叫んだ。「働いてもいないのに!」


 寛には、父親が自分に恥をかかせるためにわざと大声を出しているとしか思えなかった。時代錯誤なこの父親にとって、アルバイト労働など仕事のうちに入らないのだった。


「それにストレスときた!」この暴君は、常日頃から精神という掴みどころがないものの存在を認めようとしなかった。「こいつは甘ったれとるだけですわい!」


 寛は、慣れ親しんだ虚無感が今また霧のように立ち込め、自分をすっぽり包み込むのを感じた。


 無抵抗主義者と化した彼は、父親によってされるがままにベッドから引きずり出されそうになったが、医者と看護師がなんとか食い止めてくれた。両親があきらめて帰っていくと、寛は脇腹の痛みがいくらか和らぐのを感じた。


「あの教授がそういうことをしかねない人間であることは確かだ」


 見舞いに訪れた世良は言った。ケンブリッジ大学で開かれていた学会からカイロ大学で開かれる学会への移動中に、回り道をして小田原の病院に立ち寄ったのだ。


「しかし、そんなことはしないと思う」世良は公平を期すかのように付け足した。


「今お前が言ったことを合わせて考えると、わけがわからなくなる」寛は気だるげにまばたきをしながら言った。


「彼自身はなんて言ってる?」


「私は、何もしていない」寛は教授の言い草を思い出して憂鬱になった。


「やはりな」


「でも、したんだ」


「あるいはそうかもしれない。でも、してないんだ。あの教授は次期学部長になるという噂だ」


「何?」


「まぁ、すぐにおれがその座を奪うことになるわけだが」


「論文のことはもういい」


 寛は賢明にもその話題に深入りすることを避けた。この一件もストレスの大きな原因になっていたため、無理に考えたくなかったのだ。


「それより、おれには考えていることが……」寛は身体を起こしながら言った。


「ぬあっはっはっはっはーっ!」


 そのとき、病棟の彼方から低くてよく響く、まるで黄金バットのような笑い声が聞こえてきた。


「おれは世界最軽量のブリーフケースを作ることになるだろう」常盤が喋りながら現れた。


「本当のところ、こいつはブリーフケースじゃない。ロボットなんだ。必要が生じたらボタン一つで変形し、主人であるサラリーマンと合体してスーパーロボリーマンに変身だ。会話機能も搭載して商談のパートナーになれるようにしたい。世界中のありとあらゆる言語に対応できるものになるだろう。世良、その辺のことでちょっと協力しろよ。ところで、おれは今ハンスト中で忙しい。だがこいつがうまくいけば、おれが作った法案が議会に通る可能性が高い。都内の地下鉄をすべて高架にするという法律だ。実現したらすごいことになるぜ。おれは地面の下が好きじゃないんだ。モグラみたいな気分になるからな。はっはっは。富田林、元気そうで何よりだ。それじゃあまたな。安達と岸和田にもよろしく言ってくれ」


 常盤は来たときと同じように笑いながら去っていった。


 安達と岸和田はすでに見舞いに来て帰っていた。二人は、安達の所有する瀬戸内海の島から女の子同伴でヘリコプターでやって来て、帰るときにはまた別の女の子を連れて帰っていったのだった。


「それでだな」寛は切り出しかけていた話を続けた。


「おれは大学をやめようと思う」


 寛は言ってしまうと心が楽になるのを感じた。


「どういう意味だ、大学をやめるというのは」世良の顔に当惑が浮かんだ。


「やめる。退学するんだよ」


「そんなことはできないぞ。二十二条を忘れたのか」


「二十二条」寛は険しい目つきで中空を見据えて言った。「それが一体何なのか、誰もはっきりと知らない。調べてみたんだ。だが、学則二十二条なんてものはどこにも書かれていなかった。それは存在しないんじゃないか?」


「するさ」世良は顔を強張らせた。「誰でも知ってる。知ってるからこそ我々なんだ」


「その我々もだ!」寛は叫んだ。「おれにはそれも分からない。我々とは何なんだ?」


「富田林、質問が間違っている。我々がまさしく我々である限り、我々のことを客観的に定義することはできない。我々は我々の外にはいない。我々はその中にいるんだ」


「世良、お前はうまくやってるのか。そこで。その中で」


「おそらくそういうことになるだろう」


「そうするとどうなる? その中でうまくやり続けるとどうなるんだ?」寛はその先を知りたくてたまらなかった。


「どうなる? ただうまくやり続けるだけさ」


「どうにもならないのか?」


「どうもこうもない。やれるだけやり続ける。それだけだ」


「我々とは、宇宙人か何かなのか?」寛は半ば真剣な気持ちで訊ねた。


「そんなことを訊いてはならない」世良もまた真剣な気持ちで答えた。


「とにかく、おれはどんな我々の一員でもない。おれの方から御免蒙るよ」


「そんなことは不可能だ」


「やってみるさ。おれはおれの道を行くことにする」


「どの道?」今度は世良が寛を質問攻めにする番だった。


「おれの」


「どんな?」


「分からん」


「そいつはよした方がいい」


「でも、それしかなさそうだ」


「よく調べてみたのか」


「調べるも何も、おれにはこれしかない」


「その道にはどんな保証がある?」


「分からん」


「その道を進むとどこに出る?」


「分からん」


「おれの知ってる限りじゃ、どんなギャンブルにだって攻略法はある。絶対にだ」


「おれの道にはないんだ」


「そんなまさか」論文が三万部売れても動じなかった男が、心底驚いた様子で言った。


「そのまさかだよ」


「お前、死ぬ気か」


「そんなひどいことにはならないと思う」


 実のところ、寛が学校をやめると言い出したのは、これが初めてではなかった。はるか昔、まだ小学一年生のときに彼は宣言したことがあった。


「学校に行きたくない」


 両親の返答は、この時点からすでに華麗なる論理のすり替えを特徴としていた。


「大学に行くのが当たり前」


 寛は小学校のすべての学年において、中学校のすべての学年において、高校のすべての学年において、同じ要望を言ったのだった。しかし、そのたびに同じ返答によって希望を打ち砕かれていた。


 大学にはもう行った。そこには何もなかった。小中高大、十六年間の学校教育。何もなし。十六年もの長い間、冤罪で牢獄に放り込まれていたようなものだった。これよりひどい話があるなら聞きたいくらいだった。


 寛は、自分が何をしたいのか、今ようやく理解したのだった。


 自分をだまして生きることはできなかった。それが問題の核心だった。


 この八方塞がりの状況にけりをつけ、一人になって最初からやり直すこと。それこそ彼に必要なことだった。

 



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