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詩の成り立ち

 童謡「赤とんぼ」あれこれ

2015/10/3

福嶋朝治

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秋が深まり澄んだ青空に赤とんぼが飛び交う頃、決まって歌われる童謡の一つに「赤とんぼ」があります。詩人三木露風が作詩し、山田耕筰が作曲しました。本稿では主にこの童謡の詩の成り立ち、内容、歌われてきた歴史などについて述べてみようと思います。

この詩が最初に発表されたのは、雑誌『樫の実』大108月号です。このころ露風は北海道函館のトラピスト修道院に国語の教師として赴任していました。その教師館の庭先の物干し竿に止まっている赤とんぼを窓から見つめているうちに詩想が湧きました。北国の秋は早いので、7月の末ともなれば赤とんぼも目にすることができたのでしょう。ある研究者は前年の秋に着想したものを推敲して、発表したと説いていますが、これは論拠がありません。露風自身が10年に制作したと述べていますから、これに従うべきでしょう。

ただし、露風は前年9月から10月にかけて重病の父を看護するために久しぶりに帰郷しているので、懐旧の念を強く抱いたことは想像に難くありません。そんな事情もこの詩の成立に影響したかもしれません。

露風が童謡を書くようになったのは、大正7年夏ころからで、鈴木三重吉の『赤い鳥』に寄稿したのがきっかけです。その後童謡が隆盛を極めるのに追随して、露風も多くの作品を発表しています。しかしながら、今日露風の童謡作家としての評価はあまり高くありません。

先月まで高崎市の土屋文明記念文学館で開催されていた『三大童謡詩人展』でも、北原白秋、西条八十、野口雨情の詩業が紹介されていて、露風の名はありませんでした。この点については後ほど触れるとして、こうした扱いの中においてなぜか「赤とんぼ」だけは別格に国民に愛されているのは、奇妙な現象です。

 発表当初は表題が「赤蜻蛉」と漢字表記で、内容も今日歌われている歌詞とは異なり次のようなものでした。

 

夕焼、小焼の 

山の空、

負はれて見たのは、 

まぼろしか。

 

山の畑の、

桑の実を、

小籠に摘んだは、

いつの日か。

 

十五で、ねえやは

嫁に行き、

お里のたよりも、

絶え果てた。

 

夕やけ、こやけの、

赤とんぼ、

とまってゐるよ、

竿の先。   

 


詩の内容

第2回

 今回は詩の内容について原詩と現行詩を対比しながら検討を加えていきます。

同じ年の11月、童謡集『真珠島』を露風は刊行します。そこに収録する際、彼は1連、2連を次のように書き換えています。

 

 夕焼、小焼の

 あかとんぼ

負はれて見たのは、 

いつの日か。

 

山の畑の、

桑の実を、

小籠に摘んだは、

まぼろしか。

 

 多少の表記のちがいはあるもののこれが現在流布している童謡「赤とんぼ」の歌詞とみなしていいでしょう。原詩の「山の空」が「あかとんぼ」と変えられ、「まぼろしか」と「いつの日か」が入れ替わっています。1連から順に内容を吟味していきましょう。「夕焼、小焼の」「山の空」のほうが、「夕焼、小焼の」「あかとんぼ」よりも意味が通っています。山の空が夕焼している情景をそのまま詩にしていますが、後者では赤とんぼが夕焼けしているように読み取られる惧れがあります。夕焼け空に飛びかう赤とんぼという意味でしょうが、それを「の」1字で間に合わせたわけです。

次に問題になるのは、「負はれて」です。「追われて」ではありません。トンボとりの幼児体験から「追われて」と誤解する人もいて、入試問題で「お」を漢字で書きなさいという問いが出されたことがあります。もちろんここは背負われての意味ですね。

ところで背負っている人は誰でしょう。これも幼児体験で短絡的に母親を連想してしまいがちです。しかしそれは間違いで、第3連に登場する「ねえや」です。露風の幼少時には子守娘を近在の農家から雇っていました。哲学者の和辻哲郎は露風の出身の龍野に近い姫路近郊の医者の息子でしたが、彼の自伝を読むと同じように子守娘に育てられたことが記されています。さらに屋敷のそばに桑を栽培していたことも書いています。露風の家は藩の家老でしたから、ともに名家の家柄であったといえましょう。第2連はそうした思い出が描かれています。

第3連にいたって急に「ねえや」のことが歌われます。漢詩の作法でいえば起、承に次ぐ転句に相当します。当時としては10歳で奉公に出て14歳まで勤め、里に戻り15,6歳で嫁に行くというのが習わしであった。そのねえやに対する追慕の念が歌われているのです。

第4連は結句です。「止まってゐる」と現在形になっています。眼前の景がはからずも幼少時の記憶を呼び戻したのです。作詩の動機はここにあります。起句の赤とんぼと結句の赤とんぼが呼応しています。これが原詩のように山の空ではこの響き合いは生まれません。改作が成功した例です。

露風は後に日記の中で「凝視するところが、あると共に、歌ひ上げる心が、作をする時にあった」と作詩の時の心境を語っています。「歌ひあげる」というのは、第3連まで、一連ごとにねえやの追憶を昂ぶらせていることを指し、「凝視する」とは、竿の先に止まっている赤とんぼをじっと見つめていることを意味していると思います。凝視する心が子守娘への追憶を引き起こしたわけです。

 


うたわれてきた歴史

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 今回は、歌曲の面から「赤とんぼ」を考えてみます。

「赤とんぼ」の作曲者は、よく知られているように山田耕筰である。山田は露風と親しく、露風が主宰する詩の結社『未来社』の同人でした。大正32月、山田がドイツ留学から戻ると、築地精養軒で帰朝記念のコンサートを催しています。山田は留学時代から露風の詩の作曲を手掛けていましたが、「赤とんぼ」の作曲はずっと遅く昭和2年でした。今でこそ山田の代表的名作歌曲の一つとして、世代を問わず好んで歌われるほど有名な国民歌謡の座を占めていますが、戦前はあまりポプユラ―な歌ではなかったようです。当時の人気少年歌手をはじめ何人かのレコードに収められましたが特別注目されませんでした。

 もともと山田は子供が歌うことを目的にして童謡に曲を付けませんでした。彼は作曲するにあたって遊戯的童謡と芸術的童謡を峻別しました。その結果、有名な北原白秋の「待ちぼうけ」のように子供が歌うのは難しく、むしろ声楽家がリサイタルで歌うような曲が多く作られました。「赤とんぼ」も例外ではありません。戦前は女学校の生徒などによって歌われていました。「おねえさんが歌っている歌」だったわけです。

 ところが戦後になって小学校の音楽の国定教科書に採用されるようになって、次第に国民の間に浸透していきました。それに拍車をかけたのが各地に結成された青年たちのサークル活動でした。手元にある青年歌集、学生歌集、キャンプ歌集などをひも解いてみると、どれも欠かさずに掲載しています。

 さらに昭和30年代に入ると、30年制作の映画『ここに泉あり』で歌う子供たちの合唱が、観る者の心を強くひきつけました。また、翌年の砂川闘争では、反対派の地元民、農民、支援の学生や労働者が自然発生的に歌い出し、やがて大合唱になったと新聞で大きく報じられました。対立する警官隊の中にも唱和する者がいたとも伝えています。「闘争の大詰めの場面で誰が音頭を取った訳でもないのに、『夕やけこやけの赤とんぼ』が始まって、おまわりさんの方も、ボロボロボロボロ涙を流した」と岩垂寿喜男はその時の情景を記しています。(砂川事件50年 それぞれの思い。けやき出版)。

 詩人の小野十三郎は、「夕やけこやけの赤とんぼ」というエッセイの中で、砂川闘争の場で「赤とんぼ」が歌われた理由について、「もしわれわれの心情のどこかにそれを郷愁と言ってもよい、失なわれた『ふるさと』を再発見しようとする願いのようなものがひそんでいるとすると、その願いは、われわれが幼少時に育った環境の想い出などよりも、いまの生活の場において、こうしたい、こうもありたいという極めて現実的な願いをたくせる要素のごときものが」、「赤とんぼ」には秘められているからだといううがった見解を述べています。

 そういえば童謡「ふるさと」についても、地震や津波や原発によって壊滅的な打撃を受けたふるさとを嘆き悲しむという心情以上に、「前向きの姿勢で逆用し」、「異常な状況に置かれた人間の、あきらかに、現実社会と自己とのかかわりから生まれる、複雑な願望や想念を、ぎりぎりのところで歌いあげ」ているのだといえるかもしれません。

 今日、「赤とんぼ」は国外でも広く歌われています。露風の晩年の日記をみると、随所に外国から印税が入ったので郵便局に出かけたという記事があります。その印税の大半は「赤とんぼ」によるものではなかったかと推測されます。

 

 


この本の内容は以上です。


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