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早朝

 その黒い中折れ帽は、日当たりのいいベンチの上で初春の朝日を浴びていた。肌寒い空気の中、柔らかく日光を受け止める姿は、日なたぼっこを楽しんでいるように見えた。ベンチの背後の桜の木は、その蕾を枝先からそっと開き始めていた。時折、冬の名残の風が公園を吹き渡るのだが、花弁を離れ落ちる花びらは、まだ、一枚もなかった。中折れ帽がこんな場所にいるのは、早朝に起きた小さな出来事のせいである。

 

「お早うさんでござります」
 いつも公園の前の歩道を掃除するおばあちゃんは、お辞儀とともに、行き交う人々にそんな挨拶をする。若い頃の言葉遣いが抜けきらず、歳とともに蘇っていた。聞き慣れない言い回しやアクセントに戸惑う通行人も、おばあちゃんの純朴な人柄がにじむ笑顔に癒されるように、素直な会釈で挨拶を返していた。
「お早う、お婆ちゃん」
「いつも、ありがとう」
 二人の少女が通りかかって、掃除の感謝の挨拶をした。おばあちゃんはこの二人の名は知らない。ただ、この春から中学生になったことを知っているという顔見知りである。
「私にできるのは、これぐらいやからねぇ」
 生きているうちは少しでも人様のお役に立ちたいというのである。おばあちゃんは立ち去ってゆく二人の少女の背のリュックを眺めた。いつもの真新しい学生鞄ではない。手にしたカメラは休日の校外学習の記録に使うつもりだろうか。おばあちゃんは通行人の少なさを思い起こした。土曜日だった。最近少し惚けたのか、お婆ちゃんは曜日が分からなくなることがある。
 自分の衰えに苦笑いしながら、おばあちゃんはふと気づいてしゃがみ込んだ。公園を囲む夾竹桃の側の地面に、幾株かの野草が小さな紫の花を咲かせてたのである。ホトケノザという名を知らなくても、毎年、この季節、この辺りで見かける花だという記憶があった。
「今年もちゃんと咲いたんやねぇ」
 懐かしい者に巡り会ったようで微笑ましい。そんな笑顔を浮かべたときである。ホトケノザの傍ら、夾竹桃が広げた根を地面に露出させたその上。おばあちゃんは年季の入った中折れ帽が居るのを見つけた。
 目の前にかざしてみると、帽子の主のイメージがいくつも浮かんでは消えが、そのどの個性もこの帽子と良く合う。その中折れ帽自身もまた、新品の帽子にない一個の人格でも持っているようだった。おばあちゃんは周囲を見回したが、人通りも少ない週末の光景の中に、帽子の持ち主を見つけることはできなかった。
 おばあちゃんは天を仰いで、少し考えて、決めた。この帽子は誰かが風に飛ばされたものだ。帽子は道路を行き交う人から影になったこんな場所に転がり込んだ。持ち主はそんな帽子を見つけることができなかったに違いない。そして、周囲を見回して、日当たりの良いベンチに決めた。あそこなら、帽子の所有者もすぐに愛用の帽子と再会できるだろう。おばあちゃんは帽子の土埃を払って立ち上がり、丁寧に形を整えてベンチの真ん中に置いた。
「ちゃんと見つけてもらうんやで」
 おばあちゃんは箒を手に、足早に立ち去った。
(早く帰ってやらねば)
 家では愛犬が腹を空かせて待っているはずだった。


公園を包む朝

 入れ替わりに、一人の少年が姿を見せ、携帯電話を眺めた。少年が確認したのは時間だろうか。周囲の誰かを探す様子や、空を仰ぐ様子から、待ち合わせの時間には、だいぶ間があるらしいのである。
「何やのん、お兄ちゃん」
 別の方向から駆けてきた少女が、少年にかけた声で、兄と妹という二人の関係が知れる。互いに記憶する面影を、今の二人は互いの姿の中に見いだした。以前会ったのは三年前になる。幼さが残る少年と少女は互いにイメージを変えていた。
「ホンマ、大きなったな。写真だけやったら分かれへんかったわ」
「お兄ちゃんもやん。背ぇの高さがお母ちゃんと変われへんわ」
 家族の成長を見守る会話だが、幼さが残る二人の姿をみれば、思春期の子供が持つ多少の背伸びした微笑ましさが加わる。
 少年は少女をベンチまで導くように手を引いて来た。周囲を見回したが、邪魔になる帽子の持ち主らしき人物を見つけることはできなかった。捨てられた物だと勝手に決めて、帽子を雑巾代わりにベンチの真ん中をごしごし念入りに拭いて、少女に座れと指示をし、帽子はベンチの右に放り投げるようにおいた。
 少女は兄の顔を見ようとはせず、傍に視線を落として、帽子をもてあそびながら尋ねた。
「それで、用って何?」 
「あのな。俺ら北海道に行くねん」
「父ちゃんに、新しい女でもできたんか」
「お母ちゃんが、そんなこと言うてるんか?」
「まさか。お母ちゃんは、いつも言うてる。お父ちゃんはええ人やったけどって。勘ぐってるのは私や」
「お父ちゃんを馬鹿にしなや。あれは真面目なもんや」
「お酒を飲めへんかったらの話やろ」
「お父ちゃんのこと嫌いになったんか?」
 兄の言葉に妹は無言で否定の意図を返した。背伸びをするような幼さが残る会話は、表現が未熟で、発した言葉に滲む心が互いにすれ違う。ただ、未熟さから生じる隙間から、この兄と妹が父母を理解しようと努める直向きさや、家族に向ける愛情が漏れ出していた。
 兄は言葉を継いだ。
「父ちゃんの仕事や」
「ホンマに、うちらを捨ててしまうん?」
「養育費は今まで通りに送るて言うてたわ」
「うちの養育費やて?」
「養育費があるから、実入りの良い仕事につきたいんやで、きっと」
「そんな問題ちゃうやん。会われへんようになるん?」
「携帯もメールもあるやん。昔ながらの手紙かてあるで」
「そやけど、お母ちゃん、私がお父ちゃんから直接電話を受けたって聞いたら悲しそうな顔すんねん」
「お父ちゃんはな、俺が一人でお母ちゃんと会たら、機嫌悪なるで」
 二人は、現象としての母や父の感情の変化に気づいていた。そして、人としての未熟さを自覚しつつも、母や父に変化をもたらす原因が、手元に残された子供を奪われる恐れや悲しさだろうと考えてもいた。
 口ごもる兄に、妹は考えながら、やや長い返事を返した。
「どうしても行くのん? お母ちゃんはな、お兄ちゃんの顔が見たいんや。それが分かれへんの?」
「そやけど、行かなあかんねん」
「ひょっとして、お母ちゃんのこと嫌いか?」
「生活能力、あれへんやん。お前に苦しい生活させてるんやろ」
 養育費や生活能力。父や母の口から漏れだして知っている言葉を、この兄と妹が正しく理解しているかどうかは疑わしい。しかし、兄が発した言葉に、妹は鋭く反応し帽子を取り上げたかと思うと、尻をずらしてベンチの端に移動し、手にした帽子を兄との間に叩きつけるように置いた。帽子は酷く潰れて二人を遮る防波堤になった。
「そんなん言うお兄ちゃんは嫌いや」
 そう言う妹を兄が眺めた。
「そやけど、シングルマザーを雇う会社はあれへんで」
「お父ちゃんも、お兄ちゃんも、そんな心配せんでええわ」
「生活は苦しいまんまやろ」
「母ちゃんはな、日本一のシングルマザーやで」
 少女はそう言うと立ち上がって駆け去った。
「ちょっと待ちいな」
 少年は叫ぶように言葉をかけたが、少女は振り返ることはなかった。少年はやや迷うように、潰れた帽子を眺め、それを手にした。やや間をおいて、それが決意の象徴だったように、潰れた帽子を元に戻してベンチに置いたかと思うと、町の角に姿を消していた少女を追って駆けていった。
「問題は、家族で居られるかどうかやで」
 少年のそんな呟きの後、帽子はひとりぼっちで取り残されていた。


静かな昼

 太陽は、朝の透き通った輝きに、昼の陽気な暖かさを加えて帽子を照らし始めた。
 作業着やヘルメットから判断するに、近くの工事現場の交通整理の作業員のようだが、正確な身分は判然としない。昼休みの時間に、近所で買った菓子パンと牛乳で昼食を取る白髪交じりの男の姿である。休憩を締めくくる儀式のように、パンの包装紙と空の牛乳パックをコンビニの袋にしまった。力なく立ち去ろうとした男の背後で、古びた自転車が軋んでたてるブレーキの音と、女の声が響いた。
「忘れ物ですよ」
 振り返ると、歳の頃は二十代半ばの女である。男は唐突に差し出された帽子を受け取って、女が自分を引き留めた理由を察した。ただ、その視線は帽子ではなく、誰かの面影を探るように、女を顔立ちに向けられていた。男は視線を転じて帽子をベンチに置いた。
「これは、ここにあったんですわ」
 女も自分の勘違い察して笑い、軽率さを認めて話題を転じた。
「お昼ご飯してはったんですか? 私もいつもここで」
 女は自転車をベンチの傍らに止めた。前籠に入ったチラシの束が重そうにハンドルを軋ませた。男は立ち去ろうという気を変えて、女と帽子の間を割って座った。男は唐突に話し始めた。
「娘が結婚する予定やったんですわ」
 女は男との年齢差を考えた。自分の父親のような年齢の男である。いまの男は女の顔に、娘を思い浮かべているに違いなかった。男は娘の結婚という幸せを予感させる言葉に、後悔をにじませていた。女は優しい口調でその理由を尋ねた。
「何か、あったんですか?」
「私なぁ、金で不始末をしでかして、刑務所に入っとったんです」
「そんな……」
「娘の入院費用が欲しくて、業務上横領っちゅうやつですわ」
 女はもう一つ理由を察した。相談する人間が誰もいない孤独感。男は見ず知らずの人間の方が、言葉をはき出しやすかったのだろう。ただ、他人の心に踏み込んでしまった罪悪感も感じて、女は視線を転じて帽子を眺めた。男は帽子を握りしめ、言葉を絞り出した。
「こんな父親のことが、相手の親にばれて、娘の婚約は解消です」
 女はその言葉に耳を傾けながらも、雑巾を扱うように堅く絞られた帽子に同情した。もはや、原形はとどめていない。
「娘は、もう、二度と顔を合わせたくないと。最後には、怒った顔がホンマに悲しそうな顔になりましてなぁ。娘は私のことを殺したいほど憎んでますわ」
 殺したいほど。女はそんな言葉に反応して、男の表情を眺めた。ぎゅっと顰めた眉や、固く結んだ口元、宙を仰ぐ視線に、後悔と悲しみが溢れるようだった。女はその表情に父の記憶をたどった。
 女は少し考える間をおくように、自転車の籠に入れていたヨーグルトのパックを差し出した。女の昼食代わりになる物だろう。男がそれを察して断るように手を振ると、女はヨーグルトを一息で飲み干して、無表情で言った。
「私……、父親を殺したいと考えてましたよ」
 女は恐ろしい意味を語り、笑顔を浮かべて言葉を継いだ。
「若年性痴呆症って、知ったはります?」
「お父さんが?」
「私は勤め先を辞めて、父の介護三昧。でも、我が儘一杯の父に振り回されて、夫婦仲もめちゃくちゃ。夫は出て行きました」
 女が語る経験に、男も帽子を忘れて、それを握る力を解き、女の話の続きに耳を傾けた。
「この男が、私の人生をめちゃくちゃにしたのかと思うと……。その父が先日の事故で亡くなりました。ほっとしたんです、私」
 男の表情に共感が浮かび、女を支える手を空けようとするように、帽子をベンチに置いた。女は言葉を続けている。
「でも、時間がたって見ると、思い出すのは子供の頃のことばかり。優しい父でした……」
 女の言葉が途切れた瞬間、男は自分自身を振り返った。
「なんでやろな。俺、見ず知らずのあんたに、こんな話をして……」
 女は話題を男に転じて笑顔を浮かべた。
「きっとねぇ、うまくいきますよ。きっと、娘さんとの仲も元に戻りますよ」
 その言葉が意味するものの象徴のように、女は男の膝越しに腕を伸ばして帽子をつかみ、しわくちゃになった帽子を丁寧に元の形に整えた。
「そうかな」
「きっと」
 早くチラシを配り終えねばならない。チラシ配りを終われば早めの夕食を取って、夕方からはスーパーのパートの仕事である。女はベンチに帽子を置いて立ち上がり、会釈とともに男に別れの手を振った。
「こんな俺でも、生きててええんかな」
 漏れ聞こえた男の呟きを背にして、女は走り去り、男も帽子を一瞥すると、どこかに姿を消した。帽子はまた一人で取り残された。


穏やかな夕刻

 いつの間にやら赤く変わった太陽が、ベンチの上の帽子の陰も長くした。たっぷりとため込んだ暖かさを発散させる時間だが、運悪く、帽子は泣きながら駆けてきた少女の目の前に位置した。
「お母さんなんか、大嫌い」
 少女はベンチの上にあった中折れ帽を、力一杯地面に叩きつけた。ただ、その後から吐き出される憎悪の言葉は無く、少女は桜の木を背に、ベンチに座って黙りこくった。
 ふと気づいて周囲を見回したが、人の気配は絶えて独りぼっち。少女は話し相手もなく、足下で潰れた帽子に語りかけた。
「あのなぁ、お母さんが私を騙してんで」
 少女は手の甲で涙をぬぐい、悔しそうに言葉を続けた。
「明日、隣の七恵ちゃんと、お花見に行くはずやってん」
 少女が住むこの町は、自然豊かな地域である。公園前のバス停から、十分ほどバスに乗ると、数キロの長さにも渡って続く桜の並木道があった。今年もその早咲きの桜並木が見事に薄紅色に染まり始めて、一週間になる。お花見に行った同級生たちが、家族との楽しい話を少女に聞かせていた。明日は自分の番、少女はそう期待していたのである。
「家に帰ったら、お弁当が私の分しかあれへんねん」
 少女は帽子を眺めて言葉を継いだ。
「どうしてってきいたら、明日、お母ちゃんは急に仕事になったんやて」
 少女は返事でも促すように、つま先で帽子をつついて言葉を続けた。
「お弁当は作ったから、七恵ちゃんのお母さんに連れて行ってもらい。そんなこというねん」
 少女は同意を求めるように帽子に言った。
「お母さんは嘘つきやろ」
 その言葉から一瞬間をおいた。少女は怒りの表情にやや後悔の色を浮かべて話し続けた。
「分かってるねん。私も分かってるねんで」
 帽子に向けて母に対する暴言を吐き続けた。しかし、少女はこの帽子に分かってもらいたいこともある。
「お母ちゃんかて、私を育ててくれるのに一生懸命やねん」
 地面で潰れた帽子に、少女は言いわけでもするように怒りと暴言の理由を口にした。
「そやから、私かて、明日、お母さんに優しくしてあげようって思ててん……」
 少女は落ち着きを取り戻したらしい。地面に投げ捨てた相談相手を拾って土を払った。
「ごめんな」
 少女が帽子に詫びた瞬間、その言葉が母親の姿と重なった。酷い言葉で母親を悲しませたこと、あやまらなければ。しかし、ふくらんだ期待が裏切られた悔しさや、悲しさで、少女は母親に与える言葉を飲み込んだ。
 いったい、どれほどの時が経ただろう。今朝方から帽子の脇を通りかかった人々にとって、長く、短い。日が暮れかけた公園には、誰かの姿を捜すように、ずっと周囲を伺い続けている少女以外に、誰もいなかった。公園の真ん中のベンチで、少女は一人ぼっち。帽子相手に不満を吐き出した少女の表情から怒りが消えていた。
「私のこと、お母さんは、ちっとも分かってへんねん」
 帽子に語り続けた少女だが、もちろん帽子の返事はない。少女の傍で静かに存在し続けるだけ。やがて少女は帽子から何かの気配を察するように、帽子を睨んで言った。
「嫌やで、私、帰れへんから」
 少女は帽子を避けて立ち上がった。それでも、行く当てもなく、少女は帽子に背を向けるように、桜の木を挟んで配置されているもう一つのベンチへ移動した。


老犬の頭で揺れる帽子

 日はいよいよ傾いて、ベンチの背後の桜に長い陰を作った。肌寒さを感じさせる風が、公園に吹き込んで舞った。その中で日を浴び続けていた帽子だけが、変わらないぬくもりを感じさせていた。
「あんた。未だ、ここにおったんかいな」
 帽子にそう声をかけたのは、今朝方、このベンチに帽子を置いたおばあちゃんである。歳を経た秋田犬が、おばあちゃんを気遣うように傍らにいた。犬の散歩といえば、誤解を招く表現になる。この老犬は熟練したヘルパーのように、立ち止まっては振り返って、体調を気遣いながら、おばあちゃんをここまで連れて来た。
 おばあちゃんにとって、夫が亡くなる直前に飼い始めた犬で、その歳も数えてみれば、もう十七年の長さになる。秋田犬は、やや疲れを見せたおばあちゃんを、ベンチまで導き、座れと提案するように、自分はベンチの傍らに寝そべって動きを止めたのだった。
「あんたも、独りぼっちで、引き取り手ぇ、あれへんのか?」
 おばあちゃんは愛犬の提案に従ってベンチに腰を下ろしつつ、帽子にそんな言葉をかけた。やや黙ってから、言葉を継ぐ代わりに、腰のポケットから取り出した封書に入っていた写真を取り出した。
 家に帰ってこいと誘うお婆ちゃんに、息子夫婦が柔らかな拒否として送ってきた写真である。写真に写る家族の幸せな笑顔から判別すれば、息子夫婦は仕事場の近くに根を張っているらしい。息子夫婦は一人暮らしのおばあちゃんを家に引き取るともいう。しかし、おばあちゃんは夫と共に長く住んだこの土地を離れる決心はつかない。このまま一人だけ。おばあちゃんは心の底からはき出すようにつぶやいた。
「何やってもうまくいけへんことがあるしなぁ」
 この時、陽気な足音と共に、おばあちゃんに聞き覚えのある声が聞こえた。
「おばあちゃん、ただいま」
 今朝、話を交わした二人の少女である。二人の少女は、ただいまという言葉で、校外学習から帰ってきたと語っているのだが、おばあちゃんにはこの場所が、大勢の家族が集う家のようにも思えた。少女の一人が犬の頭を撫でた。
「この犬、おばあちゃんの犬?」
「ケンタっていうんや」
「ケンタ君かぁ。私は育子、こっちは秀美ちゃんや」
 愛犬に自己紹介する少女に、おばあちゃんは初めてこの二人の名を知ったのである。秀美は思いついたようにベンチの中折れ帽を手にして、ケンタの頭にかぶせた。帽子を少しづつずらしてみて、最善の位置を見つけて微笑んだ。
「ケンタ。帽子がよぉ似合うやんか」
 秀美が言うとおり、年季が入った中折れ帽は、この老犬の風格によく似合った。ケンタもおとなしい犬で、載せてもらった帽子をいやがりもせず、寝そべったままお礼の意味で、柔らかく尾を振った。
「記念写真、撮ったげるわ」
 秀美が手を振って、お婆ちゃんにケンタにもう少し寄り添えと指示をし、育子がカメラを構えて、寄り添うおばあちゃんと秋田犬、帽子をかぶったケンタのアップ、シャッターを二回押した。
「じゃあ、月曜の朝にこの写真を印刷して持ってきたげるから」
 二人の少女はそんな言葉を残して去っていった。

 この春、この桜が、最初に散らした花びらの一枚が落ちてきた。冷たいが優しい風に流されて、くるくると舞い、おばあちゃんはそれを手で受けるのを諦めて、愛犬がかぶった帽子をかざした。
 成功したという笑顔を浮かべたおばあちゃんは、帽子の底から花びらをつまみ上げて愛犬に見せた。独りぼっち。そう考えていたお婆ちゃんの意識が解放されて公園全体に拡大した。

 この時、反対側のベンチでは別の小さなドラマが始まっていた。母親がお花見の約束を守らないと嘆いていた少女がつぶやいた。
「私のことなんか、全然、分かろうともせえへん」
 もちろん、母親のことである。しかし、少女の怒りが収まって、悲しさや後悔の表情に代わったのを見ると、少女の心がかいま見える。心の底では分かっている。お母さんが自分を育てるために、一生懸命に仕事をしていること。
 この時、一人の女の足音が近づいてきた。歩いているにもかかわらず両肩を上下させて息を切らしている様子に、少女は母が公園まで駆けてきたことを知った。
「ここに居ると思ったわ」
 手荷物を提げた母親は少女の傍らでそう言った。
 一人で怒ったり、悲しんだりするときに、母親は娘が何処に行くのかをちゃんと知っていた。母親は、娘のことをずっと見守っていたということである。
「お花見、ここでしようか」
 手荷物を掲げて見せた母親の提案に、娘は頷いた。
「うん」
 少女がちらりと帽子を振り返ったのは、帽子との関係を思い出したせいだった。
「ごめんなさい」と、言わなければならないこと。そして、「ありがとう」と、続けるべき言葉。
 そんな思いが、母と娘のお互いあふれそうだった。しかし、二人とも、心の中が乱れていて、仲直りをする言葉が、ちゃんと出てこない。
 母親は娘のためにお弁当を広げた。娘は母親のために、水筒のお茶を、コップに注いだ。これから満開になるつぼみをつけた桜が枝を広げて、二人を包んでいるようだった。

 反対側のベンチでは、おばあちゃんがその音に気づいて眺める方向に、シーソーに乗る少年と少女の姿が見えていた。おばあちゃんには面識がない二人だが、今朝方、中折れ帽を間に仲違いした兄妹である。二人がともに存在できるのは、どちらか一方の家ではなく、ここしかないかのように、再びこの公園に姿を見せていたのである。
 シーソーの中央の支点を境に、少女は端に横座りで少年と向き合うことを避けていた。しかし、視線の方向は違っても、本当は思いを交わす少年と少女。
 おばあちゃんは、自分の古い経験を当てはめて微笑んだ。幼なじみだった夫とあの光景の経験があった。小さな諍いがあって拗ねてみたけれど、仲直りの方法がよく分からない。そんな状況に違いない。おばあちゃんはそう決めた。
 やがて、うつむいたままだが、少女が少年と向き合って座り直したのを、おばあちゃんは密かに心躍る思いで見守った。
(頑張れ……)
 シーソーの上で揺れる二人の恋の行方を応援したくなる。更に、沈黙の時が続いたが、やがて少年がシーソーを降り、少女に歩み寄った。二人は接近し小指を絡ませているのが見える。二人は無言に近いが、気まぐれな風に乗って切れ切れの言葉が届いた。
「離れても家族やもんな」
「うんっ」
 そんな会話に、おばあちゃんは自分の迂闊さに苦笑いを浮かべた。二人は幼い恋人ではなかった。兄と妹である。もし、早朝に出会っていたら、今の二人が背伸びを止めて、歳相応の素直な姿を見せている事に気づいたろう。二人は別々の方向に走り去って公園から姿を消したが、家族という言葉が二人を繋いでいるようで、二人の背に悲しさはなく、希望の暖かさが残っていた。

 古い自転車のブレーキの音が響き、老犬が帽子を乗せた頭を、自転車の女に向けた。父を殺したいと言った女だった。女はあの帽子を老犬の頭の上に見つけて、ふと自転車を止めたのである。
 思い出す父の姿に、今でも幾つもの感情が絡み合って切り替わる。そのふとした心の苛立ちに、あの男にちゃんと説明できなかったことがある。
 あの男がかいま見せた表情。娘は父の顔を驚きと共に悲しげに眺めたという。あの男の娘は、女と同じように、父の悲しみや後悔の表情の瞬間に、父の愛情をくみ取ったのではないかと。
 時の流れも、この瞬間を切り取ってみれば、周囲は優しい情感をこめた景色だった。女は妙な確信を込めて、あの男の好転しそうな運命の予感を味わっていた。女は呟いた。
「私も、生きててもええんやね」
 夕方のパートの時間である。女はペダルを踏む足に力を入れて、公園から姿を消した。

 いつの間にかそばにいてくれる二人の少女や愛犬に気づかされた。そして、見回してみれば見ず知らずの数多くの人々がいた。おばあちゃんは独りぼっちではなかった。
 不規則に落ちる桜の花びらを受けたという達成感。それがおばあちゃんを包む小さな幸福と、帽子で受けた一枚の花びらと重なった。
「もう少し……、大きいてもええのにな」
 お婆ちゃんは幸福の大きさをやや不満げに言ったが、心の中は今の状況に不満はない。愛犬が同意するように一声吠えた。黒い帽子は、新たな皺や折れ癖加わって、今日一日で少し形を変えたが、まるで人が歳を重ねるような自然な皺だった。
 頷く愛犬の頭で、帽子は妙な安定感を保ったまま揺れていた。週末の夜が更けていった。心を癒す休日の後、新しい運命が巡り来る。

                        おわり



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