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Scene16-2      ――クライブ・ヨレン

 

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    16-2

 

 


 ――ガンガンガンガン。ざわざわざわざわ。


 地を踏み鳴らす数多の靴は腹の底に響くような振動を生み、無数の口と口が好き勝手に喚きあう声は意味を成さない不協和音となって天の幕を震わせた。ジプシーたちが芸を披露していた野営地の中央には二時間足らずで即席のリングが設けられ、〈小鬼の野営地〉にはすでに立錐の余地もないほど人・人・人が詰め掛けていた。


「突発的な祭りはここじゃ日常茶飯事だけどな、わざわざボスが出張るのは珍しいんだぜ」――クライブの両手に青い革グローブをくくりつけながら、ギオという名前の下っ端がそう言っていた。まだ少年といっていいほど若いチンピラだったが、つけてくれたグローブは丁度良い具合で、試合中に緩んで外れたり拳を痛めたりすることもなさそうだった。


「ま、せいぜい頑張りな」


 ギオはそう言って背中を叩く。クライブはそれに押されるようにして〈野営地〉の端の小屋から出た。


 ――来たぞ来たぞ早く行け殺せ殺せ早く行け来たぞ帰れくたばれやれやれやっちまえ簡単にやられんなよ返り討ちだくたばれクソ野郎行け行け殺せ殺せ殺せ!


 途端、耳を聾するような絶叫の三方から彼を襲った。半分は罵声で半分はただの興奮した叫び、そのあまりの喧しさにクライブが耳を押さえようとしたとき、大天幕の反対側から今度は爆発するような歓声があがった。見ると人ごみとリングの向こう側、数十メートル先ではゼヴェルジェンが大男の肩に乗って登場したところだった。半裸のゼヴェルジェンが白のグローブをはめた両腕を振り上げて客たちに何か叫ぶたび、その数十倍の歓声が彼に応えた。――〈小鬼の野営地〉はまさしく彼の本拠地ホームであり、詰め掛けた人々は彼の臣下といっても過言ではないような光景だった。


“こっちも何かアピールしたほうがいいんだろうか?”――クライブが突っ立ったままでそんなことを考えていると、すぐ近くの客の一人からまた背中を叩かれた。つんのめるように一歩踏み出すとまた次の客、次の次の客がどん、どん、どん、と彼を押してゆき、クライブの身体は川面に落ちた木の葉のように蛇行しながら人波の間を流されていった。


「よォ、来たな兄弟」


 ゼヴェルジェンはすでに反対側のコーナーポストに腰を下ろしていた。彼は打ち上げられたイルカのような態でリングに登ったクライブに向け、平底のカッティンググラスを優雅に掲げてみせた。


「ルールは覚えてるな? まずコイツをやっつけられなきゃ、戦う前に負けだ」


 そう言って、ゼヴェルジェンはグラスの中身をぐーっと飲み干す。


 クライブの側のコーナーでは青い水着で胸元と足の間だけを隠した目のやり場に困るような美女が待ち構えていて、たどり着いた彼にゼヴェルジェンのものと同じグラスを差し出してきた。慣れないグローブでそれを受け取ると、注がれていた琥珀色の液体がちゃぷちゃぷ波打った。


“こぼしたり、落として割ったしても負けになるのか?”


 さっきのうちに質問しておけばよかったと思いつつ、どうにでもなれと渡されたウィスキーに口をつける。

 

「――……」

 

 鼓膜が麻痺するほどの歓声と罵声。天幕の中の四角いリング。そこに登って、詰め掛けた千人あまりの観客に対して剥き出しの上半身をさらしている自分。


 こんな出鱈目な状況であっても、まるで舌が蕩けそうなほどそのバーボン・ウィスキーは美味く感じられた。夏のトウモロコシ畑を連想させる芳醇な味わい。鼻へ抜けて脳に直接届くような深いコクと香り。喉の渇きも手伝い、クライブはそれを一気に呷った。度数50%はあるだろうアルコールが食道を流れ落ちて、胃に熱が注ぎ込まれるのをはっきりと感じた。

 

 ゼヴェルジェンはそれを見て破顔し、言った。


「ようやく奢らせてくれたなァ、兄弟?」


 次会うときには酒の一杯もつき合わせてやると、それは確かに彼自身が言っていたことだった。……もしかして、そのためにこんなおかしな試合形式を提案してきたのだろうか? 上着を脱いだゼヴェルジェンの身体は子供のような背丈のわりに随分がっしりしているようだったが、だからといって腕の長さが伸びるわけでもないし、体重が増えるわけでもない。こちらの拳の当たり所が良ければ、リング外にまで吹っ飛ぶこともあり得るだろう。


 ついでに、年齢だって20近くはこちらが若い。正直いって負ける気はほとんどしない……左腕の刃物傷もだいぶ塞がっている。ガードに使わなければ開くこともないだろう。唯一の心配は酒に何か盛られている可能性だったが、今のところその様子もなさそうだ。“どうせなら、3ラウンドくらいまで引き伸ばしてやるのもいいかもしれないな”――空になったグラスを返しながら、クライブの頭の中にそんな余裕じみた考えがよぎる。飲兵衛ではない彼でさえそう思ってしまうくらい、それは上等な酒だった。

   カァ――――ンン!

 リングの傍らに吊り下げられた銀の丸盆が打ち鳴らされる。試合開始の合図。コーナーポストからヒョイと飛び降りたゼヴェルジェンが小さな背中いっぱいに歓声を浴びながら揚々と歩み寄ってくる。


 いざ始まってみると、50センチ以上の身長差がある敵と殴り合いをするというのは予想よりずっとおかしなことだった。肩から水平に繰り出したこちらの拳はゼヴェルジェンの頭上を素通りすることになるし、ボディブローのつもりで放てば額か頬を打ち抜くことになるだろう。


 脇を締めたクライブはグローブを固く握り、脳内で打ち下ろしの拳をイメージする。アルコールの影響はまだない。むしろ身体があったまってくれたお陰でよく動けそうなくらいだ。


 青年は間合いを詰めに、


 右足を前に出し、


 小人が消えた、


 次の瞬間、


 側頭部にとんでもない衝撃――

 

 


「……え?……」


 気づけば、彼の身体はリングの中央で横倒しになっていた。何が何だか判らない、しかしこのままでは負けてしまう、青年はとっさに身体を起こそうとして――ぐらり、ばたり。再び頬に押し付けられる革のマットの感触。360度から降り注ぐ笑い声と野次の声。“た、倒されたのか……?”こめかみに疼く痛みを意識してからも、クライブはまだ半信半疑だった。


「ヘイ、パンチ衰えたんじゃないですかいボス」


「フッフ。ま、全盛期の頃のようにはいかないさ」


 自コーナーに引き返したゼヴェルジェンがリングサイドの野次に応えて笑っている。彼らが何を言っているのか、クライブにはよくわからない――ただ周囲から押し寄せる客どもの絶叫と、足を踏み鳴らす音がひたすらにやかましい。


「よォ、言ってなかったな兄弟」


 ロープにすがり、どうにか立ち上がったクライブに向け、“狡賢小兵”はニヤリと唇をゆがめて告げる、

 

「アーヴィタリスの肥溜め中の肥溜め、ペルファルゼン離宮の地下にある闘技場。流血上等、見世物試合の挙句の人死にだって毎晩出るようなクソッタレな鉄火場――……おいらは、そこの出身なンだ」


 再びコーナーポストに飛び乗ったゼヴェルジェンが芝居がかった見栄を切ると、周囲はアーヴィタリス中に轟くようなエールでもってそれに応えた。

 \ミニマム・チャンピオン!/ 

 \無手格闘の全階級覇者!/ 

 \小さな大拳豪、ゼヴ!/ 

 \剛拳!/ 

 \剛拳!/ 

 \剛拳小兵!

 ――べッ。クライブは血混じりの唾を吐いてファイティングポーズを取り直す。油断もいいところだった。完全に見積もりが甘かった。あのふてぶてしい男が、酒を酌み交わすためだけにこんな舞台を用意するはずがないのだ。


 ゼヴェルジェンはコーナーポストを蹴り、クライブの身長の倍以上も高く飛び上がる。先ほどまでここで客を沸かせていた曲芸士さながらの跳躍。しかし、今度ははっきり動きが見えている。クライブは落下してくるゼヴェルジェンの頭めがけ、右の拳を振り上げて叩き落そうと……


 矮躯の男は空中で笑った。


「いや、甘ェって」


 クライブの拳が的を捕える直前、小人は急激な勢いで首を右に振った。その動作に合わせて彼の身体が流れ、振り上げたこちらの青グローブを頬擦りするようにやりすごしながら落下してくるゼヴェルジェンの白いグローブがみるみるうちに視界いっぱいに広がって

 ――ぐしゃっ、

 自分の鼻の奥で、そんな音がするのをクライブは聞いた。


「……ごあっ、がっ、」


 両膝がすとんと落ちた。呼吸が止められたようだった。瞬く間に溢れ出た鼻血が顎を伝い裸の胸を伝いリングにぼたぼたとこぼれた。


「こいつも言ってなかったなァ、兄弟」


 リング中央へ着地しながら、ゼヴェルジェンは鼻歌でも歌いだしそうな口調で言った。「鼻血ならいくら流してくれても構わんが。リングの上でゲロったら、その時点で失格になっちまうんだぜ」


 ――……確かにそうしたほうがいいだろう。せり上がった吐瀉物が気道を塞げば、最悪の場合窒息死する危険があるのだから。


「ぼがに」口を開こうとすると、自分のものとは思えないような奇妙な声が出た。グローブの甲に鼻血をこすりつけ、クライブは再度尋ねる。「……ほかに、言ってないことは?」


「ない。多分ないぜ」

   カァ――――ンン!

 ゼヴェルジェンが応え、クライブが殴りかかろうとしたところで第一ラウンド終了のゴングが鳴った。やけに早い、と思ったが、それは最初の打ち込みをもらったときに軽く気絶してしまったせいだろう。カウント制でないのは幸いだった……もちろん、ラウンドを跨いで気絶していれば酒を空けることが出来ずに敗北するのだが。


 クライブがコーナーに戻ると、先ほどの派手な露出の美女がロープを潜ってリングに進み出た。頭を殴られたせいで眩暈が起き、彼女がまるで分裂しているように見える……いや、水着の色が違う、ただ顔が良く似ているだけでちゃんと二人いる。双子だろうかと思っていると、酒のボトルを持った同じ顔が出て来てさらにクライブの頭を混乱させた。赤い水着の三人目はリング中央でしゃがみこんだ女たちのグラスにバーボン・ウィスキーをなみなみと注ぐ。そして白い水着の女がゼヴェルジェンのほうへ向かい、青い水着はクライブのほうへと寄ってきた。


「――さ、どうぞ」


 水着美女のぽってりした唇に促されるまま、クライブは水分補給のつもりでウィスキーをちびちびと啜った。芳醇な風味は変わらなかったが、鼻から流れ込んだ血と混じってあまり美味しいとはいえない。ついでに頬の内側に自分の歯で切り傷を作っていて、そこに濃度の高いアルコールがひどく染み込んだ。 “ま、気付けにはちょうどいいか……”


   カァ――――ンン!

 飲み干したグラスを返したところでゴングが鳴った。


 勢いごんで椅子から立ち上がったつもりが、ぐらりと来た。無理もない。前のラウンドですでに二発いいのを貰っている。脳内麻薬とアルコールのおかげで痛みはまだ我慢できているが、後者は遠からず敵となって自分を苦しめることになるだろう。早めに決着を付けなくては自滅してしまう。


 いっぽう、反対側のコーナーから颯爽と近づいてくる小さな男はまだまだ元気だ。リングの中央で立ち止まると、ゼヴェルジェンは“こいこい”とばかりにグローブの右手でこちらを手招きした。


 勿論、行かなければ始まらない。クライブは身体に喝を入れ、“狡賢小兵”――いや“剛拳小兵”へと殴りかかる。とにかく当てさえすればこちらのものだ。右、左、速く、速く、可能な限り速い拳をあの大きなマトへ、当たれ、当たれ、当たれ、当た――……らない。


 ゼヴェルジェンは振り下ろされるクライブの拳を軽々と躱していく。フェイントを織り交ぜたり、タイミングや角度にどう変化をつけてみても、そのことごとくを見切られ紙一重で避けられてしまう。おまけに打ち返してこない。ガードする意志すらないように両腕をだらりと下げ、こちらの腕が届く間合いギリギリのあたりを出たり入ったりする。


 ――やれ! そこだ! ――殴れ! 殺せ! 殴り合え!


 第一ラウンドからの流血にすっかり興奮した客たちが好き放題に囃し立てる。その声に背中を押されるようにして、クライブはがむしゃらにゼヴェルジェンへと殴りかかる。


 右、左。左、右。右、左。

 当たらない。当たらない。当たらない。


酔拳ドランケン・フィストって知ってるかい、兄弟よ」クネクネふらふらと上体を泳がせながら、ゼヴェルジェンは言った。「マヤト人の間で伝わる拳法ケンポーの一種でな。聞くところによると、酔っ払ったときの上機嫌で不規則な動きを格闘に取り入れようってワザらしい」


 こめかみを狙った左フック。鎖骨めがけてのチョッピングブロー。ジャブ連打からのアッパーカット。
 空を切る。空を切る。空を切る。


「地下闘技場で妙ちきりんな試合をさせまくられてるうち、おいらはいつの間にかそういう動きが出来ちまうようになっていた。もちろん正式に習ったワケじゃねェから、ホンモノのドランケン・フィストとはまたちょっと違うんだろうが」


 ぜいぜい、はあはあ。全力で腕を振り下ろし続けたクライブの息吹いきは早くもあがりはじめていた。殴られたこめかみと鼻柱の痛みがだんだんひどくなってくる。しかしいくら追い掛け回しても、どうやってもあの小さな身体を捕えることが出来ない。


「――だからおいらを仕留めたきゃ、早いラウンドのほうがいいんだぜ。何せこちとら、酔えば酔うほど強くなるんだからな」


 第二ラウンドの終わりを告げるゴングが鳴り、未だ無傷のゼヴェルジェンはそう言って馬鹿笑いしながらコーナーへ戻っていった。


 続く三ラウンド目も似たような展開ではじまった。とにかく一撃、どうにか一撃――クライブはただひたすらそう念じて腕を振るい続ける。身体の痛みはまだ無視できる。しかし腹の中に流し込まれた三杯分のアルコールが血流に乗って徐々に体内を駆け巡り、脳の奥に打撃のものとは違う不快な疼きがはじまるのを彼は自覚しつつあった。


「ほらほら、こっちだこっちだ」


 一方のゼヴェルジェンはどこ吹く風でクライブの必死の拳を躱し続ける。その動きは疲労を感じさせるどころか、むしろ本人が言うように調子が出てきた雰囲気すらある。しかもただ避けるだけでは物足らなくなったのか、途中からは観客に向けてのパフォーマンスまで決めはじめた。蛙のような動きで青年の周囲を跳ね回ったり、ロープの上を綱渡りのように歩いてみせたり、コーナーポストの上で逆立ちしたり、鮮やかな宙返りを決めてそこから飛び降りたり、あまつさえパンツを半分下ろして尻を振ってみせたり――頭に血が昇ったクライブがその隙めがけて踊りかかるとゼヴェルジェンはまた馬鹿にした動きで攻撃を避け、観客は惜しみない笑いと喝采を彼に送るのだった。


“――くそっ……、”


 足が重い。追いつくためには走るしかないのに、次第にそれが辛くなってくる。

 

 腕が重い。倒すためにはパンチを繰り出すしかないのに、次第にそれが辛くなってくる。


 いったん呼吸を整えなくては――このラウンドが終わるまで攻め続けることは、とても出来そうにない。そう考え、クライブは追撃のための足を止める。


 そこに隙が出来た。


 がすんっ!


「ぐあっ!?」


 身体をようだった。ゼヴェルジェンは目にも留まらぬ速さでこちらの懐に飛び込み、フック気味の右でクライブの左脇腹をぶち抜いたのだった。


「ぐうっ、ぐご……げええっ!」


 口から内臓が飛び出しかけるとはこのことだった。反撃は無いと油断したところに叩き込まれた強烈なボディブローはクライブを地獄の苦しみへと突き落とした。息ができない。立っていられない。腹の底がびくびくと怪しく脈打って、中に収めていたが来た道を遡ろうとする。“――駄目だ!”クライブはとっさにグローブで口を押さえて嘔吐を堪える。喉下までせり上がったアルコール混じりの胃酸が食道を焼くのを感じる。彼は身も世も無くマットの上に這い蹲り、胸と腹と頭の痛みをまぎらわそうとした。手や足を痙攣ぎみにばたつかせるたび、どこか遠い場所でたくさんの人間が笑っているのが聞こえた。

   カァ――――ンン!

 第三ラウンド終了のゴングが鳴っても、クライブはしばらく起き上がれなかった。それどころか出来ることなら、このまま三日くらい寝ていたいような気持ちだった。しかしそんな彼にもお構いなしにリングの中央では赤青白の水着美女がグラスに酒を注ぎ、その芳香を放つ液体を倒れ伏す彼の目の前に持ってくる。


“勘弁してくれ”


 今の自分に必要なアルコールはウィスキーではなく消毒液だ。ついでに包帯と痛み止めと柔らかなベッドがあればもっといい。


 などと思いながらもクライブは痛む身体を起こしてどうにか膝立ちになり、差し出されたカッティンググラスを受け取ろうとする。グローブを嵌めた手がまるで百歳の老人のように震える。


「大丈夫? 飲ませてあげようか?」


 クライブの傍らにしゃがみこみ、青い水着の美女がやさしく言った。まるでむずがる幼児をあやして、離乳食のスプーンを咥えさせようとするときみたいな口調で。


 ずたぼろのこちらの陣営とは対照的に、あちらの陣営は相変わらずパフォーマンスに余念がなかった。ゼヴェルジェンは自分よりも頭二つ分は上背のある白い水着の美女を軽々と抱えあげ(お姫様抱っこというやつだ)、彼女の手からグラスを呷り、そして客たちに見せつけるように頬にキスを受けていた。


 視界の端で禿頭の大男がゴングを鳴らすために鉢を振りかぶるのが見え、クライブは慌てて酒に唇をつけた。口の中の傷がひりひり、胃酸で焼けたばかりの食道がちりちりと痛み、最初はあれだけ美味く感じられた最高級のバーボン・ウィスキーはいまや〈良き風のはじまり〉亭でドロッグと酌み交わした安酒よりも不味いものに成り果てていた。

    カァ――――ンン!

 失格をくらうより一瞬だけはやく、クライブはノルマの酒を飲み干すことに成功した。むせかえりながらもなんとか立ち上がった彼のことを、頬にキスマークをつけたゼヴェルジェンは余裕綽々といった様子で待ち構えていた。


「どうしたどうした。まだ第4ラウンドが始まったばかりだぜ兄弟」


“……化け物か”


 試合前から数えればすでにグラス5杯分の酒を空け、先ほどのラウンドではクライブをおちょくり観客を沸かすためにさんざん飛び跳ねていた。だというのに、ゼヴェルジェンは呼吸を乱すどころか顔色のひとつも変えていない。


 一方のクライブは青息吐息だ。こめかみ、鼻、脾臓へのクリーンヒット。動かし続けた足と腕は今にも吊りそうな痙攣をしており、そして頭蓋の中では恐れていた事態が――アルコールと運動の相乗効果による悪酔い、ドクドクと脈打つような頭痛がはじまっていた。


「打ってこないのかい? そんなところで固まってても何も始まらねェぜ。さっきまでの勢いはどこ行っちまったんだ」


 構えもなにもない隙だらけの格好で、ゼヴェルジェンはクライブを挑発する。しかし今の青年には、間合いを詰めて殴りかかるなどとても出来そうになかった。ただどうにか肘をあげ、グローブを構えて抵抗の意志を示す。


「ふふ。いいぞ、まだまだ眼は死んじゃいねェな」ゼヴェルジェンは嬉しそうに言って、右肩をぐるりと一回転させた。「けどな、このまま睨みっこしてるだけじゃァお客さんらも退屈しちまうってモンだ。せっかく見に来てくださってんだしな、ちったァ愉しんでもらわねェと」ぐるり――今度は左肩を一回転。「だからお前さんのほうも、簡単に倒れちまうなよ。おいらだってそれじゃァつまらんからな」


 こちらを睨みすえるゼヴェルジェンの眼光が鋭さを増し、


“来る”


「――いくぜっ?」


 ほとんど勘だけでクライブは右下腹部を庇った。どごっ! ――次の瞬間、右の下腕に走る鈍い衝撃。パンチをガードしたというよりは、薪棒か何かで腕を叩かれたような感じだ。近づいてきたゼヴェルジェンの頭をどやしつけてやろうとしたが、向こうはすでに第二撃を振りかぶっていた。クライブは慌てて左腕を防御に回した。


 ――どごっ! どごっ! どごっ! どごっ!


 次々に繰り出される拳は第一ラウンドのときよりも遅く、腕でのガードがどうにか間に合う。しかしガタの来た足では仁王立ちするだけで精一杯で、機敏に躱すことなどとても出来そうになかった。


「ほらほら! がんばれがんばれ!」


 腕。肘。肩。腰。ロープを背負ったクライブに向け、ゼヴェルジェンはひらひらと飛び回るように動きながら打撃を加え続ける。ゼヴェルジェンの放つ拳は見た目に対してあまりに重く、また腹にでも直撃したら今度こそ立ち上がれる自信はない。だがこのままでは防御している両腕のほうが先にへし折られそうだ。しかも腕を介して伝わる衝撃は痛んだ腹を揺らし、髄液の代わりにアルコールに漬かりつつある脳までをも揺らして彼を苛んだ。がんがんがんがん、パンチ一発ごとに響く衝撃はまるで脳ミソを直接殴られているかのようだ。


「なかなかいい根性じゃねェか、兄弟」うっすら汗ばんだ凶相に張り裂けそうな笑みを浮かべ、ゼヴェルジェンは言った。「おいらはそういう、ホネのあるヤツが好きなんだ。手下に欲しいのはそういうヤツだ。――なァ、考えてみてくれよ。やくざもんの手下ったってピンキリだ。おいらの下についてくれりゃァ、悪いようにはしねェからさ」


 口先で甘言を弄する一方、“剛拳小兵”の両腕からは気を抜くと意識が飛びそうになるほどの打撃が飛んでくる。クライブは歯を食いしばり、感覚の無くなりかけた腕でそれに耐える。


 ――打ち合え! 打ち合え! ――殺せ! 殺せ!


 観客たちは好き放題な叫び声をあげ、戦う彼らに身勝手なエールを送る。


 ゼヴェルジェンの言葉は、そんな激しいざわめきの中でも何故かはっきりと耳に届いてくる。


「やれやれ。そんなにも頑張るほどの義理が、ドロッグ・ソーヴォとかいうやつにはあったのかい? それとも軍人としての使命感ってやつか? ハッ、くだらねェ。いくら頑張ったって貰えるモンといや、尉官の安月給とちっぽけな階級賞くらいじゃねェか。この太平楽のご時世、上の方の椅子はジジイかコネ持ちか金持ちくらいしか空けちゃくれねェんだぞ。ンなこたァお前さんのほうが良くわかってるだろうに」


「おおあッ!」


 クライブは横様にグローブを振り回す。まるで子供の喧嘩のような打撃、ゼヴェルジェンは華麗とすらいえるステップでそれを躱した。

    カァ――――ンン!

 そこでゴングが鳴った。


 ロープに預けた背中がずりずりと下がり落ちる。“休める”ぼんやりした意識でクライブはそう考えるが、リングに再び上がってきた水着の女たちをたちを見てこの時間も戦いの一部であることを思い出す。


 だが、これ以上飲んで、また立ち上がることが出来るのだろうか……


「おうおう、随分と辛そうだなあ兄弟」


 気がつくと、にんまり笑った顔のゼヴェルジェンがすぐ近くに立っていた。クライブは慌てて防御の姿勢を取ろうとする。インターバル中であるということは頭から抜けていた。ゼヴェルジェンは追い詰められたクライブの様子を満足げに見やり、言った。


「大サービスだ。このラウンドは、お前さんのぶんも引き受けてやろうじゃないか」


 彼は早くも空にしてあった自分のグラスと、青い水着の美女の持つクライブのグラスを交換する。そして一滴も零すことなく近くのコーナーポストに飛び乗ると、客どもを煽り立てながらそれを飲み始めた。――ごく、ごく、ごく、


 朦朧としたままそれを見上げるクライブの頭の中に、ふたつの感想が同時に浮かぶ。“ありがとう”。まずは自分のノルマを引き受けてくれたゼヴェルジェンへの感謝の気持ち。


 そして、もうひとつは――……


 まだ第五ラウンドは始まっていなかった。だが、クライブは自分でも不思議なほどなめらかに立ち上がった。グローブの掌を伸ばし、赤い水着の美女からひったくるようにしてウィスキーのボトルを奪い取る。彼はそれを高らかに掲げ、まだ半分以上が残っていることをゼヴェルジェンと客たちに見せ付けた。


“なめるなよ”


 クライブはボトルの口を咥え、喉を一気にのけぞらせた。


 あっけに取られたような無数の視線。胃へと向かって落ちていく灼熱の感覚。どくどくどくどく、自分の身体の中から聞こえる脈動は血流の音か嚥下の音か頭痛の音か、そしてクライブは空っぽになったボトルをリングサイドに吊るされた銀盤に向けて投げつける。

   ガシャアッッ――――――――ンンンン!

 第五ラウンドのはじまりのゴングは、そのようにして鳴らされた。


「ハッハ! ハーッハハハァッ! いいぜいいぜェ! ショーの盛り上げ方ってモンをわかってるじゃねェか、兄弟!」

 

 鯨波のごとき大喚声をかきわけ、爆笑するゼヴェルジェンの声が耳に届く。あいにくこちらとしては彼らを喜ばせるためにやったのではないし、盛り上げ方そんなものをわかっているつもりもない。ただあるのは、自分でもおかしくなるくらいの意地だけだ。


「なあ、ひどつ、いていいか」


 しゃがれた声で、クライブは尋ねた。


「あァ?」


「ゼヴェルジェン・ウェルベック・ラーマス……あんたに、?」


「まさか、加工生命グラフトロイドでもあるめェし」上半身裸の小さなマフィアの身体に、もちろんそんなものは見当たらなかった。男は鼻で笑ってこう応えた。「おいらは“蟹”を支える脚の一本さ。そういう意味でいうなら、殻ならあるかもしれんがね」


「そう


「で、そいつがどうかしたか?」


「……なら、」


 自分でも、どうしてこんな問答をしているのかわからなかった。何故こんな場所で戦っているのかすらもすでにあやふやになりつつあった。ただひとつだけ、無闇なほどの確信を持って彼は言った。


「なら、は負けない。あんたがいくら強くても、あんたにの一番大事なものは、奪えない」


「ハッハ!」右腕をぐるりと回し、ゼヴェルジェンは吼えるように彼に応えた。「上等だ! 上等じゃねェか、兄弟!」

 

 ――どごっ、どごごっ! 再び始まるゼヴェルジェンからの連打、それらを腕で受けつつ、クライブも今度は反撃を交える。相変わらず当たらない……ゼヴェルジェンはステップを縦横に踏んでこちらの攻撃を避け、防御のために腕をあげさせることすら出来ない。


 十五分以上戦ってみてよくわからされたが、この小さなマフィアのボスは自分より大きな相手と殴り合うことに熟達している。それはそうだろう。生まれてこの方、対戦した相手は自分より大きかったに違いあるまい。そういう対戦相手をことごとく沈めてきた彼の拳は全盛期を過ぎた今であっても早く、重く、鋭い。かつては頂点に登りつめたという噂もなるほどと納得できるほどだ。


“――でも、こんなの、ぜんぜん痛くない”


 朦朧とした意識で、クライブは思う。


“何故なら、もっともっと痛い拳を、は知ってるんだから”


 腕に、腰に、胸に、腹に。ゼヴェルジェンの拳が突き刺さるごとに、リングに倒れるごとにクライブの意識は曖昧になり、そのたびに過去の景色が走馬灯のように脳裏をちらつく。


“そうだ――あの拳。あの冬の朝、の一番大切なものを叩き潰したあの拳は


 拳を振るい、酒を呷り、ゼヴェルジェンとの戦いを続けながら、クライブは頭のどこかで、十数年前の冬の日の光景を思い出していた。



          ▽    ▽    ▽



 自分にとって、一番大切なものは何か。


 現在いまはともかく、十数年前のクライブならば容易にその問いに答えることが出来ただろう。それは“夢”だと。


 そう。子供の頃のクライブには、夢と呼べるものが確かにあった。


 それはこの国の子供たちの多くが抱くありふれたもの。そしていずれ誰もが叶わぬと醒め、大人になった後では口に出すのも恥ずかしくなるようなもの



 彼は、勇者になりたかったのだ。



『勇者ウェルヘングリンの勲』、『騎士公ジンドディールの伝説』、『剣の聖者マナン』――


 竜と戦い、吸血鬼を滅ぼし、囚われの姫を救う。きらめく魔法の剣を振るい、仲間とともに力をあわせ、悪の国の軍勢を打ち滅ぼす。気宇壮大、不撓不屈、天下無双、誰からも敬われ、そして誰にも負けないような存在。


 子供の頃のクライブ・ヨレンはそういう、物語の主役のような人物になりたかったのだ。


 片田舎の統括司祭の甥という恵まれた生まれのおかげで本はたくさん読めたし、近くの都市の祭りにも連れて行ってもらえて有名な劇団の舞台を何度も見れた。それらに触れるたびに少年の心には憧れが募った。親にいやな顔をされても剣の練習は欠かさなかったし、馬術や弓術にも手を出した。どこかにあるはずの自分のものになるべき魔法の剣を求めて村を飛び出し、森の中で迷子になったことすらある。


 友達を大切にしようという道義心も、当時のクライブが心がけていたことだ。勇者とは腕っぷしの強さだけではなることが出来ないのだから。近所の歳の近い子供たちを集めて剣の稽古もどきをしたし、隣村のガキ大将に仲間を虐められれば、彼らを率いて決闘もどきをしたこともあった。


 あの頃のクライブは、幼すぎて、どうして近所の子供たちが自分に従うのかわかっていなかった。そんなもの、きっと自分が選ばれた人間だからだと――いずれ偉大な勇者、物語に謳われる英雄になる自分にとって、十数人ばかりのしもべなどほんの小手調べのようなものだと、そう思ってすらいた。


 転機となったのは忘れもしない、十一歳の冬の日のことだ。


 三つ年下のミュカレという少年は小作農のやもめ男の一人息子で、身体は強くなく性格も内向的で大人しかった。クライブは彼がいじめられそうになるのを守ったり、腹を空かせた彼にパンを分けてやったりしたものだった。


 そんなミュカレの父はあるとき、首を吊って死んだ。


 天涯孤独の身となったミュカレは、少し離れた街にあるという孤児院に引き取られることになった。


「いつでも助けに行くからな」


 今でもよく覚えている――別れの日の朝、フードもないぼろぼろの服を纏い、髪に雪のかけらをまとわせて俯く友達に向け、あのときの自分はこう言ったのだ。


「元気を出せよ、ミュカレ。おれたちは仲間だ。お前が困ったときには、必ずおれが助けに――……」


 ――ばきっ。


 殴られたということが、一瞬わからなかった。新雪の積もり始めた地べたにずしゃりとしりもちを付くクライブを見下ろし、ミュカレは火がついたように叫んだ。


!」


 クライブは呆然と、涙の伝う友人の顔を見上げた。


! ! ! ! !」


 わからなかった――どうしてミュカレが自分を殴ったのか、どうして彼が泣き喚いてるのか、どうしてこれほどまでの怒りを、友であるはずの自分にぶつけるのか。


 だが、ミュカレの口からその理由を聞くことは出来なかった。泣き喚く彼はそのまま大人たちによって馬車に押し込められ、どこか遠い場所へと連れて行かれてしまった。


 ミュカレの父がクライブの家に借金をしていたことのを知ったのは、それからしばらく経ってからだった。――「あいつめ、勝手に死にやがって」「まったく、大損だったな」――ある夜、彼は父と叔父が愚痴っているのを偶然立ち聞きしてしまったのだ。親たちは「ガキひとり売り払ったんじゃ、とても足しにならない」とすら言っていた。――ミュカレが連れて行かれた先は温かい食事の待つ孤児院でさえなかった。子供たちの身体に焼き印を押し、煙突掃除や農作業や坑道掘りやもっといかがわしい仕事を強いる、奴隷商人のところだったのだ。


 ……別れのあのとき。自分は心の底から彼を励ますつもりだった。うつむくミュカレの肩に手を置いて、物語に出てくる勇者気取りで、誇らしささえ抱いて言ったのだ――「いつでも助けにいくからな」と。いつか大きくなって旅に出て、その先で偶然ミュカレと再会し、悪人に虐げられている彼を助けて、感謝する彼を連れて一緒に冒険するだとか……そんな場面すらも夢想していた。


 大間違いだった。


 自分は未来の勇者などではなかった。それどころか、ミュカレを虐げる悪人の息子だったのだ!


 ――事実を理解したときの衝撃は、世界が壊れるに等しいものだった。


 クライブ・ヨレンの一番大事なものは、このようにして失われた。以降、彼は子供たちを率いて野原を駆け回ることをしなくなり、ちゃんばらごっこもしなくなった。毎晩毎晩、手垢がつくほど繰り返し読んできた英雄や勇者たちの物語の本はもう二度とページを開くこともなかった。そして何より、前に比べてずっと笑わなくなった。


 そうした変化は、周囲からは仲の良い友人がいなくなったショックのためだと――ある部分では正しく、ある部分では大きく間違えた解釈をされたようだった。


 親の反対を押し切って士官学校に入ったのは、どうしても家を離れたかったのと、悪質な奴隷商人を軍隊が取り締まることがあるという噂を耳にしたためだ。いまさらミュカレを助けられるなどとは思っていない。そんな甘い考えは偽善ですらない。だが子供たちから生き血を絞るような商売がなくなれば、自分の親たちのような外道の儲けも幾ばくかは減らせるだろうと……そんなことを考えていた。


 結局、数年もしないうちに軍隊とは権力者たちが領土を切り分けるナイフに過ぎないと理解することになるのだが。

 

 しかしそのとき感じた幻滅は、正直あまり大したことはなかった。勇者になるという夢が壊れたときの幻滅は比べ物にならないほど痛かったし、それに存在理由がどうであれ、軍隊というものが規律を重んじる環境だということには変わりがなかったから。たとえ『悪人の息子』だったとしても、宗教家の子供として、未来の勇者として幼少期を過ごしたクライブの性格は、いつしか規律や規範といったものを好ましく感じるようになっていたのだ。


 その一方、過去の経験は彼を内罰的にもした。かつての自分は“夢”のためのあらゆる努力が楽しくて仕方なかった。だが真実を知って以降は、何かを楽しむということ自体を避けるようになっていった。無理からぬことかもしれない――あの少年時代の楽しさはすべて無知からくる幻であり、そして結果的に、彼は友達を最悪のかたちで傷つけてしまったのだから。


 士官学校入学後にクライブと知り合った人間には、賭博や芝居見物や女遊びなど、あらゆる娯楽に興味を示さない彼の態度はとんでもない堅物のように見えたことだろう。卒業後すぐに憲兵科へ配属されたのも、そうした性格を見込まれたが故に違いあるまい。


 その見込みに応えるように、クライブは"X班"としての任務を堅実にこなした。運の良さもあったろうが、四年間の軍隊生活は特に大きな失敗もなく過ぎていった……この"成り上がり都市"にたどり着く寸前までは。


 初めて訪れたおおきな都市まち


 初めて犯した大きな失敗。

 

 頼る者のない単独での任務。ドロッグという名のチンピラとの出会い。〈よき風のはじまり〉亭で飲んだ安酒。蟲の翅の光が照らす夜。はじめて敷居をくぐったいかがわしい店。その地下に巣食っていた情報屋の“蛇”。成り上がり都市での、数々の奇妙な体験……それは確実に、クライブ・ヨレンが長年かけて厳重に閉ざしてきた心の蓋を緩ませた。


 ドロッグの背中に導かれ、潮風の吹く夜道を歩いたあのとき。


 得体の知れない"蛇"からの情報を元に、殺人鬼のいる潜伏先へと向かったあのとき。


 疑念や打算、不信や恐怖、義務や嫌気――さまざまな感情が去来する心の一部で、彼は自分の置かれた状況をこう思ったのだ――“”、と。


 危険と隣り合わせの道行。未知の困難に挑む高揚感。胸を昂ぶらせるスリル。


 もっとひらたくいえば、あのとき自分はしていた。、と感じてしまっていたのだ。


 まるで子供のように。


 まるで子供の頃、魔剣を求めてに出たときのように。


 今にして思えば、ランカニスという奇妙な人物と出会ったことが箍の緩む最初のきっかけだったのだろう。あの老人には、何故かこちらのペースを乱すようなところがあったから。


 が、問題となるのは原因ではなく、結果だ。


 自分が楽しいと思ったその結果……今度は何が起こったか。


 ――そうだ。ふたりの人間が、死んだ。


 あるいはあの暗い廃工場で、クライブもまた殺されていた可能性だって少なくない。慎重さとか、腕っ節とか、運の良し悪しだとか。ほんの少しの掛け違いで、事態はまったく違うものになっていたかも知れない。しかし……


“ドロッグ・ソーヴォは、どうして死んだ?”とクライブは情報屋の蛇に尋ねた。あのとき情報屋は長広舌を振るって誤魔化したが、もし質問を受けた側のほうもクライブだったら、彼はすっぱりこう答えていただろう――“おまえのせいだ”と。“おまえが勇者気取りの憧れを捨て切れなかったから彼らは死んだ。知らない街での冒険なんてものに現を抜かしていたから、彼らは死んだんだぞ”――と。


 いくら仮定を並べても、彼らの死が覆されるわけではない。無法なチンピラだったとか、殺人容疑濃厚な加工生命だったとか、たとえ素性のよからぬ連中だったとしても、彼らの罪は法に基づいて罰せられるべきであり、あんな死体も見つからないような最後を迎えていいとはクライブは思わない。


 ランカニスを探さなくてはいけない傍らで、あの廃工場での事件の真相を追い求めていた理由はそんなところだ。


 要するに、彼は傷をなぞりたかったのだ。


 突き詰めれば、再確認をしたかったのだ。


 自分は楽しんではということを。


 自分が勇者などにはということを。


 そんなことのために、マフィアの親玉のアジトに乗り込んで、軍人としての立場まで賭けて、こんな殴り合いなんかをしているのだ――……



          ▽    ▽    ▽

 


 気がつけば、リングに倒れ伏していた。


 これはいったい何度目のダウンなのだろう。そして、今はいくつめのラウンドなのだろう。


 耳に音が戻る。途端、四方から押し寄せる観客の喚き声――それはクライブの頭蓋の中で何百倍も膨れ上がり、見えない打撃となって彼を打ちのめす。


 視界いっぱいに広がるリングのマット、そして首を伸ばせばキスできるような距離にある、何者かのごつごつした素足。顔を上げると、汗にまみれた狂相がのしかかるような角度でこちらを見下ろしていた。喚声と頭痛にかき消されて良く聞き取れないが、ゼヴェルジェンは立て、立てとクライブのことを励ましているようだった。


 かがり火の逆光の中、青年の眼に映る彼の姿は、決して小さくなどない。


“いや、それどころか――……”


 クライブは心の底から言った。


「……あんた、でっかいな」


 そして繰り出す、立ち上がりざまの一撃。獰猛な笑みを浮かべたゼヴェルジェンはぱっと飛びのいてそれを躱す。高々と空を切るクライブの右拳。


 だが、躱されることはあらかじめ承知していた。


 もはやクライブの頭の中には防御も何もなかった。地を蹴る。拳から肩まで、いや、指先からつま先までの全身を一本の棒のように伸ばす。真っ直ぐに、真っ直ぐに、真っ直ぐに、


 あのとき、欄干から飛び降りるランカニスに届かなかった手を、


 あのとき、人買いの馬車に連れて行かれるミュカレに届かなかった手を、


――届けェッ!!”


 そして、


 グローブの指先に初めて感じる、肉を叩いた反動の衝撃。


 喚声。


 喚声。


 喚声。


 喚声は見えない打撃となってクライブの脳を打ちのめす。彼は右腕をめいっぱい伸ばした状態のまま、再びうつぶせに倒れこんでいる。着地も受身も考えずに拳を振り下ろしたのだ。それは自分から鼻頭をマットに叩きつけたも同然の行為だった。


 そんなクライブを見下ろす位置に、再びゼヴェルジェンが仁王立ちする。――ぼたっ。ぼたぼたっ。その素足の甲に、大粒の赤い雫が滴り落ちる。大量の鼻血を垂らしたゼヴェルジェンの破顔は、ますます怪物じみて壮絶な容貌になりつつあった。


「――てよ、兄弟! まだ一発カマしただけじゃねェか! おいらはまだピンピンしてるぜ! さぁ、来い! 来い! 立ち上がれ!」


“……言われなくとも”


 割れるような頭痛。打撃のための腹部の鈍痛。酩酊による吐き気や悪寒。それらに苛まれながら、クライブは生まれたての小鹿のような態で立ち上がる。ゼヴェルジェンはそんな彼を讃えるように観客たちを煽る。――まったく、甘いやくざ者もいたものだ。ここで有無を言わさず殴りかかれば、勝利は間違いなくあちらの方に転がり込んでいるだろうに。


 ゼヴェルジェンがコーナーポストに飛び乗ったところで、客たちのボルテージは最高潮に達した。割れんばかりの声援を受けた“剛拳小兵”は、横風をはらんで水面を滑る帆船のように宙へと踊った。第一ラウンドの再現――否、あのときの何倍もの高度から落下してくるゼヴェルジェンの拳は、猛禽の爪よろしくクライブの顔面を狙っている。

 

 防ぐ? ――不可能だ。あいつの拳の威力なら、腕ごと顔面を粉砕されかねない。


 逃げる? ――論外だ。この千鳥足では、転んだところを追い打たれるのがオチだ。


 なら、迎え撃つ? ――それこそ第一Rの繰り返しだ。振り上げたこちらの腕を滑り台のように伝って、ゼヴェルジェンは拳を叩き込んでくるだろう……


 ……他に方法は思いつかなかった。


 覚悟を決める。残った力をかき集め、脇を締めて両腕を構える。どの道これが最後の攻防だ。次のラウンドまではとても持たない、むしろ何もしないでいても十秒後には倒れていそうな有様。考える時間だってない――ゼヴェルジェンが落下してくるまであと一秒足らず。


 クライブは両方の拳を耳の高さまで上げた。


 空中に身を舞わせたゼヴェルジェンは巨人のような高みからクライブを見下ろし、どんな攻撃でも躱せるように身構えている。視線を介して相手のその意念を感じる。クライブは振り上げる拳でゼヴェルジェンの頭部を砕くイメージをし――“打つぞ”と見せかけただけで腕を止めた。


 フェイク。怪訝そうに歪むゼヴェルジェンの顔。しかしもう相手に選択肢の余地はない。クライブの視界いっぱいに、鮮血で斑に染まった白グローブが広がって、


 ――ぐしゃっ、


 強烈な打撃が、青年の頭部に炸裂する。


 ただし今回は鼻っ柱ではなく、額の一番硬い部分に。


 その直前、クライブはフック気味のパンチを繰り出していた。左右同時に、両方の拳で、すぐ近くまで落下してきたゼヴェルジェンの頭部をまるでシンバルでも叩くみたいにはさみ潰したのだ。


 ――初めて臨む拳と拳での試合。“剛拳小兵”にさんざん叩きのめされ、酩酊した頭で理解したことがひとつだけある。それはごく当たり前のこと――これは剣と剣での試合とはまったく違うのだということ。


 刃が生身に触れれば受ければ皮膚が裂け、血が噴き出す。それゆえ剣の試合ならば、刃のない武器が相手の急所に当たればその時点で終了となる。実戦で使えない以上“相討ち狙い”というのはそもそも戦術に存在しない。


 しかし、拳と拳での試合ならば……


「……なァ、どうだった、兄弟」


 クライブの額に叩きつけられた白のグローブが、だらりと力を失う。


 ゼヴェルジェン・W・ラーマスは両方のこめかみをはさみ潰された状態で宙吊りにされ、鼻の穴と口の端から血を垂らしながら、それでもなお愉快そうに笑っていた。彼は確信に満ちた口調でクライブに尋ねた。


「なかなか気持ちよく酔えただろう、おいらの酒はさ?」


“……ああ、本当に”


 返事の代わり、クライブは腕の力を緩めた。


 ゼヴェルジェンが重力に引かれずり落ちていく。その小さな身体に向け、全体重を掛けた拳ごと倒れこむことは、ほとんど意識のない今のクライブにとって、あまりにも容易いことだった。

 

 

(第17回につづく) 

 


この本の内容は以上です。


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