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Scene16      ――クライブ・ヨレン

※字数制限のため、第16回は分割して掲載いたします。

 

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    16

  

 ――ねえお客さん、いつも気になってるんだけどさ、ウチのごはんってそんなにマズい? マズいなら正直に言ってよ。別に怒ったりしないからさあ。

 ――そんなことない? だったらしかめっツラしてないで、もうちょっと美味しそうに食べなさいよね。……え、何? 悩み事がある? ふーん、どんな? ……人探し? 

 ――へえ、なるほどねー。だったらイイコト教えてあげるよ。あのね、バンメルネの繁華街の裏通りにね……

 

 


“一体自分は何をしているのだろう?”


 煤けた真昼の空の下、クライブ・ヨレンは己に向けそう問い掛ける。それはこの三時間のうちに十回以上繰り返した自問であり、そしてこのアーヴィタリスに逗留している十日の間ではきっと百回以上は唱えた呪文だった。


 飲み屋の大半が準備中の繁華街は、日が落ちてからのようなごった煮の騒がしさはまだ無かった。もちろん串焼きや揚げ魚、立ち飲みカッフェなどの屋台は商売をしているものの、昼飯時の忙しなさを乗り切ったばかりの店主たちの顔にはどこか気が抜けた雰囲気が漂っており、張り合う呼び込みの声も幾分トーンダウンしているように聞こえた。


 クライブはそんな繁華街から一本入った路地で、じっと立ち尽くしていた。正確には順番を待っていた。目の前には二十歳くらいの赤髪の女性、そのひとつ前も白い日よけ帽ガーデンハットを被った女性。30人ほどの順番待ちの列を構成するのはそのほとんどが女性か、あるいは男女の連れ合いばかりで、男性のみと思しき客は自分以外には四人分ほど後ろの山高帽の中年男性ひとりしか見当たらない。暇潰しも兼ねて列の前後を眺めているとふとその中年男性と眼が合ってしまい、気まずくなったクライブは意味もなく会釈をした。


“何をやっているんだ、本当に――”


 発端は朝食の席でのこと。先日のゼヴェルジェン・W・ラーマスとの面談を思い出しながらモーニングメニューのオムレツをつついていたら、〈良き風のはじまり〉亭の看板娘であるエニーに辛気臭い顔をしながら食べるなと絡まれたのだ。まさか暇でもないだろうに、反対側の椅子にどすんと腰を下ろして理由ワケを問いただしてくるエニーに向け、クライブはつい人探しをしていることとそれが上手くいっていないということを話してしまった。すると彼女は、やけに親身になってとある店のことを紹介してくれたのだ。


 クライブはあてどもなく彷徨わせていた視線を、列の一番前の客のさらに先に送った。袋小路のどん詰まりにあるのは牛皮を繋ぎ合わせた白いテント、傍らの立て札には『20分10ルード』という表記。暴漢避けの街警団シティガード街警団立ち入りの紋章バナー。そしてテントの入り口の上辺に飾られた看板には、どぎついピンクのペンキを使ってこんな文字が躍っている――〈お悩み相談! 百発百中! モンスリンの弟子の占い館〉。


 青年は口の中に苦い味を感じざるを得ない。


“……まさかこの自分が、占いなんてあやふやなものに縋る日がこようとは”


 万策尽きたとはこのことだ。クライブ・ヨレンは自嘲気味にそう思う。ランカニスの行方の手がかりはなく、ゼヴェルジェンとの面談も空振りに終わった。本部からの指示もなく、資金は底を付きかけて情報屋の“蛇”に再度依頼することも出来ない。こんな八方塞りの状況では、いくら美味い食事であっても笑顔で平らげることなど出来はしないだろう。


 クライブは基本的に占いというものを信じていない。もし並べたカードの配置や翳した水晶玉で未来のことがわかるのなら、きっとこの世に不幸などなくなるはずだ。それは教会が奨励している聖人への祈祷に即物的な効果が無いのと同様である。だというのに、こうして場違いな列に並んでいるのは……ほんのわずかでも手掛かりが、いや、これからの方針のヒントのかけらの示唆でも得られればいいという藁にも縋る気持ちのためだった。


 順番が近づき、テントが近づき、〈お悩み相談! 百発百中! モンスリンの弟子の占い館〉というピンクの文字が嫌でも眼に入ってくるようになる。嘆息したくなる一方で、クライブはこう思う――あの“モンスリン”とは、『ハーヴィ・モンスリンと四人の王様』の主役である魔法使いのことだろうか。だとしたら奇妙な謳い文句だ。作中のハーヴィ・モンスリンは炎と風の魔法を使う奔放な人物という印象が強く、占いなどで他人に助言を与える場面は記憶にない。それにこの占い小屋の主だって、本当にモンスリンに師事したわけではないだろう。どんなしわくちゃの老人や老婆だったとしたって、何百年も前の物語の人物の弟子を名乗ることは無理があるというものだ。


 列が無くなった。さきほどまで背中を見せていた赤毛の若い女がテントの中から戻ってきて、どうぞ、と彼に入り口の幕の端を渡した。クライブは入れ替わりに中に入った。


 テントの中は昼であっても薄暗かった。中央には紺色のクロスが掛けられた平テーブルが置かれ、その上には丸めた羊皮紙、縦長のカードの束、クジャクの羽のペン、奇妙な柄のダイス、真球の水晶などといった怪しげな道具の数々が並べられていた。後方には虹色に着色されたロウソクが三本並べられており、その炎は、奥に座る人物の影をテーブルの上に揺らめせている。


 テーブルの縁に乗るような豊かな胸のせいで、占い師が女性であるということはすぐにわかった。しかし逆光と、頭からすっぽり被った薄紫色のベールのために、その素顔はほとんど見てとることが出来なかった。


 クライブの姿を認めた彼女は口元に神秘的な笑みを浮かべて言った。


「いらっしゃいま~せ~♪」


 そして開口一番、おっとりと間延びした声によって、その場に漂う雰囲気の全てが台無しになった。


「あらあらぁ~、はじめましての方ですね~? ミルちゃんはぁ、ミルコーテ・ミルミ・モンスリンっていいますぅ~。今日はぁ、よろしくおねがいしますねぇ~☆」


「…………どうも」


 何故か痛みはじめたこめかみに手をやりつつ、クライブはどうにかそう返事をする。よろめきながら目の前の丸椅子に座る。占い師の女――ミルコーテはなにやら嬉しそうな様子でペンを手に取り、


「じゃあじゃあ、おにいさんのお名前とぉ~、せいねんがっぴを教えてもらえますかぁ~?」


「……クライブ・ヨレン。22歳。生まれは3205年の4月7日」


「ふむふむ、くら・いぶ・さん、……っと」


 ミルコーテはクジャクの羽ペンをひらひらさせながら、紙に彼の名前を書き付ける。その文字は控えめに言って、市民学校に入ったばかりの子供がテキストを見ながら練習するものと変わらないくらい上手だった。


「それでぇ~、くらいぶさんのお目当ての方はぁ、どんな方なんですかぁ~?」


「名前はランカニス。生年月日は知らない。たぶん60歳くらいだが、年齢のわりに身体はがっちりしている。髪の毛は前のほうが薄くなってて、残ったぶんは全部真っ白だ。少なくとも10日前から、この街に滞在してるはずなんだが」


 聞き込みのために何度も繰り返したせいで、ランカニスのことを説明するのは自己紹介よりもずっとスムーズに出来るようになってしまった。ミルコーテは薄紫のベールの下でぱちぱち、と瞬きを繰り返し、こう尋ねてきた。


「えっとぉ~、その、らんかにすさんって方は、おとこの方なのですよね~?」


「そうだが、それがどうかしたか?」


「いえね? こういう相談の方も、ときどきいらっしゃるんですよぉ~。……あ、でもでも、くらいぶさんたちくらい歳の差があるパターンは、ちょぉっっっと珍しいかもしれないんですけどぉ……」


 こいつは言葉遣いだけでなく、脳みそまでゆるいのだろうか。クライブの脳裏にそんな失礼な想像が掠める。一方そんなことを知る由もないミルコーテは“むん”とボリュームのある胸を張り、


「でもだいじょーぶですっ! ミルちゃんは、殿方どうしの恋愛もばっちり☆応援しちゃいますからぁ!」


何の話だッ!?


 自分でもびっくりするほど大きな声が喉から迸り出た。それくらい彼女の発言はクライブの想像を飛躍していた。 ミルコーテは大きな眼を再度ぱちくりさせながら言う。


「えっっ、……ですからぁ、そのぉ、くらいぶさんとぉ、らんかにすさんとの恋が成就するかどうかのご相談なのでは……?」


「違う! 何もかも違う! 自分はただ、人探しをしてもらいたくてここに来たんだ!」


「えっっっ、でも、でもその、ミルちゃんの専門は恋愛相談なんですよぉ~。……いちおう、さがしもののご依頼もぉ、お受けしてないわけじゃないんですけど~……」


「そ、そういうことか……」


 列に並ぶ客の男女比。ポップでキャッチなピンクの看板。振り返れば気づけるヒントはたくさんあった――しかし、そうならそうと書いておいてほしい。こちらは占い館などに来るのは初めてなのだから。


「えっとぉ、おにいさん……どうします?」


“さあ、どうしよう?”


 クライブはどうするかを考える。まず10ルードを取り出してテーブルに置く。そしてこちらの勘違いであったことを謝罪し、速やかにこのテントから出る。その足でまっすぐに宿に帰って、エニーを捕まえてこう文句を言うのだ――“自分は男の尻になんか興味はないぞ”と。


 その一連の流れは大変魅力的ものに思えた。しかしその選択肢は、あの長い列に並び続けた三時間あまりがまったくの無駄になってしまうという欠点も持ち合わせていた。


 結局クライブは、浮かしかけていた腰を丸椅子へと戻し、占い師に向けて頭を下げた。


「……頼む。今言ったランカニスってやつの行方を――あるいは、自分がそいつと出会えるかどうかでも占ってみてくれ。専門外でも構わないし、外れても文句は言わないから」


 どちらにしろエニーには文句を言うつもりだが。


「は~いっ、ありがとうございます~。ミルちゃんがんばりますね~♪」


 ミルコーテは声を弾ませてそう答える。占いとは頑張れば精度が上がるものなのか、はなはだ疑問ではあるがクライブにその真偽はわかりようがない。


 彼女はカードの束をテーブルから手にとって、青年に言った。

 

「それじゃあ~、このカードの中からぁ、一枚選んでください~」


「……」


 これは、いわゆるタロット占いというやつか。クライブは彼女の持った赤くて厚いカードの束に手を伸ばそうとし、


「いきますよ~? 頭に気をつけてくださいね~」


 次の瞬間、放り投げられた数十枚のカードがテントの中を舞っていた。


 ばらばらばらぼたぼたぼたぼた。厚紙の群れは雹のごとくに降り注いでクライブの頭を打つ。“やっぱり帰ってればよかった――”その頭はいま、そんなことを考えている。


「……占いなのか、これが?」


「えへへへへ。これはぁ~、モンスリンさまから受け継いだ伝統的な風占いに、ミルちゃんがダイタン☆なアレンジを加えたものでして~」


 どうでもいいが、ロウソクのついたテントの中で紙きれを放り投げるとは何たる非常識か。憤懣を募らせながらクライブは己の頭の上に乗ったカードを手に取る。5センチ×3センチくらいの厚紙、上側の三分の一くらいに黒い月のような弧が描かれ……いやこれは上下逆か、なにも描かれていない白い空と、半円形の黒い草原という図柄なのか、

「むむむ、それを選ばれましたかぁ、……むむむむむぅ~……」


 クライブの手にしたカードを覗き込み、ミルコーテは唸る。その顔は、いつのまにやら額から鼻まですっぽり覆う真鍮の仮面がつけられていた。瞳にあたる部分には、瓶底メガネのような水晶の覗き穴がはめこまれている。


 ミルコーテはそのまましばらく唸り声を上げ続ける。が、ややあってから、まるで降参だとでもいうように万歳をした。


「う、うぅ~ん。困りましたぁ~」


「困ったって、何がだ?」


「え、ええっとぉ。その、らんかにすさんって方は、なにものなんでしょう~? なんだか、すっっっごく強いおまじないで守られてるみたいなぁ、もしくはぁ、すっっっごい守護霊さまにつかれてるみたいなぁ……。こんなにガードのカタくてなんにも見通せないひとって、ミルちゃんはじめてなんですけどぉ~……」


 ミルコーテは人探しは専門外だと言っていた。ならばおまじないだとか守護霊だとかは、自信が無いゆえの適当な誤魔化しなのかも知れない。もしこれがあの人物についてでなかったら、クライブの邪推は疑心へと変わっていただろう。だが、


「本人は、魔術師とかなんとか言ってたな。実際に魔法を使うところなんて見たことないし、眉唾ものもいいところだが……」


 それを聞いたミルコーテは関心したように手を合わせる。


「ほぇ~、さんですかぁ~。それはまた、不思議なおしごとをなさってる方なんですね~」


 占い師おまえが言うな。というか、モンスリン魔法使いの弟子という触れ込みは一体どこにった。


 ミルコーテはもう一度だけクライブの持ったカードと、それから周囲に散らばったカードを水晶の目玉越しに眺めた。しかし結局、彼女は諦めたようにこう言った。


「……んん~、やっぱり、ちゃんと見えませんねぇ~。ごめんなさいぃ……」


「いや、まあ。こう言っちゃなんだが、あまり期待していたわけじゃないし」


 クライブはどこかさっぱりした気分でそう答えた。むしろ出鱈目な結果を告げてくることなく、素直に失敗を認めた分だけ、彼女に対して好感を抱いたくらいだった。


「どうもありがとう。やっぱり、地道に探してみることにするよ」

 

 クライブはポケットを漁り、取り出した硬貨をテーブルに置いた。


「ううっ、おやくに立てなくてすいません~。恋愛相談とか、ほんとにだいじょぶですか~?」


 などと言われても、残念ながら相性を占ってもらいたいような女性はいなかった。クライブは短く別れを述べて椅子から立ち上がり、テントから出て行こうとした――


 直前、


「――鱗のある生物に気をつけなさい、クライブ・ヨレンさん」


 青年は意表を突かれて背後を振り返る。


 一瞬だけ覗いた外とテントの中との光量の差で彼の目は眩み、まるで闇そのものが口を聞いたような奇妙な感覚に陥る。


 闇は続ける。


「さもなくば、貴方の一番大事なものと手を切る羽目になってしまうでしょう」


 クライブは目をこする。


 仮面を外したミルコーテはベールの下で微笑み、ぱたぱたと手を振って彼に言った。


「またきてくださいね~☆」


「…………」


 おそらく、もう二度と来ることもないだろう。


 クライブは片手に持っていた入り口の幕の端を次の女性客に渡し、路地を出た。


 三時間と十ルードが無駄になったのは痛いが、もうしょうがない。とりあえず〈良き風のはじまり〉亭に戻って、遅めの昼飯を取ろう。ついでにエニーに文句を言おう。後は、それから、何をしようか――……


「ちょっと、貴方」


 そんなことを考えながら繁華街を歩いていた彼を呼び止めたのは、街警団の制服を着た若い男だった。クライブはつい身構える。今さっき、不可抗力とはいえ占い小屋の中で過剰な大声を出してしまったので、客か誰かに通報でもされたのかと思ったのだ。


 だが街警団の男はこう言った。


「ヨールレイスから来た憲兵の准尉というのは、貴方のことでしたね?」


「……ええ、そうですが」


 驚くほどのことではなかった。街警団の詰め所にはこれまで何度か出入りしている。ならば顔を覚えられていても不思議はないし、それに、こちらとしては話したこともない団員の顔まで記憶しておけなかったとしても、向こう側からすれば珍獣でも眺めるような気分でこちらのことを観察していたはずだ。アーヴィタリス市議会の下部組織である街警団とサンクタリスという国家の下部組織である連邦軍は名目上でこそ協力関係であるけれども、本当に援助を依頼してくるケースなどごく稀という話なのだから。


「ウチの隊長からの伝言で。第七支隊の詰め所の電信装置テレグラフに、貴方宛てのメッセージが届いているそうです」


「メッセージ……誰から?」


「さあ? 行けばわかるんじゃないですか」


 街警団の男は鼻で笑うと、そのまま去って行った。……無理もない。今のは二重の意味で愚かな質問だったと自分でも思う。行けばわかるというのは彼の言うとおりだし、それにクライブにも、自分に電報を送ってくるような相手の心当たりは一人しかなかった。


 エニーへの文句はあとまわしにして、街警団の詰め所を訪ねる。ゼールマン隊長は不在だったが、居合わせた隊員に頼み込むと面倒くさそうにしながらもすぐにメッセージの打電された紙を持ってきてくれた。


 クライブは休憩室の机を借り、その記号の羅列をサンクタリス標準の対訳表と照らし合わせて翻訳していく。あまり長い文章ではない、が、これは……


「――ようよう、なんて書いてあったんだい? 憲兵さんよ」


 ペンを動かしていた手を止めると、休憩室でサイコロ遊びをしていた団員の一人がそう尋ねてきた。髭もじゃでいかつい大男、彼のことは覚えている――たしかライズベックとかいったか。コロ振りで後輩をやっつけたのか、ずいぶんと機嫌が良さそうだ。


 クライブは返事のかわりに彼にその漉き紙を見せた。


「なんだこりゃ。何の文章にもなってねェ、ただのめちゃくちゃな文字のカタマリじゃねェか。……あー、ひょっとして機械がイカレちまったかなあ?」


 ライズベックはガリガリと後ろ頭を掻く。


 送信装置、受信装置、中継施設、それらを繋ぐ銅の回線。そのどれかひとつが故障しても電信装置は正常に機能しない。技術的にまだ発展途上ということもあり、送り手側にそのつもりがなくても受け手側に意味不明な信号が届いてしまうということは珍しくなかった。


 クライブは苦笑いを浮かべながらライズベックから紙を受け取る。そこに書かれている文章は確かに、異世界の言語のように意味不明な文字列でしかない。

 

 が、しかし、それこそ彼が心から待ち望んでいたものでもあったのだった。

 



          ▽    ▽    ▽

 



 それから一時間後、クライブはスコーエン駅前のターミナルに向けて全力で走っていた。


「――待ってくれ!」


 叫ぶ。彼の乗らなくてはいけないはずの乗合馬車オムニバスは車輪止めを外され、中年の御者は轡に繋がれた牝馬の尻に向け今まさに鞭打たんとしているところだった。クライブは息を整える間もなく、その御者を見上げこう尋ねた。


「タリス大橋経由のアルガン・ファーマズ記念公園行きの馬車バスはこれか!?」


 街警団の詰め所に届いていた電報は案の定クライブの上司であるハリス・ノットル中佐からのものだった。それは今回の任務発令の際に付諾されたMP独自の暗号鍵を使わなければ差出人すらわからないもので、しかも全文を読み解くには、別回線を使って民間の電信会社に届けられたもう一通のメッセージと重ね合わせる必要があるという手の込みようだった。


 埋設された回線を掘り返したり、中継所の局員や受信装置を扱う人間を買収したり。電信装置を用いた連絡は完全に防諜するのが難しい。暗号や分割による隠ぺい工作は第三者に絶対に知られてはならないという意志の現れであり、であるならば、今回のメッセージは非常に重要な指令であると考えるべきだろう。それくらいはクライブにも察することが出来る……が、それはさておき、もう一通の電報の宛て先を第七支隊の詰め所から10キロも離れた会社にしなくても良かったのではないかとも思う。送り主がハリス中佐かどうかはわからないが、どちらにせよその人物はアーヴィタリスのことをあまりよく知らない人間だろう。第七支隊の詰め所から電信会社に移動して二通目の電報を受け取り、暗号を読み解いたときには、指定された馬車の出るターミナルへ向かうための時間的な余裕がほとんど残されていなかったのだから。


 おかげでさんざん走らされる羽目になったが、どうにか間に合った。


 クライブは愛想の悪い御者に銅貨を渡し、昇降用のステップを登る。彼が乗り込むのとほぼ同時にピシリという鞭の音が聞こえ、馬車はがたがたと走りはじめた。

 

 箱馬車の中は横幅2メートル、奥行き3メートルくらいで、壁沿いには木板が張り出しただけのベンチが設けられている。そこには五人の先客がいた。山高帽の中年男性と、彼と手を繋いで外の景色を眺めている妻らしき女性。分厚い本に丸メガネ越しの視線を落としている学生風の青年。ボンネットのようなスカートで三人分の席を独占する婦人。そして海鳥の装飾のほどこされた杖に手を乗せた白髪の老人。


 クライブはスカートの裾を踏まないように注意し、杖をついた老人の横に座った。 呼吸を整え、髪を整える振りをしながら、乗り合わせた人々の様子にそれとなく視線を送る。中年の夫婦と学生風の青年と若い婦人と白髪の老人。その全員がごく普通の一般市民に見え、彼の目的とする人物のようには思えない。


『15時30分スコーエン駅発タリス大橋経由アルガン・ファーマズ記念公園行きの乗合馬車に乗り、途中でやってくる中央軍の男と合流する。あとはその男の指示にすべて従う』――それが、ハリス中佐からクライブへの新たな命令だった。相手の男の名前も特徴も、どんな指示が与えられるかも電報には書かれていない。これもまた、機密性を高めるための措置の一環というやつだろう。


 監視対象にむざむざ逃げられた役立たずの憲兵に対して、果たしてどのような指示が与えられるのか。あるいはどのような処罰が下されるのか。それを考えると苦々しい気分になるものの、同じくらいクライブは安堵もしていた。もうこれ以上ランカニスを探してあてどもなく彷徨う必要がなくなるのであれば、それは彼にとってある種の救いに違いなかったから。


 やがて乗合馬車は最初の駅に到着したらしく、ゆるゆると速度を落として停車した。中年の女性と学生風の青年と若い婦人と白髪の老人が降りた。新たに乗ってくる者はいなかった。馬車は再び走り始めた。


 馬車の中にはクライブと、山高帽の中年男性だけが残った。


 男はクライブのことをじっと見詰めて言った。


「やあ、また会ったね」


「――え、……ええと……、」


 人違いかと思い、クライブは馬車の中に視線を彷徨わせた。もちろん今は彼らだけしかいない。だが些細な違和感を手繰り寄せてみると、答えは意外なところに転がっていた。


「あ……! 貴方、ひょっとしてさっきの占い館で自分の後ろに並んでいた……?」


 記憶が繋がり、間違いないという確信が沸く。そうだ、たしかにあれはこの男だ。言葉こそ交わさなかったものの、さっきは目と目をあわせて会釈までしたのだ。


 だが彼はえくぼの皺を深めつつ、「五十点だな、クライブ・ヨレン准尉」と言った。「私たちは5日前にも会っている。あのときも馬車の中でのことだった。座席で新聞を読んでいた私に、〈ホテル・グランド・ローゼア〉まではあとどのくらいかと聞いたんだよ」


 ……言われてみれば、そんなこともあった。あのとき誰かにそんな質問をした……しかし、その相手の姿かたちに関する記憶はまるで一週間前の朝食のようにおぼろげだった。


 男は山高帽を脱ぐ。ポマードで整えた短い黒髪、皺の入りはじめた柔和そうな顔立ち。こちらを観察するこげ茶色の瞳はあくまでも穏やかで、軍人らしき険しさはおよそ見当たらない。


「どうかな准尉。この街の感想は?」


「いやもう――何がなんだか」


 クライブは本心からそう答える。夜闇を照らす蟲どもを筆頭に、情報屋の蛇にマヤトのオニたちに曲芸士じみた運び屋ペパーミントにマフィアの小さなボスに頭のいかれた占い師。この街で出逢うのは一癖も二癖もあるような変人奇人ばかりで、もはや何がなんだかわからない――……が、そいつらに比べてごく平凡そうに見えるこの人物こそが、ハリス中佐からの電報にあった“中央軍の男”であるらしい。


「……ずっと自分のことを観察していたんですか?」クライブは訊ねた。


「ずっとではないよ。それでも、キミがどこへ行って誰と会ったかくらいは把握しているつもりだ。気に障ったかな?」

 

「いえ……」


 クライブは内心で苦笑する。ヨリコたちマヤト人にしてもそうだが、むしろご苦労様なことだとすら思ってしまう。たとえ交代でやっていたにせよ、どこをほっつき歩くか判らない自分のことを毎日毎日つけ回すのはさぞ骨が折れることだったろう。


「さて、自己紹介をしておこう。――といっても、すまないがここで本名を明かすことは出来ない。よって、私のことは“レイザー”とでも呼んでくれたまえ」


剃刀レイザーか”クライブは口の中で彼の渾名を唱える。柔和そうな見た目に反し、コードネームのほうは鋭くてよく切れそうだった。彼は続けた。


「所属としては特務諜報部ということになっている。階級は大尉相当官だが、襟に飾りをつけるわけにもいかないわれわれ特諜部には星の数はあまり意味が無い。私も、最後に軍服に袖を通したのはもう二十年以上も昔のことだ」


 特務諜報部――。クライブも名前くらいは聞いたことがある。しかし、その実態についてはほとんど知識が無い。かろうじて知っているのは、諜報部の局員は制服を着たままでは得られない様々な情報を収集するため、民間人を装って各地に潜入するということだ。


“我々サンクタリス軍の諜報員は優秀ですので”――……ゼヴェルジェンとの会談の際に使った詭弁がふと思い出される。あのときはアーヴィタリスに特務諜報部がいるかどうかクライブは知らなかったし、もし潜入しているとしても自分に接触してくるとは思ってもみなかった。正体の発覚=任務の失敗である彼らにとって身分の秘匿は基本かつ最重要であり、同じ軍に所属しているからといって用も無く話しかけてくることなどありえないからだ。


 果たして、目の前の諜報員の男は自分にどのような用があるのか。そして優秀なのか否か。


 見極めんとするクライブの眼に、自然と力が込もる。それに気づきながらも、レイザー氏は変わることのない口調で言う。


「この街には、私以外にも数十人の局員がそれぞれ身分を隠して生活している。さっきまでこの馬車に乗っていた連中、そしていま御者台で手綱を取っている男もその一部だ」


「……おかしいとは思ったんです」青年はわずかに嘆息した。「さっきまで貴方と手を繋いでいた女性が、貴方に別れの一言もなく馬車を降りたから」


「少々演出過剰だったかな?」とレイザー氏は苦笑してみせた。「だが察しているとおり、君の挙動は色々な組織から注目を集めている。連中の耳目を逃れて話し合いの場を持つというのは案外面倒なものでね。とにかく、偽装はいくらしても足りないということはない。もっともさきほどのは、君の顔を彼らに覚えさせておきたかったという意図もあったのだが」


 クライブは頷きを返す。二人きりになるのが不自然に見えることなく、さらに第三者に聞き耳を立てられる心配がない場所。この雑多なアーヴィタリスという街では、そんな機会と環境はなかなか転がっているものではない。


「この馬車が終点に着くまで、あと三十分ほど。時間はあまり潤沢にあるとはいえない。さっそく本題といこう」


 レイザー氏は座席からわずかに身を乗り出し、言った。

 


「おめでとう、クライブ・ヨレン准尉。試験は合格だ」



「……は?」


 間の抜けた声が喉から漏れた。試験など受けていた記憶は自分にはない。しかしレイザー氏がこちらに向けるまなざしは、隠れたジョークを探る気持ちすら起こさせないほど真剣なものだった。


「どういう意味ですか?」結局、クライブは何の捻りもない質問を発した。「試験とは、いったいどのようなものでありますか」


「アーヴィタリスという街そのものが試験の場だった。この街に到着して以降に君が取った行動を、我々はすべて解答と見て記録した。我々は君の解答を採点した。そして百点満点とはいえないものの、君は我々の求むるに足る人材であるという結論が出た。つまり合格ということだ」


 レイザー氏の言葉が示す意味を推測するにつけ、クライブは己の顔つきが険しくなっていくのを感じた。こちらの動揺を知り尽くしているような冷静さで特諜部の男は続けた。


「そもそも、疑問に思わなかったのかな? 今回の任務が君単独であったことに」


 思った。だが与えられた任務に疑問を挟むことは、正しい軍人のすることではないとも教わっていた。それにあのときは、戦場から遠く離れた市街地で老人ひとりを監察することなど、たいした任務ではないとも思ったのだ。“愚かしくも”


「じゃあ、もしかして……」クライブ・ヨレンは、我知らず声を震わせながら訊ねた。「ランカニスが自分の監視から逃げ出すのは、


 それは胆汁の味のするような想像だった。脳裏にかすめることすら躊躇われるほどの……だが万一そうであるのなら、あらゆる疑問に説明がつく。ついてしまう。単独任務だったことも、市場調査などというあやふやな内容も。ランカニスの行動に軍を敵に回すほどのメリットがあったのかなどという謎でさえ、まったく馬鹿げたものとなってしまうのだ。


「貴方たち特諜部はもちろん、自分の上官ハリス・ノットル、そしてランカニスも……知らないのは自分だけだった。試験のために――ランカニスに逃げられた自分がどんな行動をするのか、それを見るために……」


「御明察。今度は八十点だ、クライブ准尉」


 とレイザー氏は頷いた。それから質問が来た。


「准尉は我々が、どうしてこの街にいると思うか?」


 クライブは半ば上の空で答える。


「情報を収集するためでしょう?」


「無論それもある。だが、我々の活動はそれだけではない。そもそも、なぜ軍隊は情報を収集しなくてはならないのか?」


 指摘されてみれば、それは明白だった。特諜部は民間人を装って敵勢力圏に潜入する。つまりレイザーたち特諜部にとって、ここは敵地であり戦場なのだ。


「……戦いに勝つため、ですか」とクライブは答えた。


「そうだ――マルセア公国の連邦編入から20年経った現在でも、ヨールレイスの本省はこの街の実権にまるで手を出せていない。地方自治などといえば聞こえはいいが、これでは国の中にもうひとつ国があるようなものだ。
 そういう意味では、我々がしている戦は国盗りともいえる。戦とは銃で撃ち合ったり剣で切り結んだりするもののみではないのだ、准尉。たとえば敵組織の人間同士を仲違いさせること、敵国の市民に政府への不満を掻き立てることなども、流血こそ見られずともまぎれもない戦闘行為といえる。
 我々の敵はこの街の権力者階級。そして勝利条件は、彼らの牙城を切り崩し、連邦本省の支配体制を確実なものにすること。我々特諜部は云わば、たった数十名からなるアーヴィタリス攻略隊というわけだ」


 レイザー氏が明かした事実は、今度は驚くほどのものでもなかった。連邦政府の官僚とアーヴィタリス、ひいては旧マルセア公国の支配層の折り合いが悪いのはよく知られたことだったし、ジロウ氏たちマヤト人はその権力争いに巻き込まれることを恐れてもいた。本省側がこの状況を覆すために工作員を潜入させていたとしても不思議はない――のだが、


「自分は、ただの憲兵尉官に過ぎません」とクライブは言った。「その自分が、どうしてこのような試験を受けなくてはならないのでありましょうか?」


「もっともな疑問だ」とレイザー氏は頷いた。「事の発端は半年前だ。我々の仲間の一人が殺された。死体には拷問を受けた痕があった」膝の上で山高帽をもてあそんでいた彼の指が、その中ほどをべこりと掴み潰した。氏は苦々しい声で続けた。「どうして正体が発覚したのか? 誰が彼を拷問したのか? そして最も重要なのは……彼が、どのような情報を引き出されたのかということだ。我々にそれを知るすべはない。しかし今のところは新たな殉職者が出たり、我々の誰かに監視の者がつけられているという兆候もない。殺された仲間は勇敢な人物だった。きっと拷問にも屈することなく、秘密を守ったまま死んだのだろう。私個人としてはそう信じている……が、楽観するわけにはいかなかった。最悪の場合、この街で息を潜めている特諜部の全員が芋づる式に始末される可能性もあったのだ。我々は一時、活動を休止せざるをえなかった」


 黙って聞き手に回っていたクライブのことを、レイザー氏は再び見やった。


「息を潜めながら、我々は一計を講じた。特諜部が動けないなら特諜部以外に動いてもらえばいい、まあそれだけの単純な策だ。
 准尉も知っているだろうが、これまでにサンクタリスの軍人が正規のルートを使ってアーヴィタリスに逗留するケースは何度かあった。特使として、参謀として、あるいは剣術指南役として。彼らは皆政治的な理由でアーヴィタリスを訪れ、極力の慎重さでもってそれぞれの任務を成功させた。市議会や貴族院にこちらから喧嘩を売るような真似は、軍上層部としても望んでいないことだったからだ。
 そこで、我々は考えた……アーヴィタリスに逗留することになった軍人に、と。与える任務は取るに足らないものでいい。長期滞在する口実になるものであればもっといい。計画は対象となる軍人自身には知られてはならず、さらにその状態でも嘘の任務を放棄してしまわない、真面目で頭の硬い者が望ましい。
 そうして選ばれたのが君というわけだ、クライブ・ヨレン准尉。逃がした監察対象をさがして街をさまよう君の事を、どの組織がどの程度重要視するか? あるいはしないのか? もし君に注意が行くならば、それは我々が影で動きやすくなるということでもある。
 もちろん途中でランカニスの捜索を放り出してしまうようでは困るが、その意味では准尉は我々の期待以上に動いてくれた。まるで注目してくれと言わんばかりにマヤトの〈鬼の棲家〉や“狡賢小兵”ゼヴェルジェン・W・ラーマスの懐に単身飛び込んでいくさまは、我が身を囮にするためにクデオの丘で光の剣を掲げた勇者サリアディの再来かと見紛うたものだ。――おや、気に障ったかな?」


「…………いえ……」


 クライブは汗をぬぐう振りをして、いつもどおりの硬い表情を取り戻した。


「それで、自分はこれからどうすれば?」彼は話を替えるかのようにこう訊ねた。「このまま囮としてランカニスを探し続ければいいんですか?」


「いや、その必要はない。あの老人にも、そろそろ本来の任務をしてもらわなくてはならないからな」とレイザー氏は言った。「それに、君に囮を継続してもらうつもりならこうして会ったりせず、君の忍耐力が切れるまで放置しておくさ。君自身は何も知らないまま好き勝手に行動してもらったほうが、デコイとしての効果は高いのだから。
 ――さっきも言ったろう。“合格だ”とね。我々は君の有用性を認めたのだ、准尉。君の実直さや行動力、任務を貫徹しようとする意志などを。面映い言葉が苦手なら、君のバカ真面目さが気に入ったのだと言い換えてもいい。そういう人物には、ヨールレイスへ回れ右するよりもやってもらいたい仕事があるのだ。この街でな」


「……方々に顔が割れているなら、特諜部の一人として市井に紛れるのは無理でしょう」


「なに、そんなことは承知している。我々のような扮装をしろなどとは言わないさ。憲兵尉官としての君の身分はそのままだし、それに、やってもらうことというのはある民間人の監視と警護だ。詳細は明後日、現地を案内するとともに通達することになるが……ま、君が本来所属している“X班”の任務と大差あるまい?」


「はい」


 クライブはいささかの惑いも見せず、己が運命の変転を受け入れた。急といえばあまりに急な話だが、この程度の理不尽で文句を言っているようでは軍人は務まらない。けれども文句の代わりに、クライブは尋ねた。

 

「ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「何かね?」


「先ほどおっしゃられた、“ランカニスの本来の任務”とは一体何なのですか」


「……それは、今の君が気にすることかな?」


 レイザー氏は探る声でそう問いを返してきた。彼の反応は当然のものだ。すべてが欺瞞であったと明かされたいま、クライブがランカニスの行動について知る必要など何もないはずなのだから。


「任務の変更や、知らないうちに試されていたことには不満ありませんが」我ながらおかしなものだと思いつつ、クライブは答えた。「この十日あまり、自分はずっとランカニスのことを追い続けておりました。たとえそれが無益なものだったと知らされても、その思考をたちどころに切り替えられるほど、自分の頭は柔軟に出来ていないのです」


 それを聞いたレイザー氏は、なるほど、と妙に納得したように頷いた。


「准尉も知っての通りだ。軍が彼に依頼したのは“市場調査”だよ」


 レイザー氏はわずかに笑みを浮かべた。が、相変わらずその言葉に冗談の色は無かった。彼は続けた。


「もちろん、小麦や魚の売れ行きを調べるわけではない。調査の対象はとある禁制品だ。アーヴィタリスという大きな街には非正規ルートの売り物を扱う市場も多く存在しているが、一般人に偽装した我々や、君のように正規の逗留を認められた軍人には中々それらを調べることは出来ない。そういう意味では、あの魔術師を自称する老人は闇市場にもそれなりのコネを持つ便利な駒だ――もっとも、少々ふんだくられはしたが」


「その禁制品というのは、一体?」クライブは質問を重ねた。


「魔法の品だよ、准尉」まるで御伽噺を語るかのごとき声でレイザー氏は答えた。「我々がアークメイジ・ランカニスに調査を依頼した対象。大陸協定で禁制品とされたそれは、加工生命というありえざる存在を造り出す恐るべき古代遺産アーティファクト――名を、“黒水晶モリオンの針”という」
 


          ▽    ▽    ▽



 クライブを残し、レイザー氏ひとりだけを乗せた馬車がガラガラと遠のいていく。


 彼が下ろされたのは見覚えのない、潮の香りのしない市街地だった。馬車の中でタリス大橋を渡って10分ほど経過したはずだから、位置的には大学通りが近いのだろうか。詳しい地理はわからないが、エトラン河に沿った街道に出ればあとはどうにかなるだろう。


 近くには市民学校もあるらしい。おそろいの鞄を振り回しながら駆けていく小さな子供たちを横目に、クライブは橋の方角へ向かってとぼとぼと歩く。急ぐ理由ももはや無い。それどころか、明後日に新たな指示を貰うまで、やらなくてはならないことなどなにもない。


 しばらく歩くと、行く手からは据えたような水のにおいが漂ってきた。

 

 エトラン河はアトラ山地を源泉に持つ、大陸でも有数の大河だ。現在のアーヴィタリスのとなった漁村アヴィノ――現在のアヴィノー地区、そして旧マルセア公国の主城である〈キャッスルブラネット〉も、この河のほとりに存在している。


 河口から5キロほど遡ったタリス大橋では、川幅はおよそ500メートルといったところ。似顔絵書きに両替商、アクセサリー売りといった青空商売が両脇を埋める大きな橋から視線を下ろすと、青黒く濁った川面の上を小型の蒸気船や手漕ぎ舟が行き来しているのが見える。


 このエトラン河を主動脈として、海岸線を南端、城塞地区を北端に取り、東西に野放図に広がるのがアーヴィタリスという巨大都市だ。ここには数え切れない家々が建ち並び、さまざまな品を造り出す工場が排煙をあげ、青い光を放つ蟲が舞い、そして何百万という人間が暮らしている。彼らは表裏・大小を問わず、何らかの組織に関与している。


 自分の行動はこのアーヴィタリスの利権を握る組織の監視対象になりうるのだという。だとすれば、今もどこかの誰かが自分のことを見張っているのだろうか? 


 クライブは橋の上で立ち止まり、前後を見渡す。時刻は15時過ぎ、街の東西を繋ぐ最も大きい橋の上は当然ながら交通量も多く、立ち止まるとたちまち背後から誰かに“ドン”とぶつかられた。新聞の束を小脇に抱えた少年はクライブを追い抜きざま、不愉快そうな一瞥を残して小走りに去っていった。


 橋の上の障害物となったクライブを避け、川を渡っていく数え切れない老若男女。彼らを見ても欄干沿いの商人たちを見ても、その顔に追跡者の兆候を見出すことなどクライブには出来ない。


 しかし。


 それでも、もし今この場に自分を監視している誰かがいるというのなら――


 橋の真ん中で、彼は大きく息を吸いこんだ。肺の中いっぱいに溜め込んだドブくさい空気、それをすべて声に変換して、こう叫んでやりたかった――“無駄だぞ”と。大声で宣言してやりたかった、“自分を尾行つけまわしたところで、得られるものは何もないぞ”と。


 そう、無駄だ。すべては無駄だった……ランカニスを探して足を棒にした日々も、情報屋に支払った大金も、何より、ドロッグ・ソーヴォたちの死も。すべては軍の上官たちによる計画と、それに踊らされた自分による茶番でしかなかったのだ。


“自分と出会うことさえなければ、ひょっとしたら、彼らの生命は失われることもなかったかもしれないのに――”

 

「……」


 吸い込んだ息を、鼻からゆっくりと吐き出す。クライブは結局、沈黙を保ったまま橋の上を再び歩きだした。

 

 すれちがう人々の正体を疑いながら歩くのに嫌気がさして、彼は川の下流側に視線を固定する。すると川のそこかしこで、時折小さな波紋が起きていることに気づく。ぽちゃん――ぽちゃん。誰かが石でも投げているのかと思ったが、どうやら羽虫を狙った小魚が川面を跳ねている音らしい。濁りきった水の中から飛び出すその瞬間、小魚の銀のウロコが雲の切れ間からそそぐ日差しを受けてちかりと瞬いた。


 クライブの脳裏に、ふと、占い師ミルコーテのことが浮かんだ。


 無駄の極地のようなあの占い小屋での時間の締めくくりに、彼女が投げかけてきたおかしな言葉。――ウロコのある生物に気をつけろ、さもなくば大事なものを失うことになる――とかなんとか。


 あれはいったい、どういう意味だったのか。


“寄生虫入りの魚を食べて死ぬ未来が見えたとか、そんなところだろうか。あるいは”


 もっと穿った見方をするなら……そう、魚以外にもウロコのある生き物はいる。たとえばワニとかトカゲとか……


“‘蛇の舌ベロ'が何かをたくらんでるとか、そういう予言だったのか?”


 しかし気をつけろと言われても、ランカニスの件が解決してしまった以上、あの情報屋と会うことはもう二度とないだろう。向こうから会いに来る可能性も――まあ、ないと見ていい。そもそもクライブには、あの太りすぎた男が巣穴から出てくるところが想像できない。


“じゃあ、自分にとって一番大事なものとは何だ?”


 これまでそんなことは考えたこともなかった。命? 家族? 任務? ……どれも違う気がする。咄嗟には思い浮かばない、いや、ゆっくり胸に手を当てて考えてみても、これだと胸を張って言えるものが思い浮かばない――少なくとも、現在いまは。


 だが子供の頃のクライブには、いちばん大事だと言えるものが確かにあった。


 それはもはや失われて久しく、いまさら取り戻すことも出来ない。それはある殴打とともに失われ、その衝撃のあまり自分は故郷を飛び出し、軍に入り、結果的にこんな街にいる。


“……そうか”


 ふと、気がついた。


 こんなことをしている場合ではないと何度も自問しつつ、しかし、それでも廃工場での事件の真相を追い求めた理由。

 

 それはドロッグの仇を取りたいからとか、真の悪に法の裁きを与えるためだとか、そんなご立派な理由などではなかった。 あくまでも、それは自分のためだった。


 要するに、クライブは再確認をしたかったのだ。自分にとって一番大切だったものが、ということを。


 自分が■■などにはということを。


 そんなことのために、自分は情報屋を二度も訪ねたり、マフィアの親玉と交渉したり、占い館に出向いたりしていたのだ――

 



 レイザー氏の登場によって、『ランカニスを探す』という目的は消失した。

 

 だが、まだ、廃工場での事件のほうは終わっていない。

 



 橋を渡りきったクライブは懐から財布を取り出す。すぐ近くにいたオレンジ売りの少女が期待を込めた眼で彼を見あげる。が、青年はまったくそれに気づかない。財布の中に入っていたのは数枚の硬貨、連邦内における通行許可証、スリ避けのための聖ルザナのお守り……


 そして、ある場所への地図が記された紙切れだった。




          ▽    ▽    ▽




「よォよォ、良く来てくれたじゃねェか兄弟」


狡賢小兵こうけんこひょう”ゼヴェルジェン・W・ラーマスは上機嫌に挨拶すると、その小さな手でクライブの手を握った。


 前に彼が言ったとおり、今度は予約アポを取る必要もなかったし、長々と待たされることもなかった。ガラの悪い門衛に自分の名を告げた数分後には、クライブはゼヴェルジェンの“執務室”に通されていた。


 こちらの素性を調べ上げた紙の裏面へ、ゼヴェルジェン手ずから記した彼のアジト。それがどんな場所なのかは、少し調べればすぐわかった。〈小鬼ヴォーギ野営地キャンプ〉――アーヴィタリスでも流れ者が多く治安の悪いメルージナ地区の真っ只中にありながら、そこは人気ある盛り場としても有名だったのだ。


 クライブも、足を踏み入れたときは少し驚いた――まだ夕方前だというのに、その広場にはすでにかなりの密度で人々がたむろしていた。〈小鬼の野営地〉は実際のところ野営地などではまったくなかった。焚き火と食料は持ち込まれていたが、寝袋や毛布のたぐいはひとつとして見当たらなかった。それはレンガの建物が所狭しと建ち並ぶ道合に急に現れた、たったひとつの大天幕パビリオンだった。


 敷地の直径はおよそ50メートルほど。頭上には恐ろしく大きな布が張られていて、中央にいくほどそれは高くなっている。サーカスで使うような大天幕と違うのは、支柱がない代わりに周囲の建物の屋根から伸びるワイヤーによって支えられている点だ。壁沿いになるそれらの建物からは酒や軽食を振舞う店がいくつも開いており、客たちは中と外を自由に行き来出来るようになっていた。


 その客層は、お世辞にもあまり良いとはいえない。鋲付きのジャケットや帯代わりの鎖といった独自のファッションをキメたチンピラたちにはじまって、海賊のような身なりの義手の水兵、刀傷だらけの剣奴隷、むき出しの背中にドラゴンの絵を躍らせた筋骨隆々のマヤト人など、あのドロッグ・ソーヴォがカタギに見えるような悪相の持ち主がそこらじゅうにゴロゴロいる。人ごみにまぎれている派手な化粧の女たちはおそらく半分が彼らの情婦で、もう半分はおそらく早おきな娼婦だろう。


 パビリオンの内は緩い傾斜になっており、その中心では大道芸人たちが天幕のてっぺんに届くような軽業や、細く引き締まった身体の女性たちによる艶かしいダンスなどを披露しあっている。その傍らでは真っ赤な鳥のような扮装をした小さな楽団が『双子岬の海鷲』や『エッドリードの春の虹』といった古臭い曲を出鱈目に陽気なアレンジで演奏していた。


 クライブが宿泊している〈良き風のはじまり〉亭の近くの繁華街も夜の騒がしさはたいしたものだったが、この〈野営地〉はそれよりずっと荒々しくて、どこか刹那的な雰囲気があった。違いの原因はもちろん客層によるものだろう。しかし奇妙なことに、これほどたくさんの荒くれどもが集っている場所だというのに、ここにはある種の秩序のようなものが存在しているようにも感じられるのだった。


「そりゃもちろん、客同士のケンカなんざ引っ切り無しだけどさ」ゼヴェルジェン・W・ラーマスは己の本拠地である〈小鬼の野営地〉についての感想を述べたクライブに対し、こう答えた。「テントの中の出店や芸人どもは、みぃんなおいらの庇護下にある。よっぽどの事情知らずじゃなきゃァ酒代を踏み倒そうとしたり、ダンサーの姉ちゃんに手ェ出そうなんざ考えるバカはいねェってワケよ。ついでに、常連客にゃあココで悪さしようとする奴を叩きのめすのが生きがいみてェなのもいるからな。アンタも気をつけといたほうがいいぜ」


 専用の踏み台付きのソファの上で、小さなマフィアのボスがにやにやと笑う。


 ゼヴェルジェンを訪ねてやってきたクライブが通されたのは、〈野営地〉の壁となっている建物の二階だった。閑静な住宅街の空気に完全に溶け込んでいた不動産屋〈フランベルジュ商会〉と違い、こちらの建物は“悪の組織のアジト”のイメージに充分そぐう設えをしていた。階段や廊下の幅広な造りはまるで貴族の別宅のようだといっても差し支えないものだったが……たとえば壷や絵画のかわりに壁に立て掛けられているのは片手剣、両手剣、短剣、海賊刀、山鉈、マヤト刀といった刃物の数々であり(しかもどれもがただの装飾品ではなく、かつて何度も実用されていたことを物語るような刃毀れと脂の跡があった)、壁の一部分にタバコをもみ消した跡が残っていたり、散弾の跡が残っていたり、それに何より出入りする男たちの顔ぶれには、明らかに荒事に慣れているようなふてぶてしさと剣呑さが備わっていた。


「酒は何が好みだい、兄弟よゥ?」


 馴れ馴れしい口調で問いかけてくるゼヴェルジェン、彼の背後にはそんな一筋縄でいかなそうな男たちが三人と、給仕役であろう小さな少女がいた。特に緊張した様子もなくグラスを酌み交わす彼らは、ボスの身を守るボディガードというよりはクライブという珍客を肴に酒を愉しむ酔漢といった風情だ。


「舌にピリッと来るような白か、乙女の肌のように泡のきめ細かいエールか? 変り種がいいならマヤト人の造った芋の蒸留酒リキュールってのもあるぜ。遠慮するこたぁねェ、せっかく顔を出してくれたんだから好きなだけ空けてってくんな」


“昼間から酒を浴びる趣味は無い”――よっぽどそう言ってやりたかったが、わざわざ喧嘩を売りにきたわけではまさかなかった。クライブは出来るだけ感情を殺した声で、「お任せします」とだけ答えた。


 給仕の少女が琥珀色の液体を湛えたカットグラスを彼らの前に置いていく。クライブはそれに手を触れることもせず、ゼヴェルジェンの眼をまっすぐに見て言った。


「聞きたいことが出来たら訊ねてこいと、おっしゃっていましたね」


「フン、そうだったかな?」小さなマフィアのボスは短い足を組み、つまらなそうに応じた。「酒を奢ると誘った記憶はあるがね。ま、いいや。言ってみろ」


「その前に、ひとつ、謝罪をさせてください。前回お話させていただいたとき、貴方からの質問に、自分は嘘を答えました」


「ふゥん? 何だ?」


「前回貴方は、事件があったときに私があの場所にいたのではないかと疑われましたね。……ご炯眼です。おっしゃるとおり、私はあのとき、あの現場に居合わせました」


「ほぉゥ」ゼヴェルジェンはうっすらと笑って言った。「つまりおまえさんは、おいらの物件ハコに不法侵入してたっつぅワケだな」


「そうなりますね」クライブは表情を変えずに頷いた。「訴訟を起こされるのでしたら、申し訳ありませんが軍の広報部までお願いします」


「へっ、別にィ? そんなつもりァ毛頭ねェよ。あんときも言ったろう、空いてるハコをほったらかしとくとルンペンどもが勝手に入り込んじまうってな。そいつらを片っ端から訴えてこうとしたら、とてもじゃないが手が足りねェよ。――そいで? いまさらになって嘘だったことを白状するのは、一体全体どういう了見だい」


「自分があの廃工場を尋ねたのは、ランカニスという人物の捜索の一環でした。しかし先程、その捜索はもうしなくていいと、上官からの指令を受けました。
 ですが、自分はあの廃工場での事件の真相を知りたい。それは軍人としての任務ではなく、自分のこだわりによるものです。
 あの日あの場で、自分はドロッグ・ソーヴォというチンピラが殺される瞬間に居合わせました。彼を殺した人間も、この目ではっきりと見たのです。ですが自分は一度気絶してしまい、彼らの死体の行方がどうなったのかがわかりません。そしてもうひとつ、自分にはどうしても理解できないことがあるのです」

 

「ッつうと……?」

 

「それは、」

 

 ゼヴェルジェンの眼をまっすぐに見ながら、クライブは尋ねた。

? ということです」

 彼は続ける。

 

「あの殺人犯は廃工場の中に監禁されていた。しかも、肉体的にも精神的にもまともではなかった。つまり、彼をあのような状態にした何者かがいることは間違いありません。その何者かが、殺人犯となった彼をそのようにした目的……自分はそれを知りたいのです」


 そこまで言われても、ゼヴェルジェンの顔には薄ら笑いが貼り付いていた。ただしその落ち窪んだ瞳からは歓待のすでに気配は消えており、背後の部下たちもそれを察したように談笑をやめていた。


 窓の外からは〈野営地〉の酔っ払いたちのバカ騒ぎの声と、海賊流のアレンジを加えた『刃の踊り子』の演奏が聞こえてきていた。からり、とカットグラスの中で溶けた氷が音をたてた。


「――不思議だなァ、准尉ドノよ」矮躯の頭目は言った。「その殺人犯ってのが、どんな人間かもわからねェ。あんたもそれを言おうとしねェ。だっつうのに、どうしてそんなことをおいらが答えられると思うんだい? そいじゃあまるで、おいらが真犯人みてェじゃないか」


 クライブは言った。


「答えられないとおっしゃられるなら、もちろんそれで構いません。その場合、前回のように、貴方のお持ちの空き物件を見せていただきたいのですが」


「――あァ? どれのこったい、造船場の中はもう見せてやったろ」


「もちろん、


 これが一般市民の口から出た発言だったなら、ゼヴェルジェンは罵倒とともに――場合によっては暴力を駆使して彼を叩き帰していたことだろう。しかし生憎と、クライブには国家の後ろ盾がある。いや、実際にはほとんど無きに等しいのだが、脛に傷持つゼヴェルジェンとしてはこちらの足元を見ることは難しい……はずだ。“もちろん、希望的な観測に過ぎないが”


「……ひとつ忠告してやるがね、准尉ドノ」ゼヴェルジェンは押し殺した声で言った。「世の中にゃァ、たった一息ぶんだけで人生の階段から転がり落ちる言葉ってモンもある。もちろん、聞いちまっただけで命を落とす言葉ってモンもある。ヒトの口から言葉――そりゃつまり情報だ。どうして情報屋なんて商売が存在してられるか? 情報ってモンが金になるからだ。金のために人を殺せるヤツなら、おいらはごまんと知ってる。おまえさんもそれくらいわかるだろう……キレイごとを言ったって、兵隊なんざ人殺しを商売にする専門家だ。それに戦争なんつうもんは、結局のところ金が原因で起きるンだからな。
 で、だ。それを踏まえたうえでも、おまえさんにゃァおいらから話を聞く覚悟があるのかい?」


 このアーヴィタリスの街で、生死を脅されたのはこれが二度目だった。


 加工生命のわざを人体に行使することは大陸法で禁じられている。無法の徒たる悪の親玉といえど、公権力に正面から訴追されれば立場を危うくするかも知れない。


 真相を暴かれる不利益と、クライブを消すことによって発生しうる不利益。それらを天秤の両側にかけて、後者に得ありとみなしたならば、ゼヴェルジェンは迷わず実行にかかるだろう。


“そんな危険を冒してまでも、自分は踏み込むのだろうか?”


「覚悟があるかはわかりませんが」クライブは半ば反射的に答えた。「意地ならば、あります」


 思いがけず滑り出た言葉、それを吐き出した口が、まるで自分のものではないようなおかしな錯覚。こんな自己主張をしたのは生まれてはじめてか――あるいは、思い出せないくらい久しぶりかもしれない。


 咳払いをひとつして、クライブは続けた。


「……ついでに。先ほど言ったとおり、自分は任務でここに来たわけではありません。よって、貴方の口からどんな話を聞いても、連邦に報告する義務も理由もありません」


「……その言葉を信用しろ、ってか?」


「はい」


 前回は着ていた軍服を、今日は着ていない。信じる根拠としてもらうには薄弱な示唆だが、こちらの意図に気づかない相手だとは思わない。


 ゼヴェルジェンはそれからしばらく、沈黙を保った。


〈野営地〉のほうからは相変わらずガラの悪い喧騒が聞こえている。笑い声と怒声と嬌声、そして時折悲鳴らしきものがそこに混じる。あの窓から身を乗り出せば、眼下に見えるのは浮かれ騒ぐ人間たちの姿などではなく、御伽噺に出てくる小鬼たちの饗宴かも知れない。


 そんなパビリオンを仕切るボスの執務室で、クライブはあらためて居心地の悪さを感じた。


 目の前に座る小鬼の代表、そのごつごつした頭の中では、こちらのことをどう料理するかが考えられているに違いなかった。


 クライブの視線が執務室の中を泳ぐ。部屋には自分とゼヴェルジェンと給仕の少女、それから荒事慣れしてそうなやくざものが三人。


 ――もし彼らをけしかけられた場合、どうするべきだろうか?〈野営地〉全体が敵だと思えば、安直に出口へ駆け込むのは悪手だ。それよりも、まず壁に吊るしてある剣の一本を拝借するのがいいだろう。可能なら、そのまま彼らのボスを人質に取れるともっといい……


「じゃ――ひとつ勝負でもしようかね。准尉ドノ?」


 不意にそんな提案をされ、クライブは鸚鵡返しのように聞き返す。


「……勝負、ですか?」


「そうだ。おまえさんが勝ったら、望みどおりおいらは知ってることを全部吐く。が、おいらが勝ったら――」


 ゼヴェルジェンはソファの上から僅かに身を乗り出し、言った。


「あんたは、おいらの手下になんな」


「…………」


 潰れた鼻、棘付きの鞭で叩かれたようなぎざぎざの傷跡。お世辞にも美しいとは言えない“狡賢小兵”の顔には、冗談の気配など微塵もなかった。彼の背後ではチンピラたちが互いを肘でつつきあいながら、ちらちらとこちらを見て嗤っていた。

 

 クライブは、答えた。


「――……いいでしょう」


 普段の彼ならば、およそ言えるはずもない返事を。


「ホウ、いいのかい?」


 ゼヴェルジェンは愉快そうに眼を輝かせ、さらに身を乗り出す。一方のクライブは相変わらずの鉄面皮で答えた。


「正直、真っ平ごめんですが。しかし賭けの天秤に載せるなら、それくらいの代償ものは必要でしょうから」


「ハッハ!」ゼヴェルジェンはいきなり上機嫌になって膝を叩いた。それから後ろをぱっと振り返り、「聞いたかバートン! リックス! ジェフ! ナン! サンクタリスの憲兵サマが、おいらの子分になってもいいとおっしゃる! 獰猛かつ精強で知られる青ライオンの一匹が、尻尾を丸めてこのおいらに飼われるってんだ! どうだいどうだい、こいつぁ見かけよりずっと面白そうな奴だろう!」


 サンクタリス陸軍青ライオンで獰猛かつ精強といえば憲兵ではなく銃騎兵ドラグーンか剣工兵なのだが、わざわざ誤解を解く理由は何も思い当たらなかった。代わりにクライブはこう指摘した。


「まだ、自分は貴方の部下になると決まったわけではありません」


「――おうおう、そりゃあそうだがよ。こちとら筋金入りのやくざもんで、しかもここはおいらの庭だ。おまえさんにわからないよう、こっそりずるっこするかもしれねェぜ?」


「確かに、貴方は悪人です」クライブは率直に頷く。それから少し考えて、言った。「しかし、貴方は金や恐怖や暴力のみで他人を支配しようとする人間ではない。この〈野営地〉を見てもそれは明らかだ。――安い物価。商人や芸人たちを守り、荒くれどもを束ねる手腕。『人々にパンと見世物を与えよ』という民政の故事が、この狭い世界では実践されている。それは貴方が、周囲から『ついていくに足る人物』だと思われたいからだ。
 ならば、貴方がこの賭けで卑怯な真似をするとは思えない。一点の曇りもなく自分のことを打ち負かし、心から敗北を認めさせたうえで屈服させなくては、自分は貴方をついていくに足る人物と認めることは出来ないのだから」

 

 クライブが言い終えると、ゼヴェルジェンはしばしの瞠目の後、「……参ったね、どうも」とまるで虚を突かれたように肩を竦めた。クライブとしては、見えたものをありのままに評価しただけのことだったのだが。


「周りの連中は、おいらも含めて学がなくてね。そんなふうに評価されちまったのは初めてだよ。――一応言っとくと、おいらはただ、『敵に厳しく、身内に気前良く』っつう師匠の教えを守ってるだけなんだがね。……フッフフフ――」


 こいつァ、掛け金ベットが上がっちまったなァ――……。


 ゼヴェルジェンが最後に漏らした呟きはあまりにも小さかった。そのため、クライブにはいまいち意味が掴めなかった。しかしマフィアのボスの細められた瞳に宿る眼光の鋭さは、青年の背筋を泡立たせるのに充分だった。


「よゥし、勝負の方法を決めるとするか」とゼヴェルジェンは勢いごんで言った。「運に自信はあるか、兄弟?」


「いえ、あまり」とクライブは本心から答えた。


「“キング・オブ・カード”や“鳥籠と木こりサイコロ賭博”の経験は?」


「いえ、まったく」


 士官学校時代にそうした遊びに誘われたことは何度かあったが、そのどれをも突っぱねてきたのが彼だった。ゼヴェルジェンは頬をポリポリと掻き、それからふとテーブルの上のグラスに眼を止めて、


「じゃ――酒は強いか?」


「多少は」


「殴りっこは得意か?」


「……普通かと」


 賭け事と違って、無手格闘はもちろん教練科目のひとつに含まれている。蹴りや投げが使えたという違いはあれど、こちらはまったく腕に覚えが無いというわけではない。それくらいゼヴェルジェンも予期しているだろう。ちなみに無手格闘におけるクライブの成績は中の中、つまり“普通”だった。


「――よし、決めた」ゼヴェルジェンは大きく頷き、ソファに座りなおしてクライブを見上げた。「拳闘ナックルファイトを知ってるか、兄弟よ?」


「……リングの中で、グローブをはめて殴り合う競技だったかと」


「その通り。見世物試合っつったら大抵は剣と剣のチャンバラだが、ベルファルゼンの地下闘技場でも前座試合として結構やってるらしいぜ。
 ルールは簡単だ。
 こっちの代表者とおまえさんが、リング上で殴り合う。蹴りなし金的なし目潰しなし。ラウンドは無制限、気絶するか『まいった』といったほうが負けだ。ここまではいいかい?」


 クライブは頷く。成績は“普通”だったが、カードやサイコロを使った運試しなどよりもよっぽど判りやすいし自分向きだ。


「でもな。普通に殴り合うだけじゃそのへんのケンカと一緒で、賭け試合としちゃあイマイチ面白くねェ」ゼヴェルジェンは青年のそんな内心を読んだのか、ニヤリと笑ってこう続けた。「だからひとつ、ルールを付け足す」


「……というと?」


「こっちの代表とおまえさんは、リングで三分間殴りっこしたらコーナーに戻って一分休む。で、その休んでるときにだな、」“狡賢小兵”は短い手をいっぱいに伸ばしてテーブルの上のグラスを掴み、喉をのけぞらせて中の琥珀色の液体を呷った。「くはあっ――うめェ!!」


 彼は空になったグラスを叩きつけるようにテーブルに戻し、紺のブルゾンの袖で口元をぬぐった。そして説明を再開した。「……こんなふうにだな、インターバルのあいだにグラスで酒を一杯あける。今みたいにイッキにやっても、チビチビやってもいいが、休みの一分のあいだに飲み干せなかったらその時点で負けだ。酒はいいモンを用意するからな、不味くて飲めねェなんて言い訳は聞いてやらねェぞ」


 飲む、殴る、飲む、殴る。聞くだに正気を疑うルールだが、つまりこれは相手の出方を窺ったり、逃げ回って疲労するのを待つといった消極策を封じるためのものだろう。ならば端から短期決戦のつもりで臨めばいいだけのことだ。明日は打撲や二日酔いで起き上がれないくらい悶え苦しむ羽目になるかも知れないが、どちらにせよ明後日まで待機なのだから何も問題は無い。


「――っとまあ、ルールはだいたいこんなところかな。聞いておきたいことがあるなら今のうちだぜ」

 

「では、そちらの代表は誰ですか」


 ゼヴェルジェンが促し、クライブは尋ねた。


 そう、問題は酒ではない。階級を明言しなかった以上、ゼヴェルジェンは手駒の用心棒の中でも最重量かつ一番背の高い者を出してくるだろう。リングという限られた空間、己の拳のみを武器にした戦いタイマンの場合、体重の重さは攻撃力に、リーチの長さは間合いの広さに直結するからだ。


 クライブは壁際にいる男三人にそっと視線を走らせる。それぞれかなり鍛えているし、ゴロツキらしく喧嘩にも慣れていそうな雰囲気がある。特に右端の禿頭の男は丸太のようなごつい腕をしているうえ、身長もクライブより10センチは高そうだった。あれと正面から殴り合うことになったら相当不利なのは否めない――しかし、腹を括って挑めば必ず負けるというものでもない。“来るなら来い”と青年は内心に戦意を掻き立てる。


「へッ――『ついていくに足る人物』だと思われたい、か」ゼヴェルジェンは何故か先ほどのクライブの言葉を繰り返して言った。「確かに、おいらにはそういう気持ちがある。何せこの体格だ。やくざもんの世界じゃ、それだけで舐めてかかってくる奴がごまんといるからな。そのハンデを埋めるためにゃァ、使えるモンはなんでも使って自分を大きく見せるしかねェ。ノッポに生まれた連中にはわからん苦労さ」


 クライブの胸中に、ふと疑念の影が差した。後ろの取り巻きの男たち――明らかに血の気の多そうな連中に見えるのに、名乗り出ることもせずニヤニヤ笑って成り行きを眺めているだけなのは何故だ? この場にいない、もっとゴツい仲間が控えているからか、それとも、


「けどな。こんなガタイも、たまには役に立つこともある。たとえば、さっき言ったみたいにおいらがチビだからって舐めてかかってくるような連中。そういう奴らを返り討ちにしてボコってやるとだな、普通よりもずっと強ェ敗北感を植えつけてやることが出来るのさ。そうして負かした奴は、もう二度と頭が上がらなくなるんだ。だから――」


 ソファの上で立ち上がると、ゼヴェルジェン・W・ラーマスの視線はクライブよりも頭半分上になった。そして矮躯の男はニヤリと笑い、上物のブルゾンを外套のように脱ぎ捨てた。


「もちろん、あんたの相手はおいらだ」

 

 

 

(後編につづく)

(次回更新予定:11/3)


この本の内容は以上です。


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