目次
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-1)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-2)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-3)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-4)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-5)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-6)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-7)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-8)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-9)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-10)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-11)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-12)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-13)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-14)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-15)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-16)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-17)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-18)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-19)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-20)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-21)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-22)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-23)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-24)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-25)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-26)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-27)
『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-28)

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『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-1)

《電子書籍化にあたって》

 この電子書籍は、著者である亀仙人のブログである「マルクス研究会通信」に連載したものをそのまま電子書籍化したものです。電子書籍化にあたり重複するところを削除したり、誤植等を訂正していますが、ブログ掲載の形式はほぼそのまま受け継いでおり、やや読みにくいところもありますが、その点、ご了承ください。
 また著者自身の、その後の認識の深まりにもとづいて、一部分ですが書き加えたり、書き換えたところもあります。その点、ブログと若干異なる点もありますが、電子書籍のものが最新のものとご理解ください。

 

 

【連載を始める当たって】

 

 大谷禎之介氏の論考の批判的考察は最後の項目で中断してしまったままであるが、これは私自身の草稿(特に第2部第2稿の第3章)の研究がいまだ不十分であることを自覚し、それが終えるまでは一時中断することを余儀なくされているのである。これはまだ大分に時間を要すると思えるので、別の新しい連載を考えることにした。
 これもやはり大谷氏が20年もの歳月をかけて研究してこられた成果を受け継ごうとするものである。大谷氏は第2部第8稿の現行版第21章該当部分の草稿を直接調べ上げ、その解読された原文と翻訳文を『経済志林』第49巻第1号(1981年7月)に「上」、同第49巻第2号(1981年10月)に「下」を発表されたあと、引き続き第3部草稿の研究を行い、次々とその成果を発表された。そのすべてをここで紹介するわけには行かないが、それは主に、現行版第5篇「利子と企業者利得とへの利潤の分割 利子生み資本」に関連する草稿の研究論文と翻訳文の紹介であった。
 これからこの連載で紹介するのも、この大谷氏の研究成果にもとづいて、草稿の翻訳文を各パラグラフごとに詳細に考察し、解読していくものである。ただし、発表の順序は、現行版の篇や章にもとづいたものではなく、私自身が研究に取り組んだ順に行うことにする。今回の表題の最後に(28-1)とあるのは、現行版の第28章「流通手段と資本」の研究の最初のもの(No.1)ということである。順次(28-2)、(28-3)という形で進めて行きたい。
 (28-1)は、これから草稿を研究する準備段階のようなものである。なお発表する論考は、7年ほど前に、ある研究会にレジュメとして提出されたものであり、当時の内部における論争がある程度--かなり徹底的にそうした部分は削除したのであるが--反映していることをあらかじめお断りしておく。

 

……………………………………………………………………………………

 

《「流通手段と資本」(『資本論』第3部第28章)
の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》
=の学習のために

 

 

はじめに】

 

 この大谷禎之介氏の論文は現行『資本論』第3巻第5篇をエンゲルスが編集する元になったマルクスの草稿を翻訳・分析し(大谷氏はマルクスの草稿のフォトコピーだけでなく、ナマの原稿そのものも見ている!)、エンゲルスの編集のあとを丁寧に追ったものである(マルクスはそれを「第3部第5章」としていた。だから草稿の「部」「章」はエンゲル ス版の「巻」「篇」に対応する。また大谷氏は「第1稿」としているが、第3部の主要草稿は第1稿しか残されていない)。だから第28章を理解するためには、少なくともエンゲルス版の第5篇に相当する部分全体を研究する必要があり、いきなり第28章だけを学習するというのはやや無理があるように思えるのである。しかも第5篇はエンゲルスが編集で一番手こずり、そのため第3巻刊行が遅れた主要な原因になった部分でもある(それは第3巻の序文でエンゲルス自身が語っている)。だから、ただでさえその錯綜した記述から理解が困難な部分でもあるのである。
 しかしこのレジュメでは、『資本論』第3巻をまだ読んでいない人や第5篇全体を深く研究したことのない人にも、出来るだけ内容が理解できるように徹底して平易に解説できればと思っている。それが成功するかどうか、それはとくとご賞味頂きたい。
 だからまた頭からハネつけて「自分には理解できないから」と諦めないで、とにかくこのレジュメだけでも読んでもらうことを、切にお願いする。

 

1、「第5篇」全体の構成とマルクスの草稿

 

 1)、第5篇全体では何が論じられているのか?

 

 われわれは「第28章」にとりかかる前に、まず「第5篇」全体はどういうことを論じているのか、またどういう構成になっているのかを.つまり全体を見渡しておこう。
 これも詳しくいうとキリがないのでとにかく簡単にやることにする。
 第5篇のテーマはその表題「利子と企業者利得への利潤の分割。利子生み資本」(マルクスの草稿では「第5章 利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本」となっている)に明確に示されている。つまり「利子生み資本」が中心テーマなのである。
 「利子生み資本」て何や? とすぐに疑問が出てきそうである。当然である。しかしまあ、それはおいおい説明するとしてとりあえず置いておこう。
 表題だから内容を表しているのは当たり前やないか、とまた言われるかもしれない。これもまたしごくごもっともである。しかし実は、この第5篇の主要なテーマをどう見るかということは、必ずしも簡単な問題ではない。
 この第5篇は通常「利子・信用論」として理解されている場合が多く、マルクスはここで「信用」問題を中心に取り扱っているとする理解が一般的だからである。だからこの問題でも、「利子生み資本が中心」とする大谷氏と「いや信用論だ」とする三宅義夫氏との間で論争があったのである(この場合、われわれは独特の理解を示す宇野派は論外に置いていることを断っておく)。
 結局、この論争は三宅氏の批判に大谷氏が正面から答える前に三宅氏が亡くなり、その後、大谷氏の反論が出されたが、そういう経緯もあって必ずしも決着がついたとは言えない状態になっている。しかしいずれにせよ、その論争の詳しい内容はわれわれにとっては不要であろう。とにかくそういう論争があるほど、そんなに簡単な問題ではないということを押さえておいて欲しい(つまり依然としてその理解にはさまざまなものがあり、三宅氏と同じ理解を示している学者も多くいるということだ)。

 

 2)、第5篇の三つの構成部分

 

 われわれは大谷氏の説に一応もとづいて論じることにしよう。第5篇の主題は「利子生み資本」であるが、しかし全体の構成は大きく三つに分けることができる。いまエンゲルス版の章で分けると、

 1.第21章~第24章(草稿では「1)」~「4)」の番号がついている)。
 2.第25章~第35章(同「5)」)。
 3.第36章(「6))となる。

 1.はいわば「利子生み資本」の概念(つまり「利子生み資本」とは何か)が明らかにされている部分である。
 2.はその「利子生み資本」が運動する具体的な諸形態が分析されている。ただ「利子生み資本」が運動するのは「信用制度」の下においてであり、だから「利子生み資本」の運動諸形態を分析するために必要な限りで「信用」や「信用制度」がこの部分で論じられているのである(ところが三宅氏は第5篇の1.を前半部分、2.と3.を一緒にしたものを後半部分として二分割し、前半部分は「利子生み資本」が論じられ、後半部分は「信用制度」が考察されているとする)。
 3.はいわば「利子生み資本」の「歴史的な考察」がされている。つまり「利子生み資本」がどのように歴史的に生まれてきたのか、またそれは将来の社会に向けて如何なる意義があるのかが明らかにされている。

 このように全体としてもやはり「利子生み資本」が一貫して論じられているのである。

 さて、こうして見るとエンゲルス版は草稿と比べて、2.の部分が異常に膨れ上がっていることが分かる。マルクスの草稿ではただ「5)」と一つの数字が打たれた部分に過ぎないのに、エンゲルス版ではそれが11もの章に分けられている。これはどうしてであろうか?
 それはこの2.の部分が草稿のなかではもっとも完成度が低かったからである。だから、エンゲルスはマルクスが本文やあるいは後の執筆の参考にするために資料として作った「抜き書き」までもを本文に組み込んで新たに章を作ったり(例えば第26、33、34各章)、いくつかの章を膨らませており(例えば25章)、あるいはマルクスの分析の不十分さを補うためにエンゲルス自身が補足的に書き加えている(この場合は、一部不完全なものもあるが、一応どの部分がエンゲルスが書いたのかは分かるように編集している)ために(しかしあくまでもエンゲルスが「不十分」と考えたのであって、果たしてマルクスの草稿が本当に「不十分」だったのかどうか、エンゲルスの加筆が適当だったのかどうかは意見の分かれるところであろう)、この部分が異常に膨れ上がってしまったと考えられるのである(エンゲルス版と草稿との詳しい比較・検討を大谷氏はやっているが、ここでは割愛せざるを得ない)。

 

 3)、第28章が入っている「2.」部分の構成

 

 ところで、われわれがこれから学ぼうとするエンゲルス版の第28章は、この「2.」の部分に入っている。だからこの「2.」の部分の草稿はどのような構成になっているのか、何を問題にしているのかを、さらに詳しく見ていかなければならない。
  この部分は大きく分けると、二つに分類することが出来る。一つは「本文」に該当すると思われる部分(これには「本文」そのものとそれにマルクス自身がつけた「注」からなっている)。もう一つは「雑録」や「混乱」とされている部分である(これはいろいろな著書や資料--『銀行法委員会報告』や『商業的窮境』など議会資料や統計など--からの抜き書きとそれに対するコメントからなっている)。

 まず「本文」であるが、これは大きくは五つの部分に分かれるようである。

 (1)信用制度に関する基本的な位置づけを与え、その歴史的意義を明らかにする部分、つまり「2.」全体の序論的部分である。これはエンゲルス版の25章の前半部分と27章に該当する。

 (2)マルクスが「 I )」と番号をつけている部分で、大谷氏によれば「銀行学派による通貨と資本との区別の批判」が行われている部分で、エンゲルス版のほぼ第28章に該当する。つまりわれわれがこれから学ぼうとするところである。

 (3)マルクスが「II)」と番号をつけている部分で、これはやはり大谷氏によると「銀行業者の貨幣資本(moneyed Capital)の大部分は純粋に架空なものである」ということが書かれており、エンゲルス版の第29章に該当する。

 (4)マルクスが「III)」と番号をつけた部分で、この部分についても「貨幣資本(moneyed Capital)と現実資本--両者の増減(前者の蓄積、プレトラ(過多--引用者)、欠乏、後者の蓄積、過剰、不足)のあいだの関連、および、それらと国内の貨幣量との関連」と大谷氏は説明している。これはエンゲルス版の第30~32章に該当する。

 (5)いわば「2.」全体の締めくくりの部分で、この部分の内容は、大谷氏によれば「地金の蓄蔵と流出入。ブルジョア的体制における中央銀行の地金準備の意義」というものである。これはエンゲルス版の第35章に該当する。つまり信用の異常な発達によって、架空な取引が一人歩きし奇妙奇天烈な現象が生まれるが、結局は、やがてはそれは恐慌によって崩壊して地金が物をいうようになところまで引き戻されざるをえない、とマルクスは言いたかったのであろう。それで「2.」を締めくくろうと考えていたと思われる。

 次は「雑文」や「混乱」と分類されているものであるが、これについてはあまり詳しく論じてもしょうがない。ただ注意が必要なのは、エンゲルスはこれらを使ってすでに紹介したように第26章や第33章、第34章をほぼこれで作り、また第25章や第35章の後半部分にも挿入してそれぞれの章を膨らませていることである。しかしこれはまあ今はこだわってもしょうがない。次に行こう。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-2)

 (28-2)も(28-1)と同様に、草稿を研究するための予備知識である。

 

2、「利子生み資本」、「貨幣資本」の概念について

 

 もちろん「利子生み資本」とは何か、それはどんな運動をするのか、ということを第5篇全体でマルクスは問題にしているのだから、それをここでわざわざ説明するのはおかしなことかもしれない。しかし最初にも疑問が出たように、やはりこの問題は簡単にでも説明しておかなければ先に進めない。またこの問題でも、例によってエンゲルスの編集のために混乱があり、やはり第28章の当該部分を検討する前に、簡単にでも説明しておくことが適当であろう。

 

 1)、「利子生み資本」とは?

 

 「利子生み資本」とは読んで字のごとく、「利子」を「生む」「資本」である。われわれが銀行にカネを預けると雀の涙にもならない「利子」がついてくる。つまり「利子」を「生む」。ではこのわれわれが銀行に預けるカネを「利子生み資本」というのかというと、もちろん、そう言っても間違いではない。しかしマルクスが論じているものからすればそれは派生的なものである。マルクスがここで論じているのは、そうではなく、われわれから集めたカネを銀行は企業に貸し出す、そのときのカネをマルクスは「利子生み資本」として分析の対象にしているのである。銀行は企業から受け取る利子とわれわれに払う利子との差額で儲けているわけだ。「利子生み資本」とは主要には銀行が企業に貸したり、返してもらったりしているカネのことである。
 われわれが知っている貨幣は、第一巻や第二巻では商品や商品資本の流通に使われた。それは商品と持ち手を変えて流通していくものであった。商品所持者は商品を手放す代わりに貨幣を手にした。つまり商品所持者は決して彼が持っている価値そのものは手放さずに、ただその価値の形態を商品から貨幣に変えただけだった。ところが銀行は貨幣を企業に貸し出す場合、彼は価値そのものを手放すのである。これが貸し借り、つまり貸借という独特の「利子生み資本」としての貨幣の運動を特徴づけるものである。「取り戻しを条件とする一時的な価値の手放し」を「貸借」というのである。そしてこの貸借こそ信用関係を形成するのである。
 「利子生み資本」とは、こういう貸借を通じて運動する貨幣のことである。だからそれは信用制度の下で運動するわけだ。銀行は出来るだけ有利な条件で貨幣を貸し出し、高い儲け(利子)を得ようとする。それに対して企業はまた出来るだけ有利な条件で資金を調達し、それを使って儲けようと(つまり産業利潤や商業利潤を上げようと)する。銀行にとって有利な貸し出しとは、つまり高い利子で貸し出すことである。それに対して企業にとって有利な資金調達とは低い利子で借り出すことである。だからここに「貨幣市場」なるものが生まれる。彼らは貨幣そのものを「商品」として“売買”するのである。もちろん、“売買”とはいうが、実際は「貸し借り」である。ただ貨幣市場では貨幣そのものが取引きされるために、あたかも貨幣そのものが商品として売買されるかの外観を得るわけである。そしてこの場合の「貨幣商品」の「価格」とはすなわち「利子(率)」のことである。商品市場では、商品の購入者は出来るだけ安く買おうとし、売る人は出来るだけ高く売ろうとするように、貨幣市場でも貨幣を売る人(貨幣を貸し出す人)は出来るだけ高く(つまり高い利子で)売ろうとする(貸し出そうとする)し、また貨幣を買う人(借り出す人)は出来るだけ安く(低い利子で)買おうとする(借りようとする)わけである。しかし商品の売買の場合は、もちろん売買当事者の駆け引きや需給によって市場価格は上下するが、しかしそれはおおむね商品の価値(生産価格)を中心に上下するのであって、長くスタンスをとって平均すれば、商品の市場価格はおおむねその商品の価値(生産価格)に一致する。ところが貨幣市場における貨幣の価格(利子)には、こういう商品の価値(生産価格)のような価格の“中心”になるようなものは無い。一方に貨幣の需要者があり、他方にその供給者があって、その需給によって利子(率)は決まってくるのだ、とマルクスは言っている。もちろん上限はある。利子といっても剰余価値の分岐したものである。だから産業資本や商業資本の稼いだ利潤以上に利子が上がることはありえない。
 しかしそんなことなら、そんなに難しいことはないではないか、というのか。確かにそうなのだ。ただここから奇妙なことが始まるのである。前に貸借とは「取り戻しを条件に一時的に価値を譲渡すること」だと言った。そしてそれは信用関係だとも。カネを借りる人は返済を約束する。しかし口約束ではなかなか「信用」できないし、証拠もない。だからそれを証文に書く。法的契約書だ。こういう類の契約書を一般的には「手形」という。大体においてカネを借りる人がいついつまで返済しますという証文を書くのだが、その反対の場合もある。こういうものはだいたい「紙切れ」に書かれるものだが、だからこの「紙切れ」はそれを持っていけばカネを手に入れることが出来る証文になるわけだ。だからこういうものを「貨幣請求権」という。つまりこういう貸借を記した紙切れは貨幣請求権を表している。そしてそれがすなわち「信用」そのものなのである。そしてこの「貨幣請求権」、つまり「信用」が実際上、貨幣と同じように通用し、流通することになる。そして奇妙がことがそこから始まるのである。
 実はわれわれが手にしている一万円札はこうしたものの一つなのである。それは「銀行券」という銀行の借用証文なのである。だから「この銀行券を持ってきた人には無条件で現金(金)を渡します」と昔の、つまり戦前の兌換制度下の銀行券の表面には書かれていたのである。つまりこれも一種の「貨幣請求権」であり、それが貨幣と同じように通用し、流通しているわけだ。信用制度とは、まさにこういう「紙の世界」がまかり通る世界のことなのである。
 われわれはこういう現実を目にしている。ただの「紙切れ」の束にすぎない札束の前では、人はすべて卑屈になり、へりくだり、媚びへつらう。絶世の美女も裸になり、凡人も人まで殺す。ところがこの摩訶不思議な現象が、究極まで発展するのが「信用の世界」なのである。「信用の世界」では、無から有が生まれ、マイナスがプラスに転化する。しかしその奇妙な世界の話は、ここでくどくどと説明してもしようがない。各人がまた『資本論』を実際に読んで学んでもらうことにしよう。マルクスはこの奇妙奇天烈な信用の世界の「母」こそ「利子生み資本」だと言っている。つまり「利子生み資本」こそがそれらの不可思議な世界を生み出しているのだ、と。
 われわれは「日銀は通貨をどんどん供給せよ」とか「もっと潤沢に貨幣を出せ」とか、「金融を緩和せよ」とか言われていることを新聞で読む。この場合の「通貨」や「貨幣」は決してわれわれがいつも目にしている「一万円札」のことではない。それは「通貨」や「貨幣」と言われるが、直接的には概念としての「通貨」や「貨幣」ではないのである。では何か? それこそまさにここでいう「利子生み資本」なのである。もちろん厳密に言えば各市中銀行が日銀にもっている当座預金残高を積み増すことだが、それを元手に各銀行が潤沢な「利子生み資本」を運用することになるのである。だから「利子生み資本」の概念を掴むこと、その運動を解明することが、今日の発展した信用制度を解明していくカギでもあるのである。

 

 2)「貨幣資本」の“ややこしい”二つの意味?

 

 第2巻の第1篇をすでに学んだわれわれは、「貨幣資本」と言えば、それが何であるかは知っている。それは資本がその循環を開始するときに最初にとる形態であった。つまり貨幣資本とは資本がその循環において姿態変換する一つの形態なのであった。資本の流通過程で資本が貨幣形態をとったものを「貨幣資本」といい、商品の形態を取ったものを「商品資本」、生産過程にあるものを「生産資本」といった。
 ところがややこしいことに第3巻でも「貨幣資本」が出てくる。もちろん、同じ意味なら何もややこしいことはないのだが、意味が違うのである。第3巻に出てくる「貨幣資本」は先に説明した「利子生み資本」と同じものなのである。なんで、こんなややこしいことになったのか? それは次のような事情なのだ。
 マルクスの場合、「利子生み資本」を意味する「貨幣資本」の場合はmanied Capitalまたはmoneyed Capital(CapitalのCが小文字であることも多い)あるいはmoney capitalと英語で書いて区別していたのに、それをエンゲルスがドイツ語で印刷用原稿を作るためもあってか、すべて「Geltkapital」というドイツ語に訳して統一してしまったのである。だから当然、それを日本語に訳する人が、その区別を無視してすべて「貨幣資本」と訳したのはある意味ではやむを得なかった。しかしマルクスが「Geltkapital」という場合は、「商品資本」および「生産資本」と区別される「貨幣資本」、つまり第2巻で出てくる資本の循環過程でとる形態としての「貨幣資本」を意味しているのである(本当はGeldcapitalにはこれ以外の意味もあるが、それは今は一層ややこしくなるから、触れないでおく)。だからこういうややこしいことになってしまったわけである。これもエンゲルスの編集に原因する混乱といえば言えるであろう。

 では「利子生み資本」と「貨幣資本(moneyed Capital)」とはまったく同じものかというと、そういうてもよいし、必ずしもそうでもないともいえる。 実は「貨幣資本(moneyed Capital)」というのは、当時の経済学者や経済実務家などが実際に使っていた言葉である。それに対して「利子生み資本」というのは、そういう具体的な「貨幣資本(moneyed Capital)」からマルクスが抽象して科学的な概念として確立したものである(ただし「利子生み資本」もマルクスは「[いわゆる]利子生み資本」とも言っているように、決してマルクス自身が作り出した言葉ではない。それは「利子を生む資本」一般に使われ、例えば資本主義以前の高利資本も「利子生み資本」であり、その意味では広く使われていたものと考えられる)。両者は同じものを意味するが、その意味では少し違うのである。

 われわれは第5篇全体を見渡して、それが三つの部分に分けられること、そしてわれわれがこれから検討する第28章が入っている二つ目の部分では〈「利子生み資本」が運動する具体的な諸形態が分析されている〉と説明した。つまりその意味では二つ目の部分は、「利子生み資本」の具体的な形態、すなわち「貨幣資本(moneyed Capital)論」が論じられていると言ってもよいのである(これは大谷氏の説)。そして今、われわれが問題にしている「第28章」に相当する部分こそ、「貨幣資本(moneyed Capital)論」の「本論」が始まる部分なのである(ただ「貨幣資本(moneyed Capital)論」の核心にあたる部分は、エンゲルス版の第30~32章に該当する部分だとも大谷氏は指摘している)。
 そこで、さあ、ようやく「第28章」を実際に検討してみることになったわけである。では、実際、マルクスの草稿をそれでは読んでいくことにしよう。

 


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-3)

3、大谷氏の論文(マルクスの草稿)の検討

 

 1)、冒頭のパラグラフの解釈について

 

 エンゲルスは第28章に「流通手段と資本。トゥック及びフラートンの見解」という表題をつけている(草稿ではすでに述べたように、ただ「 I )」と番号が打たれているだけである)。大谷氏はすでに紹介したように、草稿のこの部分では「銀行学派による通貨と資本との区別の批判」がされていると説明していた。つまり、われわれが検討するこの草稿は「貨幣資本(moneyed Capital)論」の本論が始まる最初の部分、すなわち「利子生み資本」が実際に運動するその具体的諸形態の分析が始まるのだが、しかしこの第28章の部分は、そのためのいわば前置きとして、それに関連する諸学説をまず片づけておこうとマルクスは考えたように思える。
 マルクスは第27章に該当する草稿の終わり近くで次のように述べている。

 

 《これまで(つまり第27章に該当する部分で--引用者)われわれは主として信用制度の発展(そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な止揚)を、主として生産的資本に関連して、考察した。いまわれわれは、利子生み資本そのもの(信用制度による利子生み資本への影響、ならびに利子生み資本がとる形態)の考察に移るが、そのさい総じて、なお若干のとくに経済学的な論評を行わなければならない。》(大谷禎之介訳『経済志林』第52巻第3・4号43-4頁)

 

 つまり第28章は、マルクスがここで「行わなければならない」と言っている「若干のとくに経済学的な論評」部分に該当すると考えられる。つまり銀行学派の主張を取り上げて、それを批判しているのである。

 

 それではまず最初のパラグラフを見てみよう。
 この部分は、大谷氏によれば、エンゲルスの断りのない修正が施されているところである。そしてそのために、多くのマルクス経済学者たちを惑わせてきたところでもある。確かにこの部分の理解は極めて重要であり、その意味では、エンゲルスの断りのない修正は罪が深いと言わざるを得ない。マルクスは次のように書いている。

 

 《トゥック、ウィルソン、等々がしている、Circulation〔通貨--引用者〕と資本との区別は、そしてこの区別をするにさいに、鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本(英語の意味での moneyed Capital)とのあいだの区別が、乱雑に混同される。次の二つのことに帰着する。--》

 

 しかしエンゲルスはこの部分を次のように書き換えたのである。

 

 《トゥーク、ウィルソン、その他によってなされる流通手段と資本との区別は、--そこでは、貨幣・貨幣資本一般・としての流通手段と、利子生み資本(英語でいうmoneyed Capital)としての流通手段との区別が、ごっちゃに混同されるが、--次の二つのことに帰着する》(青木書店版)

 

 このようなエンゲルスの書き換えでは、確かに何が何だか訳が分からないものになってしまっている。しかしエンゲルスの批判をすることがここでの本旨ではないので、とりあえず、われわれはエンゲルスの修正には取り合わないでおこう。問題はこの冒頭のパラグラフを正しく理解することである。ではそれをどう理解したらよいのか。

 

 まず、ここで重要なのは、マルクスがトゥックやウィルソン等々がしている「通貨と資本との区別」について、そもそもそうした銀行学派がいうところの区別そのものが正しくないと見ていることである。もちろん、銀行学派が貨幣をさまざまな規定性で捉えようとしたことそのものには積極的な意味があるとマルクスは評価している。『経済学批判』には次の一文がある。

 

 《これらすべての著述家たち(トゥック、フラートン、ウィルソンなど--引用者)は、貨幣を一面的にではなく、そのさまざまな諸契機において把握してはいるが、しかし、貨幣のこれらの契機相互間の生きた関連にせよ、経済的諸範疇の全体系との生きた関連にせよ、なんらかの生きた関連を把握することなく、貨幣を単に素材的に把握しているだけである。》(草稿集第3巻427頁)

 

 銀行学派は「貨幣を単に素材的に把握しているだけである」というマルクスの指摘が重要である(それはおいおい分かるであろう)。マルクスは、銀行学派の「通貨と資本との区別」に対して、「鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本との間の区別」を「対置」しているのである。つまり銀行学派は「貨幣を単に素材的に把握して」「通貨と資本との区別」を論じているのに対して、マルクスは科学的には「鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本との間の区別」を明確にしなければならないのだと述べているのである。そしてここで「科学的に」と言ったが、その内容も先の『経済学批判』では「貨幣のこれらの契機相互間の生きた関連」、「経済的諸範疇の全体系との生きた関連」と述べており、「生きた関連を把握すること」こそが重要だとマルクスは述べていることが分かる。それが銀行学派には分かっていないのだ、と。
 だから問題は、「鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本との間の区別」を科学的に、すなわち「生きた関連において」如何に捉えるべきなのか、ということである。ではその「生きた関連を把握する」とはどういうことなのか、しかしそれはまさにマルクスが以下の論考で考察しようとしていることなのである。

 

 2)、各パラグラフごとの解説

 

 (1)はじめに

 

 われわれは大谷氏が翻訳されたマルクスの草稿を、各パラグラフごとに、つまり大谷氏が分けている部分ごとに番号を記して(【1】~【54】)、それぞれについて、とにかくマルクスの草稿そのものを平易に書き直すことから始めよう。そしてそこでは何が問題になっているか、それは全体のなかでどういう意義をもっているのか等々についても可能な限り解明していくことにしよう。

 

 しかしその前に、すこし補足しておくべきことがある。
 「鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本との区別」という、このマルクスが述べている「四つの範疇」のそれぞれについて、少し復習しておこう。

 

 まず「鋳貨としての流通手段」については、これは『資本論』第1巻第1篇第3章第2節に出てくる「流通手段」と同じものである。マルクスはこの「鋳貨としての流通手段」と後に出てくる「支払手段」とを合わせたものも、「流通手段」とも述べている場合がある。だから前者を「狭義の流通手段」、後者を「広義の流通手段」と区別する場合もある。しかし「鋳貨としての流通手段」という場合は間違いようがないのであり、それは明らかに「狭義の流通手段」を意味するのである。

 

 次は「貨幣」についてである。これは同第3章第3節に出てくる定冠詞のない「貨幣」である。マルクスはこれを「第三の規定における貨幣」とか「貨幣としての貨幣」「本来の貨幣」とも述べている。だからこの「貨幣」の中には「蓄蔵貨幣」(そして『経済学批判』では、「鋳貨準備金」が入っている)と「支払手段」と「世界貨幣」が含まれているのである。

 

 次の「貨幣資本」であるが、これについてはすでに述べたが、第2巻「資本の流通過程」で「商品資本」や「生産資本」と区別された貨幣形態をとる資本のことであり、マルクスはmoneyed Capitalと区別するためにGeldcapitalとドイツ語で表記し、「貨幣としての資本」ともいったりしている。

 

 「利子生み資本」については、もはや多くを語る必要はないであろう。第3巻の「貨幣市場」において運動する「貨幣資本(moneyed Capital)」のことである。

 

 このようにして見てくると、最初の「鋳貨としての流通手段」と「貨幣」とは、第1巻第3章「貨幣または商品流通」に出てくるものであることが分かる。マルクスは『経済学批判』の最後のあたりで銀行学派の批判をやっているが、そこで次のように述べている。

 

 《総じてこれらの著述家たち(銀行学派たち--引用者)は、まず最初に抽象的な姿で、すなわち、単純な商品流通の内部で展開されるような、そして、過程を経過する諸商品の連関自体から生じてくる姿で、貨幣を考察することをしない。だから彼らは、貨幣が商品との対立のなかで受け取るもろもろの抽象的な形態規定性と、資本や収入などのような、もっと具体的な諸関係をうちに隠している貨幣のもろもろの規定性とのあいだを、たえずあちらこちらと動揺するのである。》(草稿集第3巻427-8)

 

 つまり銀行学派はこうした「鋳貨としての流通手段」や「貨幣」という単純な商品流通の内部で展開される規定性における貨幣を概念的に理解できず、もっと具体的な収入や資本などの規定性と混同するのである。あるいはそれらの諸規定の抽象レベルを理解することなく、あっちの規定からこっちの規定へと動揺をくりかえすのである。
 だから「貨幣資本」が第2巻で主に取り扱われ、「利子生み資本」が第3巻の貨幣市場で運動する貨幣である、というように、われわれがこれまで敢えて第1巻第2巻第3巻と『資本論』でのそれらが主に取り扱われている巻数を上げたのは、それらの諸規定の抽象レベルを確認するためでもあるのである。
 すでに紹介したように、マルクスは同じ『批判』のなかで、銀行学派は《貨幣のこれらの契機相互間の生きた関連にせよ、経済的諸範疇の全体系との生きた関連にせよ、なんらかの生きた関連を把握することなく、貨幣を単に素材的に把握しているだけである》と述べていた。諸範疇が主に取り扱われている『資本論』の巻数を確認することは、だから《経済的諸範疇の全体系との生きた関連》を把握するためにも役立つと考えたわけである。

 

 要は、問題はこれらの諸範疇の「生きた関連である」とマルクスはいう。それをわれわれは、以下に見て行こうとするわけである。ただあらかじめ断っておくと、マルクス自身は以下では(28章の部分では)、必ずしも最初に上げたこれらの諸範疇に沿って問題を展開しているわけではない。それはどうしてなのかは、また適当なところで説明することになると思う。とにかくわれわれは徹底的に平易に解説することを心がけ、第3巻を読んでなくてもわかるようにしたいと思っている。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-4)

 もう少し補足しておこう。われわれは『資本論』第1巻第1篇で商品や貨幣について学んだ。そこでは貨幣は最初は金として登場した。しかし今日では、金は貨幣として表面的には通用していない。だからこの第1篇で明らかにされている諸法則は、金が貨幣として通用していた昔のことなのかというと、そうではない。今日の高度に発展した資本主義的生産様式においても、そのもっとも抽象的な法則としてそれらは貫いている。というのは、マルクスが『資本論』第1巻第1篇で考察している単純な商品流通というのは、このブルジョア社会のもっとも表面に現われていて、われわれが直接目に見える形で現象しているものを、その背後に隠されていて、それらを複雑に規定している資本主義的な諸関係や諸法則を捨象して、ただ表面に現われているものをそれ自体として、その限りでは抽象的に取り上げて考察しているものなのである。だからそこで明らかにされている単純な商品流通の諸法則は、現代のブルジョア社会のなかでも、確かに現代に固有の資本主義的な諸関係に規定されているものの、依然としてその中に貫いているものである。法則というものは条件が変われば、その現れ方も変わるが、しかし法則そのものが無くなるわけではない。マルクスも『資本論』第1巻第1篇で明らかにされている貨幣の抽象的な法則は、より具体的な資本主義的な諸関係に規定されて、貨幣がまざまな諸形態をとったとしても、例えば、貨幣資本(Geldcapital)やmoneyed Capitalとしての利子生み資本等々の諸形態のもとでも、そうした抽象的な諸法則そのものはまったく変わらないし、そのなかに貫いているのだ、と、われわれがこれから学習する、この第28章に該当する草稿のなかでも述べている。

 

 また第2巻に出てくる貨幣資本(Geldcapital)については、これは第3巻に出てくる貨幣資本(moneyed Capital)とは本質的な違いがある。第2巻と第3巻とではその抽象レベルが違うというのは当然だが、それだけでなく、第2巻では資本主義的な再生産における運動諸法則が解明されている。だから貨幣資本はそうした資本主義的な再生産の中にあって運動する貨幣である。それに対して、第3巻に出てくる貨幣資本(moneyed Capital)は、そうしたものとは違って、資本主義的な再生産の外部にあって運動するものなのである。この違いは決してどうでもよいことではない。
 資本主義的な再生産というのは、現在の物質的な冨を生産して、この社会の物質代謝を担い、いわばこの社会を土台として支えているものである。だから貨幣資本(Geldcapital)というのはそうした再生産に関連したものであり、その諸法則を担うものなのである。
 それに対して貨幣資本(moneyed Capital)は、ある意味では再生産過程を「土台」とすれば、その「上部構造」のようなものである。それは土台、すなわち現実の資本の再生産や蓄積からは自立し、まるでそれとは無関係であるかのように一人歩きして、現実資本の蓄積とは比較にならないほどの架空な貨幣資本(moneyed Capital)の膨大な蓄積を生み出す。そこでは一瞬のうちに何億、何十億、いや何百億という巨額の儲けがあったかと思うと、同じようにあっと言う間に何百億という損失を被り、たちまち破産するという悲喜劇が演じられている。それは信用の世界であり、だからあっと言う間に膨れ上がるかと思えば、またあっというにしぼんでしまう。今日では確かにそれはもっとも華やかなものとして取り扱われてはいる。株式や証券、為替、あるいは「デリバティブ」といった名前は聞いたことがあるが何のことかさっぱり分からないような、こうしたさまざまな問題も、すべて貨幣資本(moneyed Capital)の運動がつくりだすものであり、だからこれらはすべて「利子生み資本」の概念なくしては理解できないものである。その意味では「利子生み資本」を概念的に捉え、その運動の諸法則を解明していくことは現代の資本主義社会を解明するうえで非常に重要なことなのである。しかしもちろん、それはあくまでも上部構造の話に過ぎない。上部構造ももちろん土台に反作用を及ぼすし、その限りでは決してどうでもよいものではないが、しかしその限界をしっかり踏まえておくことも重要なことであろう。貨幣資本(moneyed Capital)の運動する世界は、価値も剰余価値も、つまり社会の冨を一切生み出さず、ただ労働者から搾り取った剰余価値の分配を巡って資本家どもが醜い争いを繰り広げる世界であり、労働者には無縁のおどろおどろしい世界なのだ。

 

 もう一つ次は、最初に草稿を読む上での注意をしておこう。われわれが【1】と番号を打ったパラグラフの前に「[505]/328上/」というパラグラフがある。ここで[ ]で囲った505というのは、MEGAの編集テキストの頁数であるが、そのあとにある「/328上/」というのは、マルクス自身のノートの328頁の上段を意味する。「/」は途中であり、「|」は始まりである。それに対して【15】【18】の最初には「|330下|」「/330下/」と打たれている。これは同じ330頁の下段ということで、最初のものはその始まりを、後者はその途中を意味している。
 マルクスはノートをとる時、ノートの上下半分の所に折り痕をつけて上下を区別し、上半分にはテキストの本文を書き、その本文の必要部分にアルファベットで注をつけ、その注を下半分に書くようにしていた。またマルクスは、先に「雑文」とか「混乱」とかに分類されたもの、つまり諸著作からの摘要や諸資料などからの抜き書きとコメントについては、こうした折り痕を無視して上から下までびっしり書いており、だから実際にマルクスの草稿のナマ原稿を見れば、それが本文なのか、あるいは原注なのか、それとも本文を書くためかあるいは後の研究のための資料として抜き書きしたものであるのかは、一目で分かるようにしていたのである。
 ところがエンゲルスはマルクスの草稿を編集するにあたり、ミミズの這ったようなエンゲルスでさえ読みにくいマルクスのノートを、とにかく最初はすべての草稿を編集用に清書するところから始めなければならなかった。エンゲルスは途中でその作業を秘書を雇って口実筆記でやったのだが、そのためもあってか、こうしたマルクスのノートのとり方をまったく無視して、清書原稿を作ってしまうことになったと想像されている(大谷氏はそう推測している)。そのことがエンゲルスが実際の編集の過程において、本文そのものの中に原注を原注としてではなく、本文としてそのまま差し込んでしまったり、「雑文」や「混乱」と分類される本来は資料として準備されたものからも本文を構成してしまったり、あるいはそれらを本文のさまざまなところに挿入して本文の繋がりを見えにくくしたり、本文自体を膨らませることになってしまった主要な理由と考えられるのである(これも大谷氏の推測)。
 だから、われわれは草稿を読む場合、それがマルクスのノートの上段に書かれているものか、下段に書かれているものかに注意しながら読まなければならない。つまり上段部分として書かれているものが、本文として続いている一連の文章であること、それに対して下段のものはそれに対する原注として書かれたものだということである。だから続き具合が判りにくい場合(この大谷氏の翻訳文は、そうした分かりにくさがある)、とりあえず原注部分は飛ばして本文だけを一通り読み通すのも一つの読み方として考えられるであろう。
 なおついでに付け加えておくと、エンゲルスはマルクスの第5篇の部分の草稿について「ここには、出来上がった草稿はなく、仕上げの輪郭たるべき梗概さえもなく、ただ、一度ならず注意書きか評言や抜粋の形での資料やの無秩序な堆積に終わる仕上げかけたものがあるだけだった」と述べているが(第三巻「序言」)、しかしこうしたエンゲルスの評価も、多分にノートのとり方によって区別しているマルクスの草稿の上記の特徴を読み取れなかったエンゲルス自身に責任があるように思える。なぜなら、マルクスの草稿は、そうしたマルクスのノートのとり方を十分に踏まえて読めば、決して「無秩序な堆積」といったものではなく、いまだ骨格だけに終わっている感もないとは言えないものの、基本的なものは論じられているように思えるし、また整然と展開されているようにも思えるからである。そのことは、実際に、この第28章に該当する部分を、これから詳細に検討していけば、分かることである。

 


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-5)

 (2) 各パラグラフごとの解読

 

 それでは各パラグラフごとに見て行くことにしよう。われわれはまず、マルクスの草稿の本文を大谷禎之介氏の翻訳文をそのまま利用させて頂いて、青字(太字)で示し(しかし大谷氏が付け加えているエンゲルスの修正の内容を紹介する「注」やMEGAの注解を紹介する〔注解〕などは、必要なもの以外は煩雑になるので取り上げない。ただし下線はマルクス自身のものである)、そのあとその平易な書き下しを提示し(太字)、さらに必要な解説を加えるという形で、進めることにする。

 

【1】(このパラグラフは、ノート328頁上段に書かれており、本文である。なお【14】まで本文は続く)

 

 

〈卜ゥック,ウィルスン,等々がしている, Circulation通貨--引用者)と資本との区別はそしてこの区別をするさいに,鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capital)とのあいだの諸区別が,乱雑に混同される〔)〕,次の二つのことに帰着する。--〉

 

 さてこのパラグラフは、いわばこの第28章全体の導入部分である(あるいはこの導入部分は、28章だけではなくて、マルクスが I 、II、IIIと番号を打った部分全体--つまりエンゲルスが編集段階で設定した章にもとづくなら28-35章全体--に対する導入として書かれている可能性もある)。われわれはこのパラグラフについてはすでに特別に取り上げて論じてきた。しかしやはり、もう一度、全体の平易な書き下しをやっておくことにしよう。それは次のようなものになるだろう。

 

 〈トゥックやウィルソンなどの銀行学派がやっている「通貨」と「資本」との区別は、結局、次の二つのことに帰着するのだ。彼らはこの区別としていろいろと論じるのはよいのだが、しかしそこで「鋳貨としての流通手段」、つまり単純な流通での貨幣の流通手段としての機能や、あるいは「貨幣」、つまりこれは「本来の貨幣」であり、金無垢の金貨のことだが--こういう貨幣は当然、「蓄蔵貨幣」とか「支払手段」とか「世界貨幣」とかいう機能を果たすわけだ--、総じてこういう単純な流通における商品と区別された貨幣については彼らはまったく理解できないのだ。さらにいえば「貨幣資本」、これはいうまでもなく「資本の流通過程」で運動する貨幣形態をとった資本のことだ。だからこれは、例えば「商品資本」とか「生産資本」という他の資本の諸形態との関連のなかで問題になる貨幣なのだ。こういう貨幣の規定性も彼らにはわからない。そればかりかこういうより進んだ貨幣の具体的な規定をもっとも抽象的な貨幣の機能と混同したり、あっちの規定からこっちの規定へとふらつくばかりなのだ。だから彼らは「利子生み資本」という意味での貨幣資本も分かっていない。 つまり彼らの商売である銀行業者が現実に取り扱っている資本、彼らがmoneyed Capitalと言っているやつだ。ようするに、彼らは「通貨」と「資本」との区別をやるといっていろいろな面から貨幣を論じるのはよいのだが、こうした本当に科学的な概念において貨幣を論じることは出来ないし、その諸区別を明確にすることもできない。ただそれらが乱雑に混同されるだけなのだ。しかし問題はこれらの貨幣の諸規定の「生きた関係」、つまり現実の経済的関係のなかでそれらを具体的にとえらることにある。あるいは経済的な諸範疇の全体系のなかでそれらの諸規定がどういう位置や関係にあるかを知ることなのだ。まあ、これから彼らの主張を具体的に見ていくなかで説明しよう。〉

 

 ようするに、ここでは銀行学派が「通貨と資本との区別」をするさいの「混乱」を批判することが言明され、そしてその批判の観点は、「鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本との諸区別」を明確にすることだ、つまりそれらの「生きた関係」を明らかにすることだ、ということである。そして銀行学派の「通貨と資本との区別」は結局は、〈次の二つのことに帰着する〉と述べて、以下、二つのことを明らかにすることが示唆されている。
 ところが、問題はこの〈二つのこと〉が何と何を指すのかはなかなか分かりづらいのである。だからわれわれは、この問題はとりあえずは保留して、先に進むことにしよう。

 

 《エンゲルスの長い挿入部分》

 

 さて、われわれのこの学習はマルクスの草稿の理解に重点を置き、エンゲルスの編集の解釈にはあまり拘らないことにする予定であるが、しかしここではついでにエンゲルスの長い挿入文を見ておくことにしよう。その詳細な検討は必要ないと思うが、エンゲルスが紹介しているトゥック『通貨原理の研究』キニア『恐慌と通貨』からの一文は検討が必要だからである。なぜなら、これらはマルクスが以下で批判している銀行学派の主張を典型的に示すものと考えられるからである。それらの主張をふまえておくことは、以下のマルクスの批判を理解する上でも役立つと思えるのである。
 まずトゥック『通貨原理の研究』からの一文である。エンゲルスは「原文で挙げる」として英文で紹介しているが、われわれは第25章で紹介されている翻訳文を紹介しておこう。

 

 〈トゥック。「銀行業者の業務は二様のものである。すなわち,第1に,資本を直接に運用できない人々からそれを集めて,それを運用することができる人々に分配し移転することである。これは資本の流通である。もうひとつの部門は,彼らの顧客の所得から預金を受け入れ,顧客が消費の対象に支出するのにある金額を必要とするときにそれを払い出すことである。これは通貨の流通である。」(トゥック『通貨原理の研究,云々』.第2版,ロンドン. 1844年. 36ページ) 「一方は,一面では資本の集中,他面ではその分配であり,他方は,それぞれの地方の地方的目的のための流通の管理である。」〈同前. 37ページ。)〉

 

 トゥックは通貨と資本との区別はアダム・スミスが指摘した商人と商人との取引きと、商人と消費者との取引きとの区別に照応するのだ、と述べている(ここでアダム・スミスが「商人」という場合は資本家のことであり、「消費者」とは最終消費者であり、生産的な消費者ではない)。つまり商人と商人との間を媒介するものは資本だが、商人と消費者との間を媒介するものは通貨だというのである。ただトゥックは銀行学派だからそこに銀行を介在させる。つまり銀行業者たちの業務としてそれを説明している。すなわち銀行業者たちの一方の業務は、資本をその直接の用途をもたない人々から集めること、およびそれを、用途を持つ人々に配分または移譲することである。他方の部門は顧客たちの収入からなる預金を受け入れ、顧客たちが彼らの消費目的で支出するために要求するだけの額を払いだすことである。前者が資本の流通であり、後者は通貨の流通である。これがトゥックが『通貨原理の研究』で言っていることである。


 次はキニア『恐慌と通貨』の方である。エンゲルスは〈キニアは……正しい見解にずっと近づいている〉としているが、果たしてどうか?

 

 〈「貨幣は, 2つの根本的に違う操作を行なうために使用される。商人どうしのあいだでの交換の媒介物としては,貨幣は資本の移転が行なわれるのに役立つ用具である。すなわち,貨幣での一定額の資本と商品での同額の資本との交換である。しかし労賃の支払や商人たちと消費者たちとのあいだの売買に用いられる貨幣は,資本ではなく,収入である。すなわち,社会の収入のうちの,日常の支出に向けられる部分である。この貨幣は不断の日常的使用のなかで流通している。そして,ただこれだけが,厳密な妥当性をもってCurrencyと呼ぶことのできるものである。資本の前貸はまったく銀行やその他の資本所有者の意志にかかっている, --というのは,借り手はいつでも見つかるからである。ところが, currencyの額は,貨幣が日常的支出のためにそのなかで流通している社会の必要にかかっているのである。」キニア『恐慌と通貨』ロンドン,1847,[p.3,4]〉

 

 キニアの主張も基本的にはトゥックとまったく同じであることが分かる。つまりキニアも商人と商人との間で流通するものを資本とし、商人と消費者との間で流通するもの、つまり収入として使われるものは通貨だといっているにすぎない。トゥックとキニアの相違は前者が銀行の業務を介在させているのに対して、キニアはそうではないというだけの相違にすぎないのである。キニアが補足的に言っていることは、資本の前貸し、つまり投資はその所有者の意志によって決まるが、流通手段の額は、すべての人々の必要によって決まる、ということを言っているのみである。キニアが通貨の量が実際に流通する商品の価格によって定まると言っている限りにおいては正しい。


 しかしいずれにしても通貨と資本との区別として語る分では、トゥックとキニアには相違は無い。だからキニアの方が「正しい見解にずっと近づいている」などというエンゲルスの評価は必ずしも正しいとは言えないであろう。



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