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晶良と陽仁の出会い編

「お静かに」

 暗い部屋の中にたたずむ俺――諏訪陽仁は、凛とした涼やかな声の主を見つめた。一宮晶良という中学三年生に見える美少女だ。

「晶良さん、この部屋にはなにもないように思えるんだが」

 俺の隣に立つ小太りの男――不動産会社の社長が白い息を吐きながら、部屋の真んなかに立つ晶良に訊ねた。

「見ててください、社長さん」

 晶良の指差すさきにはなにもない壁があった。

 ドアからはいってすぐ近くには俺が立ってる。俺の右肩から社長が部屋のなかを覗いている気配を感じた。

 社長は、左側の壁沿いに置かれた一升瓶と火のついた線香を立てた線香立て、水のはいったコップや平皿に盛った塩、それと榊を順番に眺めた。しかし、それ以外に気になるようなものはなにも見当たらない。

「変わったことはないように思えるがなぁ、なぁ、諏訪君」

 社長に話しかけられ、俺は左側の壁を見て、

「そうですね……」

 と答えた。たしかに神棚みたいになってるだけでなにもない。

「気が散じてしまいます。お二人とも静かにしてください」

 晶良の斜め後ろで、こそこそと話していたけど、首をすくめて俺も社長も黙った。

 照明の落ちた暗い部屋。息が白くなるほど室温は低い。フローリングの部屋は七畳の寝室。ドアを開けると、向かってやや左寄りに出窓がついてる。日焼け防止のカーテンは完全に締め切られてる。備え付けの出窓両脇にある壁収納以外に家具は一切ない。右手にはクローゼットの扉があり、俺は左側へ視線を向けた。

 ここは都心のマンションの一室。部屋数は寝室も含めて四部屋。

 俺たちがいる部屋は、間取りでいえば全体の右側に位置する。風呂場やトイレへと並べて作られてるから、湿気が多いのかもしれない。

 ダイニングとキッチンは全体の左側に位置してる。二十畳のリビングが南西向きに作られ、玄関やふろ場は北東を向いてる。

 壁紙も床も全てが真新しい。最近大々的な改装をおこなったんだろう。

 心もとなげに俺は、だいたい頭一つ半、背の低い少女の左側頭部を心配になって見つめた。

 晶良の華奢な肩、そでの布越しからうかがえる細い白い腕。少し栗色の混じる長い黒髪は艶やかに肩に掛かっている。ほっそりとした四肢がその華奢な体を支えてる。

 随分か弱そうに見える彼女が先頭に立ち、一升瓶の直置きされた左手奥の部屋の隅に顔を向けてる。まるで背後に控える俺たちを少女が守っているように俺には感じられる。

 俺の半そでから出た腕に鳥肌が立つほど室内は寒い。

 べたべたと肌にまとわりつく湿気を含んだ蒸し暑い外気は、マンションの一室にはいった瞬間、冷気に変わった。

 クーラーが効きすぎてると思ったくらいだ。それでも家庭用のクーラーでいくら部屋を冷やしても、息が白くなることなんてないはずだ!

 その冷気以外に俺が疑問に思うことがあった。

 それは鼻をつく異臭。獣の臭いだ。

めちゃくちゃに臭い!

雨にさらして放って置いたぞうきんや濡れた犬みたいな獣臭が部屋中に漂ってる。

 けど、ここに来た最初にフロアを案内されたとき、動物や動物の糞の類いはひとつもなかった。

 ほかにもこの部屋に関して気になることがあった。俺は息をひそめて耳を澄ませた。

 晶良に注意されて喋るのをやめたため、部屋は静まり返ってる。

 今は社長の緊張した息遣いと、晶良の深い呼吸音と衣擦れだけが聞こえてくる。

 それらの音を自分の高鳴る鼓動と一緒に聞いてた。

 それ以外に耳にはいってくるのは、不意に始まった建材のきしむ音だ。ほかにも細い木の枝かなにかが折れる音が先ほどから部屋に鳴り響いてる。

 ピシッ パシンッ

 音が鳴るたびに晶良の肩がぴくりと緊張するのを見て、やっぱりなにか関係があるんだろうかと思い直した。なにかが起ころうとしているのは分かる。けど、それがなにか分からないから、俺は冷静でいられた。

 俺は薄暗い部屋の中に立ってる晶良を観察した。

 目には見えない張り詰めた空気が晶良から漂ってくる。俺よりもひと回り華奢な彼女が、実は思ってるほど小さくないんじゃないかって思わせる威圧感を発している。

 この部屋にはいるまえに簡単に自己紹介をすませた俺たちは、晶良から注意を受けていた。

「結界を張りますからそこから出ないように。万が一なにかあっても、お二人の安全はぼくの式神が守りますが、保証できないので、必ず守ってくださいね」

 俺は、今から晶良が部屋の清掃をするとしか聞かされてなかった。

 けど、晶良の説明を聞いて確信したんだ。

 心霊的な瑕疵物件のお祓いを晶良はおこなうんだ。

 一体どんなお祓いをするのかぜんぜん分からないけど、お経を唱えるくらいだろうと、俺は勝手に思い込んでた。

 だから、いま自分が置かれてる状況に対して、妙に人ごとのように冷静でいられた。

 俺が見てるまえで、線香の煙が鎌首をもたげるように晶良に向かって行き、その体にぶつかる直前で霧散してく。

 煙が室内をゆるゆると這いずり回るさまは蛇のようでもあり、触手のようでもある。

 まるで生きてるように見えて薄気味が悪かった。

「始まりますよ」

 晶良の低い声が聞こえた。

 社長が身構えるように体を固くし、俺の右側に体を寄せてくる。

 俺は顔をしかめた。社長に対してじゃない。強烈な臭いに、だ。

 悪臭がきつくなっている。今では獣臭じゃなくて、魚や肉が腐った悪臭が部屋中に満ちている。

 冷気は鳥肌が立つのを通り越して、肌に痛いほどだった。空気に含まれる水分が、みな凍りつくかと思えるくらいだ。

 気味が悪くなるほど部屋の暗さが増した。

 日焼け防止のカーテンの隙間から、微かな太陽光が射しているにもかかわらず、まるで透明な遮光の膜が部屋の周囲に張り巡らされているようだった。

 俺は晶良の見つめる先に目をやった。

 なにか固いものが倒れる音がした。

 俺の左の壁に沿うように置かれていた一升瓶が傾いて倒れたのだ。一升瓶の周りでわだかまった闇がもぞもぞと蠢いている。そこは最初に晶良が指さした場所だった。

 俺は良く見てみようと目を凝らした。

 フローリングの床に黒い染みがどんどん広がっていった。

 けど、それは液体による染みじゃない。一升瓶は割れてなくて、水がはいったコップも倒れてない。

 次の瞬間、一升瓶がその黒い染みのなかに吸い込まれた。そこには染みじゃなくて、本当に穴が存在した。一升瓶は音もなく、穴のなかへ落ちていった。

 それを合図に穴から生臭い風が吹き出始めた。

 女が泣き叫ぶような高い悲鳴が、その穴から聞こえてくる。悲鳴だと思っていた音は、穴から吹き付けてくる風の音だった。

 なにが起こっているんだ!? なにが始まるってんだ!? 社長、説明してくれよ!!

 振り返ると、社長がハンカチを取り出し、異臭による吐き気を懸命に我慢してる。丸い顔が真っ青だった。ちょっと話しかけられる様子じゃない。困った…………

 あきらめて、俺は斜め前に立つ晶良の背中を見つめた。

 この異常事態のなか、背を見せる彼女だけが毅然としているように思えた。顔は全く窺うことはできないけど、なにか呪文を唱えているようだ。

 気のせいかな? 暗闇のなか、彼女の体の周りにゆらゆらとした光が見える。これってオーラとかいうものなのか?

 晶良が右手を動かし、腰に付けたポーチからなにか取り出し、宙に放った。

 俺には、それが黄色い紙に、ぐねぐねした赤い文字を書いたものに見えた。

 紙は四枚あり、だいたい縦十五センチ横八センチの大きさだった。どういうわけか、その紙は宙に浮いたまま貼り付いたみたいに動かなくなった。

 晶良が人差し指と中指を紙に向け、宙になにか紋様のようなものを描いた。その動きは鋭く、一体なにを描いたのかまったくわからない。

「はっ!」

 晶良の口から鋭い呼気音が発せられる。その瞬間、宙に浮いていた紙が、矢に射られたように物凄い勢いで部屋の四隅に散っていった。そんでもって、糊付けされたみたいに壁の四面に貼り付く。

 俺は呆気に取られてたけど、いきなりなにかが向かって放り投げられたのを感じて、とっさによけた。

 投げられたものはクローゼット側の壁にぶつかり、けたたましい音を立てて割れた。

 がしゃーーーん!!

一升瓶だった。右後ろから社長の唾を飲む音が聞こえてくる。

 瓶のかけらや中身が四方に飛び散り、驚いた俺は部屋の外へ出ようとした。

「動かないで!」

 それまで一度も背後を見てない晶良が、突然声を掛けてきた。

「今、この部屋から出たら、屍人(しびと)が飛びかかりますよ」

 それを聞いた俺はぞっとして、動かしかけた足を元に戻した。

 そのあいだにも、ますます悪臭は酷くなる。壁と床に飛び散った酒が酢のような刺激臭を放ってる。

 風穴から吹き抜けるような音は、いつの間にかうめき声に変わってた。

 気がつくと、穴の上部に灰色の女が立ってる。いや浮いているのか!? うめき声は女が発してる。首が異様に長い。

 女は懸命にその首を掻きむしってる。距離があるのにその女の細部まで手に取るようにわかる。

 女の爪は長く鋭い。その爪が伸びた首の薄皮をばりばりと引っかいてる。どす黒い血が、女の首から滴っているのがわかる。

 とうとう爪は女の首の皮を貫通し、肉と筋を引きむしった。

 びちゃびちゃと血飛沫が辺り一面に飛び散る。

 社長が「うっ」と軽くうめいた。目前の異様な光景に俺も吐き気がして戻しそうになった。

 晶良だけが眼前の凄惨な情景から目をそらさず、ぶつぶつと呪文を唱え続けてる。彼女の表情はまったくわからないけど、彼女はぜんぜん怖気づいてない!

 女は悲鳴を上げながら、ガラスを引っ掻くような耳障りな笑い声を、多重音声のように漏らしてる。その声の合間に別のうめき声も聞こえ始めた。

はおそるおそる横の穴を眺めると、ちょうどその縁に青白い指がかかるところだった。

 異常に長いささくれた爪が、ギチギチと穴の縁をつかんでる。

 濡れた雑巾を叩きつけるような音がし、次々と穴の縁に手が現れた。

 ベタッ

 その手は一様に青白く、ところどころどす黒く変色してる。

 一体なにが這い上がってきているのか、俺には想像できなかった!

 ずぶぬれのてのひらをガラスにたたきつけるような音が増え始める。

 ベタベタッ ベタッ

 無数の手が穴をよじ登ってくる。

 穴から現れる手のなかには、露出した指の骨をほかの手に突き刺しているものまであった。手なんていえない骨に筋だけを残したものも、手の群れに混じってる。

 あの手は腐っているんだ。

 俺は一瞬で分かった。

 生きている人間の手じゃない。そしたら、あの穴は普通じゃない想像を絶する場所に繋がってるんだ。

 穴の縁が手で埋め尽くされると、今度は頭が現れた。べったりと頭部に張り付いた髪はところどころ抜け落ちてる。剥がれた薄い頭皮をぶら下げている頭も見えた。

 ものすごく臭い!

 臭気がいっそう強くなってきた。肉が腐ったようなヘドロが混じった強烈な悪臭がする!

 穴から這い出てきたやつらは、みんな異常な姿だった。皮膚が崩れ落ち、肉が溶け、腐肉を垂らしている。皮膚が青黒く膨れているやつもいれば、赤くふやけ皮膚のところどころが破れて、体液が流れ出ているやつまでいる。

 とても見てられない。

「なんなんだよ、あれ!?

 思わず俺は叫んでた。完全に社長は俺を盾にして隠れてる。俺は前に押し出される形で、グロテスクなものを正面から見る羽目になった。

「あれが屍人ですよ。黄泉の国のものたちです」

 穴と対峙している晶良が説明してくれた。

 屍人たちは、女が流した血だまりに這いつくばり、ぴちゃぴちゃと音を立てて舐め始めた。そんでもって、狂ったように奇声を上げ続ける女の足首をつかみ、屍人たちが女の足に次々とまとわりついてく。

 女はよりいっそう悲鳴を上げ始めた。

 一体なにをしてるのかと俺が目を凝らすと、屍人は女の足に食らいつき、肉を引き千切り貪ってる。

 宙に浮いていた体は引き摺り下ろされ、長く伸びた首はそのまま千切れた。

 女はあっという間に屍人の塊の中に埋没していった。

 悲鳴が完全に途切れると、屍人のひとりが俺たちのほうを振り向いた。

 その眼球はすでになく、まっ黒い眼窩(がんか)がぽっかり開いた顔をこちらに向け、かすかに笑ったように感じた。

 それを合図に、他の屍人たちも俺たちのほうへ這い寄り始めた。

 俺の胃の腑が恐怖に縮み上がる。体が勝手に逃げ出しそうだ。社長の様子を窺うと、とっくの昔に目を開けていること自体放棄しているのがわかった。

 けど、晶良が落ち着き払った様子で、右腕を上げ、右手の人差し指と中指を立てて、呪文を唱えながら宙になにやら文様を描いているのが見えた。「はっ」という呼気とともに屍人を指でなぎ払った。

 白い光の玉が彼女の指に灯り、それがまばゆい弾丸となって屍人の体に命中してく。

 瞬く間に屍人は跡形もなく消滅した。

 穴から這い出てきた屍人はほとんど消えてしまい、俺はやっと終わったんだと、ほっとした。

 けど、そうじゃなかった! いきなり、不気味なうなり声が突如部屋に響き、強い硫黄臭が漂い始めた。

 まるで大型の肉食獣の威嚇音のようだ。うなり声は徐々に大きくなっていく。

 声は屍人たちが這い出した同じ穴から聞こえてくる。

 聞いてるだけで背筋を凍らせるような恐ろしい唸り声だ。

 俺は緊張した面持ちで穴を凝視した。ぞっとしたまま穴から目をそらすことができなくなった。

 俺の見つめるまえで、穴から新たになにかが現れた。

 毛深い掌が穴の縁から突き出し、そのまま床めがけて叩き下ろされた。

 なにかを叩き割るような音が穴から発せられる。

 ダ、ダンッ――!

 新たな手が穴の縁をつかんでいる。先ほどの屍人の手とは、比べることもできないほど大きい。手の甲には太い毛が生え、爪はまるで肉食獣のそれだった。

 大きな破裂音とともに、もうひとつ手が縁から現れた。

 ダーンッ――!!

 うなる声も次第に大きくなっていく。

 徐々に穴から頭が突き出してくる。その頭蓋にはでかい二本の角があった。太くて歪(いびつ)なねじれた角。

 頭はぐっと突き出され、穴の大きさを無視した巨大な体が現れた。

 鬼だ。

 人の顔じゃない。獣の顔を持つ醜悪な生き物が目のまえにいた。

 鋭い乱杭歯の間から粘度の高い唾液を垂れ流し、横に広がった鼻腔から生臭い息を漏らしてる。

 その腕と首、胸板は厚い筋肉に覆われ、体中に剛毛がまばらに生えている。皮膚はまるで象かサイのように硬そうだ。

 鬼の体はずるりと穴から引きずり出され、ゆらりと晶良のまえに立った。

 鬼の頭頂部は部屋の天井にぶつかり、天板が歪んじまってる。

 鬼の全身を目の当たりにして俺は唾を飲み込んだ。

 それは人間の姿を著しくデフォルメしている。太く長い腕。天井にぶつかるほど大きな体躯だけど、腕は床に着いている。足は歪み、獣のような形をし、蹄こそないが、馬かなにかの生き物みたいだ。

 いきなり部屋に雷鳴に似た咆哮音が轟いた。ゴロゴロという唸り声と、甲高い鼓膜をつんざく鋭い音。聞いたとたんに俺は腰が抜けそうになった。

 思わず、俺の喉から悲鳴が漏れる。

 すると晶良がちらりと俺を振り向いた。

 晶良が優美な流し眼を陽仁に向け、微笑んだ。長い前髪が目元にかかってる。

 暗くてわかりにくいけど、きっとその頬も唇も桜色を帯びているだろう。

 すごく綺麗な顔だった。

「屍鬼(しき)です、大丈夫、そこから動かないでくださいね」

 俺は晶良の言葉を信じるしかない。異形のものを前にしても動じないこの少女に、自分の命を預けなくちゃいけないと覚悟した。

 屍鬼が山羊に似た瞳を晶良に向け、首を傾げている。

 その隙を狙って彼女がなにか腕を動かして、声をあげた。

「青嵐(せいらん)、警護に当たれ!」

 俺の鼻先に花の香りが漂ってきた。

 気付くと、藤色の着物を着た銀髪の女が俺の横に立ってた。

 けど、姿がゆらゆらと陽炎のように揺らめいてる。この女の人も、人じゃないんだ! その手に鉄色の扇を構えてる。扇は女の人――青嵐が動くたびに澄んだ金属音を発した。

 晶良が動いた。

 右足を出してから両足をそろえ、今度は左足を出し両足をまたそろえる。兎歩(うほ)という歩き方でゆっくりと床をすべるように進みながら、屍鬼の左手に回り始める。

 鬼はたかってくる蝿を追い払うようなしぐさで、彼女の顔めがけて腕を振った。紙一重でよけ、わずかに長い髪が乱れ散った。

 晶良が、穴から這い出した屍鬼の前をゆっくりと半円を描いて巡った。

 陽仁に顔を向けた、晶良の長めの前髪のあいだから覗く大きな瞳が真剣な色を帯びてるのがわかる。顔を屍鬼に向けたまま、すっすっと足を繰り出してる。俺には彼女の綺麗な顔が緊張に満ちてるのが分かった。たぶん、彼女が全力で屍鬼を封じる呪文を唱えてるためだ。

 今まで汗ひとつかいてなかった晶良の額からひと粒の雫が流れるのがみえた。

 まだ、息が白い。けれ、彼女の体からは蒸気がもうもうと上がりだす。どんだけ体力を消耗しているんだろう?

 上気した頬が紅色に染まって、息つく暇のない詠唱にほんの少し足並みが乱れてくる。

 その隙を突いて屍鬼が、鋭いかぎ爪を晶良の頭上に振り下ろした。さすがの彼女もここまでかと俺は思わず目をつぶった。

 突如なにかがぶつかり合う金属音が室内に響いた。

 ガキンッ――!

 続いて金属が滑る音がした。

 キュイィン――!

 俺が目を開くと、太刀を手にし、屍鬼のかぎ爪をその刃で食いとめている男が立ってた――!!

 両耳のわきで髪を丸く結い、みづらの形にした男が、晶良をかばうような態勢で屍鬼と対峙していた。

 筒袖というゆったりとした服を身に着け、足首の部分を紐でくくったはかまを穿いている。

 晶良が男になにか合図するようにうなずいて、静かに兎歩を続けだした。

 男が屍鬼の攻撃から晶良を守ると、闇に溶け込むように姿を消した。

 けど、屍鬼の目が晶良を追い、ぐぐっと歪に首を捻じった。壁に当たると晶良が踵を返し、元の半円を歩き出す。反時計回りで異形の化け物の前方を何度も繰り返し歩き続けるのを、俺は見守るしかなかった。

 両者ともお互い目をそらすことなく睨み合ってた。

 その動きがあせるくらいゆっくりに見えて、俺はてのひらの脂汗を握り締めた。

 晶良を凝視する屍鬼の右側、ちょうど俺の正面に晶良が回り込み、また踵を返す。晶良が呪文を唱えながらしずしずと足を進め続けるのを、俺は黙って眺めた。

 暗闇のなか、冷たい空気や悪臭と醜悪な屍鬼がいるせいか、ここがまるであの世みたいな雰囲気を醸している。

 屍鬼が吼える。

 けど、歩を緩めないまま、元の位置まで晶良が半周し終えた。

 今まで晶良との間合いを見てた鬼が、長い腕を大きく振って彼女をなぎ倒そうとした。

 一瞬そのか細い体が屍鬼になぎ払われたように見えた。

 けど、晶良の体が屍鬼の攻撃をひょいと何事もなく受け流した。わずかに上体をそらし、手の指は印を組んでいて、今度こそ朗々と呪文を唱えだした。

「ひふみよいむなや――」

 屍鬼の動きがわずかに鈍る。

 晶良がトンと跳ねるように退いた。

 屍鬼が反射的に晶良を追う。

 けど、なにか目に見えない壁に阻まれ、その場から動くことができないでいるみたいだ。

 もどかしげに屍鬼が凄まじい咆哮を放った。

 晶良が右手を腰にやり、ポーチからヒトガタの紙を一枚取り出した。それに素早く指をかざして九字を切ってる。

 指先で数枚の紙を挟み、屍鬼に向けて投げつけた!

 空を切り、それは一直線に屍鬼に向かって飛んでいく。屍鬼の眉間にカッと音をさせて突き刺さった。

 屍鬼が狂ったように咆哮を繰り返す。

 この圧倒的な体躯を持つ屍鬼に、薄い紙ごときが対抗できるなんて、俺には到底思えなかった。

 けど、屍鬼が額の紙に手を触れることもできず、身もだえしながら腕を振り回すのを目の当たりにしてみると、俺はこのヒトガタの紙にかなりの力が込められているんだと思えた。

 晶良が軽やかに陽仁の右横まで飛びずさった。

 次第に鬼の眉間の紙から光が漏れてくる。

 その光は交差する九本の線で構成されてる。格子状の光が徐々に屍鬼の体を覆い、包み込む。

 光の縄に束縛され、屍鬼は振りほどこうとあがいた。けど、光の拘束はますます強まり、格子を縮めながら小さくなってく。

 これ以上縮まれば巨大な体が千切れ跳んでしまうと俺が思ったとたん、目を焼くような閃光が屍鬼を中心に爆発し、収縮した。

 俺が目を開けみると、部屋から屍鬼が消えていなくなってた。

 いつの間にか俺の横に、陽炎のようにたたずんでいた青嵐も消えちまってた。

 気がつけば、室内はうっすらと明るくなってた。あれほど寒かった空気が、だんだんと暖かくなってきたのを感じた。

 床にはヒトガタの紙が散乱してる。

 隣に立つ社長が深いため息を吐いた。

 俺は身をかがめ、不思議な紙を拾おうとした。一体、どんな仕掛けがしてあるんだろう? 

けど、晶良の鋭い声に、俺は手をとめた。

「それを拾わないで! そのままこの部屋から出てください。後始末をします」

 俺は晶良の言葉にしぶしぶ従った。

 晶良が線香立てと一緒に置いていた榊の枝を手にし、それを振りながら兎歩で部屋を一周し始める。

「あれは、なにをしてるんですか」

 俺が社長に訊ねると、

「部屋を清めてるらしい」

 と説明してくれた。

 晶良が部屋を清めたあと、部屋中に散らばった紙を拾い集め、取り出した袋のなかに収めてる。

 陽仁は部屋の様子をぼんやりと眺めてた。

 あれほど暗かった室内は、カーテンの隙間から漏れる太陽光にほのかに明るくなってる。

 さっきまでの興奮はまだ冷めやらないが、気がつけば今までの冷凍室に放り込まれたような寒さが嘘のようだった。俺はうなじを伝って落ちる汗を右手で拭った。

 さっきまでの異常な事態は嘘のようだった。

 けど、クローゼットの前の床に散乱した瓶のかけらが、嘘ではないことの証拠だった。

 なにかが終わったんだということはわかった。

「彼女はなにものなんですか」

 俺はずっと聞きたくてたまらなかった言葉をやっと口にした。

 社長が目を細め、晶良の姿を見つめて言った。

「彼女は屍鬼祓師(しきはらいし)だよ、屍鬼専門の掃除屋」

 俺は目を丸くする。途中から、あの少女が単なる清掃業者じゃないとは思ってたけど、屍鬼祓師って……一体なんだ!? あの屍鬼ってやつも!?

 俺の様子を見て、社長が続けた。

「こういった、一筋縄じゃいかない瑕疵物件専門の、ね。屍鬼とかいう鬼のことはワシでもわからんのだ」

 俺が社長が経営する不動産会社に入社してたった二週間。今は試用期間中だ。そのあいだに何度かその言葉――瑕疵物件というのを耳にしたことがあった。

 瑕疵物件にもいろいろとある。

 物理的法律的な不備のための瑕疵。そして、もうひとつが心理的な瑕疵。

 心理的な瑕疵とは、事故死や自殺などで不動産価値の下がった物件のことを指す。

「たいていはリフォームし、何度か人が使用するうちにそんな瑕疵は問題がなくなる。だが、たまに何度も同じことが起こってしまうことがある。何度、人を入れても一定期間内に人が死ぬ。そんなとき、その物件は死ぬほど安くなって買い叩かれるか、二度と人に貸さないように封印される。ワシはそういった物件を買い漁って、彼女に掃除を頼むんだよ」

 社長が俺の目を見てにやりと笑った。

「どうだ、諏訪君、勉強になっただろう」

 俺は狐につままれた気がして曖昧な返事をした。

「終わりましたよ」

 にこやかに晶良が部屋から出てきた。

 晶良が社長に頭を下げ、

「社長さん、お疲れ様でした。毎回立ち会うのって大変じゃないですか。それにいつも気分悪くなるでしょう?」

 と言った。

「いや、社長たるもの、晶良さんの仕事振りは目に焼き付けておかないとね、うっかり軽んじてしまうようになるんだよ」

 掃除の最中ずっと晶良の後ろに隠れてたことなどおくびにも出さず、社長が答えた。

 陽仁は晶良を見つめた。すると、陽仁の視線に気がつき、可愛い顔をほころばせた。

「お疲れ様です」

「どうも」

 陽仁は晶良に声を掛けられ、丁寧に頭を下げた。

「暑いねぇ」

 社長が扇子を背広の上ポケットから取り出して、パタパタ扇ぎだした。

「そうですね」

 晶良が社長の言葉に同意しているが、汗ひとつかいていないのが一目でわかる。

「そんじゃあ、場所を変えるか」

 社長の一声で部屋を後にし、マンションを出て晶良の贔屓(ひいき)にしてるカフェに向かうことにした。

 

 俺は柔らかなクッションのついたソファに腰掛け、目のまえ座る晶良を眺めながら、マンションを訪れたときのことを思い出していた。

 落ち着いた雰囲気のカフェの店内にクラッシック音楽が流れてる。

 社長は無言でコーヒーを飲んでる。

 どうやら晶良がひと心地つくのを待ってるようだ。

 俺は社長が注文してくれたアイスコーヒーを飲みながら思った。

 明るい店内で人形みたいに綺麗な顔をした少女を、俺は改めて眺めた。

 白い肌はビスクドールみたいで、頬はほんのりと紅い。整いすぎるほど綺麗な顔にはシミ一つない。頬はふっくらと丸みを帯びてて、間違いなく美少女だ。

 宇治抹茶パフェを見つめるうるんだ瞳は、ややハシバミ色がかって見える。長めの髪が頬に当たり、それをかきあげる指先は白魚のように細く繊細だった。

 さっきまでの清掃で見せた姿とはかけ離れすぎて、まるで別人だった。

 年齢はたぶん俺よりだいぶ年下だろう。中学三年生になったばかりの妹の陽向(ひなた)と変わらないんじゃないかな。

 甘いものが好きなのかな? 幸せそうな笑顔を浮かべて、宇治抹茶パフェを食べてる。

「今日はお疲れ様でした。晶良さん、これは心ばかりのお礼です。受け取ってください」

 社長がテーブルの上に封筒を置き、両手を添えて差し出した。

 晶良はそれを見て、同じように両手で持ってその封筒を受け取った。すぐに眉をしかめると、一度受け取った封筒を社長のまえに押し返した。

「また、入れすぎです。こんなにもらえないです」

 どうやら謝礼が多いことに気を悪くしているようだ。

 変わってる……。普通多くもらったら嬉しいはずだよな。清掃をおこなう現場を見たが、きっとそれに見合う報酬が、封筒のなかにははいっているはずだよ。

 けど、何度か押し問答を続けて、最終的に晶良は封筒を受け取った。彼女は両手で封筒を胸のまえに持って、複雑そうな顔をしている。

「ところで、晶良さん、これからは掃除のときに諏訪君もちょくちょく見学に来ると思うから」

 晶良は社長の話を笑顔で聞いてる。最初の印象と違い、幾分天然がはいってそうなおっとりとした雰囲気だ。

「よろしくお願いしますね、陽仁さん」

 晶良は笑顔のまま俺に向き直り、挨拶した。思わず俺も浅く頭を下げていた。

 社長はさっきまでの緊張した様子とは打って変わって世間話をし始めた。

「あー、これであのマンションを極上の値で貸せるというわけだ! ほんと、助かったよ。いやね、それまでは目をつけていてもすぐ手放すことになるなら、あまり意味がないと思ってたんだよ。晶良さんのお姉さまにはいくら感謝しても、し足りないくらいだよ」

 そして、丸い顔をほころばせて豪快に笑った。

「そうそう、諏訪君。晶良さんはね、マンションのオーナーでもあるんだよ。どこか君の希望に合うとこがないか聞いてみたらどうだね」

「え? 中学生なのに!?

 俺が驚いて声を上げると、晶良が頬を膨らませた。

「ぼく、中学生じゃありません! 二十歳です!」

 さらに驚いてる俺を尻目に、話が勝手に進んでいく。そこ、スルーするところか!?

「さぁ、希望の物件を聞いてみたらどうだね」

 社長と晶良の目が陽仁に集まる。こう見つめられた状況で、「二DK三万円」と言うのは居心地が悪い。言うか言うまいかで黙っていたら、社長が余計なことを言い出した。

「こいつね、なかなか安い物件が見つからないもんで、妹と二人で一週間もネットカフェ暮らしなんだよ」

 俺は社長の言葉にばつが悪くなった。そんなこと言わなくってもいいのに!

 晶良はきょとんとして、

「へぇ、ネットカフェってどこのホテルなんですか」

 と、真顔で聞いてくる。

 俺がなんと説明しようかと考えあぐねていたら、社長があいだにはいって説明した。

「インターネットやら漫画なんかが、二十四時間利用したり読んだりできる喫茶店みたいなものだよ」

「そうなんですね。最近はそんなところで生活できるんですね」

 晶良が感心したようにずれた感想を口にした。

「今で言う、ネットカフェ難民でしょうなぁ」

「あ、それ知ってますよ。住居を持たないひととか、リストラされたひとがなるってニュースで見ました」

「なんとなく違うが、そんなもんですな」

 二人はまったりとした雰囲気で、俺を肴に笑い合ってやがる。

 晶良が笑顔で俺を見た。

「じゃあ、諏訪さん、良かったらぼくのとこに来てはいかがですか。妹さんとご一緒に」

 その申し出は唐突だった。

「え?」

「困ってるなら、構いませんよ」

 世間話の延長線上のノリで、あっさりと言われた。

「え、でも」

「ほほお、そりゃいいじゃないか! 諏訪君、運がいいな」

 社長はひとごとだと思って、無責任に笑ってやがる。確かにありがたい申し出なんだけど、社交辞令じゃないだろうな? 俺は疑いの目を晶良に向けた。

「あ、住所と電話番号がいりますね」

 晶良は皮製のウエストポーチから、紙と鉛筆を取り出し、なにやら書きつけた。そして、「はい」とその紙を俺に手渡した。

 この好意に乗っかっていいんだろうか…………? 俺は複雑な気持ちで紙を見た。

「社長さん、アイスティー頼んでいいですか?」

「いいよいいよ、あ、キミィ」

 社長と晶良の声が、俺の意識からフェードアウトしていく。

 両手で持った紙に書いてある住所と電話番号を目を落とす。

 妹にはなんて説明しよう。いきなりルームシェアだと言ったら驚くかな。それより晶良の家族はどう思うだろう。これを信じていいんだろうか…………!?

 俺の胸のなかで、言葉にし尽くせない心配事が渦を巻くのだ

 


 一 神籠《かごめ》の磐座《いわくら》

 この話は、すべての事件が終わった後の話だ……。

 

 

 あたしは諏訪陽向《すわひなた》。

 やっと夏休みに入って、七月も終わりにさしかかった。

 晶良ちゃんやあたしにはあまり関係のないことだけど、やっぱり街ゆくセレブのご婦人方のファッションが夏真っ盛りであることを物語っている。

 青々とした街路樹のトンネルの先に、エントランスに設けた英国式の小庭園がひときわ目立つマンションがある。小庭園の先には通常のフロアへ続くホールの入り口と、五階のペントハウスへと続くガラス張りの自動ドアがある。

 屋上にはペントハウスまでさらに空中庭園が青い空の真下に広がっている。二百平米の敷地を余すところなく贅沢な娯楽施設が配備され、美しいガラスタイルで色どられたペントハウスの外壁は、ガウディの建築みたいだ。

 マンションの周囲には建築法のためか高い建物があまりない。抜けるように真っ青な空を背景にペントハウスの外壁がきらめいて見える。その青空にアニキ・陽仁《はると》の絶叫が響き渡った。

 

「いってぇええ!」

「アニキ、だらしないゾ」

 畳の上に半裸でうつぶせに寝そべっているアニキの体に、あたしは容赦のなく湿布を貼っていく。どこか愛嬌のある顔をしかめて、筋肉痛に叫ぶアニキに、あたしは冷ややかな言葉を浴びせかける。

 あたしは嬉しくないけど、アニキとよく似てる。もっと可愛く生まれたかったけど、アニキと同じ親を持つ身だ、仕方ない。元気で細かいことにこだわらない性格が服装の趣味に出てるってよく言われる。リビングにはクーラーがついてるけど、いつもの癖で、肩につくくらいの髪を後ろに一つに結び、白いTシャツに紺のサブリナパンツを履いてる。こういう楽な格好が好きなのだ。

 二十畳のだだっ広いリビングの片隅に設えた、六畳ほどの畳敷きの段の上にアニキがうつぶせに寝転び、あたしは湿布を片手に座っている。座卓を挟んだ向こう側で晶良ちゃんがテレビを見ている。

「ぐはぁ」

 今朝方、晶良ちゃんとアニキは一宮家の分家である佐伯のひとに自宅まで送られてきた。

 現在、アニキだけが筋肉痛に苦しんでいて、晶良ちゃんはというと、涼しい顔で六十五インチの液晶薄型テレビの前に座って、バラエティ番組を楽しそうに笑って観ている。

「なんでお前は筋肉痛にならないんだ!?

 アニキが悔しげにテレビの前を陣取っている晶良ちゃんに向かって毒づいた。非常に腹立たしい口ぶりだ。そんなアニキを振り返り、晶良ちゃんは寛大にも苦笑いだけで済ませた。なんて心が広いんだ。アニキは筋肉痛で苦しんでいればいい。

 アニキが湿布だらけの背中を上にして、折りたたんだふかふかの座布団に頭を乗せてうめいている。びたんと音がするほど激しくあたしがアニキの背中に湿布を貼るたびに、アニキは盛大に悲鳴を上げた。

「もっと優しくしろ!」

 情けない声で訴えられても、今回の仕事に連れて行ってもらえなかったんだから、あたしの機嫌は絶対に良くならないんだからねっ。どんなに遊びではないとアニキに言われても、あたしには関係のない。

「なんでアニキだけ晶良ちゃんのマネージャーなわけ? あたしだって結構役に立つと思うのに!」

 まずもって、アニキだけが晶良ちゃんのマネジメントだということ自体納得出来ない。でも、それは晶良ちゃんやアニキが決めたことじゃない。それはわかってる。だから無性に腹が立つんだってばッ!

「だからぁ、それは俺が決めたことじゃないって何度も言ってるだろ!」

 アニキの言い訳をかき消す肌をたたく鋭い音を響かせ、あたしは容赦なく湿布を貼っていく。そのたびにアニキの口から悲鳴が上がった。

「じゃあ、晶良ちゃんにお願いしてもらうようにアニキから言ってよ!」

 あたしの言葉を聞いて、テレビを見ていた晶良ちゃんが振り向いて、無理だと手を横に振った。あたしがすがるような目を向けると、首をすくめて晶良ちゃんが視線をそらした。仕事を晶良ちゃんに言いつけているのは晶良ちゃのお姉さん・翡翠さんなのだ。しかも、彰ちゃんの上には四人のお姉さんがいて、晶良ちゃんはお姉さんたちの言いつけにはすごく素直なのだ。

「別にさ! 絶対連れて行ってほしかったわけじゃないんだよ! 少しはさ! 妹に対して日ごろの労いがあってもいいんじゃないのかなってさ!」

 あたしはびたんびたんと勢いよく湿布を貼っていった。

 アニキが絶叫をかみ殺し、

「遊びに行きたかったら中学の友達と行きゃいいだろ! 何もくそ面白くない仕事についてきたがら……、うぎゃあ!」

 と文句を言い募っていたけど、太ももの一番強張ったところにあたしから湿布をびたんと叩きつけられ、それ以上言葉を続けることが出来なくなったみたいだ。涙目でもだえているアニキを尻目に、晶良ちゃんが「あ」と軽い声を上げた。

「どうしたの、晶良ちゃん」

 あたしは晶良ちゃんを振り向いた。

 晶良ちゃんがごぞごぞと短パンのポケットを探り、昨日、長野県伊那《いな》から持ち帰った磐座《いわくら》の欠片を取り出した。

「これ」

 笑顔で差し出されたものをあたしは条件反射で受け取った。握り締めた掌の中でほのかに暖かなものを、あたしは改めて眺めた。

 赤茶けた石。プラス晶良ちゃんの体温。石自体になんの感動もなかったが、掌に感じる晶良ちゃんの体温はすんごく心に暖かかった。

「これなに?」

 しかし、やはりわざわざ手渡されたなんの変哲もない石を不思議に感じて、あたしは晶良ちゃんに訊ねた。

 晶良ちゃんが満面の笑顔で身を乗り出すと、熱心な口ぶりで説明してくれた。

「これは神気の篭った磐座(いわくら)です。神様が宿っているのとおんなじだから、陽向さんにお土産にしようと思って持ってきたんです」

「え」

 晶良ちゃんが口にした『陽向さんにお土産』という言葉があたしの心のど真ん中を、ズキューーンと撃ちぬいた。あたしの頬が真っ赤になっていく。でも、神様が宿った磐座って何のことだろう?

 すると、質問する前に晶良ちゃんが説明をしてくれた。

「どんなものでもそうなんですが、長い年月を経たものには魂が宿るんです。けれど、ものには寿命があります。壊れてしまうとその中に宿っていた御魂(みたま)は霧散してしまいます。けれど、こういった岩や山、樹木など、なかなか器そのものが壊れてしまわないものがあります。そうした長く保てる器を持った御魂の中には清い力を持つものもあって、そういった存在が何百年何千年と力を蓄えると、ごく稀に神霊という存在にまで成長するんです。その存在は簡単に言うと神様見習いの卵です。神様見習いまで成長できれば、少しは器から離れても御魂が霧散するようなことはありません。例えば、朱鸛(しゅこう)もそうですよ。器の磐座に戻ることができなくなっても、なんらかの形で神気を閉じ込めることができれば、力を失ったりすることがないんです。神霊を失った器の中には、それと同等の力が満ちていますから、磐座がある場所とここと同時に存在できるんです。朱鸛はその器をなくしたから、僕の中にいるんですけどね」

 晶良ちゃんの説明は少し難しかった。飲み込めなくて、あたしは訊ねた。

 でも、あたしの様子を晶良ちゃんはあまり気にしていないようで、専門分野の話が出来て反対に嬉しそうに見える。楽しそうな晶良ちゃんを見てるだけで、あたしも嬉しい。

「――で、その石の欠片は神様が宿ったご神体と同じくらいのご加護があるんですよ」

 晶良ちゃんが語る話の半分も耳に入っていなかったけど、あたしはさも感心したようにふむふむと相槌を打ちながら聞いていた。

「へぇ、そんなにありがたい代物だったんだ」

 トランクス一丁というあられもない格好のアニキが、体を起こして晶良ちゃんに言った。あたしは覗き込んでくるアニキの視線から石を隠して、口を尖らせた。

「ほしいって言ってもあげない」

「ほしいとか言ってないし」

 晶良ちゃんがあたしたちのやり取りを見て、心配そうな顔で言った。

「もう一つくらい探して持って帰ってきたほうが良かったですか」

 そしたら、アニキがうんざりした顔をして、脱いだTシャツを着ながら首を振った。

「だからいらないって言ってるし」

「ねぇ、晶良ちゃん、長野の伊那までわざわざ磐座を砕きに行ったわけじゃないんだよね? 今回の仕事って一体どんなことしたの?」

 今回の仕事がどんな内容のものだったのか、あたしは全然知らない。石を眺めながら晶良ちゃんに訊ねた。

「さっき話したように、長い時間(とき)を経たものには御魂が宿るっていうのと関係するんですけど、神様見習いから晴れて神にまで神格が上がった御魂が、神界に昇天して残された器が空っぽになったりすると、大きな災害が起こったりするんです。すごい力を培った神が神界に還られて、それまでその神と均衡を保っていた龍脈がバランスを崩してしまったんです。陽向さんも知ってると思うんですけど、最近中央高地に災害が集中していたでしょう? あれは、今回バランスが崩れた龍脈が原因なんです。そのバランスを元に戻したのが、今回の仕事っていうわけです」

「えーと、つまり、どういうこと?」

 あたしは苦笑いしながら聞き返した。

「簡単に言うと、空になった器にそれまで入っていたものと同じくらいのものを詰め込んできたんです」

「それって、神様を詰めてきたってこと?」

 晶良ちゃんがあたしの言葉を聞いて優しく微笑んだ。天使の微笑みだぁ……!

「神様は無理ですけど、同じくらいの力ならできますよ」

 そういわれて、やっとあたしは腑に落ちた。神さまのいなくなった磐座に神さまに等しい生命の力を込めに、長野の伊那まで行ったんだ。たぶん仕事は無事完了したんだろうな。目の前で微笑んでいる晶良ちゃんが、その証拠だ。

 でも、生命の力を使うってことは、晶良ちゃんにとって命を削ることになる。多分、仕事を行った後、死にかけたに違いない。その時なんであたしは晶良ちゃんのそばについて挙げられなかったんだろう。なんで、そばにいたのが、アニキだったのか、納得出来ない!

 あたしは自分が晶良ちゃんにとって重要な役割を持っているわけじゃない。実際、日常生活において百パーセント晶良ちゃんの世話をしていたとしても、それはあたしでなくても出来ることだ。例えば、隣でTシャツとトランクスというデリカシーのない格好で座っているアニキにも出来る。けど、あたしは晶良ちゃんの命を守りたい。それなのに、あたしにはそんな力がない。目の前にいる、年上なのに頼りない晶良ちゃんの視界に、いつもあたしも含まれているだけでもいいんだ。何かで晶良ちゃんの力になってあげたい。

「そんなすごいものの欠片なの?」

 あたしは晶良ちゃんに念を押すように聞いた。晶良ちゃんが首を縦に振った。

「そうですよ」

「それをあたしに?」

 あたしは『陽向に持ってきた』という点を強く晶良ちゃんに確かめた。あたしの心なんて知らずに天使の微笑みを浮かべて、晶良ちゃんが言った。

「そうです、陽向さんのお土産にいいなって思ったんです」

 あたしはニヤニヤ笑いそうになるのを懸命にこらえた。

「ありがと! ペンダントにしてみるよ。大事にする」

 絶対肌身離さず持ち歩こう。あたしは心の中で舞い踊りながら誓った。

「じゃあ、朱鸛は神様なのにおまえの使いっ走りをやってるってことなのか?」

 横で聞いていたアニキが晶良ちゃんに訊ねた。

「朱鸛ってあの体の大きな男の人だよね?」

 あたしは朱鸛のことを大昔に亡くなった人の幽霊くらいに思ってた。でも、今聴いた話だと、朱鸛は磐座という巨岩に宿る神さまだったみたいだ。神さまを晶良ちゃんが使役しているってことなのかな?

 すると、晶良ちゃんが困った顔をした。

「朱鸛はまだ神じゃないですけど、僕の手伝いをする契約を交わしたことで、将来神になることが出来るんです。任期満了したら朱鸛は神界に昇天すると思います。この点では、青嵐もおんなじなんです。彼女も僕の手伝いをすることで穢れを清め神界に戻ることが出来ます」

「へぇ」

 まるでファンタジー小説の世界だ! あたしは目を輝かせ、晶良ちゃんに言った。

「晶良ちゃんはどうやってそんなすごい人たちを仲間にすることが出来たの? 仲間になってくださいって頼んだの? 例えばゲームみたいにそういう人ばかり集まった場所があって仲間を募ったの?」

 あたしにはまだ式神っていうのがわからない。晶良ちゃんがなぜか戸惑った顔をした。

「式神が集う場所なんてないです。それに、陽向さんはがっかりするかもしれないですけど、彼らは仲間ではないんです。彼らとは主従関係を結ぶんです。いわゆる僕の奴隷なんですよ。でも神霊のような存在がそんな屈辱的な関係を結ぶことはありません。そんなことをすれば、たちまち彼らは恐ろしい荒魂(あらみたま)に変貌して、祟り神になってしまいますよ」

「じゃあ、なんで晶良ちゃんにはできたの?」

 あたしのお馬鹿な疑問に対して、晶良ちゃんが苦笑った。

「そこのところが僕にもわからないんです。だから、当時、師匠や一族のひとに説明するとき、本当に困ったんです。あり得ないことだから」

「どんなことがあったの?」

 あたしは話を先に進めたくて適当な相槌を打つと、話の続きを晶良ちゃんにせがんだ。

 

(この続きは、「屍鬼祓師スピンオフ2 晶良と青嵐・朱鸛の出会い編」を参照ください)


 二 カイ不在

「美化してないか」

 アニキが晶良ちゃんの話を聞き終わって、身の程も知らない失礼な目で晶良ちゃんを見た。

「美化はしてないんですけど……」

 晶良ちゃんが困惑しているじゃないの。

「アニキ!」

 あたしはアニキのわき腹を力強く小突いてやった。

 あたしたちが喧嘩をしているところに、来客があった。

「翡翠姉さんかな?」

 晶良ちゃんが玄関へ出向いた。翡翠さんなら玄関から来るけど、柘榴さんはいつも庭から来る。登場の仕方が違うだけでも、かなり性格が違うお姉さんたちだ。しばらくして、やっぱり翡翠さんがリビングに入ってきた。

 相変わらず、晶良ちゃん同様年齢の分からない女性だ。おねえさんたちの中で一番顔つきが晶良ちゃんに似ている。二人並ぶと双子みたいだ。上の三人のお姉さんたちと比べて、翡翠さんは外交担当で、晶良ちゃんや他の人たちへの依頼を整理したり分配したりする仕事をしてる。

 暇さえあれば晶良ちゃんの様子を見に来るんだけど、それがいつもいきなりなので、あられもない格好を目撃されて、アニキが慌て始めた。

 パンツ姿にうろたえるアニキに、翡翠さんが心の広い言葉をかけてくれた。優しい。

「気にしないで、慣れてるから」

 どういうふうに慣れてるのか、あえて聞かないでいようとあたしが思っていると、

「修行中は年じゅう一族の男性のふんどし姿だって拝んでたんだから。私たちも似たような格好してたしね」

 と衝撃的な発言を耳にして、あたしは顔を赤らめた。晶良ちゃんのふんどし姿が頭に浮かんできて、顔が真っ赤になった! イケナイ妄想が心を占領してしまって、もう二度と晶良ちゃんを直視できそうにない。水着姿よりも刺激が強いじゃない!

「姉さん!!」

 さすがの晶良ちゃんも顔が真っ赤だ。

 アニキが自分のみっともない格好を棚に上げて大笑いしている。馬鹿め……。

「ところで楽しそうね、なんの話してたの」

 最近翡翠さんは暇さえあれば、妹である晶良ちゃんの家によってよもやま話をして帰っていく。頼りない妹が心配でたまらないのかも知れない。

「晶良ちゃんの式神の話を聞いてたんです」

 あたしは答えた。

「そういえば、翡翠さんも式神を持ってるんですよね? 翡翠さんはどんな縁で式神と出会ったんですか?」

 すると、翡翠は浮かない顔をした。

「わたしの?」

 あたしはこくこくとうなずいてみせた。

「たいしたことないわ、わたしの式神は年経た樹木の精霊だし、晶良の神霊みたいに特殊じゃないから」

「でも興味あります、樹木って、どんな木なんですか?」

 初めて耳にする話だ。あたしは好奇心が刺激されて、興味津々に翡翠さんを見つめた。

「単純よ。カイは槐《えんじゅ》の木の精霊。センは栴檀《せんだん》の木の精霊。ね、平凡でしょ」

「でも式神になれるくらいだから、特別な木なんですよね?」

 翡翠さんが晶良ちゃんに差し出された煎茶を口に含み、さらりと言った。

「多分、どっちも八百年から千年くらいの樹齢かな」

「すご!」

 平凡と言われるレベルが八百年かと思うと、すでにあたしの想像の域を超えてる。

「翡翠さんはどうやってカイとセンを式神にできたんですか?」

 すると、翡翠さんが思い出すように話し始めた。

「私たち、一宮家の異能力者は力に目覚める頃になると、まず自分が行くべき土地を見極めることから始めるのよ」

 行くべき土地を見極めるという意味が分からなくて、あたしは訊ねた。

「晶良がよく観想を行ってるでしょ? あれと同じようなことをするんだけど、わたしの場合は三日三晩自分の神から要求された呪文を唱え続けて、やっと分かったって感じ」

「それって普通なんですか?」

「普通……、そう言われると難しいけど、晶良みたいに他の異能力者を馬鹿にしてるかと思うほど簡単に神霊を式神にすることもあれば、三日三晩どころか、何年も掛けてやっと見つける者もいるわよ」

「へぇ……、それで、翡翠さんの場合はどこに行くことになったんですか?」

 あたしの矢継ぎ早の質問に、翡翠さんが困ったように微笑んだ。

「陽向ちゃんは好奇心旺盛ね。そんなに面白くないわよ?」

「聞きたい! ね、アニキもそう思うよね!」

 アニキが呆れた顔をして、あたしを見た。

「なんだよ、おまえが聞きたいだけだろ?」

「それで、どうしたんですか?」

 あたしは期待に胸を膨らませ、翡翠さんの話しの続きを待った。

 

 当時、翡翠は十七歳だった。力が発現し、ひと月。そろそろ式神を手にするべきと言う判断が下り、三日三晩を経て、ようやく自分の行くべき土地を見いだした。

 すべて、己の神の立像の御前で指定された回数の呪文を唱え、己の神と一身になり得た答えだった。食うや食わずで一心不乱に一万回唱えたきった瞬間、脳裏に四万十と言う言葉が刻み込まれたのだ。

 しかし、目的のものが四万十のどこにあるか迄はわからない。とにかく、その地に向かうしかない。翡翠は十分な準備をし、単身四万十川のある高知県西部の山域へと向かった。恐ろしいほどに長大な川の源流、不入山(いらずやま)北麓に達したとき、やっと翡翠の胸に辿り着いたという直感が芽生えた。

 翡翠はためらわず不入山へ踏み込んだ。

 己と縁のある式神の気配を探りながら、奥へ奥へと進んでいく間、翡翠は並々ならない気配をも感じていた。

 不入山にはわずかながら、聖域としての気が残っていた。すべて推測でしかないが、おそらく山が開かれたのは近代に入ってからであり、それまでは禁足地として管理されていたのではないだろうか。

 登山口を外れると、山はその表情を一変させた。人気のなくなった山域には得体の知れない妖しいものどもが息を潜めていた。

 目的のものへと進む翡翠の目の前に、翡翠の心を惑わそうと次々とやってくる。翡翠はくじけそうになる度に、己の神に祈り続けた。しかし、式神会得の時期が冬でなかったことは大きな幸いだった。冬場であれば、成人した男でも音を上げたかも知れない。

 幾日か経ち、携帯した食料が半分になった頃、翡翠は二つの清浄な気配を感知した。それがカイとセンだった。

 その後、カイとセンを服させるために数日かかった。ようやく、式神に下ったカイとセンを得て、翡翠は寝る間を惜しんで、麓に下り、一宮家へと戻ったのだった。

 

 翡翠さんがそこまで口にすると、眉を曇らせた。

 あたしは翡翠さんの様子に気付かず、翡翠さんの冒険譚にしきりに感心していた。そこへ、アニキが横から口を出した。

「ところで、翡翠さん、さっきから浮かない顔ですね」

 翡翠さんが困惑した顔になり、ため息をついた。

「陽仁くんは顔色を察するのが得意ね。そうなの、じつは……」

 アニキにお株を盗られてしまった……。

 

 翡翠さんがカイが召喚に応じないことに気付いたのはつい最近らしい。ここのところ一族で経営している学園の運営のほうが忙しく、式神を呼び出す機会がなかったからだ。

 カイは千年以上の樹齢の槐の古木である。

 カイは立派な古木だった。その丈は十五メートル。周囲は三メートル近くある。どっしりとしたその姿からは想像できないほど涼やかな面の童子が、古木の精だった。

 苦労し、説得して服させたとは言え、翡翠さんにとってカイやセンはただの奴隷じゃない。思い焦がれてやっと手に入れた恋人のようなものだ。

 そんな式神のひとりと連絡がつかなければ、心配でたまらない。気になって仕方ないが、なかなか現地に行くことができない。

 そうこうしているうちに今に至ってしまったというわけらしい。

「じゃあ、様子を見に行くしかないんじゃないですか?」

 アニキが翡翠さんに提案した。

「そうだね……、式神が命に答えないなんて、絶対にあり得ない。なにかが起こったと考えるのが普通です」

 晶良ちゃんも心配そうに言った。

「様子を見に行くしかないのかしら……」

 翡翠さんの懸念を後押しするように、晶良ちゃんが強く言った。

「姉さん、これは尋常なことじゃないとわかっているでしょう? 学園や他の仕事は一族の者でもできます。まずはなにが起こったのか、確認するべきです」

 晶良ちゃんの言葉に、翡翠さんも決心が付いたようだ。

「そうね……。カイを失うのは本望じゃない。晶良のいうとおりだわ」

 あたしはそれまで黙っていたが、おそるおそる翡翠さんに訊ねた。

「ねぇ、翡翠さん。遊びじゃないのはわかってるんですけど、あたしもついていっていいですか?」

「え?」

 アニキが呆れた顔をしてあたしを見る。

「お前、遊びに行くってホントは考えてるだろ」

 あたしはアニキの突っ込みを無視して続けた。

「あたし、晶良ちゃんの仕事や内容を覚えたいんです。あたしも手伝いたいんです」

「気持ちは嬉しいんだけど、女の子じゃきついんじゃないかしら」

 それを聞いて、あたしは満身創痍のアニキを指差して言った。

「少なくとも、アニキより体力あります! そりゃ力はないにしてもほぼアニキと互角です」

「お前はなんでおれに対抗心燃やしてんだよ……」

 アニキがさらに呆れてぼやく。晶良ちゃんがあたしたちのやり取りを困ったように見つめている。

「姉さん、陽向さんが行くなら僕も手伝いましょう。仕事も終わったし、姉さんだけじゃあ大変だろうから」

「ほんとう? じゃあ、日取りを決めないといけないわね」

 なにやら話が進んでいるのに気付いたアニキが慌てて言った。

「おれもいきます!」

「じゃあ、決まりね」

 翡翠さんがあたしたちの顔を順繰りに見てにっこり笑った。

 

 

 

 出発当日までに、晶良ちゃんとアニキに、あたしの買い物に付き合ってもらった。

 晶良ちゃんがあたしの渡した水着を複雑な顔で受け取った。以前、晶良ちゃんがデパートの店員から勧められて買わされた競泳用の水着は、晶良ちゃんの良さを表してない!

 アニキが晶良ちゃんの水着を、『キャラクターものじゃないだけましだと思え』という顔つきで見ている。アニキには一番安物の量産された某ネズミキャラの水着で十分だ。あたしが選んだ晶良ちゃんのブランドもののフリフリなビキニと同列にはできない。

 翡翠さんが水着の購入費は経費で落とすと言ってたけど、あたしの水着代は経費じゃないだろ、とアニキがケチなことを言い出した。

「なに変な顔してんの? アニキ」

「おまえな、遊びに行くわけじゃないんだ。翡翠さんの式神を調査に行くんだ。水着選びで三時間も時間をつぶすな」

「水着大切~! だって、翡翠さんが四万十川の源流で泳ぎましょうねって言ったじゃない」

「うー……」

 陽仁が顔をしかめ、言い返した。

「山に行くんだぞ。おまえ、山がどんなに危険か知らないだろ! 遭難したって知らないぞ」

「晶良ちゃんの式神がいるから遭難なんかしないもんね~」

 あたしはかわいいパステルカラーのワンピースを手にとって眺めた。

「ヒトの話を聞けよ」

「まぁまぁ……、確かに姉さんや僕がいれば遭難することはないんですから。それに、日が暮れる前に戻ればいいわけですし」

 晶良ちゃんがアニキに助け船を出した。晶良ちゃんの言うことに間違いはないッ!

「防寒具はしっかり準備しよう! 夏とはいえ、山だもん。いきなり天気が変わるかも知れないし! 晶良ちゃん、体弱いし、風邪ひいちゃいけないからね」

「おまえなぁ」

 あたしは晶良ちゃん第一だ。アニキの意見なんて聞く気なんかない。今回の旅行はあたしにとって特別なことなんだから。少しくらいはしゃいでるのを見て、ため息なんて吐いてほしくないのだ!

 

 午前に羽田空港から飛行機で出発し、昼前には高松空港に到着した。高松から列車で乗り継ぎを繰り返し四時間強揺られ、四万十駅に着いたのは午後も遅い時間だった。

「今晩はホテルで一泊。陽仁さん、ホテルに荷物届いてるか確認して。明朝四時にレンタカーで出発するので、レンタカーの手配もよろしくね」

 翡翠さんがタクシーの中で、アニキに細かく指示を与える。あたしも見よう見まねで携帯のメモ帳に予定を打ち込んでいく。アニキが律儀に小さなスケジュール帳にせっせと書きこんでいる。

「携帯なんか電池なくなったら終わりだろ。それに山に携帯持っていってもあんまり役に立たないぜ」

 余計なお世話だ! あたしは文字を打ち込む親指を止め、頬を膨らませた。

 そんなあたしたちのどうでもいい争いを晶良ちゃんが困った顔で見つめていた。

 

 明朝、ホテルのロビーに寝不足気味のあたしと完全武装済みのアニキ。軽装に登山靴をはいた晶良ちゃんに、同じく軽装の翡翠さん。あたしは背中にでっかいザックを背負っている。心持ち背が前倒しになっていく。

「僕、持ちましょうか」

 心配そうな晶良ちゃんにあたしは満面の笑顔を向けた。

「心配ないって! あたしこれでも体育の成績いいんだから!」

 けど、歩くたびにザックの重さで体が、がくんがくんってなってしまう。

「無理すんな」

 アニキが呆れた顔で言った。アニキが担ぐはずのザックを、あたしは見栄を張って背負ったんだけど、あっという間にザックをアニキに取りあげられて、代わりに軽めの携帯食の入ったリュックを渡された。

「おまえ、食料係な。山での食事はかなり重要なんだ。なくすなよ」

 あたしは馬鹿にされたと思って、頬を膨らませたまま、リュックを背負った。

「これで恩を売ったと思うなよ……」

 あたしの恨み節にアニキが苦笑する。

「だからなんでおれと張り合うわけ」

 

 あたしたちは車に乗り込み、不入山(いらずやま)へと向かった。三時間強県道を走り、やっと不入山の登山口に入る。すでに周囲は明るい。冷えた空気も朝日に暖められて熱を持ち始めている。

 レンタカーを駐車場に停め、あたしたちはそれぞれ降り立った。

 周囲は緑。清浄な空気に包まれ、風の匂いすら違う。木々の瑞々しい葉が日に照り返る。風に煽られきらきら輝く。

 あたしはまぶしげに空を仰いだ。

 申し合わせたような晴天。厚みを感じさせる入道雲が山の稜線から立ち昇る。

 あたしはそっと晶良ちゃんを見る。

 色の白い肌が太陽に照り、透明にも見えるほどに白く輝いている。茶色い髪がふんわりと風に煽られる。到底二十歳の女性には見えない。麻のシャツの胸元を開き、白い胸元が垣間見える。あたしは顔を赤らめ、目を背けた。

 目深に帽子をかぶった翡翠さんが、ウェストポーチの中からコンパスを取り出した。方角を確かめ、確認した方向に目をやる。おそらく無言に式神のセンを放ったのだろう

「ひとの目があるから、とりあえずこの地点までは普通に登山するわよ」

 翡翠さんが登山地図を指し示す。地図には幽谷コースとある。

「ここを外れたらもう原生林。絶対にわたしたちから離れないように。足を踏み外したら命の保証のない崖もあるから、気をつけてね」

 あたしは翡翠さんの真剣な面持ちを見て深くうなづいた。守られているとはいえ、それは最低限のこと。そのほかは自分に責任をもって行動しなければいけない。浮かれていてはいけないのだ。あたしは心に強く思った。


 三 ましらの神

 不入山《いらずやま》は標高一三三六メートルの山である。けれど、その山系は深く、深山幽谷と言われる原始の森で成っている。きめられたハイキングコースを外れれば簡単に遭難する。

 地図を持つアニキを先頭に翡翠さん、あたし、晶良ちゃんと続く。歩きなれない山道にあたしはすでにばて気味だ。けれど、マネージャとしての才覚を認めてもらうために一生懸命歩くしかない。

 約二時間。ようやく幽谷コースにたどり着いた。翡翠さんが前後に人がいないことを確かめ、不意に太い木の幹の後ろへ回った。道を外れた途端さらに山道が険しくなる。足元の悪い中を翡翠さんが見えない道をたどるように迷いなく進んでいく。ある程度進むと巨石に行き当たった。

「ここでちょっと休みましょう」

 翡翠さんの言葉を合図にあたしは地面にへたり込んだ。

「もうギブか? まだあるんだぞ」

 水筒をあおりながら、アニキがにやにやする。くたばれ、アニキ! 軽装の晶良ちゃんと翡翠さんは汗だくになりながらも、まだ体力はありそうだ。

「ま、まさか、晶良ちゃんに負けるなんて……」

 あたしは意外な真実に自信を喪失して、両手を地面に着いた。

「いや、僕は、あの、朱鸛(しゅこう)が体に融合してるから」

 晶良ちゃんが苦笑した。

「そうだった……」

「あら、陽向ちゃん、わたしは自前の体力よ」

 翡翠さんにまで言われて、あたしはがっかりした。これじゃあ、晶良ちゃんについて回って山を歩けないじゃん。

「まぁ、あれだ、おまえ、なにか運動すればいいんじゃね?」

「運動?」

「ジョギングとか、腹筋できるか?」

「ふ、腹筋……」

 あたしの脳裏に、体力テストで腹筋二回でギブアップした記憶がよみがえる。この中で最下位の体力はあたしみたいだ。強がりを言わず現実を考えるべきだったが、どうしても晶良ちゃんについて行きたい! これしきのことで音をあげるのは早い!。

「さて、時間短縮。いまから、韋駄天(いだてん)を召喚するわよ」

 翡翠さんが両手の指を複雑に組み、手印と呼ばれるものを作り、呪文を発した。何度か唱えると、あたしたちに向き直った。晶良ちゃんの時のように神気が具象化することはなかったが、急にあたしは自分の体が空気のように軽くなったと感じた。アニキもそれを感じているのか、軽やかなステップを踏んでる。

「さ、行くわよ。足元に気をつけてね。それと、陽向ちゃんは決して私から目を離さないでね」

「はいっ!」

 真っ先に翡翠さんが飛び出した。野生の鹿のように木の根や岩が阻む山道を跳ねるように駆け上がっていった。

 

 韋駄天の術がかかった両足は何十倍もの距離を数歩で消化していく。その時に見える景色はほとんど色でしかなく、形はほぼ見えない。物理的な何かを確実に無視してるはずなんだけど、樹木にぶつかるようなこともなく、あたしたちは不入山の奥深くへと分け入った。

 そのうちあたしの目に何かが見え始める。先頭を水色の何かがひらりひらりと移動していく。よくよく眼を凝らすと、いつか目にした水干姿の少年だった。まるで、猿のように木々をよけ、茂みを飛び越えて先を走る。

 翡翠さんの式神のひとり、センだ!

「ご主人様!」

 センが叫んだ。

「もうそろそろよ」

 翡翠さんの声がした。とたん、周囲の形がよみがえる。色も次第に明確になり、濃淡も鮮やかに見えてきた。気付けば、足取りも重たく感じ、あたしは足元の木の根に躓きかけた。

「おっと」

 いつの間にか隣に立っていたあにきが、すかさずあたしの体を支える。

「あ、ありがと……」

 あたしは顔を上げた。

 深い緑の葉が茂る、天と地に大きな枝を傘のように張り、ねじれた幹が複雑に絡まり合った、恐ろしく樹齢を経た樹木が目の前にそびえていた。周りに木々はない。風もないのに古木の枝葉はさやさやと葉擦《はず》れ、太い幹から地面の根にかけてギシギシと揺れる。それ以上に、異様なものが古木を侵していた。

 巨大な蜘蛛の巣に見えた。細くゆらゆらとした糸が色濃い葉や枝にまとわりつき、まんべんなく槐の木を包んでいる。

「カイ……」

 翡翠さんがつぶやいた。

 あたしも古木の姿を目にした時、背筋に寒いものが走った。

「こ、これは……」

 身を守るために晶良ちゃんがあたしたちに結界を張り、すかさず両手で手印を結んだ。

 翡翠さんが青い顔をしてセンに命じる。

「糸を霧散して!」

 センが命ぜられるままに小太刀を振り、糸を払った。けど、白い糸はびくともしない。

 はらはらと散る白い糸をアニキが手に取る。糸、と思えたものは何かの獣の毛のようだった。それはまるで鋼のように固く、下手をすると肌を傷つけそうなほど鋭かった。

「晶良、糸じゃないぞ。獣か何かの毛だ」

「獣?」

「なぜ、獣の毛がカイにまとわりついてるの?」

 翡翠さんが眉をしかめた。その毛は白狐・青嵐の柔毛《にこげ》に比べかなり剛毛だった。毛自体も短く親指の長さもない。このくらいの長さで白い体毛を持つ生き物など見当もつかなかった。

 あたしたちの気配を察知したかのように、毛がますます古木を締め付けるようにはびこりだした。ぎぎぎという、木の幹がきしむ音が辺りに響く。このまま放っておけばいずれ古木はへし折れてしまうかもしれない。

「カイ、カイ! 返事をしなさい!」

 翡翠さんが必死に叫んだ。その声が届いたのか、古木が白緑色に明滅した。古木の中に潜むカイの姿がぼんやりと宙に浮かび上がった。でも、カイは翡翠の呼びかけが聞こえないのか眠ったままだ。次第に樹木を取り巻く気配があやしくなってくる。やっぱり、ただの毛ではなかった。現に翡翠さんの式神であるセンでは歯がたたない。

 晶良ちゃんも結界を張りながら、青嵐を呼び出した。

「主様、ここに」

 金色の輝きを放ち、綺羅を纏った白狐の青嵐が現れた。

「木を取り巻く毛を取り除けるか?」

「ふむ。これはやっかいな……。試して進ぜよう」

 青嵐がふわりと宙に浮き、打衣《うちきぬ》から銀色に照り輝く、鉄でできた扇子を取り出した。鉄扇の先は鋭く研ぎ澄まされ、触れた物を容易く小間切れにしてしまいそうだ。

 鉄扇が閃光を放ちながら、古木を囲う白い毛をなぎ払った。けど、鋭い刃が白い毛に当たるごとに威力が感じられなくなっていく。反対に鉄扇に触れた部分の毛がますます強固にはびこっていった。

「くっ。主様、口惜しゅうござりまするが、わらわの鉄扇では歯が立ちませぬ」

 ざわざわと古木を締め付ける白い毛がざわめきだす。それとともに古木が苦しげにきしんだ。とたんに空気が変わる。質感を伴う真綿のように感じられる。

 凄まじい閉塞感に、アニキとあたしは思わず膝をついた。大きくあえぐが、息が続かない。さらに、空気が石のように重くなり、アニキもあたしも地面に突っ伏してしまった。

 かろうじて起きていられるのは式神に守られた翡翠さんと晶良ちゃんだけであった。それでもかなりつらいのか、肩で息をしている。

 晶良ちゃんはうつぶせに倒れ込んだあたしたちと、かろうじて立っている翡翠さんを見た。晶良ちゃんですら、顔が上気し赤くなっている。

 重く、息苦しいはずの空気だけど、おどろおどろしいものはなかった。むしろ、空気は異様なほど澄んでる。この空気には覚えがある……。研ぎ澄まされた清澄な気が辺り一帯を覆い、あまりの清らかさに肺が痛くなってくる。背筋にびりびりと雷電が走るような怖れを感じさせる空気なんて、めったに味わうことがない。

 重苦しく変化した空気に包まれた大樹の葉陰がわさわさと揺れる。白い毛の生えた頭が現れた。金色の大きな眼が歓迎せざる来訪者を睨んでいる。大樹の葉陰から現れたのは、大きな枝ぶりとほぼ同じ巨大な白い猿だった。金色に炯々と光を放つ眼から、清澄な空気に反して、とてつもなく禍々しい気を放っている。

「せ、青嵐」

「主さま……。これは……、大猿、年ふりしましら《・・・》でございます」

「ましら……?」

「猩猩《しょうじょう》、狒狒《ひひ》、いろいろな名前がございますが、猿の年ふりて神になりたもうたものではありますまいか。いまだ神ではないわらわや朱鸛では歯が立たぬわけも、これで得心できまする」

「相手は神なのか……」

 それを聞き、翡翠さんの顔色が変わる。

「なぜ、神が私のカイに取り憑くの」

 それに対して青嵐が眉をひそめて言った。

「カイは千年生きながらえた妖樹。この不入山の中で一番に力がござりまする。そこに目を付けられたのかも知れませぬ」

 

 神さまから式神を取り戻すのは至難の業なのかな……? このまま諦めるしかないの? 晶良ちゃんが巨大な槐の古木を見上げた。


 四 神との取引

「我が行こう」

 それまで晶良ちゃんを護る側に立っていた朱鸛《しゅこう》が前に出た。手に持った大太刀が紅蓮の炎に包まれる。ざわりと古木を包む毛が騒ぐ。朱鸛の振るう太刀筋が一閃の残像とともに空気を断ち割る。びしびしと白い毛が飛び散った。

 咆哮が響く。獣の苦しげな叫びが重苦しい空気を震わせ、一瞬緊張が解けた。

 アニキとあたしが息をつく。

「どういうこと?」

 翡翠さんがいぶかしむようにつぶやいた。

「我は火。青嵐は土。あれは金。ましらの姿はまやかしだ」

「どういう意味が……?」

 朱鸛の謎かけに晶良ちゃんが目を丸くして訊ねた。

「五行……」

 翡翠さんがつぶやく。

「わたしの式神はすべて木。金剋木《きんこくもく》。金は木に剋《か》つ。なぜ猿の姿を?」

「そういうことか……」

 青嵐が晶良ちゃんに寄り添い、空中に文字を書いた。青い光が宙に文字を浮かび上がらせた。

 申

「猿は申(さる)と申しまする。さらに申は申すに通じまする」

 そこまで言われても、あたしたちには式神の言いたいことがわからない。あたしたちの代わりに晶良ちゃんが訊ねた。

「申すって……?」

「善悪を……。この古きまつろわぬ神は物事の善悪を申しまする。物事を予言するのでございます」

 白い毛の大猿はのそりと古木の梢を這っていく。白猿が雄叫《おたけ》びをあげる。その雄叫びに理解できる言葉が混じる。

 ――申すぞ、申すぞ……!

 あたしたちに予言を言うために、ましらが奇声を上げる。

「もし、よくないことを言ったらどうなるの」

 あたしは地面に伏したまま青嵐に訊ねた。

「それはそのまま実現する。予言じゃからの」

「……予言」

「死ぬと申せば、死ぬ。苦しむと申せば、苦しむ。そのままじゃ」

「さ、最悪……」

 あたしの顔から血の気が引いていく。

「晶良、火に弱いなら朱鸛がなんとかしてくれないのか」

 あたしと同じように地面に伏したアニキがうめいた。

「なんとかって……。相手は神ですよ? 神殺しはこちらの歩が悪いです」

「善悪……。申す……」

 先ほどから翡翠さんが思案気につぶやいている。

「不入山は土佐藩領……。まつろわぬ神……、そうか……」

 何かひらめいた顔つきで翡翠さんが顔を上げた。

「一言主(ひとことぬし)よ」

 あたしたちが翡翠さんを見やった。

「一言主?」

「天皇と戦って負けてしまったせいで土佐に流され落ちた神。この山は一言主を封じた山だったのよ」

「それがどうして……」

 晶良ちゃんの問いに翡翠さんは眉をしかめる。

「それはわからない」

 ――余は申すぞ……!

 今にも一言主が予言を下してしまいそうな、おどろおどろしい気配が辺りを満たしていく。

「それでもこのままにしていてはいけない」

 翡翠さんが唇をかみしめる。

「あの、まつろわぬとか、落ちた神とかって、どういう意味なの?」

 あたしはおずおずと訊ねた。

「あがめられなくなった神は、いずれいつかはまがまがしくなってしまいます。邪神になったり魔物になったり……あの神ももうすぐその姿同様の大猿の妖怪になってしまうでしょう」

「お祀りされなくなると神様って落ちぶれるの?」

 晶良ちゃんの代わりに青嵐が答える。

「そうじゃ、陽向どの。神になりたければ、我々は自然の大いなる力だけでなく、ひとの信仰という力も必要なのじゃ」

 その言葉を聞いた時、あたしの胸のペンダントがじゃらりとなった気がした。あたしは胸に手をやり、それを見た。晶良ちゃんが自分にプレゼントしてくれた磐座(いわくら)のかけらだった。惜しい……。すごく惜しいけど、これが晶良ちゃんの助けになるなら……ッ!

「そしたら、また、祀られるようになれば変わるんじゃない?」

 あたしはかけらを見つめたまま言った。

「可能性はあります」

 でもどうやって、と晶良ちゃんの瞳が怪訝そうにあたしを見つめている。

「これ」

 あたしは胸のペンダントを取り、差し出した。ペンダントを差し出されて、晶良ちゃんが戸惑っている。でも、あたしの考えを翡翠さんが理解してくれた。

「磐座の神気を使うのね」

 ――余は申すぞ、この世は……!

「時間がない」

 アニキが叫んだ。晶良ちゃんが少しでも一言主の言葉を遅らせようと自分の力を解放した。白い光が晶良ちゃんの体から漏れ、白猿の体に当たる。不意を突かれ、言葉が止まった。

「一言主よ! 我々が神慰めする。この磐座に降りられよ! もう一度、崇め奉らん!」

 あたしのペンダントを頭上に掲げ、翡翠さんが声を限りに叫んだ。

 一言主が金色の炯眼を翡翠へ向け、轟くような声を放った。

 ――真(まこと)か!

「必ず、神慰めする。まずそこから離れ、この磐座に降りられよ!」

 晶良ちゃんが足元の地面に結界を敷く。結界の中の清浄な場にペンダントを置いた。

 ――真か、誠(まこと)か、信(まこと)か!

 真実と誠実さと信用を問う言葉が辺りを大音響で包む。あたしたちは思わず耳をふさいだ。恐ろしく大きな地鳴りが響き、巨大なましらの体が陽向の頭上に降ってきた。

「きゃあああ!」

 ――清き乙女に祀らせよ。余は一言主なり。

 あたしが叫んだと同時にましらの体はかき消えた。

 ふわりと雪が舞う。いや、白い毛が雪のように空中にとけながら、カイである槐の大樹から舞い落ち始めた。

 

 すっかり毛は舞い落ち、地面に敷き積もったが、雪のように跡形もなく消え去った。辺りに充満していた重く息苦しい清澄な空気は霧散して、鳥の鳴き声の聞こえる山の生気に満ちあふれた。梢が日を遮り、苔むした地面がひんやりと肌に当たる。あたしは慌てて立ち上がった。隣のアニキもため息を吐きながら腰を上げた。

 あたしたちの目の前には、槐の古木と結界が張られた一種の神域に小さな磐座が鎮座していた。

 あたしはペンダントトップから磐座を外そうと、ペンダントに触れようとした。

「触ってはだめです!」

 晶良ちゃんがあたしを止めた。あたしは不思議に思って晶良ちゃんを見やった。

「もうその欠片は立派な神のおわす磐座なんです。易々と不浄な手で触れてはなりません」

 不浄なんだ、とあたしは自分の汚れた手を見つめた。けど、晶良ちゃんが言う不浄とは土で汚れているからじゃないんだろう。

「清き乙女か……」

 翡翠さんが呟き、じっとあたしを見つめた。ぶしつけに翡翠さんがあたしに聞いてきた。

「陽向ちゃん、処女よね?」

 翡翠さんの直球な言葉にあたしは顔を赤くして、アニキや晶良ちゃんを交互に見ると、慌てて首を激しく横に振った。

「な、な、なに言ってるんですかぁ! ちょ、なにもこんなとこで聞かなくても良いのに!!」

「でも重要なことだから」

 晶良ちゃんが納得したように言った。

「一言主を慰める役割を持つ巫女、ということですね。確かに陽向さんはうってつけですね。磐座を差し出した本人なわけだし」

「磐座の欠片をくれたのは、晶良ちゃんじゃない」

 巫女と聞いて、あたしは焦って矛先を晶良ちゃんに向けた。

「いえ、僕はほかにすることがあるから」

 晶良ちゃんが澄ました顔で答えた。あたしは救いを求めるように、アニキを横目で見つめた。

「よかったじゃないか。これで晶良の手助けができるな」

 にやにや笑うアニキのすねを、これでもかとあたしは蹴り上げた。

「いってぇ!」

「他人事だと思って! 巫女なんて、あたしにできるわけないよ!」

 翡翠さんが朗らかに笑いながら宥めた。

「大丈夫。私が手取り足取り教えてあげるから。それに、毎年神慰めにここに来られるわよ」

 それを聞いて、あたしはがっくりと肩を落とした。晶良ちゃんのサポートをしたい、その思いがこんな結果になるなんて予想していなかった。

「で、カイは?」

 アニキが翡翠さんに訊ねた。

「ちゃんと傍にいるわ。呼んでみる?」

 言うまもなく、翡翠さんの脇に白緑色の水干を着た少年が佇んでいた。あたしたちを見やると、礼儀正しくお辞儀をし、再び姿を消した。

「木を克する金が消えた……。これで、カイも元に戻ったわね」

 そういう翡翠さんの表情に心なしか、安堵の色が浮かんでいた。

 

 

 

 大岩の転がる河原の傍には、川底まで透けて見えるほど澄んだ水が蕩々と流れている。川にせり出すように岩がある真下は淵になっており、水があんまり透明だから空の色まで映して、水底が深い碧に見える。

 あたしは岩に腰掛け、足を冷たい清水につけ、晶良ちゃんやアニキ、翡翠さんの様子を眺めていた。

 今こうしていると、さっきまでのびりびりとした緊張感が嘘のようだった。ましてや、あたしが一言主の巫女になってしまうなど考えもしていなかったんだもん。

「年に一回は必ずここに来なくちゃね」

 物思いに耽るあたしのそばに、翡翠さんが来て言った。

「念願のマネージャーだな」

 某ネズミのイラストがプリントしてある海パンをはいたアニキが、にやにや笑いながら浅瀬に立って、あたしに目を向けている。

「大丈夫ですよ、その時はちゃんと僕も付いてきますから」

 陽向座っている場所近くの岩に腰掛け、薄い水色のパーカーにナイキの水着を着た晶良が慰めるように声を掛けてくる。

「慰めになんないよう」

 オレンジのパステルカラーのワンピースを着た陽向は泣き言を漏らした。

「清いなら私だって清い乙女なのに」

 などと、翡翠がつぶやいた。誰もその言葉に突っ込みを入れない。晶良の姉たちの年齢は、極秘事項なのだ、といつか晶良が蒼い顔をして漏らしたことがある。

 四人がいる場所は、四万十源流に近い。ざぁざぁという清流の音が辺りを満たしている。真夏の暑さが水しぶきに冷えて、肌に涼しい。他に人は見当たらない。ここに来るのにも韋駄天を使った。車もない。人の足ではよほどの者でないと辿り着くことのできない穴場だ。

 四人はひとしきり遊び、疲れた体を太陽に暖められた岩に押し付け、思い思いの場所で日向ぼっこをし始めた。

「ねぇ、翡翠さん、なんで神様はお猿の姿で出てきたの」

 ずっと疑問に思っていたことを、陽向は翡翠に訊ねた。年経たましらを一言主と見破ったのは、翡翠だ。

 翡翠がにっこりと笑う。

「吾は悪事も一言、善事も一言、言い放つ神。申す神。申すは申年の申と書くでしょ?」

 確かに、申は申年の申だ。では、なぜセンもカイも猿には勝てなかったのだろう。陽向は腕を組んで首をかしげた。

「う~ん……」

 その様子を見て、翡翠が優しく微笑む。

「それに、申は金気。五行の金に当たるの。五行は木土水火金木と五つの相があって、それぞれが力の均衡を保っていると考えられている。そのために、金は木に克つ。反対に火の属性を持つ朱鸛(しゅこう)は、金の属性を持ったましらに克つことになるの。樹木の精霊であるカイもセンも、金気を属性とする一言主に何もできなかったのよ」

「いまいちわかんないけど……」

 陽向は眉をしかめた。学校で習う勉強よりも小難しい。だいたい五行というのが分からない。それを言うと、追々勉強しましょう、と不吉なことを翡翠が告げた。

「それにまだあるわよ? 一言主は葛城氏が祀っていたの。葛城一言主神社っていうのが有名ね。葛城氏は製鉄にも関係してた。古墳時代、製鉄を手にした豪族は非常に力を持っていたのね。製鉄に使う鉄は金。金は金気をしめし、申ということになるの」

 そんなに強い豪族の神様なら、なんでこんなところにいたの?

「多分……」

 翡翠さんが緑深い山々を見渡した。

「続日本紀にはこう記されてる。一言主が雄略天皇と目見え、意気投合し交友を深めたが、ある時、雄略天皇の狩った獲物を一言主が盗ったため、天皇が怒り、土佐に流した。いわゆる流刑に処したの」

 あたしは驚いて目を大きくした。

「神様を流刑にしたの!?」

 翡翠さんが微苦笑した。

「まぁ、昔の伝説だから……。何かの揶揄と思うわ。史実としては確かに雄略天皇は一言主を神とする葛城氏と争い、勝利した。それまで天皇と比肩するとまで言われた葛城氏は衰退していったと言われてる。その神がなぜ不入山にいたかは不明だけど、土佐藩が不入山を枝一本、葉さえも持ち帰ることを許さないお留山としていたのは確かなの」

「そこに流刑されてからずっと一言主は封じられていたのかぁ……」

「崇められなくなり、忘れられてしまったまつろわぬ神は、いずれあやかしと変じてしまう……。その姿がましらだったのね」

「でも、磐座に収まって、毎年神慰めして神様として崇めたら、また神様になるの?」

 不入山に枝葉を伸ばし根付くカイの根元に鎮座した、一言主のことを考えながら、あたしは呟いた。

「ええ、何年かかるかは分からない。本当に長い月日、かの神は貶められていたから」

 でも、とあたしが唇を尖らせた。

「金で申。申だからお猿なんて、一言主ってダジャレが好きなんだね~」

 それを聞いて翡翠さんが苦笑った。

 

 あたしたちは日が暮れる前に不入山を下りた。

「不入山は土佐藩のお留山だったんだけど、実際の理由は神のいる山に立ちいらず、という意味で不入山と名付けたかもしれないわね」

 山を降りながら翡翠さんが感慨深げに漏らした。

 一言主は晶良ちゃんの張った結界の中に鎮座する磐座のかけらにこもり、穢れを浄化する祭祀に入った。あとは定期的に一族のもので神慰めの儀式を行い、穢れがなくなった時、晴れて遷座する。それまでは一族のものとともにあたしも巫女としてがんばらなくちゃいけない。

 確かに重要な役割を担うことができた。けど……。出来ることなら晶良ちゃんを直接助ける役目が欲しかったよ〜。

 なんだか釈然としないあたしなのであった。


この本の内容は以上です。


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