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晶良と青嵐朱鸛の出会い編

 アルコールの臭い。糊付けされアイロンをかけた純白のシーツ、洗い立ての無地の掛け布団。白い壁、白いリノリウムの床。窓を覆う生成りのカーテン。橙色の日差しがカーテンの隙間から長い光の柱を作り、白い床と掛け布団の上にかかってる。

 掛け布団の上に僕は手をかけてて、熱に浮かされ火照った頬はきっとりんごのように真っ赤だろう。

 僕――晶良(あきら)はあのころ、小等部の一学年に上がったばかり。小さい頃の僕は、すごく体の弱い子供だったんだ。たび重なる高熱を心配してくれた珊瑚(さんご)叔母さまが、分家の佐伯が経営する千葉の病院へ僕を療養に送り出した。入院中、僕は頑固に大人の目を盗んで横臥での観想を続けてた。観想とは心を集中し念を具象化する力であり、思念を肉体より離してひとが感知できない大きな力の一部になることなんだ。これを行うと、精神力をかなり消耗することになるから、なかなか熱が下がらなくて、一週間もここに閉じ込められているというわけ。

「退屈……」

 僕はつぶやいた。従兄弟や姉さんたちは学業と修行のために見舞いに来ない。ましてや師匠のお父さんは手紙の一つもよこさない。周りにいるのは分家である佐伯の人間だけで、話し相手にもなってくれなかった。

 サイドテーブルに置かれた本も読み飽きてしまった。熱を出したときにいつもつけているテレビの電源も今は切っている。

 僕は世話係の人間がいなくなるのを見計らうと、観想を行うために目をつぶった。観想の修業をし始めた時、目をつぶるだけでは意識を集中できなかった。いろいろなものが現れるためにそちらに気を取られ、よく師匠のお父さんに叱られた。今はそんなこともなくて、すぐに僕の意識体は肉体を抜け出した。本当ならここから意識を無限に広げ、神意と同化することを目指すんだけど、今はそこまでするとまた高熱が出てしまう。それに、僕はまだ神意を得たことがないし、観想のコツを忘れない程度で良かった。

 僕の思念が病室内に浮かぶ。意識体だから、寒気とだるさを全く感じなかった。そのまま窓をすり抜け、外へ飛び出した。肉体という錘がない分、全身が軽く説明できないような開放感がある。秋空は晴れ渡り、うろこ雲が視界いっぱいに広がっている。足元の樹木は赤く染まり、眼下の山々へと紅葉の原っぱが続いている。

 僕は意識体となって外界を散歩するのが好きだった。いつもならば見上げるように大きな木々や山々が、おもちゃのように小さく感じられるから。鳥ととも空を滑空する面白さは格別だった。どんどん高みに登っていくと、さらに地上の全景が明らかになっていく。佐伯の病院の建つ丘からは玉前(たまさき)神社が望める。僕の一族と同じ名前の町を僕は上空から眺めた。玉前神社を中央に、三時の方向に九十九里浜も見える。この辺りは千葉のパワースポットとしても有名なんだ。

 意識体になるとはっきりとそのパワーの源である龍脈の発する力を感じる。神気は玉前神社とは反対の方向、病院の背後にそびえる小高い山から発せられている。僕は感覚をさらに研ぎ澄まし、神気をより強く感じる方向へと飛翔した。

 

 

 山の上空は研ぎ澄まされた神気に満ちていた。意識体の僕にはそれらが金色(こんじき)のオーロラに感じられる。けれど、その色彩の中に一点どす黒い濁った気を見つけた。それは金色の光の中で泥の飛沫のように目立った。清浄な空気の中で穢(けが)れた気が存在できることが不思議だった。考えられるのは神霊が荒御魂(あらみたま)になりかけている、または穢れを帯びてしまった神霊が浄化されている最中かもしれない。

 僕は一度も神霊というものを実際に目にしたことがなかった。好奇心に勝てなくて、錐もみしながら滑空していった。周囲を飛び交う鳥たちも一緒に下降していく。山のこずえが目の前に迫った時、鳥たちは散開していき、僕だけが樹木の隙間から漏れだす穢れの源へ向かった。樹木の間に立つと、それまでの開放的な空間は一挙に閉鎖されたものに変わった。押し迫るような樹木の枝が屋根となり、開けた空を覆い隠している。辺りは土と木々の気配と匂いに満ち、空気にはしっとりと水気が含まれている。意識体に体重はないけれど、土を踏みしだく感触が今にも足元から伝わってきそうだ。僕は穢れを帯びた神気をたどり、徐々に山の奥へと分け入った。

 それまで所狭しと藪が左右にひしめいたはずなのに、いきなりぽっかりと空間が開けた。実際に存在する空間ではなさそうだ。木漏れ日の色から、周囲を照らす陽光の強さが、それまでいた山の中とはまるで違っていた。

 僕が入り込んだ空間は西日が差し、樹木の枝がさえぎる屋根はなかった。木々の梢から垣間見える空は血のように真っ赤だった。僕が病院で憶えている日の光はまだ橙色だった。朱色に変わるほど長い時間意識体でいた記憶はなかった。

 不思議な思いで僕は空を眺めていた。

「誰じゃ」

 ふいに女の人の声がした。僕は声のしたほうを見た。僕ほどの大きさの岩があり、その上に白い狐がいる。しかし、女の人は見当たらない。きょろきょろと視線をさまよわせて女の人を探した。

「誰じゃと聞いておる」

 またしても女の人の声がし、その声は狐が発していた。僕は眼を見開いて狐を見つめた。見ると狐の白い毛皮は赤く穢れていた。痛みに臥しているのか、それともそういう色の毛皮なのか。遠目からは分からない。もっとよく見てみようと近づいた。

「わらし、近寄るでないぞ」

 狐が低い声音で言った。警戒した様子で険しい目を僕に向けている。僕は首をかしげた。

「けがをしてるの?」

 僕はさらに近づいて言った。

「そこで何してるの?」

 あと数歩のところまで狐に近づいて、やっと悟った。白い毛皮を汚しているのは穢れだった。強い神気を発しているのは狐自身だったのだ。でも、なんでこの獣が穢れを帯びているのかが分からなかった。赤い穢れは毛皮の上で小蟲(こむし)のようにぞろりと蠢き、ますます白い毛皮に広がっていく。その赤い穢れからはおどろおどろしい怒りや憎しみが小蝿のように湧いて出て目に見えない雲霞となって辺りに散らばっている。

 僕は少し怖くなったけど、目の前にいる白い狐があまりにも綺麗なのが気になって、勇気を出してさらに近づいた。

 とたんに、今まで体を丸め尾を体に巻いていた狐が牙をむき出し威嚇した。僕の目の前で、牙の並ぶあぎとが真っ赤な火炎を吐きながら、狐が地を轟かせるような怒号を吐いた。

「いね! いなねば、食らうぞ!」

 僕は怒りの大音響に首をすくめたが、足を止めずにそのまま狐の前にひざまずいた。それまで激しく威嚇していた狐が、動じない僕に驚いたのか、威嚇するあぎとを閉じた。僕には狐の威嚇がそれほど怖くなかった。なぜかしら、前に怪我をした狸を裏山で手当てしたことを思い出したんだ。精一杯考えて、この狐は怪我をして怖い思いをしているのかもしれないと思った。どうすれば怪我をいやせるのかわからなかったけど、僕は狐の赤く穢れた胸元にそっと手を添え、「よくなれ」と念じた。

 どのくらいの時間が過ぎただろうか――。僕は自分の意識体が揺らめき、消えかかっているのに気付いた。恐ろしく疲れていた。それまではっきりと感触のあった周囲の感覚が著しく損なわれ、夢うつつの状態に近くなっていた。狐の胸元を見ると赤かった穢れはきれいになくなり、美しい白い毛並みは元に戻っていた。僕はほっと溜息をつくとそのまま意識を失い、自分の肉体に戻ってしまった。

 

 

 気が付くと、僕は病院のベッドの中にいた。力を使ってしまったんだと気がついた。熱特有の浮遊感が全身を支配している。また入院が長引くと少しガッカリした。これでまた修行や勉強に従兄弟たちと差が付くんだろうなと考えると、さらに落ち込んだ。

 病室のカーテンから差し込む日差しは観想を始めた時と変わりなかった。火照った頬に病室の空気が冷たく感じられ、僕は布団を鼻のあたりまで引き上げた。目をつぶると、先ほど観想中に出会った白い狐の姿が浮かび上がる。

「きれいだったな」

 僕はこそばゆく思ってニコニコしたまま、今度は眠るために意識を閉じた。

 

 

「これ、わらし」

 澄んだ女の声がする。優しいような慈しむような、柔らかな声音。

 僕はうっすらと目を開いた。辺りは真っ暗だった。でも、傍に人の気配を感じる。分家の世話係の女の人がいるのかな、と気配のするほうを目を凝らして見た。

 ぼんやりとした輪郭が徐々に浮き上がって見えだした。女の人は着物を着ていた。僕が見たこともないような着物だった。薄暗がりの中、女の人の白い顔だけがぼんやりと浮き上がって見える。しかし、顔の造作までは分からない。きっときれいな女の人だろう、と勝手に思い込んだ。

 嗅いだこともないいい香りがする。一族の一番偉い翁の部屋で嗅いだ、白檀とかいう香りに似ていた。

 どこからか照らされる青い灯火に、少しずつ女の人の姿が見えてくる。着物の柄は藤色で、花の模様だった。わずかな青い明かりだけで、不思議なほど花を縁取る金糸の綺羅が映えている。女の銀髪の一本一本が硬質な光沢をもって肩と胸の上に流れ落ちている。僕を見つめる女の人の眼差しまではっきりと見ることができた。

 やっぱり女の人はすごく綺麗だった。黒目がちのきつい目元にはほんのりと朱がかかっている。すっと通った鼻筋、桃色のふっくらとした肉厚でいて小さな唇。丸みを帯びた頬、秀でた額。そして頭の上には真っ白い獣の耳が二つ突き出している。

 僕は時間がたつにつれ、この着物の女の人が人間じゃないことに気付いた。それにどう考えても作り物の耳がピクリピクリと動くはずがないよね。何となく楽しく感じ、女の人に向かって微笑んだ。

「わらしよ、目覚めたか」

「うん、あなた、だぁれ?」

「わらわは青嵐(せいらん)。おのしが見たあの狐じゃ。礼を言いに参ったのじゃ」

「お礼…………?」

 僕は青嵐さんを見つめ、実感のない声で呟いた。

「うむ、おのしがわらわの穢れを払拭してくれたおかげで、わらわは荒御魂とならずに済んだ。荒御魂とならば、わらわは神界に戻る手立てをなくすところじゃった」

「そう、よかったねぇ、青嵐さん」

 僕が笑うと、青嵐さんも目を細めた。

「わらわが再び神界に戻るためには再び徳を積まねばならぬ。そこでじゃ、徳を積むためにおのしの手助けをしてやろうと思う」

「僕の手助け?」

「そうじゃ、おのしの力は己の命を削る。おのしが力を使わずに済むように、わらわが代わりに働いてやろう」

「僕とお友達になってくれるの?」

 すると、青嵐さんがさもおもしろそうに声を上げてころころと笑った。

「友か、友でもよいぞ。愉快な主さまじゃ」

 青嵐さんが衣擦れの音もたてず、すっと僕に近寄り、白い指先を頬に当てた。ひんやりとした空気が僕の頬に当たる。

「まずは主さまの熱を吸い取って進ぜよう」

 青嵐さんの実体のない手はひとひらの雪のように冷たかった。火照った額に気持ち良く、僕が眼をつぶると、軽い寝息を立てて寝てしまった。

 それ以来、僕が青嵐さんを呼べば、すぐに青嵐さんはが現れてくれるようになったんだ。

 

 

 神霊である青嵐を式神にすることができた経緯を聞いた一宮のおとなの人たちは、「あり得ない」って口々に驚いた。六歳という歳で式神を従えたという記録がないらしいんだ。しかも、ただの式神ではないんだって。神格が神に等しい神霊なんだってさ。

 僕はおとなの人たちに褒められるのが素直にうれしかったんだぁ。でも、その反動か、青嵐を式神に従えた後も寝込むことが続いちゃったんだ。佐伯の病院から退院してたった三か月経たないくらいで、また療養ってことになった。同じ病院に何度も入院するのは退屈だろうと、僕は長野にある菩提寺である仙蓬寺に送られたんだ。

 仙蓬寺には分家の者が僧侶として終日詰めていて、僕の世話を安心して任せることができたんだ。

 珊瑚叔母さまの運転する車の後部座席に横になって、僕は車窓を流れる景色を眺めた。

「伯母さま、僕、いつになったら体が丈夫になるの?」

 その願いは僕にとってすごく叶って欲しいことだった。

「そうね、きっといつか熱が出たりしなくなる時が来ると思いますよ。いまはいい子にして、力を使ったりしないようにしましょうね」

 他のおとなの人たちと同じようなことを珊瑚叔母さまも口にした。僕にしてみれば、大事な質問をいい加減な言葉ではぐらかされているように感じてしまう。

 式神のことにしても、一番にお父さんに褒めて貰いたかったから。でも、お父さんは僕を見てどことなく悲しい目をし、ため息を吐くだけだった。体が弱いからお父さんに褒めてもらえない。そんな思いがいつもあったんだ。

 小さい頃、お母さんが死んじゃった僕に、珊瑚叔母さまがいろいろ優しくしてくれたけど、僕はもう珊瑚叔母さまのことをお母さんだって勘違いする歳じゃなくなってた。だから、素直に甘えることもできないし……。僕は本革のシートに顔を埋めて、無性にこみ上げてくる寂しさを我慢した。

 心の中で青嵐に呼び掛ける。すると、僕にだけ聞こえる心話で優しい声音が返事をしてくれた。

「いかが致した、主さま」

「ねぇ、青嵐、僕はきっと丈夫になる?」

 軽やかな笑いが聞こえる。

「それは無理じゃ、主さまは己の生気を皆に分け与えておるもの」

「どういうこと?」

「主さまが特別なことをするたびに、主さまは命の力をわらわだけでなく、周囲の生き物にまで与えられる。主さまはそのせいで命を危うくされておるもの。わらわとしては無意識に力を使わぬようにして差し上げたいがの」

 他のものに力を分け与えることのどこがいけないのかわからなくて、僕は訊ねた。

「それはいけないことなの?」

 それを聞いて青嵐が呆れたような声を上げた。

「あたりまえじゃ。そうなれば、主さまはいずれ早うに死んでしまう。わらわの徳も積み損なうではないか」

「青嵐は自分の徳のほうが大事なの」

 僕はすねて頬を膨らませた。目をつぶると、瞼の裏に青嵐の姿が見える。見た目よりも年経た白狐が、ふふと面白そうに笑った。

「やきもちかえ。主さまはかわゆらしいの。そうならぬように致すのがわらわの仕事じゃ。なんでも言いつけておくれ」

 車の揺れは程よく気持ちいい。次第に眠気に襲われて、いつのまにか、僕は眠ってしまった。

 

 

 珊瑚叔母さまに揺り動かされ、僕は目覚めた。頼りない車内灯だけが点っている。僕が瞳をめぐらせて車窓の外を眺めると、漆黒とも濃い紺ともつかない闇が辺りに忍び寄ってきている。

「伯母さま、いま、何時?」

 日の高いうちに屋敷を出たにもかかわらず、思いもよらず夜が差し迫っていて、僕は驚いて訊ねた。

「まだ、五時よ。山奥だから日が沈むのが早いのでしょうね」

 けど、僕にはそれだけとは思えない静けさと闇を感じていた。小さかったせいか、その思いを上手く言葉にすることができなかったんだ。

「そうなのかなぁ……」

 僕の不安げな言葉に、珊瑚叔母さまが安心させるように笑いかけた。

「心配することはないですよ、ここは一宮の敷地です。恐ろしいものや危ないものは寄せ付けないようになっていますからね」

 確かにそうなんだ。佐伯の病院の周囲が聖域と同じパワースポットであるように、この長野の菩提寺が位置する場所も強力な力が波及させるパワースポットなんだ。一宮一族の人は代々、自然が力を生み出す地に住みついて、その力を蓄え、地域一帯の力の源を守ってきたんだ。先祖代々からの積み重ねたもののゆるぎなさを珊瑚叔母さまが説明しても、僕にはそれが理解できず、不安そうに瞳を風に揺れる黒々としたこずえへ向けるしかなかった。

 

 

 仙蓬寺(せんほうじ)の奥殿にある客間にふかふかの羽根布団が用意され、早速僕は寝かしつけられた。

 まったく眠くないと言うと、二、三人の男の人たちがテレビを持ってきて、僕の布団の見やすい位置に設置していった。

 イチイの一枚板で作られたテーブルに、僕の好物と珊瑚叔母さまの食事が並べられている。お寺だからなのか懐石料理風に整えられている。僕は肉類が苦手だから、生麩包みのとり団子や豆腐などが中心に野菜の煮付けや餡かけが湯気を立てている。

「食欲はありますか、晶良?」

 いつまでも続く熱のためにだるい体を起こして、僕は座イスに腰掛けた。空腹よりものどの渇きのほうが強かった。用意された湯ざましを飲みながら、今はいい、と首を振った。「ゆっくり休みなさい」という言葉を残し、珊瑚叔母さまは屋敷に戻ってしまった。

 慣れない場所に一人残された僕は布団に潜り込み、掛け布団を顎までかぶって天井を眺めた。場所が変わっただけでいつもと変わりない孤独な時間だった。発熱で疲れた僕は、次第に眠りの淵に沈んでいった。

 

 

 僕がふと眼を覚ますと、部屋は一瞬だけ真っ暗闇に包まれたが、目が慣れると次第にぼんやりと白々とした天井が見え始めた。

 柔らかな羽根布団は僕の熱を吸い、ほんのりと温かい。反対に布団から出ている頬はひんやりと冷たかった。中庭に面した縁側の締め切った障子に目をやった。耳を澄ますと、庭木に雨粒が降り注ぐ絶え間ない音が聞こえてくる。

 氷枕の氷はすでに解け、ぶよぶよとした感触が気持ち悪く、僕は枕をはずした。

 布団の外に両手を出すと、外気が凍えるように冷たく感じる。パジャマが汗に湿っていて外気が布団の中に入り込んだ途端、ぞくぞくと寒気が全身を走った。

「寒い」

 闇に慣れた目に、吐いた息が白く映る。僕はあわてて冬籠りするリスのように布団の中に避難した。頭までかぶった布団の隙間から外をうかがい、今は何時か考える。時計のない部屋だったから時間の感覚がなくなっていた。

 目が覚めて動き始めると、次第に今まで感じていなかった空腹が急に差し迫ったことのように思えた。意を決して布団にくるまったまま、イチイのテーブルをみる。寝ている間にテーブルは片付けられたようだった。期待が裏切られて僕はがっかりした。

「おなか空いたぁ……」

 また布団をかぶって横になった。羽根布団をかぶったままこの奥殿を探検しようか、迷った。けど、布団の隙間から忍び込む冷気に心がくじける。横になったままどうしようかとグーグー鳴るお腹を抱えて悩んでいたけど、ふと思いついて青嵐を呼んでみた。

「なんじゃ」

 美しい白狐はいつもの人の姿でいつの間にか僕の枕元に坐していた。僕は布団の隙間から目玉だけをのぞかせて、青嵐に言った。

「食べるものを持ってくることはできる?」

 青嵐が目を大きくして僕を見つめた後、困ったように笑った。

「それは無理じゃ。食べ物のある場所は探せるが、主さまが自分で持ってくることじゃ」

 それを聞いて僕はガッカリした。仕方がないから、僕は羽根布団を頭からかぶったまま立ち上がると、青嵐に食べ物のあるところまで案内してもらうことにした。

 障子をあけて縁側に出ると、ガラス戸の向こうに冬冷えする中庭が眺めることができた。銀色の雨粒が礫のように空から落ちては、庭木の葉の上ではじけ飛んでいる。闇の中で雨に濡れた葉の表が時折ギラギラと照りかえる。一瞬閃光がきらめき、闇に戻った後、太鼓を轟かせるような雷鳴が聞こえてくる。

 僕が窓から空を眺めると、おどろおどろしい雲の裂け目を稲光が走るのが垣間見えた。いやな空だ、と僕は思った。隣りに青嵐も並び、空を見上げてつぶやいた。

「これは怪しい雲行きじゃ、どこかの神が猛っておるの」

 僕は不思議に想い、青嵐を見上げた。

「神の憤りの雷雲じゃ。はて、なにがあったやら」

「わかるの?」

「調べてこぬ限りはわからぬ」

 僕はまたぼんやりと空を見上げた。

 なぜ、神は怒っているのか。何が神を怒らせたのか。まるで、青嵐を見つけた時のように、その神のことが気になった。

「ねぇ、その神さまのこと、調べてこられる?」

 すると、青嵐が驚いて言った。

「やっぱり主さまは変わったわらしじゃ。食べ物はどうするのじゃ」

「僕ひとりで探す。青嵐はその神さまのことがわかったら教えてくれる?」

「よかろう、主さまの仰せの通りにいたそうか」

 そう言って、青嵐の姿がかき消えた。

 またも鋭い閃光が中庭を突き抜け、縁側に差し込む。銀色に照る葉や雨粒がまるで雪に見える。

 凍りついたように冷たい板を足の裏に感じながら、ぺたぺたとはだしのまま僕は暗い奥殿の中を進んでいった。

 

 

 何部屋も覗いてみて、ようやく僕はダイニングのような場所を見つけた。その周辺の部屋を探って冷蔵庫を見つけると、ゆっくりと冷蔵庫の扉を開けてみた。

 暗い部屋の中に暖かな黄色い光が照らす。暗闇に慣れた瞳に冷蔵庫のライトがまぶしい。目をしばたたかせながら、僕は薄眼をあけて、冷蔵庫の中を物色した。外気より寒い冷気が僕の顔を直撃してくるけど、空腹のほうが我慢できなかった。

 大きな冷蔵庫には珊瑚叔母さまと僕の食事が手つかずのまま仕舞ってあったから、すごく嬉しかった。僕は慎重に自分の食べたいものだけを冷蔵庫から取り出す。それを隣室のダイニングのテーブルに運んで、今度は箸を探したけど、見つからなかった。仕方なくて、布団を肩から羽織ったまんま椅子にすわると、食器にかぶせているラップをはがして手づかみで冷えた食べ物を口にした。空腹のためか、冷え切った食事でも満足することができたが、体は食べる前よりも寒くなった。汚れた手を炊事場で洗ったときは飛び上るほど冷たい水に驚いた。

 満腹にはなったが、今度は寒さに頭痛がし始めた。また熱が出始めそうな予感がして、僕は寒さに体を縮こまらせて掛け布団をかき寄せた。重たい足取りで廊下を歩き、部屋に戻る。

 縁側の窓の外は先ほどよりも激しい雨に見舞われていた。銀色の粒はもはや銀色の糸となり、まるで白く輝く鉄線を思わせた。空を覆う不穏な稲光は絶え間なく、雨音はさらに激しくなっていく。

 神さまの怒りや憤りはおさまることがないんだと、僕は感じた。

 また布団に入り、冷え切った体を温めようと体を両手でさする。頭の両脇を強く締め上げるような頭痛はますますひどくなっていく。意識していないと、歯の根が合わずカチカチと奥歯が鳴る。寒い奥殿をうろついたことを後悔した。

 布団の中に丸まって頭痛と寒さに耐えながら高熱に唸っていると、ふんわりと白檀の香りが漂ってきた。青嵐が戻ったことに気付いて、僕は心なしかほっとした。

 布団を抜けて青嵐の手が晶良の体をなでさすってくれる。

「主さま、すごい熱じゃ」

 青嵐の優しい手で背中をなでられていると、体が幾分楽になった気がした。声も出せずにいると、青嵐が調べてきたことを語り始めた。

「どうやら籠っておった磐座(いわくら)が割れて、中におった神が昇天もできず、行き場を失っておるようじゃった」

 僕にはそれがどんなことなのか、思いつかなかった。

「神界へ至る道ができる前に己の住処を失ったわけじゃな」

 自分の家がなくなってしまったのかと、僕は可哀想に思った。

「かわいそう」

 思わず僕はつぶやいた。

「もう元の場所に戻れないの?」

 青嵐が僕の背をなでながら言った。

「そうじゃ、あのまま野に放たれ、荒ぶる神に変じるか、もっと大きな神気に吸収されて消えてしまうか。それまではああして荒れ狂ったままじゃ」

 僕はじっと丸まったまま、家を無くしたままでさまよっている自分を想像した。そんなふうに考えてると言葉にできないくらい不安になってくる。お母さんがいない僕を珊瑚叔母さまが引き取って育ててくれたように、その神さまもだれかの家に入れないかって考えた。それを青嵐に告げた。

「無理じゃ」

 青嵐がそっけなく答え、神とは人の子供のように他の神の世話になることなどない、と付け加えた。

「どうすればいいのかな」

 僕はその神に同情してつぶやいた。

「主さまはどうしてもあの神を救ってやりたいのか」

「うん」

 僕は布団越しに青嵐のため息を聞いた。心配になって、僕は言った。

「呆れたの?」

「主さまは変わったわらしじゃもの、そういうとは思ったが、神と人とは違うものじゃと忘れてはならぬ」

 ついてまいれとうながされ、僕は楽になった体を仰向けに伸ばすと、すぐに観想に入った。

 

 

 意識体に寒さや雷雨の激しさは伝わってこない。それらはすべて霊体を突き抜けていく。僕が唯一感じるのは、残してきた体の感触とぬくもりだった。

 でも、視界に広がる嵐の激しさと足元の山々の不揃いな影と分厚い雲間を切り裂くように輝く稲光は、しっかりと僕の目に飛び込んでくる。肉体の目で見るわけじゃない。意識体すべてが五感を担い、僕に直接伝えてくる。

 僕は暴風雨に荒れる中、青嵐に先導され、黒々とそびえる険しい峰の上空を飛んでいたんだ。

 金切り声をあげる白い稲妻の鉤爪が暗雲を引き裂き、バリバリという凄まじい破壊音とともに、黒い雲間にひびが入る。

 それとは対照的に僕の眼下には星の静かなきらめきに似た光が点々としている。今にも消え入りそうなもの、神々しく強い光を放つものと数え切れないほどだった。その光は都会の人工的な明かりなんかじゃない。磐座や年月を経た樹木に宿る神気が、山の峰で暴れる赤い焔に似た神気に反応して輝いているんだ。赤い光はまるで稲妻によって生み出された燃え盛る炎にも思えた。赤い輝きを指差して、僕は青嵐に訊ねた。

「あれが?」

 青嵐が僕の質問にうなずいた。

 赤い焔が左右に火炎を広げ、まるで鳥のように舞い狂っている。赤い鳥が最期の力を振り絞って天へ昇ろうとあがいているようだった。

「もっと近寄れないかな?」

 僕は思ったままを口にした。あの赤い鳥のそばに行って安心させてあげたいと思った。けど、青嵐の瞳が如何するのか、と問いたげに見つめているのに気付いて、赤い炎に駆け寄りたい気持ちを僕は我慢した。

 あの赤い神をどうやって鎮めるのか、僕に具体的な案があるわけではない。単純に、青嵐が傷つき荒ぶる気配をまき散らしていたのを見つけたときのように、とっさに駆け寄って慰めたいと思っただけだった。

「主さまは運が良かっただけじゃ」

 僕の心に青嵐の静かな冷たい声が聞こえた。

「いつもわらわのようになるとは限らぬ」

 僕はそっと青嵐を見つめる。声の冷たさとは似ても似つかない優しげな視線が僕に注がれていた。

「主さまに危険が及ぶことになる」

 声の冷たさは危惧だった。僕は青嵐が心配してくれているのだとわかった。

 青嵐に出会ったときも、すごく危険だったんだ。下手をすれば、僕は青嵐が変化(へんげ)しようとする荒御魂に飲まれ、昏睡状態になってもおかしくなかった。それでも、傷ついた青嵐を癒したことで青嵐と、式神だけど、お友達になれた。

 約束された安全はない。それに僕にとって、いつもの生活すら保障されたものじゃない。持って生まれた力によって、もしかすると命すら早くに亡くすかもしれない。何もせず、何も得ず、体を壊さないように布団に横たわったまま明日を迎えたくない、と僕は強く思った。

 天へ昇ろうと翼を広げ舞い、足掻く赤い神に僕自身を重ねた。僕は青嵐の脇をすり抜け、黒々とした峰で神気を真っ赤に燃やす神のもとへ飛んで行った。

 

 

 間近で見る赤い炎は人型をしていた。黒い木々より高い上背の、朱色に燃える衣を着た大男だった。昔話の本で読んだ因幡の白兎の話に出てきた格好をしていて、男の人なのに耳の両脇で長い髪を輪に結っている。大きな男の人は頭を抱え、身もだえしている。左右の翼に見えた赤い焔は大きな男の人の神気だった。

 でも、僕の目には降りしきる雨の中、苦しんでいる神霊の姿は哀れに見えた。荒れ狂う赤い神気を持つ大きな男の人の感情は、青嵐を目にした時と同じくらい素直で直情的なものだった。

 僕がかなり近寄っても大きな男の人は気が付きもしない。そのものすごい波動に反対に僕自身が揺さぶられる。僕は勇気を出して話しかけてみた。

「どこが苦しいの?」

 しかし、何度問いかけても大きな男の人は僕に気付かず煩悶し続けている。僕は戸惑ったまま大きな男の人を見つめていた。

「主さま……」

 青嵐がいつの間にか僕の背後に寄り添っていた。

「僕の声が聞こえないみたい」

 僕は悲しそうに言った。

 青嵐がしばらく僕を見つめていたが、やがて穏やかに告げた。

「しばらくまたれよ。わらわが話をしてみるゆえ」

 青嵐の姿が消え、横殴りの雨の中に白い発行体が突然現れた。大きな男の人に匹敵するほどにでかい。光の中に白い狐が浮かんでいる。雪よりも白い毛並み、体を包むほどに豊かな尾が九本。空を駆け、白狐は大きな男の人の前に出た。

 初めて煩悶する神霊は動きを止めた。燃え盛る朱色の炎はそのままだった。どのくらい二つの神霊は対峙していただろうか……。唐突に朱色の焔は消え、辺りは白い光に照らされる。その白い光もやがて消えた。

 気づけば雨足は弱まり、雷鳴も聞こえなくなっていた。暗闇の中に僕だけが宙に浮かんでいる。

「青嵐……?」

 僕は不安になって呼び掛けた。

「ここに……」

「どうなったの?」

 青嵐が人の姿で再び現れ、僕と目線を合わせて微笑む。

「それより体に戻られよ、体力を損なう」

 僕は青嵐にうながされ、熱に浮かされる小さく不自由な体に戻った。

 

 

 夢を見ている、と僕は感じた。

 なぜなら、辺りは薄い藤色の靄がかかり、蜜柑のいい薫りがしているからだ。足を踏み出すと、砂利と石を踏む感触がする。ぼんやりと靄の中に赤い灯篭が見える。稲荷神社で目にするような形をしたものだ。

 僕は辺りを見回す。

 どちらに向かって歩けばいいかわからないけど、とにかく前に向かって進んでみた。次第に前方に何かがあるのに気づいた。目を凝らしながら近づくと、一本の朱色の火柱だった。火柱は音もなく燃え盛り、僕はすごく綺麗で見とれた。だんだんと焔は人の形を取り始めた。火柱は男の人の姿になった。この間珊瑚叔母さまが読んでくれた因幡の白ウサギというイラスト付きの昔話に出てくる、神様と同じ恰好をしている。生成りの上着、留め具や首飾りに翡翠の勾玉が使われている。帯はさまざまな色の管玉でできていて、僕の目から見ても綺麗だった。上衣と同じ生地でできたズボンは膝の下で鹿の革の紐で結ばれている。靴は鹿の毛皮でできている。

 僕は男の人の姿を物珍しげに見つめた。視線を上げ、顔を見ようとするけど、男の人の顔は不思議なほど輝いており、表情や人相を見ることはできなかった。

 いつの間にか傍には、青嵐がいつもの藤色に花模様の単衣を羽織り佇んでいる。

「主さま、お加減はいかがか?」

「うん、苦しくないよ」

「よかった」

「青嵐、この人はだぁれ?」

「主さまが心配しておられたあの神霊じゃ」

 僕は改めて男の人を見上げる。

「はじめまして、僕、晶良だよ」

 神霊は何も言わず僕を見下ろしている。僕は戸惑って青嵐を見た。

「朱鸛(しゅこう)は人と話したことがないそうじゃ。格もわらわより上じゃが、主さまに生命の力を与えたもうた神は承知しておられるようじゃ」

「僕の神さま?」

 青嵐がうなずいた。

「主さまの神はあらゆるものを凌駕した存在じゃ。そのおかげで話をすることができたようなものじゃ」

「僕の神さま……」

 僕は首をかしげた。一宮の人たちはそれぞれ自分の神を持ってる。だけど、それは他人には明かさない自分だけの秘密なんだ。僕はまだ自分の神さまを知らない。だから、まだ僕だけの神さまはいないんだと勝手に思い込んでた。

「僕の神さまってだぁれ?」

「それは教えられぬ。いずれ知れてこよう。その時まで待たれよ」

 僕は少し口をとがらせたけど、すぐに気を取り直して、朱鸛と呼ばれた男の人に言った。

「朱鸛さん、あのね、おうちがないなら、僕のところに来たらいいよ。天に還られる日まで僕といたらいいよ」

 あまりにも簡単な契約の儀式だった。僕は主従の契約が行われたことも気付かなかった。

 

 

 朱鸛さんを式神にすることで、僕は以前より寝込まなくなった。朱鸛さんが僕の肉体に融合することで、僕の体力を使わずに済むから。その代わり、僕の食欲はものすごく増した。自然に放出する生命の力と融合することで消耗する力を補うのに必要なためだって朱鸛さんに言われた。

 一宮の人達は、六歳という歳で二体の神霊を式神にしてのけた僕の力に、次第に着目するようになっていったんだ。

 


晶良と陽仁の出会い編

「お静かに」

 暗い部屋の中にたたずむ俺――諏訪陽仁は、凛とした涼やかな声の主を見つめた。一宮晶良という中学三年生に見える美少女だ。

「晶良さん、この部屋にはなにもないように思えるんだが」

 俺の隣に立つ小太りの男――不動産会社の社長が白い息を吐きながら、部屋の真んなかに立つ晶良に訊ねた。

「見ててください、社長さん」

 晶良の指差すさきにはなにもない壁があった。

 ドアからはいってすぐ近くには俺が立ってる。俺の右肩から社長が部屋のなかを覗いている気配を感じた。

 社長は、左側の壁沿いに置かれた一升瓶と火のついた線香を立てた線香立て、水のはいったコップや平皿に盛った塩、それと榊を順番に眺めた。しかし、それ以外に気になるようなものはなにも見当たらない。

「変わったことはないように思えるがなぁ、なぁ、諏訪君」

 社長に話しかけられ、俺は左側の壁を見て、

「そうですね……」

 と答えた。たしかに神棚みたいになってるだけでなにもない。

「気が散じてしまいます。お二人とも静かにしてください」

 晶良の斜め後ろで、こそこそと話していたけど、首をすくめて俺も社長も黙った。

 照明の落ちた暗い部屋。息が白くなるほど室温は低い。フローリングの部屋は七畳の寝室。ドアを開けると、向かってやや左寄りに出窓がついてる。日焼け防止のカーテンは完全に締め切られてる。備え付けの出窓両脇にある壁収納以外に家具は一切ない。右手にはクローゼットの扉があり、俺は左側へ視線を向けた。

 ここは都心のマンションの一室。部屋数は寝室も含めて四部屋。

 俺たちがいる部屋は、間取りでいえば全体の右側に位置する。風呂場やトイレへと並べて作られてるから、湿気が多いのかもしれない。

 ダイニングとキッチンは全体の左側に位置してる。二十畳のリビングが南西向きに作られ、玄関やふろ場は北東を向いてる。

 壁紙も床も全てが真新しい。最近大々的な改装をおこなったんだろう。

 心もとなげに俺は、だいたい頭一つ半、背の低い少女の左側頭部を心配になって見つめた。

 晶良の華奢な肩、そでの布越しからうかがえる細い白い腕。少し栗色の混じる長い黒髪は艶やかに肩に掛かっている。ほっそりとした四肢がその華奢な体を支えてる。

 随分か弱そうに見える彼女が先頭に立ち、一升瓶の直置きされた左手奥の部屋の隅に顔を向けてる。まるで背後に控える俺たちを少女が守っているように俺には感じられる。

 俺の半そでから出た腕に鳥肌が立つほど室内は寒い。

 べたべたと肌にまとわりつく湿気を含んだ蒸し暑い外気は、マンションの一室にはいった瞬間、冷気に変わった。

 クーラーが効きすぎてると思ったくらいだ。それでも家庭用のクーラーでいくら部屋を冷やしても、息が白くなることなんてないはずだ!

 その冷気以外に俺が疑問に思うことがあった。

 それは鼻をつく異臭。獣の臭いだ。

めちゃくちゃに臭い!

雨にさらして放って置いたぞうきんや濡れた犬みたいな獣臭が部屋中に漂ってる。

 けど、ここに来た最初にフロアを案内されたとき、動物や動物の糞の類いはひとつもなかった。

 ほかにもこの部屋に関して気になることがあった。俺は息をひそめて耳を澄ませた。

 晶良に注意されて喋るのをやめたため、部屋は静まり返ってる。

 今は社長の緊張した息遣いと、晶良の深い呼吸音と衣擦れだけが聞こえてくる。

 それらの音を自分の高鳴る鼓動と一緒に聞いてた。

 それ以外に耳にはいってくるのは、不意に始まった建材のきしむ音だ。ほかにも細い木の枝かなにかが折れる音が先ほどから部屋に鳴り響いてる。

 ピシッ パシンッ

 音が鳴るたびに晶良の肩がぴくりと緊張するのを見て、やっぱりなにか関係があるんだろうかと思い直した。なにかが起ころうとしているのは分かる。けど、それがなにか分からないから、俺は冷静でいられた。

 俺は薄暗い部屋の中に立ってる晶良を観察した。

 目には見えない張り詰めた空気が晶良から漂ってくる。俺よりもひと回り華奢な彼女が、実は思ってるほど小さくないんじゃないかって思わせる威圧感を発している。

 この部屋にはいるまえに簡単に自己紹介をすませた俺たちは、晶良から注意を受けていた。

「結界を張りますからそこから出ないように。万が一なにかあっても、お二人の安全はぼくの式神が守りますが、保証できないので、必ず守ってくださいね」

 俺は、今から晶良が部屋の清掃をするとしか聞かされてなかった。

 けど、晶良の説明を聞いて確信したんだ。

 心霊的な瑕疵物件のお祓いを晶良はおこなうんだ。

 一体どんなお祓いをするのかぜんぜん分からないけど、お経を唱えるくらいだろうと、俺は勝手に思い込んでた。

 だから、いま自分が置かれてる状況に対して、妙に人ごとのように冷静でいられた。

 俺が見てるまえで、線香の煙が鎌首をもたげるように晶良に向かって行き、その体にぶつかる直前で霧散してく。

 煙が室内をゆるゆると這いずり回るさまは蛇のようでもあり、触手のようでもある。

 まるで生きてるように見えて薄気味が悪かった。

「始まりますよ」

 晶良の低い声が聞こえた。

 社長が身構えるように体を固くし、俺の右側に体を寄せてくる。

 俺は顔をしかめた。社長に対してじゃない。強烈な臭いに、だ。

 悪臭がきつくなっている。今では獣臭じゃなくて、魚や肉が腐った悪臭が部屋中に満ちている。

 冷気は鳥肌が立つのを通り越して、肌に痛いほどだった。空気に含まれる水分が、みな凍りつくかと思えるくらいだ。

 気味が悪くなるほど部屋の暗さが増した。

 日焼け防止のカーテンの隙間から、微かな太陽光が射しているにもかかわらず、まるで透明な遮光の膜が部屋の周囲に張り巡らされているようだった。

 俺は晶良の見つめる先に目をやった。

 なにか固いものが倒れる音がした。

 俺の左の壁に沿うように置かれていた一升瓶が傾いて倒れたのだ。一升瓶の周りでわだかまった闇がもぞもぞと蠢いている。そこは最初に晶良が指さした場所だった。

 俺は良く見てみようと目を凝らした。

 フローリングの床に黒い染みがどんどん広がっていった。

 けど、それは液体による染みじゃない。一升瓶は割れてなくて、水がはいったコップも倒れてない。

 次の瞬間、一升瓶がその黒い染みのなかに吸い込まれた。そこには染みじゃなくて、本当に穴が存在した。一升瓶は音もなく、穴のなかへ落ちていった。

 それを合図に穴から生臭い風が吹き出始めた。

 女が泣き叫ぶような高い悲鳴が、その穴から聞こえてくる。悲鳴だと思っていた音は、穴から吹き付けてくる風の音だった。

 なにが起こっているんだ!? なにが始まるってんだ!? 社長、説明してくれよ!!

 振り返ると、社長がハンカチを取り出し、異臭による吐き気を懸命に我慢してる。丸い顔が真っ青だった。ちょっと話しかけられる様子じゃない。困った…………

 あきらめて、俺は斜め前に立つ晶良の背中を見つめた。

 この異常事態のなか、背を見せる彼女だけが毅然としているように思えた。顔は全く窺うことはできないけど、なにか呪文を唱えているようだ。

 気のせいかな? 暗闇のなか、彼女の体の周りにゆらゆらとした光が見える。これってオーラとかいうものなのか?

 晶良が右手を動かし、腰に付けたポーチからなにか取り出し、宙に放った。

 俺には、それが黄色い紙に、ぐねぐねした赤い文字を書いたものに見えた。

 紙は四枚あり、だいたい縦十五センチ横八センチの大きさだった。どういうわけか、その紙は宙に浮いたまま貼り付いたみたいに動かなくなった。

 晶良が人差し指と中指を紙に向け、宙になにか紋様のようなものを描いた。その動きは鋭く、一体なにを描いたのかまったくわからない。

「はっ!」

 晶良の口から鋭い呼気音が発せられる。その瞬間、宙に浮いていた紙が、矢に射られたように物凄い勢いで部屋の四隅に散っていった。そんでもって、糊付けされたみたいに壁の四面に貼り付く。

 俺は呆気に取られてたけど、いきなりなにかが向かって放り投げられたのを感じて、とっさによけた。

 投げられたものはクローゼット側の壁にぶつかり、けたたましい音を立てて割れた。

 がしゃーーーん!!

一升瓶だった。右後ろから社長の唾を飲む音が聞こえてくる。

 瓶のかけらや中身が四方に飛び散り、驚いた俺は部屋の外へ出ようとした。

「動かないで!」

 それまで一度も背後を見てない晶良が、突然声を掛けてきた。

「今、この部屋から出たら、屍人(しびと)が飛びかかりますよ」

 それを聞いた俺はぞっとして、動かしかけた足を元に戻した。

 そのあいだにも、ますます悪臭は酷くなる。壁と床に飛び散った酒が酢のような刺激臭を放ってる。

 風穴から吹き抜けるような音は、いつの間にかうめき声に変わってた。

 気がつくと、穴の上部に灰色の女が立ってる。いや浮いているのか!? うめき声は女が発してる。首が異様に長い。

 女は懸命にその首を掻きむしってる。距離があるのにその女の細部まで手に取るようにわかる。

 女の爪は長く鋭い。その爪が伸びた首の薄皮をばりばりと引っかいてる。どす黒い血が、女の首から滴っているのがわかる。

 とうとう爪は女の首の皮を貫通し、肉と筋を引きむしった。

 びちゃびちゃと血飛沫が辺り一面に飛び散る。

 社長が「うっ」と軽くうめいた。目前の異様な光景に俺も吐き気がして戻しそうになった。

 晶良だけが眼前の凄惨な情景から目をそらさず、ぶつぶつと呪文を唱え続けてる。彼女の表情はまったくわからないけど、彼女はぜんぜん怖気づいてない!

 女は悲鳴を上げながら、ガラスを引っ掻くような耳障りな笑い声を、多重音声のように漏らしてる。その声の合間に別のうめき声も聞こえ始めた。

はおそるおそる横の穴を眺めると、ちょうどその縁に青白い指がかかるところだった。

 異常に長いささくれた爪が、ギチギチと穴の縁をつかんでる。

 濡れた雑巾を叩きつけるような音がし、次々と穴の縁に手が現れた。

 ベタッ

 その手は一様に青白く、ところどころどす黒く変色してる。

 一体なにが這い上がってきているのか、俺には想像できなかった!

 ずぶぬれのてのひらをガラスにたたきつけるような音が増え始める。

 ベタベタッ ベタッ

 無数の手が穴をよじ登ってくる。

 穴から現れる手のなかには、露出した指の骨をほかの手に突き刺しているものまであった。手なんていえない骨に筋だけを残したものも、手の群れに混じってる。

 あの手は腐っているんだ。

 俺は一瞬で分かった。

 生きている人間の手じゃない。そしたら、あの穴は普通じゃない想像を絶する場所に繋がってるんだ。

 穴の縁が手で埋め尽くされると、今度は頭が現れた。べったりと頭部に張り付いた髪はところどころ抜け落ちてる。剥がれた薄い頭皮をぶら下げている頭も見えた。

 ものすごく臭い!

 臭気がいっそう強くなってきた。肉が腐ったようなヘドロが混じった強烈な悪臭がする!

 穴から這い出てきたやつらは、みんな異常な姿だった。皮膚が崩れ落ち、肉が溶け、腐肉を垂らしている。皮膚が青黒く膨れているやつもいれば、赤くふやけ皮膚のところどころが破れて、体液が流れ出ているやつまでいる。

 とても見てられない。

「なんなんだよ、あれ!?

 思わず俺は叫んでた。完全に社長は俺を盾にして隠れてる。俺は前に押し出される形で、グロテスクなものを正面から見る羽目になった。

「あれが屍人ですよ。黄泉の国のものたちです」

 穴と対峙している晶良が説明してくれた。

 屍人たちは、女が流した血だまりに這いつくばり、ぴちゃぴちゃと音を立てて舐め始めた。そんでもって、狂ったように奇声を上げ続ける女の足首をつかみ、屍人たちが女の足に次々とまとわりついてく。

 女はよりいっそう悲鳴を上げ始めた。

 一体なにをしてるのかと俺が目を凝らすと、屍人は女の足に食らいつき、肉を引き千切り貪ってる。

 宙に浮いていた体は引き摺り下ろされ、長く伸びた首はそのまま千切れた。

 女はあっという間に屍人の塊の中に埋没していった。

 悲鳴が完全に途切れると、屍人のひとりが俺たちのほうを振り向いた。

 その眼球はすでになく、まっ黒い眼窩(がんか)がぽっかり開いた顔をこちらに向け、かすかに笑ったように感じた。

 それを合図に、他の屍人たちも俺たちのほうへ這い寄り始めた。

 俺の胃の腑が恐怖に縮み上がる。体が勝手に逃げ出しそうだ。社長の様子を窺うと、とっくの昔に目を開けていること自体放棄しているのがわかった。

 けど、晶良が落ち着き払った様子で、右腕を上げ、右手の人差し指と中指を立てて、呪文を唱えながら宙になにやら文様を描いているのが見えた。「はっ」という呼気とともに屍人を指でなぎ払った。

 白い光の玉が彼女の指に灯り、それがまばゆい弾丸となって屍人の体に命中してく。

 瞬く間に屍人は跡形もなく消滅した。

 穴から這い出てきた屍人はほとんど消えてしまい、俺はやっと終わったんだと、ほっとした。

 けど、そうじゃなかった! いきなり、不気味なうなり声が突如部屋に響き、強い硫黄臭が漂い始めた。

 まるで大型の肉食獣の威嚇音のようだ。うなり声は徐々に大きくなっていく。

 声は屍人たちが這い出した同じ穴から聞こえてくる。

 聞いてるだけで背筋を凍らせるような恐ろしい唸り声だ。

 俺は緊張した面持ちで穴を凝視した。ぞっとしたまま穴から目をそらすことができなくなった。

 俺の見つめるまえで、穴から新たになにかが現れた。

 毛深い掌が穴の縁から突き出し、そのまま床めがけて叩き下ろされた。

 なにかを叩き割るような音が穴から発せられる。

 ダ、ダンッ――!

 新たな手が穴の縁をつかんでいる。先ほどの屍人の手とは、比べることもできないほど大きい。手の甲には太い毛が生え、爪はまるで肉食獣のそれだった。

 大きな破裂音とともに、もうひとつ手が縁から現れた。

 ダーンッ――!!

 うなる声も次第に大きくなっていく。

 徐々に穴から頭が突き出してくる。その頭蓋にはでかい二本の角があった。太くて歪(いびつ)なねじれた角。

 頭はぐっと突き出され、穴の大きさを無視した巨大な体が現れた。

 鬼だ。

 人の顔じゃない。獣の顔を持つ醜悪な生き物が目のまえにいた。

 鋭い乱杭歯の間から粘度の高い唾液を垂れ流し、横に広がった鼻腔から生臭い息を漏らしてる。

 その腕と首、胸板は厚い筋肉に覆われ、体中に剛毛がまばらに生えている。皮膚はまるで象かサイのように硬そうだ。

 鬼の体はずるりと穴から引きずり出され、ゆらりと晶良のまえに立った。

 鬼の頭頂部は部屋の天井にぶつかり、天板が歪んじまってる。

 鬼の全身を目の当たりにして俺は唾を飲み込んだ。

 それは人間の姿を著しくデフォルメしている。太く長い腕。天井にぶつかるほど大きな体躯だけど、腕は床に着いている。足は歪み、獣のような形をし、蹄こそないが、馬かなにかの生き物みたいだ。

 いきなり部屋に雷鳴に似た咆哮音が轟いた。ゴロゴロという唸り声と、甲高い鼓膜をつんざく鋭い音。聞いたとたんに俺は腰が抜けそうになった。

 思わず、俺の喉から悲鳴が漏れる。

 すると晶良がちらりと俺を振り向いた。

 晶良が優美な流し眼を陽仁に向け、微笑んだ。長い前髪が目元にかかってる。

 暗くてわかりにくいけど、きっとその頬も唇も桜色を帯びているだろう。

 すごく綺麗な顔だった。

「屍鬼(しき)です、大丈夫、そこから動かないでくださいね」

 俺は晶良の言葉を信じるしかない。異形のものを前にしても動じないこの少女に、自分の命を預けなくちゃいけないと覚悟した。

 屍鬼が山羊に似た瞳を晶良に向け、首を傾げている。

 その隙を狙って彼女がなにか腕を動かして、声をあげた。

「青嵐(せいらん)、警護に当たれ!」

 俺の鼻先に花の香りが漂ってきた。

 気付くと、藤色の着物を着た銀髪の女が俺の横に立ってた。

 けど、姿がゆらゆらと陽炎のように揺らめいてる。この女の人も、人じゃないんだ! その手に鉄色の扇を構えてる。扇は女の人――青嵐が動くたびに澄んだ金属音を発した。

 晶良が動いた。

 右足を出してから両足をそろえ、今度は左足を出し両足をまたそろえる。兎歩(うほ)という歩き方でゆっくりと床をすべるように進みながら、屍鬼の左手に回り始める。

 鬼はたかってくる蝿を追い払うようなしぐさで、彼女の顔めがけて腕を振った。紙一重でよけ、わずかに長い髪が乱れ散った。

 晶良が、穴から這い出した屍鬼の前をゆっくりと半円を描いて巡った。

 陽仁に顔を向けた、晶良の長めの前髪のあいだから覗く大きな瞳が真剣な色を帯びてるのがわかる。顔を屍鬼に向けたまま、すっすっと足を繰り出してる。俺には彼女の綺麗な顔が緊張に満ちてるのが分かった。たぶん、彼女が全力で屍鬼を封じる呪文を唱えてるためだ。

 今まで汗ひとつかいてなかった晶良の額からひと粒の雫が流れるのがみえた。

 まだ、息が白い。けれ、彼女の体からは蒸気がもうもうと上がりだす。どんだけ体力を消耗しているんだろう?

 上気した頬が紅色に染まって、息つく暇のない詠唱にほんの少し足並みが乱れてくる。

 その隙を突いて屍鬼が、鋭いかぎ爪を晶良の頭上に振り下ろした。さすがの彼女もここまでかと俺は思わず目をつぶった。

 突如なにかがぶつかり合う金属音が室内に響いた。

 ガキンッ――!

 続いて金属が滑る音がした。

 キュイィン――!

 俺が目を開くと、太刀を手にし、屍鬼のかぎ爪をその刃で食いとめている男が立ってた――!!

 両耳のわきで髪を丸く結い、みづらの形にした男が、晶良をかばうような態勢で屍鬼と対峙していた。

 筒袖というゆったりとした服を身に着け、足首の部分を紐でくくったはかまを穿いている。

 晶良が男になにか合図するようにうなずいて、静かに兎歩を続けだした。

 男が屍鬼の攻撃から晶良を守ると、闇に溶け込むように姿を消した。

 けど、屍鬼の目が晶良を追い、ぐぐっと歪に首を捻じった。壁に当たると晶良が踵を返し、元の半円を歩き出す。反時計回りで異形の化け物の前方を何度も繰り返し歩き続けるのを、俺は見守るしかなかった。

 両者ともお互い目をそらすことなく睨み合ってた。

 その動きがあせるくらいゆっくりに見えて、俺はてのひらの脂汗を握り締めた。

 晶良を凝視する屍鬼の右側、ちょうど俺の正面に晶良が回り込み、また踵を返す。晶良が呪文を唱えながらしずしずと足を進め続けるのを、俺は黙って眺めた。

 暗闇のなか、冷たい空気や悪臭と醜悪な屍鬼がいるせいか、ここがまるであの世みたいな雰囲気を醸している。

 屍鬼が吼える。

 けど、歩を緩めないまま、元の位置まで晶良が半周し終えた。

 今まで晶良との間合いを見てた鬼が、長い腕を大きく振って彼女をなぎ倒そうとした。

 一瞬そのか細い体が屍鬼になぎ払われたように見えた。

 けど、晶良の体が屍鬼の攻撃をひょいと何事もなく受け流した。わずかに上体をそらし、手の指は印を組んでいて、今度こそ朗々と呪文を唱えだした。

「ひふみよいむなや――」

 屍鬼の動きがわずかに鈍る。

 晶良がトンと跳ねるように退いた。

 屍鬼が反射的に晶良を追う。

 けど、なにか目に見えない壁に阻まれ、その場から動くことができないでいるみたいだ。

 もどかしげに屍鬼が凄まじい咆哮を放った。

 晶良が右手を腰にやり、ポーチからヒトガタの紙を一枚取り出した。それに素早く指をかざして九字を切ってる。

 指先で数枚の紙を挟み、屍鬼に向けて投げつけた!

 空を切り、それは一直線に屍鬼に向かって飛んでいく。屍鬼の眉間にカッと音をさせて突き刺さった。

 屍鬼が狂ったように咆哮を繰り返す。

 この圧倒的な体躯を持つ屍鬼に、薄い紙ごときが対抗できるなんて、俺には到底思えなかった。

 けど、屍鬼が額の紙に手を触れることもできず、身もだえしながら腕を振り回すのを目の当たりにしてみると、俺はこのヒトガタの紙にかなりの力が込められているんだと思えた。

 晶良が軽やかに陽仁の右横まで飛びずさった。

 次第に鬼の眉間の紙から光が漏れてくる。

 その光は交差する九本の線で構成されてる。格子状の光が徐々に屍鬼の体を覆い、包み込む。

 光の縄に束縛され、屍鬼は振りほどこうとあがいた。けど、光の拘束はますます強まり、格子を縮めながら小さくなってく。

 これ以上縮まれば巨大な体が千切れ跳んでしまうと俺が思ったとたん、目を焼くような閃光が屍鬼を中心に爆発し、収縮した。

 俺が目を開けみると、部屋から屍鬼が消えていなくなってた。

 いつの間にか俺の横に、陽炎のようにたたずんでいた青嵐も消えちまってた。

 気がつけば、室内はうっすらと明るくなってた。あれほど寒かった空気が、だんだんと暖かくなってきたのを感じた。

 床にはヒトガタの紙が散乱してる。

 隣に立つ社長が深いため息を吐いた。

 俺は身をかがめ、不思議な紙を拾おうとした。一体、どんな仕掛けがしてあるんだろう? 

けど、晶良の鋭い声に、俺は手をとめた。

「それを拾わないで! そのままこの部屋から出てください。後始末をします」

 俺は晶良の言葉にしぶしぶ従った。

 晶良が線香立てと一緒に置いていた榊の枝を手にし、それを振りながら兎歩で部屋を一周し始める。

「あれは、なにをしてるんですか」

 俺が社長に訊ねると、

「部屋を清めてるらしい」

 と説明してくれた。

 晶良が部屋を清めたあと、部屋中に散らばった紙を拾い集め、取り出した袋のなかに収めてる。

 陽仁は部屋の様子をぼんやりと眺めてた。

 あれほど暗かった室内は、カーテンの隙間から漏れる太陽光にほのかに明るくなってる。

 さっきまでの興奮はまだ冷めやらないが、気がつけば今までの冷凍室に放り込まれたような寒さが嘘のようだった。俺はうなじを伝って落ちる汗を右手で拭った。

 さっきまでの異常な事態は嘘のようだった。

 けど、クローゼットの前の床に散乱した瓶のかけらが、嘘ではないことの証拠だった。

 なにかが終わったんだということはわかった。

「彼女はなにものなんですか」

 俺はずっと聞きたくてたまらなかった言葉をやっと口にした。

 社長が目を細め、晶良の姿を見つめて言った。

「彼女は屍鬼祓師(しきはらいし)だよ、屍鬼専門の掃除屋」

 俺は目を丸くする。途中から、あの少女が単なる清掃業者じゃないとは思ってたけど、屍鬼祓師って……一体なんだ!? あの屍鬼ってやつも!?

 俺の様子を見て、社長が続けた。

「こういった、一筋縄じゃいかない瑕疵物件専門の、ね。屍鬼とかいう鬼のことはワシでもわからんのだ」

 俺が社長が経営する不動産会社に入社してたった二週間。今は試用期間中だ。そのあいだに何度かその言葉――瑕疵物件というのを耳にしたことがあった。

 瑕疵物件にもいろいろとある。

 物理的法律的な不備のための瑕疵。そして、もうひとつが心理的な瑕疵。

 心理的な瑕疵とは、事故死や自殺などで不動産価値の下がった物件のことを指す。

「たいていはリフォームし、何度か人が使用するうちにそんな瑕疵は問題がなくなる。だが、たまに何度も同じことが起こってしまうことがある。何度、人を入れても一定期間内に人が死ぬ。そんなとき、その物件は死ぬほど安くなって買い叩かれるか、二度と人に貸さないように封印される。ワシはそういった物件を買い漁って、彼女に掃除を頼むんだよ」

 社長が俺の目を見てにやりと笑った。

「どうだ、諏訪君、勉強になっただろう」

 俺は狐につままれた気がして曖昧な返事をした。

「終わりましたよ」

 にこやかに晶良が部屋から出てきた。

 晶良が社長に頭を下げ、

「社長さん、お疲れ様でした。毎回立ち会うのって大変じゃないですか。それにいつも気分悪くなるでしょう?」

 と言った。

「いや、社長たるもの、晶良さんの仕事振りは目に焼き付けておかないとね、うっかり軽んじてしまうようになるんだよ」

 掃除の最中ずっと晶良の後ろに隠れてたことなどおくびにも出さず、社長が答えた。

 陽仁は晶良を見つめた。すると、陽仁の視線に気がつき、可愛い顔をほころばせた。

「お疲れ様です」

「どうも」

 陽仁は晶良に声を掛けられ、丁寧に頭を下げた。

「暑いねぇ」

 社長が扇子を背広の上ポケットから取り出して、パタパタ扇ぎだした。

「そうですね」

 晶良が社長の言葉に同意しているが、汗ひとつかいていないのが一目でわかる。

「そんじゃあ、場所を変えるか」

 社長の一声で部屋を後にし、マンションを出て晶良の贔屓(ひいき)にしてるカフェに向かうことにした。

 

 俺は柔らかなクッションのついたソファに腰掛け、目のまえ座る晶良を眺めながら、マンションを訪れたときのことを思い出していた。

 落ち着いた雰囲気のカフェの店内にクラッシック音楽が流れてる。

 社長は無言でコーヒーを飲んでる。

 どうやら晶良がひと心地つくのを待ってるようだ。

 俺は社長が注文してくれたアイスコーヒーを飲みながら思った。

 明るい店内で人形みたいに綺麗な顔をした少女を、俺は改めて眺めた。

 白い肌はビスクドールみたいで、頬はほんのりと紅い。整いすぎるほど綺麗な顔にはシミ一つない。頬はふっくらと丸みを帯びてて、間違いなく美少女だ。

 宇治抹茶パフェを見つめるうるんだ瞳は、ややハシバミ色がかって見える。長めの髪が頬に当たり、それをかきあげる指先は白魚のように細く繊細だった。

 さっきまでの清掃で見せた姿とはかけ離れすぎて、まるで別人だった。

 年齢はたぶん俺よりだいぶ年下だろう。中学三年生になったばかりの妹の陽向(ひなた)と変わらないんじゃないかな。

 甘いものが好きなのかな? 幸せそうな笑顔を浮かべて、宇治抹茶パフェを食べてる。

「今日はお疲れ様でした。晶良さん、これは心ばかりのお礼です。受け取ってください」

 社長がテーブルの上に封筒を置き、両手を添えて差し出した。

 晶良はそれを見て、同じように両手で持ってその封筒を受け取った。すぐに眉をしかめると、一度受け取った封筒を社長のまえに押し返した。

「また、入れすぎです。こんなにもらえないです」

 どうやら謝礼が多いことに気を悪くしているようだ。

 変わってる……。普通多くもらったら嬉しいはずだよな。清掃をおこなう現場を見たが、きっとそれに見合う報酬が、封筒のなかにははいっているはずだよ。

 けど、何度か押し問答を続けて、最終的に晶良は封筒を受け取った。彼女は両手で封筒を胸のまえに持って、複雑そうな顔をしている。

「ところで、晶良さん、これからは掃除のときに諏訪君もちょくちょく見学に来ると思うから」

 晶良は社長の話を笑顔で聞いてる。最初の印象と違い、幾分天然がはいってそうなおっとりとした雰囲気だ。

「よろしくお願いしますね、陽仁さん」

 晶良は笑顔のまま俺に向き直り、挨拶した。思わず俺も浅く頭を下げていた。

 社長はさっきまでの緊張した様子とは打って変わって世間話をし始めた。

「あー、これであのマンションを極上の値で貸せるというわけだ! ほんと、助かったよ。いやね、それまでは目をつけていてもすぐ手放すことになるなら、あまり意味がないと思ってたんだよ。晶良さんのお姉さまにはいくら感謝しても、し足りないくらいだよ」

 そして、丸い顔をほころばせて豪快に笑った。

「そうそう、諏訪君。晶良さんはね、マンションのオーナーでもあるんだよ。どこか君の希望に合うとこがないか聞いてみたらどうだね」

「え? 中学生なのに!?

 俺が驚いて声を上げると、晶良が頬を膨らませた。

「ぼく、中学生じゃありません! 二十歳です!」

 さらに驚いてる俺を尻目に、話が勝手に進んでいく。そこ、スルーするところか!?

「さぁ、希望の物件を聞いてみたらどうだね」

 社長と晶良の目が陽仁に集まる。こう見つめられた状況で、「二DK三万円」と言うのは居心地が悪い。言うか言うまいかで黙っていたら、社長が余計なことを言い出した。

「こいつね、なかなか安い物件が見つからないもんで、妹と二人で一週間もネットカフェ暮らしなんだよ」

 俺は社長の言葉にばつが悪くなった。そんなこと言わなくってもいいのに!

 晶良はきょとんとして、

「へぇ、ネットカフェってどこのホテルなんですか」

 と、真顔で聞いてくる。

 俺がなんと説明しようかと考えあぐねていたら、社長があいだにはいって説明した。

「インターネットやら漫画なんかが、二十四時間利用したり読んだりできる喫茶店みたいなものだよ」

「そうなんですね。最近はそんなところで生活できるんですね」

 晶良が感心したようにずれた感想を口にした。

「今で言う、ネットカフェ難民でしょうなぁ」

「あ、それ知ってますよ。住居を持たないひととか、リストラされたひとがなるってニュースで見ました」

「なんとなく違うが、そんなもんですな」

 二人はまったりとした雰囲気で、俺を肴に笑い合ってやがる。

 晶良が笑顔で俺を見た。

「じゃあ、諏訪さん、良かったらぼくのとこに来てはいかがですか。妹さんとご一緒に」

 その申し出は唐突だった。

「え?」

「困ってるなら、構いませんよ」

 世間話の延長線上のノリで、あっさりと言われた。

「え、でも」

「ほほお、そりゃいいじゃないか! 諏訪君、運がいいな」

 社長はひとごとだと思って、無責任に笑ってやがる。確かにありがたい申し出なんだけど、社交辞令じゃないだろうな? 俺は疑いの目を晶良に向けた。

「あ、住所と電話番号がいりますね」

 晶良は皮製のウエストポーチから、紙と鉛筆を取り出し、なにやら書きつけた。そして、「はい」とその紙を俺に手渡した。

 この好意に乗っかっていいんだろうか…………? 俺は複雑な気持ちで紙を見た。

「社長さん、アイスティー頼んでいいですか?」

「いいよいいよ、あ、キミィ」

 社長と晶良の声が、俺の意識からフェードアウトしていく。

 両手で持った紙に書いてある住所と電話番号を目を落とす。

 妹にはなんて説明しよう。いきなりルームシェアだと言ったら驚くかな。それより晶良の家族はどう思うだろう。これを信じていいんだろうか…………!?

 俺の胸のなかで、言葉にし尽くせない心配事が渦を巻くのだ

 


 一 神籠《かごめ》の磐座《いわくら》

 この話は、すべての事件が終わった後の話だ……。

 

 

 あたしは諏訪陽向《すわひなた》。

 やっと夏休みに入って、七月も終わりにさしかかった。

 晶良ちゃんやあたしにはあまり関係のないことだけど、やっぱり街ゆくセレブのご婦人方のファッションが夏真っ盛りであることを物語っている。

 青々とした街路樹のトンネルの先に、エントランスに設けた英国式の小庭園がひときわ目立つマンションがある。小庭園の先には通常のフロアへ続くホールの入り口と、五階のペントハウスへと続くガラス張りの自動ドアがある。

 屋上にはペントハウスまでさらに空中庭園が青い空の真下に広がっている。二百平米の敷地を余すところなく贅沢な娯楽施設が配備され、美しいガラスタイルで色どられたペントハウスの外壁は、ガウディの建築みたいだ。

 マンションの周囲には建築法のためか高い建物があまりない。抜けるように真っ青な空を背景にペントハウスの外壁がきらめいて見える。その青空にアニキ・陽仁《はると》の絶叫が響き渡った。

 

「いってぇええ!」

「アニキ、だらしないゾ」

 畳の上に半裸でうつぶせに寝そべっているアニキの体に、あたしは容赦のなく湿布を貼っていく。どこか愛嬌のある顔をしかめて、筋肉痛に叫ぶアニキに、あたしは冷ややかな言葉を浴びせかける。

 あたしは嬉しくないけど、アニキとよく似てる。もっと可愛く生まれたかったけど、アニキと同じ親を持つ身だ、仕方ない。元気で細かいことにこだわらない性格が服装の趣味に出てるってよく言われる。リビングにはクーラーがついてるけど、いつもの癖で、肩につくくらいの髪を後ろに一つに結び、白いTシャツに紺のサブリナパンツを履いてる。こういう楽な格好が好きなのだ。

 二十畳のだだっ広いリビングの片隅に設えた、六畳ほどの畳敷きの段の上にアニキがうつぶせに寝転び、あたしは湿布を片手に座っている。座卓を挟んだ向こう側で晶良ちゃんがテレビを見ている。

「ぐはぁ」

 今朝方、晶良ちゃんとアニキは一宮家の分家である佐伯のひとに自宅まで送られてきた。

 現在、アニキだけが筋肉痛に苦しんでいて、晶良ちゃんはというと、涼しい顔で六十五インチの液晶薄型テレビの前に座って、バラエティ番組を楽しそうに笑って観ている。

「なんでお前は筋肉痛にならないんだ!?

 アニキが悔しげにテレビの前を陣取っている晶良ちゃんに向かって毒づいた。非常に腹立たしい口ぶりだ。そんなアニキを振り返り、晶良ちゃんは寛大にも苦笑いだけで済ませた。なんて心が広いんだ。アニキは筋肉痛で苦しんでいればいい。

 アニキが湿布だらけの背中を上にして、折りたたんだふかふかの座布団に頭を乗せてうめいている。びたんと音がするほど激しくあたしがアニキの背中に湿布を貼るたびに、アニキは盛大に悲鳴を上げた。

「もっと優しくしろ!」

 情けない声で訴えられても、今回の仕事に連れて行ってもらえなかったんだから、あたしの機嫌は絶対に良くならないんだからねっ。どんなに遊びではないとアニキに言われても、あたしには関係のない。

「なんでアニキだけ晶良ちゃんのマネージャーなわけ? あたしだって結構役に立つと思うのに!」

 まずもって、アニキだけが晶良ちゃんのマネジメントだということ自体納得出来ない。でも、それは晶良ちゃんやアニキが決めたことじゃない。それはわかってる。だから無性に腹が立つんだってばッ!

「だからぁ、それは俺が決めたことじゃないって何度も言ってるだろ!」

 アニキの言い訳をかき消す肌をたたく鋭い音を響かせ、あたしは容赦なく湿布を貼っていく。そのたびにアニキの口から悲鳴が上がった。

「じゃあ、晶良ちゃんにお願いしてもらうようにアニキから言ってよ!」

 あたしの言葉を聞いて、テレビを見ていた晶良ちゃんが振り向いて、無理だと手を横に振った。あたしがすがるような目を向けると、首をすくめて晶良ちゃんが視線をそらした。仕事を晶良ちゃんに言いつけているのは晶良ちゃのお姉さん・翡翠さんなのだ。しかも、彰ちゃんの上には四人のお姉さんがいて、晶良ちゃんはお姉さんたちの言いつけにはすごく素直なのだ。

「別にさ! 絶対連れて行ってほしかったわけじゃないんだよ! 少しはさ! 妹に対して日ごろの労いがあってもいいんじゃないのかなってさ!」

 あたしはびたんびたんと勢いよく湿布を貼っていった。

 アニキが絶叫をかみ殺し、

「遊びに行きたかったら中学の友達と行きゃいいだろ! 何もくそ面白くない仕事についてきたがら……、うぎゃあ!」

 と文句を言い募っていたけど、太ももの一番強張ったところにあたしから湿布をびたんと叩きつけられ、それ以上言葉を続けることが出来なくなったみたいだ。涙目でもだえているアニキを尻目に、晶良ちゃんが「あ」と軽い声を上げた。

「どうしたの、晶良ちゃん」

 あたしは晶良ちゃんを振り向いた。

 晶良ちゃんがごぞごぞと短パンのポケットを探り、昨日、長野県伊那《いな》から持ち帰った磐座《いわくら》の欠片を取り出した。

「これ」

 笑顔で差し出されたものをあたしは条件反射で受け取った。握り締めた掌の中でほのかに暖かなものを、あたしは改めて眺めた。

 赤茶けた石。プラス晶良ちゃんの体温。石自体になんの感動もなかったが、掌に感じる晶良ちゃんの体温はすんごく心に暖かかった。

「これなに?」

 しかし、やはりわざわざ手渡されたなんの変哲もない石を不思議に感じて、あたしは晶良ちゃんに訊ねた。

 晶良ちゃんが満面の笑顔で身を乗り出すと、熱心な口ぶりで説明してくれた。

「これは神気の篭った磐座(いわくら)です。神様が宿っているのとおんなじだから、陽向さんにお土産にしようと思って持ってきたんです」

「え」

 晶良ちゃんが口にした『陽向さんにお土産』という言葉があたしの心のど真ん中を、ズキューーンと撃ちぬいた。あたしの頬が真っ赤になっていく。でも、神様が宿った磐座って何のことだろう?

 すると、質問する前に晶良ちゃんが説明をしてくれた。

「どんなものでもそうなんですが、長い年月を経たものには魂が宿るんです。けれど、ものには寿命があります。壊れてしまうとその中に宿っていた御魂(みたま)は霧散してしまいます。けれど、こういった岩や山、樹木など、なかなか器そのものが壊れてしまわないものがあります。そうした長く保てる器を持った御魂の中には清い力を持つものもあって、そういった存在が何百年何千年と力を蓄えると、ごく稀に神霊という存在にまで成長するんです。その存在は簡単に言うと神様見習いの卵です。神様見習いまで成長できれば、少しは器から離れても御魂が霧散するようなことはありません。例えば、朱鸛(しゅこう)もそうですよ。器の磐座に戻ることができなくなっても、なんらかの形で神気を閉じ込めることができれば、力を失ったりすることがないんです。神霊を失った器の中には、それと同等の力が満ちていますから、磐座がある場所とここと同時に存在できるんです。朱鸛はその器をなくしたから、僕の中にいるんですけどね」

 晶良ちゃんの説明は少し難しかった。飲み込めなくて、あたしは訊ねた。

 でも、あたしの様子を晶良ちゃんはあまり気にしていないようで、専門分野の話が出来て反対に嬉しそうに見える。楽しそうな晶良ちゃんを見てるだけで、あたしも嬉しい。

「――で、その石の欠片は神様が宿ったご神体と同じくらいのご加護があるんですよ」

 晶良ちゃんが語る話の半分も耳に入っていなかったけど、あたしはさも感心したようにふむふむと相槌を打ちながら聞いていた。

「へぇ、そんなにありがたい代物だったんだ」

 トランクス一丁というあられもない格好のアニキが、体を起こして晶良ちゃんに言った。あたしは覗き込んでくるアニキの視線から石を隠して、口を尖らせた。

「ほしいって言ってもあげない」

「ほしいとか言ってないし」

 晶良ちゃんがあたしたちのやり取りを見て、心配そうな顔で言った。

「もう一つくらい探して持って帰ってきたほうが良かったですか」

 そしたら、アニキがうんざりした顔をして、脱いだTシャツを着ながら首を振った。

「だからいらないって言ってるし」

「ねぇ、晶良ちゃん、長野の伊那までわざわざ磐座を砕きに行ったわけじゃないんだよね? 今回の仕事って一体どんなことしたの?」

 今回の仕事がどんな内容のものだったのか、あたしは全然知らない。石を眺めながら晶良ちゃんに訊ねた。

「さっき話したように、長い時間(とき)を経たものには御魂が宿るっていうのと関係するんですけど、神様見習いから晴れて神にまで神格が上がった御魂が、神界に昇天して残された器が空っぽになったりすると、大きな災害が起こったりするんです。すごい力を培った神が神界に還られて、それまでその神と均衡を保っていた龍脈がバランスを崩してしまったんです。陽向さんも知ってると思うんですけど、最近中央高地に災害が集中していたでしょう? あれは、今回バランスが崩れた龍脈が原因なんです。そのバランスを元に戻したのが、今回の仕事っていうわけです」

「えーと、つまり、どういうこと?」

 あたしは苦笑いしながら聞き返した。

「簡単に言うと、空になった器にそれまで入っていたものと同じくらいのものを詰め込んできたんです」

「それって、神様を詰めてきたってこと?」

 晶良ちゃんがあたしの言葉を聞いて優しく微笑んだ。天使の微笑みだぁ……!

「神様は無理ですけど、同じくらいの力ならできますよ」

 そういわれて、やっとあたしは腑に落ちた。神さまのいなくなった磐座に神さまに等しい生命の力を込めに、長野の伊那まで行ったんだ。たぶん仕事は無事完了したんだろうな。目の前で微笑んでいる晶良ちゃんが、その証拠だ。

 でも、生命の力を使うってことは、晶良ちゃんにとって命を削ることになる。多分、仕事を行った後、死にかけたに違いない。その時なんであたしは晶良ちゃんのそばについて挙げられなかったんだろう。なんで、そばにいたのが、アニキだったのか、納得出来ない!

 あたしは自分が晶良ちゃんにとって重要な役割を持っているわけじゃない。実際、日常生活において百パーセント晶良ちゃんの世話をしていたとしても、それはあたしでなくても出来ることだ。例えば、隣でTシャツとトランクスというデリカシーのない格好で座っているアニキにも出来る。けど、あたしは晶良ちゃんの命を守りたい。それなのに、あたしにはそんな力がない。目の前にいる、年上なのに頼りない晶良ちゃんの視界に、いつもあたしも含まれているだけでもいいんだ。何かで晶良ちゃんの力になってあげたい。

「そんなすごいものの欠片なの?」

 あたしは晶良ちゃんに念を押すように聞いた。晶良ちゃんが首を縦に振った。

「そうですよ」

「それをあたしに?」

 あたしは『陽向に持ってきた』という点を強く晶良ちゃんに確かめた。あたしの心なんて知らずに天使の微笑みを浮かべて、晶良ちゃんが言った。

「そうです、陽向さんのお土産にいいなって思ったんです」

 あたしはニヤニヤ笑いそうになるのを懸命にこらえた。

「ありがと! ペンダントにしてみるよ。大事にする」

 絶対肌身離さず持ち歩こう。あたしは心の中で舞い踊りながら誓った。

「じゃあ、朱鸛は神様なのにおまえの使いっ走りをやってるってことなのか?」

 横で聞いていたアニキが晶良ちゃんに訊ねた。

「朱鸛ってあの体の大きな男の人だよね?」

 あたしは朱鸛のことを大昔に亡くなった人の幽霊くらいに思ってた。でも、今聴いた話だと、朱鸛は磐座という巨岩に宿る神さまだったみたいだ。神さまを晶良ちゃんが使役しているってことなのかな?

 すると、晶良ちゃんが困った顔をした。

「朱鸛はまだ神じゃないですけど、僕の手伝いをする契約を交わしたことで、将来神になることが出来るんです。任期満了したら朱鸛は神界に昇天すると思います。この点では、青嵐もおんなじなんです。彼女も僕の手伝いをすることで穢れを清め神界に戻ることが出来ます」

「へぇ」

 まるでファンタジー小説の世界だ! あたしは目を輝かせ、晶良ちゃんに言った。

「晶良ちゃんはどうやってそんなすごい人たちを仲間にすることが出来たの? 仲間になってくださいって頼んだの? 例えばゲームみたいにそういう人ばかり集まった場所があって仲間を募ったの?」

 あたしにはまだ式神っていうのがわからない。晶良ちゃんがなぜか戸惑った顔をした。

「式神が集う場所なんてないです。それに、陽向さんはがっかりするかもしれないですけど、彼らは仲間ではないんです。彼らとは主従関係を結ぶんです。いわゆる僕の奴隷なんですよ。でも神霊のような存在がそんな屈辱的な関係を結ぶことはありません。そんなことをすれば、たちまち彼らは恐ろしい荒魂(あらみたま)に変貌して、祟り神になってしまいますよ」

「じゃあ、なんで晶良ちゃんにはできたの?」

 あたしのお馬鹿な疑問に対して、晶良ちゃんが苦笑った。

「そこのところが僕にもわからないんです。だから、当時、師匠や一族のひとに説明するとき、本当に困ったんです。あり得ないことだから」

「どんなことがあったの?」

 あたしは話を先に進めたくて適当な相槌を打つと、話の続きを晶良ちゃんにせがんだ。

 

(この続きは、「屍鬼祓師スピンオフ2 晶良と青嵐・朱鸛の出会い編」を参照ください)


 二 カイ不在

「美化してないか」

 アニキが晶良ちゃんの話を聞き終わって、身の程も知らない失礼な目で晶良ちゃんを見た。

「美化はしてないんですけど……」

 晶良ちゃんが困惑しているじゃないの。

「アニキ!」

 あたしはアニキのわき腹を力強く小突いてやった。

 あたしたちが喧嘩をしているところに、来客があった。

「翡翠姉さんかな?」

 晶良ちゃんが玄関へ出向いた。翡翠さんなら玄関から来るけど、柘榴さんはいつも庭から来る。登場の仕方が違うだけでも、かなり性格が違うお姉さんたちだ。しばらくして、やっぱり翡翠さんがリビングに入ってきた。

 相変わらず、晶良ちゃん同様年齢の分からない女性だ。おねえさんたちの中で一番顔つきが晶良ちゃんに似ている。二人並ぶと双子みたいだ。上の三人のお姉さんたちと比べて、翡翠さんは外交担当で、晶良ちゃんや他の人たちへの依頼を整理したり分配したりする仕事をしてる。

 暇さえあれば晶良ちゃんの様子を見に来るんだけど、それがいつもいきなりなので、あられもない格好を目撃されて、アニキが慌て始めた。

 パンツ姿にうろたえるアニキに、翡翠さんが心の広い言葉をかけてくれた。優しい。

「気にしないで、慣れてるから」

 どういうふうに慣れてるのか、あえて聞かないでいようとあたしが思っていると、

「修行中は年じゅう一族の男性のふんどし姿だって拝んでたんだから。私たちも似たような格好してたしね」

 と衝撃的な発言を耳にして、あたしは顔を赤らめた。晶良ちゃんのふんどし姿が頭に浮かんできて、顔が真っ赤になった! イケナイ妄想が心を占領してしまって、もう二度と晶良ちゃんを直視できそうにない。水着姿よりも刺激が強いじゃない!

「姉さん!!」

 さすがの晶良ちゃんも顔が真っ赤だ。

 アニキが自分のみっともない格好を棚に上げて大笑いしている。馬鹿め……。

「ところで楽しそうね、なんの話してたの」

 最近翡翠さんは暇さえあれば、妹である晶良ちゃんの家によってよもやま話をして帰っていく。頼りない妹が心配でたまらないのかも知れない。

「晶良ちゃんの式神の話を聞いてたんです」

 あたしは答えた。

「そういえば、翡翠さんも式神を持ってるんですよね? 翡翠さんはどんな縁で式神と出会ったんですか?」

 すると、翡翠は浮かない顔をした。

「わたしの?」

 あたしはこくこくとうなずいてみせた。

「たいしたことないわ、わたしの式神は年経た樹木の精霊だし、晶良の神霊みたいに特殊じゃないから」

「でも興味あります、樹木って、どんな木なんですか?」

 初めて耳にする話だ。あたしは好奇心が刺激されて、興味津々に翡翠さんを見つめた。

「単純よ。カイは槐《えんじゅ》の木の精霊。センは栴檀《せんだん》の木の精霊。ね、平凡でしょ」

「でも式神になれるくらいだから、特別な木なんですよね?」

 翡翠さんが晶良ちゃんに差し出された煎茶を口に含み、さらりと言った。

「多分、どっちも八百年から千年くらいの樹齢かな」

「すご!」

 平凡と言われるレベルが八百年かと思うと、すでにあたしの想像の域を超えてる。

「翡翠さんはどうやってカイとセンを式神にできたんですか?」

 すると、翡翠さんが思い出すように話し始めた。

「私たち、一宮家の異能力者は力に目覚める頃になると、まず自分が行くべき土地を見極めることから始めるのよ」

 行くべき土地を見極めるという意味が分からなくて、あたしは訊ねた。

「晶良がよく観想を行ってるでしょ? あれと同じようなことをするんだけど、わたしの場合は三日三晩自分の神から要求された呪文を唱え続けて、やっと分かったって感じ」

「それって普通なんですか?」

「普通……、そう言われると難しいけど、晶良みたいに他の異能力者を馬鹿にしてるかと思うほど簡単に神霊を式神にすることもあれば、三日三晩どころか、何年も掛けてやっと見つける者もいるわよ」

「へぇ……、それで、翡翠さんの場合はどこに行くことになったんですか?」

 あたしの矢継ぎ早の質問に、翡翠さんが困ったように微笑んだ。

「陽向ちゃんは好奇心旺盛ね。そんなに面白くないわよ?」

「聞きたい! ね、アニキもそう思うよね!」

 アニキが呆れた顔をして、あたしを見た。

「なんだよ、おまえが聞きたいだけだろ?」

「それで、どうしたんですか?」

 あたしは期待に胸を膨らませ、翡翠さんの話しの続きを待った。

 

 当時、翡翠は十七歳だった。力が発現し、ひと月。そろそろ式神を手にするべきと言う判断が下り、三日三晩を経て、ようやく自分の行くべき土地を見いだした。

 すべて、己の神の立像の御前で指定された回数の呪文を唱え、己の神と一身になり得た答えだった。食うや食わずで一心不乱に一万回唱えたきった瞬間、脳裏に四万十と言う言葉が刻み込まれたのだ。

 しかし、目的のものが四万十のどこにあるか迄はわからない。とにかく、その地に向かうしかない。翡翠は十分な準備をし、単身四万十川のある高知県西部の山域へと向かった。恐ろしいほどに長大な川の源流、不入山(いらずやま)北麓に達したとき、やっと翡翠の胸に辿り着いたという直感が芽生えた。

 翡翠はためらわず不入山へ踏み込んだ。

 己と縁のある式神の気配を探りながら、奥へ奥へと進んでいく間、翡翠は並々ならない気配をも感じていた。

 不入山にはわずかながら、聖域としての気が残っていた。すべて推測でしかないが、おそらく山が開かれたのは近代に入ってからであり、それまでは禁足地として管理されていたのではないだろうか。

 登山口を外れると、山はその表情を一変させた。人気のなくなった山域には得体の知れない妖しいものどもが息を潜めていた。

 目的のものへと進む翡翠の目の前に、翡翠の心を惑わそうと次々とやってくる。翡翠はくじけそうになる度に、己の神に祈り続けた。しかし、式神会得の時期が冬でなかったことは大きな幸いだった。冬場であれば、成人した男でも音を上げたかも知れない。

 幾日か経ち、携帯した食料が半分になった頃、翡翠は二つの清浄な気配を感知した。それがカイとセンだった。

 その後、カイとセンを服させるために数日かかった。ようやく、式神に下ったカイとセンを得て、翡翠は寝る間を惜しんで、麓に下り、一宮家へと戻ったのだった。

 

 翡翠さんがそこまで口にすると、眉を曇らせた。

 あたしは翡翠さんの様子に気付かず、翡翠さんの冒険譚にしきりに感心していた。そこへ、アニキが横から口を出した。

「ところで、翡翠さん、さっきから浮かない顔ですね」

 翡翠さんが困惑した顔になり、ため息をついた。

「陽仁くんは顔色を察するのが得意ね。そうなの、じつは……」

 アニキにお株を盗られてしまった……。

 

 翡翠さんがカイが召喚に応じないことに気付いたのはつい最近らしい。ここのところ一族で経営している学園の運営のほうが忙しく、式神を呼び出す機会がなかったからだ。

 カイは千年以上の樹齢の槐の古木である。

 カイは立派な古木だった。その丈は十五メートル。周囲は三メートル近くある。どっしりとしたその姿からは想像できないほど涼やかな面の童子が、古木の精だった。

 苦労し、説得して服させたとは言え、翡翠さんにとってカイやセンはただの奴隷じゃない。思い焦がれてやっと手に入れた恋人のようなものだ。

 そんな式神のひとりと連絡がつかなければ、心配でたまらない。気になって仕方ないが、なかなか現地に行くことができない。

 そうこうしているうちに今に至ってしまったというわけらしい。

「じゃあ、様子を見に行くしかないんじゃないですか?」

 アニキが翡翠さんに提案した。

「そうだね……、式神が命に答えないなんて、絶対にあり得ない。なにかが起こったと考えるのが普通です」

 晶良ちゃんも心配そうに言った。

「様子を見に行くしかないのかしら……」

 翡翠さんの懸念を後押しするように、晶良ちゃんが強く言った。

「姉さん、これは尋常なことじゃないとわかっているでしょう? 学園や他の仕事は一族の者でもできます。まずはなにが起こったのか、確認するべきです」

 晶良ちゃんの言葉に、翡翠さんも決心が付いたようだ。

「そうね……。カイを失うのは本望じゃない。晶良のいうとおりだわ」

 あたしはそれまで黙っていたが、おそるおそる翡翠さんに訊ねた。

「ねぇ、翡翠さん。遊びじゃないのはわかってるんですけど、あたしもついていっていいですか?」

「え?」

 アニキが呆れた顔をしてあたしを見る。

「お前、遊びに行くってホントは考えてるだろ」

 あたしはアニキの突っ込みを無視して続けた。

「あたし、晶良ちゃんの仕事や内容を覚えたいんです。あたしも手伝いたいんです」

「気持ちは嬉しいんだけど、女の子じゃきついんじゃないかしら」

 それを聞いて、あたしは満身創痍のアニキを指差して言った。

「少なくとも、アニキより体力あります! そりゃ力はないにしてもほぼアニキと互角です」

「お前はなんでおれに対抗心燃やしてんだよ……」

 アニキがさらに呆れてぼやく。晶良ちゃんがあたしたちのやり取りを困ったように見つめている。

「姉さん、陽向さんが行くなら僕も手伝いましょう。仕事も終わったし、姉さんだけじゃあ大変だろうから」

「ほんとう? じゃあ、日取りを決めないといけないわね」

 なにやら話が進んでいるのに気付いたアニキが慌てて言った。

「おれもいきます!」

「じゃあ、決まりね」

 翡翠さんがあたしたちの顔を順繰りに見てにっこり笑った。

 

 

 

 出発当日までに、晶良ちゃんとアニキに、あたしの買い物に付き合ってもらった。

 晶良ちゃんがあたしの渡した水着を複雑な顔で受け取った。以前、晶良ちゃんがデパートの店員から勧められて買わされた競泳用の水着は、晶良ちゃんの良さを表してない!

 アニキが晶良ちゃんの水着を、『キャラクターものじゃないだけましだと思え』という顔つきで見ている。アニキには一番安物の量産された某ネズミキャラの水着で十分だ。あたしが選んだ晶良ちゃんのブランドもののフリフリなビキニと同列にはできない。

 翡翠さんが水着の購入費は経費で落とすと言ってたけど、あたしの水着代は経費じゃないだろ、とアニキがケチなことを言い出した。

「なに変な顔してんの? アニキ」

「おまえな、遊びに行くわけじゃないんだ。翡翠さんの式神を調査に行くんだ。水着選びで三時間も時間をつぶすな」

「水着大切~! だって、翡翠さんが四万十川の源流で泳ぎましょうねって言ったじゃない」

「うー……」

 陽仁が顔をしかめ、言い返した。

「山に行くんだぞ。おまえ、山がどんなに危険か知らないだろ! 遭難したって知らないぞ」

「晶良ちゃんの式神がいるから遭難なんかしないもんね~」

 あたしはかわいいパステルカラーのワンピースを手にとって眺めた。

「ヒトの話を聞けよ」

「まぁまぁ……、確かに姉さんや僕がいれば遭難することはないんですから。それに、日が暮れる前に戻ればいいわけですし」

 晶良ちゃんがアニキに助け船を出した。晶良ちゃんの言うことに間違いはないッ!

「防寒具はしっかり準備しよう! 夏とはいえ、山だもん。いきなり天気が変わるかも知れないし! 晶良ちゃん、体弱いし、風邪ひいちゃいけないからね」

「おまえなぁ」

 あたしは晶良ちゃん第一だ。アニキの意見なんて聞く気なんかない。今回の旅行はあたしにとって特別なことなんだから。少しくらいはしゃいでるのを見て、ため息なんて吐いてほしくないのだ!

 

 午前に羽田空港から飛行機で出発し、昼前には高松空港に到着した。高松から列車で乗り継ぎを繰り返し四時間強揺られ、四万十駅に着いたのは午後も遅い時間だった。

「今晩はホテルで一泊。陽仁さん、ホテルに荷物届いてるか確認して。明朝四時にレンタカーで出発するので、レンタカーの手配もよろしくね」

 翡翠さんがタクシーの中で、アニキに細かく指示を与える。あたしも見よう見まねで携帯のメモ帳に予定を打ち込んでいく。アニキが律儀に小さなスケジュール帳にせっせと書きこんでいる。

「携帯なんか電池なくなったら終わりだろ。それに山に携帯持っていってもあんまり役に立たないぜ」

 余計なお世話だ! あたしは文字を打ち込む親指を止め、頬を膨らませた。

 そんなあたしたちのどうでもいい争いを晶良ちゃんが困った顔で見つめていた。

 

 明朝、ホテルのロビーに寝不足気味のあたしと完全武装済みのアニキ。軽装に登山靴をはいた晶良ちゃんに、同じく軽装の翡翠さん。あたしは背中にでっかいザックを背負っている。心持ち背が前倒しになっていく。

「僕、持ちましょうか」

 心配そうな晶良ちゃんにあたしは満面の笑顔を向けた。

「心配ないって! あたしこれでも体育の成績いいんだから!」

 けど、歩くたびにザックの重さで体が、がくんがくんってなってしまう。

「無理すんな」

 アニキが呆れた顔で言った。アニキが担ぐはずのザックを、あたしは見栄を張って背負ったんだけど、あっという間にザックをアニキに取りあげられて、代わりに軽めの携帯食の入ったリュックを渡された。

「おまえ、食料係な。山での食事はかなり重要なんだ。なくすなよ」

 あたしは馬鹿にされたと思って、頬を膨らませたまま、リュックを背負った。

「これで恩を売ったと思うなよ……」

 あたしの恨み節にアニキが苦笑する。

「だからなんでおれと張り合うわけ」

 

 あたしたちは車に乗り込み、不入山(いらずやま)へと向かった。三時間強県道を走り、やっと不入山の登山口に入る。すでに周囲は明るい。冷えた空気も朝日に暖められて熱を持ち始めている。

 レンタカーを駐車場に停め、あたしたちはそれぞれ降り立った。

 周囲は緑。清浄な空気に包まれ、風の匂いすら違う。木々の瑞々しい葉が日に照り返る。風に煽られきらきら輝く。

 あたしはまぶしげに空を仰いだ。

 申し合わせたような晴天。厚みを感じさせる入道雲が山の稜線から立ち昇る。

 あたしはそっと晶良ちゃんを見る。

 色の白い肌が太陽に照り、透明にも見えるほどに白く輝いている。茶色い髪がふんわりと風に煽られる。到底二十歳の女性には見えない。麻のシャツの胸元を開き、白い胸元が垣間見える。あたしは顔を赤らめ、目を背けた。

 目深に帽子をかぶった翡翠さんが、ウェストポーチの中からコンパスを取り出した。方角を確かめ、確認した方向に目をやる。おそらく無言に式神のセンを放ったのだろう

「ひとの目があるから、とりあえずこの地点までは普通に登山するわよ」

 翡翠さんが登山地図を指し示す。地図には幽谷コースとある。

「ここを外れたらもう原生林。絶対にわたしたちから離れないように。足を踏み外したら命の保証のない崖もあるから、気をつけてね」

 あたしは翡翠さんの真剣な面持ちを見て深くうなづいた。守られているとはいえ、それは最低限のこと。そのほかは自分に責任をもって行動しなければいけない。浮かれていてはいけないのだ。あたしは心に強く思った。


 三 ましらの神

 不入山《いらずやま》は標高一三三六メートルの山である。けれど、その山系は深く、深山幽谷と言われる原始の森で成っている。きめられたハイキングコースを外れれば簡単に遭難する。

 地図を持つアニキを先頭に翡翠さん、あたし、晶良ちゃんと続く。歩きなれない山道にあたしはすでにばて気味だ。けれど、マネージャとしての才覚を認めてもらうために一生懸命歩くしかない。

 約二時間。ようやく幽谷コースにたどり着いた。翡翠さんが前後に人がいないことを確かめ、不意に太い木の幹の後ろへ回った。道を外れた途端さらに山道が険しくなる。足元の悪い中を翡翠さんが見えない道をたどるように迷いなく進んでいく。ある程度進むと巨石に行き当たった。

「ここでちょっと休みましょう」

 翡翠さんの言葉を合図にあたしは地面にへたり込んだ。

「もうギブか? まだあるんだぞ」

 水筒をあおりながら、アニキがにやにやする。くたばれ、アニキ! 軽装の晶良ちゃんと翡翠さんは汗だくになりながらも、まだ体力はありそうだ。

「ま、まさか、晶良ちゃんに負けるなんて……」

 あたしは意外な真実に自信を喪失して、両手を地面に着いた。

「いや、僕は、あの、朱鸛(しゅこう)が体に融合してるから」

 晶良ちゃんが苦笑した。

「そうだった……」

「あら、陽向ちゃん、わたしは自前の体力よ」

 翡翠さんにまで言われて、あたしはがっかりした。これじゃあ、晶良ちゃんについて回って山を歩けないじゃん。

「まぁ、あれだ、おまえ、なにか運動すればいいんじゃね?」

「運動?」

「ジョギングとか、腹筋できるか?」

「ふ、腹筋……」

 あたしの脳裏に、体力テストで腹筋二回でギブアップした記憶がよみがえる。この中で最下位の体力はあたしみたいだ。強がりを言わず現実を考えるべきだったが、どうしても晶良ちゃんについて行きたい! これしきのことで音をあげるのは早い!。

「さて、時間短縮。いまから、韋駄天(いだてん)を召喚するわよ」

 翡翠さんが両手の指を複雑に組み、手印と呼ばれるものを作り、呪文を発した。何度か唱えると、あたしたちに向き直った。晶良ちゃんの時のように神気が具象化することはなかったが、急にあたしは自分の体が空気のように軽くなったと感じた。アニキもそれを感じているのか、軽やかなステップを踏んでる。

「さ、行くわよ。足元に気をつけてね。それと、陽向ちゃんは決して私から目を離さないでね」

「はいっ!」

 真っ先に翡翠さんが飛び出した。野生の鹿のように木の根や岩が阻む山道を跳ねるように駆け上がっていった。

 

 韋駄天の術がかかった両足は何十倍もの距離を数歩で消化していく。その時に見える景色はほとんど色でしかなく、形はほぼ見えない。物理的な何かを確実に無視してるはずなんだけど、樹木にぶつかるようなこともなく、あたしたちは不入山の奥深くへと分け入った。

 そのうちあたしの目に何かが見え始める。先頭を水色の何かがひらりひらりと移動していく。よくよく眼を凝らすと、いつか目にした水干姿の少年だった。まるで、猿のように木々をよけ、茂みを飛び越えて先を走る。

 翡翠さんの式神のひとり、センだ!

「ご主人様!」

 センが叫んだ。

「もうそろそろよ」

 翡翠さんの声がした。とたん、周囲の形がよみがえる。色も次第に明確になり、濃淡も鮮やかに見えてきた。気付けば、足取りも重たく感じ、あたしは足元の木の根に躓きかけた。

「おっと」

 いつの間にか隣に立っていたあにきが、すかさずあたしの体を支える。

「あ、ありがと……」

 あたしは顔を上げた。

 深い緑の葉が茂る、天と地に大きな枝を傘のように張り、ねじれた幹が複雑に絡まり合った、恐ろしく樹齢を経た樹木が目の前にそびえていた。周りに木々はない。風もないのに古木の枝葉はさやさやと葉擦《はず》れ、太い幹から地面の根にかけてギシギシと揺れる。それ以上に、異様なものが古木を侵していた。

 巨大な蜘蛛の巣に見えた。細くゆらゆらとした糸が色濃い葉や枝にまとわりつき、まんべんなく槐の木を包んでいる。

「カイ……」

 翡翠さんがつぶやいた。

 あたしも古木の姿を目にした時、背筋に寒いものが走った。

「こ、これは……」

 身を守るために晶良ちゃんがあたしたちに結界を張り、すかさず両手で手印を結んだ。

 翡翠さんが青い顔をしてセンに命じる。

「糸を霧散して!」

 センが命ぜられるままに小太刀を振り、糸を払った。けど、白い糸はびくともしない。

 はらはらと散る白い糸をアニキが手に取る。糸、と思えたものは何かの獣の毛のようだった。それはまるで鋼のように固く、下手をすると肌を傷つけそうなほど鋭かった。

「晶良、糸じゃないぞ。獣か何かの毛だ」

「獣?」

「なぜ、獣の毛がカイにまとわりついてるの?」

 翡翠さんが眉をしかめた。その毛は白狐・青嵐の柔毛《にこげ》に比べかなり剛毛だった。毛自体も短く親指の長さもない。このくらいの長さで白い体毛を持つ生き物など見当もつかなかった。

 あたしたちの気配を察知したかのように、毛がますます古木を締め付けるようにはびこりだした。ぎぎぎという、木の幹がきしむ音が辺りに響く。このまま放っておけばいずれ古木はへし折れてしまうかもしれない。

「カイ、カイ! 返事をしなさい!」

 翡翠さんが必死に叫んだ。その声が届いたのか、古木が白緑色に明滅した。古木の中に潜むカイの姿がぼんやりと宙に浮かび上がった。でも、カイは翡翠の呼びかけが聞こえないのか眠ったままだ。次第に樹木を取り巻く気配があやしくなってくる。やっぱり、ただの毛ではなかった。現に翡翠さんの式神であるセンでは歯がたたない。

 晶良ちゃんも結界を張りながら、青嵐を呼び出した。

「主様、ここに」

 金色の輝きを放ち、綺羅を纏った白狐の青嵐が現れた。

「木を取り巻く毛を取り除けるか?」

「ふむ。これはやっかいな……。試して進ぜよう」

 青嵐がふわりと宙に浮き、打衣《うちきぬ》から銀色に照り輝く、鉄でできた扇子を取り出した。鉄扇の先は鋭く研ぎ澄まされ、触れた物を容易く小間切れにしてしまいそうだ。

 鉄扇が閃光を放ちながら、古木を囲う白い毛をなぎ払った。けど、鋭い刃が白い毛に当たるごとに威力が感じられなくなっていく。反対に鉄扇に触れた部分の毛がますます強固にはびこっていった。

「くっ。主様、口惜しゅうござりまするが、わらわの鉄扇では歯が立ちませぬ」

 ざわざわと古木を締め付ける白い毛がざわめきだす。それとともに古木が苦しげにきしんだ。とたんに空気が変わる。質感を伴う真綿のように感じられる。

 凄まじい閉塞感に、アニキとあたしは思わず膝をついた。大きくあえぐが、息が続かない。さらに、空気が石のように重くなり、アニキもあたしも地面に突っ伏してしまった。

 かろうじて起きていられるのは式神に守られた翡翠さんと晶良ちゃんだけであった。それでもかなりつらいのか、肩で息をしている。

 晶良ちゃんはうつぶせに倒れ込んだあたしたちと、かろうじて立っている翡翠さんを見た。晶良ちゃんですら、顔が上気し赤くなっている。

 重く、息苦しいはずの空気だけど、おどろおどろしいものはなかった。むしろ、空気は異様なほど澄んでる。この空気には覚えがある……。研ぎ澄まされた清澄な気が辺り一帯を覆い、あまりの清らかさに肺が痛くなってくる。背筋にびりびりと雷電が走るような怖れを感じさせる空気なんて、めったに味わうことがない。

 重苦しく変化した空気に包まれた大樹の葉陰がわさわさと揺れる。白い毛の生えた頭が現れた。金色の大きな眼が歓迎せざる来訪者を睨んでいる。大樹の葉陰から現れたのは、大きな枝ぶりとほぼ同じ巨大な白い猿だった。金色に炯々と光を放つ眼から、清澄な空気に反して、とてつもなく禍々しい気を放っている。

「せ、青嵐」

「主さま……。これは……、大猿、年ふりしましら《・・・》でございます」

「ましら……?」

「猩猩《しょうじょう》、狒狒《ひひ》、いろいろな名前がございますが、猿の年ふりて神になりたもうたものではありますまいか。いまだ神ではないわらわや朱鸛では歯が立たぬわけも、これで得心できまする」

「相手は神なのか……」

 それを聞き、翡翠さんの顔色が変わる。

「なぜ、神が私のカイに取り憑くの」

 それに対して青嵐が眉をひそめて言った。

「カイは千年生きながらえた妖樹。この不入山の中で一番に力がござりまする。そこに目を付けられたのかも知れませぬ」

 

 神さまから式神を取り戻すのは至難の業なのかな……? このまま諦めるしかないの? 晶良ちゃんが巨大な槐の古木を見上げた。



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