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屍鬼祓師 エピソード0/晶良と陽仁の出会い編

晶良と陽仁の出会い編

「お静かに」

 暗い部屋の中にたたずむ俺――諏訪陽仁は、凛とした涼やかな声の主を見つめた。一宮晶良という中学三年生に見える美少女だ。

「晶良さん、この部屋にはなにもないように思えるんだが」

 俺の隣に立つ小太りの男――不動産会社の社長が白い息を吐きながら、部屋の真んなかに立つ晶良に訊ねた。

「見ててください、社長さん」

 晶良の指差すさきにはなにもない壁があった。

 ドアからはいってすぐ近くには俺が立ってる。俺の右肩から社長が部屋のなかを覗いている気配を感じた。

 社長は、左側の壁沿いに置かれた一升瓶と火のついた線香を立てた線香立て、水のはいったコップや平皿に盛った塩、それと榊を順番に眺めた。しかし、それ以外に気になるようなものはなにも見当たらない。

「変わったことはないように思えるがなぁ、なぁ、諏訪君」

 社長に話しかけられ、俺は左側の壁を見て、

「そうですね……」

 と答えた。たしかに神棚みたいになってるだけでなにもない。

「気が散じてしまいます。お二人とも静かにしてください」

 晶良の斜め後ろで、こそこそと話していたけど、首をすくめて俺も社長も黙った。

 照明の落ちた暗い部屋。息が白くなるほど室温は低い。フローリングの部屋は七畳の寝室。ドアを開けると、向かってやや左寄りに出窓がついてる。日焼け防止のカーテンは完全に締め切られてる。備え付けの出窓両脇にある壁収納以外に家具は一切ない。右手にはクローゼットの扉があり、俺は左側へ視線を向けた。

 ここは都心のマンションの一室。部屋数は寝室も含めて四部屋。

 俺たちがいる部屋は、間取りでいえば全体の右側に位置する。風呂場やトイレへと並べて作られてるから、湿気が多いのかもしれない。

 ダイニングとキッチンは全体の左側に位置してる。二十畳のリビングが南西向きに作られ、玄関やふろ場は北東を向いてる。

 壁紙も床も全てが真新しい。最近大々的な改装をおこなったんだろう。

 心もとなげに俺は、だいたい頭一つ半、背の低い少女の左側頭部を心配になって見つめた。

 晶良の華奢な肩、そでの布越しからうかがえる細い白い腕。少し栗色の混じる長い黒髪は艶やかに肩に掛かっている。ほっそりとした四肢がその華奢な体を支えてる。

 随分か弱そうに見える彼女が先頭に立ち、一升瓶の直置きされた左手奥の部屋の隅に顔を向けてる。まるで背後に控える俺たちを少女が守っているように俺には感じられる。

 俺の半そでから出た腕に鳥肌が立つほど室内は寒い。

 べたべたと肌にまとわりつく湿気を含んだ蒸し暑い外気は、マンションの一室にはいった瞬間、冷気に変わった。

 クーラーが効きすぎてると思ったくらいだ。それでも家庭用のクーラーでいくら部屋を冷やしても、息が白くなることなんてないはずだ!

 その冷気以外に俺が疑問に思うことがあった。

 それは鼻をつく異臭。獣の臭いだ。

めちゃくちゃに臭い!

雨にさらして放って置いたぞうきんや濡れた犬みたいな獣臭が部屋中に漂ってる。

 けど、ここに来た最初にフロアを案内されたとき、動物や動物の糞の類いはひとつもなかった。

 ほかにもこの部屋に関して気になることがあった。俺は息をひそめて耳を澄ませた。

 晶良に注意されて喋るのをやめたため、部屋は静まり返ってる。

 今は社長の緊張した息遣いと、晶良の深い呼吸音と衣擦れだけが聞こえてくる。

 それらの音を自分の高鳴る鼓動と一緒に聞いてた。

 それ以外に耳にはいってくるのは、不意に始まった建材のきしむ音だ。ほかにも細い木の枝かなにかが折れる音が先ほどから部屋に鳴り響いてる。

 ピシッ パシンッ

 音が鳴るたびに晶良の肩がぴくりと緊張するのを見て、やっぱりなにか関係があるんだろうかと思い直した。なにかが起ころうとしているのは分かる。けど、それがなにか分からないから、俺は冷静でいられた。

 俺は薄暗い部屋の中に立ってる晶良を観察した。

 目には見えない張り詰めた空気が晶良から漂ってくる。俺よりもひと回り華奢な彼女が、実は思ってるほど小さくないんじゃないかって思わせる威圧感を発している。

 この部屋にはいるまえに簡単に自己紹介をすませた俺たちは、晶良から注意を受けていた。

「結界を張りますからそこから出ないように。万が一なにかあっても、お二人の安全はぼくの式神が守りますが、保証できないので、必ず守ってくださいね」

 俺は、今から晶良が部屋の清掃をするとしか聞かされてなかった。

 けど、晶良の説明を聞いて確信したんだ。

 心霊的な瑕疵物件のお祓いを晶良はおこなうんだ。

 一体どんなお祓いをするのかぜんぜん分からないけど、お経を唱えるくらいだろうと、俺は勝手に思い込んでた。

 だから、いま自分が置かれてる状況に対して、妙に人ごとのように冷静でいられた。

 俺が見てるまえで、線香の煙が鎌首をもたげるように晶良に向かって行き、その体にぶつかる直前で霧散してく。

 煙が室内をゆるゆると這いずり回るさまは蛇のようでもあり、触手のようでもある。

 まるで生きてるように見えて薄気味が悪かった。

「始まりますよ」

 晶良の低い声が聞こえた。

 社長が身構えるように体を固くし、俺の右側に体を寄せてくる。

 俺は顔をしかめた。社長に対してじゃない。強烈な臭いに、だ。

 悪臭がきつくなっている。今では獣臭じゃなくて、魚や肉が腐った悪臭が部屋中に満ちている。

 冷気は鳥肌が立つのを通り越して、肌に痛いほどだった。空気に含まれる水分が、みな凍りつくかと思えるくらいだ。

 気味が悪くなるほど部屋の暗さが増した。

 日焼け防止のカーテンの隙間から、微かな太陽光が射しているにもかかわらず、まるで透明な遮光の膜が部屋の周囲に張り巡らされているようだった。

 俺は晶良の見つめる先に目をやった。

 なにか固いものが倒れる音がした。

 俺の左の壁に沿うように置かれていた一升瓶が傾いて倒れたのだ。一升瓶の周りでわだかまった闇がもぞもぞと蠢いている。そこは最初に晶良が指さした場所だった。

 俺は良く見てみようと目を凝らした。

 フローリングの床に黒い染みがどんどん広がっていった。

 けど、それは液体による染みじゃない。一升瓶は割れてなくて、水がはいったコップも倒れてない。

 次の瞬間、一升瓶がその黒い染みのなかに吸い込まれた。そこには染みじゃなくて、本当に穴が存在した。一升瓶は音もなく、穴のなかへ落ちていった。

 それを合図に穴から生臭い風が吹き出始めた。

 女が泣き叫ぶような高い悲鳴が、その穴から聞こえてくる。悲鳴だと思っていた音は、穴から吹き付けてくる風の音だった。

 なにが起こっているんだ!? なにが始まるってんだ!? 社長、説明してくれよ!!

 振り返ると、社長がハンカチを取り出し、異臭による吐き気を懸命に我慢してる。丸い顔が真っ青だった。ちょっと話しかけられる様子じゃない。困った…………

 あきらめて、俺は斜め前に立つ晶良の背中を見つめた。

 この異常事態のなか、背を見せる彼女だけが毅然としているように思えた。顔は全く窺うことはできないけど、なにか呪文を唱えているようだ。

 気のせいかな? 暗闇のなか、彼女の体の周りにゆらゆらとした光が見える。これってオーラとかいうものなのか?

 晶良が右手を動かし、腰に付けたポーチからなにか取り出し、宙に放った。

 俺には、それが黄色い紙に、ぐねぐねした赤い文字を書いたものに見えた。

 紙は四枚あり、だいたい縦十五センチ横八センチの大きさだった。どういうわけか、その紙は宙に浮いたまま貼り付いたみたいに動かなくなった。

 晶良が人差し指と中指を紙に向け、宙になにか紋様のようなものを描いた。その動きは鋭く、一体なにを描いたのかまったくわからない。

「はっ!」

 晶良の口から鋭い呼気音が発せられる。その瞬間、宙に浮いていた紙が、矢に射られたように物凄い勢いで部屋の四隅に散っていった。そんでもって、糊付けされたみたいに壁の四面に貼り付く。

 俺は呆気に取られてたけど、いきなりなにかが向かって放り投げられたのを感じて、とっさによけた。

 投げられたものはクローゼット側の壁にぶつかり、けたたましい音を立てて割れた。

 がしゃーーーん!!

一升瓶だった。右後ろから社長の唾を飲む音が聞こえてくる。

 瓶のかけらや中身が四方に飛び散り、驚いた俺は部屋の外へ出ようとした。

「動かないで!」

 それまで一度も背後を見てない晶良が、突然声を掛けてきた。

「今、この部屋から出たら、屍人(しびと)が飛びかかりますよ」

 それを聞いた俺はぞっとして、動かしかけた足を元に戻した。

 そのあいだにも、ますます悪臭は酷くなる。壁と床に飛び散った酒が酢のような刺激臭を放ってる。

 風穴から吹き抜けるような音は、いつの間にかうめき声に変わってた。

 気がつくと、穴の上部に灰色の女が立ってる。いや浮いているのか!? うめき声は女が発してる。首が異様に長い。

 女は懸命にその首を掻きむしってる。距離があるのにその女の細部まで手に取るようにわかる。

 女の爪は長く鋭い。その爪が伸びた首の薄皮をばりばりと引っかいてる。どす黒い血が、女の首から滴っているのがわかる。

 とうとう爪は女の首の皮を貫通し、肉と筋を引きむしった。

 びちゃびちゃと血飛沫が辺り一面に飛び散る。

 社長が「うっ」と軽くうめいた。目前の異様な光景に俺も吐き気がして戻しそうになった。

 晶良だけが眼前の凄惨な情景から目をそらさず、ぶつぶつと呪文を唱え続けてる。彼女の表情はまったくわからないけど、彼女はぜんぜん怖気づいてない!

 女は悲鳴を上げながら、ガラスを引っ掻くような耳障りな笑い声を、多重音声のように漏らしてる。その声の合間に別のうめき声も聞こえ始めた。

はおそるおそる横の穴を眺めると、ちょうどその縁に青白い指がかかるところだった。

 異常に長いささくれた爪が、ギチギチと穴の縁をつかんでる。

 濡れた雑巾を叩きつけるような音がし、次々と穴の縁に手が現れた。

 ベタッ

 その手は一様に青白く、ところどころどす黒く変色してる。

 一体なにが這い上がってきているのか、俺には想像できなかった!

 ずぶぬれのてのひらをガラスにたたきつけるような音が増え始める。

 ベタベタッ ベタッ

 無数の手が穴をよじ登ってくる。

 穴から現れる手のなかには、露出した指の骨をほかの手に突き刺しているものまであった。手なんていえない骨に筋だけを残したものも、手の群れに混じってる。

 あの手は腐っているんだ。

 俺は一瞬で分かった。

 生きている人間の手じゃない。そしたら、あの穴は普通じゃない想像を絶する場所に繋がってるんだ。

 穴の縁が手で埋め尽くされると、今度は頭が現れた。べったりと頭部に張り付いた髪はところどころ抜け落ちてる。剥がれた薄い頭皮をぶら下げている頭も見えた。

 ものすごく臭い!

 臭気がいっそう強くなってきた。肉が腐ったようなヘドロが混じった強烈な悪臭がする!

 穴から這い出てきたやつらは、みんな異常な姿だった。皮膚が崩れ落ち、肉が溶け、腐肉を垂らしている。皮膚が青黒く膨れているやつもいれば、赤くふやけ皮膚のところどころが破れて、体液が流れ出ているやつまでいる。

 とても見てられない。

「なんなんだよ、あれ!?

 思わず俺は叫んでた。完全に社長は俺を盾にして隠れてる。俺は前に押し出される形で、グロテスクなものを正面から見る羽目になった。

「あれが屍人ですよ。黄泉の国のものたちです」

 穴と対峙している晶良が説明してくれた。

 屍人たちは、女が流した血だまりに這いつくばり、ぴちゃぴちゃと音を立てて舐め始めた。そんでもって、狂ったように奇声を上げ続ける女の足首をつかみ、屍人たちが女の足に次々とまとわりついてく。

 女はよりいっそう悲鳴を上げ始めた。

 一体なにをしてるのかと俺が目を凝らすと、屍人は女の足に食らいつき、肉を引き千切り貪ってる。

 宙に浮いていた体は引き摺り下ろされ、長く伸びた首はそのまま千切れた。

 女はあっという間に屍人の塊の中に埋没していった。

 悲鳴が完全に途切れると、屍人のひとりが俺たちのほうを振り向いた。

 その眼球はすでになく、まっ黒い眼窩(がんか)がぽっかり開いた顔をこちらに向け、かすかに笑ったように感じた。

 それを合図に、他の屍人たちも俺たちのほうへ這い寄り始めた。

 俺の胃の腑が恐怖に縮み上がる。体が勝手に逃げ出しそうだ。社長の様子を窺うと、とっくの昔に目を開けていること自体放棄しているのがわかった。

 けど、晶良が落ち着き払った様子で、右腕を上げ、右手の人差し指と中指を立てて、呪文を唱えながら宙になにやら文様を描いているのが見えた。「はっ」という呼気とともに屍人を指でなぎ払った。

 白い光の玉が彼女の指に灯り、それがまばゆい弾丸となって屍人の体に命中してく。

 瞬く間に屍人は跡形もなく消滅した。

 穴から這い出てきた屍人はほとんど消えてしまい、俺はやっと終わったんだと、ほっとした。

 けど、そうじゃなかった! いきなり、不気味なうなり声が突如部屋に響き、強い硫黄臭が漂い始めた。

 まるで大型の肉食獣の威嚇音のようだ。うなり声は徐々に大きくなっていく。

 声は屍人たちが這い出した同じ穴から聞こえてくる。

 聞いてるだけで背筋を凍らせるような恐ろしい唸り声だ。

 俺は緊張した面持ちで穴を凝視した。ぞっとしたまま穴から目をそらすことができなくなった。

 俺の見つめるまえで、穴から新たになにかが現れた。

 毛深い掌が穴の縁から突き出し、そのまま床めがけて叩き下ろされた。

 なにかを叩き割るような音が穴から発せられる。

 ダ、ダンッ――!

 新たな手が穴の縁をつかんでいる。先ほどの屍人の手とは、比べることもできないほど大きい。手の甲には太い毛が生え、爪はまるで肉食獣のそれだった。

 大きな破裂音とともに、もうひとつ手が縁から現れた。

 ダーンッ――!!

 うなる声も次第に大きくなっていく。

 徐々に穴から頭が突き出してくる。その頭蓋にはでかい二本の角があった。太くて歪(いびつ)なねじれた角。

 頭はぐっと突き出され、穴の大きさを無視した巨大な体が現れた。

 鬼だ。

 人の顔じゃない。獣の顔を持つ醜悪な生き物が目のまえにいた。

 鋭い乱杭歯の間から粘度の高い唾液を垂れ流し、横に広がった鼻腔から生臭い息を漏らしてる。

 その腕と首、胸板は厚い筋肉に覆われ、体中に剛毛がまばらに生えている。皮膚はまるで象かサイのように硬そうだ。

 鬼の体はずるりと穴から引きずり出され、ゆらりと晶良のまえに立った。

 鬼の頭頂部は部屋の天井にぶつかり、天板が歪んじまってる。

 鬼の全身を目の当たりにして俺は唾を飲み込んだ。

 それは人間の姿を著しくデフォルメしている。太く長い腕。天井にぶつかるほど大きな体躯だけど、腕は床に着いている。足は歪み、獣のような形をし、蹄こそないが、馬かなにかの生き物みたいだ。

 いきなり部屋に雷鳴に似た咆哮音が轟いた。ゴロゴロという唸り声と、甲高い鼓膜をつんざく鋭い音。聞いたとたんに俺は腰が抜けそうになった。

 思わず、俺の喉から悲鳴が漏れる。

 すると晶良がちらりと俺を振り向いた。

 晶良が優美な流し眼を陽仁に向け、微笑んだ。長い前髪が目元にかかってる。

 暗くてわかりにくいけど、きっとその頬も唇も桜色を帯びているだろう。

 すごく綺麗な顔だった。

「屍鬼(しき)です、大丈夫、そこから動かないでくださいね」

 俺は晶良の言葉を信じるしかない。異形のものを前にしても動じないこの少女に、自分の命を預けなくちゃいけないと覚悟した。

 屍鬼が山羊に似た瞳を晶良に向け、首を傾げている。

 その隙を狙って彼女がなにか腕を動かして、声をあげた。

「青嵐(せいらん)、警護に当たれ!」

 俺の鼻先に花の香りが漂ってきた。

 気付くと、藤色の着物を着た銀髪の女が俺の横に立ってた。

 けど、姿がゆらゆらと陽炎のように揺らめいてる。この女の人も、人じゃないんだ! その手に鉄色の扇を構えてる。扇は女の人――青嵐が動くたびに澄んだ金属音を発した。

 晶良が動いた。

 右足を出してから両足をそろえ、今度は左足を出し両足をまたそろえる。兎歩(うほ)という歩き方でゆっくりと床をすべるように進みながら、屍鬼の左手に回り始める。

 鬼はたかってくる蝿を追い払うようなしぐさで、彼女の顔めがけて腕を振った。紙一重でよけ、わずかに長い髪が乱れ散った。

 晶良が、穴から這い出した屍鬼の前をゆっくりと半円を描いて巡った。

 陽仁に顔を向けた、晶良の長めの前髪のあいだから覗く大きな瞳が真剣な色を帯びてるのがわかる。顔を屍鬼に向けたまま、すっすっと足を繰り出してる。俺には彼女の綺麗な顔が緊張に満ちてるのが分かった。たぶん、彼女が全力で屍鬼を封じる呪文を唱えてるためだ。

 今まで汗ひとつかいてなかった晶良の額からひと粒の雫が流れるのがみえた。

 まだ、息が白い。けれ、彼女の体からは蒸気がもうもうと上がりだす。どんだけ体力を消耗しているんだろう?

 上気した頬が紅色に染まって、息つく暇のない詠唱にほんの少し足並みが乱れてくる。

 その隙を突いて屍鬼が、鋭いかぎ爪を晶良の頭上に振り下ろした。さすがの彼女もここまでかと俺は思わず目をつぶった。

 突如なにかがぶつかり合う金属音が室内に響いた。

 ガキンッ――!

 続いて金属が滑る音がした。

 キュイィン――!

 俺が目を開くと、太刀を手にし、屍鬼のかぎ爪をその刃で食いとめている男が立ってた――!!

 両耳のわきで髪を丸く結い、みづらの形にした男が、晶良をかばうような態勢で屍鬼と対峙していた。

 筒袖というゆったりとした服を身に着け、足首の部分を紐でくくったはかまを穿いている。

 晶良が男になにか合図するようにうなずいて、静かに兎歩を続けだした。

 男が屍鬼の攻撃から晶良を守ると、闇に溶け込むように姿を消した。

 けど、屍鬼の目が晶良を追い、ぐぐっと歪に首を捻じった。壁に当たると晶良が踵を返し、元の半円を歩き出す。反時計回りで異形の化け物の前方を何度も繰り返し歩き続けるのを、俺は見守るしかなかった。

 両者ともお互い目をそらすことなく睨み合ってた。

 その動きがあせるくらいゆっくりに見えて、俺はてのひらの脂汗を握り締めた。

 晶良を凝視する屍鬼の右側、ちょうど俺の正面に晶良が回り込み、また踵を返す。晶良が呪文を唱えながらしずしずと足を進め続けるのを、俺は黙って眺めた。

 暗闇のなか、冷たい空気や悪臭と醜悪な屍鬼がいるせいか、ここがまるであの世みたいな雰囲気を醸している。

 屍鬼が吼える。

 けど、歩を緩めないまま、元の位置まで晶良が半周し終えた。

 今まで晶良との間合いを見てた鬼が、長い腕を大きく振って彼女をなぎ倒そうとした。

 一瞬そのか細い体が屍鬼になぎ払われたように見えた。

 けど、晶良の体が屍鬼の攻撃をひょいと何事もなく受け流した。わずかに上体をそらし、手の指は印を組んでいて、今度こそ朗々と呪文を唱えだした。

「ひふみよいむなや――」

 屍鬼の動きがわずかに鈍る。

 晶良がトンと跳ねるように退いた。

 屍鬼が反射的に晶良を追う。

 けど、なにか目に見えない壁に阻まれ、その場から動くことができないでいるみたいだ。

 もどかしげに屍鬼が凄まじい咆哮を放った。

 晶良が右手を腰にやり、ポーチからヒトガタの紙を一枚取り出した。それに素早く指をかざして九字を切ってる。

 指先で数枚の紙を挟み、屍鬼に向けて投げつけた!

 空を切り、それは一直線に屍鬼に向かって飛んでいく。屍鬼の眉間にカッと音をさせて突き刺さった。

 屍鬼が狂ったように咆哮を繰り返す。

 この圧倒的な体躯を持つ屍鬼に、薄い紙ごときが対抗できるなんて、俺には到底思えなかった。

 けど、屍鬼が額の紙に手を触れることもできず、身もだえしながら腕を振り回すのを目の当たりにしてみると、俺はこのヒトガタの紙にかなりの力が込められているんだと思えた。

 晶良が軽やかに陽仁の右横まで飛びずさった。

 次第に鬼の眉間の紙から光が漏れてくる。

 その光は交差する九本の線で構成されてる。格子状の光が徐々に屍鬼の体を覆い、包み込む。

 光の縄に束縛され、屍鬼は振りほどこうとあがいた。けど、光の拘束はますます強まり、格子を縮めながら小さくなってく。

 これ以上縮まれば巨大な体が千切れ跳んでしまうと俺が思ったとたん、目を焼くような閃光が屍鬼を中心に爆発し、収縮した。

 俺が目を開けみると、部屋から屍鬼が消えていなくなってた。

 いつの間にか俺の横に、陽炎のようにたたずんでいた青嵐も消えちまってた。

 気がつけば、室内はうっすらと明るくなってた。あれほど寒かった空気が、だんだんと暖かくなってきたのを感じた。

 床にはヒトガタの紙が散乱してる。

 隣に立つ社長が深いため息を吐いた。

 俺は身をかがめ、不思議な紙を拾おうとした。一体、どんな仕掛けがしてあるんだろう? 

けど、晶良の鋭い声に、俺は手をとめた。

「それを拾わないで! そのままこの部屋から出てください。後始末をします」

 俺は晶良の言葉にしぶしぶ従った。

 晶良が線香立てと一緒に置いていた榊の枝を手にし、それを振りながら兎歩で部屋を一周し始める。

「あれは、なにをしてるんですか」

 俺が社長に訊ねると、

「部屋を清めてるらしい」

 と説明してくれた。

 晶良が部屋を清めたあと、部屋中に散らばった紙を拾い集め、取り出した袋のなかに収めてる。

 陽仁は部屋の様子をぼんやりと眺めてた。

 あれほど暗かった室内は、カーテンの隙間から漏れる太陽光にほのかに明るくなってる。

 さっきまでの興奮はまだ冷めやらないが、気がつけば今までの冷凍室に放り込まれたような寒さが嘘のようだった。俺はうなじを伝って落ちる汗を右手で拭った。

 さっきまでの異常な事態は嘘のようだった。

 けど、クローゼットの前の床に散乱した瓶のかけらが、嘘ではないことの証拠だった。

 なにかが終わったんだということはわかった。

「彼女はなにものなんですか」

 俺はずっと聞きたくてたまらなかった言葉をやっと口にした。

 社長が目を細め、晶良の姿を見つめて言った。

「彼女は屍鬼祓師(しきはらいし)だよ、屍鬼専門の掃除屋」

 俺は目を丸くする。途中から、あの少女が単なる清掃業者じゃないとは思ってたけど、屍鬼祓師って……一体なんだ!? あの屍鬼ってやつも!?

 俺の様子を見て、社長が続けた。

「こういった、一筋縄じゃいかない瑕疵物件専門の、ね。屍鬼とかいう鬼のことはワシでもわからんのだ」

 俺が社長が経営する不動産会社に入社してたった二週間。今は試用期間中だ。そのあいだに何度かその言葉――瑕疵物件というのを耳にしたことがあった。

 瑕疵物件にもいろいろとある。

 物理的法律的な不備のための瑕疵。そして、もうひとつが心理的な瑕疵。

 心理的な瑕疵とは、事故死や自殺などで不動産価値の下がった物件のことを指す。

「たいていはリフォームし、何度か人が使用するうちにそんな瑕疵は問題がなくなる。だが、たまに何度も同じことが起こってしまうことがある。何度、人を入れても一定期間内に人が死ぬ。そんなとき、その物件は死ぬほど安くなって買い叩かれるか、二度と人に貸さないように封印される。ワシはそういった物件を買い漁って、彼女に掃除を頼むんだよ」

 社長が俺の目を見てにやりと笑った。

「どうだ、諏訪君、勉強になっただろう」

 俺は狐につままれた気がして曖昧な返事をした。

「終わりましたよ」

 にこやかに晶良が部屋から出てきた。

 晶良が社長に頭を下げ、

「社長さん、お疲れ様でした。毎回立ち会うのって大変じゃないですか。それにいつも気分悪くなるでしょう?」

 と言った。

「いや、社長たるもの、晶良さんの仕事振りは目に焼き付けておかないとね、うっかり軽んじてしまうようになるんだよ」

 掃除の最中ずっと晶良の後ろに隠れてたことなどおくびにも出さず、社長が答えた。

 陽仁は晶良を見つめた。すると、陽仁の視線に気がつき、可愛い顔をほころばせた。

「お疲れ様です」

「どうも」

 陽仁は晶良に声を掛けられ、丁寧に頭を下げた。

「暑いねぇ」

 社長が扇子を背広の上ポケットから取り出して、パタパタ扇ぎだした。

「そうですね」

 晶良が社長の言葉に同意しているが、汗ひとつかいていないのが一目でわかる。

「そんじゃあ、場所を変えるか」

 社長の一声で部屋を後にし、マンションを出て晶良の贔屓(ひいき)にしてるカフェに向かうことにした。

 

 俺は柔らかなクッションのついたソファに腰掛け、目のまえ座る晶良を眺めながら、マンションを訪れたときのことを思い出していた。

 落ち着いた雰囲気のカフェの店内にクラッシック音楽が流れてる。

 社長は無言でコーヒーを飲んでる。

 どうやら晶良がひと心地つくのを待ってるようだ。

 俺は社長が注文してくれたアイスコーヒーを飲みながら思った。

 明るい店内で人形みたいに綺麗な顔をした少女を、俺は改めて眺めた。

 白い肌はビスクドールみたいで、頬はほんのりと紅い。整いすぎるほど綺麗な顔にはシミ一つない。頬はふっくらと丸みを帯びてて、間違いなく美少女だ。

 宇治抹茶パフェを見つめるうるんだ瞳は、ややハシバミ色がかって見える。長めの髪が頬に当たり、それをかきあげる指先は白魚のように細く繊細だった。

 さっきまでの清掃で見せた姿とはかけ離れすぎて、まるで別人だった。

 年齢はたぶん俺よりだいぶ年下だろう。中学三年生になったばかりの妹の陽向(ひなた)と変わらないんじゃないかな。

 甘いものが好きなのかな? 幸せそうな笑顔を浮かべて、宇治抹茶パフェを食べてる。

「今日はお疲れ様でした。晶良さん、これは心ばかりのお礼です。受け取ってください」

 社長がテーブルの上に封筒を置き、両手を添えて差し出した。

 晶良はそれを見て、同じように両手で持ってその封筒を受け取った。すぐに眉をしかめると、一度受け取った封筒を社長のまえに押し返した。

「また、入れすぎです。こんなにもらえないです」

 どうやら謝礼が多いことに気を悪くしているようだ。

 変わってる……。普通多くもらったら嬉しいはずだよな。清掃をおこなう現場を見たが、きっとそれに見合う報酬が、封筒のなかにははいっているはずだよ。

 けど、何度か押し問答を続けて、最終的に晶良は封筒を受け取った。彼女は両手で封筒を胸のまえに持って、複雑そうな顔をしている。

「ところで、晶良さん、これからは掃除のときに諏訪君もちょくちょく見学に来ると思うから」

 晶良は社長の話を笑顔で聞いてる。最初の印象と違い、幾分天然がはいってそうなおっとりとした雰囲気だ。

「よろしくお願いしますね、陽仁さん」

 晶良は笑顔のまま俺に向き直り、挨拶した。思わず俺も浅く頭を下げていた。

 社長はさっきまでの緊張した様子とは打って変わって世間話をし始めた。

「あー、これであのマンションを極上の値で貸せるというわけだ! ほんと、助かったよ。いやね、それまでは目をつけていてもすぐ手放すことになるなら、あまり意味がないと思ってたんだよ。晶良さんのお姉さまにはいくら感謝しても、し足りないくらいだよ」

 そして、丸い顔をほころばせて豪快に笑った。

「そうそう、諏訪君。晶良さんはね、マンションのオーナーでもあるんだよ。どこか君の希望に合うとこがないか聞いてみたらどうだね」

「え? 中学生なのに!?

 俺が驚いて声を上げると、晶良が頬を膨らませた。

「ぼく、中学生じゃありません! 二十歳です!」

 さらに驚いてる俺を尻目に、話が勝手に進んでいく。そこ、スルーするところか!?

「さぁ、希望の物件を聞いてみたらどうだね」

 社長と晶良の目が陽仁に集まる。こう見つめられた状況で、「二DK三万円」と言うのは居心地が悪い。言うか言うまいかで黙っていたら、社長が余計なことを言い出した。

「こいつね、なかなか安い物件が見つからないもんで、妹と二人で一週間もネットカフェ暮らしなんだよ」

 俺は社長の言葉にばつが悪くなった。そんなこと言わなくってもいいのに!

 晶良はきょとんとして、

「へぇ、ネットカフェってどこのホテルなんですか」

 と、真顔で聞いてくる。

 俺がなんと説明しようかと考えあぐねていたら、社長があいだにはいって説明した。

「インターネットやら漫画なんかが、二十四時間利用したり読んだりできる喫茶店みたいなものだよ」

「そうなんですね。最近はそんなところで生活できるんですね」

 晶良が感心したようにずれた感想を口にした。

「今で言う、ネットカフェ難民でしょうなぁ」

「あ、それ知ってますよ。住居を持たないひととか、リストラされたひとがなるってニュースで見ました」

「なんとなく違うが、そんなもんですな」

 二人はまったりとした雰囲気で、俺を肴に笑い合ってやがる。

 晶良が笑顔で俺を見た。

「じゃあ、諏訪さん、良かったらぼくのとこに来てはいかがですか。妹さんとご一緒に」

 その申し出は唐突だった。

「え?」

「困ってるなら、構いませんよ」

 世間話の延長線上のノリで、あっさりと言われた。

「え、でも」

「ほほお、そりゃいいじゃないか! 諏訪君、運がいいな」

 社長はひとごとだと思って、無責任に笑ってやがる。確かにありがたい申し出なんだけど、社交辞令じゃないだろうな? 俺は疑いの目を晶良に向けた。

「あ、住所と電話番号がいりますね」

 晶良は皮製のウエストポーチから、紙と鉛筆を取り出し、なにやら書きつけた。そして、「はい」とその紙を俺に手渡した。

 この好意に乗っかっていいんだろうか…………? 俺は複雑な気持ちで紙を見た。

「社長さん、アイスティー頼んでいいですか?」

「いいよいいよ、あ、キミィ」

 社長と晶良の声が、俺の意識からフェードアウトしていく。

 両手で持った紙に書いてある住所と電話番号を目を落とす。

 妹にはなんて説明しよう。いきなりルームシェアだと言ったら驚くかな。それより晶良の家族はどう思うだろう。これを信じていいんだろうか…………!?

 俺の胸のなかで、言葉にし尽くせない心配事が渦を巻くのだ