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屍鬼祓師 エピソード0.5/晶良と青嵐、朱鸛の出会い編

晶良と青嵐朱鸛の出会い編

 アルコールの臭い。糊付けされアイロンをかけた純白のシーツ、洗い立ての無地の掛け布団。白い壁、白いリノリウムの床。窓を覆う生成りのカーテン。橙色の日差しがカーテンの隙間から長い光の柱を作り、白い床と掛け布団の上にかかってる。

 掛け布団の上に僕は手をかけてて、熱に浮かされ火照った頬はきっとりんごのように真っ赤だろう。

 僕――晶良(あきら)はあのころ、小等部の一学年に上がったばかり。小さい頃の僕は、すごく体の弱い子供だったんだ。たび重なる高熱を心配してくれた珊瑚(さんご)叔母さまが、分家の佐伯が経営する千葉の病院へ僕を療養に送り出した。入院中、僕は頑固に大人の目を盗んで横臥での観想を続けてた。観想とは心を集中し念を具象化する力であり、思念を肉体より離してひとが感知できない大きな力の一部になることなんだ。これを行うと、精神力をかなり消耗することになるから、なかなか熱が下がらなくて、一週間もここに閉じ込められているというわけ。

「退屈……」

 僕はつぶやいた。従兄弟や姉さんたちは学業と修行のために見舞いに来ない。ましてや師匠のお父さんは手紙の一つもよこさない。周りにいるのは分家である佐伯の人間だけで、話し相手にもなってくれなかった。

 サイドテーブルに置かれた本も読み飽きてしまった。熱を出したときにいつもつけているテレビの電源も今は切っている。

 僕は世話係の人間がいなくなるのを見計らうと、観想を行うために目をつぶった。観想の修業をし始めた時、目をつぶるだけでは意識を集中できなかった。いろいろなものが現れるためにそちらに気を取られ、よく師匠のお父さんに叱られた。今はそんなこともなくて、すぐに僕の意識体は肉体を抜け出した。本当ならここから意識を無限に広げ、神意と同化することを目指すんだけど、今はそこまでするとまた高熱が出てしまう。それに、僕はまだ神意を得たことがないし、観想のコツを忘れない程度で良かった。

 僕の思念が病室内に浮かぶ。意識体だから、寒気とだるさを全く感じなかった。そのまま窓をすり抜け、外へ飛び出した。肉体という錘がない分、全身が軽く説明できないような開放感がある。秋空は晴れ渡り、うろこ雲が視界いっぱいに広がっている。足元の樹木は赤く染まり、眼下の山々へと紅葉の原っぱが続いている。

 僕は意識体となって外界を散歩するのが好きだった。いつもならば見上げるように大きな木々や山々が、おもちゃのように小さく感じられるから。鳥ととも空を滑空する面白さは格別だった。どんどん高みに登っていくと、さらに地上の全景が明らかになっていく。佐伯の病院の建つ丘からは玉前(たまさき)神社が望める。僕の一族と同じ名前の町を僕は上空から眺めた。玉前神社を中央に、三時の方向に九十九里浜も見える。この辺りは千葉のパワースポットとしても有名なんだ。

 意識体になるとはっきりとそのパワーの源である龍脈の発する力を感じる。神気は玉前神社とは反対の方向、病院の背後にそびえる小高い山から発せられている。僕は感覚をさらに研ぎ澄まし、神気をより強く感じる方向へと飛翔した。

 

 

 山の上空は研ぎ澄まされた神気に満ちていた。意識体の僕にはそれらが金色(こんじき)のオーロラに感じられる。けれど、その色彩の中に一点どす黒い濁った気を見つけた。それは金色の光の中で泥の飛沫のように目立った。清浄な空気の中で穢(けが)れた気が存在できることが不思議だった。考えられるのは神霊が荒御魂(あらみたま)になりかけている、または穢れを帯びてしまった神霊が浄化されている最中かもしれない。

 僕は一度も神霊というものを実際に目にしたことがなかった。好奇心に勝てなくて、錐もみしながら滑空していった。周囲を飛び交う鳥たちも一緒に下降していく。山のこずえが目の前に迫った時、鳥たちは散開していき、僕だけが樹木の隙間から漏れだす穢れの源へ向かった。樹木の間に立つと、それまでの開放的な空間は一挙に閉鎖されたものに変わった。押し迫るような樹木の枝が屋根となり、開けた空を覆い隠している。辺りは土と木々の気配と匂いに満ち、空気にはしっとりと水気が含まれている。意識体に体重はないけれど、土を踏みしだく感触が今にも足元から伝わってきそうだ。僕は穢れを帯びた神気をたどり、徐々に山の奥へと分け入った。

 それまで所狭しと藪が左右にひしめいたはずなのに、いきなりぽっかりと空間が開けた。実際に存在する空間ではなさそうだ。木漏れ日の色から、周囲を照らす陽光の強さが、それまでいた山の中とはまるで違っていた。

 僕が入り込んだ空間は西日が差し、樹木の枝がさえぎる屋根はなかった。木々の梢から垣間見える空は血のように真っ赤だった。僕が病院で憶えている日の光はまだ橙色だった。朱色に変わるほど長い時間意識体でいた記憶はなかった。

 不思議な思いで僕は空を眺めていた。

「誰じゃ」

 ふいに女の人の声がした。僕は声のしたほうを見た。僕ほどの大きさの岩があり、その上に白い狐がいる。しかし、女の人は見当たらない。きょろきょろと視線をさまよわせて女の人を探した。

「誰じゃと聞いておる」

 またしても女の人の声がし、その声は狐が発していた。僕は眼を見開いて狐を見つめた。見ると狐の白い毛皮は赤く穢れていた。痛みに臥しているのか、それともそういう色の毛皮なのか。遠目からは分からない。もっとよく見てみようと近づいた。

「わらし、近寄るでないぞ」

 狐が低い声音で言った。警戒した様子で険しい目を僕に向けている。僕は首をかしげた。

「けがをしてるの?」

 僕はさらに近づいて言った。

「そこで何してるの?」

 あと数歩のところまで狐に近づいて、やっと悟った。白い毛皮を汚しているのは穢れだった。強い神気を発しているのは狐自身だったのだ。でも、なんでこの獣が穢れを帯びているのかが分からなかった。赤い穢れは毛皮の上で小蟲(こむし)のようにぞろりと蠢き、ますます白い毛皮に広がっていく。その赤い穢れからはおどろおどろしい怒りや憎しみが小蝿のように湧いて出て目に見えない雲霞となって辺りに散らばっている。

 僕は少し怖くなったけど、目の前にいる白い狐があまりにも綺麗なのが気になって、勇気を出してさらに近づいた。

 とたんに、今まで体を丸め尾を体に巻いていた狐が牙をむき出し威嚇した。僕の目の前で、牙の並ぶあぎとが真っ赤な火炎を吐きながら、狐が地を轟かせるような怒号を吐いた。

「いね! いなねば、食らうぞ!」

 僕は怒りの大音響に首をすくめたが、足を止めずにそのまま狐の前にひざまずいた。それまで激しく威嚇していた狐が、動じない僕に驚いたのか、威嚇するあぎとを閉じた。僕には狐の威嚇がそれほど怖くなかった。なぜかしら、前に怪我をした狸を裏山で手当てしたことを思い出したんだ。精一杯考えて、この狐は怪我をして怖い思いをしているのかもしれないと思った。どうすれば怪我をいやせるのかわからなかったけど、僕は狐の赤く穢れた胸元にそっと手を添え、「よくなれ」と念じた。

 どのくらいの時間が過ぎただろうか――。僕は自分の意識体が揺らめき、消えかかっているのに気付いた。恐ろしく疲れていた。それまではっきりと感触のあった周囲の感覚が著しく損なわれ、夢うつつの状態に近くなっていた。狐の胸元を見ると赤かった穢れはきれいになくなり、美しい白い毛並みは元に戻っていた。僕はほっと溜息をつくとそのまま意識を失い、自分の肉体に戻ってしまった。

 

 

 気が付くと、僕は病院のベッドの中にいた。力を使ってしまったんだと気がついた。熱特有の浮遊感が全身を支配している。また入院が長引くと少しガッカリした。これでまた修行や勉強に従兄弟たちと差が付くんだろうなと考えると、さらに落ち込んだ。

 病室のカーテンから差し込む日差しは観想を始めた時と変わりなかった。火照った頬に病室の空気が冷たく感じられ、僕は布団を鼻のあたりまで引き上げた。目をつぶると、先ほど観想中に出会った白い狐の姿が浮かび上がる。

「きれいだったな」

 僕はこそばゆく思ってニコニコしたまま、今度は眠るために意識を閉じた。

 

 

「これ、わらし」

 澄んだ女の声がする。優しいような慈しむような、柔らかな声音。

 僕はうっすらと目を開いた。辺りは真っ暗だった。でも、傍に人の気配を感じる。分家の世話係の女の人がいるのかな、と気配のするほうを目を凝らして見た。

 ぼんやりとした輪郭が徐々に浮き上がって見えだした。女の人は着物を着ていた。僕が見たこともないような着物だった。薄暗がりの中、女の人の白い顔だけがぼんやりと浮き上がって見える。しかし、顔の造作までは分からない。きっときれいな女の人だろう、と勝手に思い込んだ。

 嗅いだこともないいい香りがする。一族の一番偉い翁の部屋で嗅いだ、白檀とかいう香りに似ていた。

 どこからか照らされる青い灯火に、少しずつ女の人の姿が見えてくる。着物の柄は藤色で、花の模様だった。わずかな青い明かりだけで、不思議なほど花を縁取る金糸の綺羅が映えている。女の銀髪の一本一本が硬質な光沢をもって肩と胸の上に流れ落ちている。僕を見つめる女の人の眼差しまではっきりと見ることができた。

 やっぱり女の人はすごく綺麗だった。黒目がちのきつい目元にはほんのりと朱がかかっている。すっと通った鼻筋、桃色のふっくらとした肉厚でいて小さな唇。丸みを帯びた頬、秀でた額。そして頭の上には真っ白い獣の耳が二つ突き出している。

 僕は時間がたつにつれ、この着物の女の人が人間じゃないことに気付いた。それにどう考えても作り物の耳がピクリピクリと動くはずがないよね。何となく楽しく感じ、女の人に向かって微笑んだ。

「わらしよ、目覚めたか」

「うん、あなた、だぁれ?」

「わらわは青嵐(せいらん)。おのしが見たあの狐じゃ。礼を言いに参ったのじゃ」

「お礼…………?」

 僕は青嵐さんを見つめ、実感のない声で呟いた。

「うむ、おのしがわらわの穢れを払拭してくれたおかげで、わらわは荒御魂とならずに済んだ。荒御魂とならば、わらわは神界に戻る手立てをなくすところじゃった」

「そう、よかったねぇ、青嵐さん」

 僕が笑うと、青嵐さんも目を細めた。

「わらわが再び神界に戻るためには再び徳を積まねばならぬ。そこでじゃ、徳を積むためにおのしの手助けをしてやろうと思う」

「僕の手助け?」

「そうじゃ、おのしの力は己の命を削る。おのしが力を使わずに済むように、わらわが代わりに働いてやろう」

「僕とお友達になってくれるの?」

 すると、青嵐さんがさもおもしろそうに声を上げてころころと笑った。

「友か、友でもよいぞ。愉快な主さまじゃ」

 青嵐さんが衣擦れの音もたてず、すっと僕に近寄り、白い指先を頬に当てた。ひんやりとした空気が僕の頬に当たる。

「まずは主さまの熱を吸い取って進ぜよう」

 青嵐さんの実体のない手はひとひらの雪のように冷たかった。火照った額に気持ち良く、僕が眼をつぶると、軽い寝息を立てて寝てしまった。

 それ以来、僕が青嵐さんを呼べば、すぐに青嵐さんはが現れてくれるようになったんだ。

 

 

 神霊である青嵐を式神にすることができた経緯を聞いた一宮のおとなの人たちは、「あり得ない」って口々に驚いた。六歳という歳で式神を従えたという記録がないらしいんだ。しかも、ただの式神ではないんだって。神格が神に等しい神霊なんだってさ。

 僕はおとなの人たちに褒められるのが素直にうれしかったんだぁ。でも、その反動か、青嵐を式神に従えた後も寝込むことが続いちゃったんだ。佐伯の病院から退院してたった三か月経たないくらいで、また療養ってことになった。同じ病院に何度も入院するのは退屈だろうと、僕は長野にある菩提寺である仙蓬寺に送られたんだ。

 仙蓬寺には分家の者が僧侶として終日詰めていて、僕の世話を安心して任せることができたんだ。

 珊瑚叔母さまの運転する車の後部座席に横になって、僕は車窓を流れる景色を眺めた。

「伯母さま、僕、いつになったら体が丈夫になるの?」

 その願いは僕にとってすごく叶って欲しいことだった。

「そうね、きっといつか熱が出たりしなくなる時が来ると思いますよ。いまはいい子にして、力を使ったりしないようにしましょうね」

 他のおとなの人たちと同じようなことを珊瑚叔母さまも口にした。僕にしてみれば、大事な質問をいい加減な言葉ではぐらかされているように感じてしまう。

 式神のことにしても、一番にお父さんに褒めて貰いたかったから。でも、お父さんは僕を見てどことなく悲しい目をし、ため息を吐くだけだった。体が弱いからお父さんに褒めてもらえない。そんな思いがいつもあったんだ。

 小さい頃、お母さんが死んじゃった僕に、珊瑚叔母さまがいろいろ優しくしてくれたけど、僕はもう珊瑚叔母さまのことをお母さんだって勘違いする歳じゃなくなってた。だから、素直に甘えることもできないし……。僕は本革のシートに顔を埋めて、無性にこみ上げてくる寂しさを我慢した。

 心の中で青嵐に呼び掛ける。すると、僕にだけ聞こえる心話で優しい声音が返事をしてくれた。

「いかが致した、主さま」

「ねぇ、青嵐、僕はきっと丈夫になる?」

 軽やかな笑いが聞こえる。

「それは無理じゃ、主さまは己の生気を皆に分け与えておるもの」

「どういうこと?」

「主さまが特別なことをするたびに、主さまは命の力をわらわだけでなく、周囲の生き物にまで与えられる。主さまはそのせいで命を危うくされておるもの。わらわとしては無意識に力を使わぬようにして差し上げたいがの」

 他のものに力を分け与えることのどこがいけないのかわからなくて、僕は訊ねた。

「それはいけないことなの?」

 それを聞いて青嵐が呆れたような声を上げた。

「あたりまえじゃ。そうなれば、主さまはいずれ早うに死んでしまう。わらわの徳も積み損なうではないか」

「青嵐は自分の徳のほうが大事なの」

 僕はすねて頬を膨らませた。目をつぶると、瞼の裏に青嵐の姿が見える。見た目よりも年経た白狐が、ふふと面白そうに笑った。

「やきもちかえ。主さまはかわゆらしいの。そうならぬように致すのがわらわの仕事じゃ。なんでも言いつけておくれ」

 車の揺れは程よく気持ちいい。次第に眠気に襲われて、いつのまにか、僕は眠ってしまった。

 

 

 珊瑚叔母さまに揺り動かされ、僕は目覚めた。頼りない車内灯だけが点っている。僕が瞳をめぐらせて車窓の外を眺めると、漆黒とも濃い紺ともつかない闇が辺りに忍び寄ってきている。

「伯母さま、いま、何時?」

 日の高いうちに屋敷を出たにもかかわらず、思いもよらず夜が差し迫っていて、僕は驚いて訊ねた。

「まだ、五時よ。山奥だから日が沈むのが早いのでしょうね」

 けど、僕にはそれだけとは思えない静けさと闇を感じていた。小さかったせいか、その思いを上手く言葉にすることができなかったんだ。

「そうなのかなぁ……」

 僕の不安げな言葉に、珊瑚叔母さまが安心させるように笑いかけた。

「心配することはないですよ、ここは一宮の敷地です。恐ろしいものや危ないものは寄せ付けないようになっていますからね」

 確かにそうなんだ。佐伯の病院の周囲が聖域と同じパワースポットであるように、この長野の菩提寺が位置する場所も強力な力が波及させるパワースポットなんだ。一宮一族の人は代々、自然が力を生み出す地に住みついて、その力を蓄え、地域一帯の力の源を守ってきたんだ。先祖代々からの積み重ねたもののゆるぎなさを珊瑚叔母さまが説明しても、僕にはそれが理解できず、不安そうに瞳を風に揺れる黒々としたこずえへ向けるしかなかった。

 

 

 仙蓬寺(せんほうじ)の奥殿にある客間にふかふかの羽根布団が用意され、早速僕は寝かしつけられた。

 まったく眠くないと言うと、二、三人の男の人たちがテレビを持ってきて、僕の布団の見やすい位置に設置していった。

 イチイの一枚板で作られたテーブルに、僕の好物と珊瑚叔母さまの食事が並べられている。お寺だからなのか懐石料理風に整えられている。僕は肉類が苦手だから、生麩包みのとり団子や豆腐などが中心に野菜の煮付けや餡かけが湯気を立てている。

「食欲はありますか、晶良?」

 いつまでも続く熱のためにだるい体を起こして、僕は座イスに腰掛けた。空腹よりものどの渇きのほうが強かった。用意された湯ざましを飲みながら、今はいい、と首を振った。「ゆっくり休みなさい」という言葉を残し、珊瑚叔母さまは屋敷に戻ってしまった。

 慣れない場所に一人残された僕は布団に潜り込み、掛け布団を顎までかぶって天井を眺めた。場所が変わっただけでいつもと変わりない孤独な時間だった。発熱で疲れた僕は、次第に眠りの淵に沈んでいった。

 

 

 僕がふと眼を覚ますと、部屋は一瞬だけ真っ暗闇に包まれたが、目が慣れると次第にぼんやりと白々とした天井が見え始めた。

 柔らかな羽根布団は僕の熱を吸い、ほんのりと温かい。反対に布団から出ている頬はひんやりと冷たかった。中庭に面した縁側の締め切った障子に目をやった。耳を澄ますと、庭木に雨粒が降り注ぐ絶え間ない音が聞こえてくる。

 氷枕の氷はすでに解け、ぶよぶよとした感触が気持ち悪く、僕は枕をはずした。

 布団の外に両手を出すと、外気が凍えるように冷たく感じる。パジャマが汗に湿っていて外気が布団の中に入り込んだ途端、ぞくぞくと寒気が全身を走った。

「寒い」

 闇に慣れた目に、吐いた息が白く映る。僕はあわてて冬籠りするリスのように布団の中に避難した。頭までかぶった布団の隙間から外をうかがい、今は何時か考える。時計のない部屋だったから時間の感覚がなくなっていた。

 目が覚めて動き始めると、次第に今まで感じていなかった空腹が急に差し迫ったことのように思えた。意を決して布団にくるまったまま、イチイのテーブルをみる。寝ている間にテーブルは片付けられたようだった。期待が裏切られて僕はがっかりした。

「おなか空いたぁ……」

 また布団をかぶって横になった。羽根布団をかぶったままこの奥殿を探検しようか、迷った。けど、布団の隙間から忍び込む冷気に心がくじける。横になったままどうしようかとグーグー鳴るお腹を抱えて悩んでいたけど、ふと思いついて青嵐を呼んでみた。

「なんじゃ」

 美しい白狐はいつもの人の姿でいつの間にか僕の枕元に坐していた。僕は布団の隙間から目玉だけをのぞかせて、青嵐に言った。

「食べるものを持ってくることはできる?」

 青嵐が目を大きくして僕を見つめた後、困ったように笑った。

「それは無理じゃ。食べ物のある場所は探せるが、主さまが自分で持ってくることじゃ」

 それを聞いて僕はガッカリした。仕方がないから、僕は羽根布団を頭からかぶったまま立ち上がると、青嵐に食べ物のあるところまで案内してもらうことにした。

 障子をあけて縁側に出ると、ガラス戸の向こうに冬冷えする中庭が眺めることができた。銀色の雨粒が礫のように空から落ちては、庭木の葉の上ではじけ飛んでいる。闇の中で雨に濡れた葉の表が時折ギラギラと照りかえる。一瞬閃光がきらめき、闇に戻った後、太鼓を轟かせるような雷鳴が聞こえてくる。

 僕が窓から空を眺めると、おどろおどろしい雲の裂け目を稲光が走るのが垣間見えた。いやな空だ、と僕は思った。隣りに青嵐も並び、空を見上げてつぶやいた。

「これは怪しい雲行きじゃ、どこかの神が猛っておるの」

 僕は不思議に想い、青嵐を見上げた。

「神の憤りの雷雲じゃ。はて、なにがあったやら」

「わかるの?」

「調べてこぬ限りはわからぬ」

 僕はまたぼんやりと空を見上げた。

 なぜ、神は怒っているのか。何が神を怒らせたのか。まるで、青嵐を見つけた時のように、その神のことが気になった。

「ねぇ、その神さまのこと、調べてこられる?」

 すると、青嵐が驚いて言った。

「やっぱり主さまは変わったわらしじゃ。食べ物はどうするのじゃ」

「僕ひとりで探す。青嵐はその神さまのことがわかったら教えてくれる?」

「よかろう、主さまの仰せの通りにいたそうか」

 そう言って、青嵐の姿がかき消えた。

 またも鋭い閃光が中庭を突き抜け、縁側に差し込む。銀色に照る葉や雨粒がまるで雪に見える。

 凍りついたように冷たい板を足の裏に感じながら、ぺたぺたとはだしのまま僕は暗い奥殿の中を進んでいった。

 

 

 何部屋も覗いてみて、ようやく僕はダイニングのような場所を見つけた。その周辺の部屋を探って冷蔵庫を見つけると、ゆっくりと冷蔵庫の扉を開けてみた。

 暗い部屋の中に暖かな黄色い光が照らす。暗闇に慣れた瞳に冷蔵庫のライトがまぶしい。目をしばたたかせながら、僕は薄眼をあけて、冷蔵庫の中を物色した。外気より寒い冷気が僕の顔を直撃してくるけど、空腹のほうが我慢できなかった。

 大きな冷蔵庫には珊瑚叔母さまと僕の食事が手つかずのまま仕舞ってあったから、すごく嬉しかった。僕は慎重に自分の食べたいものだけを冷蔵庫から取り出す。それを隣室のダイニングのテーブルに運んで、今度は箸を探したけど、見つからなかった。仕方なくて、布団を肩から羽織ったまんま椅子にすわると、食器にかぶせているラップをはがして手づかみで冷えた食べ物を口にした。空腹のためか、冷え切った食事でも満足することができたが、体は食べる前よりも寒くなった。汚れた手を炊事場で洗ったときは飛び上るほど冷たい水に驚いた。

 満腹にはなったが、今度は寒さに頭痛がし始めた。また熱が出始めそうな予感がして、僕は寒さに体を縮こまらせて掛け布団をかき寄せた。重たい足取りで廊下を歩き、部屋に戻る。

 縁側の窓の外は先ほどよりも激しい雨に見舞われていた。銀色の粒はもはや銀色の糸となり、まるで白く輝く鉄線を思わせた。空を覆う不穏な稲光は絶え間なく、雨音はさらに激しくなっていく。

 神さまの怒りや憤りはおさまることがないんだと、僕は感じた。

 また布団に入り、冷え切った体を温めようと体を両手でさする。頭の両脇を強く締め上げるような頭痛はますますひどくなっていく。意識していないと、歯の根が合わずカチカチと奥歯が鳴る。寒い奥殿をうろついたことを後悔した。

 布団の中に丸まって頭痛と寒さに耐えながら高熱に唸っていると、ふんわりと白檀の香りが漂ってきた。青嵐が戻ったことに気付いて、僕は心なしかほっとした。

 布団を抜けて青嵐の手が晶良の体をなでさすってくれる。

「主さま、すごい熱じゃ」

 青嵐の優しい手で背中をなでられていると、体が幾分楽になった気がした。声も出せずにいると、青嵐が調べてきたことを語り始めた。

「どうやら籠っておった磐座(いわくら)が割れて、中におった神が昇天もできず、行き場を失っておるようじゃった」

 僕にはそれがどんなことなのか、思いつかなかった。

「神界へ至る道ができる前に己の住処を失ったわけじゃな」

 自分の家がなくなってしまったのかと、僕は可哀想に思った。

「かわいそう」

 思わず僕はつぶやいた。

「もう元の場所に戻れないの?」

 青嵐が僕の背をなでながら言った。

「そうじゃ、あのまま野に放たれ、荒ぶる神に変じるか、もっと大きな神気に吸収されて消えてしまうか。それまではああして荒れ狂ったままじゃ」

 僕はじっと丸まったまま、家を無くしたままでさまよっている自分を想像した。そんなふうに考えてると言葉にできないくらい不安になってくる。お母さんがいない僕を珊瑚叔母さまが引き取って育ててくれたように、その神さまもだれかの家に入れないかって考えた。それを青嵐に告げた。

「無理じゃ」

 青嵐がそっけなく答え、神とは人の子供のように他の神の世話になることなどない、と付け加えた。

「どうすればいいのかな」

 僕はその神に同情してつぶやいた。

「主さまはどうしてもあの神を救ってやりたいのか」

「うん」

 僕は布団越しに青嵐のため息を聞いた。心配になって、僕は言った。

「呆れたの?」

「主さまは変わったわらしじゃもの、そういうとは思ったが、神と人とは違うものじゃと忘れてはならぬ」

 ついてまいれとうながされ、僕は楽になった体を仰向けに伸ばすと、すぐに観想に入った。

 

 

 意識体に寒さや雷雨の激しさは伝わってこない。それらはすべて霊体を突き抜けていく。僕が唯一感じるのは、残してきた体の感触とぬくもりだった。

 でも、視界に広がる嵐の激しさと足元の山々の不揃いな影と分厚い雲間を切り裂くように輝く稲光は、しっかりと僕の目に飛び込んでくる。肉体の目で見るわけじゃない。意識体すべてが五感を担い、僕に直接伝えてくる。

 僕は暴風雨に荒れる中、青嵐に先導され、黒々とそびえる険しい峰の上空を飛んでいたんだ。

 金切り声をあげる白い稲妻の鉤爪が暗雲を引き裂き、バリバリという凄まじい破壊音とともに、黒い雲間にひびが入る。

 それとは対照的に僕の眼下には星の静かなきらめきに似た光が点々としている。今にも消え入りそうなもの、神々しく強い光を放つものと数え切れないほどだった。その光は都会の人工的な明かりなんかじゃない。磐座や年月を経た樹木に宿る神気が、山の峰で暴れる赤い焔に似た神気に反応して輝いているんだ。赤い光はまるで稲妻によって生み出された燃え盛る炎にも思えた。赤い輝きを指差して、僕は青嵐に訊ねた。

「あれが?」

 青嵐が僕の質問にうなずいた。

 赤い焔が左右に火炎を広げ、まるで鳥のように舞い狂っている。赤い鳥が最期の力を振り絞って天へ昇ろうとあがいているようだった。

「もっと近寄れないかな?」

 僕は思ったままを口にした。あの赤い鳥のそばに行って安心させてあげたいと思った。けど、青嵐の瞳が如何するのか、と問いたげに見つめているのに気付いて、赤い炎に駆け寄りたい気持ちを僕は我慢した。

 あの赤い神をどうやって鎮めるのか、僕に具体的な案があるわけではない。単純に、青嵐が傷つき荒ぶる気配をまき散らしていたのを見つけたときのように、とっさに駆け寄って慰めたいと思っただけだった。

「主さまは運が良かっただけじゃ」

 僕の心に青嵐の静かな冷たい声が聞こえた。

「いつもわらわのようになるとは限らぬ」

 僕はそっと青嵐を見つめる。声の冷たさとは似ても似つかない優しげな視線が僕に注がれていた。

「主さまに危険が及ぶことになる」

 声の冷たさは危惧だった。僕は青嵐が心配してくれているのだとわかった。

 青嵐に出会ったときも、すごく危険だったんだ。下手をすれば、僕は青嵐が変化(へんげ)しようとする荒御魂に飲まれ、昏睡状態になってもおかしくなかった。それでも、傷ついた青嵐を癒したことで青嵐と、式神だけど、お友達になれた。

 約束された安全はない。それに僕にとって、いつもの生活すら保障されたものじゃない。持って生まれた力によって、もしかすると命すら早くに亡くすかもしれない。何もせず、何も得ず、体を壊さないように布団に横たわったまま明日を迎えたくない、と僕は強く思った。

 天へ昇ろうと翼を広げ舞い、足掻く赤い神に僕自身を重ねた。僕は青嵐の脇をすり抜け、黒々とした峰で神気を真っ赤に燃やす神のもとへ飛んで行った。

 

 

 間近で見る赤い炎は人型をしていた。黒い木々より高い上背の、朱色に燃える衣を着た大男だった。昔話の本で読んだ因幡の白兎の話に出てきた格好をしていて、男の人なのに耳の両脇で長い髪を輪に結っている。大きな男の人は頭を抱え、身もだえしている。左右の翼に見えた赤い焔は大きな男の人の神気だった。

 でも、僕の目には降りしきる雨の中、苦しんでいる神霊の姿は哀れに見えた。荒れ狂う赤い神気を持つ大きな男の人の感情は、青嵐を目にした時と同じくらい素直で直情的なものだった。

 僕がかなり近寄っても大きな男の人は気が付きもしない。そのものすごい波動に反対に僕自身が揺さぶられる。僕は勇気を出して話しかけてみた。

「どこが苦しいの?」

 しかし、何度問いかけても大きな男の人は僕に気付かず煩悶し続けている。僕は戸惑ったまま大きな男の人を見つめていた。

「主さま……」

 青嵐がいつの間にか僕の背後に寄り添っていた。

「僕の声が聞こえないみたい」

 僕は悲しそうに言った。

 青嵐がしばらく僕を見つめていたが、やがて穏やかに告げた。

「しばらくまたれよ。わらわが話をしてみるゆえ」

 青嵐の姿が消え、横殴りの雨の中に白い発行体が突然現れた。大きな男の人に匹敵するほどにでかい。光の中に白い狐が浮かんでいる。雪よりも白い毛並み、体を包むほどに豊かな尾が九本。空を駆け、白狐は大きな男の人の前に出た。

 初めて煩悶する神霊は動きを止めた。燃え盛る朱色の炎はそのままだった。どのくらい二つの神霊は対峙していただろうか……。唐突に朱色の焔は消え、辺りは白い光に照らされる。その白い光もやがて消えた。

 気づけば雨足は弱まり、雷鳴も聞こえなくなっていた。暗闇の中に僕だけが宙に浮かんでいる。

「青嵐……?」

 僕は不安になって呼び掛けた。

「ここに……」

「どうなったの?」

 青嵐が人の姿で再び現れ、僕と目線を合わせて微笑む。

「それより体に戻られよ、体力を損なう」

 僕は青嵐にうながされ、熱に浮かされる小さく不自由な体に戻った。

 

 

 夢を見ている、と僕は感じた。

 なぜなら、辺りは薄い藤色の靄がかかり、蜜柑のいい薫りがしているからだ。足を踏み出すと、砂利と石を踏む感触がする。ぼんやりと靄の中に赤い灯篭が見える。稲荷神社で目にするような形をしたものだ。

 僕は辺りを見回す。

 どちらに向かって歩けばいいかわからないけど、とにかく前に向かって進んでみた。次第に前方に何かがあるのに気づいた。目を凝らしながら近づくと、一本の朱色の火柱だった。火柱は音もなく燃え盛り、僕はすごく綺麗で見とれた。だんだんと焔は人の形を取り始めた。火柱は男の人の姿になった。この間珊瑚叔母さまが読んでくれた因幡の白ウサギというイラスト付きの昔話に出てくる、神様と同じ恰好をしている。生成りの上着、留め具や首飾りに翡翠の勾玉が使われている。帯はさまざまな色の管玉でできていて、僕の目から見ても綺麗だった。上衣と同じ生地でできたズボンは膝の下で鹿の革の紐で結ばれている。靴は鹿の毛皮でできている。

 僕は男の人の姿を物珍しげに見つめた。視線を上げ、顔を見ようとするけど、男の人の顔は不思議なほど輝いており、表情や人相を見ることはできなかった。

 いつの間にか傍には、青嵐がいつもの藤色に花模様の単衣を羽織り佇んでいる。

「主さま、お加減はいかがか?」

「うん、苦しくないよ」

「よかった」

「青嵐、この人はだぁれ?」

「主さまが心配しておられたあの神霊じゃ」

 僕は改めて男の人を見上げる。

「はじめまして、僕、晶良だよ」

 神霊は何も言わず僕を見下ろしている。僕は戸惑って青嵐を見た。

「朱鸛(しゅこう)は人と話したことがないそうじゃ。格もわらわより上じゃが、主さまに生命の力を与えたもうた神は承知しておられるようじゃ」

「僕の神さま?」

 青嵐がうなずいた。

「主さまの神はあらゆるものを凌駕した存在じゃ。そのおかげで話をすることができたようなものじゃ」

「僕の神さま……」

 僕は首をかしげた。一宮の人たちはそれぞれ自分の神を持ってる。だけど、それは他人には明かさない自分だけの秘密なんだ。僕はまだ自分の神さまを知らない。だから、まだ僕だけの神さまはいないんだと勝手に思い込んでた。

「僕の神さまってだぁれ?」

「それは教えられぬ。いずれ知れてこよう。その時まで待たれよ」

 僕は少し口をとがらせたけど、すぐに気を取り直して、朱鸛と呼ばれた男の人に言った。

「朱鸛さん、あのね、おうちがないなら、僕のところに来たらいいよ。天に還られる日まで僕といたらいいよ」

 あまりにも簡単な契約の儀式だった。僕は主従の契約が行われたことも気付かなかった。

 

 

 朱鸛さんを式神にすることで、僕は以前より寝込まなくなった。朱鸛さんが僕の肉体に融合することで、僕の体力を使わずに済むから。その代わり、僕の食欲はものすごく増した。自然に放出する生命の力と融合することで消耗する力を補うのに必要なためだって朱鸛さんに言われた。

 一宮の人達は、六歳という歳で二体の神霊を式神にしてのけた僕の力に、次第に着目するようになっていったんだ。