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  秋

 

この季節になると思い出す人物がいる。秋のメランコリーに浸るわけではないが、街路樹が風に揺れ、金色の木の葉のシャワーを降らしているのを見ると、「あんな人がいたなぁ、今、どうしているのかなぁ」などと思うのだ。もちろん、たいがいの時は忘れているし、自分の人生の中でそれほど大きなウェイトを持った存在ではないのだが、どういうわけか、決して心の片隅から出ていかない人物というのがいるのである。

 

 十二、三年ほど前のことである。定職にも就かず、博打に明け暮れる日々を送っていた私は、出会い系サイトにはまっていた。無頼を気取ってはいたものの、元来、内気な性質でナンパはおろか、キャバクラなどの夜遊びもしたことがなかった私にとって、この「出会い系」なるものの登場は、人生を変えるほどの出来事であった。私は水を得た魚になった。どういうわけか、次から次へと興味深い女性と出会い、女性というものはどんな存在か、といったことや、メロドラマから精神病的関係まで、生きた人間関係の機微というものを二十代半ばにしてようやく学ぶことができたからである。当時はサクラが少ないこともあったが、それにしても苦することなく、様々な女に出会う自分に対し、若い雀友が聞いてきたことがある。

 

「どうしてそんなに出会えるんですか? 自分はなかなかヒットしないんですが」

 

「きみは気取っているから会えないんだよ。自分を自分以上のものと見せている。どんなにうまくやっても、相手は、なぜかそういうのはわかってしまうんだよ」

 

 そんな風な知ったようなことを答えていたが、本当は、私にも理由はわからなかった。

ただ、人間は、見た目やお金よりも真実を求めていることを本能的に知っていたように思う。出会いというのは結局、そういうことなのだ。みんな生きた人間の真実と触れ合うために、もう一人の他者を求めているのだ。だから低次の欲望だけで相手を求めていた場合、その出会いは失敗に終わるか、仮に出会ってもろくでもないことにしかならないのである。私は、身をもってそれを知ったのだった。

 

 ヒロムなる人物に新宿で会ったのは、世紀も変わり、ようやく残暑も終わりかけた十月の初旬のことだったと思う。ヒロムといっても男性ではなく、もちろん女性である。本名は裕美(ひろみ)というようだったが、ヒロムは、イラストレーター志望の彼女が自ら作ったペンネームということであった。

 

「裕美って名前、嫌いなの」とヒロムは言った。

「どうして?」

「おじいちゃんがつけたんだけど、ある人物の名前から取ったから」

「ある人物って?」

「昭和天皇」

「裕仁様ね。そっち系の人だったんだ?」

「戦争には行ってないけど、そっち系だったの。でも、私はそっち系でもどっち系でもありたくないの。だから嫌いなの」

「どっち系って?」私は笑って聞いた。

「私は、何ものにもなりたくないの」とヒロムはどこか思いつめた、頑なな口調で言った。「右にも、左にも、男にも女にもなりたくない。だからヒロムにしたの」

 

 彼女は、二十歳前後に見えたが、実際は二十三歳ということであった。百五十センチにも満たない、痩せた、少年のような体型をした女性で、顔つきもまだ輪郭の定まっていない子供のようなあどけないものだった。ショートの髪は完全な金髪で、古着を上手に着こなし、外交的な話し方を心得ていて、一見、ちょっとサブカルにはまった今風の子に見えたが、話は、怪しげな方向に向かっていた。

 

「私ね、薬をやっているの」

「薬って?」

「スピードとか」

「そうなんだ、でも、やばくない?」

「だから最近はマジックマッシュルームとかやってる」

「やるとどうなるの?」

「ふわっとする」

「ふわっと?」

「うん、世界が回ったり。でもそれだけ」

「何のためにそんなことをするの?」

「私ね、頭の中に雑音がするの」

「雑音って?」

「テレビの砂嵐みたいに、ノイズがしているの。そのノイズをなくしたいのよ」

 

 それから、話は瞑想や、スピリチュアルマスターの方向へと流れていった。どうやら、ヒロムは私のことを同種の人間とみなしたらしく、安心してラジニーシやクリシュナムルティのことを語りだした。私は、モーニング娘の中にでもいそうな金髪の若い女性が、このような話題を振ってくるとは思わなかったので、楽しげに聞いていた。しかし、ヒロムの口調の中には共感者に出合った喜びというよりも、今にも切れそうな張り詰めた弦のような真剣さがあり、それが私の胸をどこか苦しくさせた。

 

「私、毎朝、井の頭公園にいるんだよ」

「何してるの?」

「座禅組んでる」

 私は、思わず笑い出してしまった。

「おかしい?」

「おかしくはないよ。でも、なんか笑えるじゃん」

 

 ヒロムは心外そうにしていたが、私は小ばかにして笑ったわけではなかった。今時のギャルのような見た目のヒロムが、まだ夜も開けきらぬ早朝、井の頭公園の木の下で必死に座禅を組んでいる姿を想像すると、そのギャップが面白く感じられたのである。しかし、そこまでやるからには、きっとヒロムの絶望は、彼女の軽やかな口調や身振りよりもはるかに深いものであることが察せられた。

 

 それから、ヒロムとは友人として二年ほど付き合った。当時、私に付き合っていた女性がいたこともあるが、彼女とは男女との関係にならなかった。実際は、粉をかけて何度か振られたこともあるし、ヒロムにも彼氏がいたりいなかったりした。それでも、私たちはお互いをそのような俗世の関係とは異なる、特殊な席を占める存在とみなしており、男女の関係を超えた深いつながりを感じていたように思う。最後は、二人で伊豆にあてもない旅行に出かけた際、その一線を越えようとした私に嫌気がさしたのか、「しばらく会えない」というメールがきて、そのままになってしまった。半年ぐらいしてメールをすると、連絡先が変わっていたので、彼女とはもう二度と会うことはできない。

 

 ヒロムには言わなかったが、知り合ってから一ヶ月ほど経ったある日、座禅する彼女の姿をこっそり見に行ったことがある。新宿で明け方まで徹マンをしていた私は、もしかしたらヒロムがいるかもしれないと思い、始発の電車に乗って井の頭公園に足を運んだ。別段、彼女がいようがいまいが、本当はどうでもよかったし、実際にいるとも思っていなかった。狭苦しい雀荘で一晩中、煙草の煙と欲得にまみれた汚い空気を吸っていたのだ。ちょうどよい朝の散歩になるのだろう。

 

 散歩道から少し離れた、奥まった林の中にある巨大な銀杏の樹の下で、ヒロムは眼を閉じて座っていた。足はしっかりと結跏趺坐で組まれ、手は仏像のそれと同じく、法界定印を形作っていた。眼は固く閉じられていて、何か口の中でぶつぶつとつぶやいているようだったが、何を言っているのかわからなかった。

 

 まだ暗い最中、金髪の少女――なぜか少女のように見えた――が必死に生きるか死ぬかの座禅をしている。その姿は美しくもあり、痛ましくもある、胸が打たれるものであった。ふと、どこからともなく大きな風の塊がやってきた。あたり一面の樹木の枝葉が、まるで危険を察した動物たちがいっせいに動き出すように、ザワザワカサカサと激しく揺れた。ヒロムの背後の銀杏の樹の枝葉も風に揉まれて激しく揺れ、黄金色の枯れ葉が頭上からシャワーのように降り注いだ。その金色のシャワーは、まるでヒロムの輝かしい未来と愛をそっと約束する恩寵のように見えた。

 

 ヒロム、眼を開けてごらん。美しい光のシャワーが見えるよ、と私は念じた。

 

 しかし、ヒロムは眼を開けなかった。眉間に皺を寄せ、苦しそうに呪文を唱えながら、まだ見ぬ光の可能性を探して、暗闇の中で煩悶していた。しかし、その姿は限りなく美しく、何ぴとたりとも彼女に近づくことは許されなかった。

 

 


地下にいる宇宙人の話

  地下にいる宇宙人の話

  

「Nさん?」

 とある金曜の夜、腰をかがめて、西船橋駅近くにあるマツキヨで歯磨き粉を物色していると(ここ数年ピュオーラのワイルドミント味しか使っていない)、背後から声がかかった。振り向くと、すぐ近くにある行きつけの美容室の琴美ちゃんであった。上の名前は知らない。自分の担当ではなかったし、時々、髪を洗ったり、頭をマッサージしてくれたりするだけの関係だったからだ。雑談を交わすこともあるが、自分は無口な時は無口なので、何を話したのかも覚えていなかった。

 

 二十歳そこそこの彼女は、小柄で、人好きのする愛らしい容姿の持ち主だったが、アトピーということで、両手に薄くて黒い手袋をしていた。まだカットは任されておらず、シャンプーや、ブロー、マッサージ担当だった。病気に関するスピリチュアルな治療のことを話した記憶はあるが、その手袋を見る度に、少しかわいそうだな、と思っていたくらいだ。客商売だから、その黒い手袋は少しハンディキャップになるかもしれない。

 

 しかし、どこか病んだ人間というものは、何も言わなくとも似たような相手のことがわかるし、近くに感じられるものだ。長い間慢性病に苦しんできた私にとって、この少し不幸な子は、どこか気になる存在だったのである。むろん、少しだけ、だが。

 

「もう上がり?」と私は聞いた。時刻は、夜九時を回っていた。

「はい、今日は店長がいないので早かったんです。Nさんは?」

「俺はさっきまで雀荘にいたけど、調子悪いから買い物して帰ろうかな、とか」

 すると琴美ちゃんは、なにやら思い切った調子で聞いた。

「少し、時間ありますか?」

「あるよ」私は少し驚いたが、何気ない風を装って言った。「ちょっと飲んでく?」

「一つ、相談したいことがありまして」

「相談?」

「ええ、例のことです」と琴美ちゃんは秘密めかした様子で、私をじっと見つめて言った。

「ああ」と私は曖昧に答えたが、「例のこと」が何だったのか、さっぱり思い出すことはできなかった。

 

 居酒屋というのも何なので、近くのイタリアン風のバーのような店に入った。実は、その日、麻雀で負けた私は金がなく、不愉快な相手に当たって機嫌も悪かったので、本当は飲みに行きたくなかったのだが、「例のこと」が気になってならなかったのである。もちろん、かわいらしい女性から誘われ、悪い気がしなかったこともあるが。

 

 我々は席に着くと、それぞれカクテルとちょっとした創作料理風のつまみを頼んだ。

 

「私、UFOを見たっていう話、しましたよね?」琴美ちゃんは突然、真剣な目つきで中核から入った。

「UFO?」私は、どういうわけか、その話をまったく思い出すことができなかった。

「小さい時の話です」

「ああ、そんなこと言ってたよね」私は、ごまかした。

「それで、最近も見るんです」

 この時、飲み物が来た。私は、なんと言ってよいのかわからなかったので、「そうなんだ」と適当に言って、カシスオレンジを飲んだ。

「信じられませんか?」

「信じるよ」と私は言った。「でも、どこで見たの?」

「空で見るのではありません。毎晩、夢の中で見るんです」

「夢か」私は、少しほっとして言った。

「興味、ありませんか?」

「あるよ」と私は言った。「大いにある」

「それでね、ひどく奇妙な夢なんですけど、その中でいつも宇宙人に会うんです」

「宇宙人? どんなの?」

「いえ、外見は普通の人なんですけど、光ってます」

「光ってるんだ?」私は、少し嘲笑的な顔を作ってしまったかもしれない。

「ええ、金色に光っているんですが、その人がUFOから出てきて、私にあるものを手渡すんです。そして、これは大事なものだから来るべき時が来るまであなたが預かって、どこかに隠しておくように、と言われるんです」

「興味深い話だね」

「それがここのところ、毎晩続くんです」

「毎晩?」私は眉をひそめた。

「毎晩です」と琴美ちゃんは言った。「でも、私はそれが何なのかわからないし、どこに隠したかも忘れてしまっているんです」

「奇妙な夢だね」と私はもっともらしく言った。「それはもしかすると、琴美ちゃんの祈りというか、願いのようなものが反映されているのかもしれないね」

「Nさん、前に言いましたよね?」琴美ちゃんは、私の一般論にまったく耳を貸さずに言った。

「何を言ったっけ?」私は、作り笑いを浮かべた。

「人間は、別の世界とつながることで人間になるって」

「そんなこと、言ったかな?」私は、まったく記憶がなかった。第一、美容室の雑談でそんなディープな話をするはずがない。

「だから、病気というものもそういう世界とつながるきっかけになるかもしれないんだから、琴美ちゃんは人より大きな世界を生きているんだって」

「言ったかもしれないね」私は、何となくそんな風に励ました気がしてきたが、気がしてきただけであった。

「私は、わけのわからない世界を生きてきたんです」と琴美ちゃんは告白した。

「わけのわからない世界?」

「私は小さな頃からずっと、アトピーで心も体も苦しくて苦しくて仕方なかったんですけど、その分、掘り進んだ気がするんです」

「深くに?」

「そう、私たちの目に見える地上より、下の部分です」

「そうかもしれないね。君は、そんな顔をしてるもの」

「どんな顔ですか?」

「掘り進んだ人の顔」

 すると琴美ちゃんは、なぜか嬉しそうに声を立てて笑った。それから、急に真面目な調子になって続けた。

「だから、私は空ではなく、地上の下の所でUFOに出会った気がするんです」

「たぶん、そうだろうね」

「でも私、それは夢のようなものだと思っていました。私の頭の中だけの出来事で、現実とは関係ないって」

「うん、普通はそう思うだろうね」

「でも、最近、夢じゃないってわかったんです」

 私は、話の雲行きが怪しくなることに懸念を覚えながら耳を傾けていた。

「現実に起こったってこと?」

「いいえ、あれは夢と現実の中間で起こっていることなんです」

「中間?」

「境です」

「霊とか、そういうのも中間の現象だろうね」と私は言った。「夢と現実の中間に現れる」

「ええ、中間です」と琴美ちゃんは真剣な調子で言った。「でも、中間で起こったことというのは、その人次第で夢にも現実にもなるんです」

「どういうこと?」

 すると琴美ちゃんは何も答えずに、両手を差し出した。手袋をしていないその両手は絹のように真っ白だった。指が短く、ふっくらしているその手は、まるで生まれたての赤ん坊のそれのように見えた。

「治ってしまったんです」

「まじに?」私は、思わず相手の手を取った。そして物を扱うように遠慮なく、表にしたり、裏にしたり、ひっくり返して眺めたが、アトピーの痕跡はどこにもなかった。

「よかったじゃん」と私は手を戻して言った。「それで、他の箇所は?」

「足とかはまだあります」と琴美ちゃんは言った。「でも、その夢を見る度に、少しずつ減っている気がします。これはどういうことなのでしょう?」

「どうもこうもないよ」と私は言った。「治ったんだからそれでいいじゃん」

「そういうものでしょうか?」と琴美ちゃんは首を傾げて言った。

「そういうものだよ」と私は答えた。「優れたお医者さんに会うのもやぶ医者に会うのも同じでね、君が掘り進んで治療したんだから、結局、君の力なんだよ。君が自分で自分を治したんであって、宇宙人が治してくれたんじゃないよ。君が君の世界を広げることで、より大きく、力の強い、独自な、個性的な人間になった。そして、病も治してしまった。その事実があるだけだよ。だから、それでいいじゃん」

「私は、そういう答えが聞きたかったんです」と琴美ちゃんは安心した様子でつぶやくと、カクテルを一口飲んだ。

 

 後日、美容室に行った時、手袋をしていない琴美ちゃんを見た。彼女は、前よりも生き生きして、迷いがない人に見えた。カットが終わった後、マッサージをしてくれたが、「最近、はまっている」という萌え系の深夜アニメの話ばかりしていて、私もそれに乗った。

 

 お互い、UFOのことは一言も話さなかった。

 


芹姫 1

  芹姫

 

 1 野心 

 

 数年前、私が、とある精神世界系の出版社の仕事をした時の話である。その都内にある小さな出版社の名前を聞いても、ほとんどの者が知らないだろう。主に自費出版を扱うその会社の社員は僅かに二人。疲れた顔をした六十代くらいの社長とその右腕らしい、無精ひげを生やした年齢不詳の青年とも中年ともつかぬ薄汚れた男がいるばかりで、「スピリチュアル」な業界特有の胡散臭いこぎれいさはどこにもなく、雑然として煙草の煙が充満した編集部は、昔ながらの編集プロダクションのようだった。

  

 ライター募集などしていなかったにもかかわらず、私はホームページを見てアポを取り、ゴーストライターの仕事を引き受けることに成功した。とは言っても、社長と雑談をして、これまでの仕事の見本を見せると、「ライターだけじゃなくて、マックでデータ入稿までできるなら仕事はいくらでも回すよ」というイージーな答えだった。私はマックを売り払ってしまっていたのでそのことを告げると、「一台、余っているから持って行ってもいいよ」と言うので驚いたものだ。何でも、人手が足りなくて困っているとのことだった。

 

「一人、あっちの世界に行っちゃったからさ」と無精ひげを生やした編集部員のSが、回転椅子をくるりとこちらに向け、話に加わってきた。

 

「あっちの世界って?」

 

「神様の方だよ」と男は笑った。

 

「そういうケース、多いんですか?」と私は聞いた。

 

「多いね、取り込まれちゃう人」とSは言った。「そうなるとまず戻ってこない。他の体系の本なんか書けないから。逆に勧誘してきたりね」

 

「怖い世界ですね」と私は言った。

 

「怖いよ」と社長が言った。「でも、きみは大丈夫そうだね」

 

「そう見えますか?」

 

「なんか、逆に、ものすごくやっかいな感じがするよ」社長は笑った。「でも、それくらいじゃなくちゃね、我々は商売でやっているんだから」

 

 私は、彼らの少しばかり斜に構えた態度や、シニカルな笑いを理解した。この手の世界では、著者に対して必要以上のリスペクトは厳禁なのだ。でなければ、相手の世界に取り込まれてしまう。あくまでもビジネスとして距離を取り、客観視しながら仕事を進めなくてはならない。逆に、そうでなければ新興宗教の教本のように、独善的で社会性を欠いた作品しか作ることはできないだろう。

 

 しかし、私は彼らのような嘲笑的な態度を取る必要もないと感じていた。元々、求道者の一人であった私は、その時、ある種の限界点を突破し、ようやく自分なりの軸ができていたところであった。突然、訪れたエネルギーの奔流と全能感。私は、自分の力と確信とに酔っていた。どんな相手でも、価値観でも、乗り越える力があると過信していた。実を言えば、このような怪しげな出版社とコネクトしたのも、魑魅魍魎うずまく世界で、自分の力を試してみたいというよこしまな野心があったからである。もちろん、今にして思えば、このような自負心に満ちた姿勢は未熟さを証明するものであり、ろくでもない果実しか実らせないものであるには違いなかったのだが…

 

 早速、振られた仕事は「やばそうだから断ろうと思っていた」という案件であった。

 

「どんな相手なんですか?」と私は聞いた。

 

「よくわからないけどやばい」とSは言った。

 

「でも、傾向ってあるでしょ? 悟り系とか、引き寄せ系とか、神様系とか」

 

「そんなんじゃないよ」とSは何やら言いにくそうに言った。「正直、もっとやばい系。電話で話しただけだけどね」

 

「どうやばいんです?」

 

「話せばわかるよ」とSは言葉を濁した。「たださ、強いて言えば、統合失調系かな。ああいうのが一番やばい。本にもしづらいし、対処法もないから。おれには無理だと思った。一緒にいたら頭がおかしくなりそうでね。きみも気をつけた方がいいよ」

  

 私は、こんな曖昧な事前情報を元に、「芹姫」と名乗る怪しげな人物と会うことになったのである。


芹姫 2

 2 私のいない物語

  

 「芹姫」こと芹沢涼子は、東京寄りの埼玉郊外に住んでいた。人ごみが苦手で都内には出て来たくないとのことで、私は芹姫が住む地元駅に出向くことになった。待ち合わせは午後の2時だった。老人とカラスしかいないようなさびれた駅で、薄汚れた商店街の向こう側には畑が広がっているだけの土地だった。4月の昼下がりであったにもかかわらず、なぜかわびしい秋の夕暮れといった空気が辺りを支配していた。

 

 改札を出ると、一目で芹姫とわかる人物が立っていた。というよりも、そこには芹姫のほかに誰もいなかったので、彼女が私を待っていた人物であることは一目瞭然だったのだ。しかし、それは必然的な出会いのようにも感じた。彼女は、はるか昔からここで私を待っていたのだ、とさえ思えた。

 

 どこか子供めいた白いワンピースを着た、美しく長い黒髪を持つ女性は、確かに、「姫」と名乗るだけの独特の存在感と気品があるように感じられた。しかし、その半ばがちゃ目の瞳はどこを見ているかわからなかったし、貧弱な顎の輪郭はゆがんでいて、人格の安定感はどこにも見出せなかった。妙に白っぽい血の気のない顔に、口紅ばかりが赤く浮き立っているその様は、明らかに精神的な異常者の証のようにも見えた。しかも、よく見ると、「姫」というには年が行き過ぎているように感じた。30半ばか、それ以上かもしれない。私は、本能的な恐怖を覚えながら声をかけた。

 

「芹沢さんですか?」

 

 すると芹姫は不思議そうに私の顔を眺めたまま、何も言わずにじっとしていた。不安に駆られた私が、再び何かを口にしようとすると、彼女はこう言った。

 

「あなたとお話するために、私はここにいるのですよ」

 

 私たちは、駅から10分ほど無言で歩き、国道沿いにあるファミレスに入った。仮にも「姫」と名乗る女がそんな安っぽい店に入るのはいかにも不似合いにも思えたが、彼女はまるで常連のように、奥まった場所にある窓際の席を勝手に陣取った。お互いにドリンクバーで飲み物を持ってきて、一息ついた後、彼女は言った。

 

「ここに、不思議な物語があります。しかし、私はその物語の中にいません。でも、あなたはその物語を書き留める必要があります」

 

 私は、ぎょっとして尋ねた。

 

「どういうことでしょう?」

 

「私には、私のことを語ることが許されていないのです。私には私の言葉がないのです。ですから、あなたは物語をあなたの言葉で書き留めてくださればいいのです」

 

「言葉がない?」

 

「今にわかります」と芹姫は言って、目を伏せ、紅茶をすすった。

 


芹姫 3

 3 宇宙人との対話

  

 ここから先の会話は、私が手を加えることのできるようなものでもないし、解釈できることでもない。幸い、ボイスレコーダーで録音していたから記録されているが、もしも耳で聞いただけなら、彼女と何を話したのか、まったくもって記憶することはできなかっただろう。これは夢の言語である。夢が記憶できないように、日常の言語パターンを超えたものを我々は記憶することはおろか、表現することもできない。

 

 分量やプライベートな問題もあり、3時間に亘るテープのすべてを開示することはできないので、彼女との対話がどんなものだったかを示す一端だけを録音されたままにここに記してみようと思う。しかし、事前に注意書き代わりに付け加えておくが、こんな会話をどんな形であれ公にすることが許されることなのかわからないし、この対話を読んだ人の精神にどのような影響を及ぼすかも想像できない。人によっては、何かを触発され、悪しき影響が出てしまうかもしれないし、何らかの不安を誘発してしまうかもしれない。夢は真夜中に見て、消えてしまうからこそ遠慮なくありのままの真実を突きつけてくる。もしもそれが日の光の下で生じたとしたら、大抵の夢は見るに耐えないものである。なぜなら、それは私たちの生きる範囲を超えた現象である場合が、ままあるからである。

 

「元々人間である人は、人間であることの尊さを知らない」と芹姫は言った。

 

「芹姫さんは人間じゃないみたいですね」と私は言った。

 

「生物学的には人間です」

 

「魂が人間じゃない?」

 

「魂は誰にもわからないでしょ?」

 

「どういうこと?」

 

「人間になりたいと思っている魂」

 

「妖怪人間みたい」

 

「そのへんは内緒です。だから多い。私のような人は多い。だからね、人は知らない間に人でなくなっていると思う。でもそれを自覚していないからきっと、痛みも感じない。だから人に対して、数学的な、言葉的な意味の何かしか感じない」

 

「人間が悪くなって、人間でなくなっているということ?」

 

「だって、だって意味がないでしょう?」

 

「何が?」

 

「よくなっていても、悪くなっていても、どっちだってよかったんですよ。でも結局、意味がなくなったら、理由がなくなったら、生まれた意味がなくなったら、ここにこうして存在する意味がなくなったら、それは何かができるできないとかそういう問題ではなくて」

 

「それは絶対的な意味があるかないかということ? 生きている意味が」

 

「絶対的な意味が欲しい」

 

「絶対的な意味がないと虚無?」

 

「あのね、絶対的な意味がある許された存在があるとして、もしもその存在をプラスにもマイナスにもできないとしたら、それは絶望なんです。絶望というのではなく、虚無なんですよ、無なんですよ。何かではない。絶望よりも何もない。だから言葉にできない。誰も感覚的に体感したことはないから」

 

「虚無に落ちる人はいる。寸前まで行く人は」

 

「でもね、虚無という名前の感覚を体感する人はいるんですよ」

 

「それは生きている意味がなくなる恐怖?」

 

「だからね、本当の、言葉にできないね、存在しない、無というものを実現する、体感する人間はたぶん存在しない。それは人間ではない。もしも体感している人間がいるというのなら、それはおかしい。体感したことによって人は狂う。生きてなんかいられない、と思う」

 

「恐怖を感じているうちは落ちていないのかもしれませんね」と私は言った。「ぎりぎりで踏みとどまることが恐怖」

 

「私は、たいしたことない。ただほんとわずかな・・・だけど私という存在は無意味だ。私ではなく、他の何かが存在したらよかった。この先、それは悲しい。・・・(聞き取れず)と認識されるのが悲しい。私は、生まれてこないほうが良かった」

 

「それは不幸になるから? 自分が? 誰かの役に立てないから?」

 

「私は、存在自体が意味がなかった。プラスでもマイナスでもなく。無意味だ。こんな・・・(音、聞き取れず)でなければよかった。ごめんなさい。わけわからない話。両親と私と違うのは、精神レベルでも性格レベルでも同じなのに、あの人たちの性格を受け継いでいて、確かにそれはわかるのに、根本が違うと感じるのは、そういうところから、生まれる・・・わかっているのに。電波さんだから言わないの、こういう話は。感覚的なものだし、理屈もつかない、理由もつかない、証拠もない。ただ、認識しているだけ。そんなのは、異常だから。ただ遺伝子も血もつながっているのに違うと感じるし、通常の人間のDNAと遺伝子も形態も同じなのに、人間の形をしているのに」

 

「宇宙人みたいに感じているということ?」

 

「わからない。でもそれは、みんな同じなんでしょうね、とずっと思っていた。今も思っている。でも、たまに戻ってくるものがあるの」

 

「戻ってくる? 何が戻ってくるの?」

 

「なんか、全然違うもの。説明つかない。それは無を表現すると同じ感じ。だから無を表現することは難しいからそれと同じ感じ」

 

「それは虚無感とは違う?」

 

「全然違う」

 

「ネガティブでもないんだ?」

 

「説明がつかない。ただ、魂と・・・だから人間という存在は意味を見つけるために、わかんない。見つけたくて生きているのかもしれない。でも、私はたぶん、きっと意味はあって、そのために何をするのかがあって、生きているような気がする。私がきっと主体的に見えないのはそれもあるし」

 

「意味があるってこと?」

 

「意味はない。ただのひとつの末端の何か。だからそれは自分という、芹沢涼子という人間ではなくて、何か、本当に、無に帰る何か。わけわからないですね、芹姫と名乗ることで、きっと話してしまうのだろうなって。時々、私という人間や肉体というか精神が傷つけられているから。時々、そういう空間に出ちゃう。なんでもない」

 

「幽体離脱しているみたい?」

 

「だから、私という何かがここにいれる時間に、別の何かがここにいるべきだった。そしたらきっと、非常に有意義な何かを得られたと思うから。同じ結論であったとしても、同じ流れであったとしても、と、思う」

 

「芹姫さんはどこか他の星から来た人みたいですね」

 

「他の星からは来ていない。地球上からしか生まれていない」

 

「でも、人間じゃないみたい」

 

「人ですよ。体も遺伝子も」

 

「じゃあ、地底人。地底から来たの」

 

「地底ですか?」芹姫はびっくりした様子で言った。

 

「地底に存在していた前の世代の人間みたい」

 

「SF的ですね」

 

「その魂が生きづらい」

 

「それは小説が一本書けますね」芹姫は、急に皮肉めいた口調で言った。「でも、私の話は小説にすらならないんです。なぜなら、どこにも主人公がいないからです」

 

 この時すでに、私は、彼女の本を書くことを断念していた。彼女の宇宙を表現することは私の手に余ることだった。何とか、互角に渡り合っているように装っていたが、実を言えば芹姫の存在感に圧倒されていた。彼女には、私の言葉が通用しないことは明白だった。エゴの超克という領域に、最初から彼女はいなかったのだ。彼女は最初から救われている存在であると同時に、真実そのものであるがゆえにそれを伝えることも表現することもできないという致命的なジレンマを抱えた薄幸の存在だった。

 

 彼女のことを理解する者はおそらく誰一人としていなかったことだろう。理解者も、愛する者もいなかったことだろう。もしかしたら一人くらいはいたかもしれないが、その人もまた浮世の荒波に耐えることはできず、藻屑となって消えてしまったことだろう。そこには誰知らぬ偉大な物語があったのかもしれない。しかし、それは誰も知らない物語だ。その物語をこそ誰かが書くべきなのかもしれないが、そのストーリーが記された石版はきっと、誰にも発掘されることはないだろう。真実の物語というものは、地中深くに眠っているものなのである。

 

 私は、本能的に彼女の真実を感じ取っていた。その絶望と愛の深さも理解していた。だからこそ彼女は私に助けを求めたのだ。自分のことを理解し、表現してくれる媒介者として、初めて会った私に全面的に身を任せたのだ。しかし、当時の私にとって、彼女は自分の存在を脅かす巨大な矛盾そのものに見えた。そう、私は敗北宣言をし、尻尾を巻いて逃げ出したのである。

 

 あのまま彼女と一緒にいたら、間違いなく虚無以前の「無」の中に取り込まれ、逃げられなくなっていただろう。あの時の私にはまだ、その「無」の世界を乗り越えるだけの力を持っていなかった。私にとって、彼女はまさに宇宙人そのものであり、人間的な思考の彼岸にある、存在以前の神の具現化そのものであった。

 



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