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超人を抱きしめる神、神を救う悪魔  

  超人を抱きしめる神、神を救う悪魔 まど☆マギ論

  

「魔法少女まどか☆マギカ」について語るのは、簡単なことではない。まず何よりも、好きな人はそれぞれの「まどマギ観」があるだろうし、興味のない者はまったく興味がないアニメ作品であることが明白だからである。この境界線の原因になっているのが、「いかにも」な萌え系の絵柄とタイトルだ。「魔法少女」で萌え系の絵柄――その外面だけで、受け付けない人はまったく受け付けないに違いない。自分も後者であった。知人から勧められなければ、あえて見ようとはしなかったろう。

  

 しかし、興味本位で観て、ぶっとんだ。これは奇跡の作品であった。それで、この作品の魅力と価値を何とか語ってみたいと思っていたのだが、一度観ただけでは感想がまとまらなかったので、何度か、繰り返し観た。

  

 ちなみに、自分は劇場版の前編「はじまりの物語」と後編の「永遠の物語」、そして新編の映画作品「叛逆の物語」の3本の映画版しか観ていない。元々12話完結の深夜アニメであるが、アニメ版は「劇場版・前後編」で上手く編集されており、ほぼ内容がわかるということなので、未見である。ただし前後編は3回、新編は2回見た(ファンの中には数十回見ている人はざらのようである)。というのも、この作品は時間のループが一つのテーマであり、すべてを見た後、もう一度最初から見ると、新たな発見と感動がある仕組みになっているからだ。

  

 さて、「まどマギ」を知らない人向けに、ストーリーを簡単に説明しておこう。というよりも、ストーリーの紹介自体が、この作品の魅力と価値を伝えるものになると思えるのだ。ただし、今回の評論の主題である「神」と「超人」たる、主人公の鹿目(かなめ)まどかと暁美(あけみ)ほむらの関係だけにクローズアップさせていただく。上手くまとまるかわからないが、ウィキペディア等も参考にしつつ、やってみよう。以下、ネタバレ全開である。

  

 魔法少女とはどんな願いでも一つ叶えることと引き換えに、キュウベエという異星人と契約を結び、人知れず魔女と戦う使命を課せられた存在である。ところが中学生の主人公、鹿目まどかは、優れた素質を持ちながらも傍観者として魔法少女の戦いに関わることになる。そう、主人公が魔法少女ではないのである。なぜなら、魔法少女としての契約を結ぼうとする度に、どういうわけか、謎めいた転校生の魔法少女、暁美ほむらが邪魔をするからだ。

  

 最初、ほむらは、無愛想で時々わけのわからないことを言う「電波系」の転校生として、まどかと親友のさやかの前に現れる(ちなみに、彼女たちは中学2年生という設定である)。キュウベエといういかにもマスコットキャラ的な生き物を殺そうとして虐待し、まどかとさやかを魔女から助けた一つ年上の魔法少女・巴マミとも敵対している。「何こいつ?」という扱いである。そして、執拗にまどかが魔法少女になるのを邪魔するが、まどかの才能への嫉妬や、ライバルが増えることを防ごうとしているだけだと思われている。

  

 物語は、序盤(アニメでは3話目)で異様な姿を現す。魔女と戦っていた巴マミが、まどかとさやかの前で壮絶な死に方(魔女に首を食べられ、体を痙攣させて死ぬシーンがある)をするのである。ここで、萌え系でお約束のハッピーエンドな展開ばかりを予想していた視聴者は、度肝を抜かれ、一気に物語はヒートアップしていく。「萌え系」は一般に受け入れられるための仮面であり、実は、この作品のテーマは途方もなく重い、宗教的なものだったことが明らかにされていくのである。

  

 平和のために人知れず戦うマミを尊敬していたまどかは、魔法少女になって彼女と一緒に戦うことを約束していたのが、マミの死を目の当たりにして、怖気づき、約束を破る。ほむらは「これでわかったわね」と魔法少女は甘いものでないことを再認識させる。彼女は、両手では数え切れないほど魔法少女の死を見てきたと語る。そして自分の弱さに涙するまどかに対し、「あなたを責める者は私が許さない」と奇妙なフォローをする。

  

 まどかの親友さやかは、片思いの幼馴染の怪我(バイオリニストだが、腕を怪我して弾けなくなった)を治す祈りと引き換えに魔法少女になるが、魔法少女とは実は魂をソウルジェムという宝石に乗り移らせることで、体をゾンビのように操る存在だと知り、「こんな体でどうやって抱きしめられたらいいの?」と嘆く。さらに、幼馴染は彼女の友達と付き合うことになり、夜な夜な誰にも知られることなく命がけで魔女を殺しながら、「私は何のために戦っているのだろう?」という根本的な疑問を持つようになる。そして自分の存在に絶望した瞬間、祈りによって光り輝いていたソウルジェムが濁りだし、彼女は魔女に変身してしまう。

  

 そう、魔法少女とは「祈りから生まれて絶望で終わる」最終的には魔女になる存在だったのである。彼女たちが倒していたのは、言わば、「未来の自分」であった。

  

 魔女になる瞬間、さやかは、「誰かの幸せを願った分、他の誰かを呪わずにいられない」とつぶやく。

  

 奇跡を願う祈りは、それが実現した時にこの世界の因果をゆがませ、必然的に呪いを生み出してしまう。これはキュウベエという異星人が仕組んだことで、何でも地球の思春期の少女の絶望という感情は、宇宙を死滅させるエントロピーの法則を凌駕するほどの力があり、そのエネルギーを搾取するために純粋な少女たちと契約を交わしていたというのである。

  

 結局、魔女になったさやかはもう一人の魔法少女・杏子といっしょに死に、町に残った魔法少女はほむら一人になってしまう。そんな中、最強・最悪の魔女「ワルプルギスの夜」がやって来る・・・

  

 ここで、ストーリーは一旦ストップし、ほむらが転校してきた初日のシーンにループする。ところが、目つき鋭く、美しい黒髪をなびかせたクールな転校生はそこにいない。ださい眼鏡をかけ、三つ網のおどおどした体の弱いほむらなのである。心臓の病で入院していたため、勉強も追いつけず、体育もまともにできない。何一つ自信がなく、友達もおらず、誰の役にも立たない。一生このままなのかな、という暗澹たる気持ちで下校する中、「死んでしまった方が楽」という魔女の囁きに吸い込まれ、自殺しそうになる。そこに現れ、魔女を倒して彼女を救出したのが魔法少女となっていた鹿目まどかと巴マミである。とりわけ、自分のことを心配し、唯一友達になってくれたまどかの存在が、彼女を救うことになる。しかし、最終的には「ワルプルギスの夜」がやって来て、まどかもマミも敗れて死んでしまう。

  

 ここでほむらは魔法少女になるため、キュウベエと契約を交わす。その願いとは、

 

「鹿目さんとの出会いをやり直したい! 彼女に守られる私ではなく、彼女を守る私になりたい!」

  

 である。この純粋な祈りによって魔法少女になったほむらは、時間を操る力(止めることと、遡ること)を手にし、鹿目まどかを守るために一人、時間を遡ることになる。SFものならありがちな設定とも言えるが、このアニメが恐ろしいのは、実は、ここからである。

  

 目を覚ますと、再び転校初日。彼女は最初から魔法少女として登場し、まどかたちと一緒に戦うが、最後は、またしてもワルプルギスの夜に敗れてしまう。まどかを死と絶望という運命から救い出したい、と彼女は再び時間を遡る。出口を探してループを繰り返すうちに、キュウベエのたくらみを知ったほむらは、「私たちはキュウベエに騙されている」とみなに忠告する。しかし、自分たちがいずれ魔女になってしまうという真実を知った魔法少女たちは絶望し、お互いを殺し合ってしまう。

  

 真実は、誰にも理解されないし、受け入れられることはなかったのだ。

  

  もはや誰にも頼ることはできないと悟ったほむらは、一人、時間遡行者として、まどかが死ぬ度に時間を逆戻りし、孤独な戦いを繰り広げることになる。ワルプルギスの夜を倒し、「たった一人の友達」をバッドエンディングから救うために。時には、魔女になりかけた最愛のまどかを絶叫しながら撃ち殺すシーンさえあり、ここまでくるともはや「萌え系」どころの話ではない。

  

 ほむらは幾度も幾度も失敗し、その度に一人、時間を転校初日に遡る(途中から眼鏡を外し、三つ網をほどき、その目つきはどんどん鋭くなり、アニメ登場時の姿になる)。しかし、たった一人の友達と濃厚な時間(最後は、愛する者の死を目撃するのだ)を繰り返せば繰り返すほど、相手への思いは強くなる一方、現実のまどかとはかけ離れた、常人からは理解され難い、異質な存在になっていく。しかも、まどかを助けるための時間遡行の繰り返しが、まどかの因果を深め、彼女を最強の魔法少女にして世界を滅ぼす最悪の魔女にしてしまっていることが判明する。

 

 ここで、ようやく物語の最初の時間軸にたどり着く。そして、彼女がなぜあんなにも冷淡なのか、なぜまどかが魔法少女になることを邪魔していたのかが明らかになる。彼女は、まどかを魔法少女にすることなく(つまり、魔女にさせることなく)、一人で戦う決意をしていたのである。ほむらは、何度も平行時間を戦う中で体力も知識も増え、強くなっていた(彼女の戦い方は、時間を止める他は、銃やロケットで攻撃するという現実的なものである)。そして一人、ワルプルギスの夜を倒そうと果敢に立ち向かうが、またもや敗れてしまう。

  

 もはや、魔女を止める魔法少女はこの町にいない。魔女は自然災害の形を取って、まどかたち家族がいる避難所も破壊しようとする。血まみれになったほむらは、再び、時間を遡行しようとするも、その行為がまどかを結果的に強力にし、友達も世界も滅ぼしてしまうという真実を思い出し、どうすることもできなくなって、ついに絶望する。そしてソウルジェムが濁り出し、ほむらが魔女になりかけた最後の瞬間、まどかが目の前に姿を現すのである。

  

「もういいんだよ」とまどかはほむらの手を握りしめて、ささやく。

 

「私、魔法少女になる」

  

 その願いとは、

  

「すべての魔女を生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来のすべての魔女をこの手で」

  

「そんな祈りが叶うとしたら因果律そのものに対する叛逆だ。君は本当に神になるつもりなのか」と驚くキュウベエに対し、まどかははっきりと言う。

  

「今日まで戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいて欲しい。それを邪魔するルールなんて壊してみせる、変えてみせる!」

  

 こうして、まどかは魔法少女になってワルプルギスの夜を滅ぼし、すべての歴史上の魔法少女たちを救うと、神になってこの世から消える。上位概念と化した彼女は、この世界に最初から存在しなかったことになった。ほむらの記憶の中にだけ、その痕跡を残して。

  

 そう、どこからどう見ても暁美ほむらの物語だったこの「魔法少女まどか☆マギカ」は、最終話でついに鹿目まどかが主役になったのである。自らを犠牲にして、すべての魔法少女を救うことで。

  

 誰にも理解されることなく、一人の友人を守るために孤独に戦い続ける少女・暁美ほむらの姿は、神も悪魔も信じることなく、自らの力を信じて永劫回帰する孤高の超人にも比すことができるだろう。彼女は、一人、愛する者のために、誰にも理解されない運命を受け入れ、孤独な戦いを延々と繰り広げる。彼女の祈りと苦しみ、絶望的な戦いを知る者は、この世界に誰一人としていない。しかし、唯一それを見守っている存在がある。それは神になって時間を超越し、すべてを知った鹿目まどかである。まどかは消える瞬間、ほむらを抱きしめてささやく。

  

「今の私にはね、過去と未来がすべてが見えるの。(中略)だからね、全部わかったよ。いくつもの時間でほむらちゃんが私のためにがんばってくれたこと、何もかも……。何度も泣いて、傷だらけになりながら、それでも私のために……ずっと気づけなくてごめん……ごめんね。今の私になったから、本当のあなたを知ることができた。私にはこんなにも大切な友達がいてくれたんだって、だから嬉しいよ。ほむらちゃん、ありがとう! あなたは私の最高の友達だったんだね」(ここは、誰もが泣くシーンである)

  

 こうして、超人は神によって見守られ、理解され、愛されることで救われた。

  

 魔女のいなくなった世界でも、もちろん、ゆがみはあり、闇はある。それは魔獣という存在として現れる。まどかが守ろうとした世界で、ほむらは戦い続ける。

 

 さて、こんな風に宗教・神話・哲学的背景を踏まえつつ、それらを見事に現代風に結実させ、完璧ともいえるエンディングで終わった異様な深夜アニメが「萌え系」の境界を越えて一気に話題になり、賞賛を受け、様々な賞を受賞したのもうなずける(自分はリアルタイムで知らなかったが。震災の時期に一旦中断したアニメということもある)。私はこのテレビ版を編集した劇場版「はじまりの物語」と「永遠の物語」ですっかり満足していたし、「ガンダム以来のテレビアニメの傑作だな、これは」と思っていた。

  

 ところが新編の映画「叛逆の物語」では、なんとほむらは悪魔になってしまうのである。この稿では多くを語らないが、最初のほむらの願いが「彼女(まどか)に守られる私ではなく、彼女を守る私になりたい」であったことを思い出す必要がある。結局、ほむらは、まどかの犠牲によって成り立った新しい世界を認めることができなかったのだ。なぜなら、そこには、彼女が戦い続ける理由である、愛すべきまどかがいないのだから。そもそも「まどかを守る私になりたい」が願いだったのだから、当然と言えば当然である。結局、彼女は神に叛逆し、まどかという単体を地上に引き落とし、新たな世界を作らんとする。

  

 この悪魔化は、まどマギファンの中でも賛否両論で、映画観で観た私も、最初は「観念的すぎるしよくわからない」と思っていた。暁美ほむら=暁の明星=ルシファー。確かに、彼女は堕天使の刻印をされていたのだが、アニメ版のストーリーの完成度に対し、観終わった時は、これではどこに救いがあるのかと思ったほどである。しかし、繰り返して観て気づいたのは、彼女の愛は、偏執的でエゴイスティックなものに見えて、実は、自らが悪魔になってでも一人の人間を救うという自己犠牲的なものであり、いわば悪魔による神の救済なのである。

  

 こうして、物語は神による世界の救済から、次のステージに移る。世界は、悪魔に支配されたのだ。しかし、その悪魔の存在の根底にあるものは、神となってしまった一人の人間への愛なのである。ここまで来ると、既存の愛の形、宗教的な聖なるイメージは通用しない。伝統・固定観念を打ち壊し、新しい地平に現れた神性の顕現として、超人かつ悪魔である暁美ほむらの姿に新しさを認める他ないのである。

  

 真実は、未知なるものの中に、まったく類例のない形で現れる。

 

 愛は、愛という言葉で表すことはできない。

 

 神は、これまでの偶像で表現することはできない。

 

 無我は、無欲ではなく、時に強欲という形で表現される。

  

 聖なるものは、時に、奇異なる形で現れる。

 

 神は、その無限界という性質故に、常に時代に即した、新たな形で表現されることを求め続ける。

  

 そう、神は、常に既知ではなく、未知なるものの中にこそ顕現するのである。

 

 エゴと無数の観念、常識によって見えなくなった、我々の背後に眠る巨大なる神性――それを新たな形式でもってこの地上に掘り起こし、表現するのが、芸術の役割ではないだろうか。しかし残念ながら、そうして掘り起こされ、大胆に彫刻された作品は、常識や伝統に縛られた同時代の人々の目には不気味なものとして映り、時に否定され、忌避される。

 

 だが、様々な種類の才能が集うと、時に、奇跡が起こることがある。宗教的伝統を踏襲し、伝統を打ち壊し、極めて現代的な形で、万人に通じる新たな愛の形を生み出した「魔法少女まどか☆マギカ」は、「叛逆の物語」において、ついに真正の芸術作品となったのである。

 

Ps:おそらく、続編が作られるものと思われるが、悪魔化したほむらを救うために、まどかがどのような行為に出るのか。我々の想像を超えた、新たな愛の形に注目したい。

 


宗教的精神におけるアヴァンギャルドのあり方とは

  宗教的精神におけるアヴァンギャルドのあり方とは

 

 岡本太郎の不朽の名著『今日の芸術』で、最も有名なフレーズは以下のようなものだろうか。

 

 今日の芸術は、

 

 うまくあってはならない。

 

 きれいであってはならない。

 

 心地よくあってはならない。

 

 岡本太郎はこれを芸術の根本原則とした。つまり、「きれい」「心地いい」といった既存の価値観に追従し、保守する傾向を彼は徹底的に嫌っていた。そしてこう断言する。

 

「見るものを圧倒し去り、世界観を根底からくつがえしてしまい、以後、そのひとの生活自体を変えてしまうというほどの力をもったもの――私はこれこそ、本当の芸術だと思うのです」(『今日の芸術』99p)

 

 芸術とは、既存の価値を乗り越え、新しいフォルム、形式の内に新しい普遍的価値を提示するものであり、伝統の超越である。こうした価値観は現代のモダンアートと言われる作品群において、もはや何が伝統で、何が正統で、何がアヴァンギャルドかわからないような混迷を生み出すことにもなったわけだが、岡本太郎の言葉が、芸術を「美しい」「きれい」「心地いい」ものと思い込んでいた一般大衆や若いクリエーターを解き放つきっかけになったことは間違いない。例えば、こんな力強い宣言が、いかに若き、認められない芸術家の卵を力づけてきたことか。

 

「芸術は、絶対に新しくなければなりません。芸術はいつ、いかなる時代でも、新しいという意味で、大きなあこがれでもありました。と同時に、それがために、まえに述べたように、きわめて残酷に非難されてもきたのです。芸術家は、それぞれの時代の評価、矛盾に耐え、勇気と英知をもって、それをのり越えてきたのです。

 

 芸術は創造です。だから新しいということは、芸術における至上命令であり、絶対条件です。じっさいに芸術史、美術史がそれを明らかに証明しています。ためしに、美術史のページを開いてごらんなさい。まちがいなく言えることは、芸術はけっして、同じ形式をくりかえしていないということです。美術の伝統は厳然とつらぬかれていますが、同じような形式、内容が二度出てくるということは絶対にないのです。(中略)」(同59p

 

「芸術は、つねに新しく創造されなければならない。けっして模倣であってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったものはもちろん、自分自身がすでにつくりあげたものを、ふたたびくりかえすということさえも芸術の本質ではないのです。このように、独自に先端的な課題をつくりあげ前身していく芸術家はアヴァンギャルド(前衛)です。これにたいして、それを上手にこなして、より容易な型とし、一般によろこばれるのはモダニズム(近代主義)です」(同91p

 

 さて、こうした言葉に触れて思ったことは、「常に新しくなくてはならない」という芸術の根本原則は、芸術のみならず、宗教的精神の表現(いわば無我表現)のようなものにも通じるのではないか、ということである。

 

 我々が求め、探求するところの「無我表現」とはいわゆる、宗教的、道徳的でも固定的イメージをもった「無我」のことではなく、時代に即した、新しい、全体的表現の奔出のようなものである。それは時に、既存の宗教的イメージを乗り越え、まったく新しい形式の中に顕現する。時に、保守的な人々が眉をしかめるような、俗なものの中にこそ神性が宿るのである。我々は、その新しき神の形をこそ発見し、評価するべきだと考えるのだ。汚泥の中にハスの花を見出すように。

 

 「新しさ」と共にある時に人は感動し、精神を浄化し、あるいは舞い上がらせて、常に新しいものを受け入れて生きる一人の人間として輝くことができる。岡本太郎は、心地の良いモダニズムの価値を認めつつも、生活におけるアヴァンギャルドの必要性を繰り返し、繰り返し、真っ直ぐに説いた。

 

「モダニズムには、時代を創造していくエネルギーはないかもしれません。しかし、モダニズムには、また、その価値と役割があります。真の芸術家が創造したものを模倣し、型として受け入れ、通俗化してその時代の雰囲気をつくっていくという、流行としてのモダニズムがあります。その力によってもやはり、時代というものが動かされていくのです」(同94p

 

「モダニズムは、あくまでここちよく、生活を楽しくさせるものであるかもしれないけれども、ふるいたたせて、生活からあたらしい面をうちだす、猛烈な意志の力をよびおこすものではありません。

 

 そういう一般的なイージーな気分に対して闘おう、それに対して、なにかあたらしいものをつかみとって、次の時代に飛躍していこうという少数者は、時代にただちに受け入れられない。認められず、孤独でも、絵にならない絵、つまり芸術というものをおしすすめていかなければならないのです。芸術のアヴァンギャルドの運命です。そういう人たちこそ創造者、芸術家の名に値するのです。しかし、少数者といっても、わたしは芸術家じゃないから、少数者にはいらないと考えてはなりません。どんな人間の精神のなかにも、やはりこの二つのものが、あるものです。(中略)いわば、人間のはげしい生命力のようなものが、ほんとうのアヴァンギャルド、芸術家の創造に対して、やはりピンとひびいてくるのです」(同93p

 

 私がこうした言葉から連想したことは、ゴッホやセザンヌのような孤独で、生前にまったく理解されなかった芸術家たちはもちろん、ゴーダマ・シッタールタや、イエス・キリストのような宗教的存在についてである。真の芸術家同様、真の宗教的精神の持ち主は、いずれもアヴァンギャルドであり、革命家であり、時代のマジョリティから排斥されてきたことは言うまでもない。真の宗教者は芸術家であり、時代に即した新たな価値の創造者であるからである。彼らの革命精神を受け継ぎ、守る者たちが彼らを教祖に祭り上げ、宗教を作り、伝統の上にあぐらをかき、保守化したのだ。それは社会を安定させるモダニズムとして有効な働きを示したことは間違いないが、反面、権力と結びついて暴力を正当化し、人間の精神を凡庸化することになった事実を見逃すことはできない。

 

 しかし、宗教的精神は、芸術の世界よりもはるかにアヴァンギャルドであることが難しいのである。なぜなら、伝統と一体化した人々にとって、彼らは異端であり、時に悪魔的な存在そのものとして否定・抹殺されるからである(世界のニュースを見れば現代でも異端審問や魔女狩りが行われているのはわかるだろう)。

 

 宗教におけるアヴァンギャルドにはもう一つ危険がある。つまり、真の芸術のように自らの血肉によって独自に生み出されたものではなく、安易な宗教的思想のごった煮、折衷主義によって生まれた新興宗教やカルトが引き起こす様々な問題である。そうした事実を踏まえた時、岡本太郎の言葉は、何と厳しい響きをもって、我々のあり方を問い詰めてくることだろうか。その厳しさは、時代を創造しよう試みる少数の者だけでなく、それを受け止める人々の側にも求められているのである。

 

「すぐれた芸術家は、はげしい意志と決意をもって、既成の常識を否定し、時代を新しく創造していきます。それは、芸術家がいままでの自分自身をも切りすて、のり越えて、おそろしい未知の世界に、おのれを賭けていった成果なのです。そういう作品を鑑賞するばあいは、こちらも作者と同じように、とどまっていないで駆け出さなければなりません。だが、芸術家のほうは、すでにずっとさきに行ってしまっているわけです。追っかけていかなければならない。どうして、こういうものを描いたんだろう――どうして、こうなったんだろうということを、心と頭、全身で真剣に考え、その距離をうずめていかなければならないのです。

 

 創作者とほとんど同じ緊張感、覚悟をもって、逆にこちらも、向こうをのり越えていまという気持ちでぶつからないかぎり、ほんとうの芸術は理解できないものです。つまり、見るほうでも創造する心組みでぶつかっていくのです」(同101p)

 

「だから、創られた作品にふれて、自分自身の精神に無限のひろがりと豊かないろどりをもたせることは、りっぱな創造です。

 

 つまり、自分自身の、人間形成、精神の確立です。自分自身をつくっているのです。すぐれた作品に身も魂もぶつけて、ほんとうに感動したならば、その瞬間から、あなたの見る世界は、色、形を変える。生活が生きがいとなり、今まで見ることのなかった、今まで知ることもなかった姿を発見するでしょう。そこですでに、あなたは、自身を創造しているのです」(同117p

 

 様々な価値観が錯綜し、解く術を失ったかに見える現代、私たちはこの混乱する世界全体を踏まえた新たな創造という難題にゆきづまり、途方に暮れることがあるかもしれない。実際、すべての宗教、価値観を踏まえた新たな神話はまだどこにも生まれていない。しかし、自ら時代を切り開こうと、孤独な創造者であり続けた芸術家の言葉は、私たちを再び立ち上がらせる力を持っている。それは虚無と向き合った一人の誠実な人間の言葉であり、暗闇から逃げなかった勇者の言葉でもある。

 

「まことに芸術はいつでもゆきづまっている。ゆきづまっているからこそ、ひらける。そして逆に、ひらけたと思うときにまたゆきづまっているのです。そういう危機に芸術の表現がある。

 

 人生だって同じです。まともに生きることを考えたら、いつでもお先まっくらいつでもなにかにぶつかり、絶望しもそしてそれをのりこえる。そういう意志のあるものだけに、人生が価値をもってくるのです。つまり、むずかしい言い方をすれば、人生も芸術も、つねに無と対決しているのです。だからこそおそろしい」(同97p

 

 私たちは与えられた心地よさに安住するのではなく、自らの幸福だけを考えるのではなく、常に時代を逞しく創造していかなければならない。なぜなら、新しさの中にこそ愛があり、創造があり、神性が宿るからである。諸行無常の世界において、変化の中に一種の輝きを生み出すこと――その中に、私たちの新たな関係、平和の可能性というものがあるのではないだろうか。私たちは、いつまでも迷い、うつむき、立ち止まっていてはならないのだ。

 

 最後に、すべてのアヴァンギャルドな精神の持ち主たちに、岡本太郎の真っ直ぐなエールの言葉を贈り、この稿を締めくくりたい。

 

「過去のできあいのイメージにおぶさるのではなく、豊かな精神で自分たちの新しい神話・伝説をつくるのが芸術であり、また生活なのです。できあいのものなら、やすやすと認めようとする、奴隷的な根性からぬけだして、新しい神話をたくましく創造していくべきです」(同43p

 

参考文献:「今日の芸術」岡本太郎著(光文社)1954


奥付

 

すべては落ちて、隆起する


著者 : 那智タケシ
 
著者プロフィール:

1971年生まれ。フリーライター。早稲田大学第二文学部西洋文化専修卒。

無我表現研究会主宰。著書に『悟り系で行こう』(明窓出版)、『二十一世紀の諸法無我――断片と統合――新しき超人たちへの福音』(ナチュラルスピリット)がある。編集協力としては『人は必ず老いる、その時誰がケアするのか』本田徹著(角川学芸出版)他多数。

無我表現研究会HP:http://www.mugaken.jp/
著者ブログ:http://nachitakeshi.hatenablog.com/
 

電子書籍プラットフォーム : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/
運営会社:株式会社ブクログ

 


この本の内容は以上です。


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