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芹姫 3

 3 宇宙人との対話

  

 ここから先の会話は、私が手を加えることのできるようなものでもないし、解釈できることでもない。幸い、ボイスレコーダーで録音していたから記録されているが、もしも耳で聞いただけなら、彼女と何を話したのか、まったくもって記憶することはできなかっただろう。これは夢の言語である。夢が記憶できないように、日常の言語パターンを超えたものを我々は記憶することはおろか、表現することもできない。

 

 分量やプライベートな問題もあり、3時間に亘るテープのすべてを開示することはできないので、彼女との対話がどんなものだったかを示す一端だけを録音されたままにここに記してみようと思う。しかし、事前に注意書き代わりに付け加えておくが、こんな会話をどんな形であれ公にすることが許されることなのかわからないし、この対話を読んだ人の精神にどのような影響を及ぼすかも想像できない。人によっては、何かを触発され、悪しき影響が出てしまうかもしれないし、何らかの不安を誘発してしまうかもしれない。夢は真夜中に見て、消えてしまうからこそ遠慮なくありのままの真実を突きつけてくる。もしもそれが日の光の下で生じたとしたら、大抵の夢は見るに耐えないものである。なぜなら、それは私たちの生きる範囲を超えた現象である場合が、ままあるからである。

 

「元々人間である人は、人間であることの尊さを知らない」と芹姫は言った。

 

「芹姫さんは人間じゃないみたいですね」と私は言った。

 

「生物学的には人間です」

 

「魂が人間じゃない?」

 

「魂は誰にもわからないでしょ?」

 

「どういうこと?」

 

「人間になりたいと思っている魂」

 

「妖怪人間みたい」

 

「そのへんは内緒です。だから多い。私のような人は多い。だからね、人は知らない間に人でなくなっていると思う。でもそれを自覚していないからきっと、痛みも感じない。だから人に対して、数学的な、言葉的な意味の何かしか感じない」

 

「人間が悪くなって、人間でなくなっているということ?」

 

「だって、だって意味がないでしょう?」

 

「何が?」

 

「よくなっていても、悪くなっていても、どっちだってよかったんですよ。でも結局、意味がなくなったら、理由がなくなったら、生まれた意味がなくなったら、ここにこうして存在する意味がなくなったら、それは何かができるできないとかそういう問題ではなくて」

 

「それは絶対的な意味があるかないかということ? 生きている意味が」

 

「絶対的な意味が欲しい」

 

「絶対的な意味がないと虚無?」

 

「あのね、絶対的な意味がある許された存在があるとして、もしもその存在をプラスにもマイナスにもできないとしたら、それは絶望なんです。絶望というのではなく、虚無なんですよ、無なんですよ。何かではない。絶望よりも何もない。だから言葉にできない。誰も感覚的に体感したことはないから」

 

「虚無に落ちる人はいる。寸前まで行く人は」

 

「でもね、虚無という名前の感覚を体感する人はいるんですよ」

 

「それは生きている意味がなくなる恐怖?」

 

「だからね、本当の、言葉にできないね、存在しない、無というものを実現する、体感する人間はたぶん存在しない。それは人間ではない。もしも体感している人間がいるというのなら、それはおかしい。体感したことによって人は狂う。生きてなんかいられない、と思う」

 

「恐怖を感じているうちは落ちていないのかもしれませんね」と私は言った。「ぎりぎりで踏みとどまることが恐怖」

 

「私は、たいしたことない。ただほんとわずかな・・・だけど私という存在は無意味だ。私ではなく、他の何かが存在したらよかった。この先、それは悲しい。・・・(聞き取れず)と認識されるのが悲しい。私は、生まれてこないほうが良かった」

 

「それは不幸になるから? 自分が? 誰かの役に立てないから?」

 

「私は、存在自体が意味がなかった。プラスでもマイナスでもなく。無意味だ。こんな・・・(音、聞き取れず)でなければよかった。ごめんなさい。わけわからない話。両親と私と違うのは、精神レベルでも性格レベルでも同じなのに、あの人たちの性格を受け継いでいて、確かにそれはわかるのに、根本が違うと感じるのは、そういうところから、生まれる・・・わかっているのに。電波さんだから言わないの、こういう話は。感覚的なものだし、理屈もつかない、理由もつかない、証拠もない。ただ、認識しているだけ。そんなのは、異常だから。ただ遺伝子も血もつながっているのに違うと感じるし、通常の人間のDNAと遺伝子も形態も同じなのに、人間の形をしているのに」

 

「宇宙人みたいに感じているということ?」

 

「わからない。でもそれは、みんな同じなんでしょうね、とずっと思っていた。今も思っている。でも、たまに戻ってくるものがあるの」

 

「戻ってくる? 何が戻ってくるの?」

 

「なんか、全然違うもの。説明つかない。それは無を表現すると同じ感じ。だから無を表現することは難しいからそれと同じ感じ」

 

「それは虚無感とは違う?」

 

「全然違う」

 

「ネガティブでもないんだ?」

 

「説明がつかない。ただ、魂と・・・だから人間という存在は意味を見つけるために、わかんない。見つけたくて生きているのかもしれない。でも、私はたぶん、きっと意味はあって、そのために何をするのかがあって、生きているような気がする。私がきっと主体的に見えないのはそれもあるし」

 

「意味があるってこと?」

 

「意味はない。ただのひとつの末端の何か。だからそれは自分という、芹沢涼子という人間ではなくて、何か、本当に、無に帰る何か。わけわからないですね、芹姫と名乗ることで、きっと話してしまうのだろうなって。時々、私という人間や肉体というか精神が傷つけられているから。時々、そういう空間に出ちゃう。なんでもない」

 

「幽体離脱しているみたい?」

 

「だから、私という何かがここにいれる時間に、別の何かがここにいるべきだった。そしたらきっと、非常に有意義な何かを得られたと思うから。同じ結論であったとしても、同じ流れであったとしても、と、思う」

 

「芹姫さんはどこか他の星から来た人みたいですね」

 

「他の星からは来ていない。地球上からしか生まれていない」

 

「でも、人間じゃないみたい」

 

「人ですよ。体も遺伝子も」

 

「じゃあ、地底人。地底から来たの」

 

「地底ですか?」芹姫はびっくりした様子で言った。

 

「地底に存在していた前の世代の人間みたい」

 

「SF的ですね」

 

「その魂が生きづらい」

 

「それは小説が一本書けますね」芹姫は、急に皮肉めいた口調で言った。「でも、私の話は小説にすらならないんです。なぜなら、どこにも主人公がいないからです」

 

 この時すでに、私は、彼女の本を書くことを断念していた。彼女の宇宙を表現することは私の手に余ることだった。何とか、互角に渡り合っているように装っていたが、実を言えば芹姫の存在感に圧倒されていた。彼女には、私の言葉が通用しないことは明白だった。エゴの超克という領域に、最初から彼女はいなかったのだ。彼女は最初から救われている存在であると同時に、真実そのものであるがゆえにそれを伝えることも表現することもできないという致命的なジレンマを抱えた薄幸の存在だった。

 

 彼女のことを理解する者はおそらく誰一人としていなかったことだろう。理解者も、愛する者もいなかったことだろう。もしかしたら一人くらいはいたかもしれないが、その人もまた浮世の荒波に耐えることはできず、藻屑となって消えてしまったことだろう。そこには誰知らぬ偉大な物語があったのかもしれない。しかし、それは誰も知らない物語だ。その物語をこそ誰かが書くべきなのかもしれないが、そのストーリーが記された石版はきっと、誰にも発掘されることはないだろう。真実の物語というものは、地中深くに眠っているものなのである。

 

 私は、本能的に彼女の真実を感じ取っていた。その絶望と愛の深さも理解していた。だからこそ彼女は私に助けを求めたのだ。自分のことを理解し、表現してくれる媒介者として、初めて会った私に全面的に身を任せたのだ。しかし、当時の私にとって、彼女は自分の存在を脅かす巨大な矛盾そのものに見えた。そう、私は敗北宣言をし、尻尾を巻いて逃げ出したのである。

 

 あのまま彼女と一緒にいたら、間違いなく虚無以前の「無」の中に取り込まれ、逃げられなくなっていただろう。あの時の私にはまだ、その「無」の世界を乗り越えるだけの力を持っていなかった。私にとって、彼女はまさに宇宙人そのものであり、人間的な思考の彼岸にある、存在以前の神の具現化そのものであった。

 


芹姫 4

 4 祝福

  

 芹姫との会話は、この小説を書くにあたって意を決してテープを起こすまでまったくもって覚えていなかったし、彼女の存在さえ、私の人生からきれいに抹消されていた。芹沢涼子は、私の人生を通り過ぎた様々な道化師や、凡人愚人、奇人変人たちの演舞者の一人に過ぎなかった。「あんな人もいたな」と思い出すことはあっても、それはまさに夢の中の現象のようにおぼろに感じるだけだった。するうち、本当にそんな人間がいたのかさえ、疑わしくなってきた。夢は、記憶に残らないものなのである。

 

 しかし、例えこの世にはあり得ない現象ではあっても、その強烈な光輝によって、人間のもっとも深い部分に刻印される体験というものがある。それは日常生活の中であろうが、夢の中であろうが、前世の記憶であろうが、集合無意識の体験であろうがかかわりなく、その人の魂の深奥の部分に刻み込まれ、知らず知らず彼の人生を規定するものとなる。

 

 人間の本質を規定するものは何かといえば、積み重ねてきた経験や知識でも、それによって形作られた「自我」でも、才能でも、環境でもない。それは、真実の強度である。

 

 つまり、量ではなく、質なのだ。たった一回でも、遥か高みへ、あるいは恐るべき深さを体感すると、その体験は意識的にであれ、無意識的にであれ、一人の人間の全人生を規定するものとなる。彼はその地点からしか歩けないし、物事を見ることはできない。その時点で、一人の人間の人生の中で最も強度のある体験こそが、彼の世界の最果てであり、深さ、高さの限界点なのである。イエス・キリストの十字架の前に跪いた人々は、その十字架を背負って生きていくことになるだろう。ここに、宗教が始まるのだ。だが、真に宗教的な人間は、十字架の先へと歩き出さねばならない…

 

 さて、3時間余りの取材を終えた我々は、ファミレスを出て駅への帰途についた。芹姫の家(実家ということだった)とは逆方向とのことであったが、駅まで見送ってくれることになった。外に出ると、日は落ちかけていて、世界は幻想的な赤銅色のベールに包まれていた。私と芹姫は、来た時と同様、ひと気ない侘しい裏道を黙々と歩いた。この見知らぬ街で、このような奇妙な女と二人きりで歩いていることに運命の不思議を感じたが、もう二度と会うこともないのだと思うと、相手に対して優しい気持ちになっていた。もしかすると、それは気まぐれな憐憫のようなものだったのかもしれない。

 

 みすぼらしい公園の傍を通りかかった時、ある種、吹っ切れた気持ちになっていた私は、「一服しませんか?」とくだけた調子で誘った。芹姫はどこかおどおどした様子でうなずいた。何やら、個人的な接近を警戒している風だったが、世慣れていない様が愛らしくもあった。煙草が切れていたので、私は古ぼけた酒屋の横に自販機を見つけ、購入しようとした。ジーパンのポケットから小銭を取り出した時、ふとした拍子で50円玉がこぼれ落ち、アスファルトの上を転がって、鉄柵のあるどぶの中に落ちてしまった。私が無視して煙草を買おうとした時のことである。目の横にぎょっとする光景が飛び込んできた。芹姫がどぶ川の鉄柵を外し、50円玉を拾おうとしているのである。

  

「汚れるからいいですよ」と私はあわてて言った。

 

 しかし、鉄柵を外した芹姫は道端にしゃがみ込み、迷いなくどぶ水の中に手を伸ばして、小銭を拾った。そして、バッグから取り出した色褪せたピンク色のハンカチで丁寧に50円玉をぬぐうと、うれしそうに――本当にうれしそうに――笑って、その銀色に光る小さな硬貨を道路にひざをついたまま差し出したのである。50円玉はぴかぴかに光っていたが、その生白い骨ばった手には泥水のしずくがまだらにつき、袖口にも黒い染みがついていた。

 

 瞬間、彼女の額が黄金色に発光した。最後の陽光がその蒼白い額を打ち、知らず知らず、偉大な恩寵を授けていたのである。それは、誰一人として彼女を認めることがなくとも、誰かが彼女を愛していて、祝福していることの証であった。彼女は、愛されていたし、許されていた。しかし、彼女自身は、その祝福を受け取ることも、愛されていることも理解していないのだ。そこに彼女の美しさのすべてがあり、不幸の原因があった。

 

 その黄金色の光の中で、中年の病的な女は少女のようにあどけなく微笑み、見返りのない愛を差し出している。どぶ水に汚れていて、ゆがんだ顔をしているが、このような美しい女を私は知らなかったし、見たことも聞いたこともなかった。それはこの世の美ではなく、別の世界からやって来たがゆえに、決して汚されることのない純真の美であった。しかし、その美しさは恐ろしくもあった。あまりにも尊いがゆえに、俗人には触れることのできない禁忌の領域からやってきた何ものかであった。

 

 このような人間の奉仕を遠慮なく受け取る資格のある人間が、いったいどれだけいるだろう? 私は呆然としたまま、しばらくその50円玉を受け取ることができなかった。いや、受け取りはしたが、こともあろうに、彼女の目の前で、そのまま自販機の投入口に50円玉を入れてしまったのである。それは、私の人生で最大の失敗の一つであり、この失敗こそが(書きながら気づいたのだが)、芹姫という存在を記憶の底に封印する原因となっているのであった。私は、彼女の差し出したこの世のものとも思えぬ貴重な宝石を、大量生産されたひと箱の煙草に代えてしまったのである。

 

 動揺した私は、「ごめんなさい、やっぱり帰ります、お見送りはここで結構です」と言って、どぶ川の傍にしゃがんだままの芹姫を置き去りに、逃げるようにその場から走り去ってしまった。そして煙草を駅のゴミ箱に投げ捨てると、その日から、二度と煙草を吸うことはなかった。

 

「あれだけヘビースモーカーだったのに、よく煙草やめれたね?」と様々な人から言われたものだが、これが私の禁煙した理由である。

 


自己浄化の方法と心身脱落について

自己浄化の方法と心身脱落について            

 

 肉体的、及び心理的傷みとは何のためにあるのか? どうやったらそれは一人の人間から消えうせるのか? この大問題に対して、とある体験から一つの出口を見出したので、もしも肉体的病、及び極度の精神的苦悩がある方は参照にされたい。ただし、これは個人的な一例に過ぎないことを先に明記しておく。

 

●肉体的病の浄化について

 

 自分は幼少期から30年間、ある慢性的病(呼吸器系の病とだけ言っておく)に苦しめられてきた人間で、拙著に書き記したような「私」から「世界」への主体的認識の転換(俗に言う悟り体験?)があった後も、「病の苦しみを取り除きたい、治したい、排除したい」という本能的欲求を消すことはできなかった。自我を形成しはじめた頃からの生理的条件付けが、今もなお自分自身を支配していた。現代の医学に限界があるのなら、と、ある種の心霊治療に心引かれたこともある。リスクを犯した外科手術を施しても、それは数年すると悪化してしまうのである。

 

 ところが、先日のとある体験を境に、「苦しみの受容」による劇的な治癒という現象が生じたのでここに記しておきたい。しかし、これは非常にデリケートな問題であることは理解しているので、できうる限り虚飾なく、客観的に表現しなくてはならない。とは言っても日が経っていないこともあり、ある種の高揚が滲み出てしまうことは避けがたい。もちろん、後々この体験を客観視し、その原理構造を論理化することも可能だろう。今は「体験レポート」として、ある種の臨場感を損なわぬよう書き進めてみたいと思う。

 

 猛暑日が続いたとある夏の晩(2011820日)のことである。20年前の呼吸器官の手術の後遺症により、自分は激しい肉体的苦痛に苛まされていた。このような激烈な苦痛の症状が出るのは3度目で、前は夜中に鎮痛剤を求め、一晩で救急病棟に2回ほど駆け込んだこともある。それでも痛みは治まらず、顔面は腫れ上がり、バファリンを1日に10錠飲んでいた(これは頭が朦朧とするばかりで効かなかったが、あれは数を飲んでも効果が上がるものではないと医者から注意された)。しかし、今年は一週間ばかり鈍痛が続くものの、そこまでの激痛は始まらず、顔面も腫れ上がらず、ほっとしていたところでついにそれが来た。

 

 最初、ああ、ついてないなぁ、と思い、痛みに耐えていた。前のようにならないことを祈るのみだった。人間には、決して耐えられぬ肉体的苦痛というものがあるのである。ただ、どちらにしろ逃げられないのなら、この痛みをとことん味わって何かを学ぼう、と腹をくくって待つことにした。ここまでの苦痛は、逆に貴重な体験であろう、と。

 

 この時、ひょんなことを思いついた。それは、この痛みは、誰かの痛みの肩代わりなのではないだろうか、というものであった。世界には苦しみの総量があり、自分がその苦しみの一つを担っているのだ、と。これは思いつきというよりも、なぜか間違いのない事実に感じられた。誰か見知らぬ罪なき子供の痛みを肩代わりしているのなら、もっと味わいたい、自分が味わって苦しみ、痛みを浄化してやりたい。すると、「もっと痛くなれ、もっとこい」という風に、いつもと真逆の態度で痛みに関係することができた。痛みの中に入り込み、とことん味わう。それは苦痛ではなく、喜びなのだ。苦とは、天から授けられた恩寵なのだ。母親が、自分の子供の痛みを肩代わりできるというのなら、こんな風に思うに違いない。だがそれを自分の子供ではなく、見知らぬ罪なき子供たちのために、と真に感じることができれば、それは愛情を超えた慈悲になることに気づいた。そこには、我が子への執着さえないからである。

 

「世界に無数に存在する苦しみの一つを消すために、あなたの苦しみは存在する」

 

 こんな宗教がかった言葉が脳裏に生まれた。誰もが、痛み、苦しみを請け負っていたのである。

 

 痛みの排除ではなく、受容が始まった。痛みは自分の中に入り込み、溶け込み、消えていった。すると不思議と痛みは痛みでなくなり、喜びとなった。何か、ドーパミンのような脳内物質が出たのは間違いないだろう。しかし、それは単に心理的トリックによるものではなく、「慈悲の場」とでもいうべき何かが自分の中に生まれたことによるものだという確信があった。

 

 慈悲は、痛みを溶かし去り、足の下から抜け落ちるように消していった。それでも、物理的苦痛は治まらなかったが、心理的側面において苦痛はもはや苦痛ではなかったので、むしろ貴重な時間となった。もっと苦痛が長引いて欲しいとさえ思った。一分一秒でも長く。これから、自分は肉体的不快感、苦痛に対して、「自分の痛み」とは思わないことだろう。それは「世界の痛み」であり、自分に与えられた痛みは、その人の使命、役割に合わせて盛られた分量なのだ、誰かの痛みを消しているのだ、と。すると長期に亘って自分を苦しめてきた慢性的な不快感さえ、「痛みへの感謝」へ変わった。

 

 翌朝、目覚めると、痛みはきれいさっぱり消えうせていた。それどころか、長年に亘って自分を苦しめてきた慢性病による不快な症状もほとんどなくなっていることに気づいた(よく、「癌に感謝して治った」などという奇跡話を耳にするが、自分にとってこの病の克服は同様の意味があった。まともに呼吸ができるということの解放感!)。これが束の間の恩寵ではなく、真の自己治癒であることに疑いはなかったが、それでも「たまたまではないか」と恐怖した。とりわけ、慢性病は、数十年に亘って自分を苦しめてきた物理的な障害であり、根本的に治るものではないからだ。実際、幾度か隆起したが、それはもはや不快なものではなく、苦しみを受容する度に、症状が劇的に治まるという肉体の不思議を味わった。今では、何一つ薬を使っていない。

 

 どちらにしろ、「苦」は「苦」ではなくなった。一切は感謝によって受容されることにより、浄化されて消えてゆく。心のあり方が、肉体にも影響を及ぼすことは明白であった。もちろん、心理的メカニズムと肉体的なそれは一つのものであり、ある種の脳内物質によって、唯物論的に説明がつく現象なのかもしれない。しかし、その源にあるものは、個人的枠組みの外からやってきた慈悲の流れそのものであることに疑いはなかった。

 

●精神的葛藤の浄化、心身脱落について

 

 さて、この肉体的苦痛の浄化方法の発見は、すぐさま精神的苦痛、葛藤の浄化に応用できることに気づいた。それは葛藤による苦しみに対し、次のような心構えを持つことを意味する。

 

 世界には今、苦しみの総量がある。個人的苦しみというものは存在しない。何か人から葛藤を与えられた時、悲しい時、苦しい時、それはあなたが担い、浄化するべき仕事として与えられた「苦」なのである。あなたがそれに気づき、味わい尽くし、消してゆくことは、誰かを助けていることになるのである。それらに感謝し、受容し、味わうこと。戦わないこと。他者の「苦」として受け入れること。世界の一員としての使命感。

 

 実際、これを実践すると、不思議なことに「葛藤」「苦」が抜けてゆくのがわかった。病が抜ける感覚と同じであった。ありとあらゆる葛藤が抜け落ち、自分の中に留まらない。下へ、下へ、抜け落ちてゆく。

 

 ああ、この葛藤、苦しみはもはや自分の「我」のものでさえない。これは他人の「我」だなという感覚があった。これまで「自我」が縮小すれば「世界」は拡大する、という認識はあった。しかし、「自我」はあくまで自我であり、忌むべきものであった。ところが、もはや「自我」さえ存在しないことに気づいた。それは世界に集積された我の一部であり、つまり、「他性の我」なのだ、と。誰かの味わうべき心理的葛藤を、今、自分が世界から与えられ、それを味わって浄化している。それは心理的トリックではなく、明晰な事実だと感じられた。すると自我の底蓋がなくなり、抜け落ちて、一向に留まらなかった。何か感情が溢れても、それは真下に抜け落ちてゆく。何か葛藤、疑念が生まれる度、「ああ、来たな、喜んで」と思えた。それは誰かの葛藤であり、苦しみなのだ。

 

 苦しみに「個性」は存在しなかった。その苦しみは「我」のものではないゆえに、自分の中につかまる場所を持たなかった。すべての葛藤はつかまる場所をなくして滑落し、下へ、下へと滑り落ちてゆく。すると瞬間的に生じる葛藤のみならず、これまで贅肉のようになって蓄積し、自分のパイプを詰まらせていた自我の残り滓が、次第に浄化されることがわかった。それは自我の完全な終焉を意味するのではなく、瞬間、瞬間に生じた葛藤を滑落させるパイプを太く、きれいに掃除する感覚であった。もはや、自分の中には何一つ本質的葛藤は留まらないのだ。

 

 一晩、歩きながらその状態を味わい、抜け落ちて留まらない心身状態を心行くまで楽しんだ。星は美しく、空気は澄み渡り、浄化された世界は感謝と慈悲に満ち満ちていた。自己浄化は遍満する喜び、慈悲の終わりなきシャワーであり、世界をも浄化する力を持つことを知った。世界の浄化とはすなわち、他者の苦しみ、悲しみの理解であり、受容である。しかもこの慈悲深きエネルギーの流れは、悟りを追い求めるようないちかばちかの賭けではなく、感謝と受容のプロセスを通して、誰にでも味わえるものなのだ。

 

 禅用語に、「心身脱落」という言葉がある。これは禅宗の祖である道元禅師の言葉であるが、「心」も「体」も幻想であると見抜き、執着しないことで、それはこの世から抜け落ちてゆくといった意味らしい。自分の場合も「抜け落ちる」という感覚は同じであり、これは禅の世界でいう「心身脱落」なのかな、と思うようになった。もちろん、禅僧でもなんでもなく、座禅さえまともにしたことがない自分が「心身脱落した」と言うのはおこがましいし、勘違いなのかもしれないが、自分の自我の底が抜け落ちて、身体的苦痛も、精神的葛藤も何も留まらない状態は、「心身脱落」という言葉がどうしてもぴったりくるので、勝手にこの禅用語を使わせてもらっている。むろん、それは禅の世界の「心身脱落」と違う、というのなら別段反論はしない。単に、「葛藤、苦痛が自ずと抜け落ちていく状態」と言い直してもいいのだから。

 

 ただし、この状態は、完全に自我がなくなるのとは違う。なぜなら、心身脱落しても、常に「我」は生まれるからである。不条理な現象に満ち満ちた日常生活の中で、「葛藤」は際限なく生まれる(それは確認した)。時には、あまりの不条理に出会うと、葛藤が溢れ出し、浄化装置が根詰まりを起こすことさえある。それでも、その葛藤、苦しみは、ほどなく抜け落ちてゆく。前は、シャワーのように小さな穴しか開いていなかったものが、何百倍もの穴の大きさになった気がする。その穴からは、時に、巨大な滝のように水しぶきをあげて落ちるような大きな悲しみの感情もあるだろう。誰かに、水しぶきを浴びせて迷惑をかけてしまうことさえあるかもしれない。しかし、それは多少時間がかかることがあっても、必ず抜け落ちる。これは肉体的苦痛に対するのと同様、「受容」と「浄化」の原理によるものである。

 

 さて、ここで「悟り」と呼ばれる現象についてもひとこと述べておきたい。徹底した「自我」凝視による「自己解放」の体験から、「我」は幻想なりと認識することは、自我を中心におかない生き方の最初の一歩として極めて重要なプロセスである(これは拙著で記した体験である)。しかし、瞑想によるものであれ、座禅の果てによるものであれ、クンダリーニの上昇によるものであれ、「自己解放」の神秘体験は、エクスタシーを伴うがゆえに、この体験を「悟り」のゴールとし、これで絶対幸福に至ったとする幻想が生じやすい。また、仮に体験があっても、それを知的イメージとして硬化してしまう限り、自我は体験とセットになって肯定されることによって拡大し、魔境に陥る危険性もある。

 

 心身脱落は、刹那の見性とは真逆のベクトルを持った動的方法論である。それは、一切の体験を「気づき」と「受容」によって浄化し、落としてゆく現在進行形の作業であり(この時には神秘体験さえ執着せず、落としていかねばならない)、それによって貫通した太いパイプに、慈悲のエネルギーを貫通させることである。この終わりなき「苦しみ」、「悲しみ」の受容が自身の内的浄化から、他者のそれへと及ぶとき、「慈悲」が拡がり、世界は澄み渡る。それゆえに、この浄化作業に終わりはなく、ゴールなどというものは存在しない。しかし、慈悲による万人の悲しみの浄化それ自体の中に喜びがあり、創造があり、真の解放があるのだ。

 

 心身脱落とは、自己の「悲しみ」だけではなく、万人の「悲しみ」を受容し、落とし、世界に還元する「慈悲の場としての身体構造の確立」のことを言うのである。

 

(エッセイ集「窓」第18集(明窓出版)収録作品)

 


ダンテス・ダイジによる超越的境地の肉体的表現について

 ダンテス・ダイジによる超越的境地の肉体的表現について

  

 今、スピリチュアルと呼ばれる世界の表現の多くは手垢がつき、何の共感もないし、魅力も感じないとうのが私の本音であり、本メルマガでもその手の話題は意図的に避けてきたのだが(アセンションやら、引き寄せやら、スピリチュアルのごった煮のようなブログは嫌というほどあるではないか)、宗教的アプローチで自我を超えた境地にある存在として、稀有なる表現者の一人であったダンテス・ダイジについて語ることは「無我表現」という見地からも許されることだろう。

 

★ダンテス・ダイジ=(1950213日-19871211日)は東京都出身のタントラ・ヨーガ・グル、座禅老師。本名は雨宮第二。物心ついて以来、誰に教わることなく座禅瞑想を続ける少年だった。1968年、師・伊服部隆彦の詩集「無為隆彦詩集」を読んだ後に心身脱落・大悟徹底。以降、古神道の体得を目指し、沖縄県首里にて臨済宗の老師・木村虎山のもとで見性を許される。その後、インドでババジ直系のクンダリニー・ヨーガを通じて究極の解脱に達したとされるが、1987年に東京都福生市の自宅にてガス爆発により死亡。自殺、事故両説あるが未だに事実は不明である。(ウィキペディアより)

  

 私は彼のヨーガの技法や、禅の只管打座の技法をまとめた『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』などの修行本(一部にはオウム真理教の修行のネタ本とされる)にはほとんど興味を惹かれない。呼吸法等の延長による神秘体験がもたらす覚醒というものは肉体的にも物理的な頭脳という面においても、たいへんな危険が伴い、また意識の人工的拡大体験がエゴと結びつくことの危険性について懸念する。これは頑なな真我論者にも見受けられるが、世界の中核に何らかの実在(永遠の自己であれ何であれ)を認め、それと合一する体験なり認識は、エゴの否定、放棄、破壊による「私」なき世界認識の可能性を奪いかねない方法論であると感じる。(私がお勧めするのは日常の中、自己中心的で醜悪なエゴの働きをただただ見つめる一点突破であり、クリシュナムルティの言うところの選択なき気づき、すなわち動的瞑想である。)

  

 只管打座による内観はともかく、クンダリニー・ヨーガによるエネルギーの上昇は、その人の人格、生活を崩壊させる危険さえあるだろう。クリシュナムルティはこの技法のことをひとこと「気狂いになりますよ」と否定していたらしいが、少なくとも日常生活の中で開かれた真実を体現する時代において、一般的に必要とされる技法でないと私は思う。もちろん、正しい師がいれば別なのかもしれないが、まがいものが横行する現代において、あえてその方法を選ぶ必要もないのではなかろうか。

  

 確かに、ダンテス・ダイジは危険な存在である。ヨーガの技法うんぬんではなく、存在それ自体がラディカルにすぎるのである。彼は、あまりにも行きすぎているし、あるいは、あまりにもクラシカルすぎる。その行きすぎである点が、彼がマイナーなカリスマに留まる理由である。それにしても、ダイジの残した代表作である『アメジスト・タブレット・プロローグ』を見る限り、現代の“スピリチュアルままごと”と比べて何と真剣な響きに満ちていることか!

 

  

 冥想は、最もあたりまえで気楽な

 

 久遠の戯れである。

 

 しかし、現代人にとっては、

 

 自己理解と直観にともなうエゴの消滅は、

 

 すなわち真実の冥想修行は、

 

 発狂や死の覚悟を必要とせざるを得ない。

  

(アメジスト・タブレット・プロローグp48

 

 

  禅でよく言われる、

 

 自我の死、大死一番とは何をさしているのだろうか?

 

 もちろん、自我の死、あるいは、

 

 クンダリニー・ヨーガにおける、

 

 肉体上の死と復活が、

 

 善悪を越えた

 

 まったく新しい善悪という自由を実現することは、真実である。

 

 自我の死とは、自我の知覚する全宇宙の死であり、一切万象の滅尽であり、一切

 

 万象それ自身の目覚めである。

  

(アメジスト・タブレット・プロローグp66

 

 

 空とは、体験ではないし、

 

 まして、神秘体験とか、実在体験とか、宇宙意識の体験なぞといったガラクタで

 

 は、断じてない

  

 空もしくはニルヴァーナとは、

 

 心身脱落であり、全体脱落である。

 

 宇宙脱落であり、絶対者脱落である。

 

 空もしくはニルヴァーナには

 

 どのような痕跡もない。

 

 神もしくは絶対者のあとかたさえもない。

 

 しかも、

 

 それは、目覚め切っている。

 

 充実し切っている。

 

(アメジスト・タブレット・プロローグp172

 

 ダイジの詩作には、既存の宗教的覚者には見られない、ある肉体的境地がうかがえる。私は「肉体的」と言ったが、これは「実存的」と言い換えてもよいかもしれないし、「個人的」と大胆に翻訳してもよいだろう。すなわち、エゴを超越した経験、体験、感覚というものは、逆説的に、個人という肉体を通してのみこの形而下の世界に顕現されるということである。質的変容が生じた肉体には、必ず独自の身振り、笑い方、話し方、関係の仕方という個性が生じる(人格の成熟とは関係がない)。ここにおいて初めて、“超越的個人性”とでも言うべきものがこの地にきらめきわたるのである。例えば、以下のような言葉にそれは顕れている。

 

  

 救世主とは

 

 君が死んだ君自身のことにほかならない

 

 救世主とは

 

 救済すべき何ものもないことに

 

 目覚めた君自身のことにほかならない

 

 (アメジスト・タブレット・プロローグp18

 

  

 君が慈愛を感じたり

 

 君が何かを愛したりすることはない

 

 君がすでに死んでいるのなら

 

 慈愛のみが満ち渡っている

 

 愛のみが満ち渡っている

  

(アメジスト・タブレット・プロローグp21

 

真の表現者は常に、自ら表現するものへ一個人として全的責任を持ち、リスクを背負う。その背水の覚悟こそが――痛ましいまでの創造者としての圧倒的な孤独な運命の自覚こそが――個人という枠を超えて他者に届く祈りのバイブレーションとなるのである。誰かが唱えた真実の棒読みは残念ながら、宇宙的真実の体得ではなく、その人が外から導入した観念と一体化しているにすぎないことの証なのだ。

  

 ダイジの詩作は、あの超越的原理を感得したことによる力強さのみならず、時に、柔弱と言ってよいほどに極めて繊細で、人の弱さに対する慈悲に満ちており、それが一つの魅力なっている。その繊細さは、道元へのシンパシーからも感じられる。

 

 

人間になれなかった道元かわいそうな道元よ

 

あなたは その全生涯を

 

奥深き冷厳な山林にありて

 

人間になろうと全身全霊で

 

努め励んだ

  

今・吾・ここにて

 

道元老古仏に深く深く深く

 

帰依したてまつります

  

あなたは 人間になろうとして

 

只管打座の日々を送り

 

「正法眼蔵」を著述した

 

あなたの言う正法眼蔵が

 

人間そのものに他ならぬことを

 

私は知っている

 

しかもあなたは

 

決して人間になれなかった

 

道元よ

 

あなたはあまりにも弱すぎて

 

人間ドラマを愛することはできても

 

人間ドラマを演ずることはできなかった

 

そして肺結核で若死して

 

その人間への仏道修行を閉じた

 

あなたは煩悩を生きるには

 

余りにも弱すぎたのだ

  

今・吾・ここにて

 

道元老古仏に深く深く深く

 

帰依したてまつします

  

あなたは人間の限りない喜びと悲しみ

 

そして虚無と

 

それら一切を現成せしめる山河大地とを

 

果てしなく見切った

 

だがあなたは「修証一如」という

 

悪知恵によって

 

煩悩の汚濁を見渡したが

 

ついに煩悩そのものへは帰れなかった

 

太郎や花子は煩悩そのものを生きている

 

煩悩そのものの人間ドラマには

 

煩悩も悟りもない

 

かわいそうな道元よ

 

あなたは すべてを知りすぎた

  

今・吾・ここにて

 

道元老古仏に深く深く深く

 

帰依したてまつります

  

あなたは貧しい仏道者だ

 

余りにも心の貧しい仏道者だ

 

あなたは終生

 

心貧しき仏道者として生き切り

 

ついに豊かな人間達にはなれなかった

 

二十世紀末の今日

 

フーテン娘は

 

赤ん坊をコインロッカーの中に捨てる

 

デリケートな現代人達は

 

山林の自然を恐れて

 

都会のネオンサインの中へ逃げる

 

平凡なサラリーマンの一家団らんの中には

 

肥大した自意識同士の

 

言葉にならない戦いがあり

 

工場労働を本当に楽しんでいる工員は

 

一人としていない

 

悟りという愛情ならぬ愛情を

 

求める気力のない哲学青年は

 

流行歌手の歌声と

 

睡眠薬とガス管の中に自殺する

 

そして私は

 

これら本当に豊かな

 

人間の苦悩という営みが

 

二十世紀末の今日だけのものでないことを知っている

 

そして道元よ

 

あなたはこれらあらゆる人間達の

 

豊かな営みそのものになろうとして

 

ついになりえなかった

  

今・吾・ここにて

 

道元老古仏に深く深く深く

 

帰依したてまつります

  

今・私は説法しよう

 

あなたの古仏としての営みは

 

山河大地のみではなく

 

あらゆる人間達の営みそのものであったことを

 

森羅万象や無数の生命達の

 

営みなどどうでもよい

 

あなたの只管打座は

 

人間の限りなく豊かな営みそのものであった

 

万里一条鉄の大生命などどうでもいい

 

私は 今・ここで

 

あなたとともに叫ぶ

 

私は人間だ

 

果てしない喜びと悲しみとを持った

 

たった一人の

 

かけがえなく豊かな人間そのものだ

  

今・吾・ここにて

 

人間道元に深く深く深く

 

帰依したてまつります

 

 (「絶対無の戯れ」より)

 

 

  道元老古仏は

 

 その究極性においては

 

 釈迦老古仏よりも

 

 余りにも純粋だ。

 

 それゆえ

 

 道元の只管打座は

 

 いかなる意味でも

 

 釈迦や老子などの

 

 円熟に至ることはなかった。

 

 道元よ

 

 余りにも余りにも純粋透明な何者かよ。

 

 21世紀の水晶の中の水晶よ。

  

(アメジスト・タブレット・プロローグp30

 

 これらの詩作を通して、我々は確かに、この地に二本の足で立って存在し、泣き、笑い、愛し、一つの運命を十全に生きた一人の人間に出会うことができるだろう。一人の血の通った、強くもあり弱くもある、温かみある人間の息吹が感じられることだろう。個人性を超えた体験、境地が個人という肉体を通して現れる――この逆説は、受肉化した神であるところのキリスト的存在の秘密でもある。普遍的真実は、常に、「究極の個人性」を通してのみ表現され得るのである。

 

 我々は、真実を感得し、それを自らの肉体でもって表現するために生きている。すなわち、愛の顕現のために、あなたの手と言葉、あなたの微笑み、あなたの眼差しはあるのである。その肉体的表現の最も率直な例として、最後に、ダイジの次の作品を紹介して、この稿を終えたいと思う。

 

  

 だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ

 

 

 だいじょうぶだよ

 

 君は必ず死ぬ

 

 死んだら

 

 あたたかい夜のぬくもりの中で

 

 君と僕は

 

 君と僕のいのちを

 

 あたためあう

 

 夜闇のフクロウも

 

 僕達の命だ

 

 フクロウの鳴き声が

 

 静かに僕達の瞳をしめらすことだろう

 

  

 だいじょうぶだよ

 

 君は必ず死ぬ

 

 死ぬべき君には

 

 もうどのような恐れも無用だ

 

 そして僕達は

 

 時間を忘れた夜明けの

 

 すがすがしい大気を吸い込む

 

 まるで初めて

 

 大気を吸い込んだように

 

 僕達は

 

 夜明けの息吹を感じることだろう

 

  

 だいじょうぶだよ

 

 やがて死ぬ時が来る

 

 僕達の宇宙ゲームを終らせて

 

 夢もない眠りに

 

 やすらかに帰る時がくる

 

 初めがないここには

 

 生も死も

 

 初めから夢にすぎなかった

 

  

 だいじょうぶだよ

 

 君は必ず死ぬ

 

 さあ今 君は君自身に帰る

 

 帰っておいで

 

 君自身である

 

 僕自身の胸の中に

 

 

 人々は

 

 どういうわけか

 

 死をいみ嫌っていた

 

 だが だいじょうぶだよ

 

 君もやがては死ぬ

 

 死が

 

 君にすべての生命達との

 

 ふれ合いを教えてくれる

 

 だいじょうぶだ

 

 君は死なないのだから

 

 生と死の中をつらぬき

 

 やさしさが

 

 いつも響いていた

  

(『絶対無の戯れ』より)

 


恩寵体験者への手紙

 恩寵体験者への手紙

  

※この手紙は、MUGA増刊号445号の「恩寵体験者との対話」の対談相手であるTさんへ、対談後に個人的に送ったメールが元になっています。悟りや神秘体験に関して普遍的な問題を含んだ内容であるかもしれないと感じたので、少しばかり加筆・修正して編集し、一般的な形に改稿して掲載させていただくことにしました。

 

2015227

  

Tさま

 

 おはようございます。対談を読み返してみて、ぼくも好きなことを言っていて、Tさんの疑問のかゆいところに触れていないような気もしてきました。ぼくの言葉が新たな迷いの種になってはいけないので、思ったことを少し連ねますね。響いたところだけ受け取ってください。

  

 疑問に思っている自分、恐怖を感じている自分、苦しい、葛藤に満ちた自分というものがどこにあるか? その苦しみそれ自体が、今のご自身それ自体だと思っていらっしゃるかもしれません。けれども、熟して落ちた柿の実のように、いずれその疑問も地に落ちて世界の一部になるだけだと思います。

  

 恩寵というものは、一つの自我を超えた絶対的な世界体験ですね。それは迷いのある自我に手を差し伸べるように届いた光だからこそ恩寵であり、圧倒的なのです。それはそれで確かに真実です。世界の目に見えぬ豊かさそのものです。

  

 それでは、中核にある自我が石ころと同じだけの価値しか持たぬ、世界の一部だとしたらどうでしょう? 

  

 ただ世界があるだけであり、俗がそのまま聖となって、転化するわけです。花は紅、柳は緑というのはそういうことで、あるがままのものはあるがままのものそれ自体として存在することで聖なるものとなる。

  

 ですから、もしもその苦しみを根源的に解消することを切に望むならば(不幸なことに、そこまでの絶望に至ってしまったならば)、恩寵に留まろうとするのではなく、維持しようとするのではなく(それは川の流れや風と同じように過ぎ行くもので維持できるものではありません)、一体化しようとするのではなく、まずはその一体化しようとしている自分というエゴを直視し、その真実を見極め、認識し、解体してゆく作業が必要になります。つまり、卑小な自我の外にある豊かさを味わうのではなく、卑小な自我そのものを――そのものだけを――問題にしなくてはならないのです。一切の脇目を振ることなく。驚かれるかもしれませんが、むしろ、この自己認識の道においては、恩寵体験それ自体が弊害になってしまうことさえあるのです。

  

 絶望者は、どうしても自分の絶望の正体に正面から向き合わなくてはなりません。それをしなくては本当に心から笑うことも悲しむこともできず、生きていくことができないとしたら、その虚無を産み出すものは何かを探しあて、解決しなくてはなりません。すなわち苦しみの表層から始めて、勇気を持ってもっとも見たくない、自我を成り立たせている中核の正体(それは何か大事なものへの依存心かもしれないし、自己愛かもしれません)を直視せざるを得ません。そしてその葛藤を一つひとつ味わい、理解し、見極め、壊してゆくという地道な作業に取り組むほかないのです。自分の中で、何一つ迷いがなくなり、他人の言葉に惑わされたり、聖なる他者の教えを必要としたりしなくなるまで。自分で自分の問題を独力で解決したとしたら、それが安心立命というものです。その時、求道の道は終わり、創造の時代を告げ知らせる鐘が鳴るのを聞くでしょう。

  

 おそらく、そんなことはとても不可能だと思われるかもしれません。誰かの助けがなくては難しいと思うかもしれません。あるいは、様々なメソッドが必要だと思うかもしれません。しかし、自己認識というものは、目の前にある固い、巨大な岩にたった一人で、一つ一つノミを入れていくようなものです。その岩はあなたしか見えないし、触れることができないのです。彫刻家が巨大な石と向き合うように、孤独にそれと対峙しなくてはならないのです。

  

 私は充分に岩を見てきた、と思うかもしれません。とことん苦しんできたのだと。しかし、見てきただけでは足りないのです。苦しむだけでは足りないのです。岩が岩でなくなるまで、ノミを振るい続ける根気が必要です。けれどもその根気の根っこにあるものは、努力でも、欲望でもなく、ただただ絶体絶命という命からがらの苦しみなのです。苦しいがゆえに続けざるを得ない――求道者というものは元来、運命から十字架を背負わされた受動的存在なのです。もしも楽しみや喜びを求めるならば、このようなことはする必要がないのですから。しかし、苦しみの十字架を背負わされた人はどうしてもそれをせざるを得ません。

  

最初は、その岩の巨大さに途方に暮れるかもしれません。こんなことをしても何も変わらないし、無駄だと思うかもしれません。もう充分に掘ったと思うかもしれません。しかし、その気の遠くなるような作業は遅々として進んでいないように見えて、必ず実を結びます。岩の中核にあるものを探しているうちに――すなわち、それは一つひとつの苦しみの正体を理解し、解きほぐしていくことです――根気よくノミを振るい続けていけば、岩はいずれ崩壊し、崩れ落ちます。あるいは亀裂が入り、一つ二つが石ころとなって転がるかもしれません。それが体感にせよ、ある種の知的理解にせよ、気づきにせよ、その岩が結局のところ、様々な石ころからなる世界の束であることを認識できるようになるのです。

  

悟りへの願望や、日常における様々な恐怖の感情も、寂しさも、嫉妬も、他人の悲しみも、恩寵の体験それ自体も、石ころや、花や、道に落ちた木の実と同じように等価な存在として、隆起する現象として、一断片として、認識することができるようになれば、もはや凡庸な日常の裂け目からきらめく強烈な光としての恩寵ではなく、特殊なメソッドや瞑想による非日常の静謐としてだけではなく、日の光の下でありのままの世界それ自体が救われることになります。

  

 ものみなすべてが地に足がついて落ち着くことで、すべてが仏になり、俗が聖になる。現象というものに固有のものはなく、自分という特別なものもなく、疑問に思う自分と言う中核さえないという認識に至れば(すなわち空になれば――さらに言えば認識さえないのです)、もはや苦しむべき自我はなく、世界があります。そう、世界だけがそこにあるのです。そして世界があなたであり、あなたが世界なのです。それが腑に落ちるということです。もはやそこに、特別な「私」は存在しません。

    

  Tさんは自我を超えた圧倒的なリアリティを体験なさった。それはひとつの恩寵であり、転機だったと思います。そして、それに値しない自我というものを徹底的に探求し、苦しんでいらっしゃる。けれども、それは神聖な苦しみなんですね。自我の中核にどんと居座った疑問が肥大化し、爆発しそうで苦しいのです。熟した実が大きくなり、光の世界に向かって皮を破ろうとするがゆえに苦しいのです。しかし、その苦しみを積極的に味わい、十分に育った疑問が熟し切って地に落ちる時、疑問という中核はないのです。そこには何もないのです。もはや、苦しい、救われようとするあなたはいないのです。傷つき、恐怖する中心がない。あるのは世界だけです。

  

花が咲き、蝶が舞っていて、ふくよかな母親が赤子に向かって微笑んでいる――これが禅です。もはや自我を超えた神秘に拘泥する必要も、そこに留まろうと努力する必要もないわけです。

  

 Tさんを恐れさせるどんな巨大な断片もなく、絶対的な、特別な言葉も、存在もなく、ただ等価な断片だけがある――世界がありのままにあるだけなのです。これが認識された時、虚無の海は消えうせ、恐怖はなくなります。なぜなら、自分自身を恐怖させるどんな権威も、力も存在しないことを理解できるからです。そしてまた、恐怖する固有の自我それ自体が本当は存在しないことを理解するからです。ただ、救われた世界だけがあるのです。あるがままの現象世界があり、無数の、穢れなき、裸の断片だけがあるのです。そこから先は、その断片を調和的に統合する、まったく新たな存在としての創造の責務も生まれるわけですが……

  

 エゴによって苦しまない、最初から聖なる人もいれば、何の疑問もなくこの浮き世で安定した人生を送ればよいという人もいます。様々な人がいて、様々な価値観があり、それはそれでいいのです。この世界は多様性に満ちています。大きな視点で見れば、すべては神の子であり、救われているのかもしれません。すべては、愛に値する存在なのかもしれません。最初からそのことを自覚している人もいますし、仕事や宗教、芸術の中にそれを見出す人もいます。

  

けれども、どんな他人の言葉にも、教えにも、価値観にも決して救われないタイプの人がいます。そうした人は、独力で発見するしかないのです。彼は、人気のない、怪しげな小路にいつの間にか入り込んでしまいます。その暗い小路では、どんな価値観も、どんな言葉も、どんな説教も、光も届きません。仮に届いても、その人を救いません。しかし、その孤独な道を引き返すのではなく、慰安に満ちた脇道の誘惑に留まることなく、ごまかすことなく、一人、黙々と足元を確かめながら歩いていけば必ず腑に落ちる地平に辿り着くことができると思います。その地平に立った時、人はこれまでと同じものを見ながらまったく新たな世界を発見し、一つ「然り」と肯いた後、胸を張って堂々と、大通りに戻ることができるのです。あるいは、前人未到の道を行くこともできましょう。

  

 これらはいずれも単なる言葉であり、イメージなので、この言葉もまた権威づけることなく、迷いの種とすることなく、響いたところだけ受け取ってください。切り捨ててもらってもけっこうです。少し、説明しすぎているところも、定型句であるようにも感じています。どちらにしろ、言葉は言葉にすぎず、真実そのものではありません。そもそも今、我々が問題にしていることは、言葉で指し示せる類のものでもないのですから。

  

 対談については、匿名とはいえ公になることに抵抗を覚える箇所もあるかもしれません。けれども、MUGAの読者はTさんと同じように既存のスピリチュアルに疑問を持ち、真実を探求している人も多数いると思います。迷っている方もいるでしょう。そういう人々にとって、我々のやり取りは大きな気づきの種になることと思います。私自身も少しばかり大胆なこと(対談原稿を読み返せばわかると思いますが)を言っているわけですから、一つのチャレンジなわけですね。もちろん、納得いく形で赤を入れてくださればと思いますが、少し長いものの、全体としてたいへんに意味のある表現になっていると感じたことをお伝えしておきます。

  

 それでは校正原稿お待ちしています。よろしくお願いします。

                                                                                                         那智

 



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