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超人K

  超人K

 

 私がK君と遊んでいたのは、もう7、8年前のことになるだろうか。我々は無職の雀ゴロ(麻雀だけで暮らす人でなし)で、昼間っからいつもフリー雀荘に入り浸り、二人で打ち合っていたものだ。もちろん、お互いにつぶし合いは避けて、獲れるところからとっていたわけだが。

  

 当時のK君と私の境遇は、瓜二つと言ってよいほどのものだった。いや、外見から経歴、性格、容姿と何から何まで対照的なほどに違っていたのだが、世界観や、麻雀に対する心構えに対しては、他人とは思えないほど酷似していたのである。同じフリー雀荘で、自分と似たような人間と出会うとは思っていなかったので、私は彼に奇妙なシンパシーを感じていたし、向こうも同じだったと思う。もちろん、人として気が合うか合わないかといえば、それはまた別の問題で、お互いに敬意を持って接していたものの、学校で同じクラスにいたら友達にならないタイプだったろう。それでも、ある本質的な一点において、私と彼は同志であり、ライバルでもあったのだ。

 

 K君は180センチを超える長身で、ブルーカラー特有のいかつい体をしており、実際、麻雀で生活するだけではなく、日雇いで建築現場のアルバイトもしていた。水商売風の女性と付き合っていたので(時々、雀荘に顔を出した)、ひものようなものだったのかもしれないが、そのあたりはよくわからない。

 

 年齢は私と同じく30を出たばかりだったが、えらの張った面長の顔に小さい意志の強そうな目、口髭を生やした彼の容姿は、初対面の人間にとっては威圧感さえ覚えるものだっただろう。声は大きく、しゃべり方ははっきりしていて、動作も力に満ちみちた男らしいものだった。一方、私はといえば170ンチで痩せぎすの文学青年崩れで、軟弱にへらへら笑っているようなタイプだったから、同じ雀ゴロとはいえ好対照のタイプだったと言えるだろう。

 

 雀風は見た目どおり、K君が〝剛〟なら私は〝柔〟であった。彼はとにかく力強い麻雀を打ったが、私はスピードと動きの麻雀だった。結果的にどちらが強いかといえば、それは私の方だった。K君も私の麻雀は買っていて、「真似できない」といつも言っていたが、私も彼の汚さのない、正直な麻雀が好きであった。

 

 何から何まで対照的な二人が意気投合したのは、お互いに「瞑想」に取り組んでいることが判明したからであった。K君は、何でも、中国からやってきたという気功の先生と知り合いらしく、気のパワーを手に入れるために瞑想をしたり、独特な呼吸法を実践したり、立禅に取り組んだり、様々な修行をしていた。これは彼とたまたま飲みに行って、気を許した時に聞いた話で、普段はこういう話はしない。

 

 フリー雀荘というのは特殊な場所である。社長から学生、サラリーマン、チンピラ、金貸し、無職者から前科者、ありとあらゆる人種が同じ卓につき、初対面でも金を賭けあう。多少、親しくなってもお互いの仕事や身の上を話し合ったり、質問したりすることはまずない。わけありの人間もいるし、偽名を使っている者もいる。たとえ仕事がうまくいっていようが、美人の彼女ができようが、それを自慢することは〝粋〟ではないとされるのだ。

 

 雀荘で評価されるのは麻雀の打ち方と結果のみであり、それ以上のものではない。さらにいうならば、その場を楽しむキャラクターが評価されるだけで、雀荘の外にある価値は何一つ査定に値しない。しかし、だからこそ世間のありとあらゆる肩書きや、財力、地位、名誉が剥ぎ取られ、対等な人間同士の力勝負の場となる。そこにある種の人は自由と魅力を感じてやってくるのであるが、現代のネット社会では、生きた人間同士の勝負の場は、野暮とされる風潮があるらしく、何だか味気ないものだとつくづく思う。もちろん、ここでそんなありきたりの社会批判がしたいわけではない。

 

 二人が初めて意気投合したのは、とある晩秋の夜のことである。K君と私は、雀荘の裏にある飲み屋でこんな会話を交わしていた。

 

「やっぱり、メンタルがすべてだよね」と私は言った。「メンタルがだめな時は勝てないもん。技術じゃないよね、麻雀」

 

「N君、いつも勝ってるじゃん」とK君は笑って言った。

 

「それはね、メンタルの状態が良い時を選んで来ているからなんだよ。だめな時は来ないようにしてる」

 

「だめな時、何してるの?」

 

「散歩に行ったり、本を読んだり、瞑想したりしてる」

 

「瞑想?」

 

「そう、まじ座禅組んでる」私は笑った。「いっちゃってるでしょ? でも、そんくらいやらないと勝ち続けるのは難しいよ」

 

「おかしくはないよ」とK君は真面目な顔つきになって言った。ここから、K君が前述したような自分の修行遍歴を語りだしたのである。数年に亘るインドの一人旅や、様々なグルや新興宗教との関係等々…

 

「おれはね、超人になりたいんだ」とK君は告白するように言った。

 

「超人?」

 

「そう、一つの原理を身に着けることで、すべてを乗り越えることができるような存在になりたい。先生はそれに近いかもしれないけどね、おれはそれ以上を目指してる」

 

「一つの原理って?」

 

「この世界のすべてに通ずる生きた原理だよ。その原理を理解して、この肉体に宿すことができれば、人はみな超人になる。超人になることで、人は、すべての苦しみがなくなるんだ。自分のものだけではなく、他人の苦しみさえなくすことができるだろう」

 

「ああ、その感覚はすごいわかるよ」と私がさらりと言うと、K君は驚いたようにこちらを見た。

 

 実は、私もまったく似たようなことを考えていたのである。いや、考えていたというよりも、そうならなければ自分は生きていくことはできないと考えていたのだ。

 

 当時の私にとって麻雀と人間関係と芸術の完成は、同じ価値を持つものであった。どれも絶対的な答えがない、不可解な世界だからこそ、その不可解さを乗り越えるたった一つの真実、超越的原理のようなものがあるはずだと思っていた。自分が生きていくためには、その三つの不可解さをつなぎ、乗り越えるたった一つの原理が必要だった。その絶対的原理を感得するために、あのような放蕩生活に身を落とさなくてはならなかったのである。なぜなら、その原理なくして、ある種の人間は決して満たされることがないからである。そして私はある種の不幸な人間であり、真実を求めてさ迷うサニャーシであった。人並みの生活を楽しむためには、何か絶対的なピースが欠けていた。

 

 K君との違いは何かといえば、私は決して他者の内に真実を求めたことがなく、目立たぬように、常に独りで作業を続けていたことである。だから、誰も私をそのような求道者タイプの人間とは見ていなかったし、私自身もそのような人間に見られることを極力避けていた。軽薄な遊び人と見られる方が気楽だったし、性に合っていた。しかし、K君のような人物との会話はスリリングで楽しくもあった。私自身、孤独であることに倦いていたのかもしれない。むろんのこと、彼と知り合ったからと言って、私の中で何かが進むわけでもなかった。やはり、私は一人でいたかった。

 

 一度、K君の師匠にあたる気功の先生の下に連れて行かれたことがある。その先生は呼吸法を重視していたが、ぜんそく持ちの私にとって、呼吸をベースにした修行法は最初から論外だった。これはルサンチマンだったかもしれないが、私のようなハンディのある人間がその中に入れない方法というのは、不完全だと感じていた。呼吸法ができない私は、ここでは劣等生にすぎないだろう。何かが間違っているように感じていた。

  

 私には「見る」ことしかできなかった。他には何の武器もなかった。自分の暗闇を鷲掴みにして、直接的に見る。ただそれだけだった。そしてまなざしを上げれば光がある。ただそれだけだった。

 

 私たちの蜜月は半年ばかりで終わった。きっかけは、M田という闇金業者の社長であった。当時、M田はフリー雀荘の常連で、我々にも小金を貸したり、馬券の飲み屋をしたりしていた。私自身、手持ちの金がない時にM田から1万円だけ借りたことがあるが、特別に一ヶ月間無利子にしてもらったのを覚えている。銀縁眼鏡に目立たぬ顔、ひょろりとした体躯の彼は、一見、真面目なサラリーマンに見えたが、やっていることは相当に悪徳だと評判であった。闇金のM田ということで、あだ名は「M金(Mキン)」と呼ばれていた。ちなみに、M金の前歯はすべて差し歯ということであったが、これは殴られても金を渡さなかったからだと本人が自慢げに語っていた。もちろん、本当かどうかはわからない。

 

 私は別段、この男と仲が悪くなった。M金と、彼の中国人の愛人と三人で中山競馬場に行き、馬券を買うのを楽しんだことさえある。実を言えば、M金に競馬を教えたのは私であった。彼がすぐに飲み屋を始めるとは思いもしなかったのだ。

 

 飲み屋というのは、他人から頼まれた馬券を飲んでしまう(買わない)ことで、儲けるというふざけた商売である。頼む方は一割バック(1万円頼むと1000円返って来る)になるし、わざわざ買いに行かずにすむので、違法行為と知りながら、ついつい彼に頼んでしまう。私はM金と共に競馬場に行く度に、「この馬券来ると思う?」と聞かれ、「来ないと思うけど、万が一があるからやばいでしょ」などとアドバイスしたりしていた。しかし、彼の元で働くつもりはなかったし、こんなやつと本当につるんだら終わりだと思っていた。

 

 ところがある日、K君がM金のもとで働き出したとの噂を聞いた。実際、馬券を頼むためにいつもの携帯にかけるとK君が出た。経済的な理由もあるだろうから、私は追及もしなかったが、K君はどこかばつが悪そうにしていた。「いずれ、独立するつもりだから」などと夢を語ったりしていたが、そんな甘いものじゃないだろ、と思っていた。

 

 ほどなく、M金が私に声をかけてきた。雀荘の近くの喫茶店に行き、自分のもとで働かないか、と誘ってくる。電話一本でこれだけ儲かるよ、と言い、背広の内ポケットから、100万円の束をちらりと見せたりした。

 

「でも、取立てとか自分はできないですから」と私は断った。

 

「いろんな仕事があるんだよ」とM金は言った。「Kにやらしているようなのとは違ってね、仕事にはブレインが必要だから。君には月40万出すよ」

 

 正直、心が揺れた。当時、競馬で負けが込んでいた私は、金欠に陥っていたのである。金がなくなると、人はどんなことでもするものだ。K君もきっとそうだったのだろう。しかし、M金のもとで働いていた人間がどんな末路を辿っていたか噂に聞いていたし(何か問題がある度に下っ端が切られ、刑務所に入っていた)、その頃、私は就職活動も始めていたので、答えは保留した。その晩、先日面接を受けた編集プロダクションから採用の連絡があったので、私はM金に断りの連絡を入れた。安月給でも、堅気の道に戻れということなのだろう。これは運命だと思った。

 

 それからしばらくしたある日、私は馬券を頼むためにK君に電話をかけた。しかし、何度かけても電話はつながらない。締め切り時刻寸前になっても電話に出ない彼に私は怒りさえ覚えたが、しばらくして、K君が警察に捕まったという話を耳にした。債務整理の土地の利権がらみで恫喝を繰り返していたM金が、現場で働かせていたK君にすべての責任を被せたのだ。ほどなく、M金は雀荘に出入りしなくなり、K君は刑務所に入ったという話を聞いた。

 

 K君が捕まる少し前のことである。私のアパートの近所に住んでいた彼が、彼女と歩いている姿を見たことがある。二人はしっかりと手を握り合い、お互いを絶対的に信頼した者同士の確かな足取りで歩いていた。単なる水商売の女とひもという関係ではなく、もっと確かな、魂で結ばれた者同士の関係がそこにはあった。K君が刑務所に入ったという話を聞いた時、あの彼女はどうしているんだろうな、と私はすぐに思った。

 

 当時、私は、手を握り合う女性は誰もいなかった。たまに女性と遊ぶことはあったが、共に歩く人は誰もいなかった。友人も、師匠も、仲間も、理解者も、自分の周囲には誰一人としていなかった。独りで、緑多き小道を歩くのが好きだった。緑のフィルターを通して濃縮され、とめどなく溢れ出てくるダイヤモンドのような光に目を細めながら、K君と私と、どちらが先に真実に辿り着くのかな、などと夢想していた。もしかすると、インドに行ったり、様々なグルの下で特殊な修行をしている彼よりも、自分の方が真実に近いのかもしれない、などと思っていた。

 

 降り注ぐ光の中に真実があり、本物の輝きがあった。そして光は、それ以上でも、それ以下でもなく、ただ光であり、真実そのものであった。人間の観念や言葉など入り込む余地がないほどに純粋で、だからこそ我々の中に物言わずに浸透し、時に、絶望せし人を優しく包み込んでくれる、愛の顕現そのものであった。


  秋

 

この季節になると思い出す人物がいる。秋のメランコリーに浸るわけではないが、街路樹が風に揺れ、金色の木の葉のシャワーを降らしているのを見ると、「あんな人がいたなぁ、今、どうしているのかなぁ」などと思うのだ。もちろん、たいがいの時は忘れているし、自分の人生の中でそれほど大きなウェイトを持った存在ではないのだが、どういうわけか、決して心の片隅から出ていかない人物というのがいるのである。

 

 十二、三年ほど前のことである。定職にも就かず、博打に明け暮れる日々を送っていた私は、出会い系サイトにはまっていた。無頼を気取ってはいたものの、元来、内気な性質でナンパはおろか、キャバクラなどの夜遊びもしたことがなかった私にとって、この「出会い系」なるものの登場は、人生を変えるほどの出来事であった。私は水を得た魚になった。どういうわけか、次から次へと興味深い女性と出会い、女性というものはどんな存在か、といったことや、メロドラマから精神病的関係まで、生きた人間関係の機微というものを二十代半ばにしてようやく学ぶことができたからである。当時はサクラが少ないこともあったが、それにしても苦することなく、様々な女に出会う自分に対し、若い雀友が聞いてきたことがある。

 

「どうしてそんなに出会えるんですか? 自分はなかなかヒットしないんですが」

 

「きみは気取っているから会えないんだよ。自分を自分以上のものと見せている。どんなにうまくやっても、相手は、なぜかそういうのはわかってしまうんだよ」

 

 そんな風な知ったようなことを答えていたが、本当は、私にも理由はわからなかった。

ただ、人間は、見た目やお金よりも真実を求めていることを本能的に知っていたように思う。出会いというのは結局、そういうことなのだ。みんな生きた人間の真実と触れ合うために、もう一人の他者を求めているのだ。だから低次の欲望だけで相手を求めていた場合、その出会いは失敗に終わるか、仮に出会ってもろくでもないことにしかならないのである。私は、身をもってそれを知ったのだった。

 

 ヒロムなる人物に新宿で会ったのは、世紀も変わり、ようやく残暑も終わりかけた十月の初旬のことだったと思う。ヒロムといっても男性ではなく、もちろん女性である。本名は裕美(ひろみ)というようだったが、ヒロムは、イラストレーター志望の彼女が自ら作ったペンネームということであった。

 

「裕美って名前、嫌いなの」とヒロムは言った。

「どうして?」

「おじいちゃんがつけたんだけど、ある人物の名前から取ったから」

「ある人物って?」

「昭和天皇」

「裕仁様ね。そっち系の人だったんだ?」

「戦争には行ってないけど、そっち系だったの。でも、私はそっち系でもどっち系でもありたくないの。だから嫌いなの」

「どっち系って?」私は笑って聞いた。

「私は、何ものにもなりたくないの」とヒロムはどこか思いつめた、頑なな口調で言った。「右にも、左にも、男にも女にもなりたくない。だからヒロムにしたの」

 

 彼女は、二十歳前後に見えたが、実際は二十三歳ということであった。百五十センチにも満たない、痩せた、少年のような体型をした女性で、顔つきもまだ輪郭の定まっていない子供のようなあどけないものだった。ショートの髪は完全な金髪で、古着を上手に着こなし、外交的な話し方を心得ていて、一見、ちょっとサブカルにはまった今風の子に見えたが、話は、怪しげな方向に向かっていた。

 

「私ね、薬をやっているの」

「薬って?」

「スピードとか」

「そうなんだ、でも、やばくない?」

「だから最近はマジックマッシュルームとかやってる」

「やるとどうなるの?」

「ふわっとする」

「ふわっと?」

「うん、世界が回ったり。でもそれだけ」

「何のためにそんなことをするの?」

「私ね、頭の中に雑音がするの」

「雑音って?」

「テレビの砂嵐みたいに、ノイズがしているの。そのノイズをなくしたいのよ」

 

 それから、話は瞑想や、スピリチュアルマスターの方向へと流れていった。どうやら、ヒロムは私のことを同種の人間とみなしたらしく、安心してラジニーシやクリシュナムルティのことを語りだした。私は、モーニング娘の中にでもいそうな金髪の若い女性が、このような話題を振ってくるとは思わなかったので、楽しげに聞いていた。しかし、ヒロムの口調の中には共感者に出合った喜びというよりも、今にも切れそうな張り詰めた弦のような真剣さがあり、それが私の胸をどこか苦しくさせた。

 

「私、毎朝、井の頭公園にいるんだよ」

「何してるの?」

「座禅組んでる」

 私は、思わず笑い出してしまった。

「おかしい?」

「おかしくはないよ。でも、なんか笑えるじゃん」

 

 ヒロムは心外そうにしていたが、私は小ばかにして笑ったわけではなかった。今時のギャルのような見た目のヒロムが、まだ夜も開けきらぬ早朝、井の頭公園の木の下で必死に座禅を組んでいる姿を想像すると、そのギャップが面白く感じられたのである。しかし、そこまでやるからには、きっとヒロムの絶望は、彼女の軽やかな口調や身振りよりもはるかに深いものであることが察せられた。

 

 それから、ヒロムとは友人として二年ほど付き合った。当時、私に付き合っていた女性がいたこともあるが、彼女とは男女との関係にならなかった。実際は、粉をかけて何度か振られたこともあるし、ヒロムにも彼氏がいたりいなかったりした。それでも、私たちはお互いをそのような俗世の関係とは異なる、特殊な席を占める存在とみなしており、男女の関係を超えた深いつながりを感じていたように思う。最後は、二人で伊豆にあてもない旅行に出かけた際、その一線を越えようとした私に嫌気がさしたのか、「しばらく会えない」というメールがきて、そのままになってしまった。半年ぐらいしてメールをすると、連絡先が変わっていたので、彼女とはもう二度と会うことはできない。

 

 ヒロムには言わなかったが、知り合ってから一ヶ月ほど経ったある日、座禅する彼女の姿をこっそり見に行ったことがある。新宿で明け方まで徹マンをしていた私は、もしかしたらヒロムがいるかもしれないと思い、始発の電車に乗って井の頭公園に足を運んだ。別段、彼女がいようがいまいが、本当はどうでもよかったし、実際にいるとも思っていなかった。狭苦しい雀荘で一晩中、煙草の煙と欲得にまみれた汚い空気を吸っていたのだ。ちょうどよい朝の散歩になるのだろう。

 

 散歩道から少し離れた、奥まった林の中にある巨大な銀杏の樹の下で、ヒロムは眼を閉じて座っていた。足はしっかりと結跏趺坐で組まれ、手は仏像のそれと同じく、法界定印を形作っていた。眼は固く閉じられていて、何か口の中でぶつぶつとつぶやいているようだったが、何を言っているのかわからなかった。

 

 まだ暗い最中、金髪の少女――なぜか少女のように見えた――が必死に生きるか死ぬかの座禅をしている。その姿は美しくもあり、痛ましくもある、胸が打たれるものであった。ふと、どこからともなく大きな風の塊がやってきた。あたり一面の樹木の枝葉が、まるで危険を察した動物たちがいっせいに動き出すように、ザワザワカサカサと激しく揺れた。ヒロムの背後の銀杏の樹の枝葉も風に揉まれて激しく揺れ、黄金色の枯れ葉が頭上からシャワーのように降り注いだ。その金色のシャワーは、まるでヒロムの輝かしい未来と愛をそっと約束する恩寵のように見えた。

 

 ヒロム、眼を開けてごらん。美しい光のシャワーが見えるよ、と私は念じた。

 

 しかし、ヒロムは眼を開けなかった。眉間に皺を寄せ、苦しそうに呪文を唱えながら、まだ見ぬ光の可能性を探して、暗闇の中で煩悶していた。しかし、その姿は限りなく美しく、何ぴとたりとも彼女に近づくことは許されなかった。

 

 


地下にいる宇宙人の話

  地下にいる宇宙人の話

  

「Nさん?」

 とある金曜の夜、腰をかがめて、西船橋駅近くにあるマツキヨで歯磨き粉を物色していると(ここ数年ピュオーラのワイルドミント味しか使っていない)、背後から声がかかった。振り向くと、すぐ近くにある行きつけの美容室の琴美ちゃんであった。上の名前は知らない。自分の担当ではなかったし、時々、髪を洗ったり、頭をマッサージしてくれたりするだけの関係だったからだ。雑談を交わすこともあるが、自分は無口な時は無口なので、何を話したのかも覚えていなかった。

 

 二十歳そこそこの彼女は、小柄で、人好きのする愛らしい容姿の持ち主だったが、アトピーということで、両手に薄くて黒い手袋をしていた。まだカットは任されておらず、シャンプーや、ブロー、マッサージ担当だった。病気に関するスピリチュアルな治療のことを話した記憶はあるが、その手袋を見る度に、少しかわいそうだな、と思っていたくらいだ。客商売だから、その黒い手袋は少しハンディキャップになるかもしれない。

 

 しかし、どこか病んだ人間というものは、何も言わなくとも似たような相手のことがわかるし、近くに感じられるものだ。長い間慢性病に苦しんできた私にとって、この少し不幸な子は、どこか気になる存在だったのである。むろん、少しだけ、だが。

 

「もう上がり?」と私は聞いた。時刻は、夜九時を回っていた。

「はい、今日は店長がいないので早かったんです。Nさんは?」

「俺はさっきまで雀荘にいたけど、調子悪いから買い物して帰ろうかな、とか」

 すると琴美ちゃんは、なにやら思い切った調子で聞いた。

「少し、時間ありますか?」

「あるよ」私は少し驚いたが、何気ない風を装って言った。「ちょっと飲んでく?」

「一つ、相談したいことがありまして」

「相談?」

「ええ、例のことです」と琴美ちゃんは秘密めかした様子で、私をじっと見つめて言った。

「ああ」と私は曖昧に答えたが、「例のこと」が何だったのか、さっぱり思い出すことはできなかった。

 

 居酒屋というのも何なので、近くのイタリアン風のバーのような店に入った。実は、その日、麻雀で負けた私は金がなく、不愉快な相手に当たって機嫌も悪かったので、本当は飲みに行きたくなかったのだが、「例のこと」が気になってならなかったのである。もちろん、かわいらしい女性から誘われ、悪い気がしなかったこともあるが。

 

 我々は席に着くと、それぞれカクテルとちょっとした創作料理風のつまみを頼んだ。

 

「私、UFOを見たっていう話、しましたよね?」琴美ちゃんは突然、真剣な目つきで中核から入った。

「UFO?」私は、どういうわけか、その話をまったく思い出すことができなかった。

「小さい時の話です」

「ああ、そんなこと言ってたよね」私は、ごまかした。

「それで、最近も見るんです」

 この時、飲み物が来た。私は、なんと言ってよいのかわからなかったので、「そうなんだ」と適当に言って、カシスオレンジを飲んだ。

「信じられませんか?」

「信じるよ」と私は言った。「でも、どこで見たの?」

「空で見るのではありません。毎晩、夢の中で見るんです」

「夢か」私は、少しほっとして言った。

「興味、ありませんか?」

「あるよ」と私は言った。「大いにある」

「それでね、ひどく奇妙な夢なんですけど、その中でいつも宇宙人に会うんです」

「宇宙人? どんなの?」

「いえ、外見は普通の人なんですけど、光ってます」

「光ってるんだ?」私は、少し嘲笑的な顔を作ってしまったかもしれない。

「ええ、金色に光っているんですが、その人がUFOから出てきて、私にあるものを手渡すんです。そして、これは大事なものだから来るべき時が来るまであなたが預かって、どこかに隠しておくように、と言われるんです」

「興味深い話だね」

「それがここのところ、毎晩続くんです」

「毎晩?」私は眉をひそめた。

「毎晩です」と琴美ちゃんは言った。「でも、私はそれが何なのかわからないし、どこに隠したかも忘れてしまっているんです」

「奇妙な夢だね」と私はもっともらしく言った。「それはもしかすると、琴美ちゃんの祈りというか、願いのようなものが反映されているのかもしれないね」

「Nさん、前に言いましたよね?」琴美ちゃんは、私の一般論にまったく耳を貸さずに言った。

「何を言ったっけ?」私は、作り笑いを浮かべた。

「人間は、別の世界とつながることで人間になるって」

「そんなこと、言ったかな?」私は、まったく記憶がなかった。第一、美容室の雑談でそんなディープな話をするはずがない。

「だから、病気というものもそういう世界とつながるきっかけになるかもしれないんだから、琴美ちゃんは人より大きな世界を生きているんだって」

「言ったかもしれないね」私は、何となくそんな風に励ました気がしてきたが、気がしてきただけであった。

「私は、わけのわからない世界を生きてきたんです」と琴美ちゃんは告白した。

「わけのわからない世界?」

「私は小さな頃からずっと、アトピーで心も体も苦しくて苦しくて仕方なかったんですけど、その分、掘り進んだ気がするんです」

「深くに?」

「そう、私たちの目に見える地上より、下の部分です」

「そうかもしれないね。君は、そんな顔をしてるもの」

「どんな顔ですか?」

「掘り進んだ人の顔」

 すると琴美ちゃんは、なぜか嬉しそうに声を立てて笑った。それから、急に真面目な調子になって続けた。

「だから、私は空ではなく、地上の下の所でUFOに出会った気がするんです」

「たぶん、そうだろうね」

「でも私、それは夢のようなものだと思っていました。私の頭の中だけの出来事で、現実とは関係ないって」

「うん、普通はそう思うだろうね」

「でも、最近、夢じゃないってわかったんです」

 私は、話の雲行きが怪しくなることに懸念を覚えながら耳を傾けていた。

「現実に起こったってこと?」

「いいえ、あれは夢と現実の中間で起こっていることなんです」

「中間?」

「境です」

「霊とか、そういうのも中間の現象だろうね」と私は言った。「夢と現実の中間に現れる」

「ええ、中間です」と琴美ちゃんは真剣な調子で言った。「でも、中間で起こったことというのは、その人次第で夢にも現実にもなるんです」

「どういうこと?」

 すると琴美ちゃんは何も答えずに、両手を差し出した。手袋をしていないその両手は絹のように真っ白だった。指が短く、ふっくらしているその手は、まるで生まれたての赤ん坊のそれのように見えた。

「治ってしまったんです」

「まじに?」私は、思わず相手の手を取った。そして物を扱うように遠慮なく、表にしたり、裏にしたり、ひっくり返して眺めたが、アトピーの痕跡はどこにもなかった。

「よかったじゃん」と私は手を戻して言った。「それで、他の箇所は?」

「足とかはまだあります」と琴美ちゃんは言った。「でも、その夢を見る度に、少しずつ減っている気がします。これはどういうことなのでしょう?」

「どうもこうもないよ」と私は言った。「治ったんだからそれでいいじゃん」

「そういうものでしょうか?」と琴美ちゃんは首を傾げて言った。

「そういうものだよ」と私は答えた。「優れたお医者さんに会うのもやぶ医者に会うのも同じでね、君が掘り進んで治療したんだから、結局、君の力なんだよ。君が自分で自分を治したんであって、宇宙人が治してくれたんじゃないよ。君が君の世界を広げることで、より大きく、力の強い、独自な、個性的な人間になった。そして、病も治してしまった。その事実があるだけだよ。だから、それでいいじゃん」

「私は、そういう答えが聞きたかったんです」と琴美ちゃんは安心した様子でつぶやくと、カクテルを一口飲んだ。

 

 後日、美容室に行った時、手袋をしていない琴美ちゃんを見た。彼女は、前よりも生き生きして、迷いがない人に見えた。カットが終わった後、マッサージをしてくれたが、「最近、はまっている」という萌え系の深夜アニメの話ばかりしていて、私もそれに乗った。

 

 お互い、UFOのことは一言も話さなかった。

 


芹姫 1

  芹姫

 

 1 野心 

 

 数年前、私が、とある精神世界系の出版社の仕事をした時の話である。その都内にある小さな出版社の名前を聞いても、ほとんどの者が知らないだろう。主に自費出版を扱うその会社の社員は僅かに二人。疲れた顔をした六十代くらいの社長とその右腕らしい、無精ひげを生やした年齢不詳の青年とも中年ともつかぬ薄汚れた男がいるばかりで、「スピリチュアル」な業界特有の胡散臭いこぎれいさはどこにもなく、雑然として煙草の煙が充満した編集部は、昔ながらの編集プロダクションのようだった。

  

 ライター募集などしていなかったにもかかわらず、私はホームページを見てアポを取り、ゴーストライターの仕事を引き受けることに成功した。とは言っても、社長と雑談をして、これまでの仕事の見本を見せると、「ライターだけじゃなくて、マックでデータ入稿までできるなら仕事はいくらでも回すよ」というイージーな答えだった。私はマックを売り払ってしまっていたのでそのことを告げると、「一台、余っているから持って行ってもいいよ」と言うので驚いたものだ。何でも、人手が足りなくて困っているとのことだった。

 

「一人、あっちの世界に行っちゃったからさ」と無精ひげを生やした編集部員のSが、回転椅子をくるりとこちらに向け、話に加わってきた。

 

「あっちの世界って?」

 

「神様の方だよ」と男は笑った。

 

「そういうケース、多いんですか?」と私は聞いた。

 

「多いね、取り込まれちゃう人」とSは言った。「そうなるとまず戻ってこない。他の体系の本なんか書けないから。逆に勧誘してきたりね」

 

「怖い世界ですね」と私は言った。

 

「怖いよ」と社長が言った。「でも、きみは大丈夫そうだね」

 

「そう見えますか?」

 

「なんか、逆に、ものすごくやっかいな感じがするよ」社長は笑った。「でも、それくらいじゃなくちゃね、我々は商売でやっているんだから」

 

 私は、彼らの少しばかり斜に構えた態度や、シニカルな笑いを理解した。この手の世界では、著者に対して必要以上のリスペクトは厳禁なのだ。でなければ、相手の世界に取り込まれてしまう。あくまでもビジネスとして距離を取り、客観視しながら仕事を進めなくてはならない。逆に、そうでなければ新興宗教の教本のように、独善的で社会性を欠いた作品しか作ることはできないだろう。

 

 しかし、私は彼らのような嘲笑的な態度を取る必要もないと感じていた。元々、求道者の一人であった私は、その時、ある種の限界点を突破し、ようやく自分なりの軸ができていたところであった。突然、訪れたエネルギーの奔流と全能感。私は、自分の力と確信とに酔っていた。どんな相手でも、価値観でも、乗り越える力があると過信していた。実を言えば、このような怪しげな出版社とコネクトしたのも、魑魅魍魎うずまく世界で、自分の力を試してみたいというよこしまな野心があったからである。もちろん、今にして思えば、このような自負心に満ちた姿勢は未熟さを証明するものであり、ろくでもない果実しか実らせないものであるには違いなかったのだが…

 

 早速、振られた仕事は「やばそうだから断ろうと思っていた」という案件であった。

 

「どんな相手なんですか?」と私は聞いた。

 

「よくわからないけどやばい」とSは言った。

 

「でも、傾向ってあるでしょ? 悟り系とか、引き寄せ系とか、神様系とか」

 

「そんなんじゃないよ」とSは何やら言いにくそうに言った。「正直、もっとやばい系。電話で話しただけだけどね」

 

「どうやばいんです?」

 

「話せばわかるよ」とSは言葉を濁した。「たださ、強いて言えば、統合失調系かな。ああいうのが一番やばい。本にもしづらいし、対処法もないから。おれには無理だと思った。一緒にいたら頭がおかしくなりそうでね。きみも気をつけた方がいいよ」

  

 私は、こんな曖昧な事前情報を元に、「芹姫」と名乗る怪しげな人物と会うことになったのである。


芹姫 2

 2 私のいない物語

  

 「芹姫」こと芹沢涼子は、東京寄りの埼玉郊外に住んでいた。人ごみが苦手で都内には出て来たくないとのことで、私は芹姫が住む地元駅に出向くことになった。待ち合わせは午後の2時だった。老人とカラスしかいないようなさびれた駅で、薄汚れた商店街の向こう側には畑が広がっているだけの土地だった。4月の昼下がりであったにもかかわらず、なぜかわびしい秋の夕暮れといった空気が辺りを支配していた。

 

 改札を出ると、一目で芹姫とわかる人物が立っていた。というよりも、そこには芹姫のほかに誰もいなかったので、彼女が私を待っていた人物であることは一目瞭然だったのだ。しかし、それは必然的な出会いのようにも感じた。彼女は、はるか昔からここで私を待っていたのだ、とさえ思えた。

 

 どこか子供めいた白いワンピースを着た、美しく長い黒髪を持つ女性は、確かに、「姫」と名乗るだけの独特の存在感と気品があるように感じられた。しかし、その半ばがちゃ目の瞳はどこを見ているかわからなかったし、貧弱な顎の輪郭はゆがんでいて、人格の安定感はどこにも見出せなかった。妙に白っぽい血の気のない顔に、口紅ばかりが赤く浮き立っているその様は、明らかに精神的な異常者の証のようにも見えた。しかも、よく見ると、「姫」というには年が行き過ぎているように感じた。30半ばか、それ以上かもしれない。私は、本能的な恐怖を覚えながら声をかけた。

 

「芹沢さんですか?」

 

 すると芹姫は不思議そうに私の顔を眺めたまま、何も言わずにじっとしていた。不安に駆られた私が、再び何かを口にしようとすると、彼女はこう言った。

 

「あなたとお話するために、私はここにいるのですよ」

 

 私たちは、駅から10分ほど無言で歩き、国道沿いにあるファミレスに入った。仮にも「姫」と名乗る女がそんな安っぽい店に入るのはいかにも不似合いにも思えたが、彼女はまるで常連のように、奥まった場所にある窓際の席を勝手に陣取った。お互いにドリンクバーで飲み物を持ってきて、一息ついた後、彼女は言った。

 

「ここに、不思議な物語があります。しかし、私はその物語の中にいません。でも、あなたはその物語を書き留める必要があります」

 

 私は、ぎょっとして尋ねた。

 

「どういうことでしょう?」

 

「私には、私のことを語ることが許されていないのです。私には私の言葉がないのです。ですから、あなたは物語をあなたの言葉で書き留めてくださればいいのです」

 

「言葉がない?」

 

「今にわかります」と芹姫は言って、目を伏せ、紅茶をすすった。

 



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