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真白き顔の女

  真白き顔の女

  

無明の中に沈み込む

 

真白き顔の女がいた

  

海底をたゆたう海月のように

  

一切の受難に逆らうことなく

  

忍従の表情も浮かべず

  

希望への光耀に目を向けることもなく

  

ろくろく苦しむことさえ忘れて

  

 運命の綾に流されて倦むこともなかった

  

 彼女は荒々しい欲望や

 

 感情の抑揚に興味を持つことがなかったばかりか

 

 軽蔑さえしていたけれども

 

 かといってそれに逆らう力を持たなかった

 

 だからできるだけ汚されぬよう

 

 痛めつけられぬよう

 

 考えぬように

 

 真白き顔をして流されて

 

 いつか幼児の頃のような光の世界に辿り着くことを

 

 ほんの少しだけ夢想しながら

 

 無明の中に沈み込んで

 

 この世の底辺で沈黙していた

 

 彼女たちはこの世の受難者であるが

 

 彼女たちが受難者であることを知る者は誰もいない

 


紫色の蝶

 紫色の蝶

  

 名も知らぬ寂れた街中を車で走っていると

 

 紫色の巨大な蝶を見た

 

いや、それはよく見ると、自転車に乗った女であった

 

紫色のドレスみたいな、ひらひらの服を着た中年女が、

  

髪をなびかせ、

  

ドレスを舞わせ、

  

快活に笑いながら、

  

立ち漕ぎで、

  

風に逆らうように車道を全力疾走しているのであった

  

ああ、しかし彼女の狂気の何と純粋なことだろう?

  

廻りの人間が影になってしまうように

  

彼女は全力で生き、

  

全力で走り、

  

全力で誰かを愛していた

  

絶対にそうに違いなかった

  

だからあんなにも光り輝いて

  

モノクロームの世界から一人、飛び出して

  

偉大な

  

絶対独自の物語を

  

曼荼羅を展開していたのだ

  

際限なき生命の尊さよ

  

目的なき喜びの純粋さよ

  

誰もが、彼女の運命を羨むことだろう

 

誰もが、彼女を愛することだろう

  

彼女の迷いなき生を

 

澱みなき光の発露を

  

憧憬を持ってただただ見守ることだろう

  

あんな風に生きることができたらどんなに素晴らしいだろう、と

  

しかし、彼女がどこに向かって走っているのかは

  

もしかすると彼女自身もわからないのかもしれない

  

目的なき全力疾走

  

だから彼女は少々狂っていて

  

少しばかり太っていたとしても

  

あんなにも美しかったのだ

  

そんなことを夢想しながら前を向くと

  

 バッグミラーに、女の姿は映っていなかった

 


きみたちはあまりにも素晴らしい存在なのだから

  きみたちはあまりにも素晴らしい存在なのだから

  

 とある夕暮れ

 

みすぼらしい校庭のブランコに

  

 三、四人の少年、少女が寄り集い

 

 何やら秘密めいた

 

楽しげな時を過ごしていた

  

 一人の少年が空を見上げ

 

かわいい声で言った

  

 もう帰った方がいいのかな?

  

 彼らの頭上には暗雲が

 

 生き物のように蠢く巨大な影が

 

 地上の支配をもくろむかのように漂っていた

 

 もう帰った方がいいよ、と思う

 

 きみたちはあまりにも素晴らしい存在なのだから

 

 一人の少女が言った

 

 もう帰った方がいいよ

 

 少年は得意げに答えた

 

 雨が降っても大丈夫だよ

 

 少年の家が近いからだろうか?

 

 それとも傘を持っているからだろうか?

 

 でも、もう帰った方がいいよ

 

 きみたちはあまりにも素晴らしい存在なのだから

 

 ほら、雨が降り出した

 

 上空から風が降りてきた

 

 そしていつの間にか

 

 どこかからか現れたカラスの群れが

 

 大群が

 

 気流に乗って縦横無尽に旋回し始めた

 

 もう帰った方がいいよ

 

 きみたちはあまりにも素晴らしい存在なのだから

 


瞑想者

   瞑想者

 

 とある秋の夜、街が眠りについた時刻、住宅街の片隅にある小さな公園で、一人の男がベンチにだらしなく横たわっていた。

 

 彼の頭上には、楡の枝葉が巨大な扇のように拡がり、星月の光を遮って、さわさわと風に凪いで、孤独な瞑想者を庇護していた。

 

 男は、目を閉じていた。しかし、眠っていたのではなく、枝葉の振動に耳を澄ませていたのであった。

 

 それは、枝葉の振動であると同時に、宇宙の彼方からやって来て、万物に生命を吹き込む、あの精妙な振動であった。

 

 それは、別々のものではなかった。

 

 すべては、振動によって成り立っていた。

 

 男は、目を見開いた。するとその瞳には、見えるはずのない星の光が宿っていた。

 

 彼は、しばらく頭上の黒い扇の複雑怪奇なぜん動を目で追っていた。

 

 それから、少し半眼になり、再び、目を閉じようとした。

 

 しかし、それは眠気からではなく、視界を曖昧にすることで、目の前の神秘的な運動に自らの肉体を浸潤させ、一体化しようと努めている人のようであった。

 

 実際、彼は神秘のぜん動と一つになって、肉体も精神も消えうせるかのように、生命のゆりかごの中で酩酊していた。

 

 その時、彼は夜の神秘に震撼する木の葉であり、頬をなでて縦横無尽に空気の通路を吹き抜ける風であり、何十万光年の彼方で爆発する星であり、オリオン座の幾何学的な配置であり、どこまでも拡がる宇宙であった。

 

 その時、彼はどこにも存在しなかった。

 

 彼は、宇宙そのものであった。

 

 そして、どこからともなくエクスタシーがやって来た。

 

 それは、偉大なる存在それ自体への何者かからの祝福であった。

 

 彼は宇宙の始まりからそうしていたし、これからもそうしているだろうことを知っていた。

 

 そこには、時間が流れていなかった。

 

 それは、ただそこに「存在している」という感覚だけがあった。

 

 世界が、そのままにそこに存在していて、それ以上でも以下でもなかった。

 

 それ以上でも以下でもなく、自分という存在も大きすぎもせず、小さすぎもせず、ただありのままに、過不足なく、ぴったりと樹木の下にはまっていた。まるでジグソーパズルのピースのように。

 

 その隙間なくぴったりとはまっているという感覚が、彼に至福と永遠をもたらしたのであった。

 

 そこには、葛藤も、混沌も、衝突もなかった。

 

 ただ、静謐の感覚があり、足元には、自分を支える巨大なものが存在していた。

 

 その巨大なものは、決して姿を現さないが、我々のすべてを支え、見守り、許しているのであった。

 

 天と地に包み込まれるように抱かれて、彼は、いつまでもそのままでいたかった。

 

 一切のわずらわしい現実から身を背け、夜という巨大な生き物の懐の中で、恍惚と目を閉じていたかった。

 

 彼は、完璧でいたかった。

 

 もしもこのまま、太陽が昇らず、誰もその公園にやって来ることがなかったならば、彼はいつまでもそのままそこに横たわっていただろう。

 

 何時間でも、何日でも、許される限り……

 

 しかし、彼は目を見開いた。

 

 それは、実に冷めた目つきであった。

 

 しばらく放心した様子でじっとしていたが、ゆっくりと身を起こし、ベンチに腰掛けたまま、ざらついた地面を無表情で見つめた。

 

 その視線が、僅かに上を向いた。それは、奇妙なことに、斜め上だった。

 

 彼は、天と地の中間辺りを見つめていたが、そこには何も存在していなかった。

 

 彼は、暫し虚空を見つめていた。

 

 すると、目の焦点が現実世界に合わさって、顔の輪郭がはっきりした。

 

 彼は、もう酩酊していなかった。

 

 何かを覚悟したような顔つきをして、立ち上がると、辺りを見回した。

 

 彼は、一つ深呼吸をした。

 

 夜の甘く、冷たい大気を体の中に染み渡らせ、ゆっくりと吐き出すと、僅かに微笑んだ。

 

 それは意外なことに、どこかシニカルな、何かを諦めた人特有の、自嘲するような微笑だった。

 

 それから一つ、首を振ると、意を決した様子でようやく公園の出口に向かって歩き出した。

 

 空には、星々が満ちていて、月は、瞑想者の孤独な姿を見守っていた。

 

 しかし、彼はもう前だけを見ていて、振り返ったりしなかった。

 

 夜は、彼を解き放ち、微笑んだ。

 

 誰もいなくなった公園に、枯れ葉が一枚、天上からゆっくりと落ちてきた。

 

 枯れ葉は、地面と一つになり、地球の声に耳を澄ませた。

 


  鏡

  

 とある初夏の夜、仕事帰りに、ミヨは、都内のブックオフをうろうろしていた。手にしていたSF小説を、元の場所である本棚の上の方に戻そうとした時のことである。すぐ隣にいた男から、こんな言葉が発せられた。

 

「気持ち悪いな」

 

 ミヨは、びくりとした。明らかに、自分に向けて投げかれられた言葉であったからだ。ミヨは、すぐに背後に振り返り、その男の顔を見た。三十半ばで、にやついた笑みを浮かべた、実に気味の悪い顔立ちの男だった。相手は、不愉快そうに目を反らすと、舌打ちをして立ち去ったが、ミヨはいつまでもその後ろ姿を見つめていた。蒼白な顔をして、何かを射抜くような目つきで、その場に立ち尽くしていた。実際、彼女のその姿を見たら、何か尋常でない雰囲気が漂っていたかもしれない。

  

 私は、気持ち悪いのだろうか?

 

 その言葉は、書店を出てからも彼女の胸を苦しめ続けた。それどころか、自分のアパートに帰ってからも、ベッドの中でも、夢の中でさえ彼女を苦しめ続けた。

 

「私は、気持ちの悪い存在なのだ。私は、気持ち悪い。私は気持ち悪い。私は気持ち悪い・・・・」

 

 彼女は、自分の中でその言葉を反芻し、ますますその言葉に絡め取られていった。そして、自分は他人から見れば絶対的に気持ち悪い、不気味な存在なのだという認識を強めた。

 

 実際、鏡を見ると、そこには、三十後半の、やつれた、目だけが異様に大きい、不気味な女の顔があった。その顔には表情がなく、何を考えているのかわからなかったし、実際、彼女には自分が何ものなのかよくわからなかった。

 

 会社では、ワンマンな社長から「そんな目で俺を見るな!」と怒鳴られたことがあったが、自分がどんな目で相手を見ているのか、彼女にはわからなかった。別段、相手を憎んでいたとか、反抗心を抱いていたとかいうわけではなく、彼女はただ「見ていた」のであった。しかし、それが相手からすると不快であったり、気持ち悪かったり、不気味だったりするらしいのだ。だから、彼女は相手の顔をまじまじと見る癖を改めて、伏し目がちになった。そして、ますます自信なげに、他者の目につかないように自己表現をすることなく生きてきたのであった。

  

しかし、存在自体が気持ち悪いと言われては、もうどうすることもできないではないか、とミヨは考えた。

 

 翌日の夕方、ミヨは前の会社で知り合った、「変人好き」を公言している風変わりな恋人に会った。迷った末に、喫茶店で昨晩の出来事を話すと、相手は言った。

 

「君は美しいよ」

 

 これは、この男の決まり文句で、「君は、変だから美しい」と言っているにすぎないことを彼女は知っていた。それでも、彼女はその言葉に慰めを求め、少しばかり安堵したのであった。

 

 二人は、喫茶店を出た。ミヨは、五月の曇天の空を見上げた。その時、隣を歩いていた恋人が、しみじみとした口調で言った。

 

「ああ、それにしても、君は本当に美しいね」

 

「どんな風に美しいの?」

 

「理屈じゃないんだ。君は、存在それ自体が美しいよ」 

 

 ミヨは、こんな風に繰り返されるばかげた世辞が、思いの他、自分を救ってくれていることに気づき、驚いた。どうやら、相手は落ち込んだ自分を救うために、「美しい」という言葉を連呼してくれているらしい。

 

 でも、私が美しいんじゃない、とミヨは考えた。だって、私は美しくないんだもの。それを私は知っている。もしも私のようなちっぽけで無意味な存在を美しいと感じてくれる人がいたとするならば、それはきっと、この世界が美しいのだ。この美しい世界それ自体が、私のこともその美しさの中に加えてくれているのだ。だから、私にはどうすることもできないけれど、認めてくれる人を待つ他ないのだ。だって、私は変わることはできないし、変わるべき何かがあるわけでもないから。

 

 そんな風に考えて、ミヨは暗雲の下を一人、歩き出した。

 

 恋人は、もうどこにも存在しなかった。まるで、彼女が自分自身を救うために生み出した妄想か何かのように。

 

 彼女は、一人だった。

 

 しかし、とある存在が――息吹が――自分のことを見守り、愛してくれているようにも感じた。

 



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