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優しい闇夜よ

  優しい闇夜よ

  

冷たい街灯も、いやらしいネオンもない

  

誰も知らぬ、誰も通らぬ

  

真夜中の裏路地を盲者のように歩いていると

  

危うく、何ものかに躓きそうになった

  

見れば、闇の吹き溜まりの中に

  

一人の青年が丸くなって座っていた

  

蔦に絡まれた貧乏アパートの

  

汚らしい階段の前だった

 

どうやら、眠っているのではないらしい

  

フードを深く被っているものの

  

その目はしかと見開かれ

  

闇の向こうの虚空を見つめていた

 

 彼は、どんな光景を見ているのだろうか?

 

 優しい闇夜よ

  

願わくば青年の中の暗黒が

  

あなたのそれと溶け合って

  

天蓋の星まで届かんことを

 


真白き顔の女

  真白き顔の女

  

無明の中に沈み込む

 

真白き顔の女がいた

  

海底をたゆたう海月のように

  

一切の受難に逆らうことなく

  

忍従の表情も浮かべず

  

希望への光耀に目を向けることもなく

  

ろくろく苦しむことさえ忘れて

  

 運命の綾に流されて倦むこともなかった

  

 彼女は荒々しい欲望や

 

 感情の抑揚に興味を持つことがなかったばかりか

 

 軽蔑さえしていたけれども

 

 かといってそれに逆らう力を持たなかった

 

 だからできるだけ汚されぬよう

 

 痛めつけられぬよう

 

 考えぬように

 

 真白き顔をして流されて

 

 いつか幼児の頃のような光の世界に辿り着くことを

 

 ほんの少しだけ夢想しながら

 

 無明の中に沈み込んで

 

 この世の底辺で沈黙していた

 

 彼女たちはこの世の受難者であるが

 

 彼女たちが受難者であることを知る者は誰もいない

 


紫色の蝶

 紫色の蝶

  

 名も知らぬ寂れた街中を車で走っていると

 

 紫色の巨大な蝶を見た

 

いや、それはよく見ると、自転車に乗った女であった

 

紫色のドレスみたいな、ひらひらの服を着た中年女が、

  

髪をなびかせ、

  

ドレスを舞わせ、

  

快活に笑いながら、

  

立ち漕ぎで、

  

風に逆らうように車道を全力疾走しているのであった

  

ああ、しかし彼女の狂気の何と純粋なことだろう?

  

廻りの人間が影になってしまうように

  

彼女は全力で生き、

  

全力で走り、

  

全力で誰かを愛していた

  

絶対にそうに違いなかった

  

だからあんなにも光り輝いて

  

モノクロームの世界から一人、飛び出して

  

偉大な

  

絶対独自の物語を

  

曼荼羅を展開していたのだ

  

際限なき生命の尊さよ

  

目的なき喜びの純粋さよ

  

誰もが、彼女の運命を羨むことだろう

 

誰もが、彼女を愛することだろう

  

彼女の迷いなき生を

 

澱みなき光の発露を

  

憧憬を持ってただただ見守ることだろう

  

あんな風に生きることができたらどんなに素晴らしいだろう、と

  

しかし、彼女がどこに向かって走っているのかは

  

もしかすると彼女自身もわからないのかもしれない

  

目的なき全力疾走

  

だから彼女は少々狂っていて

  

少しばかり太っていたとしても

  

あんなにも美しかったのだ

  

そんなことを夢想しながら前を向くと

  

 バッグミラーに、女の姿は映っていなかった

 


きみたちはあまりにも素晴らしい存在なのだから

  きみたちはあまりにも素晴らしい存在なのだから

  

 とある夕暮れ

 

みすぼらしい校庭のブランコに

  

 三、四人の少年、少女が寄り集い

 

 何やら秘密めいた

 

楽しげな時を過ごしていた

  

 一人の少年が空を見上げ

 

かわいい声で言った

  

 もう帰った方がいいのかな?

  

 彼らの頭上には暗雲が

 

 生き物のように蠢く巨大な影が

 

 地上の支配をもくろむかのように漂っていた

 

 もう帰った方がいいよ、と思う

 

 きみたちはあまりにも素晴らしい存在なのだから

 

 一人の少女が言った

 

 もう帰った方がいいよ

 

 少年は得意げに答えた

 

 雨が降っても大丈夫だよ

 

 少年の家が近いからだろうか?

 

 それとも傘を持っているからだろうか?

 

 でも、もう帰った方がいいよ

 

 きみたちはあまりにも素晴らしい存在なのだから

 

 ほら、雨が降り出した

 

 上空から風が降りてきた

 

 そしていつの間にか

 

 どこかからか現れたカラスの群れが

 

 大群が

 

 気流に乗って縦横無尽に旋回し始めた

 

 もう帰った方がいいよ

 

 きみたちはあまりにも素晴らしい存在なのだから

 


瞑想者

   瞑想者

 

 とある秋の夜、街が眠りについた時刻、住宅街の片隅にある小さな公園で、一人の男がベンチにだらしなく横たわっていた。

 

 彼の頭上には、楡の枝葉が巨大な扇のように拡がり、星月の光を遮って、さわさわと風に凪いで、孤独な瞑想者を庇護していた。

 

 男は、目を閉じていた。しかし、眠っていたのではなく、枝葉の振動に耳を澄ませていたのであった。

 

 それは、枝葉の振動であると同時に、宇宙の彼方からやって来て、万物に生命を吹き込む、あの精妙な振動であった。

 

 それは、別々のものではなかった。

 

 すべては、振動によって成り立っていた。

 

 男は、目を見開いた。するとその瞳には、見えるはずのない星の光が宿っていた。

 

 彼は、しばらく頭上の黒い扇の複雑怪奇なぜん動を目で追っていた。

 

 それから、少し半眼になり、再び、目を閉じようとした。

 

 しかし、それは眠気からではなく、視界を曖昧にすることで、目の前の神秘的な運動に自らの肉体を浸潤させ、一体化しようと努めている人のようであった。

 

 実際、彼は神秘のぜん動と一つになって、肉体も精神も消えうせるかのように、生命のゆりかごの中で酩酊していた。

 

 その時、彼は夜の神秘に震撼する木の葉であり、頬をなでて縦横無尽に空気の通路を吹き抜ける風であり、何十万光年の彼方で爆発する星であり、オリオン座の幾何学的な配置であり、どこまでも拡がる宇宙であった。

 

 その時、彼はどこにも存在しなかった。

 

 彼は、宇宙そのものであった。

 

 そして、どこからともなくエクスタシーがやって来た。

 

 それは、偉大なる存在それ自体への何者かからの祝福であった。

 

 彼は宇宙の始まりからそうしていたし、これからもそうしているだろうことを知っていた。

 

 そこには、時間が流れていなかった。

 

 それは、ただそこに「存在している」という感覚だけがあった。

 

 世界が、そのままにそこに存在していて、それ以上でも以下でもなかった。

 

 それ以上でも以下でもなく、自分という存在も大きすぎもせず、小さすぎもせず、ただありのままに、過不足なく、ぴったりと樹木の下にはまっていた。まるでジグソーパズルのピースのように。

 

 その隙間なくぴったりとはまっているという感覚が、彼に至福と永遠をもたらしたのであった。

 

 そこには、葛藤も、混沌も、衝突もなかった。

 

 ただ、静謐の感覚があり、足元には、自分を支える巨大なものが存在していた。

 

 その巨大なものは、決して姿を現さないが、我々のすべてを支え、見守り、許しているのであった。

 

 天と地に包み込まれるように抱かれて、彼は、いつまでもそのままでいたかった。

 

 一切のわずらわしい現実から身を背け、夜という巨大な生き物の懐の中で、恍惚と目を閉じていたかった。

 

 彼は、完璧でいたかった。

 

 もしもこのまま、太陽が昇らず、誰もその公園にやって来ることがなかったならば、彼はいつまでもそのままそこに横たわっていただろう。

 

 何時間でも、何日でも、許される限り……

 

 しかし、彼は目を見開いた。

 

 それは、実に冷めた目つきであった。

 

 しばらく放心した様子でじっとしていたが、ゆっくりと身を起こし、ベンチに腰掛けたまま、ざらついた地面を無表情で見つめた。

 

 その視線が、僅かに上を向いた。それは、奇妙なことに、斜め上だった。

 

 彼は、天と地の中間辺りを見つめていたが、そこには何も存在していなかった。

 

 彼は、暫し虚空を見つめていた。

 

 すると、目の焦点が現実世界に合わさって、顔の輪郭がはっきりした。

 

 彼は、もう酩酊していなかった。

 

 何かを覚悟したような顔つきをして、立ち上がると、辺りを見回した。

 

 彼は、一つ深呼吸をした。

 

 夜の甘く、冷たい大気を体の中に染み渡らせ、ゆっくりと吐き出すと、僅かに微笑んだ。

 

 それは意外なことに、どこかシニカルな、何かを諦めた人特有の、自嘲するような微笑だった。

 

 それから一つ、首を振ると、意を決した様子でようやく公園の出口に向かって歩き出した。

 

 空には、星々が満ちていて、月は、瞑想者の孤独な姿を見守っていた。

 

 しかし、彼はもう前だけを見ていて、振り返ったりしなかった。

 

 夜は、彼を解き放ち、微笑んだ。

 

 誰もいなくなった公園に、枯れ葉が一枚、天上からゆっくりと落ちてきた。

 

 枯れ葉は、地面と一つになり、地球の声に耳を澄ませた。

 



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