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第4章 エッセイ

麻雀で85%負けない方法

 麻雀で85%負けない方法

  

 最近、少し暇になったので(フリーランスとして暇なのはまずいのだが)、午後になるとフリー雀荘にいることが多い。年始はエネルギーを取られることが多々あって調子が上がらなかったが、2月に入ってからはほとんど負けていない。自分は一応収支をつけているが、だいたい毎年1回は145日間連続で勝って帰る時期があり、そういう時は雀荘に行く前から「今日は勝てる」と結果もわかっている。自分の心身の状態、認識の強度、運の状態で勝てるとわかるのである。

 

 場代を払った上でそれなりに自信のある相手(知らない相手と金を賭ける者が集まるのだから自信があって当然だが)と打つのだから、そうそう簡単に勝てるものではないし、当然、その日の自分の運、席の運、相手関係もある。中には、手ごわい相手もいる。それでも、年トータルで8割以上(だいたい年間で一日単位の勝率は8085%である。)浮いて帰ることができるのは、今はある「原理」のようなものを理解して少しばかり身につけているからであり、その「原理」の感得のために麻雀を続けてきたと思う。その延長に自分の場合、「悟り系」やらなにやらがある。あくまで、実践で使えなくては、観念であり、机上の空論だと思ってやってきたからだ。

  

 最近、負けない原理がより明晰になってきたのでここに書き留めておこうと思う。別段、自慢とかそういうわけではなく、気づきを確かなものにするためでもなく、この原理は汎用性があり、誰にでも、どんな場においても使えるものだと感じるからである。何も麻雀のみならず、対人関係においても、表現行為においても、精神的な安心立命においても共通して使える原理であり、本メルマガの「無我表現」に通じるエッセンスを秘めていると感じる。

  

 それではその「原理」とは何かというと、瞬間、瞬間の表現行為においては、「受け」(あるがまま)が土台になっていなくてはならない、ということである。

  

 麻雀や武道において「受け」とは何かというと、「守り」のことではない。「受け」とは、防御や逃避ではなく、あくまで、次に「攻撃」に移る体勢を崩さないためのガードのことである。バランスを崩しても逃げ惑うように守るのでは、次のパンチを繰り出す体勢が取れない。

 

 “雀鬼”こと裏麻雀の超一流であった桜井章一氏が提唱する雀鬼流では、「攻撃8割」「受け2割」で流れを作ることを教えているが、何も闇雲に攻撃しているのではなく、「受け」が土台になった攻撃8割を指しているのだと思う。実は、ご祝儀が乱れ飛ぶフリー雀荘では「攻撃9割」ぐらいの人はたくさんいる。引いてばかりいては祝儀負けしてしまうからだ。しかし、そういう人たちはいい時はいいが、崩れた時にどうしようもないほど負ける。彼らの攻撃は「欲望」の攻撃であり、全体感を無視したいちかばちかの賭博なのだ。

 

要は、自分の手の形だけで押している人が多い。そういう攻撃は相手ありきではなく、まず自分主体であり、全体の調和、流れと関係ない自己中心的行為である。自我を満足させるために打っているので、はまれば気持ちよいが、そうでないと心が乱れる。逆に「打たれるのが怖い」から逃げるような打ち方をしている人も多いが、これも自我の恐怖(未来のことを不安にイメージする思考)から来る行為であり、こちらは何の怖さもない。「守り」と「受け」は違うのだ。

 

 麻雀において「受け」というのは、具体的に言うと、瞬間、瞬間、場の全体を見ながら、相手にとって必要な牌をぎりぎり間に合うように先に切ることを意味する。つまり、全体を俯瞰して見ながら、瞬間、瞬間、一打一打に意味を持たせることであり、その意味が流れを作る。一回、一回の結果や、機械によって配られる牌パイの良し悪しではなく、相手にとって嫌な牌をぎりぎりで切り出す作業を続けるプロセス――すなわち手順こそが大事なのである(もちろん、危険な牌を切らないで我慢するのも手順の一つである)。

 

 相手に嫌なことをするのが正しいのかと思うかもしれないが、勝負事というのは麻雀に限らずそういうもので、野球のピッチャーだって相手の嫌なコースを突き続けて試合の流れを作るし、サッカーも相手チームのディフェンスが手薄なところを徹底的に攻める。別段、嫌がらせを好んでいるわけではなく、要は、こうした対人競技というのは、どちらが全体感があり、調和的行為ができているかという力比べのようなものなのだ。

  

 さて、そうやって体勢が整った状態で押していく攻撃は圧力があり、受けもできているので強い。自分の手格好だけ見て打つのは楽だし、はまれば気持ちもよいが、そういう攻撃は隙が多く、カウンターを食らいやすい。それでは、とにかくパンチを振り回して打ち合う4回戦ボーイのようなものだ。当たればいいが、空振りすれば致命的な打たれ方をしてしまう。そして、肉体的にも精神的にも打たれたダメージが残るとバランスを崩し、ますます乱れた攻撃になる。こうなると、もうその日の修正は難しい。場合によっては、何日も引きずることもある。自分はボクシングマニアでジムに通っていたこともあるが、超一流のボクサーはいずれも「受け」の達人であり、バランスを崩さないものだ。攻撃は本能的なものであり、誰にでもできるが、「受け」は修練を必要とする。

  

 「受け」を土台にして「攻撃」し、流れを作る――これが今現在の、自分の負けない麻雀の方法論である。それができている日は、最後にひと伸びするし、大ダメージを食らうこともない。仮に前半運がなくても、後半で流れを持ってくることができる。「受け」に手一杯で、運の細い、降りることばかりを余儀なくされるどうしようもない日もたまにあるが、そういう日はチャラか少しの負けで上出来として早めに切り上げればいい。

  

 本当に、どうにもならない時というのがある。勝負に絶対というのはないし、心身の状態が整っていない日もある。調子が上がる前に用事で出かけなくてはならないこともあるし、また、これが一番多いのだが、勝ち始めると相手が逃げるように止めて、卓割れしてしまうこともある(こればかりはどうしようもない)。そして、別の卓に移って一から流れを作らなくてはならないはめになるのだ。あるいは、絶好調の相手にぶつかって、しばらくは何もできないこともあるし、不用意に役満を打ってしまうようなアクシデントもある。運気に任せて力強い攻撃をしてくる相手もいる。しかし、今、自分の置かれた状況、運の状態で何をするべきか明晰に知っていることが心の揺れを少なくするのである。

  

迷いのなさは、打牌の乱れをなくし、相手に圧力を与える。内的葛藤が丸見えで、迷い迷い打っている人がいるが、そういう人はどこを突けば崩れるのかわかっているので怖さがない。麻雀を打っていると、そういうのは全部見えてしまう。

  

直接的に欲望や恐怖といった自我を刺激される勝負事の場では、個我を超えた、全体性(あるがまま)を無視した自己中心的な行為に人は陥りがちなものである。普段、社会的仮面の下に隠された本性がむき出しになる。日頃、隠された弱さ、ずる賢さ、内的偽善、ごまかしというのが、鉄火場である非日常の場で顕わになるのだ。礼儀正しくても、内部に激しい怒りや葛藤を抱えている人を見かけるが、そういう相手は嫌なことがあった時に突然、怒り出したりする。打っていて怖い相手というのは、内的葛藤が見えない相手、内部が柔らかい相手である。こういう相手は崩れにくく、弱点が少ないので攻めにくい。

  

 麻雀とは関係ないが、内的な葛藤、プライド、固い核が残っている人は、いかに良いことを言っていても、善行をなしていても、礼儀正しくても、自我の強い人である。逆に自我の薄い人、自我を低い、正しい位置に置いている人は、何か特別なことをしていなくても、口の利き方がぞんざいでも、基本的に愛のある人である。自分は元々自我が強かったので、悟りだの何だのを求めなくてはならなかったが、最初から自我の薄い、あるいは自我を低い位置に置いたすばらしい人は、そういうものは一切必要がないと思うし、実際、現実生活の中で、この人にはかなわない、という人を幾人も見てきた。

  

 さて、非日常である勝負の場で、全体感を持って行為するためには、自己中心性の源である自我の葛藤を見つめ、落としてフラットにし、自分も他者も、等しく「見る」ことが必要になる。そのためにこそ、日常で自我の葛藤を見つめ、落としておく必要があるのである。別段、そのような修行めいた行為をしなくとも、自分の悩みや迷いがない日は、人は全体感を持って場が見えるものだし、勝負事も強いものだ。例えば、仕事や恋愛が上手くいっていたり、日常生活が順調で悩みがない人ほど強運なのは、自我に捕らわれて煩悶するウェイトが少ないため、全体がよく見え、気づきの量が増えるのである。こうして、強運な人は、どんどん強運になる。悩みが多く、不運な人は、どんどん不運になる。金銭的に余裕のある人が、追い詰められた人より勝負事が強いのは、恐怖が少ないためでもある。恐怖とは、すなわち「自我」である。

  

 もちろん、我々の求める道は社会的成功を収めるとか、強運になるとか、欲しいものをどんどん引き寄せるとか、余裕のある大人になるとか、そういう俗世間の積み上げる道ではない。むしろ、そういった余分なものを落として何ものでもない、「空」につながる道であり、よりストイックで、精神的で、絶対的なものに到達する道である。

  

 それではどうすればいいのか?

 

どんな相手にも、どんな場においても、全体性を持って乗り越える行為をなすためには、迷いや、悩みや、勘違い、自己中心性を見つめ、理解し、消化しておくことが一番大事になってくる。つまり、いついかなる瞬間も、自分の自我を容赦なく見つめ続ける動的瞑想こそが、自分というものを知る最短の道なのである。それはすなわち自己浄化の道であり、「空」につながる道である。

  

「空」とは、特殊なマントラや瞑想によって自我を遮断し、人工的にその中に逃げ込む道ではなく、むしろ、「空」に入るのを邪魔する自我を徹底的に見つめ、浄化した後に現れる何ものかである。つまり、現在のスピリチュアルな世界で提唱されている方法のほとんどは、道筋が逆なのだ(もちろん、念仏やマントラの効果を否定するものではないし、何事も徹底すれば突き抜けることはできるのかもしれないが)。

  

先に人工的な「空」を味わって自我を忘れ去るのではなく、自我を直視することが肝要である。ゴミで埋もれた部屋にいて、ゴミのない場所を見つめて瞑想したところで、問題は何も解決しない。インスタントな「空」は所詮インスタントであり、常に自我が危険にさらされ、刺激される勝負の場では吹けば飛ぶような効果しか得ることはないだろう。むしろ、自我はほったらかしで、自分は「空」を得たなどと自己欺瞞に陥るのが落ちである。それは慰安や自己肯定にはなるかもしれないが、人としての強さにはつながらないのだ。もちろん、勝負の場で通用するようなものではない(勝負事は、結果が真実を示してくれるのでありがたい)。むしろ、なぜ「空」に入ることに憧れるのか、なぜマスターやグルの元にはせ参じるのか、という自分の依存的な自我を見つめることが真の瞑想であると言える。

  

恐ろしくても、嫌でも、見たくなくても、醜く、葛藤に満ちた自我を見つめる困難で誠実な道のみが、最終的には安心立命につながる。つまり、この方法においてはグルも指導者も、経典も必要がない。見るべきものは、常に自分の最短距離にあるからであり、人はそれを見るだけだからだ。しかし、多くの人はそれを見ようとせず(むしろ、そこだけは見ないようにしているようだ)、美しい言葉や最もらしい理論、理想の中に逃避する。

  

ある時、自我の葛藤、突起物、ゆがみを見つめることによって、激しい自己浄化(これは長い、孤独で地道な自己凝視の道のりの末にもたらされる)が起こるかもしれない。いわば、自我という障害物が崩れ、パイプの中を落ちていって、消えてしまうのを体験することだろう。そのエネルギーは、天上から下方(足の下)に抜けるエネルギーである。エネルギーがそれを溶かすというよりも、自己凝視により、それが自らの中に本質的に根付くものではなく、世界のゆがみの一つにすぎないと認識できた時、固い自我の固形物が顆粒のように崩れ落ちるのである。パイプ詰まりがなくなるようにきれいになった時、水道が流れるように上からエネルギーが流れてきて、浄化してしまう。

  

葛藤、迷いがない、すっきりした状態でいれば、「あるがまま」というフラットな土台の上の中央にバランスよく立つことができるだろう。その大地の上にしっかりと立った垂直的姿勢から混沌を調和させ、形にする「ある上昇的エネルギー」が生じる。それは下方からやって来て、天上に流れるエネルギーである。それが地上の事物を通り過ぎる時、ディニュソス的混沌をアポロ的明晰さへ変容させる力となるのである。悩み、葛藤がある状態では、その創造的エネルギーは内部でロスされ、やって来ないのだ。

  

 すなわち、自分の身体感覚だと浄化のエネルギーは天上から大地へ、創造のエネルギーは大地から天上へと事物を透過して流れる。この浄化のエネルギーは他力的であり、創造のエネルギーはどちらかと言えば自力的である。しかし、どちらも自我の外からやって来るものである。自我を超えた状態にあると、この途方もないエネルギーを感じ取ることができるようになり、その力を使うこともできるようになるだろう。

  

 エネルギーというと神秘的な物言いになるが、それは体感できることであり、決して主観的なもの、すなわち観念に留まらないのが特徴である。時に、病気を治したり(私は慢性病が快癒してしまった)、新たな人間関係や仕事をもたらす等、運命を変容させたり、勝負事を勝たせたり、対人関係に強くなったり、何か芸術作品を作る力にもなる、現実的な力のことである。しかし、そうしたエネルギーを最初に求める修行というのは明らかに間違っていて、それらは自我という巨大な置物を脇にどけるなり、破壊するなりした後にやって来る恩寵である。エネルギー先にありきだと、この自我とエネルギーが一体化して、非常に恐ろしいことになりかねない(オウム真理教の教祖がその典型であるだろう)。

  

 要は、自我の置きどころがすべてなのであって、まずは自己中心的な自我を直視することに終始すればいい(見たくないかもしれないが、真に絶望した人間はそれをやることができるだろう。なぜなら、絶望の正体を見極めなくては救われないからだ)。こうして、初めて余裕のある相手や、尊敬する相手、社会的肩書きのあるような相手とも互角に渡り合うことができ、時に、それら俗世の価値に重きを置く人々を超越する力を持つことができる。

  

もしも自我を超越した力に触れることができるならば、それは単に安らぎやハーモニーを生み出すのみならず、ある種の全能感や、現実を変容させる力を持つことが実感されるはずである。その時、人は世間的な意味において幸福になるのではなく、誤解を恐れずに言えば、超人的になるのである。超人とは俗世の物語的葛藤から自由になることであるが、「物語」とはすなわち「時間」であり、ここで初めて時間性を超越した全能感が感得されることになる。全能感とは自由であり、創造的力に満たされた感覚である。

  

もちろん、そうした力の陶酔からさえ自由になることを仏教は説いているのかもしれないが、まずは力に触れてみなくてはそれこそ絵に描いた餅であり、理想論であるにすぎないだろう。私自身の課題としては、勝った後の振舞い方がある。例えば、こうした原理を土台にして勝利を得た後は、どこか鼻につくような高慢さが出てしまいがちなものである。しかし、人を不快にさせてはどうしようもない、おごり高ぶるようではどうしようもない。弱者を見下すようではどうしようもない。力に酔って、強さを誇示しても人は寄り付いてこないし、誰も遊んではくれない。だからこそ力への執着からも逃れることが必要になる。力やエネルギーを放棄するのではなく、それらからも自由になることである。しかし、これもまた一つ一つ、人間関係の中で克服しなければならない課題であるに違いない。我々は、いついかなる時でも未熟なのだ。

  

ちっぽけな自分をあるがままに見つめること――そこから先に、小さな自分を超えた豊穣なるエネルギーの地平がある。その力は、「自我」の捕らわれから解放される限りにおいて、誰にでも触れることができるものである。そのエネルギー表現(無我表現)の象徴として真に優れた芸術家や、トップアスリートがいるのだが、それは葛藤とストレス多き俗世間に生きる、我々にとっても、決して無縁な世界ではないのである。むしろ、葛藤多き、混沌で、複雑で、困難な人生の中でこそ、最短距離でそのエネルギーの世界に入ることが可能になると言ってもよいだろう。

  

我々は、常に学ぶチャンスに恵まれている。どんな苦しい境遇においても。どんな虐げられた、誰にも理解されないような孤独な運命の中においても。

 


異端が普遍になる時 ――例外者たちの声に耳を澄ませて――

 異端が普遍になる時 ――例外者たちの声に耳を澄ませて――

  

 気づけば、ぼくの周りにはどういうわけか、少し不思議な人たちが近寄って来ることがある。彼らの言葉はあまりにも独自な構造を持っていて、時に非論理的であり、日常的な思考法では理解できなかったりする。こうした人々は大抵、社会の端の方で目立たないように息を潜めて生きており、時に、薄暗がりから顔を出して誰かに見つけてもらえないかと辺りを見回していることもあるが、すぐにおびえた様子で首を引っ込めてしまう。

 

 ぼくは彼らのことを親愛の情を持って、「例外者」と名づけている。そしてどういうわけか、例外者は例外者を見分けることができ、お互いに何となく見守っているのだが、それぞれが他の国に住んでいる人のように独自な宇宙を持っているために共通の言語が見つからない。なんと声をかけてよいかわからないでいたり、あるいは自己充足していたり、ちらりと確認するだけして、歩き去ったりする。彼らの行動はあまりにこの定型の記号、観念に満ちた現象世界に非執着であるがゆえに、非合理で、まったく先が読めないのである。

 

 例外者は自我によって構成されたこの世の価値観、社会的記号を信じられない人々である。ゆえに彼らはこの世界の中に自分の居場所を見つけることができず、必ずといっていいほど誰も使っていない廃屋や舞台裏、暗がりに追いやられ、一人、奇妙な法則を守って暮らしている。この秘密の法則を遵守すればするほど、彼らはますます独自になり、ますます孤独になってゆき、ますます人間離れした運命の中に入り込んでゆかざるをえない。

 

 社会的な共通語を持たない彼らがどうやってお互いを見分け、あるいは僅かでも交流をすることができるかというと、それは「響き」である。あるいは、匂いのようなものかもしれない。独自な存在形式から生まれる響きや匂いがあって、それが遠くからでも伝わることがあるのだ。だからこそ記号的言語を超えて、彼らは僅かでも共通の何かを分かち合うことができるのである。そしてごく稀にだが交流することもあるし、共に歩くこともあるし、もちろん、何ごともなかったかのようにお互いに執着せず、離れ離れになることもある。そして、それぞれ、自分だけの手作業に没頭して、顔も上げなかったりする。けれどもその何年もかけて作り上げたものを、誰にも見せずに机の中に眠らせてしまうこともざらなのだ。なぜなら、彼らはあまりにも自分が理解されないことに慣れ過ぎているからだし、時によると諦めているからである。

 

通り雨が空を飲み込み、

 

時計のことを忘れさせる。

 

今日の天気は、お待ちなさい。

 

雨上がりのアスファルトの匂いがすき。

 

どこまでも続く坂の上

 

とげの刺さった手紙を見つけました。

 

 

太陽が、割れた化石を飲み込み

 

静かな冬が、時計のように続きます。

 

飲み込まれた化石が消化されるころ

 

にぎやかな春がそっと訪れる。

  

 ※紹介した詩については、許可を得たうえで掲載させていただきました。

 

 別に、本稿では特殊な表現をしている者や、存在形式を持つ者の中にある種の特権性や、特別な美点を認めているわけではない。アウトサイダーの中にのみ真実があると言いたいわけでもない。ただ、こうした誰の目にも止まらない、社会から理解され難い運命を生きる例外者たちの宇宙の中にこそ、我々が忘れてしまった大事なものが眠っていて、それが日の光に当たった時に、世界全体を表現する「美」として感じられることがあるのではないか。その薄暗がりの中に眠っていた「美」こそがこの世界を覆す新たな愛の形なのではないか、と夢想することがあるのである。例えば、カフカのように。例えば、リルケのように。

 

 ただ、偉大な、――途方もなく偉大な世界がある。一切は許され、愛されているのかもしれない。しかし、その非個人的な事実を意味のある真実として一瞬でも形にすることこそが、一人の人間の主体的役割であるという逆説こそが創造の秘密だとしたらどうだろう? 全体を一にするもの。一を全体にするもの――ここにきてようやく、芸術と宗教が一つになる可能性を秘めてくる。

 

 真実と美は、定型のメッセージの中にあるのではなく、観念の中にあるのではなく、現象それ自体の中にあるのでもない。その現象が通過した一人の人間という独自な存在の中から、個性的な形で現れ出てくる。より正確に言えば、一切の地上的断片に捉われることなく、それを乗り越え、統合した一人の人間の独自な存在形式の中からこそ、新たな愛の形がこの大地に顕現するのだ。そう、二千年前のあの人がそうであったように。

 

 異端が普遍になる時――それはこの世界に創造が起きたことを意味する。そしてその暗がりから起こった創造は、決して誰の目にも止まることなく、認められず、愛されずに消えていった者たちが住んでいる僻地や穴倉をも包含しているがゆえに、一瞬にしてこの世界全体を統合し、未だかつてない意味を与える。その光と闇を統合した何ものかが現れる瞬間の中にこそ、生きとし生けるものたちの救済の可能性があるのである。絶対に光が届かなかった場所にさえ、僅かに微細な光が届く奇跡が生じるのである。その光は強烈ではなく、微細であるがゆえに届くのだ。悲しみと沈黙を宿しているがゆえに、孤独な瞑想者の夜の奇妙な夢の中にも入り込むことができる。そして暗闇の中に浸透し、ひっそりと、優しく、虐げられた者たちを包み込んで、共に眠ることもできるだろう――そんな沈黙を宿した光。